2012年06月01日

樹への思索 (長い時間で育まれたものを失った現代)


樹への思索

(長い時間で育まれたものを失った現代)

根をどこに持つのか?
日々生活する場が根である
それぞれに住む場が根である
それが故郷でありまた他の場もそうである
その根になる基に大地がある
樹を育てるのは大地の養分である
大地の力はなかなか意識されない
でも大地の実りの成果が
樹となり果実となって形となり実となる
大地は親であり樹は子である
樹は成長するのに時間がかかる
深く根を張るのに時間がかかる
縄文杉は一千年の寿命があるとすると
それは大地の主のようになっている
息が長いものでないと大木には育たない
人よ、大木になることを目指すべし
一本の樹は樹のみを語るものではない
大地を森を語り万物の命を語る
百年で消えるものに真実はない
千年語るものに真実がある
千歳の重みある石に真実がある
真実や愛は時間で育まれる
短い時間ではどんな人も本物になれない
長い時間で知らず成長するものがある
樹は深い木蔭をなして人を憩わす
樹は哲学者であり瞑想している
実存の深さと重みを備えている
だから何物にもたじろがない
大地と血脈を通じ一体化している
樹は大地の霊であり霊樹となる
それは神秘的な命の精なのである

 


 成長を欲するものはまず根を確かにおろさなくてはならぬ。
 上にのびる事をのみ欲するな。まず下に食い入ることを努めよ。


 早年にして成長のとまる人がある。根をおろそかにしたからである。
 四十に近づいて急に美しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。下に食い入る事に没頭していたからである。


 私の知人にも理解のいい頭と、感激の強い心臓と、よく立つ筆とを持ちながら、まるで労作を発表しようとしない人がある。彼は今生きることの苦しさに圧倒せられて自分のようなものは生きる値打ちもないとさえ思っている。しかしそれは彼の根が一つの地殻に突き当たってそれを突破する努力に悩んでいるからである。やがてその突破が実現せられた時に、どのような飛躍が彼の上に起こるか。――私は彼の前途を信じている。根の確かな人から貧弱な果実が生まれるはずはない。


樹の根(和辻哲郎)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49886_42648.html



和辻哲郎というと「風土」で有名でありこれは最初から読んだ。だから風土とか地理に興味をもち旅行して地名に興味をもち地形に興味をもった。風土から文明を論じるのはわかりやすいのである。
風土の影響で顕著なのはドイツとフランスである。やはりドイツにはゲルマンの深い森があったからその文化も違うものとなっていた。今はその森がないが寒い所なのである。北方の深い森がゴシックの大聖堂を作ったというのがわかる。文化と風土は一体なのである。 明治維新以後変わりすぎたのが日本だった。江戸時代まで育まれた長い時間で育まれたものを根こそぎ変えてしまったのである。一見それこそが革命であり日本を救ったと思っている。しかし日本の長い時間で育まれたものが根こそぎ失われた影響は余りにも大きかったのである。戦後も敗戦でアメリカ化したのもそうである。つまり日本人はすでに日本人たる根っこをもたないのである。何が日本人の根っこなのかもわからない、日本的モラルでも義理人情でも江戸時代にはあった。そういうもの最低限のモラルさえなくなった。そしてむきだしの欲望民主主義であり金になるものだけが価値あるものとしてがむしゃらに追求してきた。つくづく一旦モラルなど伝統的なものを失うと回復できないのが深刻なのである。何が義理人情だよ、馬鹿げている、金だよ、金だよと言ってはばからない、伝統的なものを失うとそうなってしまう。そうしてもはや取り返せないのである。かといって新しいモラルが生まれるわけでもないし作られるわけでもなかった。だから金だけを頼りにしたモラルなき社会に今はみんな生きているのである。それはとりもなおさず弱肉強食である。金さえもらえばいい、あとは関係ない、遂に相手をだまして盗んでもいいんだとなる。モラルがなくなればみんなそうなるのだ。ただ法律にふれると罰せられるから露骨に言わないだけで心の中でそう思うようになっているのだ。


明治維新後の教育なども根本的に間違ったものだった。教育に関しては江戸時代の方が良かった。
藩の教育などの方が良かった。寺子屋の教育すら今より良かった。人間と人間の信頼関係の上に成り立っていた。シンプルな世界だからそうなったともいえる。人を蹴落としてまで立身出世主義だとか欲望を充たせるとかなるのは教育ではない、人間を野獣化する教育であった。でも現実はそうなってしまっていたのである。そして土地から切り離されて都会化した人間となっていた。みんな土着的な生活をしていたから土地と結びついて生活していたからそうなった。一つの藩が狭いとしてもそこが基本となり世界観になっても全体的になっていたのだ。今はグロ-バルになったとしてもその基本の所で全体的思考が身につかないのである。都会だったら自然と遊離しているから自然と人間が一体のものとして考えられない、つまりミクロコスモスがないとマクロコスモスもないのである。自然の上に思想が形成される。
ところが都会では自然が大地ぬきの世界観になってしまう。そこではユダヤ人の金融だけが頼りの世界観とか批判されるものになる。紙幣に価値があるのではない、その紙幣として価値づけられるものに価値がある。いくら紙幣をためてもそれは紙でしかないからある時紙屑になる恐怖が常にあるのだ。江戸時代にはそれほど金が価値をもっていなかった。グロ-バル化とはそういう江戸時代のミクロコスモスの破壊の上に成り立っていたのである。


和辻哲郎でも七十歳しか生きていない、今だと平均寿命にもなっていないが長生きした方となるのだろう。今だと十年、二十年、寿命が伸びているから四十歳より五十才とか六十才以上でその人の貯えたものが花開くことがある。どんな平凡人でも何をかを貯えているのだ。知識でも経験でもそうである。それが花開くのが五十以上になっている。四十では若すぎるだろう。ただ自分を例にとれば才能があるからではなく凡才でも年になるとわかるものがあったということである。詩などもいいものが書けなかったし理解もできなかった。詩など書けなくても他者の書いたものも理解もできないのである。特に中味のある古典的なものはなかなか理解できないのである。この文章からなるほどなと思い付け足しのように書いてみた。インタ-ネットだと古典の引用がしやすくなるのだ。こんな文章があったのかと本では読んでいてもこれは読んでいなかった。ただたまたまにしか発見できないのも困るのである。樹のことを書いていたので調べていてたまたま出てきたのである。


