2012年07月05日

なぜ今本が問われるのか? (電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


なぜ今本が問われるのか?

(電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


●本の歴史は文字の発明と共にはじまっていた


今本について盛んに書かれるのはなぜか?それは本に変わって電子書籍がというときパソコンとインタ-ネットによって本とは何かと問われたからである。本が何かなど今まで問われることはなかった。本の歴史は実際は文字の発明からはじまったとすると何千年にもなる長さである。楔形文字を粘土版に印されたときからはじまっている。文字の発明は商業と密接に関係していた。なぜならアルファベットはフェニキア人から発明されたというときまさにそのことを物語っていたのである。貿易のために簡易な共通の文字を必要としたから生まれた。その前に楔形文字があるけどそれも砂漠地帯では商業が古くから起こっていたためである。エジプトのヒエログリフは多少違っていた。それは広く共通あものとして発展しなかった。エジプト国内でしか使われなかった。それは王の年代記のようなもので商業のために異民族との貿易のために使われることはなかった。文字はフェニキア人のように異民族との商業のために共通化したものとして広まったのである。商業が世界のル-ルを作ったというとき基本的に異民族で共有する文字が必要だった。それがアルプァベットであり世界的共通の法律を作ったのである。世界的ル-ルが商業が作ったと前に書いたように文字もそういう面があったのだ。
アジアがなぜヨ-ロッパのような広範囲な共同体を作り得なかったというとやはりアルファベットのような共通な文字が作られなかったことにもある。


外国旅行するとアルプァベットの国は字を読むのにわかりやすいからいい。なぜなら音からは聞き取りにくいからであく。アルプァベットだと一応読めるということがある。中国で漢字を書いてなんとか意思疎通できるのもそのためだった。発音からは全くわからないのである。漢字はむずかしいのだけで中国というと一つの世界だから漢字を通じてアルプァベットの役割を果たしたということがある。それは日本でも文字がないとき漢字をとり入れたのと同じである。漢字を通じて世界化したのである。ただ漢字はむずかしいので世界化しなかった。英語が世界化したのはアルプァベットだったからである。日本がアジアの中でいち早く欧米化したときやはり日本語だけでは訳せない、漢字でもって約したというときやはり漢字にはそれだけの文化があったということである。例えばアイデインティティというのはどう訳していいかわからないものである。これは合一とか訳せばわかりやすくなる。合一というとコミュ-ンともなるがアイデインティティも自然にアイデインティティを見いだして同一化して合一することにある。合一という言葉は大和言葉では現せない、そういう言葉の応用ができたのが漢字だった。それで欧米化したものの翻訳を漢字でしてその漢字を中国では利用している。革命というとき中国ではもっとも頻繁に使われるが日本人が漢字から発明した言葉だったのである。


世界的には商人が世界のル-ルを作った
http://musubu.sblo.jp/article/56454399.html

●本が問われるのは車社会になり歩くことが見直されるのとにている


今なぜ本が問われるかというときそれは文字の電子化という発明が今までにないものだったからである。ワ-プロからパソコンで書くことがあたりまえになっているけどこのこと自体相当な革命だった。つまり活版印刷が発明されたと同じほどのそれ以上の革命だったのである。そのことがまだ良く理解されていないのである。インタ-ネットとかで文章を出しているけどそこでは素人でも別に大作家だけではない、簡単にいくらでも文章を出せる、それがゴミとしても別にゴミにならないというのも不思議なことなのである。無尽蔵のことがインタ-ネットでは蓄積できるし誰でも書けて発表できる世界なのである。何か書いて発表すること自体、紙を利用している時は選ばれたもののすることだった。今でも本とか雑誌とか新聞とかそういう媒体を利用できるのはほんの一部の特権者なのである。ロ-マ時代は紙はあまりにも貴重なものだったから作家がいても紙を所有している人が紙を提供している人が実権をもっていた。作家はただ紙を提供してくれるものに書かせてもらうというだけであった。何ら収入はそこにはない、これは現代でも出版できるのは出版社や新聞社の許可を得たものしかできないということと同じなのである。それだけコストがかかりすぎるからそうなっているのだ。


そして本と電子化された世界とはいろろいな面で相当な相違がありそれが本とは何かと問うようになったのである。奇妙な話だけど人間が車社会になり道路を歩かなくなったとき歩く世界がわからなくなったということを何度も書いてきた。歩くことから生まれた情緒性が失われた。江戸時代の浮世絵などは歩くということなしに鑑賞できない、自ら歩かない時代にはその情緒や文学も絵画も鑑賞できないのである。歩く時代は橋一つとっても人間と一体化していたのである。今でも歩いて見えるものがあり歩くことにより実際は五感が働き見えるものがある。歩くことと自転車では違っていても歩くことに近いから自転車だと見えるものがある。そしてどういうわけか自転車を乗っている人とは親しくなりやすい、車に乗っている人とはあまり話しもできないということがある。車が人間社会を根本的に変えてしまったのである。そもそも歩くことは人類が生まれて以来歩くことなしでありえない世界だった。その歩くことをふりかえり問うなどということも考えられなかったのである。

