2012年06月29日

今日の万葉集の一首 (美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)


今日の万葉集の一首

(美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ


万葉集は日本人と日本の汚されないときのアイディンティティとして作られた。ただ恋だけのものとしたら浅薄であり自分の場合は評価しない、人によって万葉集も評価は違うし見方も違う。
ただ日本の原自然との共感として貴重であった。それは大和言葉と日本の原自然が一体化したものであり今になるとそのアイディンティティは失われた。神道の心は万葉集にあった。

神聖にもみえる人の手の入らない清浄なる真砂土(まなごつち)の上にかしこくも人がある。今でもわずかにそうした砂浜があったがほとんどの砂浜はコンクリ-トの防波堤となり消えた。その防波堤が津浪で破壊されたのには驚いた。そのまま自然にまかせればまた砂浜になってしまうのか?
磯部はもともと砂州であり人が住めなくなって元の原始の状態にもどった。


万葉集の時代の自然にふれたらその感激はいかなるものになるだろうか、日本はこんなに美しい砂浜がつづいていたのかと驚嘆するだろう。あまりにも海岸線の美は人口化して破壊されてしまったのである。その時同時に日本人の心も失われたのである。真砂土がありその心も真直であれば人は嘆く必要はない、これはキリスト教の罪の意識とは違っている。キリスト教の罪の意識は深刻なものであり絶えず生きた動物が犠牲にされて清められていたのである。


日本ではもともと自然がこのように極めて美しいものだった。手つかずの自然はまさに神がそのまま住むような世界だった。どこも神の庭となっていたのだ。日本の自然そのものが人の心を浄化するものだった。だから罪はつつむだとかつつみかくされるとかつつましいとかいう大和言葉が生まれた。つまり自然の美の中に罪が隠されという感覚になった。もちろん人が存在するだけで焼き畑でも原始的生活でも自然を破壊した。だからギリシャでもヘシオドスは人の営みを隠せと言った。自然の中に隠す自然がまだあったのである。今や人間の生活は都会だとむきだしになっておぞましいほどになっている。そこに美はないのである。


どんなに繁栄してもそこに美がなく醜いものがむきだしになっている。そこに日本人の心は養われるだろうか?日本は自然が失うとその心も失うのである。真直なる心は神に通じる心である。真直なる心というとき日本の武道はもともとは真直なる心を醸成するものとして真直なる体と心を作るものだった。欧米のスポ-ツとは競争心とは勝つことだけを主眼とした闘争的なものとは違う。日本の武道は中国とも違う,何か精神的なのがある。日本では神道では道を究めるというとき職人でもそうだった。そういう伝統があったがオリンピックなどでも失われた。何でも欧米化することは古来の日本人の心を失うことに通じていたのである。ではキリスト教は日本人に必要ないのかというとそうではない、内村鑑三とか手島などのキリスト教は日本的な心を基にしたキリスト教なのである。日本的伝統を否定していないのである。ただそもそも日本的伝統といっても神道でも仏教でも賽銭と御布施ばかりを要求する堕落したものしかない、そういうものではない純日本的なものとしてあったものの再生なのである。
その真直なる心が喪失したらいかに文明として豊に繁栄しても虚しいとなり絶えず嘆きの声だけが充満しているのである。原発事故の放射能汚染も日本のこの神聖なる自然を汚したから大罪だった。むしろ神によって原発は忌むべきものとして破壊されたのである。日本の神が怒り破壊したのである。


日本から日本人の心が失ったというとき自然が破壊され失ったことが根源にある。それと同時に真直なる心も失って殺伐とした風景となった。都会には文明の殺伐とした風景しかない、東京にいて心安らぐなどという人はいないだろう。そういう所に人間が住んでいること自体、人間の感覚は麻痺している。美の感覚も麻痺している。もちろんそんなところから美が詩が創造されることはない,歪んだロゴスを喪失した言葉しか生まれない、言葉自体が日本の原自然をオリジナルとして生まれたのだから当然である。結局都会は大規模に日本の神によって地震であれ津浪であれ今回のように破壊されるのではないか?その醜い文明の産物なる都会を破壊するのではないか、なぜかえって風光明媚なみちのくの自然が破壊されたのか?それは次なるもの大都会が集中する西に向かっての警告だった。
次なる大規模な破壊が日本に起こる、それは神の怒りだったのである。


