2012年07月02日

美瑛の夏(詩)

 

美瑛の夏

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ポプラの木の丘に高きや風そよぎ
緑うるわし丘々や畑は耕されて
黄金のタンポポは天まで咲きつづくや
残雪の十勝岳は煙を吐き隆々と迫り
兀々(ごつごつ)として荒き肌に肩を組む
丘々をこえ郭公の声はひびきわたり
雪解けの水は清流となり大地を潤す
神殿の柱のごとく列なす針葉樹林
北の風雪に耐えてその樹々の列
ひしひしとその針葉樹の厳しさ
北方の風雪に鍛えられて立つ
その土、その岩、その樹、その草・・・
原始の精のここにありて息づく
オオバナエンレイソウの谷間に隠れ咲き
ここに光はしずかに人の歩みもまれなり
汝の足は今ひそかに忍び入るかも
ああ ポプラの木の高きや風そよぎ
神は花々をここに集め草原にしく
大地と山々と樹はあなたに答える
真直(まなお)なるあなたの心に答える
誠実なるあなたの心に答える
大地と格闘して倒れしものよ
汝はまたなおここに生きむ
汝の無念は受け継がれるべし
ここに大空に大地に峰々の調和しぬ
美瑛の夏よ、今蘇るかな
深々とここに息して爽快に癒されよ
日がな郭公の声は遠くへひびきわたれり


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写真ではこの光景は現せない
十勝岳に向かって咲いていたタンポポは圧巻だった
天まで咲き続けるようにまぶしかった
十勝岳は力強いものがありあれが風景をひきしてめていたのだ



美瑛は自転車で一回行って農家のライダ-宿に泊まった。その時、延々と農家なんかやっていられないとか聞かされた。最後は中国の方がいいとか言っていた。こんなところにも中国人がでてくる。
農家はみんなほとんどそうした農業ではやっていけないとかしか聞かない、この辺でもそうだった。機械には金がかかるしとかとてもやっていけなねい、やっていけないという話しか聞かない、北海道は本州よりもっと厳しい,なぜなら農業の他に仕事がないからである。本州では専業農家は少ない、兼業農家であり減反政策でも補助金が入る。わずかの田でも米を作ってもらえればそのう農家には金が入る。そういう矛盾が現代の農業である。結果として原発ができたのもこの辺では必然だったのである。第一次産業と農業に従事するものが一番賛成していたという皮肉があるのだ。そして一番被害を受けたのも第一次産業だったのである。


美瑛に行った時は郭公の声が丘々のかなたからひびき木霊していた。それは宗谷の方に行ってもそうだった。だから郭公の声は忘れることができない、今になると自転車旅行はできない、それを考えるともう行けない、思い出すだけだなとなる、遂にはみんなそうなるときが来る。時間は思った以上に早くすぎてゆく。美瑛はやはり独特の地形で魅力がある。丘の上にポプラの木が立っているのがいい、あういう風景はなかなかない、抽象画はこれはあるプログの写真を加工した。
加工すると原画がわからない、秋の方がいろどりが豊になる。9月ころが色の絨毯ができる。
今になると北海道は遠い。近くすら遠い、結局人間の与えられた時間は有限でありどんなに自由が与えられていてもその時間は有限だった。時間は尽きるのである。そして残ったのは思い出、記憶なのである。その記憶もあいまいとなるからあとでなかなか書けないのである。                 
それでも自分はかなり思い出す旅をしているから多少は書けるのだ。


美瑛にはプロの写真家が住んでいる。一人だけではない、何人も住んでいる。それで商売が成り立っている。開拓の時代は終わった。だから北海道も空家が目立つのだ。今いなくなったような家があった。それは飯館村の人がいなくなった家とにていたのである。他にも住宅のような家が空家になっていた。北海道は暮らしてみれば前もそうだが今も過酷である。ただ夏だけが最高であり天国になる。ここは北海道に行かなくても多少北海道化したから北海道にいる気分になるというのも不思議だった。


北海道を詩にしよとすると何かむずかしい、やはり伝統的日本的情緒の世界ではないからだ。大陸的でありつかまえどころがないからである。俳句でも短歌でもすんなり作れなかったのはそのためである。この詩もあまり成功したとはいえない、函館の詩はそれなりに特徴をとらえて成功したかもしれない、一回くらい行ってもその土地の特徴をとらえることはむずかしいのだ。十勝岳が圧巻であった。北海道に十回行っても本当の北海道の姿をとらえることはむずかしい。それでもこの頃思い出して結構いい詩ができるのは不思議である。自分でも言うのはなんだがやはり人間は最後になるといいものができる。正岡子規でも他の人でも若くして死んだ人がなぜあれだけのものを残したか不思議だった。それは常に死に直面していたからである。あと何年しか生きないとなるとどんな人でもいいものができなるのである。人生でも自然でも鮮明に見えてくるのだ。最近は詩でも大量に書いている。

発表しているのは一部である。こんなふうに書けることが自分では不思議である。なぜなら自分は才能がなく,40代でも俳句でも短歌でも稚拙なものであり鑑賞もでなきかった。今はたいがいのものが深く鑑賞できることも違っている。ここにきて何か自分なりのもの書けるしほかのも鑑賞できる。

こんこんと泉から湧きだすように創造できる。自分も死期が近いからかもしれない、どうも70くらいで最近死ぬ人が多い、人間死期が近づくとものが見えてくる。これは才能と関係ない、死期を前にして人は見えないものも見えてくるのだ。心眼で見えてくるのである。だからある人は本当に天国をありありと死期を前に見ることがありうる。そういう心境になってくることがありうる。心清らかに生きた人は最後にそうなってゆく。これは才能ではない、死期を前にしているからそうなってくる、
人間の神秘なのである。人間は最後にお迎えが来るというとき本当に天使でも観音様でもお迎えに来る。そして天国に連れ去るのである。その前にこの世のことが自然でも鮮やかに見えるようになるのである。こういうことは芸術家だけのものではない、ごく普通の人でもそうなりうるのだ。

 

2012年07月03日

北海道の海岸の詩 (旅では記録する写真が貴重)


北海道の海岸の詩

旅では記録する写真が貴重


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茫漠たる海
砂原に点々とつづくは
鳥の足跡のみ
波がよせてはひびく
流木の海岸
草原に風はわたり
茫々たる原野
蝶が一羽風にあおられている
人の跡はそこに印されない
わずかにアイヌの地名のみ残る
何を記憶に残すのか
波と風と砂に消される記憶
一両の電車がゆく
荒野の風に吹かれて
廃線の跡が草地に残される
烏がとまっている
自然の風化は地を清めることなのか
津浪の跡の砂原は草原は北海道になった
霧多布湿原にクシロハナシノブの星のよう咲く
丹頂鶴が優美な姿に舞いおりる
海岸には霧が流れキタキツネの足跡
渡り飛ぶ海鳥の声が砂原にひびく
荒々しくうちよせる波に
それは野生の歓喜の声か
人の跡の尽き果て
かなたに見えるのは海
日本列島はどこまでも海に洗われている


 

