2012年06月01日

樹への思索 (長い時間で育まれたものを失った現代)


樹への思索

(長い時間で育まれたものを失った現代)

根をどこに持つのか?
日々生活する場が根である
それぞれに住む場が根である
それが故郷でありまた他の場もそうである
その根になる基に大地がある
樹を育てるのは大地の養分である
大地の力はなかなか意識されない
でも大地の実りの成果が
樹となり果実となって形となり実となる
大地は親であり樹は子である
樹は成長するのに時間がかかる
深く根を張るのに時間がかかる
縄文杉は一千年の寿命があるとすると
それは大地の主のようになっている
息が長いものでないと大木には育たない
人よ、大木になることを目指すべし
一本の樹は樹のみを語るものではない
大地を森を語り万物の命を語る
百年で消えるものに真実はない
千年語るものに真実がある
千歳の重みある石に真実がある
真実や愛は時間で育まれる
短い時間ではどんな人も本物になれない
長い時間で知らず成長するものがある
樹は深い木蔭をなして人を憩わす
樹は哲学者であり瞑想している
実存の深さと重みを備えている
だから何物にもたじろがない
大地と血脈を通じ一体化している
樹は大地の霊であり霊樹となる
それは神秘的な命の精なのである

 


 成長を欲するものはまず根を確かにおろさなくてはならぬ。
 上にのびる事をのみ欲するな。まず下に食い入ることを努めよ。


 早年にして成長のとまる人がある。根をおろそかにしたからである。
 四十に近づいて急に美しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。下に食い入る事に没頭していたからである。


 私の知人にも理解のいい頭と、感激の強い心臓と、よく立つ筆とを持ちながら、まるで労作を発表しようとしない人がある。彼は今生きることの苦しさに圧倒せられて自分のようなものは生きる値打ちもないとさえ思っている。しかしそれは彼の根が一つの地殻に突き当たってそれを突破する努力に悩んでいるからである。やがてその突破が実現せられた時に、どのような飛躍が彼の上に起こるか。――私は彼の前途を信じている。根の確かな人から貧弱な果実が生まれるはずはない。


樹の根(和辻哲郎)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49886_42648.html



和辻哲郎というと「風土」で有名でありこれは最初から読んだ。だから風土とか地理に興味をもち旅行して地名に興味をもち地形に興味をもった。風土から文明を論じるのはわかりやすいのである。
風土の影響で顕著なのはドイツとフランスである。やはりドイツにはゲルマンの深い森があったからその文化も違うものとなっていた。今はその森がないが寒い所なのである。北方の深い森がゴシックの大聖堂を作ったというのがわかる。文化と風土は一体なのである。 明治維新以後変わりすぎたのが日本だった。江戸時代まで育まれた長い時間で育まれたものを根こそぎ変えてしまったのである。一見それこそが革命であり日本を救ったと思っている。しかし日本の長い時間で育まれたものが根こそぎ失われた影響は余りにも大きかったのである。戦後も敗戦でアメリカ化したのもそうである。つまり日本人はすでに日本人たる根っこをもたないのである。何が日本人の根っこなのかもわからない、日本的モラルでも義理人情でも江戸時代にはあった。そういうもの最低限のモラルさえなくなった。そしてむきだしの欲望民主主義であり金になるものだけが価値あるものとしてがむしゃらに追求してきた。つくづく一旦モラルなど伝統的なものを失うと回復できないのが深刻なのである。何が義理人情だよ、馬鹿げている、金だよ、金だよと言ってはばからない、伝統的なものを失うとそうなってしまう。そうしてもはや取り返せないのである。かといって新しいモラルが生まれるわけでもないし作られるわけでもなかった。だから金だけを頼りにしたモラルなき社会に今はみんな生きているのである。それはとりもなおさず弱肉強食である。金さえもらえばいい、あとは関係ない、遂に相手をだまして盗んでもいいんだとなる。モラルがなくなればみんなそうなるのだ。ただ法律にふれると罰せられるから露骨に言わないだけで心の中でそう思うようになっているのだ。


明治維新後の教育なども根本的に間違ったものだった。教育に関しては江戸時代の方が良かった。
藩の教育などの方が良かった。寺子屋の教育すら今より良かった。人間と人間の信頼関係の上に成り立っていた。シンプルな世界だからそうなったともいえる。人を蹴落としてまで立身出世主義だとか欲望を充たせるとかなるのは教育ではない、人間を野獣化する教育であった。でも現実はそうなってしまっていたのである。そして土地から切り離されて都会化した人間となっていた。みんな土着的な生活をしていたから土地と結びついて生活していたからそうなった。一つの藩が狭いとしてもそこが基本となり世界観になっても全体的になっていたのだ。今はグロ-バルになったとしてもその基本の所で全体的思考が身につかないのである。都会だったら自然と遊離しているから自然と人間が一体のものとして考えられない、つまりミクロコスモスがないとマクロコスモスもないのである。自然の上に思想が形成される。
ところが都会では自然が大地ぬきの世界観になってしまう。そこではユダヤ人の金融だけが頼りの世界観とか批判されるものになる。紙幣に価値があるのではない、その紙幣として価値づけられるものに価値がある。いくら紙幣をためてもそれは紙でしかないからある時紙屑になる恐怖が常にあるのだ。江戸時代にはそれほど金が価値をもっていなかった。グロ-バル化とはそういう江戸時代のミクロコスモスの破壊の上に成り立っていたのである。


和辻哲郎でも七十歳しか生きていない、今だと平均寿命にもなっていないが長生きした方となるのだろう。今だと十年、二十年、寿命が伸びているから四十歳より五十才とか六十才以上でその人の貯えたものが花開くことがある。どんな平凡人でも何をかを貯えているのだ。知識でも経験でもそうである。それが花開くのが五十以上になっている。四十では若すぎるだろう。ただ自分を例にとれば才能があるからではなく凡才でも年になるとわかるものがあったということである。詩などもいいものが書けなかったし理解もできなかった。詩など書けなくても他者の書いたものも理解もできないのである。特に中味のある古典的なものはなかなか理解できないのである。この文章からなるほどなと思い付け足しのように書いてみた。インタ-ネットだと古典の引用がしやすくなるのだ。こんな文章があったのかと本では読んでいてもこれは読んでいなかった。ただたまたまにしか発見できないのも困るのである。樹のことを書いていたので調べていてたまたま出てきたのである。


要するに樹を知るだけで樹自体どれだけ語り尽くせない奥深いものをもっているか理解するだけで時間がかかるのだ。時間をかけないと真実はわからない、人間関係でも今は江戸時代のような長い時間で育むものになっていない、相馬藩は三百年つづいたとすると代々勤めているのでありそういう長い時間で培われたものがある。信頼とか愛情なども一年とかで育まれることはない、手伝いさんやヘルパ-などが今の時代、即製に一時間とか家に入ってくる人は本当に危険である。昔の金持ちのように十年間とか勤めていれば信頼できるが全く信用できないからだ。今はまず金だけを求める信じられない人が普通になっているからだ。人間関係自体金しかなくなっているからだ。江戸時代だったら長い時間で人間関係が築かれていた。もちろんそれがかえって縛られるとかでそこから脱したいということも働いた。でも現代は何事、長い時間で考えられない、ただ今を享楽して今を贅沢して今さえ良ければいいとなる。刹那的快楽主義になっている。だから原発でも日本のような地震国にどれだけ危険なことか百年後のことなど考えなかったのである。原発は百年後に事故が起きたら日本が滅亡するという危険なものだった。そういう時間の長さで考えることがなくなっていたのである。

今この辺で故郷を失ったらどうなるのか?つまり根っこが失ったらどうなるのか?そいうことが問題になっている。故郷がなくなるなどとういことを想像もしなかった。それが現実となっている。根本的に根っことなる場所を剥奪されたのである。根無し草にされてしまった悲劇がある。他で根をはるにしても時間がかかる、老人はもう根を張ることができない、すると絶望して自殺する人がでてきているのだ。故郷そのものがなくなるなどとは想像もしなかった。それは存在の全基盤を失ったことではないか?もちろん金さえあればいいとなるが金で埋められないものがある。それは金に代えられないものであった。そのことをしみじみ故郷を離れた人は思っているかもしれない、原発事故はだから戦争よりひどいと言っていた人もいた。それもわかるのである。

2012年06月02日

きりのはなの章

 

きりのはなの章


きりのはな

そらにうつり

みずにうつり

ちりもつかじ

たれそしる

ほのかにひるのつき

ささやきにけり

くもりなき鏡

そのすみにひそか

きりのはな

つつしみふかく

さきてあるかな

なにをかいわむや

なにもいわじ

ありとしもなく

きりのはな

かみのまそ鏡に

うつりてあるかな

 


まそかがみ みあかぬきみに 

おくれてや あしたゆふへに 

さびつつをらむ

        沙弥満誓

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2012年06月03日

菖蒲(相馬の見どころはどこに)


菖蒲(相馬の見どころはどこに)

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我が町の路地裏淋し墓所通り民宿一軒菖蒲咲くかな


町中の畑に菖蒲雨しとと今日この道我が通るかな


草深く鶯鳴けり雨しととわび住まいこそ我が町よけれ


白藤の咲きにしあとに白菖蒲咲きしもひそか墓所の道行く


草原に夕日の没るや黄菖蒲の咲きて田もなし花のみ映えぬ


人は去る町にもあわれ菖蒲咲く草原淋し夕日没るかも


二本の松の残りぬ港なれ船は来じかも鴨の浮かびぬ


(忘れな草)

忘れな草なお我が庭に咲き苧環の花は散りにきうつる季かな


忘れな草苧環とともに咲きにしを忘れな草の忘れざるかな


忘れな草おだまきの花と咲きにしをたれかしれるや忘れずにあれ


我が町というとき何か目立ったものもない、それでもそれなりに特徴がある。地域の地形はわかりにくい、日本の国の魅力は地形にあった。狭い地域でも地形が複雑なのである。山あり谷あり海ありと複雑なのである。そしてこの地形はなかなか一回くらきてはわかりにくいのだ。この辺でも南相馬市でも相馬市でもわかりにくい、地元に住んでいても意外とわからないのである。
橲原から橲原渓谷を通って大芦とか地蔵木の所は山が迫って落ち込んだような地形であり複雑である。あそこが秘境だったと言った時、山の狭間であり平坦な地がないから耕作には適していない、それでも人が住んだ。あそこが秘境だったということをまるで気づかなかったのは自動車が頻繁に通るようになったからである。それで写真をとった二輪草が咲いていた所には車からなげられたゴミがたまっていたで幻滅したのである。橲原は鹿島区の奥座敷であり大芦などは秘境だった。


隠処の 沢たづみなる 岩根ゆも 通して思ふ 君に逢はまくは

こもりづの さはたづみなる いはねゆも とほしてぞおもふ きみにあはまくは


こもっている・・岩根をながれてゆく水・・・こういう地形があそこだった。こういう地形は日本に多いのである。外国は渓谷のようなものが少ない、外国人が観光で行った渓谷は岩だけであり水もともしくあんなところが渓谷かと思った。でも外国人にはめずらしいものだったのである。日本ではありふれている。日本はだから自然では観光するには恵まれているのだ。満州のようなどこまでも平坦なとうもろこし畑にはうんざりしたからである。狭い地域でも地形が複雑だからあきないのである。歴史的には相馬の城に行く日立木の細道が魅力的である。日本は曲がった細道が多かった。まっすぐな道は少ない、だから奥の細道になった。


細道になり行声や寒念仏 蕪村


細道に消えてゆく姿がここにある。江戸時代の道は今の道とは全然違っていた。細道が多く曲がった道が多かったのである。田んぼすら曲がっていたから曲田(まがた)という地名が多いのである。
人間は今旅ができない、自転車で旅している人がいたけどたいがい六号線を旅しているからこの辺の地理もわからずに終わる。この辺の旅は海から山に向かってするものなのである。そうしなければ地理がわからない、地形もわからない、六号線だと日立木の旧街道も通らないからわからないのだ。
高速道路など通ったらさらにわからない、そこに細道は消えて旅の情緒は消える。鹿島区などでもまず海から山への道をたどると変化がある。橲原は奥座敷であり大芦などは秘境になる。八木沢峠を自転車で上って行った青年がいたけどあれは辛い、自転車の危険はあういう高すぎる峠があることなのだ。ただその峠を越えたとき確かに日本では本当に旅したことになるのだ。車で峠を一気に越えると峠を越えたという感覚がなくなるのである。峠が一つの記憶するポイントとなるのが日本なのである。霊山から行合道を通って佐須に入る峠もビュ-ポイントとなる。吾妻山が見えるからである。

結局日本は地形が複雑だから地名も複雑であり狭い地域でも地形的魅力はどこにでもある。ただこの辺では新地から仙台の方は魅力にともしい。阿武隈川にでると蔵王が見えるから地形的変化がでてくる。


峯の上も同じ月こそ照らすらめ所柄なるあはれなるべし 西行

日本ではどこにも所柄なるものがあり見える月も違ってくるのである。それだけ日本の地形には変化があるのだ。平原のような月だったらどこも変わりないと見えるかもしれないからだ。


ともかくこの辺はまた自然が変化してしまった。津浪の跡が草原化したのと原発事故で田んぼが放置されて草原化してしまったことである。この風景も何度も書いてきたけど不思議としかいいようがない。もっと不思議なのは警戒区域では人は入れないがそこも草原化して菖蒲などが咲いている。人がいなくなっても自然はおなじように知らず花は咲いている。人が知らない所にも花は咲いていた。
原始の状態はそうだった。その原始の状態にもどったという不思議がある。実際田んぼ人工的な風景だったのである。松原もそうだった。も

ともと松原も田んぼもない北海道のような湿地帯が原初の風景だったのである。そういう原初風景にもどったという不思議がある。

この辺はもともと歴史的に見る場所がない、わび住まいに適した場所だったのである。それでも別にみるべきものは自然はある。町には確かに一軒の民宿があるだけである。あそこの垣根には菖蒲が咲いている。あとは墓所の道を通り何もないといえばない、最近は仮設の店ができてにぎやかになったことである。田舎は自然は一回くらい来てみてもわかりにくい、岩手山とか目立った山などがあれば目印になるからわかりやすいが自然の魅力はわかりにくいのである。自分が書いたものを読めばとこがポイント多少わかるかもしれない、何もみるべきものがないじゃないかとなるが実際はどこの田舎でもみるべきものはある。だから田舎は一晩泊まるという観光ではなく一週間とか滞在するのに向いている。そうでないとただ通りすぎるだけになってしまう。
 
 
 

2012年06月04日

秘境の大葦-地蔵木-大原の短歌十首


秘境の大葦-地蔵木-大原の短歌十首


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秘境



苔むせる樹の古りにけり墓一つここに根づくや錨草咲く


午後静か緑の深く木隠れに山鳩とまる水の音清し


水すみて磐に淵なし山女棲む常陰にして涼しかりけり


苔むせる大岩ここに千歳経ぬ隠されにしも顕われにけり


川烏奥に消えしもその流れ奥処が知らじも影深きかな


橋一つ昔の道の跡なれや草の繁きに御堂古りにき


陽の翳り山の狭間や町遠く遠田を下り大原に出る


大原も街には遠きあわれかな古き家にし老一人棲む


病院ゆ大原の方眺めけるその日を思ふ年は経にけり


人の世はかくも変れる老いの身に辛きものかも病ももちて



水無し川をさかのぼって橲原渓谷から大芦から地蔵木からさらに大古とさかのぼってゆく、川の水源はどこになるのか神秘的である。宇多川が副霊山の方から流れていた。大古の道は人跡未踏のようになっていて最近杉を切った処に大きな苔むした岩が顕われた。その岩は最近見たもので隠されていたのである。自然ではこうして未だ隠されているものがある。橲原渓谷からあそこまで流れをしたどると神秘的である。まだ奥へ奥へと流れがつづいている。山が険しくなってさらに奥には行きにくい、あそこは秘境だったのである。なぜそのように秘境と自覚できなかったのか?車があまりにも頻繁に通っていてそういう秘境の感じとはほど遠くなっていたためである。もし車が通っていなかったらこんな奥があり人が住んでいるのかとなる。おそらく江戸時代から住んでいたのかもしれない、越中からなどの移住者の古い墓があったからである。ただ明治辺りから開墾されたものかもしれない、
八木沢峠にしても道がないときがあった。江戸時代は塩の道は栃窪の方から通じていたからあそこにはなかった。車も通らないとすると神秘的な場所だったとなる。


