2012年07月12日

相馬市の病院へゆく (この辺の福祉の問題など-やがて施設も病院も入れなくなる)


相馬市の病院へゆく

(この辺の福祉の問題など-やがて施設も病院も入れなくなる)


老鶯や鯉ゆうたりと小泉川


今日は相馬市の病院に行った。手術の日が決まった。施設に家族もあづけられる。手術自体は2,3週間でありたいしたことないみたいだ。でも手術だからそれなりに大変だということがある。ともかく介護していて介護する人もいないのだから何でも大変なのである。介護して一人は死んだけどそのために病院にも行けずに悪化させたのである。幸い癌とかでないから助かった。体力的には落ちてない、普通の生活ができる。老人をみていると歩き方でわかる。歩き方をみていればこの人の体力がどれくらいかわかる。老人は見た感じでわかるがそれは歩き方と姿勢なのである。ぴんと背筋が張ってすいすいと歩いている人はまだ老人には見えない、例え白髪でもはげていてもである。ところが歩き方を見ているとやっと歩いているような感じの人は年だな、老人だなと見てしまう。自分は歩き方から老人には見えないだろう。すいすい歩けるし背筋も張っている。姿勢は悪くないからだ。それでも介護保険を納める年齢になっている。60代とか個人差が大きくなる。十歳くらいは違って見える。

60以後は年に関係なく歩き方を見てその人の体力の度合いを計るといいかもしれない、やっぱり人間は歩くことが基本なのだ。歩けなくなったら途端に老いてしまうだろう。

30年一人暮らしている相馬市の老女がアイネットのことを言っていた。緊急時の連絡のシステムである。その女性は福祉関係で無料で入っている。隣近所は全くあてにならない、都会と同じだと言っていたことは自分もつくづくそうだと思った。ちょっとしたことも頼めない、隣近所は無縁化している。頼りになるのは福祉サ-ビスでありここが機能しなかったら例え何なろうが隣近所は放置される。
死んでいてもわからないだろう。これは田舎でもそうであり社会自体がそうなってしまったのだ。

だから福祉サ-ビスが機能しないと悲惨なことになる。「おにぎり食いたいと・・・」と言って生活保護を受けられなかった人が都会で死んだ。昔だったら隣近所に言っておにぎりくらい食べさせてあげたろう。貧乏でも米をわけあったとかある。それが今の時代は全くなくなった。だからこそおにぎり食いたいと言って死んだのである。誰もおにぎり一つあげることもできなかったのである。そういう社会になっているということなのだ。隣近所は本当に無縁化してしまったのである。
ただ金があればアイネットとか隣近所の役割をするサ-ビスを受けられる。これもまたまさに隣近所が全く無縁化しているからこそ商売として成り立つ、そういうサ-ビスが仕事になるのもまさに現代を象徴しているのだ。何でも金を通じてサ-ビスを受ける社会なのである。だから一面金のない人はこういう社会ではさらに無縁孤立化してゆくだろう。ただ金だけでは何もできるわけではない、それは自分が痛感した、近くだと思って頼んだら犯罪にあった。もう金しかその人は求めていない、その現実に唖然としたしこれが現代社会なのだと痛感した。それは田舎でも都会と同じなのである。
農家辺りではまだ多少は隣近所は違っているかもしれないが街内どこも同じである。

不思議なのは隣近所でも何か困っても「福祉関係に頼んでください、民生委員に頼んでください」で終わりである。家族が認知症になったときも誰もかかわらなくなった。ただ病院に入ったとき看護師などがかかわってくれたのである。施設に入ればかかわってくれるのが現代であり隣近所は全くかかわらない時代である。それでもこの辺では福相とかの会社で募集しても人がこないとか働き手が流出していることが深刻な問題となっている。病院でも看護師、医者がたりないとか介護関係もたりないとかそういうことが深刻になってくる。

だからみんなが「福祉に頼んでください・・」というときその本人もそう言われる。重篤になったらやむをえないにしろちょっとしたことも頼めないのである。金がない人は特に苦しくなるはずである。金がないなら助けてやっても損なことはないのだ。打算的にしろ恩を与えることでもいい、人は助けて損になるはずがないのだ。何も得られないにしろ損にはならない、重篤になっている場合は別である。ついで買い物してやるとか留守だったら家をちょっとみてやるとかである。そういうことすら頼めないのが現実である。人によるにはしろそういうのが現代社会であることはまちがいない。

ともかくこの辺の状態といろいろと深刻である。自分は住むところがあるからまだよかった。他の人は飯館村でも住む所を奪われたし一体これからどうしていいのだろうと途方にくれているだろう。

津浪の被害にあった人もそうである。岩の子で津浪の被害にあった人がいた。塩害で田んぼがだめになったとか聞いた。様々な負担がのしかかっている。だから自分たちのことで精一杯だというのもわかる。そして若い人が流出することはこの辺ではいかに深刻なのことかまだ自覚していない、老人とか高齢者や病人ばかり残されことになる。その時「福祉の方に相談してください」だけでは解決しえなくなる。それだけの余裕がないし病院だって重症の人すら早めに出され自分で食事の用意すらできないような人が病院から出されていることが放送された。そううい時代になってくる。「福祉で頼んでください」で解決すらならいい、その福祉への期待が崩れることがあるのだ。だからなんだか三年も胃ろうで病院に入っている人などが増えてくるとそのあとに入れことができなくなる。そういうふうに病院でも施設でも手当てしているとあとにつかえるものが困ることにもなるのだ。いいところで死んでもらわないともうあとがもたないという事態になりつつあるのだ。とにかくこの辺ではこれから病院でも福祉関係でもまともなサ-ビスが受けられなくなる可能性が強いのである。そういう自覚にまだ欠けているからのんきなことを言っている、今度は自分の身にふりかかてっくる。


今やここに残り暮らすことは今までとは違っている。何らか互いにここに残るために協力するとかそういうことが必要になってくる、在宅介護だってもう施設に入りきれない病院ではめんどう見切れないからそうなっているのだ。だから隣近所の無縁化社会はこれに拍車をかけるから「おにぎりください・・」と言っても誰もくれない、餓死してゆく人が増えてくる。だから最低のセ-フティネットで現物を供給する場を作るのはいいかもしれない、アメリカではそうしている。生活保護だってふえる一方なのだからこんなことつづくはずがない、限界がきているからだ。ともかくこの辺ではまともな福祉サ-ビスも受けられなくなるかもしれないからそういう自覚をして残るほかないかもしれない、でなければ福祉サ-ビスのいいところに金ある人は移るほかない、都会の年金生活者は福祉サ-ビスのいい市に移住しているのだ。つまり現代は金があれば移住しやすい社会である。だからこそ若者もこんなふうな状態になるとこの市長村はもう未来がない、こんなところで暮らしていてもいいことはないと移住する人がふえてくるのだ。そして残されるのは老人とか病人とかばかりになる。でもそれを補佐する福祉が維持できるかと言ったら若い人がいなくなるのだからできないのである。


