2012年05月10日

土着なくして職業も学問も芸術も報道もない (故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)


土着なくして職業も学問も芸術も報道もない

(故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)

●土着の思想
土民生活に於ては一切の産業が土着するが故に農工業や交換業が或は分業的に或は交替的に行はれて鞏固な有機生活が実現される。

鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ

土民思想に於ては、職業によつて軽重を樹てない。たゞ総ての職業が土着することを理想とする。自治は土着によつてのみ行はれる。然るに他の諸々の職業人と有機的に連帯しない農民のみの土着は不可能だ。その土着生活は必ず他の職業に依頼せねばならないので、再び動揺を起さねばなるまい。総ての職業が土着するには、金融相場師がなくなるを要する。総ての職業が土着すれば、そこに信用が確立し、投機が行はれなくなる


底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社
http://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/46455_25648.html


土着性とは何かというときこれも奥深い問題である。土着というときそもそも人間は土着しなければ生きていけないということからはじまっている。縄文時代はその土地に動物のように土着して生きていた。回りにあるものだけを食べて生きていた。どんぐりまで食べていたとすると猿とさほど変わらないものであった。それしか生きる道がないし神は動物でも人でもそこに生きる糧を与えていたのでありそれで生きていた。弥生時代になり稲作がはじまっていても基本的には土着なくして生きてはいけない、農民的土着的生き方が江戸時代までの生活だった。今日のように高度に文明化したとき、改めて土着性が問題になった。それはとりもなおさず人間は土着的なものから余りにも離れてしまったからである。当たり前のように土着的に生きていたものが土着的でなくなった。東京辺りだと土すら見ることがない、そこでは土着という言葉さえ通じなくなってしまう。土から離れて生きる人が何千万人と今ではいる。江戸は百万都市でも回りは農家であり農家の人が町中まで深くかかわって暮らしていた。だから江戸に住んでいてもやはり土着的な所があった。

土着的というとき人間も自然の中に生きるのだから当然土着なくしてありえない、誤解しているのはあらゆる職業が土着的なものとしてあるべきなのが自然なのである。土着的であってこそ生の充実と生きがいが見いだされる。土着的とは全体的と同じである。職業には土着性が必要なのである。

勤務医は土着性がなく転勤しやすいとかいうときやはりそこに何か職業として欠落してくるものがある。開業医は土着性がある。何代も医者をやっていたりしたら農家と同じくなる。この辺で看護師が不足して他の県から派遣されて働いている人がいた。でもその人は期限付きだから困るという。ずっとここで生活して働いてもらわないと困ると言っていた。それもまさに看護師も土着的でいなと勤まらない職業だということになる。何代もつづくということは土着性があることになる。職人でも十何代もつづいているのが江戸時代であった。職人も大工でも地元の材料を利用して家を建てていたらより土着的になる。庭作りは地元の石や植物とかに精通していないと作れないとかなると極めて土着的である。庭は故郷の自然と直結していたのである。庭作りは農耕ともにていた。花作りは野菜を栽培するとたいして変わりないのである。


芸術もこれも土着なくしてはありえない、cultivate(耕す)がcultureになったことでわかる。その土地に根ざしてできるのがア-トである。山や海や大地や川がなくてどうして芸術がありうるのかとなる。都会には芸術家は生まれない、天才も生まれないという、それはそういう基盤が故郷をもたないからである。その人が大地から自然から遊離していたら芸術が生まれ得ようがない。芸術の霊感の源は自然だからである。その自然のないところで芸術が生まれようがない。音楽だってベ-トベンの音楽がドイツの森や大地から生まれたというときまさにそのことを物語っているのだ。ベ-トベンの音楽を理解するのにはドイツの大地に立たないと理解できない。すべての文化の根源には土着性がある。それぞれの国そのものが土着して生まれた。大和(ヤマト)自体が奈良の一地域の名前だった。一村が日本という国になったのである。奈良が国のはじまりだというときまさに奈良という山と大地に土着したものが日本の国となった。封建時代はそれぞれの藩が国でありそれも極めて土着的でありそれぞれが一つのミクロコスモスとなって生活していた。そこでの職業もすべて土着的なのである。

●地人論の思想

政治家でも銀行家でも実際は土着的である。地域に通じなければそもそも政治家になれないし融資するにしても地域の経済に通じなければできないから土着的になる。報道というものも実際はこれも土着的なものなくてしてありえない職業である。今回の津浪や原発事故でそのことがみんな理解した。そもそも情報が東電や巨大なマスメデアによって支配されていたことが事故につながっていたのである。マスメデアは報道すること自体莫大な金があるから宣伝費をもらって成立している。だから東電では莫大な金をマスコミに流していた。そして情報は統制されて安全神話が作られていた。福島県の地元のマスコミ、新聞雑誌も同じだった。土着的に独立している報道機関ではない、他の巨大な財力、権力あるものの一機関なのである。カルト教団から金をもらっていたりとか報道するのに莫大な金がかかるところは巨大な権力に頼らざるをえないから地元民に密着した土着的な報道となりにくいのである。あらゆるものは土着的なものの追求なのである。土着的なものから離れたとき今回のような原発事故も起きてくる。公害事故も起きてくる。災害にも対処できないとかいろいろな問題が起きてくる。東電は土着的ではない、それ故土地の歴史を津浪を考慮しなかった。東北電力は地元であり土地の歴史を重んじて高台に原発を作り辛うじて津浪の被害をまねがれたことでもわかる。


