2012年05月27日

木蔭、夏野、藤の花 (草原化した夏野、麦畑もあった)


木蔭、夏野、藤の花

(草原化した夏野、麦畑もあった)


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一面に黄の花まぶし夏野かな


風吹かれ夏野に鳥やとびたちぬ


a bird
free flight in the breeze
in the summer field


(藤の花)


木蔭なす坂道下る城下町風にそよゆる藤の花かな


藤の花そよゆれ静か揚羽舞い遠くに去りぬ一時の夢


朝静か木蔭にそいて行く道に風にそよゆる藤の花かな




池の岸黄の花映えて紅睡蓮二輪咲き遊ぶあめんぼうかな


この道の木蔭の深く鶯の声のひびきて家そ隠れぬ


家一軒夏野にありて山脈の望みてここに見晴らしよしも


木蔭より木蔭に移り休らいぬ公園に舞ふ黒揚羽かな


青々と麦の畑に風そよぎ燕交差し飛びかいにけり

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 紫 藤 樹    唐.李白


紫 藤 掛 曇 木, 紫藤、曇木に掛かり、
花 蔓 宜 陽 春。 花蔓は陽春に宜し。 
密 葉 隠 歌 鳥, 密葉、歌鳥を隠し、
香 風 留 美 人。 香風は美人を留む。



相馬市の病院から下る道は情緒がある。相馬市の感じは原町とはずいぶん違う。今日は原町に行ったけど藤の花がここでも咲いていた。池には紅い睡蓮も二輪咲いていた。木蔭がなんとも気持ちがいい。木蔭がなぜ気持ちがいいのか、ただ家の建物の影だとそれほどでもない、木蔭は木は生きていると詩に書いたけどまさに木は生きている、その生き物の影だから気持ちいいのである。単に涼しいというだけではない、風は葉にそよぐし木は何かを語り木は人間のように親しいものなのである。
人間は年とともに自然と深く交わるようになる。木蔭は本当にいいもんだなとつくづく思う。


夏野というときまさにこの辺は水田が草原になってしまった!
このことを何度も書いたけど不思議としかいいようがない。まさに夏野なのである。ただ相馬市だと一面に夏の黄の花が咲いている所があった。そこは減反して野になったところだった。ここはまだそうして一面に花咲くようにはなっていない、いづれ放置していればそうなる。夏野というときそれは水田ではない、まさに北海道の景色なのだ。だからかえって夏野も気持ちいいとなる。鳥のように自由に飛んでゆきたいとなる。そして麦の畑があった。これも青々として気持ちいいと思った。水田とはまた違ったものである。回りに水田がないということは感覚的に相当違っている。ただ農家にしてみれば水田がなければ実りもない。


麦の栽培と米を作る水田はまるで違ったものである。田んぼは水の管理に手間をとる。麦はそういうことがないからあまり共同性を育まないともいえる。他にも麦を作ることは文化そのものが違ったものになったとあり水田と麦では全く別なものなのである。水田が日本の文化を作ってきたから水田がないということは北海道であり北海道的感覚になってしまうのである。ただ燕でも雲雀でも草原の方が本来あっていたのかもしれない、ただ水田には虫が多いから餌がすくない、燕の数も少なくなる。

ともかく夏野は気持ちがいい、夏野は人間の心を自由にする、自分はほど自由もめたものはいなかった。それは学校のときからはじまった。学校には全くなじめなかった。大学は自由だったから良かった。でも自由すぎて悪かったということもあった。仕事は流れ作業のアルバイトしたのが悪かった。ロボットにされたのでさらに仕事自体嫌になった。それから幸運にも仕事せずにすんだのである。
でも人間には仕事は必要である。農業でも実際してみればそれ自体生きがいである。そういう仕事は金のことをぬきにすればボランティアでもしたいものだろう。仕事は実際は与えられるものであり自ら見いだすものである。ここ五年間は介護と家事が仕事なのである。これも結構大変なのである。執事というのが仕事になったことがわかる。一切の家のことをやること自体仕事なのだ。
仕事は金をもらうだけにするものでない、仕事をやっていると生きがいを感じる、何か力がわいてくるというのが仕事である。だから力をそぐような仕事はしない方がいいとなる。そういう贅沢は言っていられないにしろ仕事は本来そういうものでこそ仕事なのだ。仕事しないと家事でもしないとぼける恐怖がある。身内で退職してからなまけものになり家事もしなかった結果ぼけた。女性でも仕事がないと危険である。生きがいも脳も働かなくなる。


