2012年07月16日

福島原発地帯の人口の変化の統計 (1960⇒2005年)


福島原発地帯の人口の変化の統計

(1960⇒2005年)


toukeusoma2222.jpg
クリック拡大!


(海岸沿い)

広野町-5776⇒5136
楢葉町 9430⇒7330
富岡町-12380⇒14700

(旧相馬藩内)

大熊町-7880⇒11000
双葉町-7558-6300

(山村地帯)

川内村-5705⇒2669
葛尾(かつろう)村-2977⇒1482
飯館村-10941⇒6000
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新地 9771⇒7809


1960年というと戦後10年くらいは江戸時代のつづきだったと書いた。燃料はまだ炭だった。食料も貧しいものだった。ご飯炊くのも電気ではなく釜だった。炭でたいた釜のご飯はうまかった。電気製品は一つもなく裸電球と飯台一つしか普通の家には置いてない、水道が入ったのも戦後十年以上すぎてからだった。水は井戸水であり町では井戸水がないから水をもらうほかなかった。この生活は江戸時代とさして変わらなかったのである。これは前に書いたからここでは統計から旧相馬藩内の変化をみてみた。富岡町から南は相馬藩ではなかった。でも原発関係で変化をみた。


海岸沿いはさほど減っていない、広野町-富岡町は逆にふえているのは第二原発があるためだろう。
大熊町は第一原発があるためにふえた。双葉町は減っているのが不思議である。やはり第一、第二原発地帯は人口は全体的にはへっていない、逆にふえている所もあった。まあ、減りもしなければふえもしないというところである。全体的には人口は二割三割と地方では減ったのだから減らないということはそれなりに産業があったからでありそれが原発だったのである。


この統計でわかったことは顕著なことは山間地帯が約半分にへっている。川内、葛尾(かつろう)村、飯館村は山間地帯である。葛尾(かつろう)村はもともと人口が少なかったが半分に減っているのは大きい。飯館村が一万人いたのは驚きである。一万人の数は大きい。なぜそれだけの人が住めたのか?山林資源が豊だから炭焼きなどで生活できた。東京の方に木材を鉄道で運んでいた。だから森林鉄道がどこにでもあった。葛尾(かつろう)の落合まで森林鉄道が通っていたのには驚いた。なぜならあそこは坂が急でありかなりの距離があったからである。この森林資源が原ノ町機関区から鉄道で運ばれた。南相馬市の前の原町市は1960年では4万で同じ人口だがすぐに5万とかにふえたことでもわかる。原町には工場も誘致されてさらに繁栄した。相馬市は人口はずっと同じだった。新地町は前の相馬郡になっていて人口が1960年で9000人ありその後2000人くらいへった。全般的に人口は減ってゆく時代だった。

飯館村が一万人いたが6000人にへった。でも森林資源から牛の飼育に移りそれでなんとか人口を留めた方である。それでも人口の減り方かはげしかった。小高、原町は同じ様な状態である。山村地域は過疎化になり日本全国的にこれと同じ傾向がある。つまり原発地帯は人口もふえもしないが減らないという状態を維持したのが山村の過疎地帯と違っていたのである。


不思議なのは1960年ころまでは本当に今に比べると貧乏だった。ほとんどが農家人口であることでもわかる。それでも人口が多かったのである。貧しくても人が山村でも地方でも多かった。豊になり高度成長以後に地域の人口は減っていった。人口が多いから金の卵とか東京へ森林資源だけではなく人間も労働力として移動したのである。だから人間は発展途上国のように貧乏でも人口はふえる。豊になると文明化すると人口は減るのである。子供も一人とかへっていった。貧乏人の子だくさんであるが豊になるといろいろな配慮が働いて子供はへる。


数字は苦手だけどやはり統計とか数字は社会の状勢を冷静に示すのかもしれない、原発ができて辛うじて人口減をくい止めたというのが現実だった。そうでないと浜通りでかなりの人口減の減少が顕著になったことは確かである。ただ交通的に恵まれているから山村地帯のようにはならなかったろう。工場も誘致できたからである。

posted by 老鶯 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連