ここは大原に通じていて遠田とあるとき実際に隠れるように田があり大原から遠いのである。大原方面と橲原方面から入植した人たちがい
た。田があるにしてもあまりにも狭い地域だから米もそれほど作れない不便な所である。ここからさらに不便な上萱に住んだ人がいた。それは戦後住んだのであり新しい。そこは消失した。人はだんだん分家するにしても不便な処に住まざるをえなかったのである。大原には病院で知り合った人がいた。あの人もどうなったのか?病気ももっているしそもそも農業はつづけることはできなかった。息子は街に住んでいる。一人で猫と住んでいると言った。今も住んでいるらしい。子供と一緒に住まない人が多い。古い家に一人で住んでいる。放射能汚染で子供をもっている家は移動したと言っていたが老人は残っている。五町の田をもっていたにしろ農業をできる体ではなかったから補償された方がいいともいえる。なぜならあの辺では農業をやめて廃屋になった所が三軒ほどあった。日本では過疎地域は老人しかいなくなっている。跡を継ぐ人がいないのである。ただ飯館村は環境がいいので外から入ってくる人たちが若い人もいたのである。


あそこは地形的に魅力ある。橲原は鹿島区の奥座敷である。そのまた奥だから秘境だったのである。車があれだけ通っているとやはり外からきた人は、そこが秘境だといっても誰も認めないだろう。
車が頻繁に通る所は秘境となりにくいのが現代だがよくよく地形を見ればいかに不便な所だったかわかる。飯館村は家が散在して秘境という感じではなかった。ただ栃窪からの道を出た共栄橋の所は道がなく森におおわれ清らかな流れが一筋あった。あの流れは道ができて消失したのが残念だった。
道を作りすぎたのも現代だった。つまり車社会になると秘境は消える。でも逆に秘湯を求める旅とかはやるのはそういうものを求めているのも現代なのである。

人間の思想もこうしたその土地の地勢とから形成される。それは健全なことなのである。都会ではビルとかしかなくそこからどうして健全な思想が形成されるのだろうか?岩もない、流れも山もなくてどうして健全な思想が形成されるのか?
そういうところから生まれる詩とか芸術は理解しがたいものとなっているのだ。健全なロゴスは形成されないのである。

抽象画は自分ながら作って不思議である。ただ偶然にできるのである。操作していてこれが秘境の感じだなというときそうなる。意外と抽象画は題が大事になる。秘境といえば秘境の感じになる。
でもまた別な見方もある。でも題がないと何だろうとなり何にも感じない人もいるだろう。
抽象画は誰でも簡単に作れる。ただそれに意味を認められるかどうかはわからない。これもやはり一種の新しいア-トなのだろう。

2012年06月07日

現代の万葉集の意義 (自然から離れた都会はカルトの温床)


現代の万葉集の意義

(自然から離れた都会はカルトの温床)



現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな


渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため.


水泡なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千年の命を  大伴家持


日本人の心の根源に万葉集がある。万葉集は日本の風土と一体化したことに意味があった。現代では日本の風土と一体化する、アイディンティを求めることがむずかしい。どこの国でも自然と一体化することが神を尋ねる道である。ビルと車の騒音なのかで神を求めること尋ねることができない。
結果的に宗教は政治化して経済化してカルト化する。オウムも異常なものに見えてもやはり現代という環境が作り出したものである。その中で有為な青年が今や五十代とかなりその青春を浪費して人生を浪費した。古代のように自然の中に道を求め尋ねていたらこうはならなかったろう。結局文明自体の歪みがオウムであれ創価であれ様々なカルト団体を生み出ししているのだ。自然の山や岩や樹とかに自己をアイディンティ化したら自己同一性を求めたらあのようになることはなかったろう。
これは原発の安全神話にも通じている。これも一種のカルトだったのである。科学を絶対化して科学者にだまされたのである。科学者も科学を宗教のように絶対化した詐欺師だったのである。


万葉集の意味は時代によっても違ってくる。戦後は大君、天皇への忠誠心として過剰に天皇礼拝になりすぎたのである。大伴家持の大君への極端な傾斜は古代ではやむをえなかった。それが明治維新で過剰に利用されたのである。江戸時代まで天皇は京都で貧しい生活をしていた。それが明治維新で過度にもちあげられすぎたのである。それが皇国の戦争へとなり多大な犠牲ともなった。でも万葉集のいい面は庶民まで歌っていることであり権力者だけのものではなかった。そこに国民的最古の古典としての意味があった。日本の風土と一体化したものとして残ったのである。

尋ねるべき所はどこかなのか?今や寺院や神社を尋ねてもそこに仏も神もいない、キリスト教の世界ですら大聖堂を尋ねたとしても神はいない、シナイ山にもエホバはいない、神の居場所は移動するのは結局人間が入り込んでくると必ず汚されるからである。必ず宗教の場は政治や経済の場に変貌するのである。そこで心を清めることは不可能である。今はエホバは神はヒマラヤの最高峰に住んでいる。ヒマラヤは未だ汚されない場所だからである。イスラエルが聖地だとしても実際は違っている。
誰にも人間によって汚されない場所に神は住む。それはもはやヒマラヤにしかないのである。


大芦とか地蔵木のことを秘境として語ったが江戸時代はほとんどの地域が秘境だった。隣村すら未知の世界であり秘境となっていた。村と村は交通も歩くとか馬とかだからそんなに行き来しない、閉ざされて住んでいたのである。だから明治になっても民情が違うから合併しなかったとかなる。どこでも村は自給自足が基本であり交流しなくても基本的に所では生きていけたのである。今は地球の裏側からものが入らないとかで大騒ぎになるのとは大違いである。どんな山の中でも交通が発達していないから自給自足が基本だとすると人が入らない秘境が普通にあったのである。そんなものを探す必要もない、いたるところが秘境だったとなる。

 


飛鳥から吉野川右岸の竜門山中にある山岳寺院、「竜門寺」を訪ねた時のこと。
彼が残したという漢詩が、日本最古の漢詩週『懐風藻(かいふうそう)』に、収められている。


命駕遊山水
長忘冠冕情
安得王喬道
控鶴入蓬瀛


この詩は葛野王の心境を吐露したもので、「馬車を命じて竜門山の山水に遊び、しばらく高官高位の身にある煩わしさを忘れたい。この竜門山で王子喬(中国の仙人)のような仙術を会得して、鶴に乗り仙人が住むという蓬瀛へ行きたい」というものである。葛野王は、慶雲2年12月20日(706年1月9日)に薨去しているので、これ以前から龍門山は神仙的または霊場として認識されていたようである。

蓬瀛は奈良の都のすぐ近くにもあった。今とはまるで違った環境だからそうなっている。葛野王は政治的争いのただなかにありそこから逃れたいということでこの漢詩を作った。ところがそういう所で生活する人がいたしその人たちはまさに蓬瀛に住んでいたのである。ただその生活は不足が多く苦しいものだった。大芦とか地蔵木もそういう場所だったしどこでもそういう場所はいたるところにあったのである。ネパ-ルなどもあんな高いところ高い所に住むほかなかった。まず天に住むほかないくらい高い所に住んでいることに驚く。それだけ耕地がなかったということである。

葛野王は逃避の場所として蓬瀛を求めた。第一馬車に乗ってというのが贅沢だとなる。空想的なものとして心の中でそういう場を逃避の場を求めたのである。


現身(うつせみ)は数なき身なり山河の清(さや)けき見つつ道を尋ねな


渡る日の 影に競ひて 尋ねてな 清きその道 またもあはむため


人間は都会で道を求めてあうことありえない、ただ政治として権力としてもともと奈良の都でもあり現代はけたはずれの大規模なものとして都会がある。そういうところに道を求めること自体、本末転倒もいいところであった。仏教も結局、政治権力化して堕落したのは奈良時代からはじまっていたのである。京都が寺の都となったときもそうである。あらゆる権力が寺院に集中した。それで信長はその既得権勢力をつぶしにかかったのである。職人でも寺院に仕えているからその職人を安土城などで働かすには寺院勢力から奪うほかなかった。


近江国内には比叡山延暦寺をはじめ、多くの有力な寺院があり、それぞれが石垣や瓦の技術をもった自前の普請集団を抱えていました。近江由来の石垣といえば、一般には「穴太衆」や「穴太積み」などとして知られていますが、「穴太」とは比叡山の麓にあった地名であり、「穴太衆」とは近江国内に散在する石垣集団の1つに過ぎなかったものと、今では考えられています。
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.turedure4.htm

職人も寺院の権力の下にあった。だから僧侶の権力集団から職人を奪うほかあの安土城も築城できなかったのである。
万葉集の意義も時代とともに変わってくる。戦争中はどうしても大君への過度な忠誠を換気するものとなり悲劇を生んだ。万葉集にも政治的なもの色濃く反映されていた。国家神道が神道でないというときそうだった。神社がすべて皇統の中に組み入れられたのも神社が権力化されたのである。一方で日本の自然と一体化したアイディンティ化したものが読み込まれていた。千歳の命を望んだときやはり岩のように長くありたいということがあった。それは自然な人間の心である。極最近まで長く生きること自体が価値があったのである。五十くらいで死んでいたときは長生きの価値は大きかったのである。長生きするとその土地と一体化してゆくのが人間も生物だから同じなのである。都会で今やアイディンティを求めることは至難である。だからカルト化した政治化した科学化した経済化したものがアイディンティとなる。自己同一化になる。それが極端化したものがオウムであり創価でも幸福の科学でもやはり根は同じなのである。


 

posted by 老鶯 at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

教育とは能力を引き出すこと (人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


教育とは能力を引き出すこと

(人間の脳は生涯で二割くらいしか使われていない)


education 教育
[語源] L.educatio = e-(=out)+doctus = 子供の資質を引き出す行為


ローマ時代には、この石橋の上の溝に水を通して生活に使っていたのです。aqueduct の溝の部分が、水を導くための duct です。現在の duct は建物の換気、液体を流すための大きな管のことですね。このイメージをしっかりつかんでください



プログに出している抽象画だと思うがほめられた。美しいですねとコメントがあった。何度も書いてきたけどこの抽象画は芸術になっているかどうか疑問だった。ただ見ている人がいるのだから全く無視されていないのだから芸術として認められていたのかもしれない、抽象画は本当に芸術なのだろうかという疑問がある。でも抽象化が人間の精神的活動の根底にあった。文字も数字も抽象化した結果である。タ-ナ-のような大画家でも最後は抽象画になったということでも人間の精神と抽象化は密接な関係があるのだ。

educationが資質を能力を引き出すというとき、そもそも人間の能力は大方引き出さない限り眠っている。生涯で使う脳は割り程度というのは本当だろう。あとは能力が引き出されず眠っているということである。つまりどんな人でも能力はある。ただ引き出されないだけなのである。人間の能力というとき知的なことばかり言っているが社会を見ればいかに多様かわかる。人間には無数の能力をひきだすことによって社会が成り立っている。手伝いとかヘルパ-とか何かそんなものに能力が必要なのか、誰でもできるではないかとか見えるけどこれもその人に備わった能力があり向いている人といない人がいる。介護関係の仕事は力より優しさが求められるから今までにない男でも気質が要求されることになる。戦国時代だったらただ剛のものの能力が要求される。要求される能力も時代によって違ってくるのだ。


能力のない人はこの世にいない、ただ能力が引き出されないだけなのだ。芸術的感性などでも磨くにしてもそういう環境に恵まれていないと
そういう方面の感受性は身につかない、クラシック音楽などは生のオ-ケストラの演奏などをしょっちゅう聞いている人と聞けない人の差は大きいだろう。生の演奏を聞いて感動することが本当に感動することになるからだ。また自ら一つの楽器でもこなせれば音楽の関心が高まる。でもそれにはそれなりの時間が必要になるのだ。環境も必要になる。つまり能力を引き出す環境と時間に恵まれる必要があるのだ。ところが実際は貧乏な時代はほとんどそういう環境と時間に恵まれないから芸術的を鑑賞するセンスがみがけないのである。もちろん創造するのにもあくまでも自らの能力を引き出すことが創造につながる。


そして人間は能力がない人はいない、ただあらゆる方面で引き出されないというだけなのである。人間には何かしらの能力が備わっているが引き出されないのである。隠れている使われない能力が大きいのである。また能力を引き出すのには脳の状態を健全に保たないとできない、酒飲むことは脳を退化させる。一時的に脳が麻痺状態になるから能力が低下するのだ。能力を引き出せなくなるのだ。脳の潜在的力を引き出すためには節制が必要なのである。過度な酒や過度なセックスやそういうものに溺れたらどんなに潜在力があっても能力は引きだせなくなる。能力がわずかでも節制して長年努力していれば能力を引き出せるのが人間なのである。素質的に天才であっても能力を引き出すのに失敗する場合がある。一方わずかな能力でも節制していて引き出せることがあるのだ。それは別に年齢に関係なくそうできる。現実にパソコンの抽象画に目覚めたのは最近のことでありすでに60すぎてからである。60以降も引き出せる能力はいくらでもあるのだ。それもやはりそういう節制した状態でないとできないのである。


その一つの例がパソコンの抽象画だった。絵の才能が全くない自分でも抽象画が作れたという不思議がある。それはただ化学反応のようにしてパソコンのソフトから作り出したのである。パソコンのソフトは高価なものを買うより使いなれることが大事だというときまさにそのソフトを自分なりに使いこなせない方が多いのである。様々な機能があってもそれを引き出していない、ソフトの能力が引き出されていないということがパソコンをしている人は気づく。ええ、こんな機能があってこんなことできたなということが多すぎるのだ。これは脳を使いこなせないと同じである。脳の二割くらいしか使わず死んでゆく、ソフトの機能もすべてを使いこなすことはできない、何割しか使わない、そしてもともと備わっている機能を知らないことも多いのである。最近ではJ=Trimのテキスチャ-を使っていないかった。これを大理石に変換するとまた一味違ったものが作れていたのである。人間の能力もこれも使われていない、引き出されていないのだ。例えば文章を書くにしても本当は今や普通の人でも膨大なものをインタ-ネットで発表できる。すると文章を書く能力が増大するのだ。文章を書けば書くほどその能力が引き出されてくるのである。


artはもともと技術の意味だった。新しい技術が生まれたとき新しいartが生まれた。そもそも文字を書くにしても墨とか筆の発明なくしてありえないし紙の発明もそうである。


画材道具がどんどん改良されていきますが1840年にチューブ入り絵具が発明されたのです。
 それまで、画家たちは自分で絵具を作成していました。絵具の作成は画家にとって重要な技術の一つであり、その技術は画家の個性の一つでありました。良い画家とは、良い絵具を作る職人でもあったわけです。
http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e66a.html


印象画はチューブ入り絵具が生まれて作られたのである。それまでは画家が絵の具を作り出していた。だから逆に今の時代にはない色が作り出されていたのである。必ずしも絵の具の発達が美術を発展させたとも限らない、時代時代により絵の具を作り出していて独特の色合いを絵に出していた。その色は今に作れないものとなってもいるのだ。染料なども時代時代によって作り出されていて過去の草木染めなどは再現できないということもある。その時代によってしか再現されない芸術がありそれは価値がなくならないものとなる。

この文章を書くにしてもやはり他者のものをインタ-ネットでは利用しやすいからそういうものを編集して書いている。インタ-ネットは常に編集しながら書くものなのである。だからインタ-ネットも能力をひきだす新しいツ-ルとなっているのだ。出版社では作家の能力を引き出していたのとにているのだ。編集者はそういう役目を果たしていた。でも今は出版社の役割は作家自身に移ってゆく、
作家自身が編集する方が効率的だしインタ-ネットからは引用が簡単だから膨大な文章が書けるし発表できる。なかなかインタ-ネットでは認められないにしてもそういうことができるツ-ルではある。だからこれからは出版社はよほど創造的なことをしないと生き残れないだろう。作家自身が創造の源であったしその作家が編集して出版までできるとなると出版社の役割がなくなるからだ。


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人間が認識する色は実はどのくらいあるのかわからない、同じ青でも何百種類の青があるかもしない、それらの色が認識されないように人間の隠された機能、能力を使われていない、ソフトの能力が機能がすべて使いこなせないととにているのだ。ペインタ-12とかなると使いこなすこと自体がむずかしすぎる。機能がありすぎるからだ。自分が使ったのは二千円のペイントグラッフィックだった。これだけでも使いこなすことがむずかしい。その機能を全部使いこなすことが手間になる。ソフトはどんないいソフトでも使いこなす方が手間でありむずかしいのである。

2012年06月09日

抽象画の不思議 (この抽象画にどんな名前をつけますか?)


