2012年06月22日

白鷺の詩から現代文明を考える (文明人が喪失した自然への感受性)


白鷺の詩から現代文明を考える

(文明人が喪失した自然への感受性)

白鷺の脚


白鷺の川の岸辺に一羽
悠然として優美なる姿
何か加えるものありや
何もなしかも完璧な姿
その翼と脚と嘴と
過不足なく与えられ
神の御園生に生かしめられぬ
夏の日太陽に一段と白くまばゆく
その天然の衣は映えぬ
夕風そよぎそのしなやかなる脚
その脚に絶えず水が流れている
水にひたひたと浸されている
いづこかへまた軽やかに飛びたち
白鷺は風を光を身に感じている
常に明るい光と風の中にある
その他は何も知らない
何も得ようとはしていない
完璧に神の業の賜物
エジプトの神殿の守り神
静謐なる純白の衣をまとい
水辺に菖蒲は咲きてひそまり
神にかしづき自然に調和する
いかなる災いももたらされず
神の御園生に生かしめられぬ


アオサギは定期的に蘇る命の象徴、つまり再生の象徴でもありました。というのは、浸水期になるとナイル川に必ず戻ってくるのがアオサギだったからです。アオサギはエジプトではベヌウ(bnw)と呼ばれてきましたが、一説では「昇る」とか「輝く」を表すwbenから転訛したものとされています。
http://www.lookandlearn.com/history-images/XB175586?.jpg


エジプト文明が何かというとこれも謎になった。アニミズムというのは何か?別にこれは人間が進歩しない科学的でないものの迷信的な宗教だとかなる。実際に神と崇めるのは間違っている。
しかし現代というのがこれだけ科学技術化した社会が進歩したものなのだろうかいうとき疑問がある。原発事故で科学技術もまた迷信的な宗教とも化していたのだ。安全神話が科学者によって強固に作られた。科学によってだまされていた。科学が宗教までなっていたからだまされた。

人間は意外とある面の感受性が衰退している。それは自然に対する感受性が喪失している。田舎に住んでいれば農家でなくても自然にまだ直接ふれられる。だから自然を肌で観察している。しかし都会だともう自然とは断絶している。ということは自然への感受性が喪失してしまったいることなのだ。そういう自然から遊離した文明の中で生きていること自体がすべての問題の根底にある。
アイディンティティ(自己同一化)というとき人間はもともと自然とアイディンティティ化してきたのだ。それはどこの国でも同じである。最初は密接な自然とのアイディンティティの中に生きていた。生きざるを得なかったから自然への感受性は自ずと身についていた。そうでなければ自然の中で生きられなかったのである。最初の信仰がアニミズム的になることは自然だったのである。それが偶像崇拝になっても自然なことだったのである。人間が自然から遊離するとき、現代の科学技術文明化は自然と遊離するから人間はどこにアイディンティティを求めていいかわからなくなる。そこでカルト宗教団体が都会から繁茂してくる。カルトは社会とも自然ともアイディンティティ化、自己同一化できないところから生まれてくるからだ。ビルと車の狭間で何とアイディンティティ化していいかわからない。スカイツリ-などもくだらないものでもそこに人は集中する。それも一つのアイディンティティ化を求めて都会ではそうなる。一つの山のようなものとして登山の感覚みたいなものが人工的に作られたから集中する。人は高いところに上りたいということが本能的にあるからだ。


人間の危機があまりにも人工的なものに囲まれてアイディンティティ化できないとういことから起きている。津浪でも人間の感ではない、テレビの報道に頼っているからテレビの警報に頼っているから命を失ったということもありえた。6メ-トルの津浪がくると言っても感じなかったのである。そういうときは人間の直感に頼っていた方が助かる率が大きかったかもしれない、あの地震では大阪から地震警報がでていた、そこで警報出す人が直観的にこの地震は普通ではない、震度の感覚では数字以上より大きなものに感じていたという。実際はその人間の感覚の方があたっていたとなる。すべてを機械で計れるわけがないのだ。人間の感の方があたる場合がある。人間はその感をあまりにも機械に技術にたよすぎてしまうようになった。人間の社会は今やあらゆるものが機械に頼っているから機械に頼れなくなればパニックになるのである。だから過去のアニミズムが迷信的だとかエジプト文明も動物を神とする非科学的文明だとかは言えないのである。それは自然とアイディンティティ化-自己同一化した文明の体系化だから今の科学技術文明のアイディンティティ化よりまともだとなる。科学技術文明からはまともな自己同一化、アイディンティティが作り得ないことでもわかる。


人間の言葉そのものが自然とアイディンティティ化する過程で生まれてきたのだ。日常的に使う言葉そうなっているとき自然から離れた人間の言葉自体がすでに自然と遊離しているから言葉自体が死んでいる。言葉が最初に詩だったというのは本当である。万葉時代はそうだった。大和言葉は日本の自然と同一化、アイディンティティ化する過程で生まれたのである。それが神道にも通じていた。
大和言葉は縄文時代からすでに使われていたのである。


苔むせる千歳の岩に年古りて何事問わむかしこまりあれ


千歳の岩に向かうときこの岩と自己同一化、アイディンティティ化しようとしているのだ。それが人間を作るのである。現代の宗教がカルト化するの正常な感覚をもてないのは自然から遊離しているからである。このかしこまる-かしこ-かしこい-これは何の意味だろうとなる。それは神道の祈りでも良く使われる。しかしその意味は何かわからなくなっている。でも自然に対する畏敬の念から生まれた言葉なのだろう。


世のため 人のために 尽くさしめ給へと畏(かしこ)み畏みも 申(まを)す


ここの世のため、人のために・・・ということが現代の宗教の根本的に間違っていることなのだ。

それがカルトになっているのである。神があって自然があり人間がある。自然を作ったのは神でありそういうものが実在するというのが宗教である。世とか社会とか人を第一にしていたら現代の文明こそ最もいいものだとかなる。かしこむとはすべての創造主なる神であり自然にかしこむことなのである。人は結局、権力にかしこみ、人間の作った科学技術にかしこみ、そして自然に対する感受性を喪失するとき自然の今回のような大災害にあい原発事故にもなったのである。。それはすでに予定されていたのである。


夕風や水青鷺の脛を打つ 蕪村


これはやはり鷺の脚に注目したことで同じ発想だった。あのしなやかな脚に魅力を感じる。なんともいえぬ優雅さがあそこにある。青鷺より白鷺の方が夏は一段とまぶしく映える。ただこの辺では川には白鷺がいるが田んぼがないのだから白鷺がいない、白鷺は水と一体になって存在していた。田んぼには蛙などの餌も豊富だったからである。


白鷺の飛翔(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/4710434.html


夕べの白鷺(詩)
http://musubu.sblo.jp/article/14960452.html

津浪の被害にあった小高の人と話する (一キロ先で危険を察知して逃げた、家族全員が死んだ家のわけ)

 

津浪の被害にあった小高の人と話する

(一キロ先で危険を察知して逃げた、家族全員が死んだ家のわけ)


小高の人と話したけど川原田の辺りだったのか、この人は津浪の被害に直接あった。助かったのは地震があって外に出て海の方を見ていたら空がガスかかったように異様になっていたという。海から空から異様なものを感じた。それで逃げたという。ところがそういうふうに何か異常なものを感じた人と感じない人がいた。何たいしたことはないと残っていた老人は死んだという。それは家族のなかでも同じだった。家族全員が死んだ家がありその家では誰も逃げようとしなかったのである。だから全員死んでしまった。例えば村上の辺りでもすぐ近くに城のあった小高い山がありあそこに逃げれば助かった。すぐ近くだったからである。ただここでは一キロ先というわけにはいかないから津浪が来てそれを見て助かる人はいなかった。異様に感じたときはすでに時遅しとなっていた。