小泉川の所は情緒があり鯉が泳いでいるのがいい、相馬市は駅前から開発などしない元のままの街だった。そこが原町と違っていた。細い路次が多く城下町の名残がある。

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2012年07月13日

最近アマゾンで買ったもの(ニッチなものが売れる) (情報は連鎖して買いものもある時代)


最近アマゾンで買ったもの(ニッチなものが売れる)

(情報は連鎖して買いものもある時代)


最近買ったもの


アマゾンの電波時計 1800円
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電波時計だから時間をあわせる必要がない、温度計とアラ-ムがついている。アラ-ムは最初ピッピッピッ・・・と単調になりづけ今度はピピピピと激しくなり続ける。一様な音ではないのがいい、だからこれは小さくも目覚めやすい、持ち運びにも便利である。1800円では安かった。


36GBのUSBメモリ- 1600円


これも安いから買った。それほどいいものではない、近くの電器店では倍以上している。


みちのくの都 多賀城・松島 (よみがえる中世)

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見逃していたのは岩切が重要な中世に栄えた要所だったことである。奥大道の要所だったから歴史が積み重なっていたのだ。それを見逃していたのである。この本も知らなかった。仙台のこうとう台公園の近くの喫茶店をかねた古本屋に置いてあることをインタ-ネットで知った。でもアマゾンで安く買えた。これも情報の連鎖で買い物しているのである。ともかく岩切には一回行ってみる必要がある。


岩切について
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/panfu/pdf/53.pdf


この年になるとあらゆるものの整理になる。人生自体が整理になる。本も整理することになる。こんな本読んだなとか読み返している。これはこういうことだったのかと深く読める。意外と本は何があるかわかりにくいのだ。そして地方では本は買いにくいものだったのである。今はアマゾンで古本でも何でも買える、アマゾンでないと買い物がかなりあるからアマゾンを利用する人がふえたのである。ただ余りに高いもの大型のものは買わない方がいい、軽いと思ったバッグが形は良かったのだか重かったとか手にとれないので失敗する場合がある。だから一万くらいまでの買い物に向いているのだ。椅子などでも大きさや座り心地まではわからないのである。

ともかく本も整理になるが人生そのものが整理になる、こんなことしたとか、過去をふりかえりその意味は何だったのかとか必ず反省する。その時人生とはこんなものだったのかと誰でも覚らされるのである。

自分の場合は変わったいたにしろ家は余りにも居心地が良すぎるところだったのだ。二人の女性が仕えていたし何不自由がなかった。今思うとつくづく楽だったな幸福だったなと思いかえす。その期間も実に長すぎたのである。今になってそれがすべて反転した。自分をみてくれるものは一人もいない、これも自業自得だった。人間は何であれ結局自業自得である。借金で苦しんでいる人は本当は自業自得である。金がないのに金を使っているからそうなる。病気すら自業自得なのかもしれない、酒を飲み無理をしていたら必ず年取ると体に影響して病気になりやすいのだ。これはすべてとは言えないがそういう傾向は一般的にある。不摂生の結果として病気になってくる。

原発事故だってこれも地元の人にも責任があり自業自得だと他から言われるのも一理あり否定はできない、原発で利益を他よりも得ていたのだから地元も悪いとなる。これは日本全体自業自得だともなる。そんな危険なものを放置していたのは国民に責任があるともなる。自分のようなものは自由に生きてきたのだから野垂れ死にしろと言われてもしょうがいかもしれない、それも自業自得である。本当は責任を他者のせいにするのは間違っている。いろいろ境遇があるにしろそうかもしれない、そして時間はもどってこない、後悔してももどってこない、青春などたちまち過ぎて遠い夢の世界になる。この世で一番貴重なものは時間でありその時間が一番消失しやすく取り戻すことができないのだ。だから青春を浪費したものは一生を浪費したともなる。


老人が一番欲しいものはとかキ-ワ-ドでくるがモノを欲しがっていると思っているが老人が欲しいものは時間であり時間で得られたものだったのである。時間など何もしないでも何をしてもすぐ過ぎてしまうのである。女性はたちつち老いて美貌を失うのも早い。それでも60代になっても化粧して男を求めているのが業なのだろう。実際は皺を隠しているが近づけば見える、若いときの姿はもうないのである。老人になるとこうした悪あがきがふえてくる。あきらめきれないのである。いくら若返ろうとしてもできないのである。老人はやはり心の方にその精力をシフトする、集中することになる。
外見はもうどうにもならない、ただ精神的に気品があれば体はだめでも美しいということがある。そういう美しさを目指すべきだったともなる。ともかく失われたときこそ千金の価値があったのである。

今日はむし暑い、こうなるとなかなか知的作業が進まない、頭を使うことが嫌になるのだ。こういうときは北海道が一番気候的にはいい、からっとしているしこうしたむし暑さがないからである。
posted by 老鶯 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

楽は苦のもと苦は楽のもと (文明の便利さになれた生活が原発事故になった)

 

楽は苦のもと苦は楽のもと

(文明の便利さになれた生活が原発事故になった)

何事においても厳しい環境にいた方が、次に楽になるし、
楽な環境に甘んじていたら、次にしんどい思いをすることになる。


楽は苦のもと、苦は、楽のもとだ。

今、楽だな、幸せだなと思っている人は、少し厳しい環境に飛び込んでみたり、
しんどい事をしてみるといい。


下の部屋に新しいク-ラ-があったからかけた。それで今度はク-ラ-をやたらしていいのかと考えた。原発事故でみんな考えたろう。ボタン一つ押せば電気が使える、その安易さが電気はポタン一つで使える、ク−ラ−でも使える、炬燵も使える、電灯でも使える、要するに楽をできるということである。電気があるのが当たり前の生活になっていた。電気がどうして作られるのか、それを身近に真剣に考えた人はいないだろう。電気はあるものである、そして未だに故郷がなくなるなどと考えた人があるだろうか?家族はそれぞれの事情でなくなったりするけど故郷までなくなるということが想像した人もいないだろう。だけどこの辺ではそれが現実化しているのだ。飯館村が草ぼうぼうになっている。人は住んでいない、あれはやはり異様でありこの辺も草ぼうぼうでも人が住んでいるし日常の生活はある。飯館村にはない、ぼうぼうの草におおわれてしまう。その現実が信じられないのである。
それは避難している人が一番感じている。毎日泣いているいうのもわかる。あれをみたら途方に暮れてしまうだろう。家が草に夏草に埋もれてしまう異様な光景だった。確かに家でもヘビの棲家にもなってしまう。なんとか車が通っている所は道が生きている。でも村は死んでいる。草ぼうぼうだから冬より荒れ果てた感じがした。