北海道シリ-ズになったけど現代は言葉より写真で伝えることが主流となった。写真で外国に伝えるというのは絵画でも世界的評価ができるからいい。詩は言葉のみだからむずかしいのだ。言葉ほどむずかしいものはない、特に詩はむずかしい。だから一般的に詩で伝えることはむずかしくなる。
旅行でもそうである。一枚の写真の方が詳細に細部を記憶していて訴える場合がある。
最近いろいろ整理していて写真でもそうだった。一枚の写真のもっている価値が旅では大きい。
ええ、ここどこだったのかとかこんなところに行っていたのかと思い出す、他の人の写真の価値が落ちるのは自分がその場にいなかったからである。自分の写真はその写真だけではない、その場にいたからその場の雰囲気から見れるから他人がとったように一部をきりとったものとはならない、そこに写真の大きな意味があった。他人の写真はビデオはどうしても感動しないのはその場にいなかったからである。自分の写真はその場にいたということが大きな相違なのである。

それにしても人間は忘れやすい動物である。次々に事が起こり忘却されてゆく、こんなに次々忘却されていいのかと思う、政治でもそうでありゆっくり記録される時間がない、何でもスピ=ドが早すぎるのである。車にのっていて新幹線でも記憶されない、歩いて自転車で行った時は記憶される。
それは雨風に打たれるから記録されるのだ。自然が体に刻まれるから記憶されているのだ。
つまり体に記憶されているのである。


北海道には十回も行っているのだから回想すれば思い出すものがある。それでも今や良く思い出せないのが多くなった。何十年前となってしまったからである。自分の場合はゆっくり旅しているから記憶されているものがある。そこで思い出してなんとか詩を書いたりしているのだ。その時デジカメがなかったから記憶されているのが少ない、今なら記録の面では格段の進歩をした。記憶というのは意外と大事だった。歴史は根本的に記録である。津浪のことでも400年前に同じ様な大きな津浪が相馬でもあった。それが一行しか記録されていないから誰も注意もしなかったのである。ところが今回のように生々しい映像として残されれば違っている。あまりにも生々しいから口伝えや文字で伝えるのとは違っている。その伝わり方は違っているからこれからの津浪は違ったようにみる。これまではあんなに生々しく記録されていなかったからだ。そういう点で将来への影響は大きいのである。


北海道では最初に20年前でも自分はいち早くビデオカメラを買ってとっていた。ところが写りがかなり悪いからぼやけている。でもそれすら貴重なものとなっている。記録は貴重なものなのである。
この辺では右田の松原が津浪で消失した。その一部の写真がホ-ムペ-ジの方に残っていた。いろいろ書いたから自分でも何がどこにあるのかわからなくなっていた。インタ-ネットは意外と消えない、本の方が消えなようでも本は書店に置けないし図書館に置いても全国の人は見ない、インタ-ネットは誰かがみるということがある。ただインタ-ネットの問題は見れた、読まれた感覚がない、アクセスを解析していない、ホ-ムペ-ジの方はそうなっているからあるのかないのかさえわからないような状態になっている。プログの方はどのペ-ジが読まれているから解析しているからこれは読まれたとか多少反応はあるとそれでみている。ともかく一度書いたものを整理する必要が出てきた。量が膨大なので整理すること自体大変である。

ともかく北海道は草原、原野、湿原の原初の状態が残っているからそこにあるのは野生の跡だけともなる。そういう世界は北海道にしかない、そこが魅力なのである。防波堤のない自然のまま砂原の海岸が延々とつづくところがサロベツ原野辺りにある。
あういう場所は本州ではないが津浪で原初の自然状態に帰ったのは驚きだった。

2012年07月04日

南相馬市鹿島区右田浜の消えた松原の貴重な写真



南相馬市鹿島区右田浜の消えた松原の貴重な写真

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この道のまっすぐ行った所の家は消失した

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これは火力発電所ができるまえの烏崎である。
この家が全部なくなった。


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これは真野川河口である。
河川改修する前の真野川河口で自然の状態があった
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これは河川改修する前の薬師堂への道である。
薬師堂は移動して残っている。
これも故郷の記録としてあった。


注意

クリックすると拡大して鮮明に見えます

他の写真も縮小してぼやけてみえていました

クリックすると鮮明に見えます



右田浜の松原が消えてしまったことは今でも信じられない、長年親しんできたしあの松原も百年くらいあったのか、それが一瞬にして津浪で消失した。こんなふうになるのだったらもっと記念に写真とっておけばよかったと思った。名残りを惜しんでいれば良かった。
右田の松原は松がそれなりに太くていい松原だと見ていた。松川浦の松原は松が細いのであまりいいと見ていなかった。ともかく今や松原を思い出すのは頭の中と写真しかない、写真がいかに貴重かわかる。記録として貴重なのである。烏崎の村は全部消失した。この写真は火力発電所ができるまえの自然のままの光景のときとっていたのがたまたま残っていた。今になるとこういう写真がいかに貴重かわかる。なぜならこの写真に写っている烏崎の家は全部なくなったからである。この写真をとったのはすでに30年前とかなのである。あの頃からよく自転車で原町に高台の道を通り行っていた。あの時は火力発電所がなかったから自然のままの砂浜が残っていたのである。その砂浜の写真はとっていなかったのが失敗だった。


他の人も写真をとっていたら貴重である。右田浜からまっすぐの道の北右田の家は消失した。
これも貴重である。他でもいい松原が消失したから思い出すのは写真くらいしかなくなった。

posted by 老鶯 at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年07月05日

なぜ今本が問われるのか? (電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


なぜ今本が問われるのか?

(電子化、インタ-ネット化の社会の急速な変化に対応できない)


●本の歴史は文字の発明と共にはじまっていた


今本について盛んに書かれるのはなぜか?それは本に変わって電子書籍がというときパソコンとインタ-ネットによって本とは何かと問われたからである。本が何かなど今まで問われることはなかった。本の歴史は実際は文字の発明からはじまったとすると何千年にもなる長さである。楔形文字を粘土版に印されたときからはじまっている。文字の発明は商業と密接に関係していた。なぜならアルファベットはフェニキア人から発明されたというときまさにそのことを物語っていたのである。貿易のために簡易な共通の文字を必要としたから生まれた。その前に楔形文字があるけどそれも砂漠地帯では商業が古くから起こっていたためである。エジプトのヒエログリフは多少違っていた。それは広く共通あものとして発展しなかった。エジプト国内でしか使われなかった。それは王の年代記のようなもので商業のために異民族との貿易のために使われることはなかった。文字はフェニキア人のように異民族との商業のために共通化したものとして広まったのである。商業が世界のル-ルを作ったというとき基本的に異民族で共有する文字が必要だった。それがアルプァベットであり世界的共通の法律を作ったのである。世界的ル-ルが商業が作ったと前に書いたように文字もそういう面があったのだ。
アジアがなぜヨ-ロッパのような広範囲な共同体を作り得なかったというとやはりアルファベットのような共通な文字が作られなかったことにもある。


