2012年07月02日

美瑛の夏(詩)

 

美瑛の夏

bieiiiiii1111.jpg



ポプラの木の丘に高きや風そよぎ
緑うるわし丘々や畑は耕されて
黄金のタンポポは天まで咲きつづくや
残雪の十勝岳は煙を吐き隆々と迫り
兀々(ごつごつ)として荒き肌に肩を組む
丘々をこえ郭公の声はひびきわたり
雪解けの水は清流となり大地を潤す
神殿の柱のごとく列なす針葉樹林
北の風雪に耐えてその樹々の列
ひしひしとその針葉樹の厳しさ
北方の風雪に鍛えられて立つ
その土、その岩、その樹、その草・・・
原始の精のここにありて息づく
オオバナエンレイソウの谷間に隠れ咲き
ここに光はしずかに人の歩みもまれなり
汝の足は今ひそかに忍び入るかも
ああ ポプラの木の高きや風そよぎ
神は花々をここに集め草原にしく
大地と山々と樹はあなたに答える
真直(まなお)なるあなたの心に答える
誠実なるあなたの心に答える
大地と格闘して倒れしものよ
汝はまたなおここに生きむ
汝の無念は受け継がれるべし
ここに大空に大地に峰々の調和しぬ
美瑛の夏よ、今蘇るかな
深々とここに息して爽快に癒されよ
日がな郭公の声は遠くへひびきわたれり


tocachiiiiii111.jpg

写真ではこの光景は現せない
十勝岳に向かって咲いていたタンポポは圧巻だった
天まで咲き続けるようにまぶしかった
十勝岳は力強いものがありあれが風景をひきしてめていたのだ



美瑛は自転車で一回行って農家のライダ-宿に泊まった。その時、延々と農家なんかやっていられないとか聞かされた。最後は中国の方がいいとか言っていた。こんなところにも中国人がでてくる。
農家はみんなほとんどそうした農業ではやっていけないとかしか聞かない、この辺でもそうだった。機械には金がかかるしとかとてもやっていけなねい、やっていけないという話しか聞かない、北海道は本州よりもっと厳しい,なぜなら農業の他に仕事がないからである。本州では専業農家は少ない、兼業農家であり減反政策でも補助金が入る。わずかの田でも米を作ってもらえればそのう農家には金が入る。そういう矛盾が現代の農業である。結果として原発ができたのもこの辺では必然だったのである。第一次産業と農業に従事するものが一番賛成していたという皮肉があるのだ。そして一番被害を受けたのも第一次産業だったのである。


美瑛に行った時は郭公の声が丘々のかなたからひびき木霊していた。それは宗谷の方に行ってもそうだった。だから郭公の声は忘れることができない、今になると自転車旅行はできない、それを考えるともう行けない、思い出すだけだなとなる、遂にはみんなそうなるときが来る。時間は思った以上に早くすぎてゆく。美瑛はやはり独特の地形で魅力がある。丘の上にポプラの木が立っているのがいい、あういう風景はなかなかない、抽象画はこれはあるプログの写真を加工した。
加工すると原画がわからない、秋の方がいろどりが豊になる。9月ころが色の絨毯ができる。
今になると北海道は遠い。近くすら遠い、結局人間の与えられた時間は有限でありどんなに自由が与えられていてもその時間は有限だった。時間は尽きるのである。そして残ったのは思い出、記憶なのである。その記憶もあいまいとなるからあとでなかなか書けないのである。                 
それでも自分はかなり思い出す旅をしているから多少は書けるのだ。


美瑛にはプロの写真家が住んでいる。一人だけではない、何人も住んでいる。それで商売が成り立っている。開拓の時代は終わった。だから北海道も空家が目立つのだ。今いなくなったような家があった。それは飯館村の人がいなくなった家とにていたのである。他にも住宅のような家が空家になっていた。北海道は暮らしてみれば前もそうだが今も過酷である。ただ夏だけが最高であり天国になる。ここは北海道に行かなくても多少北海道化したから北海道にいる気分になるというのも不思議だった。


北海道を詩にしよとすると何かむずかしい、やはり伝統的日本的情緒の世界ではないからだ。大陸的でありつかまえどころがないからである。俳句でも短歌でもすんなり作れなかったのはそのためである。この詩もあまり成功したとはいえない、函館の詩はそれなりに特徴をとらえて成功したかもしれない、一回くらい行ってもその土地の特徴をとらえることはむずかしいのだ。十勝岳が圧巻であった。北海道に十回行っても本当の北海道の姿をとらえることはむずかしい。それでもこの頃思い出して結構いい詩ができるのは不思議である。自分でも言うのはなんだがやはり人間は最後になるといいものができる。正岡子規でも他の人でも若くして死んだ人がなぜあれだけのものを残したか不思議だった。それは常に死に直面していたからである。あと何年しか生きないとなるとどんな人でもいいものができなるのである。人生でも自然でも鮮明に見えてくるのだ。最近は詩でも大量に書いている。

発表しているのは一部である。こんなふうに書けることが自分では不思議である。なぜなら自分は才能がなく,40代でも俳句でも短歌でも稚拙なものであり鑑賞もでなきかった。今はたいがいのものが深く鑑賞できることも違っている。ここにきて何か自分なりのもの書けるしほかのも鑑賞できる。

こんこんと泉から湧きだすように創造できる。自分も死期が近いからかもしれない、どうも70くらいで最近死ぬ人が多い、人間死期が近づくとものが見えてくる。これは才能と関係ない、死期を前にして人は見えないものも見えてくるのだ。心眼で見えてくるのである。だからある人は本当に天国をありありと死期を前に見ることがありうる。そういう心境になってくることがありうる。心清らかに生きた人は最後にそうなってゆく。これは才能ではない、死期を前にしているからそうなってくる、
人間の神秘なのである。人間は最後にお迎えが来るというとき本当に天使でも観音様でもお迎えに来る。そして天国に連れ去るのである。その前にこの世のことが自然でも鮮やかに見えるようになるのである。こういうことは芸術家だけのものではない、ごく普通の人でもそうなりうるのだ。

 

2012年07月03日

北海道の海岸の詩 (旅では記録する写真が貴重)


北海道の海岸の詩

旅では記録する写真が貴重


ryuuboku11111.jpg


茫漠たる海
砂原に点々とつづくは
鳥の足跡のみ
波がよせてはひびく
流木の海岸
草原に風はわたり
茫々たる原野
蝶が一羽風にあおられている
人の跡はそこに印されない
わずかにアイヌの地名のみ残る
何を記憶に残すのか
波と風と砂に消される記憶
一両の電車がゆく
荒野の風に吹かれて
廃線の跡が草地に残される
烏がとまっている
自然の風化は地を清めることなのか
津浪の跡の砂原は草原は北海道になった
霧多布湿原にクシロハナシノブの星のよう咲く
丹頂鶴が優美な姿に舞いおりる
海岸には霧が流れキタキツネの足跡
渡り飛ぶ海鳥の声が砂原にひびく
荒々しくうちよせる波に
それは野生の歓喜の声か
人の跡の尽き果て
かなたに見えるのは海
日本列島はどこまでも海に洗われている


 

北海道シリ-ズになったけど現代は言葉より写真で伝えることが主流となった。写真で外国に伝えるというのは絵画でも世界的評価ができるからいい。詩は言葉のみだからむずかしいのだ。言葉ほどむずかしいものはない、特に詩はむずかしい。だから一般的に詩で伝えることはむずかしくなる。
旅行でもそうである。一枚の写真の方が詳細に細部を記憶していて訴える場合がある。
最近いろいろ整理していて写真でもそうだった。一枚の写真のもっている価値が旅では大きい。
ええ、ここどこだったのかとかこんなところに行っていたのかと思い出す、他の人の写真の価値が落ちるのは自分がその場にいなかったからである。自分の写真はその写真だけではない、その場にいたからその場の雰囲気から見れるから他人がとったように一部をきりとったものとはならない、そこに写真の大きな意味があった。他人の写真はビデオはどうしても感動しないのはその場にいなかったからである。自分の写真はその場にいたということが大きな相違なのである。

それにしても人間は忘れやすい動物である。次々に事が起こり忘却されてゆく、こんなに次々忘却されていいのかと思う、政治でもそうでありゆっくり記録される時間がない、何でもスピ=ドが早すぎるのである。車にのっていて新幹線でも記憶されない、歩いて自転車で行った時は記憶される。
それは雨風に打たれるから記録されるのだ。自然が体に刻まれるから記憶されているのだ。
つまり体に記憶されているのである。


北海道には十回も行っているのだから回想すれば思い出すものがある。それでも今や良く思い出せないのが多くなった。何十年前となってしまったからである。自分の場合はゆっくり旅しているから記憶されているものがある。そこで思い出してなんとか詩を書いたりしているのだ。その時デジカメがなかったから記憶されているのが少ない、今なら記録の面では格段の進歩をした。記憶というのは意外と大事だった。歴史は根本的に記録である。津浪のことでも400年前に同じ様な大きな津浪が相馬でもあった。それが一行しか記録されていないから誰も注意もしなかったのである。ところが今回のように生々しい映像として残されれば違っている。あまりにも生々しいから口伝えや文字で伝えるのとは違っている。その伝わり方は違っているからこれからの津浪は違ったようにみる。これまではあんなに生々しく記録されていなかったからだ。そういう点で将来への影響は大きいのである。


北海道では最初に20年前でも自分はいち早くビデオカメラを買ってとっていた。ところが写りがかなり悪いからぼやけている。でもそれすら貴重なものとなっている。記録は貴重なものなのである。
この辺では右田の松原が津浪で消失した。その一部の写真がホ-ムペ-ジの方に残っていた。いろいろ書いたから自分でも何がどこにあるのかわからなくなっていた。インタ-ネットは意外と消えない、本の方が消えなようでも本は書店に置けないし図書館に置いても全国の人は見ない、インタ-ネットは誰かがみるということがある。ただインタ-ネットの問題は見れた、読まれた感覚がない、アクセスを解析していない、ホ-ムペ-ジの方はそうなっているからあるのかないのかさえわからないような状態になっている。プログの方はどのペ-ジが読まれているから解析しているからこれは読まれたとか多少反応はあるとそれでみている。ともかく一度書いたものを整理する必要が出てきた。量が膨大なので整理すること自体大変である。

ともかく北海道は草原、原野、湿原の原初の状態が残っているからそこにあるのは野生の跡だけともなる。そういう世界は北海道にしかない、そこが魅力なのである。防波堤のない自然のまま砂原の海岸が延々とつづくところがサロベツ原野辺りにある。
あういう場所は本州ではないが津浪で原初の自然状態に帰ったのは驚きだった。

2012年07月04日

南相馬市鹿島区右田浜の消えた松原の貴重な写真



南相馬市鹿島区右田浜の消えた松原の貴重な写真

migimatuuu11.jpg

この道のまっすぐ行った所の家は消失した

matubbb3333.jpg

mihimatu2222222.jpg

karasuhamaaaa333333.jpg

これは火力発電所ができるまえの烏崎である。
この家が全部なくなった。


manokawa11111.jpg

これは真野川河口である。
河川改修する前の真野川河口で自然の状態があった
yakushidou11111111.jpg

これは河川改修する前の薬師堂への道である。
薬師堂は移動して残っている。
これも故郷の記録としてあった。


注意

クリックすると拡大して鮮明に見えます

他の写真も縮小してぼやけてみえていました

クリックすると鮮明に見えます



右田浜の松原が消えてしまったことは今でも信じられない、長年親しんできたしあの松原も百年くらいあったのか、それが一瞬にして津浪で消失した。こんなふうになるのだったらもっと記念に写真とっておけばよかったと思った。名残りを惜しんでいれば良かった。
右田の松原は松がそれなりに太くていい松原だと見ていた。松川浦の松原は松が細いのであまりいいと見ていなかった。ともかく今や松原を思い出すのは頭の中と写真しかない、写真がいかに貴重かわかる。記録として貴重なのである。烏崎の村は全部消失した。この写真は火力発電所ができるまえの自然のままの光景のときとっていたのがたまたま残っていた。今になるとこういう写真がいかに貴重かわかる。なぜならこの写真に写っている烏崎の家は全部なくなったからである。この写真をとったのはすでに30年前とかなのである。あの頃からよく自転車で原町に高台の道を通り行っていた。あの時は火力発電所がなかったから自然のままの砂浜が残っていたのである。その砂浜の写真はとっていなかったのが失敗だった。


他の人も写真をとっていたら貴重である。右田浜からまっすぐの道の北右田の家は消失した。
これも貴重である。他でもいい松原が消失したから思い出すのは写真くらいしかなくなった。

posted by 老鶯 at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年07月05日

なぜ今本が問われるのか? (電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


なぜ今本が問われるのか?