結局人間は本当に個人的にも楽は苦のもとなのだ。自分の人生をふりかえっても楽すぎたから今の苦がある。食事がいつも用意してあるから食事はいつも用意されているものだと思っていた。その期間があまりにも長すぎたのである。ほとんど一生の時間がそういうふうに楽だったのである。一時路頭に迷ような生活をしたがそれも一時期だった。あとは楽すぎたのである。その期間が余りにも長すぎたから楽であることが普通だと当たり前だと習慣化していたのである。だからそういう楽している人は苦しい状態になるとかえって苦しい状態に耐えられない、なぜなら楽が習慣化しているからなぜこんなに苦しまねばならないのかと常に思いつづけるのである。それほど楽な状態が当たり前になりすぎていたのである。それは今回の原発事故でも言えた。電気は楽のもとであった。電気はボタン一つで使えるものだ、楽ができるものだと思っていた。電気がどういうものかどうして作られるのか、どういうコストがかかっているのか?そういうことを真剣に考えた人は専門家でないかぎりない、電気はボタン一つ押せば使えるものだと思っていたのである。

原発がなくてもそもそも電気を作るのにはそれなりのコストがかかっていた。電気の元はもともとは石油だった。石油は中東からタンカ−で運ばねばならないもので金がかかるものだった。石油が供給できなければ車さえ使えなくなる。石油が欲しくて戦争にもなる。命より石油の方が大事になる。それが電気を供給して楽の元になっていたのだ。電気は実際は高価なものだったが意識されなかったのである。楽の元になっているものが意識化されないことが今日の原発事故の原因にもなっていたのである。もし電気を手動で水をくむように手で回すように起こしていたら電気を起こすことは大変な労力だと意識する。ところが電気はそういうふうに意識されないから電気について真剣に考えないのである。


双葉町の人だったか大熊だったとか原発よりロウソクで一家で暮らせる方が良かったと言ったことでもわかる。故郷を失い家族がばらばらになりそれが意識された。原発は実際は高価なものでありそのために支払われていた代価は実際はとてつもなく大きなものだったのである。原子力は魔法のように電気を作り出すものではなかった。原子力で発電することは知能的にもそうだし大変な労力がかかり危険なものだった。それは確かに楽を作り出すものだったが苦を作り出す元でもあったのだ。

つまり楽は苦の元だったのである。双葉町辺りでも貧乏で藁に寝ていたとか言っていたがその苦も実際は楽の元になっていたかもしれない、いくらなんでも藁に寝るようなことにはならない時代がきていたからだ。それが原発で豊かな楽な暮らしができると思って実際にそうなったとき来るべき苦のもとになっていたのである。今の暮らしは確かに苦しい、でもこの暮らしでもいつか楽になる、これよりはましになるとか働いていればそれなりの豊さがきづけた。原発のような恩恵はないにしても藁に寝るような生活になっていなかった。楽をするコストのことリスクのこと真剣に考えさせられないからそうなった。ただ楽になる豊になるということだけを各自思い描いていた、その楽になる元についてはほとんど真剣に考えなかったのである。そこに便利な文明の落とし穴があったのである。


文明はあまりに便利だからその便利さを供給しているものが何なのか真剣に考えられないのである。働く−ハタラク−が端を楽にするという意味なのは働いている人が苦しいのを見ているからそういう言葉が生まれた。電気には文明にはそうした苦しいということが見えないのである。物を運ぶにも江戸時代なら天秤棒でありあれで良くかついでいけたものだと今になると信じられない、その距離も長すぎるからだ。一キロくらいならなんとかなるが今だととても想像すらできないのである。馬でも牛でも荷物を運ぶことは大変な労力が必要だったのである。そういうことが文明が発達すると目に見えなくなったのである。庭作りして重い石を人間の力だけ動かしたことには驚いた。こんな力がある人がいるのかと思った。でも機械で石をすえればそうは思わない、機械の操作がうまいなと思ってしまうのでありさほどそれが苦労しているようにもみえない、でも実際は機械で石を置くのにも危険なことがあると庭作りの人が書いている。事故につながる場合もある。ただ機械だと機械の操作の方に目が向くのである。
文章だって前のように手書きだったら書くこと自体相当な苦労だった。今だったらパソコンでなれた人はすいすいと文を書けるのである。だからそこには機械の操作にたけていると見ていて苦労だとは思わないのである。

車が物を運んで苦しんでいるななどと考える人はいない、でもガソリンで走るのだからそのガソリンを得るのは実際相当な苦労をしている。それが見えないのである。中東の危険地帯を通らねばならないのもそのためである。あの辺にかかわるといつ戦争になるかもしれない、ある人はアルジェリアまで石油をとるための交渉に行っていた。石油を確保すること原料を確保することはグロ−バルでありそれが大変な苦労になっているのだ。文明社会はそういうことが見えない、いろいろなことが見えず物だけが供給さているのである。バナナとるのにも汗だくの労働だったとか日本人の若者が言っていた。でもバナナなんか安いから簡単に楽に手に入るものだ、いつもあるものだと思ってしまうのである。

ともかく個人的にもそうだが楽は苦のもとになる。快楽なんかも一見楽なものであるが逆に苦痛になるときがある。楽なことは明かに苦に通じている。自分の楽は余りにも長すぎた結果として今の苦がある。浦島太郎の龍宮城伝説などもそうである。美女に囲まれて楽していたらいつのまにか年取っていた。煙のように龍宮城は消えてしまったのである。ショ−ペンハウエルのように苦こそが現実であり楽は快楽でもそれは苦の元になる。苦はやがて楽の元になる。それが確かに人生だったとなる。

すると苦の人生も実は楽の元であり今日のような原発事故で苦しむことがなかったかもしれない、
あまりにも容易な楽な生活にひたっていると楽が当たり前となり習慣化して苦があることを想像すらできなくなる。だから金持ちが没落したり地位あるものが没落することはそれを受け入れられないからかえって辛いことになる。でもそういう浮き沈みは人生には必ずある。楽で終わる人生はないのである。それは今の原発事故でも同じだったのである。

posted by 老鶯 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月14日

モニタリングポストは必要だったのか (情報は原子力村に今も操作されている)


モニタリングポストは必要だったのか

(情報は原子力村に今も操作されている)
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飯館村を除染していたのは大成建設