外国旅行するとアルプァベットの国は字を読むのにわかりやすいからいい。なぜなら音からは聞き取りにくいからであく。アルプァベットだと一応読めるということがある。中国で漢字を書いてなんとか意思疎通できるのもそのためだった。発音からは全くわからないのである。漢字はむずかしいのだけで中国というと一つの世界だから漢字を通じてアルプァベットの役割を果たしたということがある。それは日本でも文字がないとき漢字をとり入れたのと同じである。漢字を通じて世界化したのである。ただ漢字はむずかしいので世界化しなかった。英語が世界化したのはアルプァベットだったからである。日本がアジアの中でいち早く欧米化したときやはり日本語だけでは訳せない、漢字でもって約したというときやはり漢字にはそれだけの文化があったということである。例えばアイデインティティというのはどう訳していいかわからないものである。これは合一とか訳せばわかりやすくなる。合一というとコミュ-ンともなるがアイデインティティも自然にアイデインティティを見いだして同一化して合一することにある。合一という言葉は大和言葉では現せない、そういう言葉の応用ができたのが漢字だった。それで欧米化したものの翻訳を漢字でしてその漢字を中国では利用している。革命というとき中国ではもっとも頻繁に使われるが日本人が漢字から発明した言葉だったのである。


世界的には商人が世界のル-ルを作った
http://musubu.sblo.jp/article/56454399.html

●本が問われるのは車社会になり歩くことが見直されるのとにている


今なぜ本が問われるかというときそれは文字の電子化という発明が今までにないものだったからである。ワ-プロからパソコンで書くことがあたりまえになっているけどこのこと自体相当な革命だった。つまり活版印刷が発明されたと同じほどのそれ以上の革命だったのである。そのことがまだ良く理解されていないのである。インタ-ネットとかで文章を出しているけどそこでは素人でも別に大作家だけではない、簡単にいくらでも文章を出せる、それがゴミとしても別にゴミにならないというのも不思議なことなのである。無尽蔵のことがインタ-ネットでは蓄積できるし誰でも書けて発表できる世界なのである。何か書いて発表すること自体、紙を利用している時は選ばれたもののすることだった。今でも本とか雑誌とか新聞とかそういう媒体を利用できるのはほんの一部の特権者なのである。ロ-マ時代は紙はあまりにも貴重なものだったから作家がいても紙を所有している人が紙を提供している人が実権をもっていた。作家はただ紙を提供してくれるものに書かせてもらうというだけであった。何ら収入はそこにはない、これは現代でも出版できるのは出版社や新聞社の許可を得たものしかできないということと同じなのである。それだけコストがかかりすぎるからそうなっているのだ。


そして本と電子化された世界とはいろろいな面で相当な相違がありそれが本とは何かと問うようになったのである。奇妙な話だけど人間が車社会になり道路を歩かなくなったとき歩く世界がわからなくなったということを何度も書いてきた。歩くことから生まれた情緒性が失われた。江戸時代の浮世絵などは歩くということなしに鑑賞できない、自ら歩かない時代にはその情緒や文学も絵画も鑑賞できないのである。歩く時代は橋一つとっても人間と一体化していたのである。今でも歩いて見えるものがあり歩くことにより実際は五感が働き見えるものがある。歩くことと自転車では違っていても歩くことに近いから自転車だと見えるものがある。そしてどういうわけか自転車を乗っている人とは親しくなりやすい、車に乗っている人とはあまり話しもできないということがある。車が人間社会を根本的に変えてしまったのである。そもそも歩くことは人類が生まれて以来歩くことなしでありえない世界だった。その歩くことをふりかえり問うなどということも考えられなかったのである。

それと同じことが電子化されたインタ-ネットの世界で起こっているのである。車社会になって失われたものは余りにも多い、それは情緒的な面として人間の根幹にかかわる面で変わってしまった。例えばかえって過去をふりかえるとき牛とか馬を利用していた時代をふりかえるときいかに牛や馬というものに人間が影響を受けていたかということである。馬とか牛は人間と同じである。一つ家の中に住んでいて名前もあり家族と同じである。そういう感覚から情緒がはぐくまれていた。牛と一緒に暮らす働くということと機械を利用して働くことは根本的に違っている。牛は生き物だから牛の性質のようなものが人間に自然と伝わり牛とアイデインティティ化してくる。牛との合一化、アイデインティティ化してくるのである。だからこそ高村光太郎の牛の詩ができた。牛が心の中でも生きていた時代だから作れたのかもしれない、まだ車時代ではないからできた。戦前までは牛馬の社会だったからである。


●過去の牛と馬の役割とにている本の世界


昔の話で前に書いたけど上萱まで荷を積んで運んだ馬は暴れ馬だったけど力があるからあの坂を上ることができたという、馬にも暴れ馬がいて性質の荒いものがいる。野馬追いのときも実際はいろいろな馬がいる。御しやすい馬とそうでない馬がいる。馬には性格がある。牛はどうなのかというと牛は荷を運ぶには馬より便利である。なぜなら牛は道の草を食べるから馬のように飼料が必要でないから良かったという。それで塩の道で塩を運んだのは信州でも牛だった。牛はまた坂道にも強いから牛が荷を運ぶには便利だったのである。馬には注目しているけど牛はわからなくなっている。今では牛は牛肉であり乳牛の牛であり運搬している牛を知らない、牛肉の牛と運搬する牛は根本的に違っている。それでも飯館村辺りでは十頭もの牛に名前をつけて仮設住宅に住んでいる人がなつかしがっていたのは生き物だからそうなる。ペットが人間化すると同じである。牛との別れを家族のように惜しんでいるというのも相手が生き物だから情が移るからそうなる。機械だとそういうことはないから情緒的な面で人間は薄情になるともいえる。

こういうところに実は現代の人間が薄情化している原因もある。人間が切れるというとき車社会だとそうした牛馬と接することのない社会となっているという面もあるのだ。江戸時代との根本的相違はそうした環境にあったのである。江戸時代のモラルというのはそういう環境から農業基本の世界から作られていたのである。だからモラル的には安定していたのである。二宮尊徳のモラルもそこから作られた。今の時代にこの辺で二宮尊徳のことを言っても余りにも変わりすぎたので通用しない、現実に原発事故にどう対処すればいいのかなどわからないのである。人間は牛から学んできた。牛とアイデインティティ化してきて精神世界も作ってきた。老子が牛にのっている姿や牛は人間の精神のシンボルでもあった。そういうものが喪失したとき人間は根本的な所が変わってしまったのである。石のことを大分詩にしたけど牛と石は共通したものがある。忍耐性とか寡黙だとかでそうである。石で作られた建物と木で作られた建物はそもそも文明の相違にもなる。ヨ-ロッパと日本の相違はまさにそこにある、文明の相違となっているのだ。


本が何か問われているとき電子化によるインタ-ネット化によって問われているのは牛や馬がいなくなった社会とにているのだ。本は牛や馬とにた面があったのだ。電子化やインタ-ネットの意味していることは何か未だわからない、新しい技術は最初ただ便利というだけで受け入れる。でもその意味がわかるのはあとのことである。原子力にしてもこれが何なのか良くわからないけど便利だから効率的だからとはじめる、その安全性も確立していないのにはじめる、今回のように事故を起こして原発は危険だとかこんなことはやめるべきだとかなる。技術は便利だからそういう側面をみんなもっているのだ。ともかく本が何かと問われているのは何か過去の牛や馬の役割は何だったのだろうかと問うこととにている。何かそういう側面があったのである。

 