(電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


●本の歴史は文字の発明と共にはじまっていた


今本について盛んに書かれるのはなぜか?それは本に変わって電子書籍がというときパソコンとインタ-ネットによって本とは何かと問われたからである。本が何かなど今まで問われることはなかった。本の歴史は実際は文字の発明からはじまったとすると何千年にもなる長さである。楔形文字を粘土版に印されたときからはじまっている。文字の発明は商業と密接に関係していた。なぜならアルファベットはフェニキア人から発明されたというときまさにそのことを物語っていたのである。貿易のために簡易な共通の文字を必要としたから生まれた。その前に楔形文字があるけどそれも砂漠地帯では商業が古くから起こっていたためである。エジプトのヒエログリフは多少違っていた。それは広く共通あものとして発展しなかった。エジプト国内でしか使われなかった。それは王の年代記のようなもので商業のために異民族との貿易のために使われることはなかった。文字はフェニキア人のように異民族との商業のために共通化したものとして広まったのである。商業が世界のル-ルを作ったというとき基本的に異民族で共有する文字が必要だった。それがアルプァベットであり世界的共通の法律を作ったのである。世界的ル-ルが商業が作ったと前に書いたように文字もそういう面があったのだ。
アジアがなぜヨ-ロッパのような広範囲な共同体を作り得なかったというとやはりアルファベットのような共通な文字が作られなかったことにもある。


外国旅行するとアルプァベットの国は字を読むのにわかりやすいからいい。なぜなら音からは聞き取りにくいからであく。アルプァベットだと一応読めるということがある。中国で漢字を書いてなんとか意思疎通できるのもそのためだった。発音からは全くわからないのである。漢字はむずかしいのだけで中国というと一つの世界だから漢字を通じてアルプァベットの役割を果たしたということがある。それは日本でも文字がないとき漢字をとり入れたのと同じである。漢字を通じて世界化したのである。ただ漢字はむずかしいので世界化しなかった。英語が世界化したのはアルプァベットだったからである。日本がアジアの中でいち早く欧米化したときやはり日本語だけでは訳せない、漢字でもって約したというときやはり漢字にはそれだけの文化があったということである。例えばアイデインティティというのはどう訳していいかわからないものである。これは合一とか訳せばわかりやすくなる。合一というとコミュ-ンともなるがアイデインティティも自然にアイデインティティを見いだして同一化して合一することにある。合一という言葉は大和言葉では現せない、そういう言葉の応用ができたのが漢字だった。それで欧米化したものの翻訳を漢字でしてその漢字を中国では利用している。革命というとき中国ではもっとも頻繁に使われるが日本人が漢字から発明した言葉だったのである。


世界的には商人が世界のル-ルを作った
http://musubu.sblo.jp/article/56454399.html

●本が問われるのは車社会になり歩くことが見直されるのとにている


今なぜ本が問われるかというときそれは文字の電子化という発明が今までにないものだったからである。ワ-プロからパソコンで書くことがあたりまえになっているけどこのこと自体相当な革命だった。つまり活版印刷が発明されたと同じほどのそれ以上の革命だったのである。そのことがまだ良く理解されていないのである。インタ-ネットとかで文章を出しているけどそこでは素人でも別に大作家だけではない、簡単にいくらでも文章を出せる、それがゴミとしても別にゴミにならないというのも不思議なことなのである。無尽蔵のことがインタ-ネットでは蓄積できるし誰でも書けて発表できる世界なのである。何か書いて発表すること自体、紙を利用している時は選ばれたもののすることだった。今でも本とか雑誌とか新聞とかそういう媒体を利用できるのはほんの一部の特権者なのである。ロ-マ時代は紙はあまりにも貴重なものだったから作家がいても紙を所有している人が紙を提供している人が実権をもっていた。作家はただ紙を提供してくれるものに書かせてもらうというだけであった。何ら収入はそこにはない、これは現代でも出版できるのは出版社や新聞社の許可を得たものしかできないということと同じなのである。それだけコストがかかりすぎるからそうなっているのだ。


そして本と電子化された世界とはいろろいな面で相当な相違がありそれが本とは何かと問うようになったのである。奇妙な話だけど人間が車社会になり道路を歩かなくなったとき歩く世界がわからなくなったということを何度も書いてきた。歩くことから生まれた情緒性が失われた。江戸時代の浮世絵などは歩くということなしに鑑賞できない、自ら歩かない時代にはその情緒や文学も絵画も鑑賞できないのである。歩く時代は橋一つとっても人間と一体化していたのである。今でも歩いて見えるものがあり歩くことにより実際は五感が働き見えるものがある。歩くことと自転車では違っていても歩くことに近いから自転車だと見えるものがある。そしてどういうわけか自転車を乗っている人とは親しくなりやすい、車に乗っている人とはあまり話しもできないということがある。車が人間社会を根本的に変えてしまったのである。そもそも歩くことは人類が生まれて以来歩くことなしでありえない世界だった。その歩くことをふりかえり問うなどということも考えられなかったのである。

それと同じことが電子化されたインタ-ネットの世界で起こっているのである。車社会になって失われたものは余りにも多い、それは情緒的な面として人間の根幹にかかわる面で変わってしまった。例えばかえって過去をふりかえるとき牛とか馬を利用していた時代をふりかえるときいかに牛や馬というものに人間が影響を受けていたかということである。馬とか牛は人間と同じである。一つ家の中に住んでいて名前もあり家族と同じである。そういう感覚から情緒がはぐくまれていた。牛と一緒に暮らす働くということと機械を利用して働くことは根本的に違っている。牛は生き物だから牛の性質のようなものが人間に自然と伝わり牛とアイデインティティ化してくる。牛との合一化、アイデインティティ化してくるのである。だからこそ高村光太郎の牛の詩ができた。牛が心の中でも生きていた時代だから作れたのかもしれない、まだ車時代ではないからできた。戦前までは牛馬の社会だったからである。


●過去の牛と馬の役割とにている本の世界


昔の話で前に書いたけど上萱まで荷を積んで運んだ馬は暴れ馬だったけど力があるからあの坂を上ることができたという、馬にも暴れ馬がいて性質の荒いものがいる。野馬追いのときも実際はいろいろな馬がいる。御しやすい馬とそうでない馬がいる。馬には性格がある。牛はどうなのかというと牛は荷を運ぶには馬より便利である。なぜなら牛は道の草を食べるから馬のように飼料が必要でないから良かったという。それで塩の道で塩を運んだのは信州でも牛だった。牛はまた坂道にも強いから牛が荷を運ぶには便利だったのである。馬には注目しているけど牛はわからなくなっている。今では牛は牛肉であり乳牛の牛であり運搬している牛を知らない、牛肉の牛と運搬する牛は根本的に違っている。それでも飯館村辺りでは十頭もの牛に名前をつけて仮設住宅に住んでいる人がなつかしがっていたのは生き物だからそうなる。ペットが人間化すると同じである。牛との別れを家族のように惜しんでいるというのも相手が生き物だから情が移るからそうなる。機械だとそういうことはないから情緒的な面で人間は薄情になるともいえる。

こういうところに実は現代の人間が薄情化している原因もある。人間が切れるというとき車社会だとそうした牛馬と接することのない社会となっているという面もあるのだ。江戸時代との根本的相違はそうした環境にあったのである。江戸時代のモラルというのはそういう環境から農業基本の世界から作られていたのである。だからモラル的には安定していたのである。二宮尊徳のモラルもそこから作られた。今の時代にこの辺で二宮尊徳のことを言っても余りにも変わりすぎたので通用しない、現実に原発事故にどう対処すればいいのかなどわからないのである。人間は牛から学んできた。牛とアイデインティティ化してきて精神世界も作ってきた。老子が牛にのっている姿や牛は人間の精神のシンボルでもあった。そういうものが喪失したとき人間は根本的な所が変わってしまったのである。石のことを大分詩にしたけど牛と石は共通したものがある。忍耐性とか寡黙だとかでそうである。石で作られた建物と木で作られた建物はそもそも文明の相違にもなる。ヨ-ロッパと日本の相違はまさにそこにある、文明の相違となっているのだ。


本が何か問われているとき電子化によるインタ-ネット化によって問われているのは牛や馬がいなくなった社会とにているのだ。本は牛や馬とにた面があったのだ。電子化やインタ-ネットの意味していることは何か未だわからない、新しい技術は最初ただ便利というだけで受け入れる。でもその意味がわかるのはあとのことである。原子力にしてもこれが何なのか良くわからないけど便利だから効率的だからとはじめる、その安全性も確立していないのにはじめる、今回のように事故を起こして原発は危険だとかこんなことはやめるべきだとかなる。技術は便利だからそういう側面をみんなもっているのだ。ともかく本が何かと問われているのは何か過去の牛や馬の役割は何だったのだろうかと問うこととにている。何かそういう側面があったのである。

 


次回は本についての文学的考察をしてゆきます


プログはシリ-ズものがいい、次にどういうことが書かれるのか興味をもち読もうとするからである。これも本の世界とは違う。三国志をテレビでシリ-ズの番組を放送しているがあれは面白い。次がどう展開するかということで興味をもつのである。それにしても人を信用できないか、いかに相手もだますかということで絶えず疑心暗鬼になっている世界だった。だまされて殺されることが日常茶判事の世界で生きていたから過酷である。なぜならだまされることは即死につながっているからだ。
中国人はあういう過酷な世界に生きてきたということである。陰謀術数にたけてくるからとても日本はその点ではかなわない、平和だったということである。そして今の時代は金だけが頼りの疑心暗鬼の人を信用できない社会になってしまったとういことである。日本人のいい面は失われたから同じなのである。ある人は経済の基礎は道徳だといって日本人はその道徳が備わっているというけど今や違っている。金しか価値観がない道徳もない社会が現代の日本社会であり世界共通化しているのだ。
なぜそういう楽天的な見方になるかというとその人は犯罪にあっていないからである。犯罪にあった人は社会の見方が変わる、強盗や身内の殺人などにあった人は全く社会を違ったものとしてみるのである。日本人はかつての日本人ではない、全く金だけにしか価値を置かない日本人になっていることを体験しないからわからないのである。あらゆるところに金しか求めていない社会なのである。

2012年07月06日

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)


今なぜ本が問われるのか(2)

(インタ-ネットにはない本の特徴)

pagesun111.jpg
冬日さしペ-ジをめくる厚き本


●本をテ-マにした短歌や詩


瓶にさす藤の花ぶさ一ふさは重ねし書の上に垂れたり 子規


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本を読むならいまだ
新しいをきりはなつとき
紙の花粉は匂いよく立つ
外の賑やかな新緑まで
ペエジにとじこめられているようだ
本が美しい信愛をもって私を囲んでいる
室生犀星


タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ 明日はもう秋だ

ー西脇順三郎「秋」
lonecha11111.jpg

本に埋もれる老いの至福

寝ころびながら本をぱらぱらとめくる
自分が引用できそうな文をマ-クする
その詩に洞察に感嘆する
寝て座って立って所を変えて読む
時には廊下に冬の日がさして
分厚い本のペ-ジめくる
そのペ-ジに冬の日がさしている
随分この本も古くなったと
我が古い友のような本もある
我も古くなった本のよう老いる
何度も読んだ本は古酒のようになっている
夏の夕ぐれ日はまだ明るい
本は人類の知恵の宝庫
私は居並ぶ賢者と芸術家とともにいる
私は今やそうした歴史上の人物と対等
なぜなら即座に深く読める
その一文を自分の文のようにとりこめる
丁度オ-ケストラの指揮者のように
それぞれの楽器を深く理解できる
鑑賞力が増せば深まれば
その味わいはまるで違うものとなる
一なるものが十にもなる
くめど尽くせ知恵と美が本にあり
私の時間は至福に満たされる

lonecha11111.jpg
●物としての本と電子空間の本の相違


詩でとりあげたように本というのは電子本との相違はまだ良くわかっていない、本が何であったのかなどと問うこと自体それが電子の世界になったとき問われるようになる。本が最初は文字が作られたときからはじまったというときただ文字を印すものが煉瓦だったり粘土だったり竹だったりとしていただけであり紙に印されたとき今の本ににた形になってきた。本の前に文字が作られたことであり文字があって本がありえた。文字でも何か印されることによって残ることができる。すると木に印されるよりは石に記された方が後世に残りやすい、石に記されると何か文字に重みがでてくるというとき石の重みがそうさせているのだ。文字は別に何に記されても同じなはずだが石に記された文字は重みがでてくる。それは文字に重みがあるというより記された石に重みがあるからである。本でも装丁が美しく重い本だと中味もあるように思えるのと同じである。


鉛筆にバラモンのにおいがする・・・という詩でもこれは本にもあてはまる。紙の材質によっては紙の手触りから本を読むことはバラモンのような特権階級のように思えてくる。本は高いものがそういう感覚にもなる。文房具にこるのもわかる。筆がいろぽす発達したのはそのためである。本の世界はそれだけ特権階級的なところがあった。だから普通の人でも一生に一冊本を出したい、成功した人が大金を出して自費出版するというのが成功の証でもあった。それほど本というのは普通の人には高根の花だったのである。それを商売にしようとする出版社がふえた。今でも流通面では本は普通の人には書店に並べられない、でも本を作るのは今や素人でもパソコン上でもできる安上がりなものとなっている。本にもいろいろあり本の大きな価値は流通面にあった。本を作ることができても普通は流通はできない、大手出版社とかの許可がなければ近くの本屋でも置けない、そういう仕組みになっているのだ。だから情報が操作されるということがあった。原発の危険を指摘した本が隅に追いやられて何か特殊な奇人の空想的なものとして真面目にとりあげられていなかったのである。情報は権力あるものによって操作されている。それは本の世界でもそうである。

何故なら取次ぎなどは戦後アメリカが情報を検閲するために作られたのである。本と流通の問題は別なのである。グ-テンベルグ時代に本は簡易に作られ普及して流通したからこそ革命になったのである。その時代に流通した本は少ないにしても仏教寺院で修道院でしか仏典でも聖典でも読めない時代とはあまりにも違う社会となったのである。現代では逆に本は中世の写本のようにして残る。
装丁にこり一冊しかないような芸術品として残る。ただ中味は電子本で流通することになる。本とは普通の人には流通できないし本自体流通にはむかないので出版社も書店もなくなる。すると最後に残るのは本の芸術性を追求したものとなる。それは図書館に絵のように保存されたりする中味は電子本で読むのである。


●本と電子本との相違にまだ気づいていない


本とは何なのか?そう問うこと自体が電子の世界化、インタ-ネットで改めて問うようになった。だから本とは何かとなるとなかなかわかりにくいのだ。本は文字だけでなく物としてありだから材質にこだわったりする。物としてのフィテシズム、愛書家も生まれる。物だからそうなる。自分も本を読むというより本の蒐集家でもあった。20代から書斎をもっていたから恵まれていた。ただ若いときは本は集めても読んでも深く読めない理解できないのであるがでも相当集めた。郷土史関係の研究でもまず本を集めないとできないということがあったのだ。だからある程度手元に本がないと研究もできないし文章を書くこともできない。ものを書く人はどうしても書斎が必要だし思索の空間も必要である。それがわかったのは今まで狭い所で書き物して読書していたことでわかった。今は広い部屋で読書している。それで気づいたのが本というのは自然の外界の反映がある。インタ-ネットの空間にはそうした外界の自然の反映はない、分厚い本を開いたらそれで風がそよぎペ-ジがめくれたとか、冬の日がさしてきたとかない、ただ電子文字と写真やビデオの空間なのである。