抽象画の不思議

(この抽象画にどんな名前をつけますか?)

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抽象画は何なのか?自分も抽象画をパソコンのソフトで描けたから考えるようになった。
自分にも絵が描けるのという不思議があった。

例えばこの二つの抽象画にタイトルをつけるとしたらどんな題をつけるのか?
これは他でも題がついているけどその題と関係がよくわからないんだよな
他人の抽象画ってわかりにくいんだよ

ということは自分の抽象画も他人からみればこれはなんだと思っているかもしれない
でも全然認められていないわけではない、芸術として認めている人もいた
抽象画って他人が認めること自体、あんまりないように思う
どこが優れているのかわかりにくいから

 


上のは題をつけるとしたらサファイアとエメラルドしかない
ちなみにこれは「抽象画ってどう」というの中の抽象画が原画になっている
でももう元がわからないからこれは著作権違反にならないよ
まるで違ってものになってしまっている

下はこれ何?となるけどどういうタイトルをつけるんだとなる
これは牡丹を万華鏡で加工したら偶然こうなったんだよ
必ず万華鏡にしている、それが抽象画を作る基礎である
でも最初からこれが牡丹を加工したものには見えない


抽象画ってどう
http://yamaguchimomori.cocolog-nifty.com/blog/2005/06/index.html

前田、前畑が喪失して荒地化した南相馬市 (木蔭で安らげない)


前田、前畑が喪失して荒地化した南相馬市

(木蔭で安らげない)


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相馬市の農家

通りにはドイツアヤメや木蔭かな


大木の木蔭に休らふ前田かな


前畑に木蔭の道や農家かな


相馬市の路次に墓所や木蔭かな


カ-テン越しツツジの赤し喫茶店

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昨日は天気が良かった。相馬市の方に行った。
ドイツアヤメが通りに咲いていたけどしゃれた店もない、木蔭に咲いていたのが気持ち良かった。
最近仮設の店ができてにぎわったけどやはり一軒一軒店があるのがいい、それは普通である。
そもそもこの辺は原町や相馬市はもともと市の雰囲気があったけど小高-鹿島はなかった。
店もたりないし家もたりない、最近鹿島区には家がふえた。壊された家も多いが津浪とか原発事故の関係で家が建てる人がふえた。十軒くらい新しい家が建った。家を建てる土地は企画化されて余っていた。今も余っている。やっぱりあと五千人ふえるくらいが町としては住みやすくなる。人口がふえないと便利なものができないのである。


農家の前は前田であり前畑になる。この苗字が多いのは当然である。前田、前畑が一番農家の生活に直結していたからだ。それが南相馬市ではなくなった、荒地化、草原化している。というとき実際は前田もない、前畑もない、としたら農家ではない、それはなんなんだとなる。農家に大きな木がありそこが木蔭となっている。それも前田とか前畑があってこそ安らぐものとなっている。ただ相馬市に入ると前と同じで普通なのである。前田、前畑がある。あそこは木蔭の道がつづき広い前畑があり
ポピ-が明るく咲いていて気持ちが良かった。相馬市は何ら変わらない、水田の景色となっているのた。

 

水田が消えた


とろとろと水は流れる
山から水は尽きず流れる
水は大地をうるおし
水は山に森に貯えられ
とろとろと流れる
山の神は春には
平地におりてくる
山から水が流れるように
農家は何代もつづき
前田があり木蔭が涼しい
そんな当たり前の風景が消えたとき
その流れる水がなつかしい
水は大地の血液だった
今大地に水が流れない
水は活きていない
それは山は森も生きない
みんな一つの命だから
水を通じて命がめぐっているから


やっぱり水がめぐっているとき日本の大地は生きていたのである。

イオンの喫茶店はいつも入っている。安く飲み物と食べ物がでる。喫茶店はやはり感じが大事である。椅子も大事なのだ。座り心地がよくないと気分が良くない、あそこは気分がいい場所である。
窓が広くカ-テン越しに赤いツツジが咲いていた。原町の六号線近辺に喫茶店がないので困る。
休む場所がないのである。


この辺は以前として異常な状態がつづいている。働かないということが人間の心に相当に影響するのではないか?補償はされているから食べるのに困るということはない、衣食住に困るということはない、でも働くことができないとなるとやはり人間的に荒廃してくるのではないか、毎日パチンコ通いで勤める場所パチンコ屋というのは異常である。金にならないから売れないから米を作らない、補償されているから仕事しなくてもいいとなったとき農民は農民でなくなる、ただの遊び人になってしまうのか?田畑を耕しているから農民でありそこに誇りも与えられていた。ただ補償されているから別に働くなくてもいいとなっても問題は解決していない、農家でなくてもこんなに田畑が草原化していること荒地化したのを見ていたら木蔭で休めない、安らぐ場と景色となっていないのだ。そんなこと当たり前だったけどその当たり前のことが喪失してしまっているのがこの辺なのである。



日々勤めあるこそよけれ


この家を残せしは姉なりき
その跡継ぎて勤めあるこそよけれ
先祖からの嗣業 ( しぎょう ) のあることこそよけれ
我が厨に立ちて五年
我は姉に尽くし母に尽くしぬ
人には何か尽くすべきものあれ
今日も終わり家にそ帰りぬ
何事のなけれど明日も勤めあり
健やかな体に勤めあるこそよけれ
その故郷をもちて我が田、我が畑、我が家や
力尽くして耕させし時よ
ああ 汝の才もて力尽くすべきかな
黄金の実りは秋にあるべし
その穂をとりて充たされし時よ
ときはぎの松は変わらず立ちて
秋の陽は雲を赤々と染めて沈みぬ
今勤めなき人の淋しも
食の与えられしも勤めなし
その用なき実りなき日の淋しも
人は日々勤めて力わくこそよけれ
今日も勤めて明日も勤めて大地と共にあらむ
その日々は充実して実りありにしを・・・


農業とは最も古い天職だった。天職とは天から与えられるものであるから尊い、職業は人間のみが作り出すものではない、また作り出せないのである。なぜなら天地を造ったのは神であり天地なくして農業も成り立たない、農民には何かそういう意識が欠けていた。農業では食べていけないとか農業は金にならないとかそういう不満ばかりが言われてきた。その結果として原発を安易に導入した。
漁民も同じである。金にならない、金にならない、すべてがそうなってしまった。ここで働いていくらになるんだ、これだけがやっていられないよ・・・遂に犯罪者に平気でなる。働かないで盗んだ方がいいんだよと実際にそうでなくても心の中ではそうなっている。それほど働くものの倫理が喪失してしまったのである。農民には天地の中で働く大きな意義があった。働くこと自体だけを考慮すれば大きな意義があった。だから今本当に働かないで生活できても働きたいなと純粋にただ働きたいと思っている人が仮設に入っているような人に多いかもしれない、昼間から酒飲んでパチンコ屋通いで心が充たされるのかとなる。


奇妙だけど今ほど自分ほど働いていることはない、結果的に茶の湯だと言っていたが抹茶を飲む余裕がなくなった。それほど忙しいのである。三食の用意から家事を全部一人でやっているから大変なのである。茶の湯の暇人しかできないことがわかった。ただ心を落ち着かせるために茶の湯は必要だった。でもそういう暇がないのである。つまり実際に食事のために茶を入れる方に時間がとられるからそうなる。それでもプログでもこれだけ書いて出している。だから毎日が仕事に追われているのである。ともかく田舎では親の仕事を受け継ぐ人が多かった。それが都会と違っていいことだったのである。受け継ぐ家があり田畑がありそれを耕す、そういうことをくりかえされてきたのが田舎だったのである。それが失われたとき生きがいも何もなくなり荒廃してしまう。農民でもやはり自分の仕事がどういうものか深く考えていなかった。ただ金にならない金にならないという不満しかなくそれが原発を導入する結果になった。これはここだけの問題ではない、現代の時代の問題だったのである。

2012年06月10日

かくされしはな(詩)


かくされしはな


ほのかに

かすかに

ひめやかに

しとやかに

おくゆかし

いづこかに

さきいずるはな

ちりもつかじ

かくされさきぬ

たれそふる

とおすみとんぼ

とまりしもしらじ


くろあげは


まいつつさりぬ

ひそかなるかげ

そこによりそふ

こけむしふりぬ

ちとせのいわ

そこにしあれや

ゆうひかげ

そこにさすかな

posted by 老鶯 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2012年06月12日

最上川は日本で唯一川の文明を想起させる (最上川紀行-左沢線の旅などの追加)


最上川は日本で唯一川の文明を想起させる

(最上川紀行-左沢線の旅などの追加)
http://www.musubu.jp/haikutripatera.htm

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(最上川短歌十首)


稲刈られ米を運ぶや最上川


渡し舟昔の暮らし虫の声


紅葉して最上川や舟下り


舟のよる蔵に秋日や大石田


最上川は昔ここに人の待つ船着場かな虫の鳴くかも


最上川水の勢い酒田へと荷を積む舟や実りの秋に


滔々と流れ変わらじ最上川荷を運ぶ舟のなきが淋しも


豊けくも流れる水や最上川その勢いに春を呼ぶかな


蔵にしまう京のお雛様紅花に栄えし町や秋の夕暮


最上川酒田にいでて日本海船を待つかな蔵の並びぬ


酒田には木の灯台や栄えたる家の塀長く秋の夕暮


酒田に来飛島によりあわれかな畑耕すや秋の夕暮


飛島に鳥海山を望むかな鴎のとびぬ秋の朝かな


米俵担ぐ女の語られぬ力自慢や実りの秋に


●山形県は最上川を知ればわかる


現代は川はわかりにくい、日本では特に川の文化が希薄である。川が文明の最古の発祥地であることをみればわかる。四大文明はナイル川、ユ-フラテス川のメソポタミア、インダス文明、黄河文明と川から生まれている。インドのガンジス川はインド文明の源でありガンジス川なくしてインドはありえなかたった。それは物質精神ともに川によっていたのである。なぜなら水の供給地でありもう一つ重要なものとして川は交通路であったことが文明を作ったのである。外国の長大な川は流れが人工の運河なのである。ドイツでもラインが父なる川というときまさに川によって生まれた国だとなる。
ナイル川の川の物語は地球的スケ-ルによって作られていた。エチピアの高原の黒い土が泥となって流れて洪水となりその泥が栄養分を運んで肥沃な土地を形成したのである。その黒い土は岩石から生まれたというからその地球的地質史から生まれていたのである。福島県が放射性物質のセシウムに汚染されたというとき泥に付着して川に流れてそうなった。泥が一番の原因だったのである。泥はそれだけ川によって流れていたのである。だから新潟県の阿賀野川の下流まで影響していたのである。
日本が川のことがわからないから基本的に外国の文明を理解できないということがある。
ただ一つ最上川はその川の文明ににていたのである。最上川の流域は広大な米の産地であり紅花の産地となっていたからそれが近江商人と結びつき京都に運ばれて加工されたのである。


また最上川の流域には荒地が多かったというのは水を利用することが技術的にむずかしかったからである。水があっても水を利用することは灌漑などすることは技術が必要であり文明を作るのである。稲作と水利用は密接に結びついている。日本に水分神社が多いのは水を分けることが稲作には不可欠でありそのために村の共同体が作られていたのである。
http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/06-sou/sou0302/html/01reki/01reki_03.html


仙台・奥州三春・西国肥後・尾張・遠江・相模などで生産されていましたので、気候・土壌が決定的な要因だったというわけではなさそうです。
 むしろ、最上川の舟運で山形と京都や大阪が深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったと考えたほうがいいかもしれません。


最上川 いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ 斎藤茂吉


山形が有利だったのは最上川があったからである。他でも紅花は作られていたが運ぶ手段にことかいていた。いかに文明というのは交通と関係しているかわかる。川が交通路になっているから文明が作られたのである。だから最上川流域の米でも紅花でも川を通じて運ばれるから活かされたのである。そして日本海も冬をのぞいては穏やかであり北前船で京都まで運ばれた交通路になったから酒田が栄えた。

本間様は大地主として栄えた。


「金銀財貨は積んで山の如く、伊呂波四十八蔵の倉庫には累々たる米俵、金銀、銅貨、紙幣、古銭など数算することあたわず」


と言われたた。今でも山居倉庫がその名残である。そこで米俵を五俵も担いだ力持ちの女性が話題になったとか?男でも米俵を担ぐことが仕事だった。だから力をある男が称賛された。江戸時代あたりはそもそも機械がないのだから人力だから力あることが一人前とされた。田から村々にくらべ石(尺石)というのが必ずある。そこにある神社などにある石をもちあげれば一人前とされたのである。
力がなければ一人前としても認められなかったのである。今は力なくてもそれなりの仕事があるからひ弱でも生きていける。自分の庭作りした人には驚いた。機械ででしかもちあげられない石を動かしたのである。機械がないときは人間の力が頼りだったから力ある男は称賛されたのである。南相馬市鹿島区の江垂の一石坂というのも力持ちの女が一石の米を運んだから名がついたとか各地で男であれ女であれ力自慢の伝説がある。女でも力があることが称賛されたのである。美人であるより農業には力があることが望まれた。今でも農業などは力が必要なので力のない人はやりたくない、ただ機械化したので機械の操作の方に関心が移ったのである。


●最上川の俳句と短歌


最上川の全体を長い川の全体をみることはむずかしい。そのためには川を舟で下る必要がある。川に沿って下って行った時、途中なみなみと水量豊に流れる川は気持ちがいい、日本ではこのように水量豊に流れる川は最上川くらいしかないのだ。必ず川床が見えている。


五月雨を集めて早し最上川 芭蕉


これは水量の豊かさを俳句にしている。つまりこれだけの水量のある川は他に日本ではないのである

最上川秋風簗(やな)に吹きつどふ 水原秋櫻子


これは最上川というのは広いし大きいから秋風が広い川面を吹きわたり梁に集まっているというのを句にした最上川の大きさを示したものである。自然の情景の大きさを句にした。

五月雨や大河を前に家二軒 蕪村


これは最上川だったのか?水量豊かな河であることは確かである。これはこんな大きな川が決壊したらヤハな家二軒など流されるという危うい情景を見た。最上川でも堤防もまともにない状態では常に洪水の危険にさらされている。水には常に危険があった。海に面して住んでいると海の水がおしよせてくる夢をみる。水があふれる夢を見る。川もやはり海とにていた。こんなに五月雨がふったら家二軒などあっというまに流されるという感覚をもった俳句だったのだろう。そういう危険を海の側に住んでいた人が感じなかった。津浪はめったに来ないから感じなかった。人間は特に日本人は危ない場所に住んでいる。ただそういう危険感覚が消失していたのである。

一方蕪村の句は生活に根ざしたものに着目しているのが多い。


新米の坂田は早し もがみ河


毛見の衆の 舟さし下せ最上川

―――――――――――――――――
秋の季語である「毛見」は「閲・検見」で、
「けみのしゅう」は米の収穫前に出来高を検分する役人たちのこと。
当時は今のような自己申告ではなくて、
お役人が査定して年貢の額を決めていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やっかいな役人を舟で早く流してくれということになる。新米が阪田(酒田)に早くつくのは最上川が交通路となっていたからである。




草枕夢路かさねて最上川 行くへも知らず秋立ちにけり」(正岡子規『はて知らずの記』より)


正岡子規が来たのは秋だった。自転車でどこなのか?船着場が川岸にあった。そこには説明の看板だけがあり何もなかった。虫が鳴いていただけである。渡し場なども昔はどこにでもあった。交通路として川はあった。今の旅はゆくえもしらずとかならない、行方は必ずわかっているのである。この川は流れてどこに出るんだろうという何かそういうわくわくした気分がここにはあった。いつれにしろ稲田と水量豊かな最上川は生活的にも一体となってあった。引き舟もあり川岸の村から労力が提供された。川の文明が最上川にはあった。


最上川の岸辺の道はさびしけれすすきは枯れて風さむきかも(結城哀草果)


この頃すでに舟は通っていないのか、ただ最上川は大きいかからこうした寂寞もあった。今もある。

山形の方言で、
お値段を聞くときは
「なんぼ?」
お金のことを
「じぇに」
というのは上方商人の影響だと聞いたことがあります。


京都の雛人形ももたらされ商人の蔵の奥深く眠っていた。大阪や近江商人の言葉が入ってくるのもわかる。「じぇに」というのは面白い、商人の言葉で「じぇに」が一番聞く言葉だからである。
山形市にはやたら市のつく名が多いのは紅花商人が多く出入りしたからだともいう。
五日町六日町七日町八日町旅籠町などが商人と関係している。


●左沢(あてらざわ)は辺鄙な地域?