助かった人の話を聞くと危険を察して早く逃げた人と一キロくらい離れていても津浪が来たときその津浪を見て逃げて助かった人もいる。一キロ先だと津浪が来ても必死で逃げれば助かったのである。後ろに山が小高い丘でもあればそこに逃げれば助かった。そういう映像は見ている。津浪に追われて逃げても急死に一生で助かっている。途中で階段を上ってのぼりきれず途中で津浪に流された人もいる。津浪は一キロ先くらいだったら津浪が来たことを察知してすぐ逃げれば助かる。大内の人はトラックで逃げて助かった。海岸に接していた所は磯部や烏崎のように全滅になった。津浪が来た時はすでに遅しとなっていた。それでも最初の一波が来たとき水があふれてきたとき危険を察して来るまで逃げた人は助かった。ともかく津浪の場合はこの海からの距離感が明暗を分けたとういこともある。ただ大川小学校のように奥の方でも被害があった。それは家にさえぎられて津浪が来たのが見えなかった、異様なものを感じなかったのかもしれない、小高の人はその前が家がさほどなく海の方が見えて空の方からも異様なものを感じて逃げて助かったのである。地震でものが落ちたとき家の中でわたわたしていただけですぐに時間過ぎてしまった。家の外に出れない、もちろん家の下敷きになった人は逃げようもなかった。海に近い人でもそうして家の中で時間をとられていたら津浪の被害にあった。家にさえぎられている所が遠くが海の方が見えにくいから危険を察知しなかったともいえるかもしれない、津浪は意外と視界が問題になるのかもしれない、一キロ先でも津浪を見ていれば必死で逃げれば助かることがあったからだ。


家族でも誰かが危険を察して強く逃げることを言えば家族全員が助かったが逆に何も言わない、津浪を来ないと思っていた家族は全員死んだりしている。例え部落で逃げろと騒いでもたいしたことないと留まった人は死んでしまった。例えば砂漠のことで話ししたことがあるが日本人の旅行者で砂漠を何度か旅した人は水のある方向に導いた。それは一つの賭けだったが経験がありその人の導きで全員が水のあるところに行き助かった。それは全員がリ-ダ-に従ったからである。津浪の場合は部落全員が日頃まとまりがあっても津浪なんか来ないよという人がいてそういう人は逃げずに死んでしまった。そういう人をいくら逃げろと言っても逃げないからどうにもならなかったのである。結局砂漠の場合、砂漠は危険な所と承知して団体で行っている。だから経験者従いリ-ダ-に従い全員助かった。

これは登山などでもそういうことがある。経験あるリ-ダ-に従って全員助かることがある。それは山も危険なところとして承知していてリ-ダ-に従うから助かったのである。津浪はそういうことがなくいくら説得しても危険と思わない人は思わなかった。津浪が来る危険だということをみんな承知していないかぎり逃げろと言っても逃げない人はいる。それは三陸でも経験しているのにそうだった。
逃げない人は逃げなかったのである。つなみでんでこ・・というときばらばらに人のことをかまわず逃げろというのはまさに説得するにも時間がない、そんなうち人を助けようとして自分が死んでしまうからばらばらでも人にかまわず逃げろとなった。津浪は全員一致で行動しにくいのである。そこには危険を感じる人と感じない人がいるしそれぞれの行動が自由だとなればそうなる。


遊牧民の社会では導く方向が大事になる。だから星が旗印になる。水のある場所、草のある場所に羊を導く方向が大事になる。そこに導く指導者がリ-ダ-が生死を決定することがあるからリ-ダ-の力は大きくなる。しかしそのリ-ダ-に従うのはみんな危険を察知しているから従うのである。そういう習慣が遊牧民の中に培われているから従う。津浪は何百年に一回くらいしかないから日常的にそういう危険を感じないからリ-ダ-がいくら逃げろと言っても従わないのである。津浪が来るとばあちゃんが言っていたけどそういうものも軽くあしらわれていた。三陸辺りでもそうなのだから日本は災害が多くても忘れやすい民族なのだろうか?水に流すとか忘れてしまう。


いづれにしろ津浪原発事故と小高の人や浪江の人は被害が大きかった。警戒区域が解除になっても店がないとか住んでいる人はほとんどいない、住む人がいないのだから店もできないとかゴミがたまっているとか国で管理しているからできないとかなかなか小高に住めない、農協の建物を仮設のようにして住まわせる計画があるそうだ。一時的にも小高に仮設を作ることになる。また浪江や小高でも相馬の方が通えるからいいという。近いからそうなる。これからどうなるのか東電では賠償を渋っているという、ただその人は長年、原発で働いていたからあまり文句を言えないという。収入は良かったという。たしかにグラフを見ても曹双相地域の経済は原発でもっていたし結構原発とかかわることで豊になっていたのである。原発に近くなればなるほど原発で働く人が多い恩恵も多かった。小高もそうだったのである。今でも火力発電所の存在は大きい、千人も雇っているのには驚いた。原町や鹿島の方にすでに家を建てた人もいる。小高には帰れないとか住めないと思っている人もいる。そこで問題なのが原町とか鹿島に働く場があれば住めるという、若い人も住むという、働く場所がないから若い人も住まないという。浪江の人も空家を借りて住んでいて二本松の移った会社まで来るまで通っているというからそんな生活が長くつづかない、原町や鹿島や相馬市にそれだけの雇用の場があれば住めるとなる。ソ-ラ-パネル発電が津浪の跡に会社が入ってはじめるというのはいいニュ-スなのだろう。雇用の場ができるからだ。



その人が言うには親戚で何人か避難生活していて死んだという、まだ弱っている病人とか高齢者は負担がかかり死んでいるのだ。避難してからまもなくも100人以上負担で死んでいるし今も死んでいるのだ。なれしたんだ所を離れると老人は弱いし病人は特に弱ってしんでいる。
これはこの状態が改善しないかぎりつづいてゆく・・・・いつ帰れるかわからないからだ。
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2012年06月23日

自然に還った夏の右田浜(短歌十首) (鵜が増えて鵜の崎とかの地名を身近に感じた)

 

自然に還った夏の右田浜(短歌十首)

(鵜が増えて鵜の崎とかの地名を身近に感じた)

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青々と草の繁れる津浪跡風にあおられ蝶一つ飛ぶ


津浪跡湿地の水に夏の日のまばゆく光り青鷺の来ぬ


広々と湿地に代わる葦さやぎ青鷺の来て餌を探しぬ


右田浜津浪の跡に鵜の群れて残れる松や夏の夕暮


五六本残れる松の形見かないたいたしかも夏の夕暮


家消えて砂原に来て鳥歩む足跡残り夏の日暮れぬ


津浪跡何か形見と残れるや庭の石残り海の風の涼しも


津浪跡残れるものは墓一つ二本の樹や夏の日暮れぬ


津浪跡神社の跡に船の名の石碑に二十ほど夏の日暮れぬ


海の鳥夕べさえずり夏日射す砂原飛びぬ津浪の跡かな


家もなく土地生業も奪われて何をよすがにこれより生きむ

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自然の状態に還ったというときそれは明かに北海道である。広大な湿地帯がまだ残っている所がある。苫小牧につけば本州とはすでに空気まで違っている。苫小牧でも湿地帯が海岸の方は広がっている。大きな沼、それあ浅い広い沼がありそこに鷺が下りてくる。それとにた風景が津浪の跡に再現している。津浪で流された家の跡が湿地化してそこを歩む鳥がいた。足跡が残っている。鵜も今日は数が増えている。津浪の跡を放置しておくと明かに北海道のような自然に還る、それは都会と違って荒寥とした人工的破壊の跡とは違っている。砂原が広がってアジサシのような海の鳥が甲高くさえづり飛んでいた。北海道でも砂原か広がって葦が繁っている風景をみる。それとにているのだ。