要するに樹を知るだけで樹自体どれだけ語り尽くせない奥深いものをもっているか理解するだけで時間がかかるのだ。時間をかけないと真実はわからない、人間関係でも今は江戸時代のような長い時間で育むものになっていない、相馬藩は三百年つづいたとすると代々勤めているのでありそういう長い時間で培われたものがある。信頼とか愛情なども一年とかで育まれることはない、手伝いさんやヘルパ-などが今の時代、即製に一時間とか家に入ってくる人は本当に危険である。昔の金持ちのように十年間とか勤めていれば信頼できるが全く信用できないからだ。今はまず金だけを求める信じられない人が普通になっているからだ。人間関係自体金しかなくなっているからだ。江戸時代だったら長い時間で人間関係が築かれていた。もちろんそれがかえって縛られるとかでそこから脱したいということも働いた。でも現代は何事、長い時間で考えられない、ただ今を享楽して今を贅沢して今さえ良ければいいとなる。刹那的快楽主義になっている。だから原発でも日本のような地震国にどれだけ危険なことか百年後のことなど考えなかったのである。原発は百年後に事故が起きたら日本が滅亡するという危険なものだった。そういう時間の長さで考えることがなくなっていたのである。

今この辺で故郷を失ったらどうなるのか?つまり根っこが失ったらどうなるのか?そいうことが問題になっている。故郷がなくなるなどとういことを想像もしなかった。それが現実となっている。根本的に根っことなる場所を剥奪されたのである。根無し草にされてしまった悲劇がある。他で根をはるにしても時間がかかる、老人はもう根を張ることができない、すると絶望して自殺する人がでてきているのだ。故郷そのものがなくなるなどとは想像もしなかった。それは存在の全基盤を失ったことではないか?もちろん金さえあればいいとなるが金で埋められないものがある。それは金に代えられないものであった。そのことをしみじみ故郷を離れた人は思っているかもしれない、原発事故はだから戦争よりひどいと言っていた人もいた。それもわかるのである。

2012年06月02日

きりのはなの章

 

きりのはなの章


きりのはな

そらにうつり

みずにうつり

ちりもつかじ

たれそしる

ほのかにひるのつき

ささやきにけり

くもりなき鏡

そのすみにひそか

きりのはな

つつしみふかく

さきてあるかな

なにをかいわむや

なにもいわじ

ありとしもなく

きりのはな

かみのまそ鏡に

うつりてあるかな

 


まそかがみ みあかぬきみに 

おくれてや あしたゆふへに 

さびつつをらむ

        沙弥満誓

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2012年06月03日

菖蒲(相馬の見どころはどこに)


菖蒲(相馬の見どころはどこに)

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我が町の路地裏淋し墓所通り民宿一軒菖蒲咲くかな


町中の畑に菖蒲雨しとと今日この道我が通るかな


草深く鶯鳴けり雨しととわび住まいこそ我が町よけれ


白藤の咲きにしあとに白菖蒲咲きしもひそか墓所の道行く


草原に夕日の没るや黄菖蒲の咲きて田もなし花のみ映えぬ


人は去る町にもあわれ菖蒲咲く草原淋し夕日没るかも


二本の松の残りぬ港なれ船は来じかも鴨の浮かびぬ


(忘れな草)

忘れな草なお我が庭に咲き苧環の花は散りにきうつる季かな


忘れな草苧環とともに咲きにしを忘れな草の忘れざるかな


忘れな草おだまきの花と咲きにしをたれかしれるや忘れずにあれ


我が町というとき何か目立ったものもない、それでもそれなりに特徴がある。地域の地形はわかりにくい、日本の国の魅力は地形にあった。狭い地域でも地形が複雑なのである。山あり谷あり海ありと複雑なのである。そしてこの地形はなかなか一回くらきてはわかりにくいのだ。この辺でも南相馬市でも相馬市でもわかりにくい、地元に住んでいても意外とわからないのである。
橲原から橲原渓谷を通って大芦とか地蔵木の所は山が迫って落ち込んだような地形であり複雑である。あそこが秘境だったと言った時、山の狭間であり平坦な地がないから耕作には適していない、それでも人が住んだ。あそこが秘境だったということをまるで気づかなかったのは自動車が頻繁に通るようになったからである。それで写真をとった二輪草が咲いていた所には車からなげられたゴミがたまっていたで幻滅したのである。橲原は鹿島区の奥座敷であり大芦などは秘境だった。


隠処の 沢たづみなる 岩根ゆも 通して思ふ 君に逢はまくは

こもりづの さはたづみなる いはねゆも とほしてぞおもふ きみにあはまくは


こもっている・・岩根をながれてゆく水・・・こういう地形があそこだった。こういう地形は日本に多いのである。外国は渓谷のようなものが少ない、外国人が観光で行った渓谷は岩だけであり水もともしくあんなところが渓谷かと思った。でも外国人にはめずらしいものだったのである。日本ではありふれている。日本はだから自然では観光するには恵まれているのだ。満州のようなどこまでも平坦なとうもろこし畑にはうんざりしたからである。狭い地域でも地形が複雑だからあきないのである。歴史的には相馬の城に行く日立木の細道が魅力的である。日本は曲がった細道が多かった。まっすぐな道は少ない、だから奥の細道になった。


細道になり行声や寒念仏 蕪村


細道に消えてゆく姿がここにある。江戸時代の道は今の道とは全然違っていた。細道が多く曲がった道が多かったのである。田んぼすら曲がっていたから曲田(まがた)という地名が多いのである。
人間は今旅ができない、自転車で旅している人がいたけどたいがい六号線を旅しているからこの辺の地理もわからずに終わる。この辺の旅は海から山に向かってするものなのである。そうしなければ地理がわからない、地形もわからない、六号線だと日立木の旧街道も通らないからわからないのだ。
高速道路など通ったらさらにわからない、そこに細道は消えて旅の情緒は消える。鹿島区などでもまず海から山への道をたどると変化がある。橲原は奥座敷であり大芦などは秘境になる。八木沢峠を自転車で上って行った青年がいたけどあれは辛い、自転車の危険はあういう高すぎる峠があることなのだ。ただその峠を越えたとき確かに日本では本当に旅したことになるのだ。車で峠を一気に越えると峠を越えたという感覚がなくなるのである。峠が一つの記憶するポイントとなるのが日本なのである。霊山から行合道を通って佐須に入る峠もビュ-ポイントとなる。吾妻山が見えるからである。

結局日本は地形が複雑だから地名も複雑であり狭い地域でも地形的魅力はどこにでもある。ただこの辺では新地から仙台の方は魅力にともしい。阿武隈川にでると蔵王が見えるから地形的変化がでてくる。


峯の上も同じ月こそ照らすらめ所柄なるあはれなるべし 西行

日本ではどこにも所柄なるものがあり見える月も違ってくるのである。それだけ日本の地形には変化があるのだ。平原のような月だったらどこも変わりないと見えるかもしれないからだ。