「強制的に下げられた放射線量の数値が全国に公表されている」――。20日の会見で、長谷川氏は、仰天の「放射線量改ざん」疑惑を暴露した。
「昨年11月末ごろ、国の除染モデル事業を請け負った大成建設の作業員とみられる10人ほどが、村のモニタリングポストを高圧洗浄機で洗い、土台の土をソックリ入れ替える作業を行っていた。その様子を複数の村民が目撃していたのです」

村の仕事を請け負った大成建設によるモニタリングポストを高圧洗浄と周辺土壌の入れ替えによる意図的に放射線量を低く見せる「改ざん」です。
 
放射線量は下がった、除染に効果はあるなどと宣伝し、飯舘村民を村に帰還させることが目的にあるのでしょう。
 
こうしたおかしなことが起こっているのは、経産省を核とする原子力ムラが飯舘村を直轄支配していると考えれば全て納得がいくことばかりです。
 
つまり、原子力ムラの思惑通りにならない村民を弾圧する、原子力ムラに都合の良いように世論をコントロールする、ゆくゆくは村民を帰還させ被曝実験のモルモットにする


飯舘村役場は、村民が自主的に行っている「見守り隊」の詰所に詰所内での政治活動・署名活動を禁じる文書を掲示したというのです。これは除染計画の仮置き場の設置に反対もしくは慎重な村民の声があったことを反映したもののようですが、

実は今、菅野村長の行くところすべてに付いて回っている経産省の官僚がいるのです。村役場でも、常に村長のそばにいる。そして、マスコミの取材の際もその彼が出張ってきて、あれこれと指示を出しているんですね。今では彼がマスコミ取材対応の窓口となって取材をさばくようになった」
 これでは、村長が村民無視で経産省の操り人形になっていても不思議はない。やっぱり国の放射能対策を信じてはダメだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/neverland20050918/28611235.html

 


公園など設置されたモニタリングポストあるけど本当にあれ必要だったのという疑問が地元にはある。なぜなら下の土をとりのぞけば低くおさ
えられるし別なところから土をもってきても放射線量は低くできる。つまり操作できる。だからこそ 大成建設の作業員とみられる10人ほどが、村のモニタリングポストを高圧洗浄機で洗い、土台の土をソックリ入れ替える作業を行っていた

これは国から命令されてそうしている。国では結局権力を持っているからこういうことを命令できる。作業員はなんでこんなことをしなければならないのかと疑問に思うだろうが仕事を国からもらうから命令に従わざるをえない、人間の社会は誰が権力をもっているのか?それを常に見ておかないとどうなっているのかわからないだろう。確かにどこが誰が権力をもっているのかというのはわかりにくい。政府だけが権力をもっているとは限らない、でもここから見えてくる権力とは何なのか?

それは明かに政府が意図的に放射線量を低くしている。飯館村の住人も言っているうよに何で公表される放射線量は低いのだろうと、今は放射線計測器をもっている人が多い。実際に計ってみればわかる。草野辺りでも5マイクロシ-ベルト以上は平均的にあった。森の辺りは7から8あった。またホットスポットもありそこは20とかあった。公表するのはあまりに低くされているのだ。村民を帰還させるためにそうしいる。放射能はたいしたことはないんだよとして村長を中心に村に帰還させるためにそうしている。政府の権力は大きいからその権力の下で住民はコントロ-ルされている。


権力を持つものは権力で支配する。当然情報も支配できる。マスコミも支配できるから放射線量を低くして公表する。ここで自分が問題にしたいのは放射線のこはわからないにしてもなぜわざわざこんなことをする必要があるのかということである。わざわざ土をいれかえるようなことをする必要はないのである。それをなぜ大成建設の社員が従っているのか?そこに権力関係が明確に現れているからだ。大成建設にしたら政府の命令に従わねば仕事がもらえない、それがこんなことして不正じゃないかと思ってもそうせざるをえない、そういうことはいくらでもあった。権力者集団の命令に従わねばとうなるのか、仕事は受注できない、会社が成り立たないとかなる。除染という仕事はこれも公共事業とにているのだ。何千億の予算がでる。

それで飯館村の住民はもう帰れないからその巨額の除染費用を賠償金としてもらえ他で生活をする計画を立てたいという要望がある。それは飯館村は帰れるような放射線量ではないとみんな知っているからである。一部の老人は放射能と関係ないとしても若い人が帰らないなら姥捨山になるから帰りたくないと言っている。ではなぜその除染費用を村民に賠償金として支払わないのか?それは大成建設とかに金を回すためなのである。そっちの方が国で優先されるからそうなる。なぜそういうことをするのか?そこに現代の社会が巨大な会社を優先させているということにある。会社は確かに国に従っているが国もまた大きな会社と一体であり飯館村のような小さな村より大きな会社の利益を優先するのである。東電でも東電の方が国より巨大化していたから保安院も東電に技術的にも知識的にもかなわないから東電のいいなりだったのである。だから国が権力があり会社が従うと言っても逆になっている場合もあるのだ。


大成建設とういうと創価が正本堂を建てたとき大成建設が受注して建てたのだ。その金は巨額となったから大成建設では創価の会員になったりしていた。拠点になった所は大成建設の社員の家だったのである。大成建設では社員まで公明の選挙活動までさせられていたのである。権力的には創価が上であり大成建設はその下になっていた。別に権力は政府だけがもつものではない、宗教団体でも労働団体でももっている。ただその権力関係は一般的に外から見えにくいから不正をしも情報を操作されてもわからないのである。原発の建設から事故が起きてからも常に放射線の被害を低くしようと隠蔽しようとする政府の力が働いていた。飯館村はそれで避難せずに被曝してしまった。その後も政府による情報操作がつづいているのだ。


南相馬市の400億円の除染利権と東大の児玉教授の関係。一押し企業が、利権獲得に大成功してて分かりやすすぎる


除染、除染というけどそんなに効果あるものなのか?なんかそれが除染利権となっている。放射能汚染地帯は会社の利権の場にもなっているのだ。実際に被害にあった市町村に各人にそうした金が回らずに会社に回ってゆく。それが現代の社会である。浪江町とかで政府を告訴しているというのもそのためである。政府が住民の味方となるとは限らない、政府が会社とか一体となり利権の場となり住民の本来の復興はないがしろにされる。権力によって住民の声はおさえられるのである。でも政府と戦うということは巨大な権力と戦うということにもなる。そういう覚悟も必要になってくる。

アフガニスタンの戦争の被害者と高校生が交流したとういのもわかる。故郷も土地も家も奪われた戦争難民と原発難民はにていた。自分たちの住む場所もない、家もない難民である。ただテントには住んでいないというだけである。こういう難民は他の土地に移っても歓迎されないのである。双葉町の町長が棄民と言ってだけど難民にされてしまったのである。飯館村は原発交付金などもらっていないから特に悲劇だったのである。