今回津浪にあった所は石巻とか気仙沼とか都会をのぞいては原初の状態が再現している。野蒜浜などももともと野蒜が繁る浜だから名づけられていた。人はほとんど住んでいない時があった。あそこの被害も大きかった。松原はなぎたおされ家もめちゃくちゃに破壊され駅まで破壊され線路はずたずたにされ今でも仙石線のその区間が回復していない。ただ津浪の前はいかにあそこは仙台の繁華な地帯から離れて別荘地のように住みよい場所だった。松原もあり広大な海が広がっていたのである。


野蒜駅おりて松原影静か芒の浜に鳥の足跡


こんな静かな所でもあったのだ。それが余りにも悲惨な状態になった。今回の津浪の跡はテレビなどで見ていると何かぐちゃぐちゃに壊された家ばかり見える。だから何か陰惨に見える。でも実際は都会ではないこの辺は北海道のような自然に還っているという不思議があるのだ。自然に還るということは自然は破壊されていないのだから美しい原初の自然が還ったとなる。松原も美しい光景だったけど砂原に還ったり湿地帯に還れば北海道と同じ風景になっている。おそらくこれから何年も何十年も放置していたらそうなる。原初の状態にもどってしまうということである。鵜あんなにして木に何羽もとまっているのは見たことがない、家がなく人もいないから鵜が来やすくなったのである。それも自然にもどっている。


それにしても川口神社に二十隻もの船の名前が記されていた。そんなに船をもっていた人がいたのか?
烏崎の方に確かにそのくらいの船は停留していた。その船も烏崎からはもう出ないかもしれない、松川浦が試験で漁がはじまった。烏崎は一軒も家がないのだから回復することはないだろう。するとやはり北海道のような元の自然状態に還るのか、あそこにあった津神社は江戸時代からあったものだろう。川口神社は明治時代からのもので新しい。でも右田村からも野馬追いに出ている人がいる。
右田村も烏崎村も江戸時代からあったのである。墓が一つ残っていたのは二上とあったからあそこの出身の人がいた。しかしあの墓はあの家の前にあったのか?流されて来たのだろうか?
右田浜というと鎌田一族が主な家だった。でもあれだけ船をもっている人がいたのは意外だった。

 


津浪の跡に来た鵜の群れ


茫漠たる海
砂原に風
鳥の足跡
甲高く鳴く声
余りに多くのものが
この世に記された
自然はそれをなみした
田んぼも家も砂にうもれ
湿地帯となり葦がさやぎ
ヨシキリが巣を作り
鵜が津浪に残った松にとまる
鵜に海風がそよぎ
鵜が海の遠くを見つめている
鵜の崎とかの地名が多い日本
鵜の飛行の距離は長い
鵜は海から川の奥へとさかのぼり飛ぶ
鵜の視界は広く海とともにある
夏の日海風がそよぎわたり
津浪の跡の砂にうもれた浜が暮れる
田の代わりに草原がはるかにつつき
蝶が一羽風にあおられている


鵜ヶ崎城(要害)は丘陵の舌状部を利用した平山城で地名に由来する10を数える大小の沼を掘に見立てた堅固な城でした。本丸など城郭の中枢部分は現在の岩沼駅周辺で、駅開設や宅地開発が進むと、堀は埋め立てられ土塁などの高所は削られ、ほとんど原型をとどめていません。


岩沼辺りでもあそこは街近くまで津浪がきていたし線路を越えた山まで千貫松まで船が流された伝承が残っている。かなり海に接近していたから鵜ヶ崎城があった。鵜と関係していたことは海に近いということなのだ。鵜はかなり遠くを見ている鳥である。今までは余り鵜には注目していなかった。自然の変化で注目したのである。鵜ヶ崎城は海側にあるからもあるが鵜は遠く監視している感じだから城の名には向いている。岩沼から海を思うことはなかった。仙台に近いから海を意識しない、海岸線でも相馬から岩沼まで海を意識していない、海が見えないからだ。今回は津浪でこの海岸線を意識させられたのである。東北の古代史をみるときこの原初の状態を見ないと見えない、津浪で福島県から石巻までの海岸線が一つのつながりのように見えたのである。

 
posted by 老鶯 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年06月24日

原発そのものに反対する人は誰いなかった (厳格な安全管理を要求していただけだった)


原発そのものに反対する人は誰いなかった

(厳格な安全管理を要求していただけだった)

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●安全管理ができないから反対だった


まず、原発を止めることによる直接のコストは、原発を代替するための火力発電所の追加燃料費である。現状では原発を代替できる技術は火発しかない。化石燃料価格などによるが、この追加燃料費だけで年間3兆〜4兆円ほどになる。国民一人当たり年間3万〜4万円にもなり、日本の年間生活保護費の総額よりも多く、年間防衛費に匹敵する巨額の金が失われる
http://blogos.com/article/41721/?axis=&p=1


原発の議論のやりかたはいろいろある。そもそも鉄は便利でも殺傷力がありそれで戦争で死んだ人間が多いから鉄そのものが悪い、鉄のない社会がいい、そういうふうにギリシャ神話では語られていた。鉄そのものは恩恵があってもまた災いが大きいものとなるからそういう神話が生まれた。原発だけではない、人間は長い歴史でそういうことを経験してそういう神話が生まれた。だから原子力そのものが悪いという考え方も議論すればある。そういう危険なものを操作すること自体悪いしてはならないことだという意見もある。どうしても核をもっていれば核戦争になることがありうる。核がなければ核戦争になることはないからだ。銃をもっていればどうしても銃を使うからアメリカでは銃の犯罪は減らないのだ。


そういう議論があるのだが自分がここで問題にするのはそういうことではない、あることが誤解されている。不思議なことは原発そのものに反対していた人は誰もいないとういことなのだ。今になるとそんなことあるのかというとこれは良く調べればわかる。共産党すら反対していない、前の佐藤栄佐久知事も原発そのものに反対していなかった。ただ安全管理をしっかりしてくれ、危ない情報は県に出してくれと言ってプルサ-マルに反対したのである。ところが原子力村にはばまれてそういう安全管理もできない、県でも何も言うことも安全を守ることもできないということで反対した。そうしたら検察から官僚かと政治家からマスコミから責められることになって知事を失脚させられた。そして地元もからも原発を増設しろだとか要求されて今の佐藤雄平知事すらそれを承認させられた。一地域の地元でそんな権限があるのかと思った。原発は県全体の国全体の問題だったからである。そんな狭い一地域のエゴで決められることに問題があった。今は双葉町などが棄民だとか町長が言っているけど自分たちの経過を考えると同情されない面がある。原発を推進して一旦事故になったら双葉町だけではないその立地した町民は棄民にされるのである。