ともかくこの辺はまた自然が変化してしまった。津浪の跡が草原化したのと原発事故で田んぼが放置されて草原化してしまったことである。この風景も何度も書いてきたけど不思議としかいいようがない。もっと不思議なのは警戒区域では人は入れないがそこも草原化して菖蒲などが咲いている。人がいなくなっても自然はおなじように知らず花は咲いている。人が知らない所にも花は咲いていた。
原始の状態はそうだった。その原始の状態にもどったという不思議がある。実際田んぼ人工的な風景だったのである。松原もそうだった。も

ともと松原も田んぼもない北海道のような湿地帯が原初の風景だったのである。そういう原初風景にもどったという不思議がある。

この辺はもともと歴史的に見る場所がない、わび住まいに適した場所だったのである。それでも別にみるべきものは自然はある。町には確かに一軒の民宿があるだけである。あそこの垣根には菖蒲が咲いている。あとは墓所の道を通り何もないといえばない、最近は仮設の店ができてにぎやかになったことである。田舎は自然は一回くらい来てみてもわかりにくい、岩手山とか目立った山などがあれば目印になるからわかりやすいが自然の魅力はわかりにくいのである。自分が書いたものを読めばとこがポイント多少わかるかもしれない、何もみるべきものがないじゃないかとなるが実際はどこの田舎でもみるべきものはある。だから田舎は一晩泊まるという観光ではなく一週間とか滞在するのに向いている。そうでないとただ通りすぎるだけになってしまう。
 
 
 

2012年06月04日

秘境の大葦-地蔵木-大原の短歌十首


秘境の大葦-地蔵木-大原の短歌十首


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秘境



苔むせる樹の古りにけり墓一つここに根づくや錨草咲く


午後静か緑の深く木隠れに山鳩とまる水の音清し


水すみて磐に淵なし山女棲む常陰にして涼しかりけり


苔むせる大岩ここに千歳経ぬ隠されにしも顕われにけり


川烏奥に消えしもその流れ奥処が知らじも影深きかな


橋一つ昔の道の跡なれや草の繁きに御堂古りにき


陽の翳り山の狭間や町遠く遠田を下り大原に出る


大原も街には遠きあわれかな古き家にし老一人棲む


病院ゆ大原の方眺めけるその日を思ふ年は経にけり


人の世はかくも変れる老いの身に辛きものかも病ももちて



水無し川をさかのぼって橲原渓谷から大芦から地蔵木からさらに大古とさかのぼってゆく、川の水源はどこになるのか神秘的である。宇多川が副霊山の方から流れていた。大古の道は人跡未踏のようになっていて最近杉を切った処に大きな苔むした岩が顕われた。その岩は最近見たもので隠されていたのである。自然ではこうして未だ隠されているものがある。橲原渓谷からあそこまで流れをしたどると神秘的である。まだ奥へ奥へと流れがつづいている。山が険しくなってさらに奥には行きにくい、あそこは秘境だったのである。なぜそのように秘境と自覚できなかったのか?車があまりにも頻繁に通っていてそういう秘境の感じとはほど遠くなっていたためである。もし車が通っていなかったらこんな奥があり人が住んでいるのかとなる。おそらく江戸時代から住んでいたのかもしれない、越中からなどの移住者の古い墓があったからである。ただ明治辺りから開墾されたものかもしれない、
八木沢峠にしても道がないときがあった。江戸時代は塩の道は栃窪の方から通じていたからあそこにはなかった。車も通らないとすると神秘的な場所だったとなる。


ここは大原に通じていて遠田とあるとき実際に隠れるように田があり大原から遠いのである。大原方面と橲原方面から入植した人たちがい
た。田があるにしてもあまりにも狭い地域だから米もそれほど作れない不便な所である。ここからさらに不便な上萱に住んだ人がいた。それは戦後住んだのであり新しい。そこは消失した。人はだんだん分家するにしても不便な処に住まざるをえなかったのである。大原には病院で知り合った人がいた。あの人もどうなったのか?病気ももっているしそもそも農業はつづけることはできなかった。息子は街に住んでいる。一人で猫と住んでいると言った。今も住んでいるらしい。子供と一緒に住まない人が多い。古い家に一人で住んでいる。放射能汚染で子供をもっている家は移動したと言っていたが老人は残っている。五町の田をもっていたにしろ農業をできる体ではなかったから補償された方がいいともいえる。なぜならあの辺では農業をやめて廃屋になった所が三軒ほどあった。日本では過疎地域は老人しかいなくなっている。跡を継ぐ人がいないのである。ただ飯館村は環境がいいので外から入ってくる人たちが若い人もいたのである。


あそこは地形的に魅力ある。橲原は鹿島区の奥座敷である。そのまた奥だから秘境だったのである。車があれだけ通っているとやはり外からきた人は、そこが秘境だといっても誰も認めないだろう。
車が頻繁に通る所は秘境となりにくいのが現代だがよくよく地形を見ればいかに不便な所だったかわかる。飯館村は家が散在して秘境という感じではなかった。ただ栃窪からの道を出た共栄橋の所は道がなく森におおわれ清らかな流れが一筋あった。あの流れは道ができて消失したのが残念だった。
道を作りすぎたのも現代だった。つまり車社会になると秘境は消える。でも逆に秘湯を求める旅とかはやるのはそういうものを求めているのも現代なのである。

人間の思想もこうしたその土地の地勢とから形成される。それは健全なことなのである。都会ではビルとかしかなくそこからどうして健全な思想が形成されるのだろうか?岩もない、流れも山もなくてどうして健全な思想が形成されるのか?
そういうところから生まれる詩とか芸術は理解しがたいものとなっているのだ。健全なロゴスは形成されないのである。

抽象画は自分ながら作って不思議である。ただ偶然にできるのである。操作していてこれが秘境の感じだなというときそうなる。意外と抽象画は題が大事になる。秘境といえば秘境の感じになる。
でもまた別な見方もある。でも題がないと何だろうとなり何にも感じない人もいるだろう。
抽象画は誰でも簡単に作れる。ただそれに意味を認められるかどうかはわからない。これもやはり一種の新しいア-トなのだろう。

2012年06月07日

現代の万葉集の意義 (自然から離れた都会はカルトの温床)


現代の万葉集の意義

(自然から離れた都会はカルトの温床)



現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな


渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため.