それと同じことが電子化されたインタ-ネットの世界で起こっているのである。車社会になって失われたものは余りにも多い、それは情緒的な面として人間の根幹にかかわる面で変わってしまった。例えばかえって過去をふりかえるとき牛とか馬を利用していた時代をふりかえるときいかに牛や馬というものに人間が影響を受けていたかということである。馬とか牛は人間と同じである。一つ家の中に住んでいて名前もあり家族と同じである。そういう感覚から情緒がはぐくまれていた。牛と一緒に暮らす働くということと機械を利用して働くことは根本的に違っている。牛は生き物だから牛の性質のようなものが人間に自然と伝わり牛とアイデインティティ化してくる。牛との合一化、アイデインティティ化してくるのである。だからこそ高村光太郎の牛の詩ができた。牛が心の中でも生きていた時代だから作れたのかもしれない、まだ車時代ではないからできた。戦前までは牛馬の社会だったからである。


●過去の牛と馬の役割とにている本の世界


昔の話で前に書いたけど上萱まで荷を積んで運んだ馬は暴れ馬だったけど力があるからあの坂を上ることができたという、馬にも暴れ馬がいて性質の荒いものがいる。野馬追いのときも実際はいろいろな馬がいる。御しやすい馬とそうでない馬がいる。馬には性格がある。牛はどうなのかというと牛は荷を運ぶには馬より便利である。なぜなら牛は道の草を食べるから馬のように飼料が必要でないから良かったという。それで塩の道で塩を運んだのは信州でも牛だった。牛はまた坂道にも強いから牛が荷を運ぶには便利だったのである。馬には注目しているけど牛はわからなくなっている。今では牛は牛肉であり乳牛の牛であり運搬している牛を知らない、牛肉の牛と運搬する牛は根本的に違っている。それでも飯館村辺りでは十頭もの牛に名前をつけて仮設住宅に住んでいる人がなつかしがっていたのは生き物だからそうなる。ペットが人間化すると同じである。牛との別れを家族のように惜しんでいるというのも相手が生き物だから情が移るからそうなる。機械だとそういうことはないから情緒的な面で人間は薄情になるともいえる。

こういうところに実は現代の人間が薄情化している原因もある。人間が切れるというとき車社会だとそうした牛馬と接することのない社会となっているという面もあるのだ。江戸時代との根本的相違はそうした環境にあったのである。江戸時代のモラルというのはそういう環境から農業基本の世界から作られていたのである。だからモラル的には安定していたのである。二宮尊徳のモラルもそこから作られた。今の時代にこの辺で二宮尊徳のことを言っても余りにも変わりすぎたので通用しない、現実に原発事故にどう対処すればいいのかなどわからないのである。人間は牛から学んできた。牛とアイデインティティ化してきて精神世界も作ってきた。老子が牛にのっている姿や牛は人間の精神のシンボルでもあった。そういうものが喪失したとき人間は根本的な所が変わってしまったのである。石のことを大分詩にしたけど牛と石は共通したものがある。忍耐性とか寡黙だとかでそうである。石で作られた建物と木で作られた建物はそもそも文明の相違にもなる。ヨ-ロッパと日本の相違はまさにそこにある、文明の相違となっているのだ。


本が何か問われているとき電子化によるインタ-ネット化によって問われているのは牛や馬がいなくなった社会とにているのだ。本は牛や馬とにた面があったのだ。電子化やインタ-ネットの意味していることは何か未だわからない、新しい技術は最初ただ便利というだけで受け入れる。でもその意味がわかるのはあとのことである。原子力にしてもこれが何なのか良くわからないけど便利だから効率的だからとはじめる、その安全性も確立していないのにはじめる、今回のように事故を起こして原発は危険だとかこんなことはやめるべきだとかなる。技術は便利だからそういう側面をみんなもっているのだ。ともかく本が何かと問われているのは何か過去の牛や馬の役割は何だったのだろうかと問うこととにている。何かそういう側面があったのである。

 


次回は本についての文学的考察をしてゆきます


プログはシリ-ズものがいい、次にどういうことが書かれるのか興味をもち読もうとするからである。これも本の世界とは違う。三国志をテレビでシリ-ズの番組を放送しているがあれは面白い。次がどう展開するかということで興味をもつのである。それにしても人を信用できないか、いかに相手もだますかということで絶えず疑心暗鬼になっている世界だった。だまされて殺されることが日常茶判事の世界で生きていたから過酷である。なぜならだまされることは即死につながっているからだ。
中国人はあういう過酷な世界に生きてきたということである。陰謀術数にたけてくるからとても日本はその点ではかなわない、平和だったということである。そして今の時代は金だけが頼りの疑心暗鬼の人を信用できない社会になってしまったとういことである。日本人のいい面は失われたから同じなのである。ある人は経済の基礎は道徳だといって日本人はその道徳が備わっているというけど今や違っている。金しか価値観がない道徳もない社会が現代の日本社会であり世界共通化しているのだ。
なぜそういう楽天的な見方になるかというとその人は犯罪にあっていないからである。犯罪にあった人は社会の見方が変わる、強盗や身内の殺人などにあった人は全く社会を違ったものとしてみるのである。日本人はかつての日本人ではない、全く金だけにしか価値を置かない日本人になっていることを体験しないからわからないのである。あらゆるところに金しか求めていない社会なのである。