このことは意外と大事だった。夏なので外がいつまでも明るいなと思って読書しているときその明るさは昔だったらその明るさが部屋の中に作り出されて書院作りができて障子ができて本も読めるようになった、書き物もできるようになった。襖とかでしきられていたら中は暗いからできなかったのである。電気がないのだから明るさは自然の光で自然の中でこそそうした本を読むとか書きものとかをすることができたのである。東雲(しののめ)はしのは竹であり昔の家は竹でできていてその篠の朝に上ってくる日がはじめにさすから東雲となったというのも家というのがやはり人間の中心にあった。知的作業にはこうして書斎とか家が必要なのである。そういうことは田舎ではしやすい。あとは庭があればいい、息抜きするためである。


平安中期から以降になるとさかんに書物を読むようになる。読むばかりではなくて昔のことですからそれを筆写しなければならない。そうするとこれはかなりの明るさをもたないとそれができません
しかも風が吹き込むような家では困ります。
そういう中から襖を薄い紙でもってはる、いわゆる明かり障子とういものが作られようになった
(宮本常一)


このように本というのは電子本とは相当に違ったものであり本とは何かというときそれが良く答えられないのはそのためなのである。その大きな特徴が本が物としてあるということなのだ。物としてあるから流通するには不便なのである。自分の家が本で傾いたというのはそのためである。本の不便さはいろいろある。本は手元に奥には限られたものである。すると知識も極限られたものとなってしまうのである。それは物だから置くには限度があるからだ。ところ電子空間では物ではないから無尽蔵に置ける、ゴミになっても一瞬にして消し去ることができる、それがかえって電子本は文字に重みを与えないものとなっている。電子の世界では書くということも違っている。書きながらキ-ワ-ドで書くことを追加したり書きながらアイデアが自然と生まれてくることがあるのだ。そういうふうに書き方も違ってきている。ともかくいくら書いても重さもないから誰の負担にもならない、誰の負担もかけていないということが不思議なのである。本一冊を流通させるには相当な負担がかかる、だからそれを商売にだけしにらうとするものは売れないものは扱いたくないとなる。こんな売れないものは置いてどうするんだとなる。でも知的なものの価値は誰かに何かを伝えるということでもあるから別な価値観を本の世界には知的情報の世界にはあるべきだったのである。それがインタ-ネットで開けたのである。


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本はこうして誰かが読んでいるものをまた読む、この本は誰かが使ったのだなと思ってよむ。しかし電子空間にはインタ-ネットには物ではないからそうしたものがない、電子本の世界には古本になることはない、物ではないから古くならないのである。本だったら必ず40年くらいすると表紙がはがれたり紙が汚れてきたりする。いんづれは読めなくなったりする。電子本にはそういうことがない、劣化することがない、でもソフトで読み出せないという恐怖がつきまとっている。一瞬にして消えるということがある。現実にレンタルサ-パ-でそういう経験をしている。復旧したから良かったが他では消えたらしい,そういう怖さが電子のインタ-ネットの世界には常にあるのだ。

本のことを語ったらきりがないだろう。それだけの歴史が本にはあるからだ。インタ-ネットの世界はここ十年とかしかないのである。だからインタ-ネット自体何なのかということもわからないのだ。ただ本は一か月で書店から消えるけど次々に別なものが置かれるけどインタ-ネットの世界では発見されないにしろそのまま残っている。一見消えやすいのだが記録として残りやすいのも電子空間だという不思議がある。いくら貯蔵しても検索で邪魔になるにしても電子空間では無尽蔵の蓄積が可能なのである。ゴミになるといっても週刊誌、新聞などはずいぶん紙の無駄だなとインタ-ネットとと比べるとみてしまう。過去の検索ができないのも効率的情報処理ではない、過去の記録を知ることも大事だからである。そういうことが紙の情報分野ではしにくいのである。どこかの書庫に図書館に貯蔵されていても見れないのである。福島市に巨大な図書館があってもそこを利用できないのだからないのと同じなのである。

2012年07月07日

夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩) (松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)


夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩)

(松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)

futagoshima111111.jpg

horayottu.jpg


クリック拡大!

linegreeeeen1.jpg

夏菊の窓一杯やバスの旅
夏菊や波光りよす朝の海
草原のかなたに光る夏の海
夏鶯松島湾の光るかな
苔むして岩屋の涼し松の影
夏の日に修行の僧の雄島かな
夏日さし杉木立の道苔映えぬ
松島の木蔭の深く板碑かな
四つの洞風の通りて涼しかな
外洋の風に夏日さし仁王島
船を追う夏の光に鴎かな
目印の山の遠きも夏の海

島いくつ浮かびし影や夏の月

itahiiiii11111.jpg

linewaves66666.jpg



砂浜に波よせひびき夏の日や雄島によりて遠き島見ゆ

亀島と鯨島かなのびやかに夏の波光り双子島見ゆ
早世の若君惜しみ建てにける青葉に映える御霊屋に来ぬ
月光りたゆとう波に松島の島影浮かぶ夏の夜の夢

仙台の青葉にそよぐ夕風や若き等ととも歩み帰りぬ

shimatukiku11111.jpg

linewaves11111122222.jpg



夏日松島


松島湾巡船
波揺光海鴎
瑞巌寺門入
杉木立影深
青苔夏日射
岩屋洞古墓


zuigannjiiii1111.jpg

雄島の松陰


穢土厭離欣求浄土 生死無常自証悟得


松島の岩窟に老僧一人
瞑目深く岩により
松風鳴りて煩悩を払わむ
身を浄めつつ祈りける
松清くして波静かなり
浄土夢見てここに朽ちなむ
松島に人は死なむと
遠き世の人の思いの
ここにこもりて深し
我の齢も尽きなむや
身を清くして仏を待たむ
来迎の島にして聖なりや
一場の夢の世は離るべしかな
波に静かにゆられにつ
鴨はよりあふ友なれや
月さし明るし松影に
眠れる魂の安からむ
津浪にも残れる松や
苔むしにつつ石の仏は古りぬ

ojimanatu1111.jpg
クリック拡大!

linewaves11111133333.jpg


昨日は仙台から松島に行った。電車で相馬まで行きここで15分くらいまって亘理まで行きまた電車にのりかえてと前よりは一時間以上時間がかかるからめんどうになったことと一日しか出かけられないから宮城県が行くのにはいい。仙台で買い物するのも楽しみである。松島に最近歴史的に興味をもった。そもそも松島のはじまりは古く中世であり鎌倉時代前から天台宗の寺があり3000人の衆徒が集ったという、供養の板碑も実に古い中世のものである。それが頼朝が平泉をせめてきたときここも滅ぼされたという、ここまで頼朝の影響があったのかと思った。つまり松島というと伊達政宗しか思いつかないのが普通である。ところがこれだけで松島を語ることは本当の松島を知ることにはならない、松島は相当に奥深い歴史がありそれを知らないと松島は知り得ない、自然的に風光明媚というだけではない、そこにはもっと奥深いもの霊場としての松島がありその証拠が岩窟で修行した天台宗の僧とかこの聖地で死にたいと集まって来た僧たちだったのである。ここにはだから雄島でも死体が骨となってたくさん散らばっていたというときまた発掘されるというときそれを物語っている。


見仏聖人とか言う人もいたことでもわかる。松島というのも今という時間しか見ていない、そして観光というだけで来ている。ところがここはもともと聖地であり祈りの場所でありあまたの僧がここで浄土を願い死んだのである。松島は特に中世からそういう場所として選ばれた。それだけ美しい場所だったためである。なぜ今そういうことが閑却されるか見えてこないかというと仙台の市街から近く住宅街が迫っていてそういう霊場とかの感覚にならない、気楽に観光に息抜きにアベックが行く所でもある。そういうふうに今はすべてが観光地化してしまったからそこが歴史的にどういう意味をもっていたかわからなくなっているのだ。そして観光地で浮かれて遊んで終わるだけになってしまう。それはそれでいいとしてやはり自然と歴史の奥義を究めることがそこに長く住んでいれば必要になってくる。

近くであればそれかできるがまた近くであるが故に見逃すこともありうる。灯台下暗しになるのだ。松島は今回の津浪で被害をまねがれたのは幸運だった。松もほとんど倒れていない、そして福島県から浜通りまで一つの海岸地帯で津浪の被害を受けて海沿いは一つの文化圏を共有している地帯だとも思った。福島県から宮城県から岩手県の津浪に被害にあった所が一つの地理的一体感を感じたのである。福島県では会津とは地理的一体感が感じられない、宮城県の海沿いの方が地理的一体感を感じる場所だったのである。仙台に頻繁に行くし通勤圏にさえなっているから余計にそうだった。
だから宮城県と福島県の歴史はクロスするし重複して見ることができる。これは山形県も岩手県もそうである。この辺を詳しく調べれば遠くに旅に行かなくても一つの世界としてみることができる。


この三つの県でも全体を歴史的地理的にみることはむずかしいのだ。これは地理に精通して全体的俯瞰的にみることがむずかしいのである。歴史になると古代から中世から江戸時代とさらに通観することはむずかしくなる。だから松島が聖地だということも鎌倉時代前から3千人もの僧が集まっていたなど知らなかったのである。その跡に瑞巌寺が建てられた。それは禅宗の寺だった。ただ伊達政宗の時代になると伊達政宗の菩提寺の性格が強くなり見張塔やら墓でも華やかな墓が御霊屋があり伊達政宗をお参りしている感覚になる。とてもここが寺なのかと思ってしまう。伊達政宗にお参りしている感覚になるのだ。江戸時代までは寺は武家に所属する菩提寺だったからそうなる。でも本来の宗教の場ではなくなっている。そういう矛盾も内包している複雑な場なのだ。そういうふうに歴史が積み重なっている場なのである。これはヨ-ロッパのロ-マとかどこの都市でもそうだがにている。ロ-マ時代からの歴史が重層的になっているのがヨ-ロッパである。20歳で急逝した期待された若君が死んだ御霊屋は実に立派であった。そこにはフィレンツの花の水仙とロ-マの花の薔薇が描かれていたのも
ヨ-ロッパ的である。これは支倉常長の影響だったとかヨ-ロッパ式になっているのだ。それでバラの園を裏の方に作っていた。これも寺としては変わっている。それなりに歴史があって作ったのである。

伊達政宗は京都の伏見で愛姫が暮らしていたし伏見城がある所で秀吉に仕えていた。政宗は仙台より京都の秀吉の伏見城で伊達屋敷をもち長くそこにも住んでいた。最上氏も伊達と並んで屋敷をもく地名として残っている。そういう歴史も興味深い、政宗はそうして全国的に活躍して世界的にも視野をもちヨ-ロッパのロ-マにも使者を派遣した世界的視野をもった英傑だったのである。ただ政宗が死んで殉死者が七人いて円通寺にその墓がある。こういうことでも政宗は信長と同じく神のごとくなっていた。信長は部下に殺されたけど政宗はそうではなかった。70歳とか生きたのである。ただ瑞巌寺でも円通寺でもそこは伊達政宗にお参りするのであり仏教の寺とは感じられなくなる。中世は霊場であり聖地であったから歴史を知れば違和感を感じるのだ。伊達政宗をお参りして成仏するということはないだろう。でも政宗が寺の御本尊のようにありその妻の愛姫も子の御霊屋もそうなのである。
ここはもともと霊場であり聖地だったとするとき


linewaves11111.jpg

 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)


この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」
と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途
次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に
思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とあ
る。


これは蕪村が松島の歴史を中世までさかのぼる霊場として僧が修行して死んだことを知っているからこの句を作った。もし知らなければ何の意味かもわからない。松島は死に場所としてもいい霊場として知られていたのである。松島で死ぬということは幸せなことだった。風光明媚な地で成仏することだった。でも芭蕉も蕪村も一回しかこれなかったのである。そこに現代との差があった。
ともかく歴史を知らなければこの句の意味もわからないのである。俳句短歌でも歴史を知らないと深く鑑賞できないのである。


次は円通寺の庭の俳句です


 

2012年07月08日

南相馬市でも原発に働く人が多かった (また福島第一原発で働く人に出会った)

 

南相馬市でも原発に働く人が多かった

(また福島第一原発で働く人に出会った)


今日もたまたまあった人は原発に勤めていた。津浪のとき誘導されて免震棟に避難した。その後も誘導されて避難した。原発で働いていた人はかえっていち早く安全な場所に避難した。放射能の危険も知っていたからである。原発で働いている人が近辺に住んでいたがそこの住人には何も知らせずいち早く避難したことで非難された。なぜ知らせてくれなかったのか、放射能の危険を知らせて一緒に逃げるようにしてくれなかったのか非難している。浪江ではスビ-ディのことを知らず一番危険な山の中の津島に避難して被曝した。海沿いの方に避難していたらそんなに被曝しなかった。それもスピ-ディを公表していればわかったことであるが知らされなかった。それで浪江町で東電や政府の過失を訴えている。そもそも放射能がどういうものかさえわからない、その対処方法も教えてもらえなかたっのである。ただ安全だ安全だとしか強圧的にしか言われてなかった。それはも地元の人たちもまたそうした強圧的な言い方に同調して安全神話は作られたのである。そして思った以上原発で働くかかわっている人が南相馬市でも多かったのである。偶然にしては多すぎる。


浪江-原発の下請けで働いていた
小高-前に原発で働いていた
原町-事故の時原発で働いていた
原町-大熊のス-パ-で働いていた


自分のような交際範囲の極端に狭いものでも偶然にあった人に聞いてみてもこれだけかかわっている人にあっている。大熊で働いている人は原発の町は景気がいいから仕事もあったために一時間通勤にかかっても働いていた。原発までは通勤で一時間だから通っていたのである。原発で働く人は回りでもかなりの人がいるということである。なにしろ給料がいいから働きたいという人が多いのである。火力発電所でも千人働いていたことには驚く。それだけの雇用ができる場だった。だから浜通りは会津などと比べて景気が良かった。特に今住めなくなっている警戒区域はそうである。今は棄民にされたとなげていなるけど事故の前はそうではなかった。そもそも隣の町が原発で潤っているということでうらやましがって隣の町も原発を誘致に賛成して補助金をもらうようになったのである。

