2012年05月09日

忘れな草(栄える家と栄えない家はなぜ?)


忘れな草(栄える家と栄えない家はなぜ?)


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春の陽光をあびて開いた花



虫一つささやき去りぬ二輪草


争いの我が家にやんで二輪草


とりどりの花を我が買いぬ春の日に

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春の日や忘れな草に霞草


沈丁花匂いの濃くも流れけり蜂数匹の庭にとどまる


忘れな草今年もここに忘れずに咲きしやそえて桜草の咲く


忘れな草忘れず咲きて苧環もここに咲きにつ静まりけるかも


七輪の牡丹や二輪増え咲きて我が家の栄受け継ぐべしかな

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虫一つが二輪草にささやくようして束の間飛んで去っていった。蜂が何匹かやってきた。沈丁花の匂いが流れていた。次に忘れな草が咲き桜草を植えた。赤い霞草をめずらしいから買った。その後牡丹が咲いた。今まで一番多くて五輪しか咲かなかった。七輪も咲いたということは今までにない、なんか縁起がいいのかとも思った。姉が死んで牡丹が一段と鮮やかに咲いている。次に忘れな草を笠のようにおおい苧環の花がひっそりと咲いた。スノ-フレイクもうなだれるように小さな袋を垂れて咲く。この庭は土が悪いからなかなか花を植えて枯れるのが多い。でも今年も忘れな草は咲き苧環の花は咲いた。忘れな草は名前がいいのだ。名前は意外と体は名を現すとか影響するのだ。名前からイメ-ジすることがある。地名はだから意外と影響する。百伝つ磐余の池・・・これは地名が荘厳なものをイメ-ジさせている。古殿の越代(こしだい)の桜今盛り・・・と自分が短歌にしたときこの地名は重厚であり荘重な歌になったと思った。地名が縁起悪いとして好字に変えたりしたのはそのためである。

家にはそれぞれ事情がある歴史がある。それが外から見てわかりにくい、自分の家のことを知る人はいない、あまりにも複雑だった。
姉が父親のような役割を果たして家を支えたから姉が主役の家だったともなる。だから死んだあとでも牡丹が姉のように咲いている。死んでもやはり人間はあとあとまで影響する。放蕩して家をつぶす人もいる。そうなるとその人のことは家族でも良く思わない、その人自体を偲ぶということもないかもしれない、いつまでも家で偲ばれる人はその家にとって大きな役割を果たした人だとなる。

これは郷土の歴史でも国の歴史でもそうである。あとあとまで偲ばれる人は大きな役割を果たし人だとなる。しかしその後家が栄えるかどうかは栄えた家でも跡継ぎ悪いと衰退してしまう。それで大阪辺りの大きな商家では跡継ぎを実の子ではなく養子にしていることがかなりある。それは家をつぶさないためなのである。これも家を栄えさせるための知恵だった。ただどうして栄える家と栄えない家があるのか、不運な家というのはある。その原因は一様ではない、なぜ障害児とかが生まれかかえる家は大変な不運を一生背負うから気の毒である。そうした不運な家ではカルト宗教団体に入りやすい。だからといって良くはならない。かえって悪くなる場合が多い、なぜか一票を得るためにその団体の勢力拡大のために利用されるだけだからだ。そもそもきそういう団体の目的全く同情なんかしていないのである。勢力拡大の道具にされるだけなのである。ただそういう人は何でも悪魔でもいいから相手にされるからいいとなる。その他ふしだらいいかげんで怠け者でもなんでもそういうカルト団体では受け入れる。その人自身の責任は問わないのである。団体でも一票になればいいのだから誰でもいいのである。だからたいがい入っても何ら改善しないのである。


いづれにしろ家には人には栄枯盛衰はつきものである。いつまでも栄える家や人もいないし国もないのである。その家が栄える国が栄えるというとき何か原因があることも確かである。ただ数学のように一般化はできない、でもある本では家系を数多くみていたら嫁がその家に嫁いできてその家に満足しないような家は衰退するというのは本当だろう。財産でも嫁がしっかりしないと残らないだろう。財産とかは離婚したような人は残りにくい、夫婦共同で協力して働いていれば財産も残りやすい。それだけではない、協力しない家は争いばかりある家はなかなか財産は残りにくいだろう。これはすべてにはあてはまらないけど一般的にはそうである。三人に一人が離婚している時代である。それが老後になるとき淋しい悲惨なものになる。離婚したあとのことをよくよく考えないからそうなる。人のことは言えないけど離婚した人はやはり何か問題があり金は残らない、淋しい老後になってしまう。つくづく嫁は女に家であり家と一体化するのが女性だった。男性は外で仕事と一体化するが女性はもともと家と一体化して存在したのである。


