2012年06月24日

原発そのものに反対する人は誰いなかった (厳格な安全管理を要求していただけだった)


原発そのものに反対する人は誰いなかった

(厳格な安全管理を要求していただけだった)

rightoneeeeee22222.jpg

●安全管理ができないから反対だった


まず、原発を止めることによる直接のコストは、原発を代替するための火力発電所の追加燃料費である。現状では原発を代替できる技術は火発しかない。化石燃料価格などによるが、この追加燃料費だけで年間3兆〜4兆円ほどになる。国民一人当たり年間3万〜4万円にもなり、日本の年間生活保護費の総額よりも多く、年間防衛費に匹敵する巨額の金が失われる
http://blogos.com/article/41721/?axis=&p=1


原発の議論のやりかたはいろいろある。そもそも鉄は便利でも殺傷力がありそれで戦争で死んだ人間が多いから鉄そのものが悪い、鉄のない社会がいい、そういうふうにギリシャ神話では語られていた。鉄そのものは恩恵があってもまた災いが大きいものとなるからそういう神話が生まれた。原発だけではない、人間は長い歴史でそういうことを経験してそういう神話が生まれた。だから原子力そのものが悪いという考え方も議論すればある。そういう危険なものを操作すること自体悪いしてはならないことだという意見もある。どうしても核をもっていれば核戦争になることがありうる。核がなければ核戦争になることはないからだ。銃をもっていればどうしても銃を使うからアメリカでは銃の犯罪は減らないのだ。


そういう議論があるのだが自分がここで問題にするのはそういうことではない、あることが誤解されている。不思議なことは原発そのものに反対していた人は誰もいないとういことなのだ。今になるとそんなことあるのかというとこれは良く調べればわかる。共産党すら反対していない、前の佐藤栄佐久知事も原発そのものに反対していなかった。ただ安全管理をしっかりしてくれ、危ない情報は県に出してくれと言ってプルサ-マルに反対したのである。ところが原子力村にはばまれてそういう安全管理もできない、県でも何も言うことも安全を守ることもできないということで反対した。そうしたら検察から官僚かと政治家からマスコミから責められることになって知事を失脚させられた。そして地元もからも原発を増設しろだとか要求されて今の佐藤雄平知事すらそれを承認させられた。一地域の地元でそんな権限があるのかと思った。原発は県全体の国全体の問題だったからである。そんな狭い一地域のエゴで決められることに問題があった。今は双葉町などが棄民だとか町長が言っているけど自分たちの経過を考えると同情されない面がある。原発を推進して一旦事故になったら双葉町だけではないその立地した町民は棄民にされるのである。


原発が低コストでやれるとか石油を輸入するのにかえって莫大な金が必要だとか中東は危険だとかいろいろあるから原発がいいという議論はわかる。でも原発はそういう問題なのだろうか?なぜなら誰も原発そのものに反対した人はいないからである。ただ佐藤栄佐久知事のように安全管理の面で問題があると何度も指摘して受け入れられなかったのである。そういう東電とか政府の安全管理がいいかげんだからそのことが問題で反対していたのである。津浪のことも指摘していたし東電も14メ-トルの津浪のことを想定ししていたとかそういう危険性を科学技術者の集団なのだから衆知していた。それでもコストがかかるとかその安全対策を実施せずただ安全神話を作るためにマスコミに莫大な金を流していた。社長はコストカッタ-で出世したとか安全対策をとっていない、政府の保安院はただ飾りにすぎなかった。安全を管理する立場なのに何の役目も果たしていない、ただ国の税金をもらう無用な存在にすぎなかった。そういうことが事故で見えてきたからそのことを事故の被害者でも国民も怒っているし原発は危険だというとき根本的なところで安全管理ができないことと日本は地震とか津浪とか災害が多い国だから危険だと言っている。他の国よりさらなる安全管理が必要なのにしていないのである。


●最初に神国神話があり安全神話があった


そして戦争のときと同じ様に最初に「日本は神の国だから、天皇は神だから戦争に負けることはない」このように日本の戦争はカルトとにていたのだ。宗教だから絶対であり日本は負けることはない、負けるとかいうと非国民であり神に逆らうやつだとなりそれを言うことさえできないし言ったら特高に連れていかれたりした。つまりそれは宗教裁判と同じだった。そういう手法が問題だったのだりそれが原発とにないた。最初に安全管理をするより安全神話を作ることに精力をそそいだ。肝心の安全管理は二の次でもない三の次くらいになっていたのである。だからこれもカルト宗教ににていたのである。「安全神話」があり原発は危険な所があるから逐次隠さないで報告してくださいと知事が言っていたのにしなかった。なぜそういうことができたかと言えばそれだけの権力を知事より権力をもっているからそういうことができた。権力をもてば情報を操作できるし何でも可能だとなる。カルト宗教団体でもそれで権力をもとう必死になっている。読売新聞の正力松太郎もそうであり原発は権力をとる道具だった。カルトでは創価などでも宗教は権力をとるための道具にもなる。権力をとる動機が不純なのである。それが国民に災いをもたらすのでてある。

つまり権力が強大化して監視できなくなると戦争であり宗教独裁であり今回のような原発事故もおきる。検察から官僚から政治家からマスコミからあらゆるものが権力と一体化したらそれを監視したり何か批判したりもできない、権力の独占になり権力をもつものは当然傲慢になりお前らには権力はない、何も言うなで簡単に終わる。
世の中は結局権力だけで動かされる時危険なものになってくる。そういう権力を監視するものとして民主主義の三権分立ができた。互いに権力の監視を行わせることだし独占禁止法もできた。民主主義とは巨大化する暴走する権力の監視を目的にしている制度でもあった。それが権力の一体化強大化が戦争のときのように原発では行われた。そのことの危険性を指摘していたのだし国民も今全部が原発そのものをなくせとかではない、原発は安全管理ができないのと日本は地震国でより高度な安全管理必要なのにできないからこそ反対しているのである。


●民主主義制度は権力の相互監視が基本にある


権力一体の危険は災いとなる。権力は相互に監視すべきなものである。例えは原発などでも企業などでも一見利益をあげるものでもいいものとしてあっても便利を供給するものであってもそれが巨大化して権力化するとその企業が世界まで支配するようになる。それで世界の森林資源も破壊されてしまうなど問題が起きる。権力が対抗しておさえるものがないとそうなるのだ。つまり人間自体が権力をもつこと自体が危険なのである。だから独占禁止法ができた。政教分離もできた。宗教も権力をもったら非常に危険なものになることは歴史が証明している。そういうことに鈍感であるし原発に対しても危機感がなかった。そして権力が巨大化して制御できなくなったとき国民全体が災いを受ける。
そして権力はより巨大な権力の下に従う従属しやすいのである。マスコミでも今は資金がかかりすぎるしその資金をまかなうためにはより巨大な組織権力に従うほかない、それで東電であれ企業から
カルト宗教団体が資金源になって経営しているのだから権力の独立性がないから巨大な権力と一体化して一直線化して制御できなくなるのである。民主主義の課題は権力の巨大化、横暴化、暴走化にいかに歯止めをかけられるかなのだ。原発事故の根底に原発のコスト問題より根底にそうした権力化することの問題があったのである。

 
posted by 老鶯 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連