最上川は意外と曲がりくねっているから全容を知るのはむずかしい。左沢はかなり上流の方である。ここに左沢線が通っていて行ったことがあった。あそこの車が通れない古い橋が印象的である。

柳田国男の「地名考」によると愛宕神社が鎮座するアテラ、アタゴの地名は風光明媚ながら稲作に適さない僻地を意味するという、左沢(あてらざわ)はこういう観点から「左」の字がつけられた。
そうだとするとあの古い橋を渡った先はそういう辺鄙な所だったと意識する。あの古い橋は車も通らない橋は余計にそういう僻地に入る橋のように見えてくる。浪江の標葉郷も何か風光明媚でも人の住めない、開拓しにくい場所だった。禁断の場所であり共通性があった。そこに原発が作られたのである。


春はまだ左沢


左沢(あてらざわ)その名のいかに
最上川にかかりて古りしや
橋一つ車の通らざりしも
岸辺になお雪の残りて
左沢なお春はまだしも
なみなみと水は流れぬ
何か秘境めきし名や
途中にして柴橋とかの駅名も
心に残り束の間の旅路かな

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旅というのはいかに記憶されるかが問題になる。人間は忘れやすい動物である。こうして書いているのも記憶された部分を思い出してつなぎあわせて書いているのだ。日本だとあとから思い出してもいろいろとふりかえることができる。でも外国はできない、それで外国について詳しく書くことはむずかしいのである。


山形県と宮城県の境が山寺に入る所であり春でも山寺に入ると雪が残っている。その境が明確にわかるのである。国境のトンネルをぬける
と雪国だった・・・まさにこれである。そして最上川にでるときこの川を通じてすでに日本海を意識するのである。川が交通路だったからそうなる。北上川はこういう交通路にはなっていなかった。確かにあったにしろ石巻港と酒田では違っている。石巻の米は北上川流域のものではない、今回津浪にあった海側に開拓された所だった。そこにだから米を運ぶ貞山堀などの運河が作られていたのである。山形県を知るのには最上川を知らねばならない、滋賀県を知るには琵琶湖を知らねばならない、なぜなら琵琶湖は万葉集の時代から交通路だったからである。
交通路をみることは歴史では肝心なのである。交通路を知ることによって見えてくるものがかなりあるのだ。


最上川文学散歩
http://www3.ic-net.or.jp/~shibaraku/bunngakunosannpomiti.htm

 



紀行文などでも編集すると一つの新たな創造となる。本に書いてあるものでもインタ-ネットでも編集すると新たなものとして活きてくるのだ。この文からもさらに発展するものがある。書き加えるものがある。つまり文章は常に新たな様相を帯びて生成発展しているのである。本とは完結して出されているけど本も完結していない、それも編集されて生成発展するものである。インタ-ネットだと無限に生成発展するものとして提示できる。これも前に書いたものを生成発展させたものだからである。本はなかなか完結しているから利用しにくいけどインタ-ネットの中だと生成発展しやすいのである。膨大な知識はこういうふうにインタ-ネットの中で生成発展してゆく、著作権の問題があるがこれまでは出版社とかに知識が独占されていた、情報でもそうである。マスコミによって独占されていたから原発事故などを防げなかったのである。

2012年06月13日

歴史を見る眼 (世界的には商人が世界のル-ルを作った)


歴史を見る眼

(世界的には商人が世界のル-ルを作った)

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●多様な人間との出会い


歴史をみるときこれはいろいろな側面からみられる。歴史を見る眼は多様である。宗教からみ人もいるし経済貿易史としてみる人もいるし技術者だと科学技術史としてみるし医学になると医学史からみるとかその専門分野によって多様なのである。歴史が地理だというときやはりその根底に地理を知らねば歴史をしりえない、その地理をしるのが実感としてしるのがむずかしいのである。今は簡単に外国に行けるから外国に対する理解は庶民レベルで広まっている。外国は学問と関係なく一回でもその地を踏んだ人の方が実感としてしる。本やテレビを見てもヒマラヤの壮大さは一回だけでも見た人の方が実感としてしることになる。最近はパリに八回行ったとか若い人でもめずらしくない。ヒマラヤに十回登山している人がガイドなしでいた。日本人であんな人がいるとは思わなかった。それだけ外国は身近になったのが現代である。


中国から帰る船であったのはモンゴルに一年間羊の牧畜を勉強するために暮らした人だった。モンゴルは冬が厳しく首が縮まってしまうという。零下何十度になるから冬をテントで過ごすのは相当に体力を消耗する。その人は体力ありそうな青年だった。その人が北海道で羊の牧場を開くと言っていたがその人がテレビに出ていたのは驚いた。今はヨ-ロッパやアメリカが留学先ではない、モンゴルのような地域にも日本人が入り込んでいる。日本人は世界中にどこにでもいるから日本人のたまり場あるから世界を旅しても日本人に合わないことはない、そういう時代なのである。
大阪の商人は中国で一発あてれば人口が多いから大儲けできるとか接待するのも大変だと言っていた。必ず税関とかでワイロを払う必要があるという。中国は古代からワイロの国だったのである。
ワイロは一種の貿易のリベ-トだったのである。ワイロも関税の一種だったのである。
今庶民レベルでも外国人が入ってきている。中国人などどこにでもいる。相馬市の玉野で自殺した酪農家はフィリッピン人が妻であり子供いて放射能騒ぎで国に帰ったからそれが原因となもなり絶望して自殺した。東北では多様な人間とは出会いえないがただ底辺でも外国人を妻にしたらグロ-バル的なものとなってゆく、そういう時代なのである。


●日本は島国文明で商業に通じない国


日本人はそもそも島国であり鎖国のように閉鎖的民族である。島国的文明として作られた民族である。大陸のように激しく流動化する国とは違う。世界ではヨ-ロッパでもそうだけど激しく民族が移動して戦争ともなり混交して文化を作ってきている。ユ-ラシア大陸が遊牧民の世界であり遊牧民は羊を追って暮らしているのだから移動する民である。そのことは必然的にすでに遊牧民は商人ともなっていた。イスラムが商人の国だというときまさに遊牧民の国だったからである。砂漠は海と同じく交通路になっていた。草原でもそうである。この遊牧民が航海の民となったことはうなづける。同じ様に星を北極星などを方向を目印とするのが共通としているし国の旗も星となっている。相馬藩の妙見ももともと中国の遊牧民の文化が伝えられて北斗七星を祭る妙見神社となった。遊牧民はまた馬を使うから騎馬軍団でありそれは星と関係していたのである。世界的には遊牧民の影響受けない国はなかった。日本だけが魏志倭人伝に「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とあるごとく牛も馬も羊もいない世界ではめずらしい極東の島国となっていた。漁労民族であり海彦山彦の世界だった。


日本には貿易を発達させる土台がそもそもなかった。交通路となるべき砂漠や草原もない、山にさえぎられているから国のなかでも孤立する度合いが強かったのである。海に囲まれていたから海岸線で交通が発達したかというと江戸時代は日本海は海が穏やかだから北前船などでそうなったが太平洋側はそれほど発達しなかった。波が荒いからそれほど海の交通路が発達しなかった。その点大陸は砂漠があり草原があり長大な川が交通路となって商業が発達して商人的気質が養われやすかった。
結果としてそうした世界的交流がしやすいから大きな文明が作られた。外国の貿易が盛んになればどうしても共通の公平な法律で商売できなければならない、だから異民族間でも公平な法が互いの国で作られた。商業は世界的法律を作る基なのである。聖書で契約が中心になっているのは商業がすでに発達していたからである。バビロン辺りではすでに商業都市だったのである。そこではいくらでもそうした考古学的発掘がある。楔形文字からもいくらでも発掘されている。


●信長の時代が商業の時代になった


日本人が商業的なものに目覚めたのは信長が出た戦国時代からである。その時堺が栄えたことでもわかる。信長は商人的な気質をもっていた。商業を盛んにすることが国を栄えさせることとして政策でも楽市楽座とか実行した。それは秀吉に受け継がれた。戦国時代は日本が極めてグロ-バル化した時代だった。一時的でもスペインとかポルトガルとかとキリスト教を通じて交わり世界的な視野をもつようになった。これまでは京都を中心とした寺社勢力、寺院勢力が既得権者として権力をもっていた。それが戦国時代に変化した。つまり京都が権力の中心地だったときその周辺から新勢力が信長を中心にして生まれたのである。ここで僧侶集団の既得権者と争いが起こる原因であった。それをつぶすにはあれだけの戦争にまでなったのである。やはり歴史は地理的なものからまずみる必要がある。

京都の周辺の近江がなぜ次なる日本の中心地となったかわかる。京都には既得権勢力の僧侶集団にしめられている。新しい勢力はその周辺から起きる。近江商人が全国的にあれだけ活躍したのも京都の周辺にあって規制の勢力の僧侶的集団の束縛がなかったからだろう。会津の喜多方が商人の町として栄えたのも会津の北ということで武家の縛りがないところで自由な活動ができたためである。
歴史にはそういう地理的影響が必ずある。伊達政宗があれだけ世界的視野をもてたのはなぜか?
伊達政宗はほとんど地元にいない、大阪の伏見城の秀吉に仕えていた。その愛姫もそこに住んでいて仙台に住んでいなかった。とすればそこで日本のみならず世界の情報にじかにふれていたのである。辺鄙なみちのく一城主ではなかった。常に全国的に活動して世界に眼を向けていたのである。

地理からみるとなぜオランダがあれほど貿易で栄えたのか?それも地理的要因が大きい。ドイツという大国とライン川を通じて結ばれていた。イギリスとも結ばれスエ-デンとかノルウエ-とも結ばれ材木が入りとかニシン漁が盛んで売るもの前の海からとれていたとか地理に恵まれていたのである。
これは酒田とにていた。さらに恵まれていたのはもっと大きなイギリスとかスエ-デンとかノルウエ-と結ばれていたことである。オランダには地理的に富が蓄積する条件がまず調っていたのである。
その商人的文化が育まれて写実的なオランダの絵画が生まれた。オランダには音楽は発展せず写実的な絵画が発達したのも商人国家だったからである。ドイツは広大なゲルマンの森の国だから瞑想的な音楽が生まれた。絵画はもともと写真のように写実性を追求することが根底にあった。だから絵画がオランダには向いていたのである。オランダが宗教にこだわらず貿易の利だけを目指したのも商人国家だったためである。それで鎖国の日本にも長崎の出島を通じて受け入れられたのである。


●日本は侍と農民の国


日本という国の特徴は全体的には農業国家であり侍と農民の国だった。江戸時代三百年で侍的気質と農民的気質の国として作られた。ここにもう一つもの作りとして職人的気質の国として作られた。
商人的な貿易国として作られた国ではない、たいがい中国でも商人国家と言われるように商人的気質、文化が作られてきたが日本は島国として作られなかった。だから商人的割り切りが合理思想がともしいのかもしれない、何か日本はドイツとにている。ドイツも農民的であり森林の民であり神秘思想をもつようになった。日本は農民的なものとしてはドイツとにている。日本の支配階級だった侍は最も商人的なものと反対の極にある。農民もそうである。日本は大阪や近江商人のように一部をのぞいて商人的なものをはぐくまない、それは江戸時代の鎖国の三百年の中で気質的に歴史的アイディンティとして作られた。

大阪的な近江商人的なまず「じぇにだよ」という感覚にならない、銭を本能的に毛嫌いするのはそういう気質が江戸時代三百年で作られていたからである。特に東北は全く商人的気質がない、商業で栄えた時代もない、鎖国時代の侍と農民の社会の継続なのである。東北はだから未だに人間も一般的に閉鎖的であり開かれていない、進取の気質にも欠けている。商人向きではない、農民的なのである。農民から職人には向いているからもしれないが商人には向いていない、それは日本人全体の傾向としてある。近江商人の末裔のうよな人に旅で出会った。外国で実にねぎるのがうまいのである。自分もまねしたけどできなかった。そういうことは簡単にまねできないのである。
だから近江商人とか大阪商人の気質は歴史的に作られた気質だったのである。長年歴史的にそういう商人の世界が作り上げられた場所で育つからそこではそういう気質が生得のものとして作られていたのである。


戦争にしても何かヨ-ロッパのような貿易で利を得ればいいとかいう商人的融通性がなく何か合理的なものもない、犠牲ばかりふやした戦争はやはり商人的気質の欠如なのだろうか?農民的一途さがそうなったのか、兵隊はほとんど農民だったことにもよる。東北人は兵隊としては優秀だったというのはそういう面もあった。東北人は律儀であり融通性がないのだ。それはいい点でもあり悪い点にもなるただ戦線を無闇に拡大してただ無益な犠牲ばかりふやしたのは商人的気質の欠如からきていたかもしれない、もっと冷静に合理的に得か損かを考えたらあそこまで犠牲をふやしたりしないだろう。アジアの大義のためとか戦争にそういうものをもちこんだとき融通性がなくなる。適当な所で不利とみたら交渉も商談も中断するとかの判断ができなくなった。日本は神国だから負けないというのもカルト的宗教戦争にもなっていた。一億総玉砕などというものやはりカルトかかったものとして合理性を失った結果だった。これはドイツのナチスとにたところがあったのだ。

戦争はいかに戦死者を弔うにしても無駄な犠牲が余りにも多すぎた。英霊だとしてなぐさめても何か虚しいのである。農民的気質と侍的気質が合体して悪い方向に向かった。それがいい方に向かいばまた別なものとなっていた。だから日本人は魏志倭人伝に「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」というようにここから日本人の気質が形成されていたのでありそれが戦争にも影響したし歴史的アイディンティとして日本人を作ってきたのである。ドイツ人が森をアイディンティとしているとにているともなる。


●土星と水星(マ-キャリ-)


サターン(土星)はローマ神話の農耕神サトゥルヌスに由来。太陽から遠く運行が遅いことから年老いた神の名が付けられた。                               

(高齢の慎重な賢者)・(小さな事を積み重ねて大をなす)という点に優れています

水星(マーキュリー)は 流動性を示し、通信・交通、商売、旅行、兄弟に当てはまる


土星は鈍重な農民でありマ-キュリ-は商人であり旅人なのである。旅人はやはり商人と共通していたところがあった。商人は絶えず移動しているからである。江戸時代はまさに土星の時代だった。
それが明治維新以降はめまぐるしく交通が発達してマ-キュリ-の時代になったのである。
グロ-バル化時代だと世界が兄弟だというのもそうである。通信、交通の発達は余りにもめまぐるしいのである。水星のように回っている。そういう時代だから一方で土星のような農民的重厚な落ち着きも求めている時代である。

「最上川と羽州浜街道」という本がアマゾンで今日ついた。
最上川に興味をもったから注文したらついたのである。古本だから千円だった。今は何か書いて調べるときインタ-ネットではたりなくても本で調べられる。それも古本だと半額くらいになるから即座に集められるのである。本というのは何かを調べたり書くときその関連したものが必要になるのだ。それがアマゾンだと一発で即座に注文できて次の日には配達されるのである。本はいくらあってもたりない、あることに詳しい情報が常に必要になっているからだ。だから情報的には格段の進歩が生まれた。本の買い方もこのように変わった。だからそれに応じて変わらねば商売にならない、インタ-ネットでも情報のやりとりが高速ですさまじい量のものが流通しているのだ。だからもはや本という媒体自体が限界にきている。本だと金がかかりすぎるのだ。教育も変わらざるをえないものがある。

「左沢」について書いたがこの本でさらに詳しくなった。つまり「左沢」という地点についてより詳しく知りたい人がいる、それをどこで知るのかとなる。インタ-ネットでもより詳しい情報はでていない、それは今までに蓄積したものの中にある。自分でも今やそういう情報の編集者だから出版社と同じことをしているのだ。現代は新たな情報の編集の時代なのである。

2012年06月14日

コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続) (南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)