次回は本についての文学的考察をしてゆきます


プログはシリ-ズものがいい、次にどういうことが書かれるのか興味をもち読もうとするからである。これも本の世界とは違う。三国志をテレビでシリ-ズの番組を放送しているがあれは面白い。次がどう展開するかということで興味をもつのである。それにしても人を信用できないか、いかに相手もだますかということで絶えず疑心暗鬼になっている世界だった。だまされて殺されることが日常茶判事の世界で生きていたから過酷である。なぜならだまされることは即死につながっているからだ。
中国人はあういう過酷な世界に生きてきたということである。陰謀術数にたけてくるからとても日本はその点ではかなわない、平和だったということである。そして今の時代は金だけが頼りの疑心暗鬼の人を信用できない社会になってしまったとういことである。日本人のいい面は失われたから同じなのである。ある人は経済の基礎は道徳だといって日本人はその道徳が備わっているというけど今や違っている。金しか価値観がない道徳もない社会が現代の日本社会であり世界共通化しているのだ。
なぜそういう楽天的な見方になるかというとその人は犯罪にあっていないからである。犯罪にあった人は社会の見方が変わる、強盗や身内の殺人などにあった人は全く社会を違ったものとしてみるのである。日本人はかつての日本人ではない、全く金だけにしか価値を置かない日本人になっていることを体験しないからわからないのである。あらゆるところに金しか求めていない社会なのである。

2012年07月06日

今なぜ本が問われるのか(2) (インタ-ネットにはない本の特徴)


今なぜ本が問われるのか(2)

(インタ-ネットにはない本の特徴)

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冬日さしペ-ジをめくる厚き本


●本をテ-マにした短歌や詩


瓶にさす藤の花ぶさ一ふさは重ねし書の上に垂れたり 子規


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本を読むならいまだ
新しいをきりはなつとき
紙の花粉は匂いよく立つ
外の賑やかな新緑まで
ペエジにとじこめられているようだ
本が美しい信愛をもって私を囲んでいる
室生犀星


タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ 明日はもう秋だ

ー西脇順三郎「秋」
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本に埋もれる老いの至福

寝ころびながら本をぱらぱらとめくる
自分が引用できそうな文をマ-クする
その詩に洞察に感嘆する
寝て座って立って所を変えて読む
時には廊下に冬の日がさして
分厚い本のペ-ジめくる
そのペ-ジに冬の日がさしている
随分この本も古くなったと
我が古い友のような本もある
我も古くなった本のよう老いる
何度も読んだ本は古酒のようになっている
夏の夕ぐれ日はまだ明るい
本は人類の知恵の宝庫
私は居並ぶ賢者と芸術家とともにいる
私は今やそうした歴史上の人物と対等
なぜなら即座に深く読める
その一文を自分の文のようにとりこめる
丁度オ-ケストラの指揮者のように
それぞれの楽器を深く理解できる
鑑賞力が増せば深まれば
その味わいはまるで違うものとなる
一なるものが十にもなる
くめど尽くせ知恵と美が本にあり
私の時間は至福に満たされる

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●物としての本と電子空間の本の相違


詩でとりあげたように本というのは電子本との相違はまだ良くわかっていない、本が何であったのかなどと問うこと自体それが電子の世界になったとき問われるようになる。本が最初は文字が作られたときからはじまったというときただ文字を印すものが煉瓦だったり粘土だったり竹だったりとしていただけであり紙に印されたとき今の本ににた形になってきた。本の前に文字が作られたことであり文字があって本がありえた。文字でも何か印されることによって残ることができる。すると木に印されるよりは石に記された方が後世に残りやすい、石に記されると何か文字に重みがでてくるというとき石の重みがそうさせているのだ。文字は別に何に記されても同じなはずだが石に記された文字は重みがでてくる。それは文字に重みがあるというより記された石に重みがあるからである。本でも装丁が美しく重い本だと中味もあるように思えるのと同じである。


鉛筆にバラモンのにおいがする・・・という詩でもこれは本にもあてはまる。紙の材質によっては紙の手触りから本を読むことはバラモンのような特権階級のように思えてくる。本は高いものがそういう感覚にもなる。文房具にこるのもわかる。筆がいろぽす発達したのはそのためである。本の世界はそれだけ特権階級的なところがあった。だから普通の人でも一生に一冊本を出したい、成功した人が大金を出して自費出版するというのが成功の証でもあった。それほど本というのは普通の人には高根の花だったのである。それを商売にしようとする出版社がふえた。今でも流通面では本は普通の人には書店に並べられない、でも本を作るのは今や素人でもパソコン上でもできる安上がりなものとなっている。本にもいろいろあり本の大きな価値は流通面にあった。本を作ることができても普通は流通はできない、大手出版社とかの許可がなければ近くの本屋でも置けない、そういう仕組みになっているのだ。だから情報が操作されるということがあった。原発の危険を指摘した本が隅に追いやられて何か特殊な奇人の空想的なものとして真面目にとりあげられていなかったのである。情報は権力あるものによって操作されている。それは本の世界でもそうである。

何故なら取次ぎなどは戦後アメリカが情報を検閲するために作られたのである。本と流通の問題は別なのである。グ-テンベルグ時代に本は簡易に作られ普及して流通したからこそ革命になったのである。その時代に流通した本は少ないにしても仏教寺院で修道院でしか仏典でも聖典でも読めない時代とはあまりにも違う社会となったのである。現代では逆に本は中世の写本のようにして残る。
装丁にこり一冊しかないような芸術品として残る。ただ中味は電子本で流通することになる。本とは普通の人には流通できないし本自体流通にはむかないので出版社も書店もなくなる。すると最後に残るのは本の芸術性を追求したものとなる。それは図書館に絵のように保存されたりする中味は電子本で読むのである。


●本と電子本との相違にまだ気づいていない


本とは何なのか?そう問うこと自体が電子の世界化、インタ-ネットで改めて問うようになった。だから本とは何かとなるとなかなかわかりにくいのだ。本は文字だけでなく物としてありだから材質にこだわったりする。物としてのフィテシズム、愛書家も生まれる。物だからそうなる。自分も本を読むというより本の蒐集家でもあった。20代から書斎をもっていたから恵まれていた。ただ若いときは本は集めても読んでも深く読めない理解できないのであるがでも相当集めた。郷土史関係の研究でもまず本を集めないとできないということがあったのだ。だからある程度手元に本がないと研究もできないし文章を書くこともできない。ものを書く人はどうしても書斎が必要だし思索の空間も必要である。それがわかったのは今まで狭い所で書き物して読書していたことでわかった。今は広い部屋で読書している。それで気づいたのが本というのは自然の外界の反映がある。インタ-ネットの空間にはそうした外界の自然の反映はない、分厚い本を開いたらそれで風がそよぎペ-ジがめくれたとか、冬の日がさしてきたとかない、ただ電子文字と写真やビデオの空間なのである。

このことは意外と大事だった。夏なので外がいつまでも明るいなと思って読書しているときその明るさは昔だったらその明るさが部屋の中に作り出されて書院作りができて障子ができて本も読めるようになった、書き物もできるようになった。襖とかでしきられていたら中は暗いからできなかったのである。電気がないのだから明るさは自然の光で自然の中でこそそうした本を読むとか書きものとかをすることができたのである。東雲(しののめ)はしのは竹であり昔の家は竹でできていてその篠の朝に上ってくる日がはじめにさすから東雲となったというのも家というのがやはり人間の中心にあった。知的作業にはこうして書斎とか家が必要なのである。そういうことは田舎ではしやすい。あとは庭があればいい、息抜きするためである。