家の不思議ははんばボケて寝ているだけでも家にいると病院にいるのとは違っている。これは不思議である。病院ではただ一方的に世話される介護される人でありある意味でやっかいな人となる。
家にいると家にいるだけでその人は家と共に価値あるものとなる。家と一体化して存在意義をもつのである。だから家でしにたいというとき人間は病院ではただ個としてもう必要のないものとしてもう手をかけるものがやっかいなものとしてかたづけられる。死体でもすぐに邪魔だからかたづけてくださいとなる。次がひかえてますからとかなる。一つのモノのように扱われる。家にいると寝ているだけでも家と共に価値をもつ。すでに60年とかいるのだからその時間と共に家が価値をもっているのだ。農家だったりしたら土地と一体化しているからさらに別な価値をもっている。土地は深くかかわっていて家自体が土地と一体化しているのだ。だから家から離れてアパ=トとか仮設住宅に住んでるとそういう存在価値から切り離される。嫁はまさに女に家であり女性は特に家と一体化したものとなっているのだ。だから女性にとって家に存在意義を見いだしているから家から離れると存在価値を見いだせなくなる。とにかく何もせずはんばぼけていても家にいるだけで価値を帯びていることに気づいた。病院だったらただ世話されるだけのやっかいなものなのである。ただ世話するのも大変だから施設にあづける人がふえたのである。

広い畑と塔がある仮設住宅 (新しい街作りが望まれている)


広い畑と塔がある仮設住宅

(新しい街作りが望まれている)

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グル-プホ-ム

鹿島の中学校のすぐ近くの仮設住宅の横の畑は広い、一面に花が咲いていたから気持ちいい。
野菜も栽培しているしハウスもある。あれだけの用地が確保できるところはそれほどないだろう。
あそこはもともと空き地のようになっていたから使いやすかったのである。
他では用地確保に困っている。三陸の方ではそもそも平地がないからこれだけの用地を確保することはむずかしい。農家の人だけでなく野菜作りとか楽しんでいる。小さい畑だとできる。
仮設は庭がないから癒しがない。ただあそこは脇に水無し川でも雨が降って流れているし
環境はいいところでてある。田舎はそれなりに環境はいい。


同じ地域の仮設住宅に塔を建てた。万葉の塔と名づけられた。これもアイディアだったのか、曲線にしたところが建築的に優れているのだろう。色もつけたところがいい。
南相馬市として合併したから小高-原町-鹿島の統一的シンボルにもなる。
鹿島区では万葉がシンボルになったけど南相馬市が合併して全体のシンボルになるようなものは作っていない。仮設がなくなっても南相馬市に合併のシンボルとしての塔を建てるのにいい。
それは建てるにしても中心地の原町区に建てることになる。

南相馬市といって合併して日が浅いからまだなじんでいないのだ。

ただ国見山から南相馬市がきっちり視界に入るからまさに南相馬市は地理的一体感があった。
国見山は原町市だけではない、南相馬市の国見山だったのである。
相馬市までは国見山か視界にはいりにくい、南相馬市はぴったり視界に入る。


新地はここも鹿狼山があり海が近く平地が少ない、地形的に相馬市とは違っているから地形的に別になっている。手長明神の伝説があり貝塚があり貝をとって暮らしていたと巨人伝説がある。
鹿狼山は海に近い、その山の麓から海が近くに見える。その海岸の釣師浜が津浪で壊滅した。
もともとあそこも海が深く入り込んでいた。貝塚のある所辺りまではいりこんでいた。その湾のようなところで貝をとって縄文人が暮らしていたのである。

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新緑や海の青さに新地かな


こういう俳句もできる。海の青さが山に映える。国見山は海の青さは見えないのである。
南相馬市でも相馬市でも新地でも飯館村でも地形の相違があり結果的に合併したのは南相馬市だった。地形は地理はあらゆる所に影響する。旅ばかりしていたからこの地形に地理に一番興味を持ったのである。近くでもこの地理がわからないと郷土のこともわかりにくいのである。