インタ-ネットで無料でしているのも仕事である。相当書いてきたから書く力がついた。人間文章を書けば書くほど書く力がつく、人間は仕事があっていればその仕事にのめりこむようになる。それが本当の仕事である。ただインタ-ネットの仕事は認められないことが問題である。一冊の本を出した方が認められたように思えるだろう。本は別にパソコンで作れるみたいだ。だから整理して自分で作れる。冊子のようなものは作れる。インタ-ネットは知的作業がパソコン上でみんなできる。いくらでも書いて出せるということが今までないものなのだ。

今日は新田川の辺りの公園から回り道して木蔭の森の道を帰ってきた。この辺は回りはまだ自然があり木蔭の道が多い。別に放射能とそれは関係ないのである。食糧にするものがないということは言えるが環境自体はそれほど変わらないのである。ただ草原化したことは大きな変化だったし湿地帯化してもくる。北海道のようになってしまうということである。


 

カルトととは何か-カルト宗教団体には共通性がある (オ-ムは極端化しただけであり過去のナチスも天皇もカルトじゃないか)

 

カルトととは何か-カルト宗教団体には共通性がある

(オ-ムは極端化しただけであり過去のナチスも天皇もカルトじゃないか)

●麻原も池田大作も劣等感の塊(かたまり)りだった


NHKで放送していた、どうしてオ-ムがあれだけ危険な団体になったのか?それは麻原が弟子をコントロ-ルして洗脳して殺人を正当化したと解析した。そういうテ-プもでてきたのである。麻原がなぜそういう思想をもつようになったのか?そういうことも解説していた。目が悪いというときかなりの劣等感があったのだと思う。劣等感というのは人間に相当に影響する。これは女性でも美人でないとかいろいろ劣等感をもっている。するとそこから悪い思想をもつようになる。そして犯罪にもなる。もちろん貧乏だとかいうのも深い劣等感を植えつける。金さえあればこんなみじめではなかったと恨みとなる。
劣等感は人にマイナス志向をもたせる。この世の中は何かしら劣等感をもっていない人はいない、人間的にそんな恵まれた人はいないのである。頭が良くても体はだめだとか何かしら劣等感をもっている。人間は何かしら不足している、たりないのである。天才は頭も良くて体力もある人がいるがまれである。麻原はおそらく劣等感の塊だった。ところがそこに集った人は一流大学を出た優秀な人たちだったのである。その人たちにも劣等感をもっていた。盲学校しかでていないからだ。絶えずどこの大学を出たとかを問題にする。実際最終の学校名は大学名は社会では結構重要であり最期までつきまとっている。学歴はそんなに大事なものなのかとあとでわかる。三流大学だったらこの人はそんな人なのかと思う。それは医者などでもそうである。どこの大学を出たかでこの人は優秀なのじゃないかと思ってしまう。実際は違っていても判断材料にされる。だから一流大学を出た人は出た人でそれを自慢している。三流大学の人はまた終生劣等感をもつのである。こういう劣等感のことを語ったらきりがないのだ。天皇ですら劣等感もっている。なぜなら天皇だってみんな優秀ではない、ただ生まれつきでそうなっているだけで何か優秀なわけじゃない、だから劣等感をもつのである。