 


コンビニの前で大正生まれの老人の話しを聞く(続)

(南相馬市鹿島区の上萱には明治から人が住んでいた)

●オ-トラリアの米作りの話(水田が消えた南相馬市)


コンビニの前で戦争のことなど聞いた大正生まれの老人の話をまたきいた。大正十四年生まれだった。

オ-ストラリアで米作りしているけど水はどうしているのかな、

米作りには水は大事だからな、水のいいところは米がうまい、この辺だと栃窪など山に近く水がいいからいい米がとれる、でもオ-ストラリアなんか水をどうしているのか


地下水をとっているらしい、その量は何千年にもわたりたまったものでものすごい量だってよ


ええ、そんなに地下水があるもんなのか,驚きだな
でもアメリカとかオ-ストラリアは地下水がいづれ枯渇してしまうって
森がないので地下水がたまらないからなんだよ
地下水は不思議だよ、郡山辺りで江戸時代にふった雨が地下にたまっているという
地下水ってそんなに古くからたまっているもんなんだよな


この辺は今草原化しているから水田がないから違和感が大きい、当たり前の風景がなくなったことで改めて水田があったときのことを思い出している。山から水は豊に流れ大地をうるおして田から田へと水が流れていた。そして農家には前田があり木蔭がなんとも気持ちいいものだった。その水田がないことが心まで荒廃したものとしている。つまり水が流れ活かされていないのだ。山から田に春には神がおりてくるというとき水が山から田に流れる自然との調和があった。山に祖先が眠るというとき水と深く関係していたのである。その水が流れない活かされないから心まで枯渇した感覚になる。

それは別に農家で米作りしていなくてもその風景はあまりにも長年親しんだ風景でありそれがなくなることなど想像もしなかったからだ。日本では山から水田と水は常に循環しているから地下水のようにとってしまいばなくなるということはない、常に山から水は供給されていたのである。オ-ストラリアでは森がないから水が貯えられなくなった。だから米作りの肝心な水が供給されなくなるから米作りもできなくなると言うのも想像できる。


水田が消えた


とろとろと水は流れる
山から水は尽きず流れる
水は大地をうるおし
水は山に森に貯えられ
とろとろと流れる
山の神は春には
平地におりてくる
山から水が流れるように
農家は何代もつづき
前田があり木蔭が涼しい
そんな当たり前の風景が消えたとき
その流れる水がなつかしい
水は大地の血液だった
今大地に水が流れない
水は活きていない
それは山は森も生きない
みんな一つの命だから
水を通じて命がめぐっているから


●南相馬市鹿島区の上萱は明治から人が住んでいた


その人の話では上萱(うえがや)は昔は上野と言っていたという。その人の父親の話では馬に米三俵積み自らも乗ってあの坂を上ったことを知っているという。その馬は暴れ馬で力が強かったからそれができたという。上萱は戦後に開拓に入った人たちが住んだのであり戦前とか明治には住んでいないと思った。ところが三軒くらいは前から住んでいたという、それもかなり古い、明治にも住んでいた。茅葺きの家がありあれは古いものだと思っていたがやはり戦前も明治からも人が住んでいた。

その人は大正生まれでありその父親は明治の人となるから明治には住んでいた。炭焼きなどをして町に炭を売り米を買った。それから八木沢の麓の地蔵木とか大芦にはやはり江戸時代からすでに人が住んでいたのである。なぜなら真宗系の粗末な石の墓があったからである。もちろん戦後引揚者が開拓に入ったことがかなりあった。小池の自分の父親の知り合いはフィリンピンからの引揚者で小池に開拓に入った。父親とは双葉の新山の酒屋で一緒に働いていたから知り合ったのである。戦後は引揚者が開拓に入ったという地域がかなりあった。小池は松林とかになっていて今のように畑も田んぼもなかったという。あそこが荒地となっていたのである。そういう地域がまだあった。江戸時代から住んでいた人たちの所にまた新しく開拓に入った人たちもいたからこの辺が混同するのである。

上萱がなぜ前に上野だったのか?上野から上萱に名前が変わった。その理由がよくわからない、萱を材料として使ったためか、萱場とか萱のつく地名にはそういうのが多い。茅葺きの家が多かったから材料として大量に必要だった。あそこは明治から人が住んでいたのである。こういうことは人の話からしか伝えられない、町誌など文書で記録したものには残っていない、そういうものが歴史には結構多いのである。そういう言い伝えは消えてしまうことが多いのである。だから郷土史は祖父母の話を聞くことからはじまるのである。

●鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話


この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。


五貫目町(ごかんめちょう)は、神奈川県横浜市瀬谷区の地名

江戸時代の初期に年貢の石高が五貫目と定められ、それが字名となったという。昭和49年の新設の際の町名は字名を採った。

五貫目は一貫目が三・七キロだから十八キロにもなる。この重さは何匹に値したのか?昔家で店をしていたとき、計り売りで一キロごとに
計っていた。一キロでも結構重いから18キロとなると大変な重さである。

百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。

天秤棒一本で財を成す」という言い回しや、近江商人に由来の慣用句「近江の千両天秤」(天秤棒一本あれば行商をして千両を稼ぎ、財を成すという、近江商人の商魂の逞しさと表すと同時に、千両を稼いでも行商をやめず、初心を忘れることなく商売に励むという教訓が籠められている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A7%A4%E6%A3%92


まさにこれであり江戸時代の話である。明治時代にもその継続があった。

川俣は江戸時代以前から絹織物産業が盛んで、良質の川俣絹の生産地として知られていた。明治以降は軽目羽二重が考案され、戦前は世界的に輸出された。


奈良時代 信夫郡小手郷(現在の川俣地区)は奈良の興福寺の荘保であった。(荘園志料) 紫色が高貴な色となされた為、都では紫草の栽培や使用にたいし、厳しい規制がなされたが、ここ奥州では、紫草が保護栽培され、絹織物とともに租(税金・貢ぎ物)とされてきたと推測される。貴族階級の独占から離れ、一般の庶民が紫色を染色できる様になったのは、実に江戸時代になってからのことであり、文献で確認できるのは江戸(寛文4年1664)、幕府の天領に川俣がなってからのことであります。

18世紀頃の染色記録調査 岩城 添野村 惣七より  「奥州 川又村 紫染伝 」 「文化13年(1816)子八月 奥州川又村 紫染ヤ 忠右ェ門 ぬかた村 喜兵衛 安右ェ門 伝也」とある。         (川俣町絹織物史 おりもの展示館)
このことが、後年川俣紫としての染物が、近江商人により江戸と京都で販売され、京都の染物の3倍の濃さとの評判になり、隆盛を迎えたと古老の話にある。  (H11・11・15 高橋歌子氏談)
http://homepage2.nifty.com/khonda/newpage9.html


江戸にも売られた古い伝統をもっているのが川俣町だった。奥州川又村とあるが金比羅参りで萬延元年(1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって寄進された「箸蔵寺百丁」の道標。ここでも奥州から小さな地域の村になっている。江戸時代は川俣町が単位ではなく村が単位なのである。鹿島町も鹿島村があり鹿島町になった。あくまでも江戸時代の行政単位は村なのである。
上栃窪に金比羅の碑が多いからこれを裏付けているのだろう。


川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。五貫目というと相当な量だったから金になったのだろう。鰻は今や馬鹿高く食べることすらできなくなっている。時代は余りにも変わりすぎたのである。

 
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2012年06月15日

関所の俳句十句 (旅には関所も記憶する目印となっていた)


関所の俳句十句

(旅には関所も記憶する目印となっていた)

上り来て箱根の関所春の暮


関が原こえて春野の近江かな


伊吹山関が原にそ残る雪


関が原越えて近江や春の山


(中山道)

宿探す関所辺りや夏燕


秋の湖姫街道の関所かな


(市振)

秋日没る関所の跡や沖に船


月の出て関所の跡や松一本


旅人を関所に知れや秋の夜

白河の関やみちのく草の花


間道を幕末の武士月光る

 


関守の宿を水鶏にとはふもの


秋風や薮も畠も不破の関 芭蕉



旅がなぜ旅でなくなったのか?観光と旅は違っている。旅は車で行っても旅にはならない、旅人にもならない、通過するものになってしまう。旅は江戸時代のように歩いて旅したとき旅だった。旅人にもなれた。皮肉なことに不便であれば不便なほど旅になった。旅では関所は不便でもやはり今になるとその関所があってまた旅だったということがある。これは国境にこだわる人が今いまことでもわかる。国境を越えるということが一つの旅の難関でありビザもとらないとなると余計むずかしいからそこで情報交換をする。外国では国境があり国境を越えると別な国になる。貨幣も変わりりょうがいする。国境を越えることはかなり緊張することなのである。それが江戸時代では関所でありあとでは番所になった。江戸時代の方が土地土地で個性があったから旅は今の旅とは全然違う。次々に未知の世界を旅することだったのである。その未知への入り口が関所や番所であった。だから関所でも白河の関や勿来の関はすでに過去のものでありなくなっいるから関守がいたらな水鶏のように問うものにとなった。関守がいたころがなつかしいとなった。白河の関でも誰もいない関守もいない、ここが関所なのかとなる。そこは藪になり畑になっている。ただ秋風が吹いているだけである。


自分が旅してやはり記憶に残る関所となるとやはりそこに関所が再現された所だった。姫街道で有名な浜名湖の気賀関所や中山道の福島関所などがある。そこは再現されているから記憶されていた。
もう一つ関所があったがどこの関所かわからなくなった。日本海回りで江戸に通じる関所だから加賀百万石の大名行列が通ったということで有名だった。関所があれば文書としても通った人が記録される。逆に今の時代は旅しても余りにも簡単に行けるし関所がないから要所として記憶されないのである。旅が何度も記憶が大事だというときやはり記憶される要所となるポイントとなる場が必要だったのだ。それが現代にはいない、もちろん新幹線で日本を横断しても何も記憶に残らない。自分の場合、結構自転車で旅したことで記憶して思い出して書いている。もちろん電車で行ったのもそれなりに記憶されている。でも自転車の旅だと雨にぬれたとか風に吹かれたとかを覚えているのだ。北海道でやたら風の吹く所がある。そういう難儀なことが実は旅の記憶に残っているのだ。芭蕉の旅でもあれだけ難儀したから記憶として残り奥の細道を脚色して名文にしたのである。旅は記憶されること思い出されることがあとで大事になるのだ。ところが現代の旅はあまりにも便利すぎて思い出として残らない皮肉があるのだ。


旅人を関所に知れや秋の夜


ここは日本海を回り江戸の方にゆく所の関所だった。ここを通るときはもう日も暮れようとしていた。ここで通った人を記録される。それは一つの旅の記憶である。関守が誰が通ったか記憶してくれとか芭蕉の水鶏の句のようになる。なにもなくて通りすぎるのが淋しいともなるのだ。現代は余りにも人と人も悠長に接していられないからかえって旅の出会いもないのである。芭蕉の時代はそもそも純粋に旅だけしている人は芭蕉くらいだったろう。僧がいても本当に数があまりにも少ないのである。今はどこにいっても観光者だらけだけど旅人はいないのである。旅人は今や苦労して演技して自ら作らねば旅人になれない、自転車で一か月も旅すればなんとか旅人らしくはなる。それでも江戸時代の旅人にはなりえない。山尾三省のことを書いたけどこんなに豊かな時代に貧乏に生きることはかえって演技者のようになっているのと同じなのである。あえてそういうふうに無理して演出しないと昔に帰れないのである。

関が原は関があるからでありそこはちょうど東と西の分かれ目だった。伊吹山でヤマトタケルが死んだのは象徴的だった。山の上だから雪が残っているがそこを越えると近江の春の平野が広がっているのだ。ここからは近江であり西であり京都も近いとなる。そういう境目は意識され記憶に残る。
「トンネルをぬけると雪国だった・・・」というのもそうである。それは宮城県から山形県に入る
山寺に入る所が国境のトンネルである。そこは春でも雪が残っている。市振なども厳しい関所があった。でも沖を見ると船が通っていて関所がないとなる。あそこは平らだから境目として意識しにくい。何もそれらしいものもなくわからなかった。


関所というとき江戸時代の後半はかなりル-ズになっていたらしい。だから間道を金で案内する人もでてきた。間道をぬけても関所を番所を通ったという判子を記しをもっていないとまずい面があった。あとで取り締まられたら危険である。でも幕末の頃になるとかなりル-ズになり志士でも新撰組でも間道を通り抜けた。そういう変化のときは規制のものが破られやすい。関所なんかどうでもいい、命をかけて奔走しているからそうなる。旅には特に外国になると融通性が必要になる。言葉もわからないで自由に旅する若い人がいる。それは融通性があり臨機応変さがあるからつまり勘が働くからできるのである。言葉はそれほど関係ないのである。自分は融通性もないし勘も働かず外国ではひどいめにあったから行きたくないということがある。日本のように旅できないから嫌になった。


元治元年10月16日、前日に江戸を発って京都に向った伊東甲子太郎ら一行のうち、過去の横浜での攘夷活動が原因で幕府に追われていたという相馬藩出身の大村安宅は、神奈川の関所で、嫌疑を避けるために間道に入りました。
http://bakumatu.727.net/kyou/11/111464-oomuraataka.htm


相馬藩士に新撰組がいたのは意外だった。水戸系の天狗党は知られていた。新撰組に入ったというのはどういう経過だったのか?会津は新撰組と一体だったからわかるけどどうして新撰組に入った相馬藩士がいたのか?そういうのもまた一つの相馬藩の歴史だけどこれも誰か解明しないとわからない。


「相馬藩士と新徴組」
http://red.ap.teacup.com/hangui/1935.html


ここに詳しい、坂本龍馬も間道を通ったとかあるけどそういう浪人組とか志士とか新撰組はもう関所を無視して活動していたのかもしれない、それが時代の変わり目だったのである。

 


俳句と短歌は連作として読むとき一つのつながりを感じる、一句一首ではその背景などがわかりにくいから一連のものとして読みにくいのである。だから十句十首で連作として新たに創作しているのである。 

関所について
http://musubu.sblo.jp/article/3506731.html
 

2012年06月16日

錯綜する明治維新 (相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


錯綜する明治維新

(相馬藩士が天狗党と新撰組にいたわけは)


江戸時代末期に展開された反幕排外運動。その思想的基盤となったのは,藤田東湖,会沢安(正志斎)らが唱えた水戸学である。幕府は安政1(1854)年,日米和親条約に調印し,その批准を朝廷に求めた。海外事情にうとい朝廷は,攘夷論の拠点であった水戸藩の働きかけもあって勅許を与えなかった。他方,はなはだしく貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士層は,夷狄(いてき)として排斥すべき西洋諸国の圧力に屈して,幕府が国交を開くのをみて憤激した。同5年おりから将軍継嗣問題で紛糾していた幕府は,井伊直弼が大老に就任し,勅許を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印,次いで安政の大獄を断行した。外国貿易に伴う物価騰貴によって生活がさらに圧迫された下級武士層は,以後朝廷の尊攘派公家と結んで活溌な攘夷運動を展開していく。諸藩でも,初め水戸藩,次いで長州藩が藩論として尊攘を掲げ,攘夷親征の挙が宣言されるにいたったが,文久3年8月18日の政変で公武合体派に敗れたこと,鹿児島,下関における四国艦隊との交戦(→四国艦隊下関砲撃事件)を通じて攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で,攘夷運動は急速に衰退し,以後は尊王倒幕の方向をとって展開され,明治維新の原動力となった。天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名である。尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地だったのである。
http://homepage3.nifty.com/numa/historio/tengu-to.html

1864年、尊皇攘夷をうたう長州藩が四国艦隊下関砲撃事件により砲撃を受け、その武力差に敗北を期し、長州征伐によって勢力が弱まると尊皇攘夷運動も勢力を弱めていく。そして欧米列強の圧力を排するためには、一時的にでも開国し、外国の技術に学び国内統一と富国強兵を行うべきだとする思想が生まれた。坂本龍馬らの仲介によって、1866年に薩長同盟がなされると、攘夷の不可能さを悟った薩長両藩の改革思想は「討幕」へと転換していった。


