2012年05月07日

古殿の越代の桜(古殿の歴史の道)


古殿の越代の桜(古殿の歴史の道)


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古殿の越代の桜今盛り山風そよぎ磐により見ゆ
http://blogs.yahoo.co.jp/yuuzen50/36954194.html


古殿の越代の桜その下に岩のいくつか動かざるかな


縁側に山桜見て下郷の戸赤の村や家も古りにき


縁側に山桜見て戸赤かなここに年ふり語る人あり
http://www.tohoku-sakurakaido.jp/lineup/fukushima/sakura16.html

 


古殿町は古くから太平洋岸と内陸部を結ぶ物流の中継地として栄えた。今に残る「荷市場」などの地名は当時の名残なのだろう。伝統行事の流鏑馬にも歴史がうかがえる。

古殿地方の新領主は岩城大和守隆宗であったという。彼は主家岩城氏没落後、上洛して家康にあい成瀬隼人正政成のとりなしで竹貫3000石を新たに賜り、しばらく伏見城在番の上、慶長9年改めて竹貫へ入部したという。
隆宗が慶長15年に死去すると、領地は没収され相馬家の家臣となったなお、竹貫氏からは大竹氏が出ており
http://yaminabe36.tuzigiri.com/fukusima%20nangoHP/takanuki.htm


標高500mの阿武隈山系のど真ん中古殿町竹貫は、中通りと浜通りをつなぐ御斎所街道の宿場町として発達した町でした。古殿町の中心部である竹貫は、中世竹貫氏の城下町でもあり、当時から宿場町として問屋が置かれ、市が立ちにぎわったと言われます。

「御斎所山熊野神社」の標柱が立っているので、迷うことなく出発点となる熊野神社の鳥居に着くことができた。
http://ftk-ac.net/01_hik/2009_hik/4302_gozaisyo/4302_gozaisyo.html

 


源頼朝から竹貫の領主に社領地が下り、時の竹貫領主はこれを記念して、領内兵士達による笠懸(かさがけ)と流鏑馬(やぶさめ)を盛んにして祭礼当日の神事としたと伝える。棚倉藩になっても祭礼当日は領主の代参は欠かさなかった。 鎌倉山とあるから明かにこれは鎌倉と関係していた。南相馬市鹿島区の岩松氏も鎌倉から来た武家である。鎌倉から東北に領地を与えられて移住した人々は多い。テレビで見たとき岩があることに注目した。田村市にある同名の山と区別するために、こちらは竹貫鎌倉岳とも呼ばれている。鎌倉とついてもすべてが鎌倉に由来するとは限らない。


インタ-ネットで見たら岩がほかにもある。その岩が実際に見ていないにしろ村の人が取り囲むようにまた座談しているようにも見えた。石も人間に見えるのである。いかにも山奥の村らしい。一回ここに阿武隈高原を通って自転車で行ったことがあった。ここも地理的にわかりにくかった。山だとわかりにくい。古殿の町に入る所に滝がありその流れで頭を冷やした。秋であったが暑くてそうなった。それから御斎所山街道というのは御斎所山熊野神社があり修験道の山でありここにお参りしたためについた。それにしてもここはくだっただけど相当にきつい坂が延々とつづいていた。この道を上り塩など運ぶのは容易でなかった。古殿町はその中継地点としてあった。いわきの海からここまで来ること自体容易ではない、今でもそうである。この道が会津に通じていたというのもまた遠い道のりである。あとで棚倉藩に組み入れられた。相馬藩の家臣になったというのも興味深い。相馬からそれほど遠いというものでもない、でも磐城氏や棚倉藩の狭間にあった。あの辺の地理が本当にわかりにくい、つくづく福島県は広すぎるのだ。わからない地点がいくらでもある。ここの越代の桜は確かにテレビでも写真でも見物である。桜にしても桜の咲く時期に見れるのは限られているからいくらでも見れない桜は日本ではある。ここは古殿とか越代とか地名がいかにも重厚な感じでいい。百伝う磐余の池・・・の地名ともにている。何か地名からも荘重な雰囲気がでてくる。これは確かに山桜であり見物である。