原発が低コストでやれるとか石油を輸入するのにかえって莫大な金が必要だとか中東は危険だとかいろいろあるから原発がいいという議論はわかる。でも原発はそういう問題なのだろうか?なぜなら誰も原発そのものに反対した人はいないからである。ただ佐藤栄佐久知事のように安全管理の面で問題があると何度も指摘して受け入れられなかったのである。そういう東電とか政府の安全管理がいいかげんだからそのことが問題で反対していたのである。津浪のことも指摘していたし東電も14メ-トルの津浪のことを想定ししていたとかそういう危険性を科学技術者の集団なのだから衆知していた。それでもコストがかかるとかその安全対策を実施せずただ安全神話を作るためにマスコミに莫大な金を流していた。社長はコストカッタ-で出世したとか安全対策をとっていない、政府の保安院はただ飾りにすぎなかった。安全を管理する立場なのに何の役目も果たしていない、ただ国の税金をもらう無用な存在にすぎなかった。そういうことが事故で見えてきたからそのことを事故の被害者でも国民も怒っているし原発は危険だというとき根本的なところで安全管理ができないことと日本は地震とか津浪とか災害が多い国だから危険だと言っている。他の国よりさらなる安全管理が必要なのにしていないのである。


●最初に神国神話があり安全神話があった


そして戦争のときと同じ様に最初に「日本は神の国だから、天皇は神だから戦争に負けることはない」このように日本の戦争はカルトとにていたのだ。宗教だから絶対であり日本は負けることはない、負けるとかいうと非国民であり神に逆らうやつだとなりそれを言うことさえできないし言ったら特高に連れていかれたりした。つまりそれは宗教裁判と同じだった。そういう手法が問題だったのだりそれが原発とにないた。最初に安全管理をするより安全神話を作ることに精力をそそいだ。肝心の安全管理は二の次でもない三の次くらいになっていたのである。だからこれもカルト宗教ににていたのである。「安全神話」があり原発は危険な所があるから逐次隠さないで報告してくださいと知事が言っていたのにしなかった。なぜそういうことができたかと言えばそれだけの権力を知事より権力をもっているからそういうことができた。権力をもてば情報を操作できるし何でも可能だとなる。カルト宗教団体でもそれで権力をもとう必死になっている。読売新聞の正力松太郎もそうであり原発は権力をとる道具だった。カルトでは創価などでも宗教は権力をとるための道具にもなる。権力をとる動機が不純なのである。それが国民に災いをもたらすのでてある。

つまり権力が強大化して監視できなくなると戦争であり宗教独裁であり今回のような原発事故もおきる。検察から官僚から政治家からマスコミからあらゆるものが権力と一体化したらそれを監視したり何か批判したりもできない、権力の独占になり権力をもつものは当然傲慢になりお前らには権力はない、何も言うなで簡単に終わる。
世の中は結局権力だけで動かされる時危険なものになってくる。そういう権力を監視するものとして民主主義の三権分立ができた。互いに権力の監視を行わせることだし独占禁止法もできた。民主主義とは巨大化する暴走する権力の監視を目的にしている制度でもあった。それが権力の一体化強大化が戦争のときのように原発では行われた。そのことの危険性を指摘していたのだし国民も今全部が原発そのものをなくせとかではない、原発は安全管理ができないのと日本は地震国でより高度な安全管理必要なのにできないからこそ反対しているのである。


●民主主義制度は権力の相互監視が基本にある


権力一体の危険は災いとなる。権力は相互に監視すべきなものである。例えは原発などでも企業などでも一見利益をあげるものでもいいものとしてあっても便利を供給するものであってもそれが巨大化して権力化するとその企業が世界まで支配するようになる。それで世界の森林資源も破壊されてしまうなど問題が起きる。権力が対抗しておさえるものがないとそうなるのだ。つまり人間自体が権力をもつこと自体が危険なのである。だから独占禁止法ができた。政教分離もできた。宗教も権力をもったら非常に危険なものになることは歴史が証明している。そういうことに鈍感であるし原発に対しても危機感がなかった。そして権力が巨大化して制御できなくなったとき国民全体が災いを受ける。
そして権力はより巨大な権力の下に従う従属しやすいのである。マスコミでも今は資金がかかりすぎるしその資金をまかなうためにはより巨大な組織権力に従うほかない、それで東電であれ企業から
カルト宗教団体が資金源になって経営しているのだから権力の独立性がないから巨大な権力と一体化して一直線化して制御できなくなるのである。民主主義の課題は権力の巨大化、横暴化、暴走化にいかに歯止めをかけられるかなのだ。原発事故の根底に原発のコスト問題より根底にそうした権力化することの問題があったのである。

 
posted by 老鶯 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年06月25日

NHK【ETV特集】飯舘村 一年 〜人間と放射能の記録〜を見て (飯館村で混乱する人々の事情)


NHK【ETV特集】飯舘村 一年 〜人間と放射能の記録〜を見て

(飯館村で混乱する人々の事情)

●京都の伏見区に避難した若い人


NHKのこのドキュメントは興味深いものがあった。そもそも今回の震災と津浪と原発事故ではその土地の歴史とか避難した人の問題とか毎日のように全国放送のテレビで放送された。普通は地元ですらどんな人が住んでどんな生活をしているかわからない、農家でないと酪農家でないとその仕事のこともよくわからないのだ。それが毎日のようにテレビで放送されたから生々しく見ていた。

今回は飯館村を避難した人は京都の伏見区に移住していた。なぜ京都なのだろうかと思った。そんな遠くになぜ移住したのかと思った。地元出身だから親戚を頼ったわけではない、ただ受け入れる市があれば遠くでも移住している。大阪にも浪江の人が住居などを提供されて移住したのをインタ-ネットのテレビで見た。ちょうど京都の伏見区に興味をもったのは伊達政宗のことを調べていたら伏見区とは深い関係があった。秀吉が伏見城に住んでいた「最上」「政宗」と地名が残るほど屋敷があり参勤交代の江戸のように秀吉に仕えていたのである。現実に政宗もその妻の愛姫(めごひめ)も伏見区に屋敷があり住んでいた。愛姫は仙台に住んでいたのではない、伏見に住んでいて子供も生んでいる。政宗も一年とか何度も長く滞在していた。伏見から世界の情報に通じていたのである。東北だから「伊達」「最上」と並んで屋敷があり地名として残った。


まあ、それとは別にそれぞれ織田信長が最後を迎えたのが安土城にいたとき、豊臣秀吉が最後を迎えたのが伏見桃山城にいたときということで死んだときにどこにいたかでそういうネーミングになったのではないでしょうか?


築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年(慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。


露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢


秀吉のこの辞世の歌は伏見城に住んで作られていたのだ。そこが錯覚していた。大坂城のことでそれが難波の夢かと思っていた。安土桃山時代とは安土城と京都の桃山の地名からとった。桃山は華やかな安土桃山文化かからイメ-ジされて江戸時代以降にそのイメ-ジから桃山になったという。安土桃山というとき文化的なものをイメ-ジするからだ。伊達政宗は安土桃山文化にふれ瑞巌寺に立派な障壁画や茶室を作った。そういう歴史ある場所が京都伏見区なのである。

そこで飯館村の人が牛肉屋に勤めているというのも不思議である。牛を飼っていたから何かもう一度畜産の仕事に帰りたいからその仕事についたというのもわかる。それだけ飯館村や仕事に愛着をもっていた。ただもう妻の方は帰りたくない、帰れないとか言っていた。子供を自由に外で遊ばせられるからここがいいとも言っていた。ただ夫の方はなにか鬱的になったとか住居が狭いことなどや空気が影響してなったと言っていた。確かにあれだけ広々とした広い住居に四世代で住んでいたのとはまるで変わった環境になったのだからわかる。そういうことはそこに住んでいなくても予想できた。
今回の津浪原発では若い人と老人では意識に差が生じてそれがまとまりのないものになった。
老人は残りたくても若い人は放射能が危険だからと住みたくないとなる。そして老人は老人だけが住むならそこは姥捨山にされると言っていた。双葉町では棄民だと訴えていた。