水泡なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年の命を  大伴家持


日本人の心の根源に万葉集がある。万葉集は日本の風土と一体化したことに意味があった。現代では日本の風土と一体化する、アイディンティを求めることがむずかしい。どこの国でも自然と一体化することが神を尋ねる道である。ビルと車の騒音なのかで神を求めること尋ねることができない。
結果的に宗教は政治化して経済化してカルト化する。オウムも異常なものに見えてもやはり現代という環境が作り出したものである。その中で有為な青年が今や五十代とかなりその青春を浪費して人生を浪費した。古代のように自然の中に道を求め尋ねていたらこうはならなかったろう。結局文明自体の歪みがオウムであれ創価であれ様々なカルト団体を生み出ししているのだ。自然の山や岩や樹とかに自己をアイディンティ化したら自己同一性を求めたらあのようになることはなかったろう。
これは原発の安全神話にも通じている。これも一種のカルトだったのである。科学を絶対化して科学者にだまされたのである。科学者も科学を宗教のように絶対化した詐欺師だったのである。


万葉集の意味は時代によっても違ってくる。戦後は大君、天皇への忠誠心として過剰に天皇礼拝になりすぎたのである。大伴家持の大君への極端な傾斜は古代ではやむをえなかった。それが明治維新で過剰に利用されたのである。江戸時代まで天皇は京都で貧しい生活をしていた。それが明治維新で過度にもちあげられすぎたのである。それが皇国の戦争へとなり多大な犠牲ともなった。でも万葉集のいい面は庶民まで歌っていることであり権力者だけのものではなかった。そこに国民的最古の古典としての意味があった。日本の風土と一体化したものとして残ったのである。

尋ねるべき所はどこかなのか?今や寺院や神社を尋ねてもそこに仏も神もいない、キリスト教の世界ですら大聖堂を尋ねたとしても神はいない、シナイ山にもエホバはいない、神の居場所は移動するのは結局人間が入り込んでくると必ず汚されるからである。必ず宗教の場は政治や経済の場に変貌するのである。そこで心を清めることは不可能である。今はエホバは神はヒマラヤの最高峰に住んでいる。ヒマラヤは未だ汚されない場所だからである。イスラエルが聖地だとしても実際は違っている。
誰にも人間によって汚されない場所に神は住む。それはもはやヒマラヤにしかないのである。


大芦とか地蔵木のことを秘境として語ったが江戸時代はほとんどの地域が秘境だった。隣村すら未知の世界であり秘境となっていた。村と村は交通も歩くとか馬とかだからそんなに行き来しない、閉ざされて住んでいたのである。だから明治になっても民情が違うから合併しなかったとかなる。どこでも村は自給自足が基本であり交流しなくても基本的に所では生きていけたのである。今は地球の裏側からものが入らないとかで大騒ぎになるのとは大違いである。どんな山の中でも交通が発達していないから自給自足が基本だとすると人が入らない秘境が普通にあったのである。そんなものを探す必要もない、いたるところが秘境だったとなる。

 


飛鳥から吉野川右岸の竜門山中にある山岳寺院、「竜門寺」を訪ねた時のこと。
彼が残したという漢詩が、日本最古の漢詩週『懐風藻(かいふうそう)』に、収められている。


命駕遊山水
長忘冠冕情
安得王喬道
控鶴入蓬瀛


この詩は葛野王の心境を吐露したもので、「馬車を命じて竜門山の山水に遊び、しばらく高官高位の身にある煩わしさを忘れたい。この竜門山で王子喬(中国の仙人)のような仙術を会得して、鶴に乗り仙人が住むという蓬瀛へ行きたい」というものである。葛野王は、慶雲2年12月20日(706年1月9日)に薨去しているので、これ以前から龍門山は神仙的または霊場として認識されていたようである。

蓬瀛は奈良の都のすぐ近くにもあった。今とはまるで違った環境だからそうなっている。葛野王は政治的争いのただなかにありそこから逃れたいということでこの漢詩を作った。ところがそういう所で生活する人がいたしその人たちはまさに蓬瀛に住んでいたのである。ただその生活は不足が多く苦しいものだった。大芦とか地蔵木もそういう場所だったしどこでもそういう場所はいたるところにあったのである。ネパ-ルなどもあんな高いところ高い所に住むほかなかった。まず天に住むほかないくらい高い所に住んでいることに驚く。それだけ耕地がなかったということである。

葛野王は逃避の場所として蓬瀛を求めた。第一馬車に乗ってというのが贅沢だとなる。空想的なものとして心の中でそういう場を逃避の場を求めたのである。


現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな


渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため


人間は都会で道を求めてあうことありえない、ただ政治として権力としてもともと奈良の都でもあり現代はけたはずれの大規模なものとして都会がある。そういうところに道を求めること自体、本末転倒もいいところであった。仏教も結局、政治権力化して堕落したのは奈良時代からはじまっていたのである。京都が寺の都となったときもそうである。あらゆる権力が寺院に集中した。それで信長はその既得権勢力をつぶしにかかったのである。職人でも寺院に仕えているからその職人を安土城などで働かすには寺院勢力から奪うほかなかった。


近江国内には比叡山延暦寺をはじめ、多くの有力な寺院があり、それぞれが石垣や瓦の技術をもった自前の普請集団を抱えていました。近江由来の石垣といえば、一般には「穴太衆」や「穴太積み」などとして知られていますが、「穴太」とは比叡山の麓にあった地名であり、「穴太衆」とは近江国内に散在する石垣集団の1つに過ぎなかったものと、今では考えられています。
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.turedure4.htm

職人も寺院の権力の下にあった。だから僧侶の権力集団から職人を奪うほかあの安土城も築城できなかったのである。
万葉集の意義も時代とともに変わってくる。戦争中はどうしても大君への過度な忠誠を換気するものとなり悲劇を生んだ。万葉集にも政治的なもの色濃く反映されていた。国家神道が神道でないというときそうだった。神社がすべて皇統の中に組み入れられたのも神社が権力化されたのである。一方で日本の自然と一体化したアイディンティ化したものが読み込まれていた。千歳の命を望んだときやはり岩のように長くありたいということがあった。それは自然な人間の心である。極最近まで長く生きること自体が価値があったのである。五十くらいで死んでいたときは長生きの価値は大きかったのである。長生きするとその土地と一体化してゆくのが人間も生物だから同じなのである。都会で今やアイディンティを求めることは至難である。だからカルト化した政治化した科学化した経済化したものがアイディンティとなる。自己同一化になる。それが極端化したものがオウムであり創価でも幸福の科学でもやはり根は同じなのである。


 

posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

教育とは能力を引き出すこと (人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


教育とは能力を引き出すこと

(人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


education 教育
[語源] L.educatio = e-(=out)+doctus = 子供の資質を引き出す行為


ローマ時代には、この石橋の上の溝に水を通して生活に使っていたのです。aqueduct の溝の部分が、水を導くための duct です。現在の duct は建物の換気、液体を流すための大きな管のことですね。このイメージをしっかりつかんでください