そして原発で働いている人は東電を批判しにくいということを言っている。恩恵を受けているからそうなる。他でも東電に盛んに無責任にテロしろとか言っているけどそれができないのはやはり恩恵を受けていたからである。

実際に東電に働く人がどれくらいいたのか統計をとってみればほかりやすいだろう。そういうことかできなくても偶然にあったにしては原発で働く人が意外と南相馬市でも多かったのである。原発によって経済が回っていたということがあった。だから一旦原発を導入したらそのうまみが大きいからやめることができなくなる。双葉町でも富岡町でも原発を稼働させろと今でも言っている。


浪江・小高原発(南相馬市、浪江町)の建設計画の白紙撤回や、
新設電源を、すべて自然エネルギーとする定款変更
などを求めた株主提案は、いずれも否決された。


地元で反対してもまた原発作られるのか?地元の力ではどうにもならないのか?それほど原発の要求の圧力が強いのか?何とも解せないことである。小高にできたら南相馬市も事故があったら住めなくなるぞ、今だって住めなくなって避難している人がいるのにこれはどういことなのか?東北電力も原発なくしては電力を供給できない、そういう体質になってしまっている。東北電力だって完全に安全とはならないだろう。こんなところに住むのが怖いとなるし子孫だってそんなものがあったら安心して住めないとういことがでてきてさびれてしまうのではないか?今回は30キロ離れていたけど今度は20キロ圏内だから恐怖である。相馬市も30キロ圏内になってしまう。


ス-パ-に黒い三組が買い物していた。アフリカ系らしい。言葉からするとそうみえる。島商会で中古車を買いに来たらしい。島商会では「お客さん」と読んでいると勤めていた人が言っていた。島商会はあんなに高い所にあったのに津浪があそこまできたけど助かった。だから早めに復旧した。相馬港も復旧したからロシア辺りに中古車を出している。相馬港から出せるようになって便利になった。
浜通りだからそういう便利はある。漁業よりそうした貿易港になれば金が入る時代である。

posted by 老鶯 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月10日

原発事故の原因は技術的な問題の前に単純なモラルの欠如 (自国の防衛は自国しかできない)


原発事故の原因は技術的な問題の前に単純なモラルの欠如

(自国の防衛は自国しかできない)

原発事故の原因をいろいろ考察してきたけど人災とされたけど本当にそうだと思った。その原因は人災だったのである。ということは天災ではないから原発事故でも人間的対処で防ぐことができたということである。ヒュ-マンエラ-だとすれば防ぐ手段があったのだからそれを怠ったことによるのだからその非は津浪にあるのではなく地震にあるのではなく人間側にあった。


アメリカ側がマ-ク1という古い型の原子炉を日本に輸出した


アメリカ側のGEの落度をほとんどとりざたされないのは戦後日本はアメリカに負けたのだからアメリカの政府の支配下として出発したのだから日本はそういうアメリカの命令には従うという習性になっていたし強制されていたからアメリカ様の言うことには逆らえない、それは官僚でもアメリカの支配下から出発したのだから検察でもアメリカ側についているのだ。そこに原発事故が起きた一つの大きな要因があった。アメリカ側ではどうせ日本だし遠いから危険な欠陥商品の原子炉を売りつけてもかまわないという判断があった。結局他国になればどうしてもそうした考えになる。だからこそ自国の安全は軍事防衛だけではない、原子力のような技術的な問題でも自国を守るのは自国しかない、他国は責任をもたないということから出発しなければならない、食糧問題でもいざとなれば他国は日本を助けないという前提ではじめねばならない、現実にアメリカでは西海岸には地震があるからと原発を作っていないかった。地震がこれほど多い日本を考慮すればアメリカ側で危険だから輸出できないとなっている。マ-ク1は特に欠陥があるから危ないとなり輸出できないと良心的にはなる。でもその良心が麻痺するのはやはり利益優先になり金になるということであった。そして外国だから遠いし自分たちには安全は関係ないと判断して危険なものが売られたのである。

それを輸入した側の日本にも問題があった。自分たちの特に読売新聞社の正力松太郎が自分の野望のために原発を利用したのである。日本が地震国だということを無視して安全を宣伝したのである。
中曽根首相もそれに加わった。そこから原発が輸入されるようになった。最初に常に利益ありきということが問題を起こす、安全を言えば利益にならない、それで東電の清水社長はコストカッタ-としてのしあがりこれも安全よりコストカットとなり高台に決められていた地盤を削り取り低くして金をかからないようにしたことが命取りになった。企業が利益追求するのは悪いことではない、そうでなければ成り立たない、ただその前に必ず利益だけではない公共の利益追求問題になる。利益追求だけが先んじるとかえって失敗する。会社経営でも基本的な所でモラルに欠けると致命的になる。モラルなどめんどうだから必要ない、技術さえ優秀であればいい、ところが経営と技術はまた別なものである。経営とは何か人間的なものがあり単に技術の優秀さだけでは通用しないものがある。


経営者には何か良心的なモラルが要求される。東電にはそうしたモラルがトップにはなかった。モラルというときむずかしいものではなく正直さとか誠実さとかがなかった。再三危険を指摘されても応じずに事故は隠蔽されつづけてきたのである。権力をもっているからそれもできた。その権力が奢りにつながり大事故につながった。こういうこと歴史上いくらでもあった。権力をもつと必ず奢り独断的になり他者の言い分はきかなくなる。原発事故は原子力というむずかしいものだからその原因は素人には専門家でない人にはわからないと自分も思っていた。原子力が何かとなったら皆目わからないからである。でも事故の原因は極めて人間的なものだったのである。それも単純なもの正直でないとかそういうモラルにあったのである。アメリカ側も原発の危険性を隠しもうければいいということでモラルに欠けていたし日本側も一個人の野望から原発が導入計画されたことでもわかる。それは技術の問題ではない単純な人間的問題、モラルの欠如だったのである。


明治維新後に人間がモラルを喪失してただ金を追求する利益人間になった。それは職人気質というとき個々人が技術に励み人格が形成されていた時代とは余りにも違う。また狭い村の中でモラルが維持されていた時代とも違う。大会社とかで組織的に人間が生きるようになったとき人間の個々のモラルは喪失した。単純な正直であれよなどということは誰も教えられないまでも常識だった。でも今はともかく金になることがいいことだ金を追求することが第一となりそれがすべていいことだとなった。学問も技術もそのために利益追求のためにある。それで個々人のモラルも喪失しているから結果的に上にたつ人もモラルより利益優先になりそれで失敗したのである。経営で失敗するとき何か技術的なものだと思い込んでいるけどモラルの面で失敗している。


その人は技術的に優秀でも経営で失敗したのは人間的なものだったかもしれない、人間的にモラルや情とかそういうものの欠如から経営者になったとき事業に失敗した。基本的な常識的モラルさえない、借りたものは返さねばならないとか恩を受けたら返さねばならないとか今の人にはない、恩さえ感じない人間がふえたのである。金を借りれば返さなくてもいい、恩を受けても返さなくてもいい、もらえるものはもらえるだけもらえばいいとなっている。自分のあった人はみなそういう人たちだった。一人は大犯罪者だった。もらえばいいだけではすまないみんな盗ってやれとまでなっていた。それほどのモラルの荒廃が今は庶民の間で広まっているからすでに人間の社会はいくら技術がこれほど発達して原子力まで利用するようになっても単純なモラルが喪失しているからもう滅んでゆくほかないのかもしれない、たとえこれほどの高い技術をもっても人間自体はモラルもない野獣と化している。

だからこそ利益だけを追求するから欲望だけを追求するから事故になったのである。地元の人でも利益優先主義だからともかく安全より利益だとなっていたこともある。東電は技術集団でも権力をもっているから野獣化して横暴化する。謙虚さを失い他者の意見もきかない、何でも自分たちでできるんだという奢りだけになる。政府もそれに加担して歯止めがなされなかった。それは技術的な問題ではなく単純なモラルの問題だった。天下り先を東電が提供してくれるとか選挙では応援してくれるとか政治家も利益優先主義で監視できなくなっていたのである。これが社会全体が利益優先主義でありモラルの欠如からそうなってしまっていたのである。モラルがなくなるとき人間社会は破滅する。いくら高度な技術をもっていても破滅することを今回の原発事故は示していたのである。ロ-マ帝国の衰退もモラル的な問題、享楽主義とか何か誠実さとか正直さとかのモラルの喪失から滅びた。。


武士道がこれほど言われるのはやはりそこに武だけではない日本人のモラルの模範のようなものがあったからこれほど武士道を再興しろと言われる。日本人にモラルがない、仏教にも神道にもモラルは喪失した。かといってキリスト教のモラルももっていない、とういうことは日本人には宗教のモラルもないとしたらどうなるのか?日本は技術をもっていても野獣化社会になるしなっている。そのことを明治維新のとき武士道を基にキリスト教信者になった内村鑑三が言っていた。西欧化すること技術を導入してキリスト教を導入しないことは危険である。文明とは技術だけを分離して導入することはできない、西欧文明とはキリスト教文明だからと言っていた。日本は技術だけを便利だからと導入した。そこに落とし穴があり今日のモラルなき野獣社会が庶民まで普及して腐食させた。アメリカ文明でも民主主義でも自己の欲望の追求が民主主義とされたのである。仏教を導入したときは技術だけではない、仏教文明そのものを導入した。それが明治維新との大きな相違だった。いづれにしろ原発事故は技術的問題だけから起きたものではない、その原因には広範囲なモラルの欠如から社会の欠陥から起きたのである。

posted by 老鶯 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月11日

人が消えた飯館村の夏 (写真と俳句、短歌)

 

人が消えた飯館村の夏

(写真と俳句、短歌)

iwaaaaa22222.jpg

ashiharaaaaa111.jpg

葦が繁り草ぼうぼうとなった田んぼ

natugikuuuu11111111111.jpg
hanamichiii1111.jpg

緑濃く磐の反るや朝の鳥
三十ほど睡蓮紅し松一本
石一つ木蔭に涼し森の奥
夏の蝶旅ゆく道に死ににけり
飯館に古りし碑一つ菖蒲かな
人消えてヨシキリふえぬ飯館村

鳥の声万緑に木霊し日は暮れぬ

suirennnmatu11.jpg

この辺までクリック拡大!

iidatekohi111.jpg

natuchou1122.jpg

蝶が死んでいた

hotarufukurooo111.jpg

onetree11111.jpg


朝日さし藪甘草のここに咲き我が喜びてまた来たるかな

飯館に蛍袋のまだ赤く色づかぬかもまた我が来たらむ
街に出て夏菊の家に明るしも人住まぬ村淋しかりけり
夏菊の咲きつづくや燕のみ飛び交い行き交う車かな
飯館に葦の茂りてヨシキリの住みつき人の住まずなりにき
ヨシキリの声のみ高くひびきけり人住まぬ村陽差しの強し
道の辺の一本の木影なして村人帰る待ちにけるかな
家に入る道を装う夏の花華やかなりしも人は帰らじ
この道に我がもの顔に歩けるは猿の群れかな人は消えにき
人も来ぬ池に咲きにし睡蓮を松見守りて夕暮れにけり
夏草を踏みしたずぬは我のみや木蔭の深く石は動かじ
大きなる鳥の隠れる夏の森茂みの深く人住まぬ村

koudhiishi111.jpg

ushisestone.jpg

牛の背の石である、この石は飯館村の象徴的石になった
本当に牛の背とにているのだ。

koudhiishi111.jpg

これは子牛の石である

kameishi111.jpg

これは亀石となるのか?面白い形である。

suirennnntanka.jpg

あいの沢にはひっそりと睡蓮のみが咲いていた

 
クリック拡大!