古殿や滝水に頭冷やすかな


古殿の秋こそあわれ荷市場と昔の人の通う道かな


古殿ゆ遠野をめぐりいわきへと海を望めば秋となるかな

古殿から遠野にでて磐城の海の方へ向かった。ここの道は遠かった。ただ記憶がうすれどういうふうに行ったかわからなくなった。
磐城そのものがここも広いからわかりにくいのである。

下郷の戸赤の桜は村の人が縁側から見ていた。山桜を縁側から見るのは贅沢である。あれだけ集まって咲いているからこれも見物である。あそこで縁側はまだ生きている。縁側自体なくなっている家が多くなった。なんかなつかしい風景にもなっている。実際に過疎の村であり若い人は桜の時期にもどってくるというのはわかる。ちょうど連休の五月ころ咲くからである。桜は他にいくらでもある。知られない桜もいくらでもある。その桜を短歌にした。福島県は実に広大である。会津は奥深くてその全容は知り得ようがないのだ。
 



インタ-ネットは郷土史関係では役立つ、一つの村でも町でも一ペ-ジでも書いてあればそれだけで全国になれば膨大な量となるのだ。本だと調べようがないのである。もう一つ効果的な利用方法はテレビで見たり本で読んだりしたことと連携することでてある。メデアミックスである。ただ今までのマスプデアはインタ-ネットを敵視ししている。自分たちの特権が奪われるからそうなっている。インタ-ネットは関連したものを探すのが得意でありそこから興味を拡大化できるのである。福島県だって古殿といってもわかりにくいのである。インタ-ネットは個人的にでも膨大な情報収集できてそれを福島県のインタ-ネット内の図書館のようにできるのだ。インタ-ネットは個人的にでもメデアをもつということが強みなのである。
メデアをもっていたのは新聞社とか出版社とかテレビ局でありこれは金がかかりすぎるから個人ではできなかった。インタ-ネットで個人放送局ができたことは大きい情報社会の変化なのである。
ただまだ十分に利用されていない。利用方法がわからないという面もある。プロ的な仕事をインタ-ネットでしているのも少ない、結局金にならないからしないのである。そこに一つの問題がある。

雷雨のあとの夏の月

 

雷雨のあとの夏の満月

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満月や雷鳴るあとに澄みにけり


夏の月早き流れに映え光る


夏の月光反射し流れかな


月明かり雷雨にぬれて若楓

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今日の天気は一日めまぐるしく変わった。最初は海の方から霧がでていた。それも晴れたと思ったら山の方から雷がなった。稲光りも激しく瞬間的に停電した。つくば市では竜巻であり死んだ人もいた。家も破壊された。落雷で死んだ人もいた。何か津浪とか自然が変化しやすい、津浪の前は猛暑があった。一身上でも身内が認知症になってからろくなことがなかった。災いの連続だった。どうしてこんなに災いがつづくのかと疑問に思っていたら津浪が来たのだ。犯罪にあったしそれでかなり相手をのろっていた、そしたらあの津浪がきたのである。自分の家の中が姉が死んでからめちゃめちゃになったのである。それは信じられないことの連続だった。最後に津浪がてき原発事故になった。

この雷にも外に出て追われた。でもそのあとは晴れ渡りきれいな満月が出ていた。それで外に見に行った。今日の満月は大きく見えるとかネットで自分のサイトにくる人がいた。こういうとき同時につながっているから検索すると同時間を共有できるのがネットである。
本当にこの雷のあとに澄んだ夏の満月が輝いていた。水がまして流の早い川の面にその月が写っていた。光を反射していた。それから家の若楓も雷雨にぬれて瑞々しく月の光に照らされていた。

この一連の自然の変化は激しかった。その時リアルタイムでアップすれば臨場感がでる。
この同時間を共有するのがネットの醍醐味なのである。今も全国で同じ満月を見ている。ただ場所が違っているから違うように見えるのである。春から夏はやはり生命が一番輝くときである。