平安中期から以降になるとさかんに書物を読むようになる。読むばかりではなくて昔のことですからそれを筆写しなければならない。そうするとこれはかなりの明るさをもたないとそれができません
しかも風が吹き込むような家では困ります。
そういう中から襖を薄い紙でもってはる、いわゆる明かり障子とういものが作られようになった
(宮本常一)


このように本というのは電子本とは相当に違ったものであり本とは何かというときそれが良く答えられないのはそのためなのである。その大きな特徴が本が物としてあるということなのだ。物としてあるから流通するには不便なのである。自分の家が本で傾いたというのはそのためである。本の不便さはいろいろある。本は手元に奥には限られたものである。すると知識も極限られたものとなってしまうのである。それは物だから置くには限度があるからだ。ところ電子空間では物ではないから無尽蔵に置ける、ゴミになっても一瞬にして消し去ることができる、それがかえって電子本は文字に重みを与えないものとなっている。電子の世界では書くということも違っている。書きながらキ-ワ-ドで書くことを追加したり書きながらアイデアが自然と生まれてくることがあるのだ。そういうふうに書き方も違ってきている。ともかくいくら書いても重さもないから誰の負担にもならない、誰の負担もかけていないということが不思議なのである。本一冊を流通させるには相当な負担がかかる、だからそれを商売にだけしにらうとするものは売れないものは扱いたくないとなる。こんな売れないものは置いてどうするんだとなる。でも知的なものの価値は誰かに何かを伝えるということでもあるから別な価値観を本の世界には知的情報の世界にはあるべきだったのである。それがインタ-ネットで開けたのである。


売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かな 啄木


本はこうして誰かが読んでいるものをまた読む、この本は誰かが使ったのだなと思ってよむ。しかし電子空間にはインタ-ネットには物ではないからそうしたものがない、電子本の世界には古本になることはない、物ではないから古くならないのである。本だったら必ず40年くらいすると表紙がはがれたり紙が汚れてきたりする。いんづれは読めなくなったりする。電子本にはそういうことがない、劣化することがない、でもソフトで読み出せないという恐怖がつきまとっている。一瞬にして消えるということがある。現実にレンタルサ-パ-でそういう経験をしている。復旧したから良かったが他では消えたらしい,そういう怖さが電子のインタ-ネットの世界には常にあるのだ。

本のことを語ったらきりがないだろう。それだけの歴史が本にはあるからだ。インタ-ネットの世界はここ十年とかしかないのである。だからインタ-ネット自体何なのかということもわからないのだ。ただ本は一か月で書店から消えるけど次々に別なものが置かれるけどインタ-ネットの世界では発見されないにしろそのまま残っている。一見消えやすいのだが記録として残りやすいのも電子空間だという不思議がある。いくら貯蔵しても検索で邪魔になるにしても電子空間では無尽蔵の蓄積が可能なのである。ゴミになるといっても週刊誌、新聞などはずいぶん紙の無駄だなとインタ-ネットとと比べるとみてしまう。過去の検索ができないのも効率的情報処理ではない、過去の記録を知ることも大事だからである。そういうことが紙の情報分野ではしにくいのである。どこかの書庫に図書館に貯蔵されていても見れないのである。福島市に巨大な図書館があってもそこを利用できないのだからないのと同じなのである。

2012年07月07日

夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩) (松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)


夏の日の松島の旅(俳句-短歌-詩)

(松島の歴史は奥深い-中世に3000人の僧が修行していた聖地?)

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夏菊の窓一杯やバスの旅
夏菊や波光りよす朝の海
草原のかなたに光る夏の海
夏鶯松島湾の光るかな
苔むして岩屋の涼し松の影
夏の日に修行の僧の雄島かな
夏日さし杉木立の道苔映えぬ
松島の木蔭の深く板碑かな
四つの洞風の通りて涼しかな
外洋の風に夏日さし仁王島
船を追う夏の光に鴎かな
目印の山の遠きも夏の海

島いくつ浮かびし影や夏の月

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砂浜に波よせひびき夏の日や雄島によりて遠き島見ゆ

亀島と鯨島かなのびやかに夏の波光り双子島見ゆ
早世の若君惜しみ建てにける青葉に映える御霊屋に来ぬ
月光りたゆとう波に松島の島影浮かぶ夏の夜の夢

仙台の青葉にそよぐ夕風や若き等ととも歩み帰りぬ

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夏日松島


松島湾巡船
波揺光海鴎
瑞巌寺門入
杉木立影深
青苔夏日射
岩屋洞古墓


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雄島の松陰


穢土厭離欣求浄土 生死無常自証悟得


松島の岩窟に老僧一人
瞑目深く岩により
松風鳴りて煩悩を払わむ
身を浄めつつ祈りける
松清くして波静かなり
浄土夢見てここに朽ちなむ
松島に人は死なむと
遠き世の人の思いの
ここにこもりて深し
我の齢も尽きなむや
身を清くして仏を待たむ
来迎の島にして聖なりや
一場の夢の世は離るべしかな
波に静かにゆられにつ
鴨はよりあふ友なれや
月さし明るし松影に
眠れる魂の安からむ
津浪にも残れる松や
苔むしにつつ石の仏は古りぬ

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昨日は仙台から松島に行った。電車で相馬まで行きここで15分くらいまって亘理まで行きまた電車にのりかえてと前よりは一時間以上時間がかかるからめんどうになったことと一日しか出かけられないから宮城県が行くのにはいい。仙台で買い物するのも楽しみである。松島に最近歴史的に興味をもった。そもそも松島のはじまりは古く中世であり鎌倉時代前から天台宗の寺があり3000人の衆徒が集ったという、供養の板碑も実に古い中世のものである。それが頼朝が平泉をせめてきたときここも滅ぼされたという、ここまで頼朝の影響があったのかと思った。つまり松島というと伊達政宗しか思いつかないのが普通である。ところがこれだけで松島を語ることは本当の松島を知ることにはならない、松島は相当に奥深い歴史がありそれを知らないと松島は知り得ない、自然的に風光明媚というだけではない、そこにはもっと奥深いもの霊場としての松島がありその証拠が岩窟で修行した天台宗の僧とかこの聖地で死にたいと集まって来た僧たちだったのである。ここにはだから雄島でも死体が骨となってたくさん散らばっていたというときまた発掘されるというときそれを物語っている。


見仏聖人とか言う人もいたことでもわかる。松島というのも今という時間しか見ていない、そして観光というだけで来ている。ところがここはもともと聖地であり祈りの場所でありあまたの僧がここで浄土を願い死んだのである。松島は特に中世からそういう場所として選ばれた。それだけ美しい場所だったためである。なぜ今そういうことが閑却されるか見えてこないかというと仙台の市街から近く住宅街が迫っていてそういう霊場とかの感覚にならない、気楽に観光に息抜きにアベックが行く所でもある。そういうふうに今はすべてが観光地化してしまったからそこが歴史的にどういう意味をもっていたかわからなくなっているのだ。そして観光地で浮かれて遊んで終わるだけになってしまう。それはそれでいいとしてやはり自然と歴史の奥義を究めることがそこに長く住んでいれば必要になってくる。