地を離るれば人なし、人を離るれば事なし、故に事を成さんと欲する者は
まさに地理を究むべし 吉田松蔭


われわれは、各地に生まれてから昇天するまで、各地に固有の地の理
を究め、産業や経済を起し、政治や行政を行い、子や人を育て、美や文
を追求し、自然や神に祈る。
「仕事を起こし、地域を創り、人を育て、文化を高める」‘営み’によっ
て、先人から学び、経験を蓄積し、次世代に伝える。内村鑑三(地人論)


ユダヤ人が土地をもてない、国をもてないから金融業に頼ったというのはわかる。そこから世界は金だけの世界になったと批判するのもわかる。マルクスの人間疎外が貨幣が神のようになったということもわかる。現実的に今は人間をどうみているかはいうと物-金(人間)-物・・物を交換する媒体として金がありそれが人間なのである。普通に人間を金としてみてしまっている。この人がいくらの金がもたらされるのだとしか考えない、それは親族の間でさえそうなっている。それが普通の状態になっているのだ。それほど貨幣の力が大きくなりすぎた。それをいろいろ批判しても現実がそうなっている。だから否定できない力として貨幣社会がある。江戸時代まではそういう貨幣万能の社会は生まれていない。貨幣はやはり土着的なものから人を切り離すことにも大きな力を発揮したのである。今はただ金のために働く生きるというときそこで労働の本質が見失われたのである。


●働くことなくして人間の存在価値はない


農民は土を耕し種をまき作物を育てるとき力が湧く
その実りを自らの手にするとき力が湧きあがる
大工は工夫して家を建て完成したとき
自らの力を自覚して力がわき上がり喜びがある
土木業者は道を作り土台を作り力が湧く
医者や看護師も患者の病を直し助けて力が湧く
手伝いさんも自ら料理して掃除して家事をして力が湧く
料理人はうまいものを食べさせたとき力が湧く
教師はうまく生徒をに教えられたとき力が湧く
旅人は困難な旅をしているとき力が湧く
画家はいい絵を描き力が湧く
詩人はいい詩を書けたとき力が湧く
何もしなければ例え金をもらって生活はできても
何の力もわき上がらない
金のために働く前に働くことはその人が活かされること
その人の能力が活かされることにあり

労働とは本質的には金のため消費のためではない、生きがいのためでありまた各自の能力が活かされることである。その能力は別に特別の人がもっているものではない、あらゆる人が能力をもっている。例をひいた土民思想はそれを示している。なぜ今働くことが拒否されるのか?それは土着的なものとして意識されないからである。ただ一つの部品のようにされ全体の中で生きるという自覚がもたらされない。人間はいくら仕事してもそれは一部である。でも全体に通じているとき力がでてくるのである。仕事がしたくないというとき生きがいが見いだされないということが根本的な問題としてある。貧乏な時代は生きがいもなにもない、ただ食うために働かされるという時代であった。そういうとき働くことがどうのこうなどと考えない、働かねば飢死するという窮迫だけがあった。今は働かなくも食べて生ける、その数が何千万人にもなっていると思う。こういう時代はただ金のために働けといっても働かない、郷土史いうときもこれミクロコスモスの探求であり土着性の追求である。郷土史は別に特殊な好事家のものではない、すべての人にとって不可欠なものである。土地のことに通じなければ市町村長になることはできない、今回の津浪でもそうであった。いかに土地のことに通じる必要があったか思いしらされた。また何百年前のことも知っていなければならないか思い知らされたのである。


この辺ではともかく働くというとき働くこと自体を奪われた。それで昼間から酒飲んだりパチンコしたりと外からも批判される。それでも別に補償金をもらっていれば生活はできる。でも生きがいが喪失してしまいその存在自体が無用とされてしまう。だから働くとは何なのかということを当たり前のことが別に普通は考えない人も考えざるをえなくなったのだ。そしてその働く場としての土着の場としての故郷が喪失したとき人はすべてを失ったのではないか?補償金として一億円もらっても自分たちを活かす場が喪失した。「先人から学び、経験を蓄積し、次世代に伝える」その先人も経験の蓄積である歴史も失われた。次世代に伝えるものはその故郷という場すら喪失したのだからない。
ただ金だけをもらい故郷に蓄積されたアイディンティティをすべて奪われた。それが原発事故の悲劇だったのである。


 

posted by 老鶯 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題