浜通りは海があるということが最大の魅力だった。中通りと会津には海がない、これが最大の相違だったのである。その海側が津浪で甚大な被害にあったのだ。海があるとないでは魚がとれるとれないというより精神的に影響が大きいのである。万葉集は奈良を中心としているから山によってたつ思想になる。これは会津などではそうなる。ただ阿武隈高原があるから山がここにもあるが高い山はない。万葉集は日本が海に囲まれていても山によってたつものが万葉集だった。山を神として祭ったことでもわかる。ただ天の香具山などは余りにも低い山だった。それが国見山になった。飛鳥にしてもあまりにも小さい国だったとなる。

ともかくこの辺の変わりようははげしい。この際外部の力を利用して新たな街作りを考えるのもいい。
相馬市では長屋風共同住宅をアメリカの会社の援助で建てた。
あれはいいものだと思った。
海岸地域はすでに人が住めないようになっているから何か新しいものが必要になったのである。
それが今の内なら援助があるからできる。
だんだん援助が途絶えるとできなくなる。
小高で帰れないとか言う人もでている。
高齢者でそう言う人がいる。
となると相馬市のような長屋風共同住宅を計画するのもいいかもしれない
除染するよりこういうほうに使った方がいい。
グル-プホ-ムも仮設住宅内に作っていた。
新しい街作りが強いられているし逆にそれができるチャンスでもある

 
 
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2012年05月10日

土着なくして職業も学問も芸術も報道もない (故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)


土着なくして職業も学問も芸術も報道もない

(故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)

●土着の思想
土民生活に於ては一切の産業が土着するが故に農工業や交換業が或は分業的に或は交替的に行はれて鞏固な有機生活が実現される。

鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ

土民思想に於ては、職業によつて軽重を樹てない。たゞ総ての職業が土着することを理想とする。自治は土着によつてのみ行はれる。然るに他の諸々の職業人と有機的に連帯しない農民のみの土着は不可能だ。その土着生活は必ず他の職業に依頼せねばならないので、再び動揺を起さねばなるまい。総ての職業が土着するには、金融相場師がなくなるを要する。総ての職業が土着すれば、そこに信用が確立し、投機が行はれなくなる


底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社
http://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/46455_25648.html


土着性とは何かというときこれも奥深い問題である。土着というときそもそも人間は土着しなければ生きていけないということからはじまっている。縄文時代はその土地に動物のように土着して生きていた。回りにあるものだけを食べて生きていた。どんぐりまで食べていたとすると猿とさほど変わらないものであった。それしか生きる道がないし神は動物でも人でもそこに生きる糧を与えていたのでありそれで生きていた。弥生時代になり稲作がはじまっていても基本的には土着なくして生きてはいけない、農民的土着的生き方が江戸時代までの生活だった。今日のように高度に文明化したとき、改めて土着性が問題になった。それはとりもなおさず人間は土着的なものから余りにも離れてしまったからである。当たり前のように土着的に生きていたものが土着的でなくなった。東京辺りだと土すら見ることがない、そこでは土着という言葉さえ通じなくなってしまう。土から離れて生きる人が何千万人と今ではいる。江戸は百万都市でも回りは農家であり農家の人が町中まで深くかかわって暮らしていた。だから江戸に住んでいてもやはり土着的な所があった。

土着的というとき人間も自然の中に生きるのだから当然土着なくしてありえない、誤解しているのはあらゆる職業が土着的なものとしてあるべきなのが自然なのである。土着的であってこそ生の充実と生きがいが見いだされる。土着的とは全体的と同じである。職業には土着性が必要なのである。

勤務医は土着性がなく転勤しやすいとかいうときやはりそこに何か職業として欠落してくるものがある。開業医は土着性がある。何代も医者をやっていたりしたら農家と同じくなる。この辺で看護師が不足して他の県から派遣されて働いている人がいた。でもその人は期限付きだから困るという。ずっとここで生活して働いてもらわないと困ると言っていた。それもまさに看護師も土着的でいなと勤まらない職業だということになる。何代もつづくということは土着性があることになる。職人でも十何代もつづいているのが江戸時代であった。職人も大工でも地元の材料を利用して家を建てていたらより土着的になる。庭作りは地元の石や植物とかに精通していないと作れないとかなると極めて土着的である。庭は故郷の自然と直結していたのである。庭作りは農耕ともにていた。花作りは野菜を栽培するとたいして変わりないのである。