プログに出している抽象画だと思うがほめられた。美しいですねとコメントがあった。何度も書いてきたけどこの抽象画は芸術になっているかどうか疑問だった。ただ見ている人がいるのだから全く無視されていないのだから芸術として認められていたのかもしれない、抽象画は本当に芸術なのだろうかという疑問がある。でも抽象化が人間の精神的活動の根底にあった。文字も数字も抽象化した結果である。タ-ナ-のような大画家でも最後は抽象画になったということでも人間の精神と抽象化は密接な関係があるのだ。

educationが資質を能力を引き出すというとき、そもそも人間の能力は大方引き出さない限り眠っている。生涯で使う脳は割り程度というのは本当だろう。あとは能力が引き出されず眠っているということである。つまりどんな人でも能力はある。ただ引き出されないだけなのである。人間の能力というとき知的なことばかり言っているが社会を見ればいかに多様かわかる。人間には無数の能力をひきだすことによって社会が成り立っている。手伝いとかヘルパ-とか何かそんなものに能力が必要なのか、誰でもできるではないかとか見えるけどこれもその人に備わった能力があり向いている人といない人がいる。介護関係の仕事は力より優しさが求められるから今までにない男でも気質が要求されることになる。戦国時代だったらただ剛のものの能力が要求される。要求される能力も時代によって違ってくるのだ。


能力のない人はこの世にいない、ただ能力が引き出されないだけなのだ。芸術的感性などでも磨くにしてもそういう環境に恵まれていないと
そういう方面の感受性は身につかない、クラシック音楽などは生のオ-ケストラの演奏などをしょっちゅう聞いている人と聞けない人の差は大きいだろう。生の演奏を聞いて感動することが本当に感動することになるからだ。また自ら一つの楽器でもこなせれば音楽の関心が高まる。でもそれにはそれなりの時間が必要になるのだ。環境も必要になる。つまり能力を引き出す環境と時間に恵まれる必要があるのだ。ところが実際は貧乏な時代はほとんどそういう環境と時間に恵まれないから芸術的を鑑賞するセンスがみがけないのである。もちろん創造するのにもあくまでも自らの能力を引き出すことが創造につながる。


そして人間は能力がない人はいない、ただあらゆる方面で引き出されないというだけなのである。人間には何かしらの能力が備わっているが引き出されないのである。隠れている使われない能力が大きいのである。また能力を引き出すのには脳の状態を健全に保たないとできない、酒飲むことは脳を退化させる。一時的に脳が麻痺状態になるから能力が低下するのだ。能力を引き出せなくなるのだ。脳の潜在的力を引き出すためには節制が必要なのである。過度な酒や過度なセックスやそういうものに溺れたらどんなに潜在力があっても能力は引きだせなくなる。能力がわずかでも節制して長年努力していれば能力を引き出せるのが人間なのである。素質的に天才であっても能力を引き出すのに失敗する場合がある。一方わずかな能力でも節制していて引き出せることがあるのだ。それは別に年齢に関係なくそうできる。現実にパソコンの抽象画に目覚めたのは最近のことでありすでに60すぎてからである。60以降も引き出せる能力はいくらでもあるのだ。それもやはりそういう節制した状態でないとできないのである。


その一つの例がパソコンの抽象画だった。絵の才能が全くない自分でも抽象画が作れたという不思議がある。それはただ化学反応のようにしてパソコンのソフトから作り出したのである。パソコンのソフトは高価なものを買うより使いなれることが大事だというときまさにそのソフトを自分なりに使いこなせない方が多いのである。様々な機能があってもそれを引き出していない、ソフトの能力が引き出されていないということがパソコンをしている人は気づく。ええ、こんな機能があってこんなことできたなということが多すぎるのだ。これは脳を使いこなせないと同じである。脳の二割くらいしか使わず死んでゆく、ソフトの機能もすべてを使いこなすことはできない、何割しか使わない、そしてもともと備わっている機能を知らないことも多いのである。最近ではJ=Trimのテキスチャ-を使っていないかった。これを大理石に変換するとまた一味違ったものが作れていたのである。人間の能力もこれも使われていない、引き出されていないのだ。例えば文章を書くにしても本当は今や普通の人でも膨大なものをインタ-ネットで発表できる。すると文章を書く能力が増大するのだ。文章を書けば書くほどその能力が引き出されてくるのである。


artはもともと技術の意味だった。新しい技術が生まれたとき新しいartが生まれた。そもそも文字を書くにしても墨とか筆の発明なくしてありえないし紙の発明もそうである。


画材道具がどんどん改良されていきますが1840年にチューブ入り絵具が発明されたのです。
 それまで、画家たちは自分で絵具を作成していました。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つでありました。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけです。
http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e66a.html


印象画はチューブ入り絵具が生まれて作られたのである。それまでは画家が絵の具を作り出していた。だから逆に今の時代にはない色が作り出されていたのである。必ずしも絵の具の発達が美術を発展させたとも限らない、時代時代により絵の具を作り出していて独特の色合いを絵に出していた。その色は今に作れないものとなってもいるのだ。染料なども時代時代によって作り出されていて過去の草木染めなどは再現できないということもある。その時代によってしか再現されない芸術がありそれは価値がなくならないものとなる。

この文章を書くにしてもやはり他者のものをインタ-ネットでは利用しやすいからそういうものを編集して書いている。インタ-ネットは常に編集しながら書くものなのである。だからインタ-ネットも能力をひきだす新しいツ-ルとなっているのだ。出版社では作家の能力を引き出していたのとにているのだ。編集者はそういう役目を果たしていた。でも今は出版社の役割は作家自身に移ってゆく、
作家自身が編集する方が効率的だしインタ-ネットからは引用が簡単だから膨大な文章が書けるし発表できる。なかなかインタ-ネットでは認められないにしてもそういうことができるツ-ルではある。だからこれからは出版社はよほど創造的なことをしないと生き残れないだろう。作家自身が創造の源であったしその作家が編集して出版までできるとなると出版社の役割がなくなるからだ。


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人間が認識する色は実はどのくらいあるのかわからない、同じ青でも何百種類の青があるかもしない、それらの色が認識されないように人間の隠された機能、能力を使われていない、ソフトの能力が機能がすべて使いこなせないととにているのだ。ペインタ-12とかなると使いこなすこと自体がむずかしすぎる。機能がありすぎるからだ。自分が使ったのは二千円のペイントグラッフィックだった。これだけでも使いこなすことがむずかしい。その機能を全部使いこなすことが手間になる。ソフトはどんないいソフトでも使いこなす方が手間でありむずかしいのである。

2012年06月09日

抽象画の不思議 (この抽象画にどんな名前をつけますか?)