近くであればそれかできるがまた近くであるが故に見逃すこともありうる。灯台下暗しになるのだ。松島は今回の津浪で被害をまねがれたのは幸運だった。松もほとんど倒れていない、そして福島県から浜通りまで一つの海岸地帯で津浪の被害を受けて海沿いは一つの文化圏を共有している地帯だとも思った。福島県から宮城県から岩手県の津浪に被害にあった所が一つの地理的一体感を感じたのである。福島県では会津とは地理的一体感が感じられない、宮城県の海沿いの方が地理的一体感を感じる場所だったのである。仙台に頻繁に行くし通勤圏にさえなっているから余計にそうだった。
だから宮城県と福島県の歴史はクロスするし重複して見ることができる。これは山形県も岩手県もそうである。この辺を詳しく調べれば遠くに旅に行かなくても一つの世界としてみることができる。


この三つの県でも全体を歴史的地理的にみることはむずかしいのだ。これは地理に精通して全体的俯瞰的にみることがむずかしいのである。歴史になると古代から中世から江戸時代とさらに通観することはむずかしくなる。だから松島が聖地だということも鎌倉時代前から3千人もの僧が集まっていたなど知らなかったのである。その跡に瑞巌寺が建てられた。それは禅宗の寺だった。ただ伊達政宗の時代になると伊達政宗の菩提寺の性格が強くなり見張塔やら墓でも華やかな墓が御霊屋があり伊達政宗をお参りしている感覚になる。とてもここが寺なのかと思ってしまう。伊達政宗にお参りしている感覚になるのだ。江戸時代までは寺は武家に所属する菩提寺だったからそうなる。でも本来の宗教の場ではなくなっている。そういう矛盾も内包している複雑な場なのだ。そういうふうに歴史が積み重なっている場なのである。これはヨ-ロッパのロ-マとかどこの都市でもそうだがにている。ロ-マ時代からの歴史が重層的になっているのがヨ-ロッパである。20歳で急逝した期待された若君が死んだ御霊屋は実に立派であった。そこにはフィレンツの花の水仙とロ-マの花の薔薇が描かれていたのも
ヨ-ロッパ的である。これは支倉常長の影響だったとかヨ-ロッパ式になっているのだ。それでバラの園を裏の方に作っていた。これも寺としては変わっている。それなりに歴史があって作ったのである。

伊達政宗は京都の伏見で愛姫が暮らしていたし伏見城がある所で秀吉に仕えていた。政宗は仙台より京都の秀吉の伏見城で伊達屋敷をもち長くそこにも住んでいた。最上氏も伊達と並んで屋敷をもく地名として残っている。そういう歴史も興味深い、政宗はそうして全国的に活躍して世界的にも視野をもちヨ-ロッパのロ-マにも使者を派遣した世界的視野をもった英傑だったのである。ただ政宗が死んで殉死者が七人いて円通寺にその墓がある。こういうことでも政宗は信長と同じく神のごとくなっていた。信長は部下に殺されたけど政宗はそうではなかった。70歳とか生きたのである。ただ瑞巌寺でも円通寺でもそこは伊達政宗にお参りするのであり仏教の寺とは感じられなくなる。中世は霊場であり聖地であったから歴史を知れば違和感を感じるのだ。伊達政宗をお参りして成仏するということはないだろう。でも政宗が寺の御本尊のようにありその妻の愛姫も子の御霊屋もそうなのである。
ここはもともと霊場であり聖地だったとするとき


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 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)


この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」
と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途
次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に
思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とあ
る。


これは蕪村が松島の歴史を中世までさかのぼる霊場として僧が修行して死んだことを知っているからこの句を作った。もし知らなければ何の意味かもわからない。松島は死に場所としてもいい霊場として知られていたのである。松島で死ぬということは幸せなことだった。風光明媚な地で成仏することだった。でも芭蕉も蕪村も一回しかこれなかったのである。そこに現代との差があった。
ともかく歴史を知らなければこの句の意味もわからないのである。俳句短歌でも歴史を知らないと深く鑑賞できないのである。


次は円通寺の庭の俳句です


 

2012年07月08日

南相馬市でも原発に働く人が多かった (また福島第一原発で働く人に出会った)

 

南相馬市でも原発に働く人が多かった

(また福島第一原発で働く人に出会った)


今日もたまたまあった人は原発に勤めていた。津浪のとき誘導されて免震棟に避難した。その後も誘導されて避難した。原発で働いていた人はかえっていち早く安全な場所に避難した。放射能の危険も知っていたからである。原発で働いている人が近辺に住んでいたがそこの住人には何も知らせずいち早く避難したことで非難された。なぜ知らせてくれなかったのか、放射能の危険を知らせて一緒に逃げるようにしてくれなかったのか非難している。浪江ではスビ-ディのことを知らず一番危険な山の中の津島に避難して被曝した。海沿いの方に避難していたらそんなに被曝しなかった。それもスピ-ディを公表していればわかったことであるが知らされなかった。それで浪江町で東電や政府の過失を訴えている。そもそも放射能がどういうものかさえわからない、その対処方法も教えてもらえなかたっのである。ただ安全だ安全だとしか強圧的にしか言われてなかった。それはも地元の人たちもまたそうした強圧的な言い方に同調して安全神話は作られたのである。そして思った以上原発で働くかかわっている人が南相馬市でも多かったのである。偶然にしては多すぎる。


浪江-原発の下請けで働いていた
小高-前に原発で働いていた
原町-事故の時原発で働いていた
原町-大熊のス-パ-で働いていた


自分のような交際範囲の極端に狭いものでも偶然にあった人に聞いてみてもこれだけかかわっている人にあっている。大熊で働いている人は原発の町は景気がいいから仕事もあったために一時間通勤にかかっても働いていた。原発までは通勤で一時間だから通っていたのである。原発で働く人は回りでもかなりの人がいるということである。なにしろ給料がいいから働きたいという人が多いのである。火力発電所でも千人働いていたことには驚く。それだけの雇用ができる場だった。だから浜通りは会津などと比べて景気が良かった。特に今住めなくなっている警戒区域はそうである。今は棄民にされたとなげていなるけど事故の前はそうではなかった。そもそも隣の町が原発で潤っているということでうらやましがって隣の町も原発を誘致に賛成して補助金をもらうようになったのである。

そして原発で働いている人は東電を批判しにくいということを言っている。恩恵を受けているからそうなる。他でも東電に盛んに無責任にテロしろとか言っているけどそれができないのはやはり恩恵を受けていたからである。

実際に東電に働く人がどれくらいいたのか統計をとってみればほかりやすいだろう。そういうことかできなくても偶然にあったにしては原発で働く人が意外と南相馬市でも多かったのである。原発によって経済が回っていたということがあった。だから一旦原発を導入したらそのうまみが大きいからやめることができなくなる。双葉町でも富岡町でも原発を稼働させろと今でも言っている。


浪江・小高原発(南相馬市、浪江町)の建設計画の白紙撤回や、
新設電源を、すべて自然エネルギーとする定款変更
などを求めた株主提案は、いずれも否決された。


地元で反対してもまた原発作られるのか?地元の力ではどうにもならないのか?それほど原発の要求の圧力が強いのか?何とも解せないことである。小高にできたら南相馬市も事故があったら住めなくなるぞ、今だって住めなくなって避難している人がいるのにこれはどういことなのか?東北電力も原発なくしては電力を供給できない、そういう体質になってしまっている。東北電力だって完全に安全とはならないだろう。こんなところに住むのが怖いとなるし子孫だってそんなものがあったら安心して住めないとういことがでてきてさびれてしまうのではないか?今回は30キロ離れていたけど今度は20キロ圏内だから恐怖である。相馬市も30キロ圏内になってしまう。