田舎と都会の違いはいろいろある。土地をもっていて家があり大家族で今は四世代で暮らしている家もあった。飯館村はさらに農業酪農の村だからそうなっていた。南相馬市相馬市は中心部は街だから違っていた。飯館村は一軒一軒が隣と離れていて森につつまれ悠々と住んでいたのである。住まいとしては理想的だと見ていた。そういう所に住んでいる人が都会に住めるのかとなる。京都は確かに大阪とか東京とは多少違っている。それなりに山に囲まれて自然がある。でもやはり都会なのである。ただ景観的にあまり高いビルを建てることはしていない、それも中心部だけである。町家風の宿にとまったとき前に大きな高いマンションのようなものが建っていたのにはがっかりした。やはり都会なのである。現代は都会に住むメリットと田舎に住むメリットは医療関係が違っているだけでそれほど違わないかもしれない、病気にならない若い人なら田舎でもかまわないとなる。文化的にも差があるにしても現代ではむしろ都会の方が住みにくいのである。飯館村のように住んでいた人が都会になじめるかとなる。それで鬱的になったというのがわかる。買い物でも本でもアマゾンで注文すればほとんどどんな本で買えるからそういう点では別に都会に行かなくてもいい、本を買うために自分は仙台に買い物に行っていた時代とは違っている。


●若い人と老人の分断


飯館村の問題は本当にいろいろあるし深刻だから語りきれないだろう。その問題はさらに悪化して深刻化してゆく、実際に避難した老人の中に弱い人たちは死んでいる、孤独死も増えているという。
飯館村で奪われたものはいろいろある。土地を仕事を何世代同居の分断化で家族がばらばらにされて家族失った。近くの仮設でも孫を来るとか言っていたから若い世代と老人は分断された。飯館村だから四世代で住むことも可能だった。家は広いし家族も多ければそういうことが可能になる。それは昔ながらの生活であった。ただ他から見てわかりにくいのは牛の名前を十頭以上も書いて仮設に張っていた女性がいた。十頭以上もの牛の名前を覚えられるのかと思った。一頭一頭に名前がつけられていることは同じ家族だという意識でそうしていたという。家業としてやっている時は百頭とか飼っている工場的な感覚の経営とは違うからそうなっている。百頭にもなったらいちいち牛に名前さえつけられないだろう。家族の一員だというときその規模が小さければなりうる。考えてみると現代は何でも会社化工場化しているから家族的な経営からはかけ離れている。そうなると人間も番号になり牛だって余計に番号になってしまう。今や人間すら番号で呼ばれ統計化される。それはどこでも規模が巨大化すればそうなってゆく。


飯館村の村長が一人一人の復興をと言っているときまだ小さな村だからそういっている。一人一人をみる村の規模だったのだろう。都会だったらそうはいかない、今は宗教団体でも会社でも工場でも規模が大きいから一人一人より数として計算している。そういう人間疎外の時代である。だからこそ飯館村のような村がかえって人間的いいという人もいたろう。もちろんそうして積極的価値を認めて住んでいる人だけではない、昔から住んでいるから継続として住んでいる人もいる。田舎の特徴は土地とか家とか先祖を誰でも背負って生きていることなのである。死んだ人の写真がどこでも家に飾られているし農家だと先祖代々の土地をもっているし家ももっているし生業も受け継いでいる。そこが都会と違っている。何か都会の方が生活するなら気楽なのかもしれない、
自分も明かに家族の一人は死んだしもう一人もずっと前に死んだし他にも一人と死んだ人を背負っている。農家だったら何代も背負っている。そういう人の継続のなかでも生きているのが田舎である。代々の人の継続が若い人と老人が分断化されて失われてゆく、それにしても京都は遠すぎる。
東京でも離れると福島県でも遠くなり親の介護とか病気のときなど頼りにならない、近くにいる人が頼りだとなる。そういう時若い人がいないと老人はまさに棄民と言ったけど棄民となり姥捨山になる。飯館村では老人が住むのが嫌だというとき支える若い人がいないところではそうなってしまうからである。


●飯館村で相馬市に避難した仮設の人が解雇されたのはなぜなのか?


そのうちに日本一卑しいムラとか、日本一腹黒い除染利権のムラとか言われたら、だれがこんなムラ訪れるか。
もう昔の飯舘村は存在しない。今も。そして今後も。二百年くらいは絶対無理

こんなところに戻るのは、利権がらみのやつらに扇動されるやつか、もうあまり先がなく、故郷なしでは生きられない年寄りだけだろう


これは除染の問題だが除染が利権化して今や飯館村は村に帰れないなら賠償金をもらった方がいいとかなる。除染費用の分を金としてもらった方がいいとなる。一億円もらったら新しくはじめられるとか言う人もでてくる。除染はあまりにも課題が多すぎるからだ。

そして飯館村の人が相馬市の仮設に入ったのだがぶらぶらしているわけにもいかないので相馬市のトマトを作る農家に就職したと喜んでいたが解雇された。なぜだろうといぶかったら飯館村の人は補償金をもらっているから雇わないという。ええ、そんな非情なのかと一瞬それだけ考える人は思うだろう。テレビはそういう一部分の映像とかコメントとかに反応しやすく感情的になるのだ。なんだその農家はとかなる。でも地元でよくよく考えれば相馬市では補償金を全くもらっていない、そして松川浦辺りでは津浪の被害が大きく多くの人が死んでいる。するとそういう人たちの方が現実的に切迫して困っているのだからその人たちを雇うのがいいと判断するのも不思議ではない、この補償金問題ではいろいろもめる。本当に一人十万もらっているとすると田舎では家族が多い場合がありかなりもらえることになる。その他仕事してもらえるとなるとかなりの収入になってしまうのである。
ただ大工とか瓦関係とかは職人が不足しているからそういうことはない、ただいつまでも補償されるかというとそうはならない,いづれやはり自立させられるだろう。生活保護とは違うからである。


そこで問題が起きているのがいわき市などでは補償金で働かない避難者が批判されている。金はあるから金を使うのはいいにしてもそこで働かせられているのは地元のいわき市の人である。補償金もらっている人は毎日パチンコだサウナだとか飲み屋だとかなんかそんなことで遊んでいるのに働かせられていることに不満が生まれた。実際はそういう苦境にある人は逆に下働きで働かせられるのが普通だった。現実に関東大震災なのか北海道に移住した人は餓死したとか書いた。原発事故でも金があるからとそんなに遊んで暮らして地元の人たちはどう思うかとなる。人間は金だけではつくづく物を買えても人は買えない、これは自分も経験したからわかった。人に手伝ってもらって助けてもらうことほど容易なことはない、いくら金だしても手伝ってもらえない、助けてもらえないことがある。なぜならよほど信頼する人でないと家の中では働いてもらえない、家の財産をもっていかれてしまう。。家の中で働いてもらうことはそれほど大変なことなのである。だから避難して仮設で遊んで暮らして人に働かせているだけだといくら金があってもその回りの人は不満になるのである。


カー用品の店員は「この半年で新規会員が急増した」と話す。
「もう毎日毎日忙しくて仕方がない。
まあ商売繁盛でいいんですがね・・・」
と震災バブル景気で喜ぶはずが、
なぜか複雑な表情を浮かべる。
私が聞いてもいないのに、
「ほら、原発避難者の人は働かないでしょ・・・」
と非難めいた口ぶりで話してくれた。
http://mblog.excite.co.jp/user/kasakoblog/entry/detail/?id=18069956