抽象画の不思議

(この抽象画にどんな名前をつけますか?)

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抽象画は何なのか?自分も抽象画をパソコンのソフトで描けたから考えるようになった。
自分にも絵が描けるのという不思議があった。

例えばこの二つの抽象画にタイトルをつけるとしたらどんな題をつけるのか?
これは他でも題がついているけどその題と関係がよくわからないんだよな
他人の抽象画ってわかりにくいんだよ

ということは自分の抽象画も他人からみればこれはなんだと思っているかもしれない
でも全然認められていないわけではない、芸術として認めている人もいた
抽象画って他人が認めること自体、あんまりないように思う
どこが優れているのかわかりにくいから

 


上のは題をつけるとしたらサファイアとエメラルドしかない
ちなみにこれは「抽象画ってどう」というの中の抽象画が原画になっている
でももう元がわからないからこれは著作権違反にならないよ
まるで違ってものになってしまっている

下はこれ何?となるけどどういうタイトルをつけるんだとなる
これは牡丹を万華鏡で加工したら偶然こうなったんだよ
必ず万華鏡にしている、それが抽象画を作る基礎である
でも最初からこれが牡丹を加工したものには見えない


抽象画ってどう
http://yamaguchimomori.cocolog-nifty.com/blog/2005/06/index.html

前田、前畑が喪失して荒地化した南相馬市 (木蔭で安らげない)


前田、前畑が喪失して荒地化した南相馬市

(木蔭で安らげない)


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相馬市の農家

通りにはドイツアヤメや木蔭かな


大木の木蔭に休らふ前田かな


前畑に木蔭の道や農家かな


相馬市の路次に墓所や木蔭かな


カ-テン越しツツジの赤し喫茶店

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昨日は天気が良かった。相馬市の方に行った。
ドイツアヤメが通りに咲いていたけどしゃれた店もない、木蔭に咲いていたのが気持ち良かった。
最近仮設の店ができてにぎわったけどやはり一軒一軒店があるのがいい、それは普通である。
そもそもこの辺は原町や相馬市はもともと市の雰囲気があったけど小高-鹿島はなかった。
店もたりないし家もたりない、最近鹿島区には家がふえた。壊された家も多いが津浪とか原発事故の関係で家が建てる人がふえた。十軒くらい新しい家が建った。家を建てる土地は企画化されて余っていた。今も余っている。やっぱりあと五千人ふえるくらいが町としては住みやすくなる。人口がふえないと便利なものができないのである。


農家の前は前田であり前畑になる。この苗字が多いのは当然である。前田、前畑が一番農家の生活に直結していたからだ。それが南相馬市ではなくなった、荒地化、草原化している。というとき実際は前田もない、前畑もない、としたら農家ではない、それはなんなんだとなる。農家に大きな木がありそこが木蔭となっている。それも前田とか前畑があってこそ安らぐものとなっている。ただ相馬市に入ると前と同じで普通なのである。前田、前畑がある。あそこは木蔭の道がつづき広い前畑があり
ポピ-が明るく咲いていて気持ちが良かった。相馬市は何ら変わらない、水田の景色となっているのた。

 

水田が消えた


とろとろと水は流れる
山から水は尽きず流れる
水は大地をうるおし
水は山に森に貯えられ
とろとろと流れる
山の神は春には
平地におりてくる
山から水が流れるように
農家は何代もつづき
前田があり木蔭が涼しい
そんな当たり前の風景が消えたとき
その流れる水がなつかしい
水は大地の血液だった
今大地に水が流れない
水は活きていない
それは山は森も生きない
みんな一つの命だから
水を通じて命がめぐっているから


やっぱり水がめぐっているとき日本の大地は生きていたのである。

イオンの喫茶店はいつも入っている。安く飲み物と食べ物がでる。喫茶店はやはり感じが大事である。椅子も大事なのだ。座り心地がよくないと気分が良くない、あそこは気分がいい場所である。
窓が広くカ-テン越しに赤いツツジが咲いていた。原町の六号線近辺に喫茶店がないので困る。
休む場所がないのである。


この辺は以前として異常な状態がつづいている。働かないということが人間の心に相当に影響するのではないか?補償はされているから食べるのに困るということはない、衣食住に困るということはない、でも働くことができないとなるとやはり人間的に荒廃してくるのではないか、毎日パチンコ通いで勤める場所パチンコ屋というのは異常である。金にならないから売れないから米を作らない、補償されているから仕事しなくてもいいとなったとき農民は農民でなくなる、ただの遊び人になってしまうのか?田畑を耕しているから農民でありそこに誇りも与えられていた。ただ補償されているから別に働くなくてもいいとなっても問題は解決していない、農家でなくてもこんなに田畑が草原化していること荒地化したのを見ていたら木蔭で休めない、安らぐ場と景色となっていないのだ。そんなこと当たり前だったけどその当たり前のことが喪失してしまっているのがこの辺なのである。



日々勤めあるこそよけれ


この家を残せしは姉なりき
その跡継ぎて勤めあるこそよけれ
先祖からの嗣業 ( しぎょう ) のあることこそよけれ
我が厨に立ちて五年
我は姉に尽くし母に尽くしぬ
人には何か尽くすべきものあれ
今日も終わり家にそ帰りぬ
何事のなけれど明日も勤めあり
健やかな体に勤めあるこそよけれ
その故郷をもちて我が田、我が畑、我が家や
力尽くして耕させし時よ
ああ 汝の才もて力尽くすべきかな
黄金の実りは秋にあるべし
その穂をとりて充たされし時よ
ときはぎの松は変わらず立ちて
秋の陽は雲を赤々と染めて沈みぬ
今勤めなき人の淋しも
食の与えられしも勤めなし
その用なき実りなき日の淋しも
人は日々勤めて力わくこそよけれ
今日も勤めて明日も勤めて大地と共にあらむ
その日々は充実して実りありにしを・・・


農業とは最も古い天職だった。天職とは天から与えられるものであるから尊い、職業は人間のみが作り出すものではない、また作り出せないのである。なぜなら天地を造ったのは神であり天地なくして農業も成り立たない、農民には何かそういう意識が欠けていた。農業では食べていけないとか農業は金にならないとかそういう不満ばかりが言われてきた。その結果として原発を安易に導入した。
漁民も同じである。金にならない、金にならない、すべてがそうなってしまった。ここで働いていくらになるんだ、これだけがやっていられないよ・・・遂に犯罪者に平気でなる。働かないで盗んだ方がいいんだよと実際にそうでなくても心の中ではそうなっている。それほど働くものの倫理が喪失してしまったのである。農民には天地の中で働く大きな意義があった。働くこと自体だけを考慮すれば大きな意義があった。だから今本当に働かないで生活できても働きたいなと純粋にただ働きたいと思っている人が仮設に入っているような人に多いかもしれない、昼間から酒飲んでパチンコ屋通いで心が充たされるのかとなる。