飯館村に大倉から行った。草茫々となり葦が茂りヨシキリの声だけが高くひびいていた風景も不思議である。何か自然にもどったというより荒れ果てたという感じがする。草茫々の中に空家がある。
ただ飯館村で救われているのはまだ幹線道路は通じているしひっきりなしに車が通っている。ガスリンスタンドだけが営業していた。自由に出入りできるから死んだ村とも違う。浪江とかは警戒区域で入れないから死んだ町、ゴ-ストタウンになってしまった。人が入れれば違う。人が一人でも入れれば死んだものとはならないのかもしれない、あいの沢も草ぼうぼうになっていて道は苔で青くなっていた。そこには睡蓮がひっそりと咲いていた。大きな石がある所にはやはり石はどっしりと動かない。あの石は牛に見えた。牛の背中に見えた。いい石たとつくづく思った。牛の村だったけど今や残ったのは牛の石である。牛の名前を書いて十ほど仮設で偲んでいた人がいた。


飯館村はあいの沢でも7から8マイクロシ-ベルありなかなか帰れる算段がつかないだろう。やはり高すぎるのだ。老人は帰れるというけど姥捨山になると老人が言っていたことがわかる。店もない、もともと病院もないような所でどうして住めるのかと思う。食料くらいは運んでくれるかもしれないがていのいい姥捨山になることは確かである。でも帰れないとなるとこれからどうするのだろうとか心は毎日揺れているだろう。そしてだんだんもう帰れないのか、では他でなんとか生活をしていこうという決断する人が増えてくるだろう。他で牧場を浪江の人と組んではじめた人がそうだった。いつまでも中途半端な状態ではいられないと決断したのである。


いづれにしろ人の住まない村の風景は何なのだろうと思う。飯館村の町のところにでると夏菊が光を受けて明るく咲いていた。しかし人は住んでいないのである。人が住んでいてこそ花も映える。自然のままでも映えるがもともと人が住んでいて映えるものがある。家までの道に何か花のようなものが咲いていた。しかし人が住まなければその花も死んでしまう。一本の樹でもそれは人間化した樹であり村人が帰るのを待っている樹なのである。ただもともと森が深いからその森がさらに深くなり大きな鳥がその森に隠れてしまった。それは自然にもどったという感じになる。全体が自然にもどればそうなる。猿も道にでてきたけど人が近づいても恐れない、人があまり来ないから恐れなくなっているのだ。


川俣まで行こうきしたが行けなかった。日ざしが強かった。体力もなくなっているし電動自転車の電池もきれるから行けなかった。途中月館に行く別れ道に文化の古い碑があった。飯館村ではなかなか江戸時代の墓とか見つからなかった。ここに江戸時代のものがあったなと注目した。飯館村は江戸時代から相馬藩の山中郷としてあったから古いのである。ただ墓に江戸時代のものがみつからなかったのはやはり新しい人の方が多いともいえるのかもしれない、それにしても草ぼうぼうとなり葦が茂りヨシキリの鳴く声が高くひびいている光景は不思議である。あのような状態がいつまでもつづき人は帰ってこないのだろうか?飯館村は放射線量からするとかなり深刻である。栃窪に出ると人が住んでいるけど田畑は草茫々だから同じである。相馬市に出ると田畑も普通であり何ら変わりない、津浪の被害地帯は同じである。いづれにしろいつまでも仮設にいるわけにはいかない、これからどうするのかそれぞれが決断が迫られる。住み続けるのか他に住む場所を求めるのか迫られる。この辺だって小高の人が仕事もなく居すわることはできない、小高に帰る他ないとなる。一部原町鹿島に家を建てて住むようになった。でも大方は帰る他ないのだろう。

]
俳句というと写生で追記をしてきたが「三十ほど睡蓮紅し松一本」というのは写生そのものだった。30くらい紅い睡蓮が咲いていてあそこの幹線道路は車がまだ行き来している。まだ死んだ村ではないのだ。道がだけは生きているのである。あいの沢は人は全くこない、たずねたのは自分だけだったのも不思議だった。蛍袋はまだ色づいていない、蛍袋が色づくときは梅雨の時期なのでなかなか見れない、人の住まない村に灯火のように蛍袋が色づき咲くというのも不思議である。


morinoieeee111.jpg

jyosennnn111.jpg

除染しているのは大成建設だった

kagawaaa111.jpg

キクチス-パ-に止まっていた車
香川県からも来ている。
福島の原発の作業には九州からかなり来ていて磐城の歓楽街がにぎわっているとか
まだこの辺もそうした人たちが来ている。


飯館の村の部をカテゴリ-にまとめた
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

飯館村の部をカテゴリ-にまとめる


飯館村の部をカテゴリ-にまとめる

飯館村の部をここにまとめました、今はここでまとめて読んでください
あとでこちらにも追加します
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年07月12日

相馬市の病院へゆく (この辺の福祉の問題など-やがて施設も病院も入れなくなる)


相馬市の病院へゆく

(この辺の福祉の問題など-やがて施設も病院も入れなくなる)


老鶯や鯉ゆうたりと小泉川


今日は相馬市の病院に行った。手術の日が決まった。施設に家族もあづけられる。手術自体は2,3週間でありたいしたことないみたいだ。でも手術だからそれなりに大変だということがある。ともかく介護していて介護する人もいないのだから何でも大変なのである。介護して一人は死んだけどそのために病院にも行けずに悪化させたのである。幸い癌とかでないから助かった。体力的には落ちてない、普通の生活ができる。老人をみていると歩き方でわかる。歩き方をみていればこの人の体力がどれくらいかわかる。老人は見た感じでわかるがそれは歩き方と姿勢なのである。ぴんと背筋が張ってすいすいと歩いている人はまだ老人には見えない、例え白髪でもはげていてもである。ところが歩き方を見ているとやっと歩いているような感じの人は年だな、老人だなと見てしまう。自分は歩き方から老人には見えないだろう。すいすい歩けるし背筋も張っている。姿勢は悪くないからだ。それでも介護保険を納める年齢になっている。60代とか個人差が大きくなる。十歳くらいは違って見える。

60以後は年に関係なく歩き方を見てその人の体力の度合いを計るといいかもしれない、やっぱり人間は歩くことが基本なのだ。歩けなくなったら途端に老いてしまうだろう。

30年一人暮らしている相馬市の老女がアイネットのことを言っていた。緊急時の連絡のシステムである。その女性は福祉関係で無料で入っている。隣近所は全くあてにならない、都会と同じだと言っていたことは自分もつくづくそうだと思った。ちょっとしたことも頼めない、隣近所は無縁化している。頼りになるのは福祉サ-ビスでありここが機能しなかったら例え何なろうが隣近所は放置される。
死んでいてもわからないだろう。これは田舎でもそうであり社会自体がそうなってしまったのだ。

だから福祉サ-ビスが機能しないと悲惨なことになる。「おにぎり食いたいと・・・」と言って生活保護を受けられなかった人が都会で死んだ。昔だったら隣近所に言っておにぎりくらい食べさせてあげたろう。貧乏でも米をわけあったとかある。それが今の時代は全くなくなった。だからこそおにぎり食いたいと言って死んだのである。誰もおにぎり一つあげることもできなかったのである。そういう社会になっているということなのだ。隣近所は本当に無縁化してしまったのである。
ただ金があればアイネットとか隣近所の役割をするサ-ビスを受けられる。これもまたまさに隣近所が全く無縁化しているからこそ商売として成り立つ、そういうサ-ビスが仕事になるのもまさに現代を象徴しているのだ。何でも金を通じてサ-ビスを受ける社会なのである。だから一面金のない人はこういう社会ではさらに無縁孤立化してゆくだろう。ただ金だけでは何もできるわけではない、それは自分が痛感した、近くだと思って頼んだら犯罪にあった。もう金しかその人は求めていない、その現実に唖然としたしこれが現代社会なのだと痛感した。それは田舎でも都会と同じなのである。
農家辺りではまだ多少は隣近所は違っているかもしれないが街内どこも同じである。

不思議なのは隣近所でも何か困っても「福祉関係に頼んでください、民生委員に頼んでください」で終わりである。家族が認知症になったときも誰もかかわらなくなった。ただ病院に入ったとき看護師などがかかわってくれたのである。施設に入ればかかわってくれるのが現代であり隣近所は全くかかわらない時代である。それでもこの辺では福相とかの会社で募集しても人がこないとか働き手が流出していることが深刻な問題となっている。病院でも看護師、医者がたりないとか介護関係もたりないとかそういうことが深刻になってくる。

だからみんなが「福祉に頼んでください・・」というときその本人もそう言われる。重篤になったらやむをえないにしろちょっとしたことも頼めないのである。金がない人は特に苦しくなるはずである。金がないなら助けてやっても損なことはないのだ。打算的にしろ恩を与えることでもいい、人は助けて損になるはずがないのだ。何も得られないにしろ損にはならない、重篤になっている場合は別である。ついで買い物してやるとか留守だったら家をちょっとみてやるとかである。そういうことすら頼めないのが現実である。人によるにはしろそういうのが現代社会であることはまちがいない。

ともかくこの辺の状態といろいろと深刻である。自分は住むところがあるからまだよかった。他の人は飯館村でも住む所を奪われたし一体これからどうしていいのだろうと途方にくれているだろう。

津浪の被害にあった人もそうである。岩の子で津浪の被害にあった人がいた。塩害で田んぼがだめになったとか聞いた。様々な負担がのしかかっている。だから自分たちのことで精一杯だというのもわかる。そして若い人が流出することはこの辺ではいかに深刻なのことかまだ自覚していない、老人とか高齢者や病人ばかり残されことになる。その時「福祉の方に相談してください」だけでは解決しえなくなる。それだけの余裕がないし病院だって重症の人すら早めに出され自分で食事の用意すらできないような人が病院から出されていることが放送された。そううい時代になってくる。「福祉で頼んでください」で解決すらならいい、その福祉への期待が崩れることがあるのだ。だからなんだか三年も胃ろうで病院に入っている人などが増えてくるとそのあとに入れことができなくなる。そういうふうに病院でも施設でも手当てしているとあとにつかえるものが困ることにもなるのだ。いいところで死んでもらわないともうあとがもたないという事態になりつつあるのだ。とにかくこの辺ではこれから病院でも福祉関係でもまともなサ-ビスが受けられなくなる可能性が強いのである。そういう自覚にまだ欠けているからのんきなことを言っている、今度は自分の身にふりかかてっくる。


今やここに残り暮らすことは今までとは違っている。何らか互いにここに残るために協力するとかそういうことが必要になってくる、在宅介護だってもう施設に入りきれない病院ではめんどう見切れないからそうなっているのだ。だから隣近所の無縁化社会はこれに拍車をかけるから「おにぎりください・・」と言っても誰もくれない、餓死してゆく人が増えてくる。だから最低のセ-フティネットで現物を供給する場を作るのはいいかもしれない、アメリカではそうしている。生活保護だってふえる一方なのだからこんなことつづくはずがない、限界がきているからだ。ともかくこの辺ではまともな福祉サ-ビスも受けられなくなるかもしれないからそういう自覚をして残るほかないかもしれない、でなければ福祉サ-ビスのいいところに金ある人は移るほかない、都会の年金生活者は福祉サ-ビスのいい市に移住しているのだ。つまり現代は金があれば移住しやすい社会である。だからこそ若者もこんなふうな状態になるとこの市長村はもう未来がない、こんなところで暮らしていてもいいことはないと移住する人がふえてくるのだ。そして残されるのは老人とか病人とかばかりになる。でもそれを補佐する福祉が維持できるかと言ったら若い人がいなくなるのだからできないのである。


小泉川の所は情緒があり鯉が泳いでいるのがいい、相馬市は駅前から開発などしない元のままの街だった。そこが原町と違っていた。細い路次が多く城下町の名残がある。

posted by 老鶯 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年07月13日

最近アマゾンで買ったもの(ニッチなものが売れる) (情報は連鎖して買いものもある時代)


最近アマゾンで買ったもの(ニッチなものが売れる)

(情報は連鎖して買いものもある時代)


最近買ったもの


アマゾンの電波時計 1800円
citixonnnclock.JPG


電波時計だから時間をあわせる必要がない、温度計とアラ-ムがついている。アラ-ムは最初ピッピッピッ・・・と単調になりづけ今度はピピピピと激しくなり続ける。一様な音ではないのがいい、だからこれは小さくも目覚めやすい、持ち運びにも便利である。1800円では安かった。


36GBのUSBメモリ- 1600円


これも安いから買った。それほどいいものではない、近くの電器店では倍以上している。


みちのくの都 多賀城・松島 (よみがえる中世)

chuuseibook.JPG


見逃していたのは岩切が重要な中世に栄えた要所だったことである。奥大道の要所だったから歴史が積み重なっていたのだ。それを見逃していたのである。この本も知らなかった。仙台のこうとう台公園の近くの喫茶店をかねた古本屋に置いてあることをインタ-ネットで知った。でもアマゾンで安く買えた。これも情報の連鎖で買い物しているのである。ともかく岩切には一回行ってみる必要がある。


岩切について
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/panfu/pdf/53.pdf


この年になるとあらゆるものの整理になる。人生自体が整理になる。本も整理することになる。こんな本読んだなとか読み返している。これはこういうことだったのかと深く読める。意外と本は何があるかわかりにくいのだ。そして地方では本は買いにくいものだったのである。今はアマゾンで古本でも何でも買える、アマゾンでないと買い物がかなりあるからアマゾンを利用する人がふえたのである。ただ余りに高いもの大型のものは買わない方がいい、軽いと思ったバッグが形は良かったのだか重かったとか手にとれないので失敗する場合がある。だから一万くらいまでの買い物に向いているのだ。椅子などでも大きさや座り心地まではわからないのである。

ともかく本も整理になるが人生そのものが整理になる、こんなことしたとか、過去をふりかえりその意味は何だったのかとか必ず反省する。その時人生とはこんなものだったのかと誰でも覚らされるのである。

自分の場合は変わったいたにしろ家は余りにも居心地が良すぎるところだったのだ。二人の女性が仕えていたし何不自由がなかった。今思うとつくづく楽だったな幸福だったなと思いかえす。その期間も実に長すぎたのである。今になってそれがすべて反転した。自分をみてくれるものは一人もいない、これも自業自得だった。人間は何であれ結局自業自得である。借金で苦しんでいる人は本当は自業自得である。金がないのに金を使っているからそうなる。病気すら自業自得なのかもしれない、酒を飲み無理をしていたら必ず年取ると体に影響して病気になりやすいのだ。これはすべてとは言えないがそういう傾向は一般的にある。不摂生の結果として病気になってくる。

原発事故だってこれも地元の人にも責任があり自業自得だと他から言われるのも一理あり否定はできない、原発で利益を他よりも得ていたのだから地元も悪いとなる。これは日本全体自業自得だともなる。そんな危険なものを放置していたのは国民に責任があるともなる。自分のようなものは自由に生きてきたのだから野垂れ死にしろと言われてもしょうがいかもしれない、それも自業自得である。本当は責任を他者のせいにするのは間違っている。いろいろ境遇があるにしろそうかもしれない、そして時間はもどってこない、後悔してももどってこない、青春などたちまち過ぎて遠い夢の世界になる。この世で一番貴重なものは時間でありその時間が一番消失しやすく取り戻すことができないのだ。だから青春を浪費したものは一生を浪費したともなる。


老人が一番欲しいものはとかキ-ワ-ドでくるがモノを欲しがっていると思っているが老人が欲しいものは時間であり時間で得られたものだったのである。時間など何もしないでも何をしてもすぐ過ぎてしまうのである。女性はたちつち老いて美貌を失うのも早い。それでも60代になっても化粧して男を求めているのが業なのだろう。実際は皺を隠しているが近づけば見える、若いときの姿はもうないのである。老人になるとこうした悪あがきがふえてくる。あきらめきれないのである。いくら若返ろうとしてもできないのである。老人はやはり心の方にその精力をシフトする、集中することになる。
外見はもうどうにもならない、ただ精神的に気品があれば体はだめでも美しいということがある。そういう美しさを目指すべきだったともなる。ともかく失われたときこそ千金の価値があったのである。