津浪の被害者もいわき市にはいて待遇が原発被害者より良くないとか不満がある。結婚した人が部屋が一杯で借りることもできないとかいろいろな不満が生まれているのである。


いづれにしろ飯館村一つをとっても問題は山積みになっている。それらをどう解決していいのかわからない、先が見えない、村はやっぱり住めないからなくなってしまうのか?まだもどり生活できるのか、これから若い人は暮らすのは無理なのか、俺たち老人はどうしていいのか?そうした不安がうずまいている。一人一人でもその思いや事情は違ってくる。一人一人の復興と言っても村の人の心は分断されている。一人一人復興してもみんなが復興しなければどうにもならない、そういう問題はこれからも長くつづくのである。

 
 
posted by 老鶯 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年06月27日

出稼ぎ時代から地元の定着を望み原発事故が起きた (破壊された飯館村の平穏な生活)


出稼ぎ時代から地元の定着を望み原発事故が起きた

(破壊された飯館村の平穏な生活)

 


川俣方面へ下っていくと、中腹におせん茶屋の跡があった。赤い頭巾とよだれかけを掛けられた地蔵があった。
「旅の若い石工がこの地のお寺に頼まれて石地蔵を2体刻むことになり、先の1体目は出来上がり、後の2体目を刻むとき、泊まっていた家の娘と恋に落ち、2体目が出来上がると別れねばならないため、思いあまった石工はわざと地蔵の肩を切り落とした」
http://www.musubu.jp/trymiharu2.htm

山国である信州(長野県)では耕地が少なく零細な村が多かったため昔から(冬稼ぎ)といって秋の農作業が一段落すると農民が大量に江戸で出て奉公人になって現金稼ぎをしていた。
伊那郡高遠街の周辺は高遠石工もその一つだった。(那須の民話)
http://www.janasuno.or.jp/soumu/nasuno_minwa/168_takatoo-sekkou.pdf

 


飯館村から山木屋に出る塩の道の途中にあった石地蔵はここから来た石工だったらしい、たまたま「出稼ぎ」というキ-ワ-ドで探したらでてきた。出稼ぎは別に現代の問題ではなく江戸時代からあった。昔から農業だけではやっていけないから出稼ぎが生まれた。冬は農業も暇になるのだからその暇を活かすとういことで出稼ぎが生まれた。東北では雪深い所が多いのだから日本海側からも江戸に出稼ぎにでた。



冬季の出稼ぎが可能となった背景は、2つの理由が考えられる。
一つは、千把扱(せんばこき)の導入である。千把扱は元禄頃に始まり、大正頃まで広く使われた脱穀機で、農業生産手段の大変革をもたらした。千把扱が導入されて、脱穀作業が容易になり、年内に脱穀作業が完了し、出稼ぎが可能になった。

 もう一つは、千把扱の導入によって、冬季の収入源を失った小規模経営の農民が、否応なく出稼ぎに向かわざるを得なかったことである。

他領の酒造家が、南部杜氏を求めた理由は、南部杜氏の技術の優秀さによるものである。18世紀から19世紀の記録によれば、同じ量の米を使って南部杜氏が造る酒は、仙台領の地元杜氏が造る酒の量の約1.5倍から2倍弱にも達し、南部杜氏の酒造技術がいかに良かったことがわかる。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/264290553.html

脱穀作業がなくなり収入源がなくなった。これも現代の出稼ぎとにていた。

わら仕事や薪炭生産がなくなるなど、生産・生活資材のかつての自給から外部依存への変化で冬場の仕事がなくなっていたことも出稼ぎを可能にした。さらに規模の小さい農家の場合には除草剤の導入などで夏の労働力も過剰になっていた。

 こうして出稼ぎが可能となっていたのであるが、必要不可欠にもなっていた。
 耕耘機などの機械の借金は返さなければならないし、かつてとちがって多額の農薬代、肥料代を払わなければならなくなっていたからである。それに、薪炭やわら・ぬかなどが石油・プロパンに代わったように、これまで家族の無償労働で自給生産していた生活資材も有償の資材にとって代わられている。生産費、生活費等すべてにわたって都市の商工業から購入せざるを得なくなり、貨幣支出が増えているのである
http://j1sakai.blog129.fc2.com/blog-entry-114.html


ここは大学教授のサイトだから詳しい。江戸時代にあったことが現代にもあった。ただ現代の変わりようは大規模であった。生活の根本から変えられてしまった。江戸時代から戦後十年まではともかく自給自足で基本的な生活を支えていた。身の回りにあるもので生活していた。田んぼもない土地もないものでも自分の家でも川原の空いた土地を畑にしていた。つまりなんとか自給自足の生活をみんな心がけていたのである。またそうしなければ生きていけない時代だった。

その自給自足時代から高度成長へ急速に変わってしまった。その時出稼ぎが大きな問題となった。都会で労働力が必要となり金の卵が生まれたのもそのためである。出稼ぎも社会問題となったのもそのためである。出稼ぎが別に江戸時代からあったものだったが高度成長時代の出稼ぎ問題はまた違っていた。


「三ちゃん農業」広まる 高度成長支えた居残り家族 


機械化、農薬、化学肥料が労力を軽減させ、三ちゃん農業と出稼ぎの期間を長くした。

耕作面積の拡大とともに、コメの単作から、トマトやアスパラガスといったハウス栽培などにも広げたことで、出稼ぎは「私の周りでは、ほとんど見られなくなった」と米森さんは語る。
http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110308_02.html


NHKのアサイチで飯館村の牛を飼っている人が出稼ぎで牛をふやして地元で生活できるようになったとか言っていた。ここでも出稼ぎしていた。それも牛を飼うためにそうしていた。高度成長時代では出稼ぎで農家のことがいろいろ問題にされた。そこに急速な時代の変化があった。原発でもその周辺の町ではやはり出稼ぎ問題があり地元で出稼ぎをしないで地元で暮らしたいということで原発を誘致してそこで働くことで現金収入になり地元で生活する。ともかく農家でも電気製品から車から教育費から何やかにやと金がいくらあってもたりない時代になったのである。基本的に自給自足時代は身の回り物で貧しくても協力して生活するということがあった。でも高度成長時代から金がいくらあってもたりない時代になったのである。原発を誘致したのもそういう田舎の事情があった。基本的に自給自足の生活でいいとなれば原発も誘致する必要もなかったのである。原発でなくても工場を誘致したりアスパラガスを栽培したり飯館村のように畜産や乳牛で生活をして出稼ぎ時代は終息した。

都会に田舎から労働力が流出して都会が豊になる身代わりに田舎では出稼ぎなどで現金収入を都会でえざるえをえなかった。そこで田中首相が列島改造論で公共事業で金を地方に回した。そういう時代が高度成長の時代だった。地方の原発の誘致もそれとにていたのである。地方でかえって誘致に積極的なところがあったのである。東京に電気を供給する代わりに地元に金がおりるというのも極めて象徴的なことだったのである。その結果として東京の犠牲になったのが福島県だったともなる。


飯館村は原発の恩恵をほとんど受けていない、つつましくまでいに暮らすという平和な村でありこんなに騒がれる村ではなかった。それが一転して放射能の村とか補償金をぶんどるだけの村とかにされてしまった悲劇の村になったのである。それは飯館村の責任でも何でもない、そういうふうに原発事故で理不尽にされてしまったのである。若い人はやはり牛にこだわり仕事に愛着があるから復興牧場を浪江の人とかとも共同で起こすと言っていた。でも飯館村には帰れない、帰る帰れないとか議論しているよりもう新しい世界で悩み希望を見いだしたいというのもわかる。農業はどうしてもあれだけ汚染されてしまうとにくいからである。結局帰還できない区域とか居住制限区域とかに分断され
隣の長泥地区は帰還できない地域に指定されて5年間で一人600万支払われ隣の蕨平地区はそうでないから将来の生活設定が立てられないとか不満になり地域でも意識が心が分断されている。

