2012年06月18日

南相馬市鹿島区右田浜一年過ぎた夏(短歌十首) (北海道化した津浪の跡の不思議)


南相馬市鹿島区右田浜一年過ぎた夏(短歌十首)

(北海道化した津浪の跡の不思議な写真)

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小さな水たまりに小さな魚が結構いた
十匹くらいいた

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枝がなくなっているところまで津浪が来た
松原の約倍の高さで襲った
海岸に近いところはその衝撃が凄まじいものだった
だからこの松くらいの高さで枝がそぎおとされた。


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だれの家だったのだろう


海風の草原にそよぎ夏雲雀


今日もまた草原広く夏雲雀


鵜の二羽や海風涼し残る松


大内ゆ夏野開けて鹿狼(がろうさん)見ゆ


あめんぼう波紋描きてとんぼ飛ぶ


家の跡二本の樹の草原に離れがたくも残りけるかも


津浪跡人家の消えて葦茂りヨシキリ鳴きて巣の作るかな


夏の日や津浪の跡に葦原の風にさやぎて白雲湧きぬ


百本の松も消えにし数本の残れる松に海風涼し


庭の石ここに残りてポピ-咲く砂浜熱く白波たちぬ


家の跡砂に埋もれぬ形見とて花をささぐも夏の海映ゆ


津浪跡たまりし水に小さなる魚およぎぬ夏となりにき


慶応と記さる墓や形見とて集め残され海の風吹く


痛々し津浪の跡に残る松その根の堅く離れざるかも


ノカンゾウ日陰に咲きてかたづけのなおつづくかな草原と化して



今日は晴れたので右田の方にまた行ってみた。草原化して津浪で流された家の跡に日本の樹が立っている。その樹がなんとも他でもそうだが人間に見えるのだ。離れがたく二本の樹が愛し合うように立っている。それは夫婦にも見えるし人間に見えるのだ。庭の樹は人間化した樹になっていた。飯館村などでも人がいなくても残された樹は人間を待っている。人間化した樹なのである。それはペットがもはや原始の動物ではない、人間化した動物であり半分人間になっていると同じである。

以前として津浪の跡の風景は異様である。この風景になれこれが当たり前になるのには日常化するには時間がかかる。ただこういう風景は北海道でみている。防波堤が壊れ家がなくなり砂浜となる。

これはもともとあった自然にもどっているのだ。葦が茂りヨシキリが鳴いていた。吉原など何か人間めいてエロチックになるけど葦はその吉原とは余りに違っていた。原初の自然だといたるところに葦の原があった。人家は消えて葦の原になるとそこにヨシキリが巣を作るのである。これはまさに自然に還っていることなのだ。砂浜の所は水たまりになりそこに小さな魚が泳いでいた。これは海の魚だろう。すでに海の魚がそこに生きはじめていた神秘がある。おそらく津浪で残った水たまりに魚が残されたのだろう。魚は大きな水たまりではなく小さな水たまりに生きていた。この水たまりが海とつながるのはやはり海が荒れてここまで波が越えてこないとつながらないからやがて死んでしまうのか?ただ台風などが来て水が増えると淡水化した沼のようになる。


明かに防波堤は破壊され砂浜が再現して北海道のようになっている。夏の日はかえってこういう自然のままの状態が涼しくて気持ちもいいとなる。家のあった所には花が献げられていたのも不思議なあわれな風景だが夏になると波が白くたち気持ちいいものとなっている。前に良く来ていた右田のキャンプ場の残った松に海鵜が二羽止まっている風景も不思議としかいいようがない、海鵜にとって人間のことなど関知しないのだろう。海からの風がかえって涼しいとなる。

ここに墓地があったのか?墓地があった所は知っていた。流された墓をここに集めたのだろう。
鎌田というのは右田では初代の鹿島町の町長をやった人で有名だった。身内が役場に勤めていたから聞かされていた。そこに慶応の墓があったから江戸時代からのものもあった。右田でもそれなりに古いのである。野馬追いに出る村は江戸時代からのものであり村はほとんど江戸時代からある。

大内から鹿狼山(がろう)が見えたのは家がなくなり視界が開けたからである。あそこから鹿狼山を望んだ記憶がない、風景ががらりと変わってしまったのだ。草原化して夏野化してしまった。この辺は田んぼだったのだから青田の風景であり夏野という風景ではなかった。烏崎に葦が茂り沼が生まれ水葵が咲いていたところは消失したのが残念だった。烏崎は人家が多かった。そういう場所は津浪の跡でもすさまじい一段と荒寥としたものを感じる。

一方で右田の方は家は少なかったから元の自然に還ったという感覚になる。つまり何か自然に還ったということでほっとするという面もあったのだ。

人口の密集地帯で津浪に襲われた所は無残である。三陸でも家が密集していたところの跡はすさまじいものとなっている。もしそこが草原化して湿地帯化して花も咲き生き物もすみつくと何か救われた感じもするのである。まず東京のような所は地震でも津浪でも火事でもその跡はすさまじいものになる。神戸などは都会だからその跡は見ていないけどすさまじいものとなっていた。草原化したりしないし湿地帯化もしない、人工化した人間のビルの破壊されたものとか家が燃えた跡とかが延々とつづいていたらまさに地獄的な光景である。


まだ片づけはつづいている。大内の人がかたづけをしていた。ただ森の方は日陰になりノカンゾウが咲いてほっとした。大内の半分の多少でも高くなっている所はなんとか被害をまねがれたが低い方はほとんど消失した。明かに大内村では二つに明暗が分かれた。あの辺は大昔は海が迫っていて低い方は太古は海だったのだろう。それは一時津浪で海に還ったのである。万葉の時代に海だったところは確実に津浪にやられた。六号線を越えて船着とか市庭となる塩崎まで津浪が来たのには驚いた。船が流されてきたのも驚いた。万葉時代の海が再現されたのである。それで「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」この草原は何なのか?萱(かや)とすれば秋の萱(かや)である。萱が一面に繁った場所だったのか?津浪で海となって草原化したから草原(くさはら)だったらその光景と一致している。萱原だったら秋であり一致しないけど秋になったら一面に萱原がなびいていたのか?八沢浦は古い写真で萱原になっていたからそういう風景なのだろうか?


ところがむしろ萱がないたぷたぷと潮水に充たされた光景こそ美しいものであった。その風景を一回だけ見たのである。それは奇跡的だった。入江でも萱がなびいているより萱がない方が美しいのである。だからどうなのか?草原を地名として港だったと考察したがなお謎である。萱原ではなく真野の入江だったら美しいことは確かであり今回の津浪で真野の入江になった驚きである。

近江の方言でカヤが入江だとインタ-ネットに出ていた。もしそれが本当なら真野の草原は入江なのだろう。いづれにしろ笠女郎はその光景を一度も見ていないのだからどうして面影に見えるのかという問題がある。ただ最近読んだ本に真野公という木簡の字が石巻から発見された。とすると石巻の真野の萱原もその場所なのか?なんらかのつながりがあることは確かである。


いづれにしろこの余りにも変化した風景には以前として驚くほかない、防波堤がなければ広く海が入り込んで田んぼも作らなければ原初の砂浜が再現されるのだろうか?そしたらかえって景色としては美しいものとなる。砂浜はどこでもなくなっているからだ。ただ風化にまかせていればそうなるのかもしれない、磯部辺りは元の砂州となり人はもう住まない、この辺も住まないから自然と自然に還ってしるうのだろう?なんとも不思議としかいいようがない、これだけの変化は何百年に一回しかない、400年後に襲った変化だったのである。

 
 
posted by 老鶯 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係