今日はむし暑い、こうなるとなかなか知的作業が進まない、頭を使うことが嫌になるのだ。こういうときは北海道が一番気候的にはいい、からっとしているしこうしたむし暑さがないからである。
posted by 老鶯 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

楽は苦のもと苦は楽のもと (文明の便利さになれた生活が原発事故になった)

 

楽は苦のもと苦は楽のもと

(文明の便利さになれた生活が原発事故になった)

何事においても厳しい環境にいた方が、次に楽になるし、
楽な環境に甘んじていたら、次にしんどい思いをすることになる。


楽は苦のもと、苦は、楽のもとだ。

今、楽だな、幸せだなと思っている人は、少し厳しい環境に飛び込んでみたり、
しんどい事をしてみるといい。


下の部屋に新しいク-ラ-があったからかけた。それで今度はク-ラ-をやたらしていいのかと考えた。原発事故でみんな考えたろう。ボタン一つ押せば電気が使える、その安易さが電気はポタン一つで使える、ク−ラ−でも使える、炬燵も使える、電灯でも使える、要するに楽をできるということである。電気があるのが当たり前の生活になっていた。電気がどうして作られるのか、それを身近に真剣に考えた人はいないだろう。電気はあるものである、そして未だに故郷がなくなるなどと考えた人があるだろうか?家族はそれぞれの事情でなくなったりするけど故郷までなくなるということが想像した人もいないだろう。だけどこの辺ではそれが現実化しているのだ。飯館村が草ぼうぼうになっている。人は住んでいない、あれはやはり異様でありこの辺も草ぼうぼうでも人が住んでいるし日常の生活はある。飯館村にはない、ぼうぼうの草におおわれてしまう。その現実が信じられないのである。
それは避難している人が一番感じている。毎日泣いているいうのもわかる。あれをみたら途方に暮れてしまうだろう。家が草に夏草に埋もれてしまう異様な光景だった。確かに家でもヘビの棲家にもなってしまう。なんとか車が通っている所は道が生きている。でも村は死んでいる。草ぼうぼうだから冬より荒れ果てた感じがした。


結局人間は本当に個人的にも楽は苦のもとなのだ。自分の人生をふりかえっても楽すぎたから今の苦がある。食事がいつも用意してあるから食事はいつも用意されているものだと思っていた。その期間があまりにも長すぎたのである。ほとんど一生の時間がそういうふうに楽だったのである。一時路頭に迷ような生活をしたがそれも一時期だった。あとは楽すぎたのである。その期間が余りにも長すぎたから楽であることが普通だと当たり前だと習慣化していたのである。だからそういう楽している人は苦しい状態になるとかえって苦しい状態に耐えられない、なぜなら楽が習慣化しているからなぜこんなに苦しまねばならないのかと常に思いつづけるのである。それほど楽な状態が当たり前になりすぎていたのである。それは今回の原発事故でも言えた。電気は楽のもとであった。電気はボタン一つで使えるものだ、楽ができるものだと思っていた。電気がどういうものかどうして作られるのか、どういうコストがかかっているのか?そういうことを真剣に考えた人は専門家でないかぎりない、電気はボタン一つ押せば使えるものだと思っていたのである。

原発がなくてもそもそも電気を作るのにはそれなりのコストがかかっていた。電気の元はもともとは石油だった。石油は中東からタンカ−で運ばねばならないもので金がかかるものだった。石油が供給できなければ車さえ使えなくなる。石油が欲しくて戦争にもなる。命より石油の方が大事になる。それが電気を供給して楽の元になっていたのだ。電気は実際は高価なものだったが意識されなかったのである。楽の元になっているものが意識化されないことが今日の原発事故の原因にもなっていたのである。もし電気を手動で水をくむように手で回すように起こしていたら電気を起こすことは大変な労力だと意識する。ところが電気はそういうふうに意識されないから電気について真剣に考えないのである。


双葉町の人だったか大熊だったとか原発よりロウソクで一家で暮らせる方が良かったと言ったことでもわかる。故郷を失い家族がばらばらになりそれが意識された。原発は実際は高価なものでありそのために支払われていた代価は実際はとてつもなく大きなものだったのである。原子力は魔法のように電気を作り出すものではなかった。原子力で発電することは知能的にもそうだし大変な労力がかかり危険なものだった。それは確かに楽を作り出すものだったが苦を作り出す元でもあったのだ。

つまり楽は苦の元だったのである。双葉町辺りでも貧乏で藁に寝ていたとか言っていたがその苦も実際は楽の元になっていたかもしれない、いくらなんでも藁に寝るようなことにはならない時代がきていたからだ。それが原発で豊かな楽な暮らしができると思って実際にそうなったとき来るべき苦のもとになっていたのである。今の暮らしは確かに苦しい、でもこの暮らしでもいつか楽になる、これよりはましになるとか働いていればそれなりの豊さがきづけた。原発のような恩恵はないにしても藁に寝るような生活になっていなかった。楽をするコストのことリスクのこと真剣に考えさせられないからそうなった。ただ楽になる豊になるということだけを各自思い描いていた、その楽になる元についてはほとんど真剣に考えなかったのである。そこに便利な文明の落とし穴があったのである。


文明はあまりに便利だからその便利さを供給しているものが何なのか真剣に考えられないのである。働く−ハタラク−が端を楽にするという意味なのは働いている人が苦しいのを見ているからそういう言葉が生まれた。電気には文明にはそうした苦しいということが見えないのである。物を運ぶにも江戸時代なら天秤棒でありあれで良くかついでいけたものだと今になると信じられない、その距離も長すぎるからだ。一キロくらいならなんとかなるが今だととても想像すらできないのである。馬でも牛でも荷物を運ぶことは大変な労力が必要だったのである。そういうことが文明が発達すると目に見えなくなったのである。庭作りして重い石を人間の力だけ動かしたことには驚いた。こんな力がある人がいるのかと思った。でも機械で石をすえればそうは思わない、機械の操作がうまいなと思ってしまうのでありさほどそれが苦労しているようにもみえない、でも実際は機械で石を置くのにも危険なことがあると庭作りの人が書いている。事故につながる場合もある。ただ機械だと機械の操作の方に目が向くのである。
文章だって前のように手書きだったら書くこと自体相当な苦労だった。今だったらパソコンでなれた人はすいすいと文を書けるのである。だからそこには機械の操作にたけていると見ていて苦労だとは思わないのである。

車が物を運んで苦しんでいるななどと考える人はいない、でもガソリンで走るのだからそのガソリンを得るのは実際相当な苦労をしている。それが見えないのである。中東の危険地帯を通らねばならないのもそのためである。あの辺にかかわるといつ戦争になるかもしれない、ある人はアルジェリアまで石油をとるための交渉に行っていた。石油を確保すること原料を確保することはグロ−バルでありそれが大変な苦労になっているのだ。文明社会はそういうことが見えない、いろいろなことが見えず物だけが供給さているのである。バナナとるのにも汗だくの労働だったとか日本人の若者が言っていた。でもバナナなんか安いから簡単に楽に手に入るものだ、いつもあるものだと思ってしまうのである。

ともかく個人的にもそうだが楽は苦のもとになる。快楽なんかも一見楽なものであるが逆に苦痛になるときがある。楽なことは明かに苦に通じている。自分の楽は余りにも長すぎた結果として今の苦がある。浦島太郎の龍宮城伝説などもそうである。美女に囲まれて楽していたらいつのまにか年取っていた。煙のように龍宮城は消えてしまったのである。ショ−ペンハウエルのように苦こそが現実であり楽は快楽でもそれは苦の元になる。苦はやがて楽の元になる。それが確かに人生だったとなる。

すると苦の人生も実は楽の元であり今日のような原発事故で苦しむことがなかったかもしれない、
あまりにも容易な楽な生活にひたっていると楽が当たり前となり習慣化して苦があることを想像すらできなくなる。だから金持ちが没落したり地位あるものが没落することはそれを受け入れられないからかえって辛いことになる。でもそういう浮き沈みは人生には必ずある。楽で終わる人生はないのである。それは今の原発事故でも同じだったのである。

posted by 老鶯 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月14日

モニタリングポストは必要だったのか (情報は原子力村に今も操作されている)


モニタリングポストは必要だったのか

(情報は原子力村に今も操作されている)
jyosennnn111.jpg
飯館村を除染していたのは大成建設



「強制的に下げられた放射線量の数値が全国に公表されている」――。20日の会見で、長谷川氏は、仰天の「放射線量改ざん」疑惑を暴露した。
「昨年11月末ごろ、国の除染モデル事業を請け負った大成建設の作業員とみられる10人ほどが、村のモニタリングポストを高圧洗浄機で洗い、土台の土をソックリ入れ替える作業を行っていた。その様子を複数の村民が目撃していたのです」

村の仕事を請け負った大成建設によるモニタリングポストを高圧洗浄と周辺土壌の入れ替えによる意図的に放射線量を低く見せる「改ざん」です。
 
放射線量は下がった、除染に効果はあるなどと宣伝し、飯舘村民を村に帰還させることが目的にあるのでしょう。
 
こうしたおかしなことが起こっているのは、経産省を核とする原子力ムラが飯舘村を直轄支配していると考えれば全て納得がいくことばかりです。
 
つまり、原子力ムラの思惑通りにならない村民を弾圧する、原子力ムラに都合の良いように世論をコントロールする、ゆくゆくは村民を帰還させ被曝実験のモルモットにする


飯舘村役場は、村民が自主的に行っている「見守り隊」の詰所に詰所内での政治活動・署名活動を禁じる文書を掲示したというのです。これは除染計画の仮置き場の設置に反対もしくは慎重な村民の声があったことを反映したもののようですが、

実は今、菅野村長の行くところすべてに付いて回っている経産省の官僚がいるのです。村役場でも、常に村長のそばにいる。そして、マスコミの取材の際もその彼が出張ってきて、あれこれと指示を出しているんですね。今では彼がマスコミ取材対応の窓口となって取材をさばくようになった」
 これでは、村長が村民無視で経産省の操り人形になっていても不思議はない。やっぱり国の放射能対策を信じてはダメだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/neverland20050918/28611235.html

 


公園など設置されたモニタリングポストあるけど本当にあれ必要だったのという疑問が地元にはある。なぜなら下の土をとりのぞけば低くおさ
えられるし別なところから土をもってきても放射線量は低くできる。つまり操作できる。だからこそ 大成建設の作業員とみられる10人ほどが、村のモニタリングポストを高圧洗浄機で洗い、土台の土をソックリ入れ替える作業を行っていた

これは国から命令されてそうしている。国では結局権力を持っているからこういうことを命令できる。作業員はなんでこんなことをしなければならないのかと疑問に思うだろうが仕事を国からもらうから命令に従わざるをえない、人間の社会は誰が権力をもっているのか?それを常に見ておかないとどうなっているのかわからないだろう。確かにどこが誰が権力をもっているのかというのはわかりにくい。政府だけが権力をもっているとは限らない、でもここから見えてくる権力とは何なのか?

それは明かに政府が意図的に放射線量を低くしている。飯館村の住人も言っているうよに何で公表される放射線量は低いのだろうと、今は放射線計測器をもっている人が多い。実際に計ってみればわかる。草野辺りでも5マイクロシ-ベルト以上は平均的にあった。森の辺りは7から8あった。またホットスポットもありそこは20とかあった。公表するのはあまりに低くされているのだ。村民を帰還させるためにそうしいる。放射能はたいしたことはないんだよとして村長を中心に村に帰還させるためにそうしている。政府の権力は大きいからその権力の下で住民はコントロ-ルされている。


権力を持つものは権力で支配する。当然情報も支配できる。マスコミも支配できるから放射線量を低くして公表する。ここで自分が問題にしたいのは放射線のこはわからないにしてもなぜわざわざこんなことをする必要があるのかということである。わざわざ土をいれかえるようなことをする必要はないのである。それをなぜ大成建設の社員が従っているのか?そこに権力関係が明確に現れているからだ。大成建設にしたら政府の命令に従わねば仕事がもらえない、それがこんなことして不正じゃないかと思ってもそうせざるをえない、そういうことはいくらでもあった。権力者集団の命令に従わねばとうなるのか、仕事は受注できない、会社が成り立たないとかなる。除染という仕事はこれも公共事業とにているのだ。何千億の予算がでる。

それで飯館村の住民はもう帰れないからその巨額の除染費用を賠償金としてもらえ他で生活をする計画を立てたいという要望がある。それは飯館村は帰れるような放射線量ではないとみんな知っているからである。一部の老人は放射能と関係ないとしても若い人が帰らないなら姥捨山になるから帰りたくないと言っている。ではなぜその除染費用を村民に賠償金として支払わないのか?それは大成建設とかに金を回すためなのである。そっちの方が国で優先されるからそうなる。なぜそういうことをするのか?そこに現代の社会が巨大な会社を優先させているということにある。会社は確かに国に従っているが国もまた大きな会社と一体であり飯館村のような小さな村より大きな会社の利益を優先するのである。東電でも東電の方が国より巨大化していたから保安院も東電に技術的にも知識的にもかなわないから東電のいいなりだったのである。だから国が権力があり会社が従うと言っても逆になっている場合もあるのだ。


大成建設とういうと創価が正本堂を建てたとき大成建設が受注して建てたのだ。その金は巨額となったから大成建設では創価の会員になったりしていた。拠点になった所は大成建設の社員の家だったのである。大成建設では社員まで公明の選挙活動までさせられていたのである。権力的には創価が上であり大成建設はその下になっていた。別に権力は政府だけがもつものではない、宗教団体でも労働団体でももっている。ただその権力関係は一般的に外から見えにくいから不正をしも情報を操作されてもわからないのである。原発の建設から事故が起きてからも常に放射線の被害を低くしようと隠蔽しようとする政府の力が働いていた。飯館村はそれで避難せずに被曝してしまった。その後も政府による情報操作がつづいているのだ。


