2012年06月04日

秘境の大葦-地蔵木-大原の短歌十首


秘境の大葦-地蔵木-大原の短歌十首


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秘境



苔むせる樹の古りにけり墓一つここに根づくや錨草咲く


午後静か緑の深く木隠れに山鳩とまる水の音清し


水すみて磐に淵なし山女棲む常陰にして涼しかりけり


苔むせる大岩ここに千歳経ぬ隠されにしも顕われにけり


川烏奥に消えしもその流れ奥処が知らじも影深きかな


橋一つ昔の道の跡なれや草の繁きに御堂古りにき


陽の翳り山の狭間や町遠く遠田を下り大原に出る


大原も街には遠きあわれかな古き家にし老一人棲む


病院ゆ大原の方眺めけるその日を思ふ年は経にけり


人の世はかくも変れる老いの身に辛きものかも病ももちて



水無し川をさかのぼって橲原渓谷から大芦から地蔵木からさらに大古とさかのぼってゆく、川の水源はどこになるのか神秘的である。宇多川が副霊山の方から流れていた。大古の道は人跡未踏のようになっていて最近杉を切った処に大きな苔むした岩が顕われた。その岩は最近見たもので隠されていたのである。自然ではこうして未だ隠されているものがある。橲原渓谷からあそこまで流れをしたどると神秘的である。まだ奥へ奥へと流れがつづいている。山が険しくなってさらに奥には行きにくい、あそこは秘境だったのである。なぜそのように秘境と自覚できなかったのか?車があまりにも頻繁に通っていてそういう秘境の感じとはほど遠くなっていたためである。もし車が通っていなかったらこんな奥があり人が住んでいるのかとなる。おそらく江戸時代から住んでいたのかもしれない、越中からなどの移住者の古い墓があったからである。ただ明治辺りから開墾されたものかもしれない、
八木沢峠にしても道がないときがあった。江戸時代は塩の道は栃窪の方から通じていたからあそこにはなかった。車も通らないとすると神秘的な場所だったとなる。


ここは大原に通じていて遠田とあるとき実際に隠れるように田があり大原から遠いのである。大原方面と橲原方面から入植した人たちがい
た。田があるにしてもあまりにも狭い地域だから米もそれほど作れない不便な所である。ここからさらに不便な上萱に住んだ人がいた。それは戦後住んだのであり新しい。そこは消失した。人はだんだん分家するにしても不便な処に住まざるをえなかったのである。大原には病院で知り合った人がいた。あの人もどうなったのか?病気ももっているしそもそも農業はつづけることはできなかった。息子は街に住んでいる。一人で猫と住んでいると言った。今も住んでいるらしい。子供と一緒に住まない人が多い。古い家に一人で住んでいる。放射能汚染で子供をもっている家は移動したと言っていたが老人は残っている。五町の田をもっていたにしろ農業をできる体ではなかったから補償された方がいいともいえる。なぜならあの辺では農業をやめて廃屋になった所が三軒ほどあった。日本では過疎地域は老人しかいなくなっている。跡を継ぐ人がいないのである。ただ飯館村は環境がいいので外から入ってくる人たちが若い人もいたのである。


あそこは地形的に魅力ある。橲原は鹿島区の奥座敷である。そのまた奥だから秘境だったのである。車があれだけ通っているとやはり外からきた人は、そこが秘境だといっても誰も認めないだろう。
車が頻繁に通る所は秘境となりにくいのが現代だがよくよく地形を見ればいかに不便な所だったかわかる。飯館村は家が散在して秘境という感じではなかった。ただ栃窪からの道を出た共栄橋の所は道がなく森におおわれ清らかな流れが一筋あった。あの流れは道ができて消失したのが残念だった。
道を作りすぎたのも現代だった。つまり車社会になると秘境は消える。でも逆に秘湯を求める旅とかはやるのはそういうものを求めているのも現代なのである。

人間の思想もこうしたその土地の地勢とから形成される。それは健全なことなのである。都会ではビルとかしかなくそこからどうして健全な思想が形成されるのだろうか?岩もない、流れも山もなくてどうして健全な思想が形成されるのか?
そういうところから生まれる詩とか芸術は理解しがたいものとなっているのだ。健全なロゴスは形成されないのである。

抽象画は自分ながら作って不思議である。ただ偶然にできるのである。操作していてこれが秘境の感じだなというときそうなる。意外と抽象画は題が大事になる。秘境といえば秘境の感じになる。
でもまた別な見方もある。でも題がないと何だろうとなり何にも感じない人もいるだろう。
抽象画は誰でも簡単に作れる。ただそれに意味を認められるかどうかはわからない。これもやはり一種の新しいア-トなのだろう。