奇妙だけど今ほど自分ほど働いていることはない、結果的に茶の湯だと言っていたが抹茶を飲む余裕がなくなった。それほど忙しいのである。三食の用意から家事を全部一人でやっているから大変なのである。茶の湯の暇人しかできないことがわかった。ただ心を落ち着かせるために茶の湯は必要だった。でもそういう暇がないのである。つまり実際に食事のために茶を入れる方に時間がとられるからそうなる。それでもプログでもこれだけ書いて出している。だから毎日が仕事に追われているのである。ともかく田舎では親の仕事を受け継ぐ人が多かった。それが都会と違っていいことだったのである。受け継ぐ家があり田畑がありそれを耕す、そういうことをくりかえされてきたのが田舎だったのである。それが失われたとき生きがいも何もなくなり荒廃してしまう。農民でもやはり自分の仕事がどういうものか深く考えていなかった。ただ金にならない金にならないという不満しかなくそれが原発を導入する結果になった。これはここだけの問題ではない、現代の時代の問題だったのである。

2012年06月10日

かくされしはな(詩)


かくされしはな


ほのかに

かすかに

ひめやかに

しとやかに

おくゆかし

いづこかに

さきいずるはな

ちりもつかじ

かくされさきぬ

たれそふる

とおすみとんぼ

とまりしもしらじ


くろあげは


まいつつさりぬ

ひそかなるかげ

そこによりそふ

こけむしふりぬ

ちとせのいわ

そこにしあれや

ゆうひかげ

そこにさすかな

posted by 老鶯 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2012年06月12日

最上川は日本で唯一川の文明を想起させる (最上川紀行-左沢線の旅などの追加)


最上川は日本で唯一川の文明を想起させる

(最上川紀行-左沢線の旅などの追加)
http://www.musubu.jp/haikutripatera.htm

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(最上川短歌十首)


稲刈られ米を運ぶや最上川


渡し舟昔の暮らし虫の声


紅葉して最上川や舟下り


舟のよる蔵に秋日や大石田


最上川は昔ここに人の待つ船着場かな虫の鳴くかも


最上川水の勢い酒田へと荷を積む舟や実りの秋に


滔々と流れ変わらじ最上川荷を運ぶ舟のなきが淋しも


豊けくも流れる水や最上川その勢いに春を呼ぶかな


蔵にしまう京のお雛様紅花に栄えし町や秋の夕暮


最上川酒田にいでて日本海船を待つかな蔵の並びぬ


酒田には木の灯台や栄えたる家の塀長く秋の夕暮


酒田に来飛島によりあわれかな畑耕すや秋の夕暮


飛島に鳥海山を望むかな鴎のとびぬ秋の朝かな


米俵担ぐ女の語られぬ力自慢や実りの秋に


●山形県は最上川を知ればわかる


現代は川はわかりにくい、日本では特に川の文化が希薄である。川が文明の最古の発祥地であることをみればわかる。四大文明はナイル川、ユ-フラテス川のメソポタミア、インダス文明、黄河文明と川から生まれている。インドのガンジス川はインド文明の源でありガンジス川なくしてインドはありえなかたった。それは物質精神ともに川によっていたのである。なぜなら水の供給地でありもう一つ重要なものとして川は交通路であったことが文明を作ったのである。外国の長大な川は流れが人工の運河なのである。ドイツでもラインが父なる川というときまさに川によって生まれた国だとなる。
ナイル川の川の物語は地球的スケ-ルによって作られていた。エチピアの高原の黒い土が泥となって流れて洪水となりその泥が栄養分を運んで肥沃な土地を形成したのである。その黒い土は岩石から生まれたというからその地球的地質史から生まれていたのである。福島県が放射性物質のセシウムに汚染されたというとき泥に付着して川に流れてそうなった。泥が一番の原因だったのである。泥はそれだけ川によって流れていたのである。だから新潟県の阿賀野川の下流まで影響していたのである。
日本が川のことがわからないから基本的に外国の文明を理解できないということがある。
ただ一つ最上川はその川の文明ににていたのである。最上川の流域は広大な米の産地であり紅花の産地となっていたからそれが近江商人と結びつき京都に運ばれて加工されたのである。


また最上川の流域には荒地が多かったというのは水を利用することが技術的にむずかしかったからである。水があっても水を利用することは灌漑などすることは技術が必要であり文明を作るのである。稲作と水利用は密接に結びついている。日本に水分神社が多いのは水を分けることが稲作には不可欠でありそのために村の共同体が作られていたのである。
http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/06-sou/sou0302/html/01reki/01reki_03.html


仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。
 むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。


最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ 斎藤茂吉


山形が有利だったのは最上川があったからである。他でも紅花は作られていたが運ぶ手段にことかいていた。いかに文明というのは交通と関係しているかわかる。川が交通路になっているから文明が作られたのである。だから最上川流域の米でも紅花でも川を通じて運ばれるから活かされたのである。そして日本海も冬をのぞいては穏やかであり北前船で京都まで運ばれた交通路になったから酒田が栄えた。

本間様は大地主として栄えた。


「金銀財貨は積んで山の如く、伊呂波四十八蔵の倉庫には累々たる米俵、金銀、銅貨、紙幣、古銭など数算することあたわず」


と言われたた。今でも山居倉庫がその名残である。そこで米俵を五俵も担いだ力持ちの女性が話題になったとか?男でも米俵を担ぐことが仕事だった。だから力をある男が称賛された。江戸時代あたりはそもそも機械がないのだから人力だから力あることが一人前とされた。田から村々にくらべ石(尺石)というのが必ずある。そこにある神社などにある石をもちあげれば一人前とされたのである。
力がなければ一人前としても認められなかったのである。今は力なくてもそれなりの仕事があるからひ弱でも生きていける。自分の庭作りした人には驚いた。機械ででしかもちあげられない石を動かしたのである。機械がないときは人間の力が頼りだったから力ある男は称賛されたのである。南相馬市鹿島区の江垂の一石坂というのも力持ちの女が一石の米を運んだから名がついたとか各地で男であれ女であれ力自慢の伝説がある。女でも力があることが称賛されたのである。美人であるより農業には力があることが望まれた。今でも農業などは力が必要なので力のない人はやりたくない、ただ機械化したので機械の操作の方に関心が移ったのである。