南相馬市の400億円の除染利権と東大の児玉教授の関係。一押し企業が、利権獲得に大成功してて分かりやすすぎる


除染、除染というけどそんなに効果あるものなのか?なんかそれが除染利権となっている。放射能汚染地帯は会社の利権の場にもなっているのだ。実際に被害にあった市町村に各人にそうした金が回らずに会社に回ってゆく。それが現代の社会である。浪江町とかで政府を告訴しているというのもそのためである。政府が住民の味方となるとは限らない、政府が会社とか一体となり利権の場となり住民の本来の復興はないがしろにされる。権力によって住民の声はおさえられるのである。でも政府と戦うということは巨大な権力と戦うということにもなる。そういう覚悟も必要になってくる。

アフガニスタンの戦争の被害者と高校生が交流したとういのもわかる。故郷も土地も家も奪われた戦争難民と原発難民はにていた。自分たちの住む場所もない、家もない難民である。ただテントには住んでいないというだけである。こういう難民は他の土地に移っても歓迎されないのである。双葉町の町長が棄民と言ってだけど難民にされてしまったのである。飯館村は原発交付金などもらっていないから特に悲劇だったのである。


ともかくこの辺は極めて沖縄のような政治的な場になってしまった。政治が具体的に意識される場になった。それは政治にはかかわりたくないといってもそう強いられている場なのである。特に難民化した人たちは深刻なのである。一体自分たちはどうすればいいんだと将来のことを考えると深刻なのである。自分の場合はわずかに30キロ圏外であるからそういうことはないにしても影響が大きすぎるのだ。病院であれ福祉であれ教育であれ経済であれ影響が大きすぎるのだ。相双は一体であり経済的にはどのくらい縮小したのか?全体では3分の一とかに縮小したかもしれない、すると全体的に影響を受ける。縮小するということはそれは将来的にもそうでありその未来がないということでまた精神的にダメ-ジが大きすぎるのである。マイナス志向しか生まれないからそうなる。老人だけ取り残されたらさらにそうなるからだ。

posted by 老鶯 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月15日

旧相馬藩内の人口分布 (三分の一くらいに減った-原発難民は邪魔者にされる) 旧相馬藩内の人口分布 (三分の一くらいに減った-原発難民は邪魔者にされる)


旧相馬藩内の人口分布

(三分の一くらいに減った-原発難民は邪魔者にされる)


somapppppppp2222.jpg

浪江 19000
葛尾(かつろう)村 1400
双葉町 6000
大熊 11000
飯館村 6000
・・・・・・・・・
 合計 32400


南相馬市  67,000人
相馬市 36000
新地 7800
・・・・・・

(旧相馬藩内総人口)118000
 警戒区域-32400人



人口的には南相馬市は72000人あったけど流出して減っていた。警戒区域とあわせると合計で10万でありそのうち3万が警戒区域だからその影響が大きい。相馬市と新地を加えると旧相馬藩内では11万人になるがそれでも3万人へっているから約三分の一に減っている。これは相馬藩で飢饉の時三分の一に人口が減ったときと同じかもしれない、この影響は大きいのである。若い人が流出しているからさらに影響が大きい、物流の鉄道、道路が東京と結ばれない、断たれていることも大きいと会社の人が言っている。これだけ広域交通の中で仕事しているからそうなる。流通網が断たれると致命的になるのだ。原町から川俣への流通がふえてトラックが事故を起こした。遠回りになるからそうなる。あの辺は道路が狭いのである。六号線が断たれたことが大きいのである。
この中で老人の割合、60代以上が半分くらいしめているかもしれない,その影響もまた大きいのである。つまりこの辺は高齢化の問題が顕著になる。老人や病人ばかりふえて働き手の若い人が流出する。これは日本全国でそうでもこの辺はそれが極端になる。姥捨山のようになる。だから高齢化問題により真剣に具体的に対処が迫られる。それは一人一人がそうであり老人は若者を支援しなければならなくなる。年金を多くもらっている人はへらしてここで働く人に回さないと老人は福祉のサ-ビスも受けられるなくなる。そういう緊迫したものになる。もうこういう状態では支えきれなくなる。


そして浪江とか飯館村とかまた小高でも原発難民をかかえるとさらに苦しくなる。難民はなんら生産性がないとか邪魔者にやがてされる。相馬市で飯館村の人が農家でトマト栽培で働いたが解雇されたことでもわかる。津浪の被害者もここでは思った以上に多くこの人たちは賠償金が出ていない、それで賠償金をもらえるからいいだうと外から見られてしまうのである。それは磐城でもそうだった。

仮の町といってもただ負担を強いられるだけだと地元では思ってひまう。つまり難民化、棄民化されるのである。アフガニスタンでもアフリカでも戦争の難民をテレビで見てきたけどそれと同じような光景なのである。補償にしてもいつまでもできない、そうしたら働くにしてもその働く場がないから原発を再稼働して金をよこせ、働かせろとまでなっている悲惨さがあるのだ。だから若者はここはも未来がないと流出してゆくことがさらに衰退に拍車をかけて老人と病人だけが取り残される姥捨山にされる恐怖があるのだ。そういうことがこれから深刻化してくる。当たり前のようにあるものがなくなる。病院が一時機能しなくなって手当てを受けられず死に目にあったようにそれと同じ様なことが起こってくる。


 

posted by 老鶯 at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月16日

福島原発地帯の人口の変化の統計 (1960⇒2005年)


福島原発地帯の人口の変化の統計

(1960⇒2005年)


toukeusoma2222.jpg
クリック拡大!


(海岸沿い)

広野町-5776⇒5136
楢葉町 9430⇒7330
富岡町-12380⇒14700

(旧相馬藩内)

大熊町-7880⇒11000
双葉町-7558-6300

(山村地帯)

川内村-5705⇒2669
葛尾(かつろう)村-2977⇒1482
飯館村-10941⇒6000
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新地 9771⇒7809


1960年というと戦後10年くらいは江戸時代のつづきだったと書いた。燃料はまだ炭だった。食料も貧しいものだった。ご飯炊くのも電気ではなく釜だった。炭でたいた釜のご飯はうまかった。電気製品は一つもなく裸電球と飯台一つしか普通の家には置いてない、水道が入ったのも戦後十年以上すぎてからだった。水は井戸水であり町では井戸水がないから水をもらうほかなかった。この生活は江戸時代とさして変わらなかったのである。これは前に書いたからここでは統計から旧相馬藩内の変化をみてみた。富岡町から南は相馬藩ではなかった。でも原発関係で変化をみた。


海岸沿いはさほど減っていない、広野町-富岡町は逆にふえているのは第二原発があるためだろう。
大熊町は第一原発があるためにふえた。双葉町は減っているのが不思議である。やはり第一、第二原発地帯は人口は全体的にはへっていない、逆にふえている所もあった。まあ、減りもしなければふえもしないというところである。全体的には人口は二割三割と地方では減ったのだから減らないということはそれなりに産業があったからでありそれが原発だったのである。


この統計でわかったことは顕著なことは山間地帯が約半分にへっている。川内、葛尾(かつろう)村、飯館村は山間地帯である。葛尾(かつろう)村はもともと人口が少なかったが半分に減っているのは大きい。飯館村が一万人いたのは驚きである。一万人の数は大きい。なぜそれだけの人が住めたのか?山林資源が豊だから炭焼きなどで生活できた。東京の方に木材を鉄道で運んでいた。だから森林鉄道がどこにでもあった。葛尾(かつろう)の落合まで森林鉄道が通っていたのには驚いた。なぜならあそこは坂が急でありかなりの距離があったからである。この森林資源が原ノ町機関区から鉄道で運ばれた。南相馬市の前の原町市は1960年では4万で同じ人口だがすぐに5万とかにふえたことでもわかる。原町には工場も誘致されてさらに繁栄した。相馬市は人口はずっと同じだった。新地町は前の相馬郡になっていて人口が1960年で9000人ありその後2000人くらいへった。全般的に人口は減ってゆく時代だった。

飯館村が一万人いたが6000人にへった。でも森林資源から牛の飼育に移りそれでなんとか人口を留めた方である。それでも人口の減り方かはげしかった。小高、原町は同じ様な状態である。山村地域は過疎化になり日本全国的にこれと同じ傾向がある。つまり原発地帯は人口もふえもしないが減らないという状態を維持したのが山村の過疎地帯と違っていたのである。


不思議なのは1960年ころまでは本当に今に比べると貧乏だった。ほとんどが農家人口であることでもわかる。それでも人口が多かったのである。貧しくても人が山村でも地方でも多かった。豊になり高度成長以後に地域の人口は減っていった。人口が多いから金の卵とか東京へ森林資源だけではなく人間も労働力として移動したのである。だから人間は発展途上国のように貧乏でも人口はふえる。豊になると文明化すると人口は減るのである。子供も一人とかへっていった。貧乏人の子だくさんであるが豊になるといろいろな配慮が働いて子供はへる。


数字は苦手だけどやはり統計とか数字は社会の状勢を冷静に示すのかもしれない、原発ができて辛うじて人口減をくい止めたというのが現実だった。そうでないと浜通りでかなりの人口減の減少が顕著になったことは確かである。ただ交通的に恵まれているから山村地帯のようにはならなかったろう。工場も誘致できたからである。

posted by 老鶯 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月17日

飯館村が原初の葦原になり伝説化した (葦笛の詩として引用構成)


飯館村が原初の葦原になり伝説化した

(葦笛の詩として引用構成)


ashiharaaaaa111.jpg


●葦が日本の原初の状態


この葦原だが古事記の記述によると日本は豊葦原 の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくにとされている 言葉のとおり豊かな広々とした葦原のようにみずみずしく 美しい稲穂が実る国ということであろう弥生時代になって人 々が低地に定住して米作りを始めると河川の氾濫平原や湿地 はもっとも米作りに適した土地として豊かさを象徴する存 在になったに違いない当時の地形と現代の地形ではかなり の違いがあると思われるが現代の沖積平野のほとんどが氾 濫河川敷や葦原の低湿地だったと考えられる

 根の家で生活する農民達がヨシで編んだ魚籠を用いて漁をして おり壁土の材料として稲ワラの代わりにヨシを利用していま した  日本でもヨシズの材料として古くから利用されているが
http://fjfj.enokorogusa.com/BiotaHatogaya/BiotaHatogaya03.htm


日本では稲刈りの後に芦刈が行われ、各地の風物詩となっていた。軽くて丈夫な棒としてさまざまに用いられ、特に葦の茎で作ったすだれは葦簀(よしず)と呼ばれる。また、屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに現在でも使われている。日本神話ではヒルコが葦舟で流される。最近では、葦舟の製作も市民活動として行われるようになってきている。ちなみに、南米で葦舟といわれるのは、この葦ではなく、カヤツリグサ科のフトイの仲間を、古代エジプトにおいては同じくカヤツリグサ科のパピルスを使っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7


世界中で葦が原初の風景であり原風景だった。パピルスが葦でできていたことでもわかる。ナイル河畔にも葦が繁っていた。葦船は日本にもあった。葦の用途は広いのである。葦は海岸地帯にも生えるのは塩分にも強いからであり葦がいろいろな効能がありそれは知らなかった。

ヨシ生態のおぼえがき
http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3113kenkyureport/syoho_bi/09/09-05.pdf


●葦(あし)が古い地名の発音で葦(ヨシ)は平安時代以後の発音


日本の国を『豊葦原(とよあしはら)の国』(日本書紀)とも呼ばれていました。平安時代までは「アシ」と呼ばれ、今でも「アシ」と呼ぶ地方もあります。正式な名称(植物学名)は、「ヨシ」(竹と同じイネ科の仲間)と呼びます。

葦牙とは、葦の芽のことをいう。その二柱の神がつくった島々は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」といわれた。これにより、日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。更級日記では関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書き残し、江戸幕府の命で遊郭が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた。


平安時代までアシと西では言っていた。もともとはアシと言っていた。ところがアシが縁起が悪いとしてヨシになった。ということはアシと発音するのは地名的に古くヨシと発音するのは新しいとなる。吉原は新しい呼び名である。吉田もそうである。


●片葉の葦の謎


、柳田國男の説くところの日本の生贄の風習である片目片足をつぶし、生贄のしるしとした伝承。それを証明するかのように片目の魚と神、片葉の葦と神の伝説は日本中至る所にある。そしてそれらが産鉄民と繋がる事は歴史家の間では今や常識、片目の神は北欧、エジプト、日本と、世界的に神の条件のひとつでもある。片葉の葦は「かたわの足」である、産鉄族は火を扱い片目になったり片足になったり体を酷使するためにそうなりやすいのである。またはたたら吹きの強い風のために葦の葉が一方に偏ってしまった。
http://www.musubu.jp/manoirie.htm


これは自分が前に書いたが産鉄族にかかわる伝説でありその後の親鸞とかの伝説ではない、別なものに変化して全国に残っている。ここも産鉄族が深くかかわったから伝説が残っている。これは全国くまなく残っているのだ。


●葦に関する詩


枯れみだれた葦(あし)の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸(いちぼう)の原。
セメント 鉄鋼 電気 マグネシユウムら
寂莫(せきばく)として地平にゐならび
蒼(そう)天下 終日人影(じんえい)なし。
(小野十三郎)



葦笛と風の恋

悩みも苦しみも 呑みこんで 笛は輝く
その内に風はみなぎる
風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


葦笛と風は 深い谷さまよい
葦笛と風の 目覚めを月みつめ
その甘い調べ 花とともにひらく 花とともにひらく
http://sironekoq.exblog.jp/992968/


これはオリジナルではない、翻訳したとあるがやはり著作権がある。引用するのはまずいかもしれない、つまりどこまでオリジナルなのかわかりにくい、オリジナルなものを出さないと本当は発表できないだろう。インタ-ネットは自分のも勝手に引用されている場合がある、引用は創作的範囲で可能であり創作がなければ引用はできない、ただ引用だけしているのは著作権違反なのである。

葦笛の詩については古来多い。それだけ葦自体がなじみ深いものだったからである。


風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


これは飯館村を象徴するような詩になっていた。消え去りゆく遠い光を・・・消え去りゆく村人のことを言っている感じもする。「風がやどす、土の声を」飯館村には人が住んでいないから風と土の声だけが残された。その土の声は放射能の声だったというのも不思議である。
葦笛と月はあっている。深い谷をさまよいというのも飯館村の山間のことであり深谷という地名もある。飯館村が葦繁る原初の状態にもどってしまったのである。もともと自然が豊だから余計にそうなったのである。一方で小野十三郎の詩は大阪の詩でありそこも葦原だったのだがそこはまさしくセメント 鉄鋼 電気 マグネシユウム・・・の工業地帯になった。飯館村とかこの辺はもともと自然が豊だから津浪の跡でも葦繁る自然にもどったのである。そのことを写真を出して何回も書いてきた。思うに飯館村とか津浪の跡は物語化゛伝説化した地帯になるのかもしれない、元の自然に還り人間のことが伝説的に語られることになる。


"Selected Poems of Rumi" Jalal al-Din Rumi, Maulana : R.A.Nicholson
index > 『ルーミー詩撰』

『ルーミー詩撰』 メヴラーナ・ジェラールッディーン・ルーミー


--------------------------------------------------------------------------------

「葦笛の歌」1


葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

葦笛は語る、

慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち、
私の悲嘆の調べには、男も女も涙する。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。

どこにいようとも私は嘆き悲しみの調べを奏でる、
不幸を背負う者たちの、私は友となり慰める。2

それぞれの思いを胸に、誰もが私の友となるが、
私が胸に秘める思いにまでは、思いいたる者などいない。

私の音色は私の嘆き、胸に秘めるこの思い、
だが耳も眼も塞がれた者に、光が届くはずもない。

魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが。

それでも、未だ誰ひとりとしていないのだ、
魂をかいま見ることを許された者など。

葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、一体何ほどの者であろうか!

