2012年06月16日

錯綜する明治維新 (相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


錯綜する明治維新

(相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは,藤田東湖,会沢安(正志斎)らが唱えた水戸学である。幕府は安政1(1854)年,日米和親条約に調印し,その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は,攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方,はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は,夷狄(いてき)として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して,幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は,井伊直弼が大老に就任し,勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印,次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は,以後朝廷の尊攘派公家と結んで活溌な攘夷運動を展開していく。諸藩でも,初め水戸藩,次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ,攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが,文久3年8月18日の政変で公武合体派に敗れたこと,鹿児島,下関における四国艦隊との交戦(→四国艦隊下関砲撃事件)を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で,攘夷運動は急速に衰退し,以後は尊王倒幕の方向をとって展開され,明治維新の原動力となった。天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名である。尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地だったのである。
http://homepage3.nifty.com/numa/historio/tengu-to.html

1864年、尊皇攘夷をうたう長州藩が四国艦隊下関砲撃事件により砲撃を受け、その武力差に敗北を期し、長州征伐によって勢力が弱まると尊皇攘夷運動も勢力を弱めていく。そして欧米列強の圧力を排するためには、一時的にでも開国し、外国の技術に学び国内統一と富国強兵を行うべきだとする思想が生まれた。坂本龍馬らの仲介によって、1866年に薩長同盟がなされると、攘夷の不可能さを悟った薩長両藩の改革思想は「討幕」へと転換していった。


明治維新は錯綜しているから今も何なのかわからなくなっている。浦賀にペリ-が来て開国を望んだとき政府は従った。開国であったからのちの開国派となった薩長と同じである。違っていたのは倒幕派であり開国を望んだ。幕府を倒すことで薩長が一致した。ところがまた薩摩の西郷は最後薩摩藩を武士階級の存続を守るために西南戦争で死んだのである。倒幕派にしても薩長が武士としての階級を守り政治をするというのことが明治維新だった。とすると会津などと同盟しても不思議ではない、なぜなら会津も武士を守ることで武士道を全うして滅びたからだ。これは西南戦争と同じではないか?
西郷隆盛は藩を存続させようとしていたのだ。ただ西欧列強に対抗するには強力な中央集権国家を作らねばならない、それで封建的地域主義では対抗できないと天皇中心の強力な中央集権国家を作った。だから東京中心の社会となり方言まで規制され標準語化したのである。文化的にも強力な中央集権国家、東京中心の社会を明治以降作り上げたのでありそれは今にも継続されているのだ。

西南戦争で国民軍が形成されて武士の軍団に対抗して勝ったことが日本国民としての自覚をうながした。奇妙なことは会津は薩長に恨みをもっていたから西南戦争では国民軍として参加して活躍していた人がいてその家ではその時使った錆びた刀が家に残されていた。敵が味方になり味方が敵となるようなことになる。

一体明治維新は誰のための革命だったのかともなる。武士階級を残すという西郷などの力は明治維新後も働いていた。だから武士でないものは平民と戸籍に記されていたのである。武士階級は士族として形は残された。明治時代はの警察官も、士族出身者が多数を占めていましたというとき自分の母親の父親は警察の所長だった。会津の士族の出だったようだがたどることができない、だから裕福で父親がいつも威張っていたというのがわかる。その頃母親は大きな庭のある家に住んでいたという。でも子供のとき父親が製糸会社を運営して失敗してあとは悲惨な運命を歩むことになる。継母のことを書いたけどそれも製糸会社運営と関係していた。士族は警察関係などに就職した人が多い。警察関係とは相性がいい、それから教育関係にももともと教養があるから職を得た。ただ武士はもともと商売とか企業には向いていない、なぜなら武士は義を重んじる誇り高きものであり商売には向いていず武士の商法といわれた。武士が意外と向いていたのは農業だった。相馬藩ではそもそも郷士であり農民であったからその継続だった。それでも新しく農業をはじめた武士がいた。


