2012年05月04日

夏の月 (草原化、湿地帯化し北海道になった)


夏の月

(草原化、湿地帯化し北海道になった)


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雨ぬれて草の潤う夏の月


点々と湿地に写る夏の月


ふっくらと姉の顔かな夏の月


夕蛙鳴くや雲間に月のぞく


夕蛙盛んに鳴きめ湿地かな

草原化したというときこれは北海道の景色なのである。緑の草原であり今回のように雨が降ると湿地帯になりそこに丸い月がゆらゆらと写っていた。明かに春より夏の月だった。水田に写る月と湿地帯に写る月は違っている。田んぼになる前はみんなこんなふうだったのである。湿地帯であり草原だった。今年は盛んに蛙も鳴いている。蛙も水田より湿地帯が気持ちいいかもしれない、放射能の影響はないだろう。人間のような複雑な生物は影響しやすいが単純な生物だと影響しないという。もし蛙の声も聞こえなくなったら異常である。蛙は盛んに鳴いている。


夏の月というと姉の顔を思い出す、ふっくらとしていていつも陽気で笑っていたからである。あういう陽性の性格だった。自分は陰性だから陽性なものやおおらかなものとか何か気宇が大きい人とかに憧れる。弱いから強い人にも憧れてきた。人間はないものを満たそうとする働きがある。それは性格でもそうである。すべてをもっている人はいないのである。そしてどんな人でもいいものをもっている。学があるとか関係なくそうである。何ももっていない人はいないのである。体力がある人もうらやましいと思ったが知性がないとか一方は体力が欲しいと思い一方は知性が欲しいと思うのである。体力があって知性がある人は天才しかいない、ただ人間の不思議は自分にないものを他者から補うことができるということである。男性にないものを女性がもっていて補いあうし才能でもそうである。あらゆる才能をもっている人はいない。だから人間社会は互いに補いあうことによって成り立っている。


遅すぎた面はあるが最近前に読んだ本を深く自分なりに理解できるようになった。本もむずかしいといくら読んでもわからない、若いときは特にわからない、でも今になるとこの人はこういうことを言っていたのかと納得するしその人の書いたものを自分なりに応用できる。もうただ読んでいるだけではない自分なりに応用できるとき本当に読書しているのである。そして人間は天からか神からか霊感があたえられる。才能にかかわらず神が関与して与えるものがある。それは自分のもっている才能ではない、神が覚らせるということがあるのだ。それで最近そうした詩をずいぶん一気に書いた。その詩はまだプログには出していない。洞察力とか理解力、鑑賞力が年をとると増してくる。それは特別優れた人だからというのではない、普通の人もそうなる場合があるのだ。透徹した見抜く力をもつようになる。そうしたものは若いときは中年でももちにくいが最後にそういう洞察力をもつことができるようになる。ただその時はすでに死が近いとなる。死の間際になれば人間は何か大事だったのか本当に価値あるものだったがどんな人でも悟るのである。しかしすでに時遅しとなっているのだ。

春から夏へ-俳句


春から夏へ-俳句



雨しとといつもの道や余花に暮る


雨にぬれ夕風きりて雲雀鳴く


道の駅遠くより来る若葉かな


葉桜の青々として雨にぬる


雨ふりて蛙の鳴くや湿地かな


ゆうたりと鯉の動かずアメンボウ


月光り晩年あわれ雲雀鳴く

夏になった。葉桜などが雨にぬれて青々として気持ちがいい。原町の道の駅によると連休で遠くから車が来ている。六号線からは来れないからここにくる人は特別興味あるから用事ある人かもしれない、ただ未だに除染とか工事関係の人の出入りが多いのがこの辺である。
自転車で走っているときが一番気持ちいい、雨とか風には弱いけど風を切って走ることは気持ちいいのである。これは車で味わえない、車は自然を遮断してしまう。でも車にのる人は車にのったときだけ主人公になれる。車で飛ばすときただ使われる労働ではなく自分が主人になれる。だから用事でのる人よりそういう爽快感を得るために乗っている。これは車をもっていない人にはわからない心境である。車にのっているときだけ自由を感じるというのはありえる。だから暴走族とかもそういう感覚で飛ばすのである。それだけ現代社会は自分が主人になれるということがなさすぎるのかもしれない、何かに絶えず追われ使役される。労働に満足がないからそうなる。
池に鯉が動かない、ゆったりとして動かない、それを見ていただけでゆったりする。まず今の人間を見てゆったりすることなどありえない、めまぐるしく人も変わってゆく、みんな余裕がない、この辺は特にそうなった。ただ昼間から酒飲んでいるとか暇になった人がふえた。それはゆったりしているともいえない。ゆったりとして動かないものがいて子供のようにアメンボウのように波紋を作り遊ぶものがいる。前はこうしてゆったりとした時間があったが今はない、自分も絶えず食事の用意とかに追われている。三食用意するのは自分一人だけでも大変なのである。

月が光りなおも雲雀が野に鳴いていた。田んぼはないから原野化して野に鳴いているのも不思議である。明かに雲雀や燕でも草原のような所があっていた。水田は実は人工的な文明の一つだったのである。もともと湿地帯とか原野が自然の状態だったのである。北海道ではエゾシカが原野を駆けていた。何かわからないこの辺で原野化して野生化した大型の犬なのだろうか、一瞬幻のように疾走して消えた。20キロ圏内は警戒区域になっていた。その時野生化した牛や犬や猫がいた。その一部が境界を越えて来たのかもしれない、犬のようにも見えなかった、何かの野生のものなのだろうか?
警戒区域内は人が住まず野生化してゆく、チェルノブエリでも狼とかヘラジカとかが入ってきた。
人が住んでいないところは野生の動物が住むのには適しているからそうなるのだ。