ともかくこの辺は極めて沖縄のような政治的な場になってしまった。政治が具体的に意識される場になった。それは政治にはかかわりたくないといってもそう強いられている場なのである。特に難民化した人たちは深刻なのである。一体自分たちはどうすればいいんだと将来のことを考えると深刻なのである。自分の場合はわずかに30キロ圏外であるからそういうことはないにしても影響が大きすぎるのだ。病院であれ福祉であれ教育であれ経済であれ影響が大きすぎるのだ。相双は一体であり経済的にはどのくらい縮小したのか?全体では3分の一とかに縮小したかもしれない、すると全体的に影響を受ける。縮小するということはそれは将来的にもそうでありその未来がないということでまた精神的にダメ-ジが大きすぎるのである。マイナス志向しか生まれないからそうなる。老人だけ取り残されたらさらにそうなるからだ。

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2012年07月15日

旧相馬藩内の人口分布 (三分の一くらいに減った-原発難民は邪魔者にされる) 旧相馬藩内の人口分布 (三分の一くらいに減った-原発難民は邪魔者にされる)


旧相馬藩内の人口分布

(三分の一くらいに減った-原発難民は邪魔者にされる)


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浪江 19000
葛尾(かつろう)村 1400
双葉町 6000
大熊 11000
飯館村 6000
・・・・・・・・・
 合計 32400


南相馬市  67,000人
相馬市 36000
新地 7800
・・・・・・

(旧相馬藩内総人口)118000
 警戒区域-32400人



人口的には南相馬市は72000人あったけど流出して減っていた。警戒区域とあわせると合計で10万でありそのうち3万が警戒区域だからその影響が大きい。相馬市と新地を加えると旧相馬藩内では11万人になるがそれでも3万人へっているから約三分の一に減っている。これは相馬藩で飢饉の時三分の一に人口が減ったときと同じかもしれない、この影響は大きいのである。若い人が流出しているからさらに影響が大きい、物流の鉄道、道路が東京と結ばれない、断たれていることも大きいと会社の人が言っている。これだけ広域交通の中で仕事しているからそうなる。流通網が断たれると致命的になるのだ。原町から川俣への流通がふえてトラックが事故を起こした。遠回りになるからそうなる。あの辺は道路が狭いのである。六号線が断たれたことが大きいのである。
この中で老人の割合、60代以上が半分くらいしめているかもしれない,その影響もまた大きいのである。つまりこの辺は高齢化の問題が顕著になる。老人や病人ばかりふえて働き手の若い人が流出する。これは日本全国でそうでもこの辺はそれが極端になる。姥捨山のようになる。だから高齢化問題により真剣に具体的に対処が迫られる。それは一人一人がそうであり老人は若者を支援しなければならなくなる。年金を多くもらっている人はへらしてここで働く人に回さないと老人は福祉のサ-ビスも受けられるなくなる。そういう緊迫したものになる。もうこういう状態では支えきれなくなる。


そして浪江とか飯館村とかまた小高でも原発難民をかかえるとさらに苦しくなる。難民はなんら生産性がないとか邪魔者にやがてされる。相馬市で飯館村の人が農家でトマト栽培で働いたが解雇されたことでもわかる。津浪の被害者もここでは思った以上に多くこの人たちは賠償金が出ていない、それで賠償金をもらえるからいいだうと外から見られてしまうのである。それは磐城でもそうだった。

仮の町といってもただ負担を強いられるだけだと地元では思ってひまう。つまり難民化、棄民化されるのである。アフガニスタンでもアフリカでも戦争の難民をテレビで見てきたけどそれと同じような光景なのである。補償にしてもいつまでもできない、そうしたら働くにしてもその働く場がないから原発を再稼働して金をよこせ、働かせろとまでなっている悲惨さがあるのだ。だから若者はここはも未来がないと流出してゆくことがさらに衰退に拍車をかけて老人と病人だけが取り残される姥捨山にされる恐怖があるのだ。そういうことがこれから深刻化してくる。当たり前のようにあるものがなくなる。病院が一時機能しなくなって手当てを受けられず死に目にあったようにそれと同じ様なことが起こってくる。


 

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2012年07月16日

福島原発地帯の人口の変化の統計 (1960⇒2005年)


福島原発地帯の人口の変化の統計

(1960⇒2005年)


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クリック拡大!


(海岸沿い)

広野町-5776⇒5136
楢葉町 9430⇒7330
富岡町-12380⇒14700

(旧相馬藩内)

大熊町-7880⇒11000
双葉町-7558-6300

(山村地帯)

川内村-5705⇒2669
葛尾(かつろう)村-2977⇒1482
飯館村-10941⇒6000
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新地 9771⇒7809


1960年というと戦後10年くらいは江戸時代のつづきだったと書いた。燃料はまだ炭だった。食料も貧しいものだった。ご飯炊くのも電気ではなく釜だった。炭でたいた釜のご飯はうまかった。電気製品は一つもなく裸電球と飯台一つしか普通の家には置いてない、水道が入ったのも戦後十年以上すぎてからだった。水は井戸水であり町では井戸水がないから水をもらうほかなかった。この生活は江戸時代とさして変わらなかったのである。これは前に書いたからここでは統計から旧相馬藩内の変化をみてみた。富岡町から南は相馬藩ではなかった。でも原発関係で変化をみた。


海岸沿いはさほど減っていない、広野町-富岡町は逆にふえているのは第二原発があるためだろう。
大熊町は第一原発があるためにふえた。双葉町は減っているのが不思議である。やはり第一、第二原発地帯は人口は全体的にはへっていない、逆にふえている所もあった。まあ、減りもしなければふえもしないというところである。全体的には人口は二割三割と地方では減ったのだから減らないということはそれなりに産業があったからでありそれが原発だったのである。


この統計でわかったことは顕著なことは山間地帯が約半分にへっている。川内、葛尾(かつろう)村、飯館村は山間地帯である。葛尾(かつろう)村はもともと人口が少なかったが半分に減っているのは大きい。飯館村が一万人いたのは驚きである。一万人の数は大きい。なぜそれだけの人が住めたのか?山林資源が豊だから炭焼きなどで生活できた。東京の方に木材を鉄道で運んでいた。だから森林鉄道がどこにでもあった。葛尾(かつろう)の落合まで森林鉄道が通っていたのには驚いた。なぜならあそこは坂が急でありかなりの距離があったからである。この森林資源が原ノ町機関区から鉄道で運ばれた。南相馬市の前の原町市は1960年では4万で同じ人口だがすぐに5万とかにふえたことでもわかる。原町には工場も誘致されてさらに繁栄した。相馬市は人口はずっと同じだった。新地町は前の相馬郡になっていて人口が1960年で9000人ありその後2000人くらいへった。全般的に人口は減ってゆく時代だった。