八沢浦開拓では中に妙見神社が田んぼの中に祀られていたから新しく開拓に入った武士である。あとは北海道で開拓に入った武士が多く、武士橋とか武士と関係するものが多い。伊達藩は伊達市まであるから藩ごと武士が開拓に入っている。三越とか高島屋とか何か今の大きな会社の前進は近江商人の系統であるのもそのためだろう。明治維新はそうした地主階級とか商人とか企業家にとっては得するものだったのである。それらの人たちのバックアップがあったことは確かである。一番損したのは苦労したのは武士階級だったという不思議があるのだ。結局日本は外圧で運命が左右される。欧米列強に対抗するには強力な中央集権国家を作ることが急務でありそれで背伸びしたのである。そのことは太平洋戦争までつづいていたのである。富国強兵政策は太平洋戦争まで変わっていなかったのである。太平洋戦争までは富国強兵政策に国民も反対していない、貧乏でもそうだった。だから日露戦争の勝利に国民あげて酔った。実際は引き分けでも勝利したと過度に日本が持ち上げられたのである。
その奢りが太平洋戦争とつながっていたのだ。常に歴史は奢りが滅びに失敗に通じていることは常に指摘されてきた。原発事故も日本の技術は優秀だという奢りがあった。だからあまりにも日本を誇大化させるものは信用できない、右系統の人はそういう傾向が強いのである。日本に対しての誇りは必要でもそれが奢りになっているのか多いから肯定できないのである。


いづれにしろ明治維新を解明することは容易ではない、ここで注目したのはそういう全体像ではなく関所のことを書いたので関所を通じて明治維新を見るということもある。


天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎は、水戸藩にやってきて、天狗党の傲慢な
態度に失望し、その無謀さを批判して帰ってしまった。清河が憤った天狗党の狂乱は、軍資金と
称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を強奪するまでに発展し、この狂乱に対抗するため
に自衛組織も作られたほどだった。

中には、間道や裏道をわざわざ天狗党に教えて、藩軍と天狗党が正面衝突しないように機転を利か
せる藩もあったという。

間道を通らせたというのは関所を正式に通ると証拠が残ったりして責任が問われるからである。明治維新の時代は正式に通る道より間道をゆく武士が多かったろう。規制のル-ルが破られる時代だったからである。天狗党の無謀も騒乱もそのはじまりだった。こういうときは過激派が出てきて混乱する。テロが起きてくる。


清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの[8]、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた[9]。享年34


新撰組の成り立ちもまた錯綜している。佐幕派によって最後は暗殺された。


たまたま戊辰の役で長州藩士で奥羽鎮撫参謀世良修蔵(慶応4年4月20日福島にて斬首せられる)が同年4月9日白河城に入城し、会津藩攻撃を督促しているとき、坂田屋にて志げ女と遊んだ。
世良はこの地が危険であると察し、同年4月18日白河を脱した。
このことから会津藩士は志げ女を憎み、志げ女を殺害した。
これを知った遊女屋の下男がこの地にて会津藩士を殺害し、その仇を討った、戦争の悲劇の一駒である。

これも錯綜して混乱している時代の犠牲者であった。
「お前は薩長の犬か、成敗してやる、この女郎めが・・・」
「わたしにゃとってはみんな客にすきませんよ、薩長もなにもないですよ」
「どっちにしろ怖いし客としてむかえないわけにはいきませんよ」
「馬鹿言うな、お前は賊だ、切って捨てる」
なんとかかんとか疑心暗鬼になっているからそうなる。錯綜と混乱と疑心暗鬼と殺伐な殺戮から庶民が犠牲になっていた。それを怒った下男が会津藩士を殺したというのもわかる。これは会津藩士がいきすぎていたのである。「なんで殺されるんだ、遊女だからか、馬鹿にすんでねえ」とかなった。


相馬藩士も犠牲者がかなたりでていた。


相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)


家中とは城づめの武士だった。相馬の城に勤めていた。あとは農民と武士の両方を勤めていた給人郷士である。足軽16人というのは給人郷士に仕えていたのか、家中に仕えていたのか、相馬藩は小さいから足軽がそんなにいたのかともなる。ただ野馬追いの時、馬を引く人がいるがあれは足軽だった。五十人町とか百人町とか仙台にはあるけど他にもあるけど足軽町もあるけど相馬藩にはない、六万石だから小さいからない、白石に足軽まんじゅうまで売っているのはそれだけの足軽を伊達藩ではかかえていたのである。そもぞせ足軽だけで生計をたてられるかというとそれだけの余裕をもった武士は相馬藩にはまれだろう。郷士なのだから農民なのだからまれである。
農兵12人というのも純粋な農民だった。農民も明治維新では参加していたのだ。ただこれは相馬藩としてのまとまりとして農民が出ていたのである。


ともかく天狗党にも新撰組にも相馬藩士がいたのは天狗党から新撰組が生まれていたことでもわかる。だから天狗党にいれば新撰組にも入る、それは清河八郎をみればわかる。このように明治維新は錯綜して混乱しているからわかりにくいのである。


天狗党-清河八郎(攘夷派)-浪士隊-新撰組(佐幕派)-会津藩

posted by 老鶯 at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)