芸術もこれも土着なくしてはありえない、cultivate(耕す)がcultureになったことでわかる。その土地に根ざしてできるのがア-トである。山や海や大地や川がなくてどうして芸術がありうるのかとなる。都会には芸術家は生まれない、天才も生まれないという、それはそういう基盤が故郷をもたないからである。その人が大地から自然から遊離していたら芸術が生まれ得ようがない。芸術の霊感の源は自然だからである。その自然のないところで芸術が生まれようがない。音楽だってベ-トベンの音楽がドイツの森や大地から生まれたというときまさにそのことを物語っているのだ。ベ-トベンの音楽を理解するのにはドイツの大地に立たないと理解できない。すべての文化の根源には土着性がある。それぞれの国そのものが土着して生まれた。大和(ヤマト)自体が奈良の一地域の名前だった。一村が日本という国になったのである。奈良が国のはじまりだというときまさに奈良という山と大地に土着したものが日本の国となった。封建時代はそれぞれの藩が国でありそれも極めて土着的でありそれぞれが一つのミクロコスモスとなって生活していた。そこでの職業もすべて土着的なのである。

●地人論の思想

政治家でも銀行家でも実際は土着的である。地域に通じなければそもそも政治家になれないし融資するにしても地域の経済に通じなければできないから土着的になる。報道というものも実際はこれも土着的なものなくてしてありえない職業である。今回の津浪や原発事故でそのことがみんな理解した。そもそも情報が東電や巨大なマスメデアによって支配されていたことが事故につながっていたのである。マスメデアは報道すること自体莫大な金があるから宣伝費をもらって成立している。だから東電では莫大な金をマスコミに流していた。そして情報は統制されて安全神話が作られていた。福島県の地元のマスコミ、新聞雑誌も同じだった。土着的に独立している報道機関ではない、他の巨大な財力、権力あるものの一機関なのである。カルト教団から金をもらっていたりとか報道するのに莫大な金がかかるところは巨大な権力に頼らざるをえないから地元民に密着した土着的な報道となりにくいのである。あらゆるものは土着的なものの追求なのである。土着的なものから離れたとき今回のような原発事故も起きてくる。公害事故も起きてくる。災害にも対処できないとかいろいろな問題が起きてくる。東電は土着的ではない、それ故土地の歴史を津浪を考慮しなかった。東北電力は地元であり土地の歴史を重んじて高台に原発を作り辛うじて津浪の被害をまねがれたことでもわかる。


地を離るれば人なし、人を離るれば事なし、故に事を成さんと欲する者は
まさに地理を究むべし 吉田松蔭


われわれは、各地に生まれてから昇天するまで、各地に固有の地の理
を究め、産業や経済を起し、政治や行政を行い、子や人を育て、美や文
を追求し、自然や神に祈る。
「仕事を起こし、地域を創り、人を育て、文化を高める」‘営み’によっ
て、先人から学び、経験を蓄積し、次世代に伝える。内村鑑三(地人論)


ユダヤ人が土地をもてない、国をもてないから金融業に頼ったというのはわかる。そこから世界は金だけの世界になったと批判するのもわかる。マルクスの人間疎外が貨幣が神のようになったということもわかる。現実的に今は人間をどうみているかはいうと物-金(人間)-物・・物を交換する媒体として金がありそれが人間なのである。普通に人間を金としてみてしまっている。この人がいくらの金がもたらされるのだとしか考えない、それは親族の間でさえそうなっている。それが普通の状態になっているのだ。それほど貨幣の力が大きくなりすぎた。それをいろいろ批判しても現実がそうなっている。だから否定できない力として貨幣社会がある。江戸時代まではそういう貨幣万能の社会は生まれていない。貨幣はやはり土着的なものから人を切り離すことにも大きな力を発揮したのである。今はただ金のために働く生きるというときそこで労働の本質が見失われたのである。