明治維新は錯綜しているから今も何なのかわからなくなっている。浦賀にペリ-が来て開国を望んだとき政府は従った。開国であったからのちの開国派となった薩長と同じである。違っていたのは倒幕派であり開国を望んだ。幕府を倒すことで薩長が一致した。ところがまた薩摩の西郷は最後薩摩藩を武士階級の存続を守るために西南戦争で死んだのである。倒幕派にしても薩長が武士としての階級を守り政治をするというのことが明治維新だった。とすると会津などと同盟しても不思議ではない、なぜなら会津も武士を守ることで武士道を全うして滅びたからだ。これは西南戦争と同じではないか?
西郷隆盛は藩を存続させようとしていたのだ。ただ西欧列強に対抗するには強力な中央集権国家を作らねばならない、それで封建的地域主義では対抗できないと天皇中心の強力な中央集権国家を作った。だから東京中心の社会となり方言まで規制され標準語化したのである。文化的にも強力な中央集権国家、東京中心の社会を明治以降作り上げたのでありそれは今にも継続されているのだ。

西南戦争で国民軍が形成されて武士の軍団に対抗して勝ったことが日本国民としての自覚をうながした。奇妙なことは会津は薩長に恨みをもっていたから西南戦争では国民軍として参加して活躍していた人がいてその家ではその時使った錆びた刀が家に残されていた。敵が味方になり味方が敵となるようなことになる。

一体明治維新は誰のための革命だったのかともなる。武士階級を残すという西郷などの力は明治維新後も働いていた。だから武士でないものは平民と戸籍に記されていたのである。武士階級は士族として形は残された。明治時代はの警察官も、士族出身者が多数を占めていましたというとき自分の母親の父親は警察の所長だった。会津の士族の出だったようだがたどることができない、だから裕福で父親がいつも威張っていたというのがわかる。その頃母親は大きな庭のある家に住んでいたという。でも子供のとき父親が製糸会社を運営して失敗してあとは悲惨な運命を歩むことになる。継母のことを書いたけどそれも製糸会社運営と関係していた。士族は警察関係などに就職した人が多い。警察関係とは相性がいい、それから教育関係にももともと教養があるから職を得た。ただ武士はもともと商売とか企業には向いていない、なぜなら武士は義を重んじる誇り高きものであり商売には向いていず武士の商法といわれた。武士が意外と向いていたのは農業だった。相馬藩ではそもそも郷士であり農民であったからその継続だった。それでも新しく農業をはじめた武士がいた。


八沢浦開拓では中に妙見神社が田んぼの中に祀られていたから新しく開拓に入った武士である。あとは北海道で開拓に入った武士が多く、武士橋とか武士と関係するものが多い。伊達藩は伊達市まであるから藩ごと武士が開拓に入っている。三越とか高島屋とか何か今の大きな会社の前進は近江商人の系統であるのもそのためだろう。明治維新はそうした地主階級とか商人とか企業家にとっては得するものだったのである。それらの人たちのバックアップがあったことは確かである。一番損したのは苦労したのは武士階級だったという不思議があるのだ。結局日本は外圧で運命が左右される。欧米列強に対抗するには強力な中央集権国家を作ることが急務でありそれで背伸びしたのである。そのことは太平洋戦争までつづいていたのである。富国強兵政策は太平洋戦争まで変わっていなかったのである。太平洋戦争までは富国強兵政策に国民も反対していない、貧乏でもそうだった。だから日露戦争の勝利に国民あげて酔った。実際は引き分けでも勝利したと過度に日本が持ち上げられたのである。
その奢りが太平洋戦争とつながっていたのだ。常に歴史は奢りが滅びに失敗に通じていることは常に指摘されてきた。原発事故も日本の技術は優秀だという奢りがあった。だからあまりにも日本を誇大化させるものは信用できない、右系統の人はそういう傾向が強いのである。日本に対しての誇りは必要でもそれが奢りになっているのか多いから肯定できないのである。


いづれにしろ明治維新を解明することは容易ではない、ここで注目したのはそういう全体像ではなく関所のことを書いたので関所を通じて明治維新を見るということもある。


天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎は、水戸藩にやってきて、天狗党の傲慢な
態度に失望し、その無謀さを批判して帰ってしまった。清河が憤った天狗党の狂乱は、軍資金と
称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を強奪するまでに発展し、この狂乱に対抗するため
に自衛組織も作られたほどだった。

中には、間道や裏道をわざわざ天狗党に教えて、藩軍と天狗党が正面衝突しないように機転を利か
せる藩もあったという。

間道を通らせたというのは関所を正式に通ると証拠が残ったりして責任が問われるからである。明治維新の時代は正式に通る道より間道をゆく武士が多かったろう。規制のル-ルが破られる時代だったからである。天狗党の無謀も騒乱もそのはじまりだった。こういうときは過激派が出てきて混乱する。テロが起きてくる。


清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの[8]、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた[9]。享年34


新撰組の成り立ちもまた錯綜している。佐幕派によって最後は暗殺された。


たまたま戊辰の役で長州藩士で奥羽鎮撫参謀世良修蔵(慶応4年4月20日福島にて斬首せられる)が同年4月9日白河城に入城し、会津藩攻撃を督促しているとき、坂田屋にて志げ女と遊んだ。
世良はこの地が危険であると察し、同年4月18日白河を脱した。
このことから会津藩士は志げ女を憎み、志げ女を殺害した。
これを知った遊女屋の下男がこの地にて会津藩士を殺害し、その仇を討った、戦争の悲劇の一駒である。

これも錯綜して混乱している時代の犠牲者であった。
「お前は薩長の犬か、成敗してやる、この女郎めが・・・」
「わたしにゃとってはみんな客にすきませんよ、薩長もなにもないですよ」
「どっちにしろ怖いし客としてむかえないわけにはいきませんよ」
「馬鹿言うな、お前は賊だ、切って捨てる」
なんとかかんとか疑心暗鬼になっているからそうなる。錯綜と混乱と疑心暗鬼と殺伐な殺戮から庶民が犠牲になっていた。それを怒った下男が会津藩士を殺したというのもわかる。これは会津藩士がいきすぎていたのである。「なんで殺されるんだ、遊女だからか、馬鹿にすんでねえ」とかなった。


相馬藩士も犠牲者がかなたりでていた。


相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)


家中とは城づめの武士だった。相馬の城に勤めていた。あとは農民と武士の両方を勤めていた給人郷士である。足軽16人というのは給人郷士に仕えていたのか、家中に仕えていたのか、相馬藩は小さいから足軽がそんなにいたのかともなる。ただ野馬追いの時、馬を引く人がいるがあれは足軽だった。五十人町とか百人町とか仙台にはあるけど他にもあるけど足軽町もあるけど相馬藩にはない、六万石だから小さいからない、白石に足軽まんじゅうまで売っているのはそれだけの足軽を伊達藩ではかかえていたのである。そもぞせ足軽だけで生計をたてられるかというとそれだけの余裕をもった武士は相馬藩にはまれだろう。郷士なのだから農民なのだからまれである。
農兵12人というのも純粋な農民だった。農民も明治維新では参加していたのだ。ただこれは相馬藩としてのまとまりとして農民が出ていたのである。


ともかく天狗党にも新撰組にも相馬藩士がいたのは天狗党から新撰組が生まれていたことでもわかる。だから天狗党にいれば新撰組にも入る、それは清河八郎をみればわかる。このように明治維新は錯綜して混乱しているからわかりにくいのである。


天狗党-清河八郎(攘夷派)-浪士隊-新撰組(佐幕派)-会津藩

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2012年06月17日

海に囲まれて国境意識が希薄な日本人(続) (関所も今になると意味あるものだった)

 

海に囲まれて国境意識が希薄な日本人(続)

(関所も今になると意味あるものだった)

大陸の国境


万里の長城は延々とつづく
これは何なのだ
砂漠の果てまでつづいている
中国三千の歴史は国境作る
それは大地を区切り囲い込み
国家を作り守ろうとする執念
日本は海が国境でそれがない
大陸の国境は作られ死守されねばならぬ
国境を守るための戦いは繰り返される
国境には多大の犠牲が払われた
日本の歴史にその労苦はない
海が自然の防壁となり国境となる
それ故日本の防衛意識は薄い
国境を死守せねば国は攻められ蹂躙される
その恐怖があの万里の長城を作った


この西の果て「嘉峪関」(かよくかん)までつづいている。砂漠の中にその防塁が残っている。なぜかあそこに魏の国の遺跡があった。中国の歴史はあまりに大きすぎてわからない、あそこからは中国ではなくなるし遊牧民が攻め入った所だった。中国の歴史はモンゴルなどととの攻防の歴史だった。最初の国家自体、始皇帝自体が遊牧民の子孫とか言われるのもそのためである。つまり国家とは他国との攻防のなかに作られたのである。それが国境なのだ。


だから大陸では国境の意味は大きい、つまりその国境をめぐり多大の犠牲が払われたからだ。国境は自然が山や川があって国境になったとしても絶えず他国の侵入があるから人為的に守り作られてきたのである。日本にはこうした国境意識が希薄である。だから北方領土とか尖閣諸島など国境意識がないしそれを守ろうとする意識も薄い、大陸では国境を守ろうとする意識が歴史の中で培われてきた。島が一つの海に守られた国となると島には国境意識は醸成されない、ここがオレのシマだというときそれは動物の縄張りであり大きな国の国境を守る意識とは違う、非常に狭い範囲の縄張り意識なのだ。だから日本が大陸に侵攻するのはあまりにも無謀なことだった。中国のような大きな領土を守り国境を死守してきた歴史さえない国が大陸を支配しようとするのは無理だったのだ。

http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html


日本は島国であり一般人には国内にいて漁師を除き国境を意識する人は殆ど無いと思う日本人は国外に出るには船・飛行機でしか手段が無いので「外国に来た」と感じても「国境を越えた」とは感じない。これは他の陸続きの国民と比べたら国意識がかなり違ってくると思う。

冷戦の緊張時には国境中立地帯を挟んで軍隊が睨めっこしている場所もあったのだ。現在でもそういう場所はある。朝鮮半島の板門店38度線、インド・パキスタンが良い例 国境間には地雷原があったりする。
そおいった場所には必ず政府機関の軍隊・警察が見回り警戒している国内で分かりやすい場所は大使館・米軍基地、あそこは敷地の内と外でハッキリと日本・外国と分かれている。侵犯した時点で日本の法律が効かない≪治外法権≫だ。

もし日本が陸続きであれば危機意識はかなり高かったろう、
外国に歩いていけるのだからその逆の外国から国内に侵入してくる事も可能なのだから・・・
まさに戦国時代のようにピリピリした状態が出来るのだからかなり違った
外国で普段感じない「日本人だ」という国民意識が出来たと思う。

http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html


追加の文



関所のこと書いたけど関所は不便なものだけど一つの旅の記憶の目印となる。それがなくなるとどうなったか、かえって地方の個性も育てられないし文化も育てられない、文化はミクロコスモスをもつとき育てやすいのである。グロ-バルになって世界化したときかえって国もみんな同じになったら個性は育てられない。マクロコスモスとなると人間のアイディンティティはモノを通してとしか意識できない、貿易にはいいにしても文化は全体なのである。その土地土地の自然と一体化して地方の個性が作られている。江戸時代が藩ごとに違っていて個性的だから多様な世界が生まれていた。関所がなくなったときそういう境界の意識が喪失した。電車であれ車でも地方の国と国の境界があいから別な国に入るのだという意識もない、みんな同じだという意識になってしまう。もちろん関所は不便であり国境などない方がいいという意見もあるしそういう不便な面も見逃せない、国境を通じて悲劇が起きていたのも現実である。関所でもやはり関所破りは厳罰で殺された人もいる。

ただ関所がないとここからは別な国、別な文化とか意識することもない、みんな同じなんだというものになり旅もつまらなくなったのである。やはりアイディンティティを作るのに丁度相馬藩くらいの範囲が人間的に作りやすい、広くなると作りにくいのである。つまり会津には会津の山国文化があり浜通りには海の文化がありとそういうところで個性的な文化がはぐくまれる。福島県自体が一つとしてアイディンティティを形成しにくいのだ。福島県だけでも広すぎるのである。広すぎるということは政治的にも統一した感情とか施政がゆきとどかないのである。福島県はただ大きいだけでまとまりがないとなる一体感がないとなる。小さい国の方がまとまりがあり施政がゆきとどき細部までみれるということがある。

中国の万里長城がなぜ作られたのか?ただやたらと目的も意味もなくあんな長大なものが作られない。これも遊牧民に攻められるために中国が国境として意識されるために一つの国として意識されるために作られたのである。そうでなければどうしてあんな馬鹿でかい国が一つの国として意識されるだろうか?あの万里長城によって中国が一つの国として意識されていたのである。万里長城がなければ一つの中国はなく中国人もなかったかもしれない、中国の統一のシンポルとして万里長城があった。そうなれば意味もないものではない、明かな目的と意味があり建設されたとなる。


日本は四方を海に囲まれているから海に守られているから国境意識がはぐくまれない、それは一面恵まれていたのだが国防意識が育たない、だからモンゴルが責めてきたときも海で守られたから歴史的にもかえって国防意識が育たなかった。かえって神風が吹くとか神がかりになっていた。ただ海に囲まれている地の利でそうなっただけだったのに神の国とかいう意識を育てたのである。他の国では国民が国境を命をかけて守らない限り守れないのである。それで尖閣問題でもあそこが国境なのか、日本が中国に攻められてとられてしまうのかという意識が希薄なのである。人も住んでいない小さな島であり海しかないからである。大陸の国境意識と日本の国境意識は相当違っている。国境では命をなくしているし国境は生命線である。この世界は何でもプラスの面とマイナスの面がある。それはあらゆる所にあり関所も不便だが今になるとそれなりに意味があったとなるし見直される。観光で関所を再現しただけでも境界が意識されるから意味があるとなる。関所でスタンプを押してもらうだけでそれが旅の記念にもなる。ただあまりにも容易に通りすぎていくからただ通りすぎてゆくだけの旅になっているのだ。世界旅行者で国境にこだわる人がいるのはやはり国境が旅で一番記憶されるものとなっているからである。


古来、関所をめぐっては「関雲長、五関を過ぎ抜けて六将を斬る」「千里、兄長を尋ねる」など感動的な故事や伝説が多く、「楊六郎、三関口を守る」は誰もが知る物語である。関城の内外では、重要人物を祭る廟や関所に関わる有名人の祠をよく見かける
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200204/5-3.htm


日本とは違い城は長い城壁があり外国では関所の役割も果たしていた。関所は物語が生まれやすい場所だったのである。




これは時事問題の深層に書いたものでありそれに付け加えたのである。インタ-ネットは付け加えたりあとから直したりすることがやりやすいのである。前に書いたものを発展させることができるのだ。

日本人の国境意識の希薄さ(時事問題の深層)
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#sekaku


文化が交わり育むには長い時間が必要
http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#bunka


ここでも書いたけど貿易で物が流通するのは交通が発達すれば簡単だけど文化が交わるとなると
時間がかかる、仏教にしてもインドから中国から朝鮮からと伝えられる内に変貌したのである。
仏教の受容でも中国の文化を通して禅宗になったり韓国だと美的になったりと違っている。
日本は日本の文化なりに仏教を受容したのである。それには時間がかかったのである。
グロ-バル化とは物の流通はしても文化となると簡単にはできない、長い時間が必要なのであり
それを性急にすると問題が起きているのだ。アメリカは何かそういう文化を無視した所があり
もともと文化がないからこそ軍事力で性急に制圧して文化を無視しているのである。

2012年06月18日

南相馬市鹿島区右田浜一年過ぎた夏(短歌十首) (北海道化した津浪の跡の不思議)


南相馬市鹿島区右田浜一年過ぎた夏(短歌十首)

(北海道化した津浪の跡の不思議な写真)

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小さな水たまりに小さな魚が結構いた
十匹くらいいた

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枝がなくなっているところまで津浪が来た
松原の約倍の高さで襲った
海岸に近いところはその衝撃が凄まじいものだった
だからこの松くらいの高さで枝がそぎおとされた。