ス-パ-に黒い三組が買い物していた。アフリカ系らしい。言葉からするとそうみえる。島商会で中古車を買いに来たらしい。島商会では「お客さん」と読んでいると勤めていた人が言っていた。島商会はあんなに高い所にあったのに津浪があそこまできたけど助かった。だから早めに復旧した。相馬港も復旧したからロシア辺りに中古車を出している。相馬港から出せるようになって便利になった。
浜通りだからそういう便利はある。漁業よりそうした貿易港になれば金が入る時代である。

posted by 老鶯 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月10日

原発事故の原因は技術的な問題の前に単純なモラルの欠如 (自国の防衛は自国しかできない)


原発事故の原因は技術的な問題の前に単純なモラルの欠如

(自国の防衛は自国しかできない)

原発事故の原因をいろいろ考察してきたけど人災とされたけど本当にそうだと思った。その原因は人災だったのである。ということは天災ではないから原発事故でも人間的対処で防ぐことができたということである。ヒュ-マンエラ-だとすれば防ぐ手段があったのだからそれを怠ったことによるのだからその非は津浪にあるのではなく地震にあるのではなく人間側にあった。


アメリカ側がマ-ク1という古い型の原子炉を日本に輸出した


アメリカ側のGEの落度をほとんどとりざたされないのは戦後日本はアメリカに負けたのだからアメリカの政府の支配下として出発したのだから日本はそういうアメリカの命令には従うという習性になっていたし強制されていたからアメリカ様の言うことには逆らえない、それは官僚でもアメリカの支配下から出発したのだから検察でもアメリカ側についているのだ。そこに原発事故が起きた一つの大きな要因があった。アメリカ側ではどうせ日本だし遠いから危険な欠陥商品の原子炉を売りつけてもかまわないという判断があった。結局他国になればどうしてもそうした考えになる。だからこそ自国の安全は軍事防衛だけではない、原子力のような技術的な問題でも自国を守るのは自国しかない、他国は責任をもたないということから出発しなければならない、食糧問題でもいざとなれば他国は日本を助けないという前提ではじめねばならない、現実にアメリカでは西海岸には地震があるからと原発を作っていないかった。地震がこれほど多い日本を考慮すればアメリカ側で危険だから輸出できないとなっている。マ-ク1は特に欠陥があるから危ないとなり輸出できないと良心的にはなる。でもその良心が麻痺するのはやはり利益優先になり金になるということであった。そして外国だから遠いし自分たちには安全は関係ないと判断して危険なものが売られたのである。

それを輸入した側の日本にも問題があった。自分たちの特に読売新聞社の正力松太郎が自分の野望のために原発を利用したのである。日本が地震国だということを無視して安全を宣伝したのである。
中曽根首相もそれに加わった。そこから原発が輸入されるようになった。最初に常に利益ありきということが問題を起こす、安全を言えば利益にならない、それで東電の清水社長はコストカッタ-としてのしあがりこれも安全よりコストカットとなり高台に決められていた地盤を削り取り低くして金をかからないようにしたことが命取りになった。企業が利益追求するのは悪いことではない、そうでなければ成り立たない、ただその前に必ず利益だけではない公共の利益追求問題になる。利益追求だけが先んじるとかえって失敗する。会社経営でも基本的な所でモラルに欠けると致命的になる。モラルなどめんどうだから必要ない、技術さえ優秀であればいい、ところが経営と技術はまた別なものである。経営とは何か人間的なものがあり単に技術の優秀さだけでは通用しないものがある。


経営者には何か良心的なモラルが要求される。東電にはそうしたモラルがトップにはなかった。モラルというときむずかしいものではなく正直さとか誠実さとかがなかった。再三危険を指摘されても応じずに事故は隠蔽されつづけてきたのである。権力をもっているからそれもできた。その権力が奢りにつながり大事故につながった。こういうこと歴史上いくらでもあった。権力をもつと必ず奢り独断的になり他者の言い分はきかなくなる。原発事故は原子力というむずかしいものだからその原因は素人には専門家でない人にはわからないと自分も思っていた。原子力が何かとなったら皆目わからないからである。でも事故の原因は極めて人間的なものだったのである。それも単純なもの正直でないとかそういうモラルにあったのである。アメリカ側も原発の危険性を隠しもうければいいということでモラルに欠けていたし日本側も一個人の野望から原発が導入計画されたことでもわかる。それは技術の問題ではない単純な人間的問題、モラルの欠如だったのである。


明治維新後に人間がモラルを喪失してただ金を追求する利益人間になった。それは職人気質というとき個々人が技術に励み人格が形成されていた時代とは余りにも違う。また狭い村の中でモラルが維持されていた時代とも違う。大会社とかで組織的に人間が生きるようになったとき人間の個々のモラルは喪失した。単純な正直であれよなどということは誰も教えられないまでも常識だった。でも今はともかく金になることがいいことだ金を追求することが第一となりそれがすべていいことだとなった。学問も技術もそのために利益追求のためにある。それで個々人のモラルも喪失しているから結果的に上にたつ人もモラルより利益優先になりそれで失敗したのである。経営で失敗するとき何か技術的なものだと思い込んでいるけどモラルの面で失敗している。


その人は技術的に優秀でも経営で失敗したのは人間的なものだったかもしれない、人間的にモラルや情とかそういうものの欠如から経営者になったとき事業に失敗した。基本的な常識的モラルさえない、借りたものは返さねばならないとか恩を受けたら返さねばならないとか今の人にはない、恩さえ感じない人間がふえたのである。金を借りれば返さなくてもいい、恩を受けても返さなくてもいい、もらえるものはもらえるだけもらえばいいとなっている。自分のあった人はみなそういう人たちだった。一人は大犯罪者だった。もらえばいいだけではすまないみんな盗ってやれとまでなっていた。それほどのモラルの荒廃が今は庶民の間で広まっているからすでに人間の社会はいくら技術がこれほど発達して原子力まで利用するようになっても単純なモラルが喪失しているからもう滅んでゆくほかないのかもしれない、たとえこれほどの高い技術をもっても人間自体はモラルもない野獣と化している。

だからこそ利益だけを追求するから欲望だけを追求するから事故になったのである。地元の人でも利益優先主義だからともかく安全より利益だとなっていたこともある。東電は技術集団でも権力をもっているから野獣化して横暴化する。謙虚さを失い他者の意見もきかない、何でも自分たちでできるんだという奢りだけになる。政府もそれに加担して歯止めがなされなかった。それは技術的な問題ではなく単純なモラルの問題だった。天下り先を東電が提供してくれるとか選挙では応援してくれるとか政治家も利益優先主義で監視できなくなっていたのである。これが社会全体が利益優先主義でありモラルの欠如からそうなってしまっていたのである。モラルがなくなるとき人間社会は破滅する。いくら高度な技術をもっていても破滅することを今回の原発事故は示していたのである。ロ-マ帝国の衰退もモラル的な問題、享楽主義とか何か誠実さとか正直さとかのモラルの喪失から滅びた。。


