2012年06月15日

関所の俳句十句 (旅には関所も記憶する目印となっていた)


関所の俳句十句

(旅には関所も記憶する目印となっていた)

上り来て箱根の関所春の暮


関が原こえて春野の近江かな


伊吹山関が原にそ残る雪


関が原越えて近江や春の山


(中山道)

宿探す関所辺りや夏燕


秋の湖姫街道の関所かな


(市振)

秋日没る関所の跡や沖に船


月の出て関所の跡や松一本


旅人を関所に知れや秋の夜

白河の関やみちのく草の花


間道を幕末の武士月光る

 


関守の宿を水鶏にとはふもの


秋風や薮も畠も不破の関 芭蕉



旅がなぜ旅でなくなったのか?観光と旅は違っている。旅は車で行っても旅にはならない、旅人にもならない、通過するものになってしまう。旅は江戸時代のように歩いて旅したとき旅だった。旅人にもなれた。皮肉なことに不便であれば不便なほど旅になった。旅では関所は不便でもやはり今になるとその関所があってまた旅だったということがある。これは国境にこだわる人が今いまことでもわかる。国境を越えるということが一つの旅の難関でありビザもとらないとなると余計むずかしいからそこで情報交換をする。外国では国境があり国境を越えると別な国になる。貨幣も変わりりょうがいする。国境を越えることはかなり緊張することなのである。それが江戸時代では関所でありあとでは番所になった。江戸時代の方が土地土地で個性があったから旅は今の旅とは全然違う。次々に未知の世界を旅することだったのである。その未知への入り口が関所や番所であった。だから関所でも白河の関や勿来の関はすでに過去のものでありなくなっいるから関守がいたらな水鶏のように問うものにとなった。関守がいたころがなつかしいとなった。白河の関でも誰もいない関守もいない、ここが関所なのかとなる。そこは藪になり畑になっている。ただ秋風が吹いているだけである。


自分が旅してやはり記憶に残る関所となるとやはりそこに関所が再現された所だった。姫街道で有名な浜名湖の気賀関所や中山道の福島関所などがある。そこは再現されているから記憶されていた。
もう一つ関所があったがどこの関所かわからなくなった。日本海回りで江戸に通じる関所だから加賀百万石の大名行列が通ったということで有名だった。関所があれば文書としても通った人が記録される。逆に今の時代は旅しても余りにも簡単に行けるし関所がないから要所として記憶されないのである。旅が何度も記憶が大事だというときやはり記憶される要所となるポイントとなる場が必要だったのだ。それが現代にはいない、もちろん新幹線で日本を横断しても何も記憶に残らない。自分の場合、結構自転車で旅したことで記憶して思い出して書いている。もちろん電車で行ったのもそれなりに記憶されている。でも自転車の旅だと雨にぬれたとか風に吹かれたとかを覚えているのだ。北海道でやたら風の吹く所がある。そういう難儀なことが実は旅の記憶に残っているのだ。芭蕉の旅でもあれだけ難儀したから記憶として残り奥の細道を脚色して名文にしたのである。旅は記憶されること思い出されることがあとで大事になるのだ。ところが現代の旅はあまりにも便利すぎて思い出として残らない皮肉があるのだ。


旅人を関所に知れや秋の夜


ここは日本海を回り江戸の方にゆく所の関所だった。ここを通るときはもう日も暮れようとしていた。ここで通った人を記録される。それは一つの旅の記憶である。関守が誰が通ったか記憶してくれとか芭蕉の水鶏の句のようになる。なにもなくて通りすぎるのが淋しいともなるのだ。現代は余りにも人と人も悠長に接していられないからかえって旅の出会いもないのである。芭蕉の時代はそもそも純粋に旅だけしている人は芭蕉くらいだったろう。僧がいても本当に数があまりにも少ないのである。今はどこにいっても観光者だらけだけど旅人はいないのである。旅人は今や苦労して演技して自ら作らねば旅人になれない、自転車で一か月も旅すればなんとか旅人らしくはなる。それでも江戸時代の旅人にはなりえない。山尾三省のことを書いたけどこんなに豊かな時代に貧乏に生きることはかえって演技者のようになっているのと同じなのである。あえてそういうふうに無理して演出しないと昔に帰れないのである。

関が原は関があるからでありそこはちょうど東と西の分かれ目だった。伊吹山でヤマトタケルが死んだのは象徴的だった。山の上だから雪が残っているがそこを越えると近江の春の平野が広がっているのだ。ここからは近江であり西であり京都も近いとなる。そういう境目は意識され記憶に残る。
「トンネルをぬけると雪国だった・・・」というのもそうである。それは宮城県から山形県に入る
山寺に入る所が国境のトンネルである。そこは春でも雪が残っている。市振なども厳しい関所があった。でも沖を見ると船が通っていて関所がないとなる。あそこは平らだから境目として意識しにくい。何もそれらしいものもなくわからなかった。


関所というとき江戸時代の後半はかなりル-ズになっていたらしい。だから間道を金で案内する人もでてきた。間道をぬけても関所を番所を通ったという判子を記しをもっていないとまずい面があった。あとで取り締まられたら危険である。でも幕末の頃になるとかなりル-ズになり志士でも新撰組でも間道を通り抜けた。そういう変化のときは規制のものが破られやすい。関所なんかどうでもいい、命をかけて奔走しているからそうなる。旅には特に外国になると融通性が必要になる。言葉もわからないで自由に旅する若い人がいる。それは融通性があり臨機応変さがあるからつまり勘が働くからできるのである。言葉はそれほど関係ないのである。自分は融通性もないし勘も働かず外国ではひどいめにあったから行きたくないということがある。日本のように旅できないから嫌になった。


元治元年10月16日、前日に江戸を発って京都に向った伊東甲子太郎ら一行のうち、過去の横浜での攘夷活動が原因で幕府に追われていたという相馬藩出身の大村安宅は、神奈川の関所で、嫌疑を避けるために間道に入りました。
http://bakumatu.727.net/kyou/11/111464-oomuraataka.htm


相馬藩士に新撰組がいたのは意外だった。水戸系の天狗党は知られていた。新撰組に入ったというのはどういう経過だったのか?会津は新撰組と一体だったからわかるけどどうして新撰組に入った相馬藩士がいたのか?そういうのもまた一つの相馬藩の歴史だけどこれも誰か解明しないとわからない。


「相馬藩士と新徴組」
http://red.ap.teacup.com/hangui/1935.html


ここに詳しい、坂本龍馬も間道を通ったとかあるけどそういう浪人組とか志士とか新撰組はもう関所を無視して活動していたのかもしれない、それが時代の変わり目だったのである。

 


俳句と短歌は連作として読むとき一つのつながりを感じる、一句一首ではその背景などがわかりにくいから一連のものとして読みにくいのである。だから十句十首で連作として新たに創作しているのである。 

関所について
http://musubu.sblo.jp/article/3506731.html