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だれの家だったのだろう


海風の草原にそよぎ夏雲雀


今日もまた草原広く夏雲雀


鵜の二羽や海風涼し残る松


大内ゆ夏野開けて鹿狼(がろうさん)見ゆ


あめんぼう波紋描きてとんぼ飛ぶ


家の跡二本の樹の草原に離れがたくも残りけるかも


津浪跡人家の消えて葦茂りヨシキリ鳴きて巣の作るかな


夏の日や津浪の跡に葦原の風にさやぎて白雲湧きぬ


百本の松も消えにし数本の残れる松に海風涼し


庭の石ここに残りてポピ-咲く砂浜熱く白波たちぬ


家の跡砂に埋もれぬ形見とて花をささぐも夏の海映ゆ


津浪跡たまりし水に小さなる魚およぎぬ夏となりにき


慶応と記さる墓や形見とて集め残され海の風吹く


痛々し津浪の跡に残る松その根の堅く離れざるかも


ノカンゾウ日陰に咲きてかたづけのなおつづくかな草原と化して



今日は晴れたので右田の方にまた行ってみた。草原化して津浪で流された家の跡に日本の樹が立っている。その樹がなんとも他でもそうだが人間に見えるのだ。離れがたく二本の樹が愛し合うように立っている。それは夫婦にも見えるし人間に見えるのだ。庭の樹は人間化した樹になっていた。飯館村などでも人がいなくても残された樹は人間を待っている。人間化した樹なのである。それはペットがもはや原始の動物ではない、人間化した動物であり半分人間になっていると同じである。

以前として津浪の跡の風景は異様である。この風景になれこれが当たり前になるのには日常化するには時間がかかる。ただこういう風景は北海道でみている。防波堤が壊れ家がなくなり砂浜となる。

これはもともとあった自然にもどっているのだ。葦が茂りヨシキリが鳴いていた。吉原など何か人間めいてエロチックになるけど葦はその吉原とは余りに違っていた。原初の自然だといたるところに葦の原があった。人家は消えて葦の原になるとそこにヨシキリが巣を作るのである。これはまさに自然に還っていることなのだ。砂浜の所は水たまりになりそこに小さな魚が泳いでいた。これは海の魚だろう。すでに海の魚がそこに生きはじめていた神秘がある。おそらく津浪で残った水たまりに魚が残されたのだろう。魚は大きな水たまりではなく小さな水たまりに生きていた。この水たまりが海とつながるのはやはり海が荒れてここまで波が越えてこないとつながらないからやがて死んでしまうのか?ただ台風などが来て水が増えると淡水化した沼のようになる。


明かに防波堤は破壊され砂浜が再現して北海道のようになっている。夏の日はかえってこういう自然のままの状態が涼しくて気持ちもいいとなる。家のあった所には花が献げられていたのも不思議なあわれな風景だが夏になると波が白くたち気持ちいいものとなっている。前に良く来ていた右田のキャンプ場の残った松に海鵜が二羽止まっている風景も不思議としかいいようがない、海鵜にとって人間のことなど関知しないのだろう。海からの風がかえって涼しいとなる。

ここに墓地があったのか?墓地があった所は知っていた。流された墓をここに集めたのだろう。
鎌田というのは右田では初代の鹿島町の町長をやった人で有名だった。身内が役場に勤めていたから聞かされていた。そこに慶応の墓があったから江戸時代からのものもあった。右田でもそれなりに古いのである。野馬追いに出る村は江戸時代からのものであり村はほとんど江戸時代からある。

大内から鹿狼山(がろう)が見えたのは家がなくなり視界が開けたからである。あそこから鹿狼山を望んだ記憶がない、風景ががらりと変わってしまったのだ。草原化して夏野化してしまった。この辺は田んぼだったのだから青田の風景であり夏野という風景ではなかった。烏崎に葦が茂り沼が生まれ水葵が咲いていたところは消失したのが残念だった。烏崎は人家が多かった。そういう場所は津浪の跡でもすさまじい一段と荒寥としたものを感じる。

一方で右田の方は家は少なかったから元の自然に還ったという感覚になる。つまり何か自然に還ったということでほっとするという面もあったのだ。

人口の密集地帯で津浪に襲われた所は無残である。三陸でも家が密集していたところの跡はすさまじいものとなっている。もしそこが草原化して湿地帯化して花も咲き生き物もすみつくと何か救われた感じもするのである。まず東京のような所は地震でも津浪でも火事でもその跡はすさまじいものになる。神戸などは都会だからその跡は見ていないけどすさまじいものとなっていた。草原化したりしないし湿地帯化もしない、人工化した人間のビルの破壊されたものとか家が燃えた跡とかが延々とつづいていたらまさに地獄的な光景である。


まだ片づけはつづいている。大内の人がかたづけをしていた。ただ森の方は日陰になりノカンゾウが咲いてほっとした。大内の半分の多少でも高くなっている所はなんとか被害をまねがれたが低い方はほとんど消失した。明かに大内村では二つに明暗が分かれた。あの辺は大昔は海が迫っていて低い方は太古は海だったのだろう。それは一時津浪で海に還ったのである。万葉の時代に海だったところは確実に津浪にやられた。六号線を越えて船着とか市庭となる塩崎まで津浪が来たのには驚いた。船が流されてきたのも驚いた。万葉時代の海が再現されたのである。それで「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」この草原は何なのか?萱(かや)とすれば秋の萱(かや)である。萱が一面に繁った場所だったのか?津浪で海となって草原化したから草原(くさはら)だったらその光景と一致している。萱原だったら秋であり一致しないけど秋になったら一面に萱原がなびいていたのか?八沢浦は古い写真で萱原になっていたからそういう風景なのだろうか?


ところがむしろ萱がないたぷたぷと潮水に充たされた光景こそ美しいものであった。その風景を一回だけ見たのである。それは奇跡的だった。入江でも萱がなびいているより萱がない方が美しいのである。だからどうなのか?草原を地名として港だったと考察したがなお謎である。萱原ではなく真野の入江だったら美しいことは確かであり今回の津浪で真野の入江になった驚きである。

近江の方言でカヤが入江だとインタ-ネットに出ていた。もしそれが本当なら真野の草原は入江なのだろう。いづれにしろ笠女郎はその光景を一度も見ていないのだからどうして面影に見えるのかという問題がある。ただ最近読んだ本に真野公という木簡の字が石巻から発見された。とすると石巻の真野の萱原もその場所なのか?なんらかのつながりがあることは確かである。


いづれにしろこの余りにも変化した風景には以前として驚くほかない、防波堤がなければ広く海が入り込んで田んぼも作らなければ原初の砂浜が再現されるのだろうか?そしたらかえって景色としては美しいものとなる。砂浜はどこでもなくなっているからだ。ただ風化にまかせていればそうなるのかもしれない、磯部辺りは元の砂州となり人はもう住まない、この辺も住まないから自然と自然に還ってしるうのだろう?なんとも不思議としかいいようがない、これだけの変化は何百年に一回しかない、400年後に襲った変化だったのである。

 
 
posted by 老鶯 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年06月19日

地名のイメ-ジ力-万葉集の衣摺 (吉原と聞けば何をイメ-ジ)


地名のイメ-ジ力-万葉集の衣摺

(吉原と聞けば何をイメ-ジ)


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吉原はもともと現在の日本橋人形町近辺にありました。このあたりは当時誰も住んでいないアシばかり生えている沼地で、昼間でさえ強盗が出るような荒れ地でした。それで売春窟でもつくれば、ちょっとはましな土地になるだろうと、吉原が開設されました。アシばかり生えてる原っぱ、アシは「悪(あ)し」に通じるので「よし」と言い換え、「よしはら」になったというのが通説です。その後、吉原は現在の場所に移るので、移転前を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼ぶようになりました。
http://www.tanken.com/yosiwara.html


津浪の跡は葦(ヨシ、アシ)になった写真を出した。それはもとの自然状態にもどったのだ。そこにヨシキリが鳴いて巣を作ろうとしている。そこはもともと人家は少なかったから人家が密集しているような津浪の跡のようにはならなかった。砂浜にうもれ葦が茂り風にさやいで海からの風が涼しい、ところどころ湿地帯になりそこに花が咲き生き物がすむとそこは北海道とにているのだ。
自然にもどるということはそこがもとの自然の美におおわれるということでもあった。

ところが神戸とかの大都会だと地震の跡は自然に埋もれたりしない、人工化された世界だから建物の崩れた山と化す、人口の密集した市町村ではそうなっている。石巻とか大きな市だとそうなっている。ただ津浪の被害は海が前にあるからそこが自然なのでありその自然は変わっていない、海の景色は変わっていないのである。東京辺りで大地震があり津浪の被害があったからあれだけ家が密集しているのだからその被害は無残なものとなる。そこが湿地帯とか草原とか砂にうもれることはない、
瓦礫の山が延々とつづく、醜悪そのものの地獄絵図になる。


人間社会はすでに地名一つとってもすでに汚れたものがしみついていることがわかった。吉原というとき何か繁華な色街となりそこからエロが発散してくる。今なら客引きして外国人があふれている新宿歌舞伎町のようになる。吉原もいきな風流の場所としてあったことは違っていてもやはり吉原というと極めて人間的な欲望のエロが氾濫しているようなイメ-ジがこの地名からあふれているのだ。

吉原からすでに葦の原という原始の状態をイメ-ジできないものとなっていた。地名はもともとそういう原始の状態から名づけられたものが多かった。田の場合はたいがい田になる以前の原始のままの自然の状態に田がついたのである。葦は吉田となり芦田となったりと無数にそういう地名が田にはある。まだ田だからそういう地名は遊廓化した吉原とは違っている。原町というと今はどこでも市街になっているから原っぱだったということをイメ-ジする人はない、前の原町市もそうである。でも実際はそこは野馬追いの牧だった、原っぱだったのである。


それは「地名」が、始祖の神が降り立ったということによって名づけられたものだからです。つまり「地名」は、「神話」に裏付けされてできたものと考えられたのです。


飛鳥-明日香とうとき何か意味がわからないにしろ美しいものをイメ-ジする。名から人をイメ-ジするように人間は地名からまず言葉からイメ-ジする。知らない地でも言葉から地名からイメ-ジする。百伝う磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子これも半分が地名であり地名が喚起する歌であり万葉集には地名から喚起するきが多い。地名自体がすでに大きな意味をもっていた。「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」これはすでにみちのく-真野が地名でありさらに草原(かやはら)が地名だとしたら半分が地名である。それでもこの歌の意味は歴史的にも大きな意味をもっている。

現代はすでに地名の喚起力が薄れている。地名の基となったものがすでに都会では失われているしないのである。だから地名だけからイメ-ジすることがむずかしいのである。


 『衣摺』は、古くは“きぬずり”と読んだともいい、地名の由来は、布に模様を染める技術をもつ人たちが住んでいたからではないかと言われています。
 この近くの大阪市には鞍作(くらつくり)、八尾市には弓削(ゆげ)という地名が残されていて、古代に、物部氏がこのあたり一帯に大きな文化圏を形成していたようです。
http://www.do-natteruno.com/con_c/c82/c82.html


月草(つきくさ)に衣ぞ染むる、君がため、斑(まだら)の衣、摺(す)らむと思ひて 大伴家持


摺をする渡来人の部民集団が住んだ所となる。それなりに古い家があるとしてもやはり万葉時代とはあまりにも違っている。月草と露草であり辺りには露草が一面に繁茂していたのだ。これはかなりの量がとれる花である。そういう自然のあるところに自ずと月草を染料にする部民が住み着いた。そういう材料がないところには住まないのである。とういうことは自然の中に地名も生まれていたのである。ただ機織りというと戦前までは家々でしていたのである。だから機(はた)の音が聞こえていた。それが工場化したときそうした風情も喪失したのである。地名はそういう素朴なものから生まれている。それが都会化したり工場化してイメ-ジがまるで違ったものとなってしまったのである。


いかるがのさとのおとめはよもすがらきぬはたおれりあきちかみかも 会津八一


これもリアルな現場から離れ空想的にイメ-ジ化しているのだ。会津八一の歌はそうしてできた。
詩的にイメ-ジした回想なのである。万葉集はそうした詩的イメ-ジとも違う、大地に根付いた生活感あふれたものであり現実だったのである。君がためというときも具体的な相手がいて機を織っているのである。万葉集の歌は空想ではないし回想でもない、当時の生の現実をそのまま歌っていた。それは美として作られたものではない、美そのものが現実だったのである。月草と言った時、それは具体的な自然の素材を利用するものでありそういう日々の仕事中から極自然に生まれた歌なのである。
だから現代ではそういう歌は作れないのである。

posted by 老鶯 at 02:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

海底の電球(抽象画)


blue city and light

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糸車ー衣摺

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海底の迷宮都市

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海底の電球



衣摺からはじまったけど抽象画はどう変化するかわからない
こういうものにしたいと思って作っていない
偶然の変化からこれ面白いなと出しているだけである

電球の形になったのは偶然だったのである

抽象画はやはり名前をつけることが鑑賞する目安になる
一目見てわかるものもあるがわかりにくいものもあるからだ

2012年06月20日

原発事故は正力松太郎からはじまった (太平洋戦争と同じ構図だった原発事故-巨悪は見えない)


原発事故は読売新聞の正力松太郎からはじまっていた

(太平洋戦争と同じ構図だった原発事故-巨悪は見えない)


●加熱した尊皇思想家の吉田松陰のアジア侵略が太平洋戦争に

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吉田松陰伝説は、山県有朋が創り出したという一面もあるでしょうね。

吉田門下の維新を成し遂げた長州志士たち=スゴイ
明治の元勲たちを育てた松陰=エライ
いちおう松下村塾に入っていたワシ=スゴイ

ということを言いたいがために、意図的に吉田松陰をやたらに持ち上げ、そのうちに吉田の親戚の乃木が軍神になってしまったりして完成されたみたいな感じでしょうか。
山県は西郷も賛美しまくってるしね。


確かに薩長にも調子に乗ったところが合ったかも知れないね。

でも、仕事にあぶれた幕臣や東北諸藩の士族が「仕事」を求めて
征韓論や征台論を強く支持したのも事実だよ。
もちろん、明治政府から冷遇された西国の不平士族も
征韓論や征台論を強く主張してたけどね。


明治維新はいろいろな見方があるから全部を検討はできない、ここではどうして太平洋戦争が起こったのだろう?そしてどうして太平洋戦争に負けただのだろうというその原因をつきつめてゆくと明治維新にその原因があった。今起きていることの原因をつきつめてゆくと今にはない、すでにその発端となった過去にあった。原発でもそうである。原発を導入した人からすでに原発事故ははじまっていたのである。太平洋戦争は明かに吉田松陰のアジア侵略の思想を実行したものであり西郷の征韓論を現実化したものだったのである。吉田松陰の評価も必ずしも歴史的には確定していない、過激な尊皇思想家でありアジア侵略思想をふきこんでそれをその弟子が実行したのである。太平洋戦争は起こるべくして起こったというとき明治維新にその根がありそこですでに決定されていたのである。


これは国家的問題だが個人的な家庭の問題でも何か起きると先祖が悪いからだとか言われるがこれもあながち否定できない、迷信だともなるがそうでもない、なぜなら家庭問題でもその問題となる根はすでに何十年か前にありその根から起きているのだ。一見今が問題で起きていると思っているけど実際はその根をたどると何十年も前の継続として問題が起きてくる。突然に離婚になどならない、すでにその前に何十年も前にも問題の根があるのが普通である。その問題が積み重なって今にその問題が事件となる。健康問題でも若いときからタバコや酒を飲み不摂生な人はいくら体力があっても60代から病気になりやすい、無理した人もなりやすい、ただこれは一般的に確率的そうであり例外的なものは必ずある。でも生活習慣病というのが必ずあるのだ。今病気になるのは過去の生活、積み重ねの生活が原因となっていることが多い。その人の体質とかいろいろあるからすべてには言えなくても確率的に一般的には言える。明治維新を問題にしたのはその詳しい分析ではなく太平洋戦争の原因は明かに明治維新にあったということを指摘したいからだった。それは原発事故問題とも共通していたのである。


現在の双葉郡の若年層には原発を誘致した責任はなく、ましてや子供たちには何の罪もない。原発の危険性を知らされる事もなく、特に反対する理由もなかったため、ほとんど慣習的に原発と共存してきたというケースがほとんどだろう。


すでに前の世代によって決まられたことなのである。責任は今の世代の人にはない、今起こっていることは事故でも事件でも前の代のものが原因なのである。ただ未来にならないと今起こっていることが何なのかわからない、そして今起こっていることの原因は過去にあったのである。