今でも神聖なる場所は意外に身近な所にもある。松島の赤い橋を渡ったところの渚には春になっても雪が残っている。それが手つかずでありあそこにふれるものはいない、だからすがすがしいのである。遠くに金華山も見えて春には気持ちいい場所である。人間には人の営みがなく全くの自然が作ったままの状態の所があるべきなのだ。万葉集時代はそういう場所がいたるところにあった。江戸時代にもあった。だから日本人の心は欧米人より真直だったのかもしれない、欧米人の心は物質的に欲望が深い、奴隷貿易でも世界の富を集めて豊になった経過もある。中国人もあらゆるものを食して人肉も料理の内だったとなるほど貪欲なのである。日本人の心は何か淡白である。それは牧畜民族ではない、漁労民族、採集民族の淡白さが縄文時代からあったからだろう。それはとりもなおさず日本人は日本の特殊な風土によって特別美しい自然によって作られたということになる。日本人が欧米化したときそれにならって好戦的になり貪欲になったのである。日本独自の文明があるというとき、それは日本の自然に根ざしたものでありそれはドイツの文化がゲルマンの森が生まれたというのと同じである。自然にアイディンティティがありそこから深い思想でも文化も生まれたのである。


別に日本だけが美しい場所ではない、ギリシャでも花々は乾燥地帯だから色鮮やかだし南国のジャングルだって美しいしヒマラヤの美はとても日本では創造すらできない神々しいものだった。グロ-バル化の時代は世界の美にふれられる。ヒマラヤに十回も行ったという人には驚く、ヒマラヤに魅せられて50代くらいの若い女性の医師が死んだことがあった。ヒマラヤに魅せられて死んだのである。
そういう死に方もある。ヒマラヤはそれだけの価値があるのだ。日本人だったら富士山を見て死にたいと思ったのと同じである。山にはそれだけの魅力がある。その美はとても文明の構築物の比ではない、ただ日本の自然はやはりまたかなり違った自然であり一つの神の別な創造の産物であった。

日本が一つの海に囲まれた宇宙を形成していたのである。それで江戸時代の鎖国がありそこに日本心の心が養われたことは確かである。それが欧米化や極度な文明化で破壊されたのである。だから豊になってもただ嘆くことばかりが多いのである。伝統が失われることの深刻さは一旦失うと取り戻せなくなるということである。自然もそうだけど義理人情など古いというけどそういうものすら今やなく殺伐としている。金だけが唯一の価値となっている。過去に普通にあったものを取り戻すことができなくなる。その深刻さを考えないで欧米化した。それも浅薄なところで欲望だけを追求するものとして欧米化したから今日の殺伐とした自然にも心にもなったのである。津浪だってだから自然の側からすれば自然のバランスをとることであり清めの作用だったかもしれない、無情といえば無情なのだけど自然に清めの作用が働くことがありうる。それが信じられないとてつもない災害となりうる。それも神の働きともなる。人間の想定外ものもとして働くのが神だからである。


松島の島陰の渚残る雪人しもふれず清しかりけり


松島がもともとは霊場だったというのがわかる。松島の自然は今でもそういう名残は残っている。日本では美しい場所はどこも霊場となっている。松島の歴史はそれだけ古いものなのである。

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夏の松島俳句二十句と写真に御期待!
posted by 老鶯 at 03:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

海中花-海中蝶(抽象画)


海中花-海中蝶(抽象画)

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海中花

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海中蝶

これも偶然だった、蝶になっていた不思議である。万華鏡にしてみると抽象画が作りやすい
これは化学反応と同じであり何がでてくるかわからないのだ
こんなものができたのかと驚く、これだけ蝶の形が現れることはあまりないだろう
やはり抽象的なものになりやすいからだ