●働くことなくして人間の存在価値はない


農民は土を耕し種をまき作物を育てるとき力が湧く
その実りを自らの手にするとき力が湧きあがる
大工は工夫して家を建て完成したとき
自らの力を自覚して力がわき上がり喜びがある
土木業者は道を作り土台を作り力が湧く
医者や看護師も患者の病を直し助けて力が湧く
手伝いさんも自ら料理して掃除して家事をして力が湧く
料理人はうまいものを食べさせたとき力が湧く
教師はうまく生徒をに教えられたとき力が湧く
旅人は困難な旅をしているとき力が湧く
画家はいい絵を描き力が湧く
詩人はいい詩を書けたとき力が湧く
何もしなければ例え金をもらって生活はできても
何の力もわき上がらない
金のために働く前に働くことはその人が活かされること
その人の能力が活かされることにあり

労働とは本質的には金のため消費のためではない、生きがいのためでありまた各自の能力が活かされることである。その能力は別に特別の人がもっているものではない、あらゆる人が能力をもっている。例をひいた土民思想はそれを示している。なぜ今働くことが拒否されるのか?それは土着的なものとして意識されないからである。ただ一つの部品のようにされ全体の中で生きるという自覚がもたらされない。人間はいくら仕事してもそれは一部である。でも全体に通じているとき力がでてくるのである。仕事がしたくないというとき生きがいが見いだされないということが根本的な問題としてある。貧乏な時代は生きがいもなにもない、ただ食うために働かされるという時代であった。そういうとき働くことがどうのこうなどと考えない、働かねば飢死するという窮迫だけがあった。今は働かなくも食べて生ける、その数が何千万人にもなっていると思う。こういう時代はただ金のために働けといっても働かない、郷土史いうときもこれミクロコスモスの探求であり土着性の追求である。郷土史は別に特殊な好事家のものではない、すべての人にとって不可欠なものである。土地のことに通じなければ市町村長になることはできない、今回の津浪でもそうであった。いかに土地のことに通じる必要があったか思いしらされた。また何百年前のことも知っていなければならないか思い知らされたのである。


この辺ではともかく働くというとき働くこと自体を奪われた。それで昼間から酒飲んだりパチンコしたりと外からも批判される。それでも別に補償金をもらっていれば生活はできる。でも生きがいが喪失してしまいその存在自体が無用とされてしまう。だから働くとは何なのかということを当たり前のことが別に普通は考えない人も考えざるをえなくなったのだ。そしてその働く場としての土着の場としての故郷が喪失したとき人はすべてを失ったのではないか?補償金として一億円もらっても自分たちを活かす場が喪失した。「先人から学び、経験を蓄積し、次世代に伝える」その先人も経験の蓄積である歴史も失われた。次世代に伝えるものはその故郷という場すら喪失したのだからない。
ただ金だけをもらい故郷に蓄積されたアイディンティティをすべて奪われた。それが原発事故の悲劇だったのである。


 

posted by 老鶯 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2012年05月11日

山尾三省の詩を読む (原発事故で見直されたその生活)


山尾三省の詩を読む

(原発事故で見直されたその生活)



びろう葉帽子の下で

チェルノブエリの灰降り
百の怒りが
わたしのうちにないわけではない
チェルノブエリの灰降り
また百の悲しみが ないわけではない
それらに 身と心をゆだねないために
またじゃがいも自身を掘るために


つわぶきの煮つけ


野にはつわぶきの新芽がのびる
うす皮をむき
シイタケや油揚げで一緒に煮る
お皿にもりつけてやっと春になった
にこにこしながら食べる
こんなおいしいものはない
これは地のものたちの文化であり
核兵器を作る人たちや
原子力発電所を作る人たちへの捧げものではないと


秋のはじめ(2)


田舎がある
田舎の真理がある

田舎の苦しさがあり、田舎の真理がある


島の真理がある
島の苦しさがあり、島の真理がある



最近集めたいろいろな本を読み返している。本を集めただけのが多かったが今なって理解できる。理解したことを即座にプログに書く、書くということで朦朧としたものが明確な輪郭を帯びてくる。
それも自由に書ける、いくらでも書けるということがいいのである。本にしようとしたらまず何も書けない、そもそもが本にしたって一年くらいかかったりその労力も金もけたはずれだから素人では本を作り出すことはできない、書店にも置けない本では一般の人とっては何かを発表することはできなかった。だから大きな出版社により情報は操作される結果になった。書店はその支店にすぎないのである。書くために自由にいくらでも書けるということを前提にしていないと十分に発表できないのである。


