2012年05月01日

タンポポの詩 (水田がタンポポの原野に変わる)


タンポポの詩

水田がタンポポの原野に変わる


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写真ではタンポポとれていなけど実際はタンポポが遠くまで咲いている。
アップしないと写っていなかった。


水田がタンポポの原野に変わった
青々と草がなびき燕飛びかう
タンポポのまばゆい輝き
燕はその黄金の輝きの中を飛びかう
ここは北海道になった
湿っぽい水田は乾いた原野になる
光が一段と明るくタンポポがどこまでもまばゆい
その果ては海につづき海も光っている
雲雀の声がタンポポの明るさの中にひびきあう
人がふえ店がふえ活気が出た町の不思議
ここが放射能の汚染で汚れ沈んだ街なの?
水田がなくなり明るくなった原野
自然がこれほど変わることはありえない
水田は第二の自然でありそれがなくなるとは・・・
もしかしたらここにかえって新しいものが生まれるのかもしれない
新しい街が生まれるのかもしれない
タンポポはどこまでも明るい
悲観ばかりしていてもしょうがないのか
津浪の被害のあとにまた自然が励ましているのか
タンポポの明るさはどこまでもつづく
子供がかがみその顔にタンポポが一段と眩しい
こういう原野だと車が走っているのも気持ちがいい
電車は二両の行き来で淋しい
ス-パ-ヒタチは風光る中をいつ走るのか
今日は原野に荒々しく風がうなり吹いている
燕はその風を切って盛んに飛んでいる
燕は放射能ことも何も知らない
かえって気持ちよく飛んでいる

水田だと湿っぽい感じになるが原野だと北海道のように乾いて明るい感じになっている。タンポポがどこまでもまぶしい、青々と草がなびき草原化して風もきもちがいい、すでに揚羽が飛んでいる。
北海道に行かなくても北海道の景色を見れる不思議がある。この変の変わりようは自然まで変わったということである。自然が変わるなど水田がなくなるなど想像すらできなかった。農家の人にとってはショックである。でも風景だけを見れば別なものを見る。それはまさに北海道化したのである。
日本では水田があるから湿っぽい感覚になっていた。水田がなくなり乾燥した原野が戻ると明るい感じになるのだ。これは精神的にもかなり影響する。北海道の人は比較的おおらかで因習にとらわれず明るい性格が作られるのかもしれない、どさんことか何かそうした性格が作られてきた。
それは牧場的風土であり水田ではない風土が影響してそうなっていたのだ。


自然が変わったということはその自然に則した村や街作りが要求されているのかもしれない、確かに食糧を生産するにも放射能汚染でできない、でも花栽培などは放射能とは関係ないからできる。現実にいろいろな花をハウスで栽培している人は影響されていないのである。そして風景的に見たとき水田もいいにしても一面がタンポポや花野になっている風景が北海道であり気持ちいいともなる。
ここには放射能汚染されるから来たくないというのもわかるが花は影響されていないのだ。緑の草も青々として同じである。自然は見た目には汚されていない、同じなのである。まだ美は損なわれていない不思議がある。自分のようなものは食べるものより美が損なわれるとそこには住みたくない、
都会はすでに美が損なわれている。自然の美が消失しているのだ。ここは確かに放射能に汚染されているが美は同じようにある。多少放射能の影響を受けてもこれなら別に住んでもいいのではないかとなる。草や木が枯れ花が咲かなくなったりしたらもう住めない、そこは本当に
地獄と化してしまう。

ともかくチェルノブエリでも狼がへら鹿とか野生の動物が戻ってきたり原初の森に還ってしまったという不思議がある。飯館村などは元の原初の森に還ってしまうのか?それがなんとも不思議なのである。地球の自然はあまりにもどこでも大きく損なわれてしまった。だから自然の復活が必要である。森とかが原野でも再生できたらそれはかえって気持ちいいものとなる。ただ生活的には経済的には問題があるにしろこの辺の状態がすべて悪い変化ととらえるのも間違っているみたいだ。そもそもこの辺では放射能の影響がどれほどあるのか?本当に子供も住めないのか?東京などにいるよりタンポポがどこまでも咲いているここの方がまだいいとなる。タンポポが終われば今度は一面のひまわりの畑になるし他にも花を咲かしたら気持ちいいとなる。