飯館村が一万人いたが6000人にへった。でも森林資源から牛の飼育に移りそれでなんとか人口を留めた方である。それでも人口の減り方かはげしかった。小高、原町は同じ様な状態である。山村地域は過疎化になり日本全国的にこれと同じ傾向がある。つまり原発地帯は人口もふえもしないが減らないという状態を維持したのが山村の過疎地帯と違っていたのである。


不思議なのは1960年ころまでは本当に今に比べると貧乏だった。ほとんどが農家人口であることでもわかる。それでも人口が多かったのである。貧しくても人が山村でも地方でも多かった。豊になり高度成長以後に地域の人口は減っていった。人口が多いから金の卵とか東京へ森林資源だけではなく人間も労働力として移動したのである。だから人間は発展途上国のように貧乏でも人口はふえる。豊になると文明化すると人口は減るのである。子供も一人とかへっていった。貧乏人の子だくさんであるが豊になるといろいろな配慮が働いて子供はへる。


数字は苦手だけどやはり統計とか数字は社会の状勢を冷静に示すのかもしれない、原発ができて辛うじて人口減をくい止めたというのが現実だった。そうでないと浜通りでかなりの人口減の減少が顕著になったことは確かである。ただ交通的に恵まれているから山村地帯のようにはならなかったろう。工場も誘致できたからである。

posted by 老鶯 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月17日

飯館村が原初の葦原になり伝説化した (葦笛の詩として引用構成)


飯館村が原初の葦原になり伝説化した

(葦笛の詩として引用構成)


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●葦が日本の原初の状態


この葦原だが古事記の記述によると日本は豊葦原 の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくにとされている 言葉のとおり豊かな広々とした葦原のようにみずみずしく 美しい稲穂が実る国ということであろう弥生時代になって人 々が低地に定住して米作りを始めると河川の氾濫平原や湿地 はもっとも米作りに適した土地として豊かさを象徴する存 在になったに違いない当時の地形と現代の地形ではかなり の違いがあると思われるが現代の沖積平野のほとんどが氾 濫河川敷や葦原の低湿地だったと考えられる

 根の家で生活する農民達がヨシで編んだ魚籠を用いて漁をして おり壁土の材料として稲ワラの代わりにヨシを利用していま した  日本でもヨシズの材料として古くから利用されているが
http://fjfj.enokorogusa.com/BiotaHatogaya/BiotaHatogaya03.htm


日本では稲刈りの後に芦刈が行われ、各地の風物詩となっていた。軽くて丈夫な棒としてさまざまに用いられ、特に葦の茎で作ったすだれは葦簀(よしず)と呼ばれる。また、屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに現在でも使われている。日本神話ではヒルコが葦舟で流される。最近では、葦舟の製作も市民活動として行われるようになってきている。ちなみに、南米で葦舟といわれるのは、この葦ではなく、カヤツリグサ科のフトイの仲間を、古代エジプトにおいては同じくカヤツリグサ科のパピルスを使っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7


世界中で葦が原初の風景であり原風景だった。パピルスが葦でできていたことでもわかる。ナイル河畔にも葦が繁っていた。葦船は日本にもあった。葦の用途は広いのである。葦は海岸地帯にも生えるのは塩分にも強いからであり葦がいろいろな効能がありそれは知らなかった。

ヨシ生態のおぼえがき
http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3113kenkyureport/syoho_bi/09/09-05.pdf


●葦(あし)が古い地名の発音で葦(ヨシ)は平安時代以後の発音


日本の国を『豊葦原(とよあしはら)の国』(日本書紀)とも呼ばれていました。平安時代までは「アシ」と呼ばれ、今でも「アシ」と呼ぶ地方もあります。正式な名称(植物学名)は、「ヨシ」(竹と同じイネ科の仲間)と呼びます。

葦牙とは、葦の芽のことをいう。その二柱の神がつくった島々は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」といわれた。これにより、日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。更級日記では関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書き残し、江戸幕府の命で遊郭が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた。


平安時代までアシと西では言っていた。もともとはアシと言っていた。ところがアシが縁起が悪いとしてヨシになった。ということはアシと発音するのは地名的に古くヨシと発音するのは新しいとなる。吉原は新しい呼び名である。吉田もそうである。


●片葉の葦の謎


、柳田國男の説くところの日本の生贄の風習である片目片足をつぶし、生贄のしるしとした伝承。それを証明するかのように片目の魚と神、片葉の葦と神の伝説は日本中至る所にある。そしてそれらが産鉄民と繋がる事は歴史家の間では今や常識、片目の神は北欧、エジプト、日本と、世界的に神の条件のひとつでもある。片葉の葦は「かたわの足」である、産鉄族は火を扱い片目になったり片足になったり体を酷使するためにそうなりやすいのである。またはたたら吹きの強い風のために葦の葉が一方に偏ってしまった。
http://www.musubu.jp/manoirie.htm


これは自分が前に書いたが産鉄族にかかわる伝説でありその後の親鸞とかの伝説ではない、別なものに変化して全国に残っている。ここも産鉄族が深くかかわったから伝説が残っている。これは全国くまなく残っているのだ。


●葦に関する詩


枯れみだれた葦(あし)の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸(いちぼう)の原。
セメント 鉄鋼 電気 マグネシユウムら
寂莫(せきばく)として地平にゐならび
蒼(そう)天下 終日人影(じんえい)なし。
(小野十三郎)



葦笛と風の恋

悩みも苦しみも 呑みこんで 笛は輝く
その内に風はみなぎる
風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


葦笛と風は 深い谷さまよい
葦笛と風の 目覚めを月みつめ
その甘い調べ 花とともにひらく 花とともにひらく
http://sironekoq.exblog.jp/992968/


これはオリジナルではない、翻訳したとあるがやはり著作権がある。引用するのはまずいかもしれない、つまりどこまでオリジナルなのかわかりにくい、オリジナルなものを出さないと本当は発表できないだろう。インタ-ネットは自分のも勝手に引用されている場合がある、引用は創作的範囲で可能であり創作がなければ引用はできない、ただ引用だけしているのは著作権違反なのである。