山尾三省という人は62才で死んでいる。妻もその前に死んでいる。ええ、早く死んだなと思った。今の時代60代は早死になる。思うに労働が過酷だから早死にしたのかもしれない、島の農業で貧しい暮らしとなると栄養もそれほどとれない、インテリだと自分もそうだが体力がないから体にひびくのである。妻も東京から島で農業したということは楽ではない、それほどまでして島に棲むのは自分たちの思想の実践として農業をしたのである。ただ農業をしている人はいくらでもありそれをいちいち俺は特別なことをしているのだとしない、ただなぜこの人に注目したのかというとこの辺で起きた原発事故で注目した。核だけではない原子力にも反対していたのである。その抵抗としてジャガイモをただ掘るとか農業を実践していた。左翼ともかかわる人だけどそれとも違ったものがあった。不思議なのは原水協が核兵器に反対しても原子力発電には賛成していたのである。推進派だったのである。
というのは原水協にしてもそこには電事連の組合の人が参加していたからそうなった。電事連は大きな力をもっている。そういう労働者でも宗教団体でもどこでもはいりこんでくる。だから巨大な団体になればなるほど反対できない構造ができあがっている。今回の原発事故でも安全神話そうして作られたのである。何かの団体に属しているとその意向に従うようになるから逆らえなくなる。
今はどこかの会社にみんな属しているのだから会社の意向に従うようになるから結果的に安全神話は作られたのである。官吏もすべてまきこんで作られたから強固なものだった。戦争のときと同じように逆らえないものとして作られたのである。


核兵器も原子力発電も根っこでは同じだった。ただ最初の内はその認識が甘かった。原発がどういうものかわからなかった。最初の導入のとき慎重さをかいた。地震がこれだけある災害国に原発を造るのはどうかとか議論も検討も良くしなかった。金になるし科学の発展、経済の拡大としてすべてが容認される時代である。ただ盲点は日本の風土を考慮しなかったことなのだ。地震、津浪がどれほど怖いものか知っている。その責任はやはり科学者にもあった。核の恐ろしさを知っているのだからもっと慎重にするべきだった。

そしてチェルノブエリ事故が起きたとき原発を根本的に見直す作業が必要だったのである。チェルノブエリに対する怒りがここで言っているのもわかる。詩にも原発に抵抗する反対することがかなり書いてある。原子力の危険性を指摘して自ら貧しい農夫になった。それは一つのアンチテ-ゼを実行したのである。原発事故が起きた10キロ圏内で避難した人が家族がばらばらになりこれならロウソクで暮らした方がいいと言っていたのがわかる。人間は追い詰められるとそういう極端な思想になる。逆にそうでいなときはそういう思想は生まれない。逆に高度成長からバブル時代と農業は減反政策となり農業をしたいという人は激減した。農業では生活にならないという不満が毎日のように農民から語られた。もちろん専業農家ではない、その中に兼業農家でいい暮らしをしている人がいたし今も兼業農家が多い。農地だけをもっていて補助金がもらえるとかそういう人も多い。今回事故の起きた双葉であれ大熊であれちょうど相馬市地帯とか磐城から離れた江戸時代の境にあった。その辺は出稼ぎで貧しいとか農業だけではやっていけないということで原発を積極的に導入したのである。原発は金のなる木だったのである。


逆説的なのは山尾三省のようにあえてこの時代に島で農業をするような人は変人になっている。そんな苦労してどうなるんだ、何が目的なんだ、インテリがなぜそんなことするんだ、そういう批判もされる。農業を誰もしたくない時代だからである。でも逆性的なんだけど今になるとそういう生活は今までは農家にとって当たり前だった。しかし農家にとってそういう貧乏な生活から逃れようとして原発を導入した。そしてあの辺りは豊になった。もっている車もいい車だとか避難先でうらやましがられたしまだ補償金がもらえるとか言われた。農家にとって当たり前の生活が今になるとそれを実践することは変人になっていたのである。