●最上川の俳句と短歌


最上川の全体を長い川の全体をみることはむずかしい。そのためには川を舟で下る必要がある。川に沿って下って行った時、途中なみなみと水量豊に流れる川は気持ちがいい、日本ではこのように水量豊に流れる川は最上川くらいしかないのだ。必ず川床が見えている。


五月雨を集めて早し最上川 芭蕉


これは水量の豊かさを俳句にしている。つまりこれだけの水量のある川は他に日本ではないのである

最上川秋風簗(やな)に吹きつどふ 水原秋櫻子


これは最上川というのは広いし大きいから秋風が広い川面を吹きわたり梁に集まっているというのを句にした最上川の大きさを示したものである。自然の情景の大きさを句にした。

五月雨や大河を前に家二軒 蕪村


これは最上川だったのか?水量豊かな河であることは確かである。これはこんな大きな川が決壊したらヤハな家二軒など流されるという危うい情景を見た。最上川でも堤防もまともにない状態では常に洪水の危険にさらされている。水には常に危険があった。海に面して住んでいると海の水がおしよせてくる夢をみる。水があふれる夢を見る。川もやはり海とにていた。こんなに五月雨がふったら家二軒などあっというまに流されるという感覚をもった俳句だったのだろう。そういう危険を海の側に住んでいた人が感じなかった。津浪はめったに来ないから感じなかった。人間は特に日本人は危ない場所に住んでいる。ただそういう危険感覚が消失していたのである。

一方蕪村の句は生活に根ざしたものに着目しているのが多い。


新米の坂田は早し もがみ河


毛見の衆の 舟さし下せ最上川

―――――――――――――――――
秋の季語である「毛見」は「閲・検見」で、
「けみのしゅう」は米の収穫前に出来高を検分する役人たちのこと。
当時は今のような自己申告ではなくて、
お役人が査定して年貢の額を決めていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やっかいな役人を舟で早く流してくれということになる。新米が阪田(酒田)に早くつくのは最上川が交通路となっていたからである。




草枕夢路かさねて最上川 行くへも知らず秋立ちにけり」(正岡子規『はて知らずの記』より)


正岡子規が来たのは秋だった。自転車でどこなのか?船着場が川岸にあった。そこには説明の看板だけがあり何もなかった。虫が鳴いていただけである。渡し場なども昔はどこにでもあった。交通路として川はあった。今の旅はゆくえもしらずとかならない、行方は必ずわかっているのである。この川は流れてどこに出るんだろうという何かそういうわくわくした気分がここにはあった。いつれにしろ稲田と水量豊かな最上川は生活的にも一体となってあった。引き舟もあり川岸の村から労力が提供された。川の文明が最上川にはあった。


最上川の岸辺の道はさびしけれすすきは枯れて風さむきかも(結城哀草果)


この頃すでに舟は通っていないのか、ただ最上川は大きいかからこうした寂寞もあった。今もある。

山形の方言で、
お値段を聞くときは
「なんぼ?」
お金のことを
「じぇに」
というのは上方商人の影響だと聞いたことがあります。


京都の雛人形ももたらされ商人の蔵の奥深く眠っていた。大阪や近江商人の言葉が入ってくるのもわかる。「じぇに」というのは面白い、商人の言葉で「じぇに」が一番聞く言葉だからである。
山形市にはやたら市のつく名が多いのは紅花商人が多く出入りしたからだともいう。
五日町六日町七日町八日町旅籠町などが商人と関係している。


●左沢(あてらざわ)は辺鄙な地域?


最上川は意外と曲がりくねっているから全容を知るのはむずかしい。左沢はかなり上流の方である。ここに左沢線が通っていて行ったことがあった。あそこの車が通れない古い橋が印象的である。

柳田国男の「地名考」によると愛宕神社が鎮座するアテラ、アタゴの地名は風光明媚ながら稲作に適さない僻地を意味するという、左沢(あてらざわ)はこういう観点から「左」の字がつけられた。
そうだとするとあの古い橋を渡った先はそういう辺鄙な所だったと意識する。あの古い橋は車も通らない橋は余計にそういう僻地に入る橋のように見えてくる。浪江の標葉郷も何か風光明媚でも人の住めない、開拓しにくい場所だった。禁断の場所であり共通性があった。そこに原発が作られたのである。


春はまだ左沢


左沢(あてらざわ)その名のいかに
最上川にかかりて古りしや
橋一つ車の通らざりしも
岸辺になお雪の残りて
左沢なお春はまだしも
なみなみと水は流れぬ
何か秘境めきし名や
途中にして柴橋とかの駅名も
心に残り束の間の旅路かな

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旅というのはいかに記憶されるかが問題になる。人間は忘れやすい動物である。こうして書いているのも記憶された部分を思い出してつなぎあわせて書いているのだ。日本だとあとから思い出してもいろいろとふりかえることができる。でも外国はできない、それで外国について詳しく書くことはむずかしいのである。


山形県と宮城県の境が山寺に入る所であり春でも山寺に入ると雪が残っている。その境が明確にわかるのである。国境のトンネルをぬける
と雪国だった・・・まさにこれである。そして最上川にでるときこの川を通じてすでに日本海を意識するのである。川が交通路だったからそうなる。北上川はこういう交通路にはなっていなかった。確かにあったにしろ石巻港と酒田では違っている。石巻の米は北上川流域のものではない、今回津浪にあった海側に開拓された所だった。そこにだから米を運ぶ貞山堀などの運河が作られていたのである。山形県を知るのには最上川を知らねばならない、滋賀県を知るには琵琶湖を知らねばならない、なぜなら琵琶湖は万葉集の時代から交通路だったからである。
交通路をみることは歴史では肝心なのである。交通路を知ることによって見えてくるものがかなりあるのだ。


最上川文学散歩
http://www3.ic-net.or.jp/~shibaraku/bunngakunosannpomiti.htm

 



紀行文などでも編集すると一つの新たな創造となる。本に書いてあるものでもインタ-ネットでも編集すると新たなものとして活きてくるのだ。この文からもさらに発展するものがある。書き加えるものがある。つまり文章は常に新たな様相を帯びて生成発展しているのである。本とは完結して出されているけど本も完結していない、それも編集されて生成発展するものである。インタ-ネットだと無限に生成発展するものとして提示できる。これも前に書いたものを生成発展させたものだからである。本はなかなか完結しているから利用しにくいけどインタ-ネットの中だと生成発展しやすいのである。膨大な知識はこういうふうにインタ-ネットの中で生成発展してゆく、著作権の問題があるがこれまでは出版社とかに知識が独占されていた、情報でもそうである。マスコミによって独占されていたから原発事故などを防げなかったのである。