葦笛の詩については古来多い。それだけ葦自体がなじみ深いものだったからである。


風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


これは飯館村を象徴するような詩になっていた。消え去りゆく遠い光を・・・消え去りゆく村人のことを言っている感じもする。「風がやどす、土の声を」飯館村には人が住んでいないから風と土の声だけが残された。その土の声は放射能の声だったというのも不思議である。
葦笛と月はあっている。深い谷をさまよいというのも飯館村の山間のことであり深谷という地名もある。飯館村が葦繁る原初の状態にもどってしまったのである。もともと自然が豊だから余計にそうなったのである。一方で小野十三郎の詩は大阪の詩でありそこも葦原だったのだがそこはまさしくセメント 鉄鋼 電気 マグネシユウム・・・の工業地帯になった。飯館村とかこの辺はもともと自然が豊だから津浪の跡でも葦繁る自然にもどったのである。そのことを写真を出して何回も書いてきた。思うに飯館村とか津浪の跡は物語化゛伝説化した地帯になるのかもしれない、元の自然に還り人間のことが伝説的に語られることになる。


"Selected Poems of Rumi" Jalal al-Din Rumi, Maulana : R.A.Nicholson
index > 『ルーミー詩撰』

『ルーミー詩撰』 メヴラーナ・ジェラールッディーン・ルーミー


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「葦笛の歌」1


葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

葦笛は語る、

慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち、
私の悲嘆の調べには、男も女も涙する。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。

どこにいようとも私は嘆き悲しみの調べを奏でる、
不幸を背負う者たちの、私は友となり慰める。2

それぞれの思いを胸に、誰もが私の友となるが、
私が胸に秘める思いにまでは、思いいたる者などいない。

私の音色は私の嘆き、胸に秘めるこの思い、
だが耳も眼も塞がれた者に、光が届くはずもない。

魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが。

それでも、未だ誰ひとりとしていないのだ、
魂をかいま見ることを許された者など。

葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、一体何ほどの者であろうか!

これこそは愛の炎、これこそが葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。

誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる、
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。

葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。
http://www.levha.net/rumi/selected_04.html


飯館村の人の気持ちはこうなっている。原発避難民の気持ちがこうなっているのも不思議である。故郷からの別離、家族との別離に引き裂かれている。故郷は葦がぼうぼうと繁る場所になってしまったのである。ただそれが大阪のような都会的なものとは違う、自然がもどったのだから月などとマッチして美は残っているから伝説的になるのである。


「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう
http://www.k-system.net/mandala/?p=137


飯館村はどうなるのか、今でも老人が一部野菜を栽培してそれ子供にやったら子供はそれを棄てたという、飯館村は警戒区域になっていないからいい、他は警戒区域で立入禁止になっているから入れないのだ。放射能汚染は自然の美は破壊されていない不思議である。都会化は大阪のようにズタズタに自然を破壊した。すると大阪のような大都市より自然の美が残っているからましではないかともなる。ただ避難民化した人たちはそんなことは言っていられないだろう。かけがいのない故郷を失ったのだから・・


●自作の詩


葦に埋もれた村

葦が生い茂り
田畑は消えぬ
葦が風にさやぎなり
月の光に灯は消えぬ
原初の日にここはもどる
人の声は聞こえず
牛の声も聞こえず
石は再び深い眠りにつく
誰か見えぬ詩人(うたびと)のここに残り
葦笛の楽を奏するや
その音のもの哀しくも切なく
今はただ森に山にひびくのみかも
人家の灯は消えて
蛍袋がその灯なのか赤々と咲く
かつてここに我は棲みしと語るもあわれ
ただ葦原は風にそよぎぬ
いづこへと人は去りしや
村は葦に埋もれ人は帰らじや
詩人の一人残り葦笛を奏するのみかも


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飯館村は本当に不思議としかいいようがない、津浪の被害にあった地域もそうである。まるでポンペイの跡のようになった。だから伝説的な場所となってしまったのである。ただ大都会と違うのはもともと自然豊だから自然がもどり自然に埋もれるという浄化の作用があった。放射能汚染したのが水や土を汚しても外観なんら変わりない、美が同じ様に残っている不思議があるのだ。都会には美が消失してヘドロとか工場地帯の煤煙とか自然の美はない、自然に埋もれるということはない、石油タンクとか美観をそこねるものが延々と残っている。だから大災害がきてもそのあとはやはり無惨な人工の跡が残る。田舎のように自然に埋もれるということはないのである。

 


インタ-ネットは編集して読むものである。これだけ葦というキ-ワ-ドから書けたのは収穫だった。
知の世界はやはり興味があったときどれだけ深く広く知識を深めることかできるかが問題になるのだ。もし世界の知識が公開されてこのうよに編集できればいながらにしてアレキサンドリアの図書館を有すると同じになるのである。  
posted by 老鶯 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年07月18日

虹-夏の彩り(抽象画) 具象画あって抽象画がある

 

虹-夏の彩り(抽象画)

具象画あって抽象画がある

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summer waves

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抽象画には一つの原画からいろいろ発展する。それが普通の絵と違っている不思議がある。
これは明かにそうである。最初、これは虹だなと思った。感覚的に虹ではないにしろ光には見える。次にこれは太陽からの木漏れ日か散光のように見えた。次は押し寄せる波に見えた。・・・こういうふうに変化が楽しめる。
思うにやはり抽象画は全く具象画と違っているかとというとそうでもない、なぜなら抽象画から具象画をイメ-ジするからだ。全く具象画と切り離されることはないのだ。
ただ決して具象画から抽象画をイメ-ジはできない

抽象画⇒具象画のイメ-ジはできる、しかしこの逆のことはできない、
結局、自分で抽象画をパソコンのソフトで偶然作ることができてこれは何なのだろうとなった
でも自分でもわからない、ただこれは虹だなと即座にイメ-ジしてはっとした。
虹という具象画があって抽象画がある。抽象画があって具象画はありえないのである。

あしひき--の足は葦だった (みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)


あしひき--の足は葦だった

(みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)

●味真野の味は葦だった


味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ


題詞 (中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌)

越前市味真野地区は、万葉集にゆかりが深い場所です。奈良時代、聖武天皇に仕える女官 狭野弟上娘子と恋に落ち、何らかの理由で天皇より味真野に流された中臣宅守。引き裂かれた二人が交わした歌が万葉集には63首残されています
 


篠山の地名考-「味間(あじま)」


 「味間」という言葉の起こりを調べてみますと、むかしむかし、このあたりは沼地が多く、広大な湿地帯が広がっていたようです。したがって、湿地や沼には、たくさんの葦(芦)が生えていたのでしょう。そうした葦の合間に見えるところ・葦間(芦間)から言葉がなまって、「味間」と呼ばれるようになったという説があります。
兵庫県文化財保護指導委員  大路 靖

「味鴨」とは別に「葦鴨」という名詞を使った歌もあります
これは葦の間にいる鴨ということで使われています

味真野というとき葦真野だったのである。真野という地名があるとき味は葦は一体であり真野の前に葦があったのである。だから味真野-葦真野という地名が生まれた。真野の原風景が葦真野だったのである。


みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎


みちのくの真野は味真野-葦真野でもあった。真野とつけは葦と一体でありそういう所に真野がつけられたこともありうる。味真野という地名が原風景の地名なのである。でも真野だけではない、日本の原風景が葦原だったのである。


我が聞きし、耳によく似る、葦(あし)の末(うれ)の、足ひく我が背(せ)、つとめ給(た)ぶべし

意味: 話に聞いた通りに、葦(あし)の先のように弱々しい足を引きづっているあなた、早く直してくださいね。


家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

番号 20/4419
題詞 (天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)


【語釈】◇葦火 葦などの草を燃料として焼く火。山国でない武蔵国の庶民にとっては、炭は高価な燃料であった。◇恋しけ思はも 「恋しく思はむ」の東国訛りであろう。


万葉集-葦の歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/asi.html


あしひき---という枕詞は葦引きであり葦をひきながら進むことなのである。あしひき---とあったら必ず葦をイメ-ジしなければならない、


「天地[あめつち]初発[はじめ]の時、高天原[たかまのはら]に成りませる神は……次に国稚く浮脂[うきあぶら]の如くにして、海月[くらげ]なす漂へる時に、葦芽(あしかい)の如く萌騰[もえあが]れる物……」


日本の原初の状態はこのような状態であり一面の葦の原だった。葦火焚けども・・・これは葦を燃料としていた時代があったのである。筑紫ではすでに炭があったから先進国であった。外国の技術が入ってくる場所だった。それを対称的に東国の防人が故郷では葦火たいていると歌ったのである。


しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ


沙弥満誓(笠朝臣麻呂)


この歌は筑紫が外国文化の入る先進地帯だったことを示しているのである。
    
●葦原と草原(かやはら)の謎


岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建した吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます。

http://www.city.okayama.jp/kitaku/asimori/asimori_00001.html


みちのくの真野の草原(かやはら)は伽耶(カヤ)の国に由来するという考察をした。なぜなら草原郷(かや)となるときそれがこの賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)の祖に由来している。カヤはこの渡来人からのカヤであり萱が繁っているというのではないと考察した。沙弥満誓は笠氏だから笠女郎の父親であり笠女郎の故郷は吉備の萱(カヤ郷)の出で笠氏は賀陽(かや)からの帰化人だったという説である。足守という地名が葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」ということは秦氏の葦守だとなっている。渡来人の守る葦守になっている。渡来人⇒味真野⇒葦真野というふうにもなる。草原(かやはら)が何か不明にしても渡来人の匂いが色濃くするということは疑いないのではないか?


ただ葦(あし)と草(かや)は根本的に発音が違うのだから別な種類のものである。別な意味をもっている。発音がカヤとなるとき賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)と結びつく、単なる草原(かやはら)を自然の景色なのかという疑問がある。これは一地名だと考察したのもそのためである。すでに真野という時、味真野として古代的原風景の葦真野をイメ-ジするから次に葦とにた草(かや)をここに入れるのは不自然ともなる。ただ大萱葦 (信濃)と萱と葦が合体した地名もある。ここでは萱と葦は別なのである。萱というのは萱場とか枯れた状態の萱でありこれは材料として茅葺き屋根に大量に使われた。萱は枯れた状態の萱であり風景としてはそれほど美しいともいえない。葦原の方が今回の津浪や原発事故で田んぼが葦原になったことでこれが原初の風景だったなと改めて認識した。萱原の萱はあくまでも美しい光景としてより萱を材料としたものとして表現していた。


語源は、葦(よし)(イネ科の多年草)で葺(ふ)いた粗末な家屋のあったところをいった「葦屋」か、「や」が「湿地」を表し、葦の生えた湿地のことと考えられてる。


家屋が葦屋となるのは家屋を基にしているから言葉のこじつけになっている。カヤとアシは別ななものであった。


●みちのくの真野の草原の無難な解釈


実際の所は草原の謎は深い、自然情景なのか草原が伽耶とかの関連しての港地名なのか、その判別が明確にできないのである。もしこの草原が自然情景の草原だとしたら茫漠たる津浪の跡に繁った葦の原野をイメ-ジされる。そういう茫漠とした遠い僻地を思わせる。そういうところを女性が恋の歌として思い浮かべるのは何か違っている。何かそぐわないのである。みちのくの真野の草原の草原が港のような地名だったらまた別である。どんなに遠くに行こうが私は家持様を思い浮かべますよ、面影に見ますよとなる。「面影にして見ゆというものを・・」これは茫漠とした草原のこと葦原のことなのか?それとも大伴家持のことなのか?これも判別しにくい、確かに多賀城に大伴家持は晩年派遣されて来たという説もあるが定かではない、ただここでのみちのくの真野は遠い所として知られた場所としての真野だったのである。それを奈良の都で知られていたから遠い所の比喩として使われた。
とすれば真野の草原の草原は萱原としての自然情景ではないのである。


みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎


この意味は陸奥という真野と知られた遠い地の草原(かやはら)という港がある地、そんな遠くに例えあなたが行ってしまってもあなたの面影は忘れることはありません・・・そういう意味になる。
自然情景ではないのである。そんな遠い所の地を面影に偲ぶということはありえないのである。

それも女性でありそんな荒寥とした地を歌うのにはふさわしくない。ただ古代の女性だからその辺の感覚はまた違っている。それでもやはりこの歌の解釈は自然情景を歌ったというよりはあくまでも恋の歌でありみちのくの真野の草原は遠い知られた地を例えとして作られたのである。それが無難な解釈ではなかろうか?それにしてもこの辺があまりにもまぎらわしいのである。この歌は非常に誤解しやすい歌だったのである。万葉集にはそうして誤解しているのがいくらでもあるに違いない、それは一重に当時の情景が余りにも違っていたためである。この辺で津浪が塩崎までおしよせたことに驚嘆した。船も港から流されてきた。そして古代に船着とか市庭とかいう地名があった。それがリアルに再現したことに驚いたのである。自分も葦というものをこれほど意識したことはなかった。古代の自然の情景が実際はイメ-ジできなくなっていたのである。この辺で大葦辺りを秘境だと書いたがまさにあそこも葦が繁った辺鄙な地域で開拓に入ったのである。いかに葦がいたるところに繁茂していたかわかる。田んぼが津浪で原発で葦原になったことは本当に驚きだったのである。

 


 

posted by 老鶯 at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

女性の体ーwoman body(抽象画)


女性の体ーwoman body(抽象画)

 

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女性の体

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胎児

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食虫植物

女性も食虫植物がいるから怖い、犠牲になったのが自分だった
気おつけることだ、いまさらおそかったが。。。。




一つの原画から七つの抽象画を作った。
原画が抽象画向きだとそれなりに変化が楽しめる
ただ何なるかわかないのがかえって面白いのが抽象画である