でも、仕事にあぶれた幕臣や東北諸藩の士族が「仕事」を求めて
征韓論や征台論を強く支持したのも事実だよ。

これも原発事故とにている。原発は戦争と同じく危険でも「仕事」が第一とされる。地元でも仕事が欲しい、金が欲しいとなり原発を誘致したのである。

●原発事故の原因は正力松太郎に原因していた


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正力は野望実現のために、当時の吉田茂首相やアメリカとの交渉に奔走した。しかし、正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし、正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。
(原発 正力、CIA-有馬哲夫)


CIA直営のテレビ局として日本テレビの創立を命令する。CIAスパイエージェント正力松太郎は、CIAの資金で読売新聞を日本最大の新聞に育て上げるが、戦争中読売新聞は、日本の中国侵略と日米戦争を大々的に「アオッタ」新聞である。日本に中国侵略と日米戦争を行わせる事は、CIA新聞である読売新聞を使った米国の戦略であった。


読売に堅固な砦を確立したナベツネは、最後には中曽根康弘の刎頸の友として策動し、中曽根に天下を取らせてヤクザ政治の実現を果たした


そしてこのCIA。エコノミックヒットマンなどの存在から分かるように、自国アメリカの利権の為には手段を選ばないのです。原発を日本に作ったのも、彼らとその手先となった読売新聞が行った煽動の仕業といえます。


世界をリードしたいアメリカが、広島と長崎への原爆投下などで、反核と反米ムードが高まっていた日本に、この状況を打破しようと目をつけたのが、日本の新聞業界に深い影響力を持つ「読売中興の祖」そして後に日本テレビを開局した初代社長の正力松太郎の存在でした。

地震が多発する小さな島国に原発を乱造する危険性など顧みず、正力は自身の影響下にある新聞やテレビなどのマスメディアを動員し、核の平和利用キャンペーンを展開していった


アメリカ国防総省に、日本テレビを日本支配=米国の政策宣伝TVとして創立する趣旨を伝え、ペンタゴンに協力を要請、承諾を得る。この「提携」の下、ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。

福島原発周辺で広められた安全神話 Part3
http://homepage3.nifty.com/jmaffili/nuclear/fukushima3.htm

 


ここでは原発は積極的にマスコミが推進していた。佐藤栄佐久知事がプルサ-マルに反対したときマスコミは一体となり反対したし検察も佐藤栄佐久はやめさせるべきだと言っていた。これは戦争中と全く同じだったのである。権力によって操作されていたのである。このサイトはわかりやすく詳しい。
アメリカのCIAは情報工作して日本でもそのエ-ジェントを育ててアメリカのスパイ、エ-ジェントとして働いていた。正力はそもそも何物だったのか?権力欲だけで原発にかかわった。首相になりたい、そのために原発を導入する。原発は権力欲の手段として日本に導入する。読売新聞もメデアとしてもつのは自分の権力欲のためだった。原発が日本にどう影響するのかそんなことを検討していない、これは政治の道具として使えると直感して原発導入うをたくらんだ。その動機からして不純である。新聞とマスコミで大衆を操作する。デズニ-と組んでアニメで「我が友、原子力」とかを放映して原発の安全性を洗脳する。そのために読売新聞と日本テレビとかを所有して大衆を洗脳する。

つまり自分の権力欲のためにメデアを所有する。それも一個人の力でそうできたというから一人の人間の力もと大きいとなる。新聞とかは戦前は大本営発表の機関となり戦争を推進した。今度は原発を推進したことでは同じだった。そこには日本を愛するとか愛国心とかはない、一個人の権力欲で国をとりしきり私欲でもって原発を導入する。そういう人は原発の危険性などを考えないだろう。そういう一人の暴君的個人に権力が左右されていたことの驚きである。つまり新聞とかテレビとかマスコミとはそういうものであったと自覚するべきである。権力をもつものの道具として宣伝部隊としてある。それは戦前と変わりなかった。読売新聞だけではない、日本経済新聞でも原発推進であり佐藤栄佐久知事を批判していた。


自分のところにも郷土史関係で日本テレビのアナウンサ-が誘おうとしていた。今になるとそういうことは権力にとりこまれることなのだ。だからマスコミにでている人は信用できない、ほとんど権力に取り込まれた人であり安全神話を作り上げた人たちだった。マスコミとは読売新聞でも他の新聞でも自分たちの期間が原発推進だったことを戦時中と同じく反省していないのである。それで双葉郡に入りあたかも事故に同情するかのように取材する。一方で双葉町の責任は佐藤雄平知事すらプルサ-マルに反対していたのに推進していて許可させたとここに書いてある。双葉町の責任も大きいのである。一番被害を受けたけど自業自得だとも他から言われるのにはそれなりの理由があった。原発なしで町が成り立たなくなり事故後も原発に頼っているのである。


マスコミの問題はこのように報道機関として自立していないのである。正力松太郎のように一個人の権力欲でしきられるようなものだったのである。そこに自立した使命感もモラルもないのである。だから容易にマスコミは安全神話にくみして事故が起きてからは原発に反対しているがその前は朝日新聞ですら原発推進だったのである。広告で金をもらっていたのである。地元の新聞もみなそうである。福島民報は報道の独立性はない、聖教新聞を刷っているのだからそれが月給になっているのだからありえようがない。他も広告が資金源になっているとき自立した報道はありえないのだ。だから民主主義はなりたちえようがない、権力を監視する機関ではない、権力を補佐して強化する方だったのである。官僚でも検察官僚でも政治権力でも監視はできない、情報は権力側がにぎっているからその情報を得るためには情報機関も権力者にすりよるほかないとなっている。だからマスコミは特に新聞とテレビは信用できない。
小さな街の図書館などでも権力側が官僚が支配しているから批判的な本を置かせないこともできるし自分の場合はそうだった。創価を批判したりしたら必ず報道機関や官僚側から除外されるものとなる。それだけの権力をもっているのだ。報道機関はすべてそうしたカルト宗教団体であれアメリカであれ中国であれそういうそういう権力に操作されているから真実はわからなくなる。原発問題も安全神話もそうして作られていたのである。


●ロ-マ時代と変わりない現代-パンとサ-カスが大衆を支配の定番


ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。
目的は米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうため。
TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らすため。
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-615.html


それでも馬鹿な愚かな大衆を洗脳するには今でも有効である。結局これはロ-マ時代から変わらない、大衆を手なづけるのは「パンとサ-カス」である。パンは経済であり金になることでありサ-カスはテレビの大衆受けする低俗な番組である。デズニ-のアニメで「わが友原子力」を放送したのと同じである。漫画も大衆洗脳には役立つのである。そうして大衆から腐敗して国自体が腐敗して衰退してロ-マのように衰退してゆく、そういうことがまざまざと情報弱者にも事実として隠せないものとして見せつけたのが原発事故だった。今も放射能問題で隠している所がある。以前として権力側が情報をにぎっているからだ。事故前でも事故があっても隠されていたのである。権力によって不都合なことは隠されるからである。だから前の佐藤栄佐久知事が事故が起きてプルサ-マルで追求したとき知事を渡辺耕恒三派に追いおきされた。渡辺恒三の息子はGEの社員でありエ-ジントだった。


権力をすべて否定はできない、権力でもって何をするのか、それが国のために個々人のためになるのなら権力も否定できない、ただ宗教ですら権力欲の手段として大衆洗脳手段として使われ権力欲を達成しようとする、そこに人間の欲望、権力欲があからさまにでている。ソビエト連邦が崩壊したのもその権力欲の争いの結果でもあった。権力者として地位を維持するために反対者を粛清して殺害してゆく、そういう内部の権力争いは会社でもある。それが人間の業として延々としてあった。
権力をすべて否定できないにしろ人間は最初に権力欲ありきでありその権力をとって一体どうするのか、国民のためになることがしえるのかということがないのである。まず権力ありきでありそのあとその権力でもってどうするかはないのである。だから原発も権力を得るための道具として一個人の野望のために使われていたことが恐ろしいのである。それは一個人が原発をもってテロすることでさえあった。現実原発を核をたてにテロをされたら恐怖である。そういう恐怖は常にあるし核をもっている限り人間の心理として感情的になり核を使うことがありうる。人間の心理でそれを解明した人がいる。銃があれば銃を使うし核も同じなのである。


インタ-ネットには報道の自由がある。報道とは何かということを考える契機にもなった。そもそも一個人など報道すらできなかった。だから民主主義を促進するものにはなる。ただ以前としてマスコミの力はまだ強い、それでもインタ-ネットを通じてアラブで革命が起きたとういのには驚きだった。そんな力があるのかと驚きだった。いづれにしろ権力あるものに操作されているかぎり報道の自立はありえない。権力をもつものによって操作されるのだからそこにモラルもありえない、報道のモラルなど追求できないのである。検察官僚-政治家-東電-マスコミ-これら権力をもつものが強力に一体化して安全神話は作られていた。そこに創価などのカルト宗教団体も加担していた。それは戦争中と同じである。恐ろしいのは検察官僚も一体となり特高の役割を果たしていたことである。戦争中と同じ権力構造になっていた。ある意味で鉄壁とも言える権力構造の上に安全神話は作られていた。


人間の社会は巨悪というのは昔から見えない、何が悪なのか明確化されない、泥棒でも10万とか盗む小悪人は断罪され見える。しかし一千万とか一億盗んでいる人はかえってつかまらない、不正は大きくなればなるほど見えなくなる。国民から盗むものは大盗賊だけど英雄にもなるし大善人にされる。一人殺したら殺人犯だけど千人殺せば英雄になるのと同じである。戦争中はみんなそうなっている。悪が明確にされれば断罪されやすいけど巨悪は明確にされない,かえって大善人としてほめたたえられるのである。今回の原発事故はそううい悪を明確化したのである。巨悪を暴いたのは津浪であり自然だったということになる。マスコミは権力の走狗になりやすい機関である。そしてマスコミによって知らず洗脳されるのが大衆である。

 
 
 
posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年06月21日

岩井の水を飲めどあかぬかも (便利な文明の生活は災害に弱かった)


岩井の水を飲めどあかぬかも

(便利な文明の生活は災害に弱かった)


馬酔木なす栄えし君が穿《ほ》りし井の岩井の水を飲めどあかぬかも 巻七


山の井の清水を飲みて今になお暮らせる人やここにいつきぬ



馬がこれを食べると苦しむので馬酔木という名前がついたということですが、本当に馬が食べる訳ではありません。


馬酔木(あせび、あしび)の花が注目されていたのはなぜか?この花は花とは思えない、何かのいわれがあって注目されたのか、実用のためのなのか、そうでもない、馬の餌にもならなかった、害になるものであった。ただこの花に注目していたというのはやはり万葉人だからこそである。素朴なものとして見ていたのかもしれない、馬酔木は歌にする気にもなれないしこれが美しいと思ったことはないからだ。桜が咲いて栄えるなら梅が咲いてでも特に牡丹ならわかるけど馬酔木ではなぜこれが栄えたものの花になるのかわからないのだ。ただ万葉人にとっては馬酔木は栄の象徴ともなっていた。その辺が現代感覚とは違っている。
今でもこの辺では山の方では山の清水を井戸を掘って飲んでいる人がかなりいた。山の水は飲めたのである。牡鹿半島でもあんなに低い山でも裏山から清水が流れて尽きることがないという。震災と津浪で電気がこなくなり水道もとぎれたとき裏山の清水を運んで飲んでいた。なぜ牡鹿半島のような所に住めたのかというとあのように水があったからなのだ。ほとんど田畑も作られなくても水はあったから人はすみつくようになった。日本は水に恵まれていたのだ。だからこそ稲作りが広がった。山の中でも水が豊だから米を作ることができた。


現代の便利な生活は災害に弱い、牡鹿半島とか三陸の僻地でも水道の水がなくても電気がなくても一か月くらい過ごすことができた。井戸の水を清水を運んでいたのである。この辺では水道の水が飲めなくなった所がある。でも電気は通っていたしガスもプロパンガスだから火が使えたから米があったので米をたいてしのいでいた。ノリくらいオカズで二週間くらい過ごせた。あとで米もなくなり地元で配給になり助かった。米があり水があり火があれば二週間くらいは生き延びられる。都会では清水を使うわけにはいかない、いくら水をたくわえていてもどうなるかわからないから都会は災害に弱い。水すら自給できなくなる。皮肉なことだが文明は昔の自給自足生活からすると余りにも文明的な便利なものに頼る生活である。だから一旦災害になりそうした便利なものが途絶えるとパニックになる。車がその象徴だった。車が車だけで何のようにもならなかった。ガソリンが入ってこないから使い物にならなくなったのだ。ガソリンスタンドに長蛇の列となった。この辺はあとあとまで放射能が怖いとか外部から物資が入らなかったのである。その時車は何の用にならなかったのである。
車が今回の津浪でもかえって被害を大きくした邪魔なものに何ていたのである。

人間は車でも石油と不可分にあったから石油なしでは成り立たない文明である。だから一旦石油がきれたらパニックになる。戦争にもなる。それが便利な文明の危険なのである。原子力に一旦頼れば原子力なしでは暮らせなくちなる。それが双葉町の現実である。原発をまだ増発しろとかプルサ-マルを要求したのも双葉町とかでありそれに今の県知事も従ったというからそこるで原発の依存になっていたのである。だから一旦事故や自然災害になると文明は弱いものだった。自給自足的生活をしていれば水があり米があり薪も裏の林にあるから燃料にもなる。電気がなくても一か月くらいならやっていけるという見通しがたつ。都会ではさらなるパニックになる。外から援助が来るまでは相当に時間がかかるからだ。よってたつものがすべて外部頼りであり中にないからそうなる。

そうはいってもここでは相馬市の方は早く回復して電動自転車で買い物に行った。電気があってできたことであるがなんとか自転車でも買い物に行けただろう。来るまでは行けなかったのである。
電気が途絶えることが災害ではある。その用意ができていない、この辺だって燃やすものがないから困ったろう。山の方だと薪があったから放射能に関係なく裏山の木を切って燃料にしたろう。

文明的便利な生活になれていてそれが当たり前となっているときそこに危険がひそんでいたのである。そういう便利な生活がもろくも崩壊するということがある。放射能汚染は水や土を汚染するから田舎では致命的なものとなる。三陸のように山の清水も山の木を燃料として利用できなかったら万事窮すになった。自給できないということはそういうことである。だから東京辺りは地震災害でも想像もつかない空恐ろしいものとなる。便利であるだけにその便利さ故に災害には弱いのである。


馬酔木なす栄えし君が穿《ほ》りし井の岩井の水を飲めどあかぬかも


馬酔木が咲き山の清水があってこそそこは栄えている、その水は飲んで飽きることがない、枯渇することもない、いろいろなものを食べ飲んでいるけどそういうものは金がかかるし一旦災害になったら入ってこない、水だけでもあればそれを基に生き延びられる。
この辺では放射能汚染で水さえ危険になっているから宅配水の商売が生まれた。富士山の水を定期的に買うのである。機械は借りて電気で湯にも冷水にもできる。でも一か月いくらと金がかかる。
それでも水に不安があるから水道の水に加えてそうした心配もしなければならないし金がかかってしまう。水すら水道でも自給できなくなっている。
万葉集時代の方が生活の充実感、豊かさを感じていたともなる。それは自然に根付いて生活していたからである。ただ井戸を掘るにしてもその当時は大変だから栄えているというのはそういう資力があってできた。「岩井の水を飲めどあかぬかも」というとき三陸の方ではその山の清水に助かったと感謝しているかもしれない、今になると田んぼは荒廃して荒地となり水が流れない、その時かつての豊かな水が流れる風景がなつかしく、水ってありがたいなとしみじみ思っているのと同じである。


山のべに桜は咲けり日もすがら代田(しろた)に余る水あふれつつ 東長二


これは歌会始めの当選の短歌だった。生活感覚があふれている秀句である。農民でないと作れない短歌であった。桜が咲き代田が作られ水が張られ田植えがはじまる。そういう光景は別に農民でなくてもあきるほど見てきて当たり前だったのである。でもそれがなくなったときいかに水が貴重であり水なしの世界が荒れ果てたものになるか知ったのである。水あふれつつ・・というのはまさに水の豊さのなかで稲作りが日本では二千年とか行われてきたのである。水に感謝するなどはあまりに水に恵まれているから日本ではない、砂漠のような世界だったら水の一滴は血の一滴だとか現実になっていた。日本では余っているからありすぎるからそんな感覚もないし感謝もしなかったのである。水に恵まれすぎて感謝するなどありえなかったのである。水がありがたいものだということにはなりえなかったのである。

posted by 老鶯 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集