つまりこうした劣等感とかが怖いのはそういうものもカルト宗教に結びつくからである。ヒットラ-は画家になりたかった、芸術家になりたかったとか言われる。それがなれなかったから政治家になった。それが過ちの基だった。麻原の歪んだ劣等感も宗教を利用して一流大学の若者を支配しようとした。一流大学といっても経験もないし理系的な人はマニア的になったり総合的人間として成熟していない、だからカルトにはまりやすいのである。若者は未熟だからカルトにはまりやすいのである。自分もそうだった。創価はまぎれもなくカルトそのものである。社会に公認された権力をもっているカルトである。池田大作も麻原とにているのだ。もの凄い劣等感をもっている。特に学問に関係してものすごい劣等感の塊(かたまり)なのである。富士短期大学とか出ているにしても余りにも知られていない、でも会長になったとき東大出の人ととかと幹部と接しねばならない、するとそこで劣等感をもつ、だから科学的なことを書いた「宗教と科学」などがあるがあれも仏法と科学をむりやりこじつけたものである。ただ自分は科学にも通じているとか何かそういうことを示したかったのだろう。


学問に対して劣等感はすさまじい、だから世界中から大学に金を払って学位をもらっている。勲章ももらっている。それも劣等感の裏返しなのであり権力をもっているから学位などくれる大学は世界でいくらでもある。そういう虚飾の人間を崇めている会員の気持ちが未だにわからない、そんな会長をみていてなんなのだと疑問にもつのが普通である。別に学問は関係ない、人間常識あればこの人は何なのだとなる。例えば池田大作は若者など全然愛していないし何か高い教えを授けるなどできようがない、自分が劣等感の塊であり若者は権力をとるための道具にすぎない、だからぞんざいに扱われる。学生部のものを集めてタバコをほいとなげてやったりとかそもそも何も教えることはない、自分の食ったメロンを食わせたりとそういう下劣な人である。なぜそういう人についてゆくのか?それは麻原と同じだった。違っているのは創価の学生部はもともと幹部の子弟が多く権力の中枢に組み込むために入ってきているから学生部自体がすでに宗教的求道心などゼロである。権力の中枢に入り権力をもちたいということをすでに親から強いられていたのである。親と深く関係して池田大作に近づき権力中枢に近づくという権力志向しかない団体なのである。
だから三国志などを読ませている。BSで三国志の中国人の俳優がやっているけどいかに権謀術数の国なのかいやになってしまうだろ。どこまでもだましあいでありそのために平気で人を殺める。中国人はいかに権謀術数にたけているからわかる。それだけ生きることが厳しい社会だったのである。


●革命で理想社会を目指すものはカルトである


ではなぜ創価であれカルト宗教団体がこれほど社会を席巻しているのか?それはやはり様々な時代の要因もあるからいちがいには語れない、人間は誰でも劣等感、不満をもっている。そういう人たちあ集めると一大勢力をもてる。それをテコにして革命もできる。そういう不満分子がいて社会革命が起こる。南北朝でも後醍醐天皇をたてた楠木正成なども当時の不満分子を集めて天皇にとりたてられて喜び天皇のために戦った。明治維新も天皇を批判している「心に青雲」のプログに書いている人が言っている。吉田松陰は万歳師の出であったとかこれは笑ってしまった。高杉晋作が集めた奇兵隊はそうだった。権力を得て成り上がろうとした人たちだった。革命には日本のためにとかいう人はまれである。本心は権力を得たい、下賤のものから成り上がりたいということが根底にある。それは劣等感であり現実的生活の貧しさからもきている。そういうものが革命のエネルギ-となるのだ。そして革命に成功したとき権力得る。今度はその権力を放したくない執着する、巨利を得て民衆のことなどかまわないというのが社会主義革命でも何でも人間の欲望の革命だからそうなる。中国でも共産党幹部だけが巨利を得ていると今では批判されている。それで薄煕来が経済発展の利益にあづからない貧乏の人たちの不満分子を集めて権力を得ようとしていると失脚させられた。人間のやることは歴史でくりかえされている。それは人間の根底の問題に深い欲望がありまた劣等感が消えることなくありそうしたものが解決しないからいつまでたっても同じことをくりかえしているのだ。創価に集った人も最初は戦争が終わり方向を見失い不満分子を集めた。不満というとき人間は経済的な問題だけではない、いろいろな問題をかかえている。そういうものただ何でもいいから集めて会員にして一票として権力を拡大させるのである。