もう補償金をいかにとるかしかなく地域も分断され心も分断されている悲劇である。金だけもらったからといって補えるものでもない、墓のことをしきりに言っていたけど先祖とのつながりが墓にあるからそれも金では償えない、金ですべてが解決するわけでもないのだ。ただ今や金だけがとりざたされる不幸がある。外から見ても内部でもそうなってしまっている悲劇なのである。

失われた平和の村

山と森に囲まれ平和な村があった
ついこの前までそうだった
その人たちを話題にすることもなかった
人々は田畑を耕し牛を飼い平穏に暮らしていた
もの言わぬ牛と広い土地と森と山につつまれ
平穏な村は隠されるようにあった
今はただ放射能と補償金の分捕りが話題にされる村
隣の地区とも金でもめたりと
避難した人も金の問題でうとまれる
金のことが語られないとき平和があった
それは飯館村だけではない
金が問題になるときそこに平和がなくなる
金持ちも財産でもめるし金が人間の欲をむきだしにする
平和な自然との共生の村は失われた
森の中に黙している石のように
知られざる日々が幸せだったと・・

posted by 老鶯 at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年06月28日

夏の月-夏の花々


夏の月-夏の花々


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夏の月何と思うや田もなしに


葦茂り湿地生まれて夏の月


赤枝垂青葉の中や老い一人


泰山木今年もここに咲きにつつ移らずすみぬ根を下ろすかな


矢車菊九輪草に夏菊の咲き映えにつつ町の辻かな


蛙鳴く声のわずかに田もなしに淋しきかな月も照りしも


我が庭につづしの赤く染めにつつ紫陽花の青も咲きだし映えぬ

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この辺の風景は変わった。田がないから田毎の月というのもない、田は一つの自然の風景になっていたしそれも一千年とかつづいた風景なのである。それがなくなるということなどありえないし想像するできなかった。家がなくなるということはありうる。でも街自体がなくなるということなども想像できない、蛙が鳴いてはいるけどわずかである。鷺も見えない。世の中には想像し得ないことが起きる。津浪原発事故はこれほど変えてしまったのである。ただここはなんとか動かずに住んで良かった。泰山木が咲いたけどどこかに人間は定着しないと仕事ができない、じっくり落ち着くところがないと仕事ができないのだ。ともかく年だから移住することが負担になる、病気でもあるし介護だとか動けないのである。介護している人で飯館村の人が空家を借りて住んだのも楽ではない、介護をしている人は今実に多いのだ。


赤枝垂という紅葉の木だろう。これは良く庭木として使うものである。夏でも紅葉色である。楓は夏は青い葉だがこれは夏でも紅いのである。だからこれは老人をイメ-ジする、一方で今は若葉から青葉の季節である。写真は自分の庭ではない、他者の庭でも庭は一つの自然だから庭に木があると隣にも影響する。青葉は若さを象徴するしこの木は老いを象徴しているのだ。


先日は晴れたので仙台から松島に行った。俳句20句とかまた作った。松島は浄土であり鎌倉時代から修行の場であり聖地、霊場だったことがわかった。それで興味をもち松島をテ-マに一冊の本を書けることが見えてきた。俳句20句とか文を添えればかなりの大作である。人間はつくづく身近な所を見逃している。松島は近くで良く見ていなかった。今は日帰りでしか行けないけど松島は行ける。
月がでるとき松島は美しい、夜の松島はまだ見たことがない、交通は不便になったがなんとか行けるだろう。松島は歴史的にも特別な場所だった。

2012年06月29日

海中花-海中蝶(抽象画)


海中花-海中蝶(抽象画)

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海中花

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海中蝶

これも偶然だった、蝶になっていた不思議である。万華鏡にしてみると抽象画が作りやすい
これは化学反応と同じであり何がでてくるかわからないのだ
こんなものができたのかと驚く、これだけ蝶の形が現れることはあまりないだろう
やはり抽象的なものになりやすいからだ


今日の万葉集の一首 (美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)


今日の万葉集の一首

(美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ


万葉集は日本人と日本の汚されないときのアイディンティティとして作られた。ただ恋だけのものとしたら浅薄であり自分の場合は評価しない、人によって万葉集も評価は違うし見方も違う。
ただ日本の原自然との共感として貴重であった。それは大和言葉と日本の原自然が一体化したものであり今になるとそのアイディンティティは失われた。神道の心は万葉集にあった。

神聖にもみえる人の手の入らない清浄なる真砂土(まなごつち)の上にかしこくも人がある。今でもわずかにそうした砂浜があったがほとんどの砂浜はコンクリ-トの防波堤となり消えた。その防波堤が津浪で破壊されたのには驚いた。そのまま自然にまかせればまた砂浜になってしまうのか?
磯部はもともと砂州であり人が住めなくなって元の原始の状態にもどった。


万葉集の時代の自然にふれたらその感激はいかなるものになるだろうか、日本はこんなに美しい砂浜がつづいていたのかと驚嘆するだろう。あまりにも海岸線の美は人口化して破壊されてしまったのである。その時同時に日本人の心も失われたのである。真砂土がありその心も真直であれば人は嘆く必要はない、これはキリスト教の罪の意識とは違っている。キリスト教の罪の意識は深刻なものであり絶えず生きた動物が犠牲にされて清められていたのである。


日本ではもともと自然がこのように極めて美しいものだった。手つかずの自然はまさに神がそのまま住むような世界だった。どこも神の庭となっていたのだ。日本の自然そのものが人の心を浄化するものだった。だから罪はつつむだとかつつみかくされるとかつつましいとかいう大和言葉が生まれた。つまり自然の美の中に罪が隠されという感覚になった。もちろん人が存在するだけで焼き畑でも原始的生活でも自然を破壊した。だからギリシャでもヘシオドスは人の営みを隠せと言った。自然の中に隠す自然がまだあったのである。今や人間の生活は都会だとむきだしになっておぞましいほどになっている。そこに美はないのである。


どんなに繁栄してもそこに美がなく醜いものがむきだしになっている。そこに日本人の心は養われるだろうか?日本は自然が失うとその心も失うのである。真直なる心は神に通じる心である。真直なる心というとき日本の武道はもともとは真直なる心を醸成するものとして真直なる体と心を作るものだった。欧米のスポ-ツとは競争心とは勝つことだけを主眼とした闘争的なものとは違う。日本の武道は中国とも違う,何か精神的なのがある。日本では神道では道を究めるというとき職人でもそうだった。そういう伝統があったがオリンピックなどでも失われた。何でも欧米化することは古来の日本人の心を失うことに通じていたのである。ではキリスト教は日本人に必要ないのかというとそうではない、内村鑑三とか手島などのキリスト教は日本的な心を基にしたキリスト教なのである。日本的伝統を否定していないのである。ただそもそも日本的伝統といっても神道でも仏教でも賽銭と御布施ばかりを要求する堕落したものしかない、そういうものではない純日本的なものとしてあったものの再生なのである。
その真直なる心が喪失したらいかに文明として豊に繁栄しても虚しいとなり絶えず嘆きの声だけが充満しているのである。原発事故の放射能汚染も日本のこの神聖なる自然を汚したから大罪だった。むしろ神によって原発は忌むべきものとして破壊されたのである。日本の神が怒り破壊したのである。