この生活は極端にしても人間の欲望は戦後限りなく拡大した。マイホ-ムが欲しいから電気製品が欲しいから車が欲しいからあらゆるものが欲しい欲しいという時代だった。近くの人でも腕がいい大工なのに収入もそれなりにあったのにブラックな仕事をして金を得ようとしていたり一人は貧乏でも遂に犯罪者になった。また他の人は見栄で借金して困っているとかそういう無理な欲望の追求があった。一方でこうした貧しい農民へ還ってゆくというのも逆説だった。回りから認めがたいものとなる。でもそういう生活が見直されたのは故郷にも棲めなくなったことでそうした貧乏でも故郷に住めるなら満足だと思う人も今でているかもしれない。一方であきらめて補償金をもらい他で再出発する人もでてくる。ただ老人はなじんだ場所にすみつづけたいし人生の総決算の場所になっている。田から他に移りにくいのである。


びろう葉帽子の下で(14)


びろう葉帽子の下で
山に還る
その山がたとえチェルノブエリの灰で汚染されているとしても
わたしはほかに還る所がないのだから
山に還る
びろう葉帽子の下で
死期を迎えた動物のように
山に還る


びろう葉帽子は素朴なものの象徴である。虚飾や見栄の世界ではない、それを恥じずにかぶっていた。ただ別に農民はみんなそうだった。それをあえて誇りにもしていない、当たり前だったのである。それでも人間は故郷でなくても長く住んでいるとその土地の自然と一体化してくる。そしてその土地土地には他からはわからないものがある。長く住んでいないとわからないものがある。気づかれないものがある。あの隠された石はそうでありあれは他の人は気づかない、地元の人すら気づかない注目していない。ただそれが聖なる石に見えてきたのは最近のことである。人間は最期にどんな愚かな人でも見えてくるものがあることは間違いない、終わりにあらゆる真実が見えて明かにされる。


その人がどういう人だったのか、人生であった人がどういう人だったのか、それぞれしてきたことの意味が自ずと明かにされる。結婚でも金持ちの人と結婚して楽したいとか女性はなる。しかしそれが最期になったとき、こんな暮らしに価値があり意味があったのかと問われる。山尾三省の妻は夫についてきてこんな暮らしをするのが嫌だったかもしれない,農業も経験なければしたくない、それでも夫の価値観に従った。そのあと夫は妻のことを切実に偲んでいた。一緒に苦しい生活をともにしてくれたらかである。そこに金持ちで楽に都会で暮らすのとは違った価値が死後に生まれた。本当の価値は死後に現れる場合がある。ともかくずいぶん本を読んだけどその本を読み直して深く読めるようになったのは不思議である。山はやはり古来から死に場所であり現実に山に死体を葬った場所だった。山に還ってゆくというのはそういうことである。そして飯館村でもあれだけ汚染されているのだから帰れないとされている。でも老人は帰りたいのである。老人は長く住んだ所が死に場所になるのだ。だから避難しないで墓にはいりますと言って百才の老人が自殺したのもわかる。放射能などもうどうでもいい、死期が迫っているんだから長年住んだところで死にたいとういことがあるのだ。自分もそういう気持ちに病気になって死期を感じたとき本当に思った。


田舎の苦しさがあり、田舎の真理がある


島の真理がある
島の苦しさがあり、島の真理がある


これもわかる。それぞれの場所ですべてが満足できる場所などないのだ。島なら昔から水不足で悩んでいたし沖縄では井戸が枯れて放置された何軒か住んだ所があった。最果ての波照島だった。
どこにもすべてを満足させるような所はない、でも戦後の経済成長は欲望が肥大化してそれが可能だという妄想も生み出したのである。だから決してこれは極端にしろ農民であれ誰であれこんな昔の窮乏生活をしようとする人はいないし満足しないのである。田舎の真理があるというとき、島の真理があるといいうときそれぞれの田舎には島でもそこが前にもかいて有機的ミクロコスモスでありそこに中心があり聖なる自然となるべきものがある。それぞれの場に真理が自然のロゴスとなるべきものがある。苦しいけどその自然のロゴスの中に安住する、最期はそこが死に場所になるのだ。だからこそその真理となるべき最期の場所は重みをもつのである。そこにはそうして死んだ先祖も葬られているから故郷はさらに重みある場所となっている。そうして何代にもわたって作られてきた場所が故郷なのである。それを原発事故で喪失したときどうなるのか?簡単に金をもらって他に移り住んでくださいとなりうるのか?そこでもう死んだ方がいいとさえ思う気持ちがこの年になるとわかるのだ。