ではなぜ池田大作のような下劣な人の回りにあれだけの人が集められるのか、それもオウムと同じ様に医者もいるし科学者もいるし東大出の人もいる。下々のものだったらわかるがそれなりに社会的地位もある人もいる。見識のある人もいる。それはオ-ムの問題と通じている。何がそのエネルギ-を生み出しているのか?その不気味さは何なのか?それはとても池田大作だけでそんなことできるはずがない、それはヒットラ-とナチスとにているのだ。いづれにしろ社会改革して理想社会を目指そうとしたときすでにその時宗教はない、宗教はあくまで心の内面の問題である。それはたとえ金持ちでも貧乏人でも同じである。心の内面の罪の問題である。外面的にどうであれ基本的にはそうである。
金持ちと貧乏人がいて金持ちからなら金などいくら盗んでもいい、殺してもいいんだとなるのがマルクス主義になる一面があったのだ。宗教的にみればやはりそれは罪になる。でも地主階級とか搾取されていた農民からすれば割り切れないものがあった。それは深い恨みとして今も残っている。今でもそういう貧富の差の問題は継続している。では金持ちは搾取者で全部悪いのかとなるとそうでもない、金持ちといってもやはり巨額の金持ちは別である。ある家が富んでいる理由は何かとなる。そこが問題になる。人間はみんな最初から豊ではない、努力したからその家が富んでいるということもある。先祖のおかげで富んでいることもある。そういう人たちを恨み不正だとするのは問題である。
農家でも草分けという農家が相馬藩では越中からの移民は最初は条件の悪い所で働かされた。でも努力して相馬の地にねづいたのである。最初からどこでも豊かな人はいないのである。最初はみんな草分けという所に入って働くほかないのである。それを今はそういう最初から裕福な人を不公平だとなる。最初から努力もしないのに同じにしろと言っている。


社会を変えれば世界を変えれば理想社会が生まれなどと宗教は説かない、そういう説いている時点でカルトなのである。だから極端化すればオ-ムのようになる。社会を変えるために悪人を一掃しなければならない、そのためには悪人はポアしてもよい、殺してもよいとなる。殺人の一線を越えたのは仲間を殺してからであった。必ず内部でそういうことがカルトでは起こる。ある意味で共産革命などもカルトである。共産党でもだから武闘でしか政権はとれないと暴力革命を一時容認していたのである。毛沢東は銃口から革命は生まれるといっているから武闘である。共産党は今も中国ではそうである。だから天安門事件が起きた。社会革命を目指すものはすでにカルトなのである。創価だって権力に執着するから武闘だって辞さないということはあった。カルトは共通して同じ体質をもっている。警察や官僚にも司法にもいる外務省もにいるし宮中まで入ってきて工作していた。一人一人が自分はそうでないにしても一票入れることはすでに加担しているのだ。そしてマスコミもこの巨大権力にとりこまれているのは東電の原発事故と同じである。全く同じことをしている。新聞社に聖教新聞をすらせあらゆる権力をとるための工作を許している。社会を変えるとは権力を手中にするということである。これが最大のカルトの特徴なのである。オ-ムはそれを露骨にしただけである。もちろんカルトは正義を人を救いたいとか人に尽くすのだという独りよがりの考えでやんている人もいる。悪気がないといえばない人もいる。でもそれもカルトなのである。現実的に社会革命で権力を得て利益にあづかりたいという願望のために活動している。日蓮宗はその教義自体カルト的だ、カルトになりやすいというのもある。日蓮宗だけが国を救うなどと言うことはない、そこが狂信的になる。