日本から日本人の心が失ったというとき自然が破壊され失ったことが根源にある。それと同時に真直なる心も失って殺伐とした風景となった。都会には文明の殺伐とした風景しかない、東京にいて心安らぐなどという人はいないだろう。そういう所に人間が住んでいること自体、人間の感覚は麻痺している。美の感覚も麻痺している。もちろんそんなところから美が詩が創造されることはない,歪んだロゴスを喪失した言葉しか生まれない、言葉自体が日本の原自然をオリジナルとして生まれたのだから当然である。結局都会は大規模に日本の神によって地震であれ津浪であれ今回のように破壊されるのではないか?その醜い文明の産物なる都会を破壊するのではないか、なぜかえって風光明媚なみちのくの自然が破壊されたのか?それは次なるもの大都会が集中する西に向かっての警告だった。
次なる大規模な破壊が日本に起こる、それは神の怒りだったのである。


今でも神聖なる場所は意外に身近な所にもある。松島の赤い橋を渡ったところの渚には春になっても雪が残っている。それが手つかずでありあそこにふれるものはいない、だからすがすがしいのである。遠くに金華山も見えて春には気持ちいい場所である。人間には人の営みがなく全くの自然が作ったままの状態の所があるべきなのだ。万葉集時代はそういう場所がいたるところにあった。江戸時代にもあった。だから日本人の心は欧米人より真直だったのかもしれない、欧米人の心は物質的に欲望が深い、奴隷貿易でも世界の富を集めて豊になった経過もある。中国人もあらゆるものを食して人肉も料理の内だったとなるほど貪欲なのである。日本人の心は何か淡白である。それは牧畜民族ではない、漁労民族、採集民族の淡白さが縄文時代からあったからだろう。それはとりもなおさず日本人は日本の特殊な風土によって特別美しい自然によって作られたということになる。日本人が欧米化したときそれにならって好戦的になり貪欲になったのである。日本独自の文明があるというとき、それは日本の自然に根ざしたものでありそれはドイツの文化がゲルマンの森が生まれたというのと同じである。自然にアイディンティティがありそこから深い思想でも文化も生まれたのである。


別に日本だけが美しい場所ではない、ギリシャでも花々は乾燥地帯だから色鮮やかだし南国のジャングルだって美しいしヒマラヤの美はとても日本では創造すらできない神々しいものだった。グロ-バル化の時代は世界の美にふれられる。ヒマラヤに十回も行ったという人には驚く、ヒマラヤに魅せられて50代くらいの若い女性の医師が死んだことがあった。ヒマラヤに魅せられて死んだのである。
そういう死に方もある。ヒマラヤはそれだけの価値があるのだ。日本人だったら富士山を見て死にたいと思ったのと同じである。山にはそれだけの魅力がある。その美はとても文明の構築物の比ではない、ただ日本の自然はやはりまたかなり違った自然であり一つの神の別な創造の産物であった。

日本が一つの海に囲まれた宇宙を形成していたのである。それで江戸時代の鎖国がありそこに日本心の心が養われたことは確かである。それが欧米化や極度な文明化で破壊されたのである。だから豊になってもただ嘆くことばかりが多いのである。伝統が失われることの深刻さは一旦失うと取り戻せなくなるということである。自然もそうだけど義理人情など古いというけどそういうものすら今やなく殺伐としている。金だけが唯一の価値となっている。過去に普通にあったものを取り戻すことができなくなる。その深刻さを考えないで欧米化した。それも浅薄なところで欲望だけを追求するものとして欧米化したから今日の殺伐とした自然にも心にもなったのである。津浪だってだから自然の側からすれば自然のバランスをとることであり清めの作用だったかもしれない、無情といえば無情なのだけど自然に清めの作用が働くことがありうる。それが信じられないとてつもない災害となりうる。それも神の働きともなる。人間の想定外ものもとして働くのが神だからである。


松島の島陰の渚残る雪人しもふれず清しかりけり


松島がもともとは霊場だったというのがわかる。松島の自然は今でもそういう名残は残っている。日本では美しい場所はどこも霊場となっている。松島の歴史はそれだけ古いものなのである。

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夏の松島俳句二十句と写真に御期待!
posted by 老鶯 at 03:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2012年06月30日

夏の日函館(詩)


夏の日函館

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夏の日よ
白く波は砕けぬ
立待岬に波は砕け
北の海が吠える
エゾスカシユリの花は咲く
崖に吹き上がるしぶきに咲く
あわれ啄木の墓よ
函館よ
北海道の玄関口よ
船はまずここにつきぬ
青函連絡船の汽笛は鳴りにし
開拓の内陸の入り口よ
新天地を求めし新たな大地
夏の日よ
波は白く砕けちる
鴎は街の上をとびやまじ
函館の栄えし日よ
明治の日はここにある
学びに貿易に新しい風は起こる
異人の墓地に眠る人々よ
矢車草の青い花は咲く
坂に尖塔は高く教会の鐘が鳴る
函館よ
夏の日よ
白い波がおしよせ砕け散る
青春の時よ
今路面電車は古びし街路を
記憶をたどるように走る
北海道よ
火を噴く火山よ
荒々しい自然が息づく北海道よ
明治の日よ、若き日よ、夢の大地よ
北海道に挑む開拓者の若き挫折よ
汝の無念を深く心に刻め
そして再び燃え上がる熱情の大地よ
広大な地平線よ
函館より北海道ははじまる

 
北海道は十回くらい行ったから第二の故郷である。なぜそうなったのか?梅雨の時期に船で行きやすかったのである。だから苫小牧まで船で行き北海道をめぐることになった。だから意外と花咲く時期に行っていなかった。梅雨の時期には六月頃はそれほど咲かない、一面に原野に咲いている花をあまり見ていないのだ。なかなかいいときに見れることはない、でも自転車で苫小牧から稚内まで行った。自転車とかバイクのツ-リングには向いているのが北海道であった。


函館には最初の内何回も行っていた。北海道の入り口だからそうなる。あそこはやはり波が両方の岸から砕ける、独特の地形になっている。あそこては常に波を感じるのだ波がくだけているのである。啄木が東海の小島といったとき島のように感じたからである。回りに波がよせてくだける。常に波を感じる街だからあういう地形の所は世界でもめずらしいだろう。


函館は栄えたときは明治であり明治はやはり日本の夜明け、近代の開かれた時である。明治は青春だったのである。クラ-クとか内村鑑三がキリスト教を学んだ時であり日本が世界に開国して新鮮に外国を学ぶ時だった。その青春の舞台が北海道だったのだ。「明治が遠くなりにけり」といいうとき青春が遠くなったのである。明治はやはり日本の伝統と外国の文化が合体した時でありそこに人物も生まれたし新しい時代が生まれた。


もちろん猪狩満直のように北海道で開拓に挑み挫折した人も多い。でもやはり明治のとき北海道が一番輝いていたのである。アメリカだったらホイットマンのフロンティアだったのである。日本は時代的にはもはや欧米化してすでに老大国のようになっているのかもしれない、青年の時代は過ぎてその活力も衰えた老人である。確かに高度成長時代は物質的欲望を追求して充たされた時代である。それが今や経済も衰退して老人国と化してゆく、函館にしても偲ぶのはすでに今ではない、過去になってしまったのである。栄える場所は歴史的には常に変わってゆく。

ベネチアも衰退して過去の栄光のみがあり過去の栄光に浸っているだけである。函館ともにている。そういう場所はいくらでも世界にはある。

ただ自然は変わらないし北海道の魅力はある。ただ時代的に明治のようなフロンティアの時代感覚はない、それでも北海道は苫小牧から空気まで違った感覚になる。北の花々にいろどられる。それは本州の花々とは違っている。ルピナスの花が咲いていたりと違っている。水田がないことも違っている。一番の違いは水田がないことかもしれない、この辺が水田がなくなって草原化して北海道になったということを何度も書いた。水田がなくなると北海道化することを実感したのである。