武士道がこれほど言われるのはやはりそこに武だけではない日本人のモラルの模範のようなものがあったからこれほど武士道を再興しろと言われる。日本人にモラルがない、仏教にも神道にもモラルは喪失した。かといってキリスト教のモラルももっていない、とういうことは日本人には宗教のモラルもないとしたらどうなるのか?日本は技術をもっていても野獣化社会になるしなっている。そのことを明治維新のとき武士道を基にキリスト教信者になった内村鑑三が言っていた。西欧化すること技術を導入してキリスト教を導入しないことは危険である。文明とは技術だけを分離して導入することはできない、西欧文明とはキリスト教文明だからと言っていた。日本は技術だけを便利だからと導入した。そこに落とし穴があり今日のモラルなき野獣社会が庶民まで普及して腐食させた。アメリカ文明でも民主主義でも自己の欲望の追求が民主主義とされたのである。仏教を導入したときは技術だけではない、仏教文明そのものを導入した。それが明治維新との大きな相違だった。いづれにしろ原発事故は技術的問題だけから起きたものではない、その原因には広範囲なモラルの欠如から社会の欠陥から起きたのである。

posted by 老鶯 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年07月11日

人が消えた飯館村の夏 (写真と俳句、短歌)

 

人が消えた飯館村の夏

(写真と俳句、短歌)

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葦が繁り草ぼうぼうとなった田んぼ

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緑濃く磐の反るや朝の鳥
三十ほど睡蓮紅し松一本
石一つ木蔭に涼し森の奥
夏の蝶旅ゆく道に死ににけり
飯館に古りし碑一つ菖蒲かな
人消えてヨシキリふえぬ飯館村

鳥の声万緑に木霊し日は暮れぬ

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蝶が死んでいた

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朝日さし藪甘草のここに咲き我が喜びてまた来たるかな

飯館に蛍袋のまだ赤く色づかぬかもまた我が来たらむ
街に出て夏菊の家に明るしも人住まぬ村淋しかりけり
夏菊の咲きつづくや燕のみ飛び交い行き交う車かな
飯館に葦の茂りてヨシキリの住みつき人の住まずなりにき
ヨシキリの声のみ高くひびきけり人住まぬ村陽差しの強し
道の辺の一本の木影なして村人帰る待ちにけるかな
家に入る道を装う夏の花華やかなりしも人は帰らじ
この道に我がもの顔に歩けるは猿の群れかな人は消えにき
人も来ぬ池に咲きにし睡蓮を松見守りて夕暮れにけり
夏草を踏みしたずぬは我のみや木蔭の深く石は動かじ
大きなる鳥の隠れる夏の森茂みの深く人住まぬ村

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牛の背の石である、この石は飯館村の象徴的石になった
本当に牛の背とにているのだ。

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これは子牛の石である

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これは亀石となるのか?面白い形である。

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あいの沢にはひっそりと睡蓮のみが咲いていた

 
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飯館村に大倉から行った。草茫々となり葦が茂りヨシキリの声だけが高くひびいていた風景も不思議である。何か自然にもどったというより荒れ果てたという感じがする。草茫々の中に空家がある。
ただ飯館村で救われているのはまだ幹線道路は通じているしひっきりなしに車が通っている。ガスリンスタンドだけが営業していた。自由に出入りできるから死んだ村とも違う。浪江とかは警戒区域で入れないから死んだ町、ゴ-ストタウンになってしまった。人が入れれば違う。人が一人でも入れれば死んだものとはならないのかもしれない、あいの沢も草ぼうぼうになっていて道は苔で青くなっていた。そこには睡蓮がひっそりと咲いていた。大きな石がある所にはやはり石はどっしりと動かない。あの石は牛に見えた。牛の背中に見えた。いい石たとつくづく思った。牛の村だったけど今や残ったのは牛の石である。牛の名前を書いて十ほど仮設で偲んでいた人がいた。


飯館村はあいの沢でも7から8マイクロシ-ベルありなかなか帰れる算段がつかないだろう。やはり高すぎるのだ。老人は帰れるというけど姥捨山になると老人が言っていたことがわかる。店もない、もともと病院もないような所でどうして住めるのかと思う。食料くらいは運んでくれるかもしれないがていのいい姥捨山になることは確かである。でも帰れないとなるとこれからどうするのだろうとか心は毎日揺れているだろう。そしてだんだんもう帰れないのか、では他でなんとか生活をしていこうという決断する人が増えてくるだろう。他で牧場を浪江の人と組んではじめた人がそうだった。いつまでも中途半端な状態ではいられないと決断したのである。


いづれにしろ人の住まない村の風景は何なのだろうと思う。飯館村の町のところにでると夏菊が光を受けて明るく咲いていた。しかし人は住んでいないのである。人が住んでいてこそ花も映える。自然のままでも映えるがもともと人が住んでいて映えるものがある。家までの道に何か花のようなものが咲いていた。しかし人が住まなければその花も死んでしまう。一本の樹でもそれは人間化した樹であり村人が帰るのを待っている樹なのである。ただもともと森が深いからその森がさらに深くなり大きな鳥がその森に隠れてしまった。それは自然にもどったという感じになる。全体が自然にもどればそうなる。猿も道にでてきたけど人が近づいても恐れない、人があまり来ないから恐れなくなっているのだ。


川俣まで行こうきしたが行けなかった。日ざしが強かった。体力もなくなっているし電動自転車の電池もきれるから行けなかった。途中月館に行く別れ道に文化の古い碑があった。飯館村ではなかなか江戸時代の墓とか見つからなかった。ここに江戸時代のものがあったなと注目した。飯館村は江戸時代から相馬藩の山中郷としてあったから古いのである。ただ墓に江戸時代のものがみつからなかったのはやはり新しい人の方が多いともいえるのかもしれない、それにしても草ぼうぼうとなり葦が茂りヨシキリの鳴く声が高くひびいている光景は不思議である。あのような状態がいつまでもつづき人は帰ってこないのだろうか?飯館村は放射線量からするとかなり深刻である。栃窪に出ると人が住んでいるけど田畑は草茫々だから同じである。相馬市に出ると田畑も普通であり何ら変わりない、津浪の被害地帯は同じである。いづれにしろいつまでも仮設にいるわけにはいかない、これからどうするのかそれぞれが決断が迫られる。住み続けるのか他に住む場所を求めるのか迫られる。この辺だって小高の人が仕事もなく居すわることはできない、小高に帰る他ないとなる。一部原町鹿島に家を建てて住むようになった。でも大方は帰る他ないのだろう。

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俳句というと写生で追記をしてきたが「三十ほど睡蓮紅し松一本」というのは写生そのものだった。30くらい紅い睡蓮が咲いていてあそこの幹線道路は車がまだ行き来している。まだ死んだ村ではないのだ。道がだけは生きているのである。あいの沢は人は全くこない、たずねたのは自分だけだったのも不思議だった。蛍袋はまだ色づいていない、蛍袋が色づくときは梅雨の時期なのでなかなか見れない、人の住まない村に灯火のように蛍袋が色づき咲くというのも不思議である。


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除染しているのは大成建設だった

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キクチス-パ-に止まっていた車
香川県からも来ている。
福島の原発の作業には九州からかなり来ていて磐城の歓楽街がにぎわっているとか
まだこの辺もそうした人たちが来ている。


飯館の村の部をカテゴリ-にまとめた
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

飯館村の部をカテゴリ-にまとめる


飯館村の部をカテゴリ-にまとめる

飯館村の部をここにまとめました、今はここでまとめて読んでください
あとでこちらにも追加します
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村