これこそは愛の炎、これこそが葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。

誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる、
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。

葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。
http://www.levha.net/rumi/selected_04.html


飯館村の人の気持ちはこうなっている。原発避難民の気持ちがこうなっているのも不思議である。故郷からの別離、家族との別離に引き裂かれている。故郷は葦がぼうぼうと繁る場所になってしまったのである。ただそれが大阪のような都会的なものとは違う、自然がもどったのだから月などとマッチして美は残っているから伝説的になるのである。


「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう
http://www.k-system.net/mandala/?p=137


飯館村はどうなるのか、今でも老人が一部野菜を栽培してそれ子供にやったら子供はそれを棄てたという、飯館村は警戒区域になっていないからいい、他は警戒区域で立入禁止になっているから入れないのだ。放射能汚染は自然の美は破壊されていない不思議である。都会化は大阪のようにズタズタに自然を破壊した。すると大阪のような大都市より自然の美が残っているからましではないかともなる。ただ避難民化した人たちはそんなことは言っていられないだろう。かけがいのない故郷を失ったのだから・・


●自作の詩


葦に埋もれた村

葦が生い茂り
田畑は消えぬ
葦が風にさやぎなり
月の光に灯は消えぬ
原初の日にここはもどる
人の声は聞こえず
牛の声も聞こえず
石は再び深い眠りにつく
誰か見えぬ詩人(うたびと)のここに残り
葦笛の楽を奏するや
その音のもの哀しくも切なく
今はただ森に山にひびくのみかも
人家の灯は消えて
蛍袋がその灯なのか赤々と咲く
かつてここに我は棲みしと語るもあわれ
ただ葦原は風にそよぎぬ
いづこへと人は去りしや
村は葦に埋もれ人は帰らじや
詩人の一人残り葦笛を奏するのみかも


iidatehotaru1111.jpgiidatemonnnn111.jpg

飯館村は本当に不思議としかいいようがない、津浪の被害にあった地域もそうである。まるでポンペイの跡のようになった。だから伝説的な場所となってしまったのである。ただ大都会と違うのはもともと自然豊だから自然がもどり自然に埋もれるという浄化の作用があった。放射能汚染したのが水や土を汚しても外観なんら変わりない、美が同じ様に残っている不思議があるのだ。都会には美が消失してヘドロとか工場地帯の煤煙とか自然の美はない、自然に埋もれるということはない、石油タンクとか美観をそこねるものが延々と残っている。だから大災害がきてもそのあとはやはり無惨な人工の跡が残る。田舎のように自然に埋もれるということはないのである。

 


インタ-ネットは編集して読むものである。これだけ葦というキ-ワ-ドから書けたのは収穫だった。
知の世界はやはり興味があったときどれだけ深く広く知識を深めることかできるかが問題になるのだ。もし世界の知識が公開されてこのうよに編集できればいながらにしてアレキサンドリアの図書館を有すると同じになるのである。  
posted by 老鶯 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年07月18日

虹-夏の彩り(抽象画) 具象画あって抽象画がある

 

虹-夏の彩り(抽象画)

具象画あって抽象画がある

nijiiii222222.jpgsunnlight222.jpg

summer waves

girlscolours.jpgnatunihihamonn11.jpgsummerwaves.jpg


抽象画には一つの原画からいろいろ発展する。それが普通の絵と違っている不思議がある。
これは明かにそうである。最初、これは虹だなと思った。感覚的に虹ではないにしろ光には見える。次にこれは太陽からの木漏れ日か散光のように見えた。次は押し寄せる波に見えた。・・・こういうふうに変化が楽しめる。
思うにやはり抽象画は全く具象画と違っているかとというとそうでもない、なぜなら抽象画から具象画をイメ-ジするからだ。全く具象画と切り離されることはないのだ。
ただ決して具象画から抽象画をイメ-ジはできない

抽象画⇒具象画のイメ-ジはできる、しかしこの逆のことはできない、
結局、自分で抽象画をパソコンのソフトで偶然作ることができてこれは何なのだろうとなった
でも自分でもわからない、ただこれは虹だなと即座にイメ-ジしてはっとした。
虹という具象画があって抽象画がある。抽象画があって具象画はありえないのである。

あしひき--の足は葦だった (みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)


あしひき--の足は葦だった

(みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)

●味真野の味は葦だった


味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ


題詞 (中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌)

越前市味真野地区は、万葉集にゆかりが深い場所です。奈良時代、聖武天皇に仕える女官 狭野弟上娘子と恋に落ち、何らかの理由で天皇より味真野に流された中臣宅守。引き裂かれた二人が交わした歌が万葉集には63首残されています
 


篠山の地名考-「味間(あじま)」


 「味間」という言葉の起こりを調べてみますと、むかしむかし、このあたりは沼地が多く、広大な湿地帯が広がっていたようです。したがって、湿地や沼には、たくさんの葦(芦)が生えていたのでしょう。そうした葦の合間に見えるところ・葦間(芦間)から言葉がなまって、「味間」と呼ばれるようになったという説があります。
兵庫県文化財保護指導委員  大路 靖

「味鴨」とは別に「葦鴨」という名詞を使った歌もあります
これは葦の間にいる鴨ということで使われています

味真野というとき葦真野だったのである。真野という地名があるとき味は葦は一体であり真野の前に葦があったのである。だから味真野-葦真野という地名が生まれた。真野の原風景が葦真野だったのである。


みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎


みちのくの真野は味真野-葦真野でもあった。真野とつけは葦と一体でありそういう所に真野がつけられたこともありうる。味真野という地名が原風景の地名なのである。でも真野だけではない、日本の原風景が葦原だったのである。


我が聞きし、耳によく似る、葦(あし)の末(うれ)の、足ひく我が背(せ)、つとめ給(た)ぶべし

意味: 話に聞いた通りに、葦(あし)の先のように弱々しい足を引きづっているあなた、早く直してくださいね。


家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

番号 20/4419
題詞 (天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)


【語釈】◇葦火 葦などの草を燃料として焼く火。山国でない武蔵国の庶民にとっては、炭は高価な燃料であった。◇恋しけ思はも 「恋しく思はむ」の東国訛りであろう。


万葉集-葦の歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/asi.html


あしひき---という枕詞は葦引きであり葦をひきながら進むことなのである。あしひき---とあったら必ず葦をイメ-ジしなければならない、


「天地[あめつち]初発[はじめ]の時、高天原[たかまのはら]に成りませる神は……次に国稚く浮脂[うきあぶら]の如くにして、海月[くらげ]なす漂へる時に、葦芽(あしかい)の如く萌騰[もえあが]れる物……」


日本の原初の状態はこのような状態であり一面の葦の原だった。葦火焚けども・・・これは葦を燃料としていた時代があったのである。筑紫ではすでに炭があったから先進国であった。外国の技術が入ってくる場所だった。それを対称的に東国の防人が故郷では葦火たいていると歌ったのである。


しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ


沙弥満誓(笠朝臣麻呂)


この歌は筑紫が外国文化の入る先進地帯だったことを示しているのである。
    
●葦原と草原(かやはら)の謎


岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建した吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます。

http://www.city.okayama.jp/kitaku/asimori/asimori_00001.html


みちのくの真野の草原(かやはら)は伽耶(カヤ)の国に由来するという考察をした。なぜなら草原郷(かや)となるときそれがこの賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)の祖に由来している。カヤはこの渡来人からのカヤであり萱が繁っているというのではないと考察した。沙弥満誓は笠氏だから笠女郎の父親であり笠女郎の故郷は吉備の萱(カヤ郷)の出で笠氏は賀陽(かや)からの帰化人だったという説である。足守という地名が葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」ということは秦氏の葦守だとなっている。渡来人の守る葦守になっている。渡来人⇒味真野⇒葦真野というふうにもなる。草原(かやはら)が何か不明にしても渡来人の匂いが色濃くするということは疑いないのではないか?


ただ葦(あし)と草(かや)は根本的に発音が違うのだから別な種類のものである。別な意味をもっている。発音がカヤとなるとき賀陽)かや)とか香屋臣(かやおみ)と結びつく、単なる草原(かやはら)を自然の景色なのかという疑問がある。これは一地名だと考察したのもそのためである。すでに真野という時、味真野として古代的原風景の葦真野をイメ-ジするから次に葦とにた草(かや)をここに入れるのは不自然ともなる。ただ大萱葦 (信濃)と萱と葦が合体した地名もある。ここでは萱と葦は別なのである。萱というのは萱場とか枯れた状態の萱でありこれは材料として茅葺き屋根に大量に使われた。萱は枯れた状態の萱であり風景としてはそれほど美しいともいえない。葦原の方が今回の津浪や原発事故で田んぼが葦原になったことでこれが原初の風景だったなと改めて認識した。萱原の萱はあくまでも美しい光景としてより萱を材料としたものとして表現していた。


語源は、葦(よし)(イネ科の多年草)で葺(ふ)いた粗末な家屋のあったところをいった「葦屋」か、「や」が「湿地」を表し、葦の生えた湿地のことと考えられてる。


家屋が葦屋となるのは家屋を基にしているから言葉のこじつけになっている。カヤとアシは別ななものであった。


●みちのくの真野の草原の無難な解釈


実際の所は草原の謎は深い、自然情景なのか草原が伽耶とかの関連しての港地名なのか、その判別が明確にできないのである。もしこの草原が自然情景の草原だとしたら茫漠たる津浪の跡に繁った葦の原野をイメ-ジされる。そういう茫漠とした遠い僻地を思わせる。そういうところを女性が恋の歌として思い浮かべるのは何か違っている。何かそぐわないのである。みちのくの真野の草原の草原が港のような地名だったらまた別である。どんなに遠くに行こうが私は家持様を思い浮かべますよ、面影に見ますよとなる。「面影にして見ゆというものを・・」これは茫漠とした草原のこと葦原のことなのか?それとも大伴家持のことなのか?これも判別しにくい、確かに多賀城に大伴家持は晩年派遣されて来たという説もあるが定かではない、ただここでのみちのくの真野は遠い所として知られた場所としての真野だったのである。それを奈良の都で知られていたから遠い所の比喩として使われた。
とすれば真野の草原の草原は萱原としての自然情景ではないのである。


みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎


この意味は陸奥という真野と知られた遠い地の草原(かやはら)という港がある地、そんな遠くに例えあなたが行ってしまってもあなたの面影は忘れることはありません・・・そういう意味になる。
自然情景ではないのである。そんな遠い所の地を面影に偲ぶということはありえないのである。

それも女性でありそんな荒寥とした地を歌うのにはふさわしくない。ただ古代の女性だからその辺の感覚はまた違っている。それでもやはりこの歌の解釈は自然情景を歌ったというよりはあくまでも恋の歌でありみちのくの真野の草原は遠い知られた地を例えとして作られたのである。それが無難な解釈ではなかろうか?それにしてもこの辺があまりにもまぎらわしいのである。この歌は非常に誤解しやすい歌だったのである。万葉集にはそうして誤解しているのがいくらでもあるに違いない、それは一重に当時の情景が余りにも違っていたためである。この辺で津浪が塩崎までおしよせたことに驚嘆した。船も港から流されてきた。そして古代に船着とか市庭とかいう地名があった。それがリアルに再現したことに驚いたのである。自分も葦というものをこれほど意識したことはなかった。古代の自然の情景が実際はイメ-ジできなくなっていたのである。この辺で大葦辺りを秘境だと書いたがまさにあそこも葦が繁った辺鄙な地域で開拓に入ったのである。いかに葦がいたるところに繁茂していたかわかる。田んぼが津浪で原発で葦原になったことは本当に驚きだったのである。

 


 

posted by 老鶯 at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

女性の体ーwoman body(抽象画)


女性の体ーwoman body(抽象画)

 

womanbody.jpg

女性の体

taijiii111.jpg

胎児

shokuchiuuu.jpg


食虫植物

女性も食虫植物がいるから怖い、犠牲になったのが自分だった
気おつけることだ、いまさらおそかったが。。。。




一つの原画から七つの抽象画を作った。
原画が抽象画向きだとそれなりに変化が楽しめる
ただ何なるかわかないのがかえって面白いのが抽象画である