正直この社会を変えることなど理想社会にするなど不可能である。むしろ「欲で滅びる」とかノアの洪水で滅びるとか今回の大津波がきて文明自体が滅びるというのが現実的である。つまりカルトをなくしたりできないということである。民主主義からナチスが生まれたように政治家になった人が下劣ないいかげんな民衆のために歪めれたとう言っているのは面白い。政治家をだめにしているのは勝手なことばかり言ってい一票をもっている大衆の方だったのである。


●政治家だった人がいう、選挙のためには勝手な大衆にへつらうほかない


精神異常者の諸相
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/ESSAY-broken11abnormal.htm


「選挙」なる妖怪相手に取らなきゃならない。
  そんな「選挙」に勝つためにゃ
  運動しなければならない。
  自己ピーアールしなければならない。
  従って「選挙」に勝つには
  己の本当の資質を裏切らなければならない。


H 目的のためには手段を選ばず


  民主主義の世の中と
  言われるからには仕方がない。
  とにかく議員となって威張るには
  選挙と言う名の洗礼を
  受けねばならない以上には
  何が何でも勝たねばならぬ。
  見知らぬ民には握手で熱意を示そう。
  情にもろい民には泣いても見せよう。
  たかりにくる民には金で選ばせよう。
  腹が立っている民には土下座もしよう。
  そのために晒した恥など目ではない。
  そのために使った金など目ではない。
  ひとたびバッジを手にしたからは
  見返り間違いないのだから。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/POEM-aku09.htm


政治をどうのこうのというけどその政治家を選ぶものがこうなんだよ、そんな勝手が通るのか?
そういう勝手な要求をするから政治家もそれなりの政治家になっているんだよ、だから社会を変えるなど絶望的なんだよ、お前の欲望を満たすために政治家いる、お前の欲望が消えない限り社会は変わらないんだよ、これは逆説的だけど面白いな、お前らちょっとは賢くなれよ、欲を少しでも減らしてみろ、要求ばかりしたって社会はよくならないんだよ・・・だからカルトもなくならない、みんな
小池田大作だからヒットラ-だからなくならないんだよ、われなる内なるヒットラ-なんだよ、この人も言っていることも一理ある。人間の悪の側面がサタン的ものがこの世を支配しているから社会は変わらないんだよ・・・・

大衆こそ最大の妖怪なんだよ、だから政治家も妖怪になっているしカルトの長も巨大な麻原や池田大作のような妖怪になっているんだよ、誰がこの巨大な妖怪を作り出しているのか?それをよくよく考えてみろ・・・お前たちもみんなこの妖怪にのみこまれることがわかるだろう・・原発事故でもわかったろう。社会とは権力ですべて動く、権力はいろいろある。数も権力だ。、武力も権力だ・・・知識も権力だ、技術も権力だ・・この人は政治家になったから具体的にわかったということである。
そして一番怖いのは正常な普通の人の狂気なんだよ、オ-ムでわかるだろう。宗教のもとに正義のために人類を救うために大量殺人にさえなるしなったんだよ、それは歴史で証明されている。
オ-ムは必ずも特殊じゃない、現実にあったことであり今も巨大な勢力としてあるしこれからもオ-ムのようなことがおおがかりで国家規模で起こる。原発事故もそうだったんだよ、安全神話にさからうものはポアされるんだよ、抹殺されていたんだよ・・・そうしているうちに日本自体原発で滅亡することだってあるんだ・・・そうなるのは妖怪なる大衆のせいということもあるんだよ、指導者だけじゃないからな・・同調するのは・・・



人間はすべて狂気的存在である。
劣等感も欲望も狂気に導く
個々の狂気があり集団化すると最悪である
誰も狂気をとめられない
戦争も集団的狂気のため
原発の安全神話も狂気的だった
集団の狂気は誰ももはやとめられない
狂気を作り出すのは人間の心であり思想である
そのゆがんだ心から狂気が起きてくる
だから思想が心の問題が大事なのである
posted by 老鶯 at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層