人間は最期は石のように動けなくなる。これは惰性でもない、必然的な結果としてそうなってしまう。そういう心情がくみとられていない、だから金もらって他に移ればいいじゃないかという他からの無責任な言動には腹がたつのだ。この気持ちはやはり年をとらないとわからないのだ。今更他に移るのは嫌だ、ここに住んで死にたいという人はその願いをかなえてやるべきかもしれない、ただ援助が必要となるとなかなかむずかしい面はある。でもその心情はくみとられるべきなのである。

 
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2012年05月14日

石と放射能(童話)


  石と放射能

この近くで原子力発電所が大津波を受けて爆発して放射能をまきちらした。20キロ圏内は警戒区域になり立入禁止になった。この石は30キロ圏外の石であった。盛んに外からは言われる。
「放射能の危険を、お前知らないのか、早く逃げろ、逃げろ、そこは住めない所なんだよ」
「何にも目に見えないんだけどな・・・」
「だからお前は馬鹿なんだよ、放射能は目に見えないから危険なんだよ、これが機械で計った数値だよ、はっきりとここに放射能が数値として現れている、わかんないのか・・・
ここにあんたはもう住めないんだよ」
「そう言われても困るんだよ、オレはここに千年もいるんだよ、隣の石もそうだよ、そう簡単に動けねえんだよな」
「お前は馬鹿なんだよ、放射能の怖さを知らないんだよ、今は影響なくても10年後20年後に影響あるいだよ、ガンになるんだよ」
「オレは病気にはならん、石だからな、関係ねえな、オレは動くわけにいかねえんだよ
千年ここにいたからそんな簡単に動けねえんだよ」
「石はしょうがねえな、でも人間は逃げろよ、ここには住めないぞ」
あるここに住んでいた老人が言う。
「オレもここに長年住んでいた、もうここから動くことできねえよ、石のように岩のように動くことできねえよ、例え放射能に汚染されても動けねえよ、どうにもならんよ・・・・・・・
ここは放射能もたいしたことがないみたいだし老人には影響が少ないし動けねえよ
外からのここから離れた遠い人の言うことは無責任なんだよ、放射能なんか関係ないから面白がって言っているんだよ、親身になって言っている人はいねえよ、人間は自分に災いがかからない限り
みんな高見の見物なんだよ、取材にくる報道関係もそうだからな、あいつらもただ商売のネタとして被害者を利用しているだけだよ」
長年ここに住んだ石はぼそぼそと言う。
「石の気持ちをわかる人はすくねえよ,オレはここに千年いたんだよ、それをすぐに今危険だからと他に移れとと言っても移れるか、そんなこと簡単にできねえんだよ、オレはここの大地の上に千年いたんだよ、その重みをわかってくれるやつがいるか、放射能も三十年で半分以下になるとかそのうち消えるだろう、30年と千年を比べてみろよ、時間の重みが違うんだよ」
隣の石さんもまた言う。
「そういうこったよな、簡単に動けねえよな、こうしてオレタチは千年ここに動かずいたんだからな互いに気もしれた仲だ、雨風やら雪やらをともにしのいで千年だよ、その重みはオレタチにしかわかんねえんだよ」
ここに住んでいた老人も言う。
「ここに住んでいたのは自分たちの一代だけではない、代々先祖がいて田畑を耕してきたんだ、その上に俺たちが今ある、実りもその先祖たちが苦労してもたらされたものだよ、そういう代々の先祖がいるところを簡単に離れられるのか、それは簡単にできねえことだよ、先祖様に申し訳ねえということだよ、そういう長い時間の中で積み重ねたものが故郷にはある、そういう場所から簡単に離れられるのか」
外野席のものがまたあおる。
「かわいい孫をガンにしていいのか、それこそとがめられることなんだよ、老人はあきらめてそこに住め、でも孫は将来のために逃がしてやれよ、老人の勝手は通らないからな、一億円を国で払うそうだよ、それで若い人は再出発だよ、老人は残れ、そしてそこで死ねばいいんだよ」
老人がまたぼそぼそと言う
「まあ、30年後にはどうなるかわかのかんな、その時また子孫ももどってくるだろう、石や樹や土の時間は長い、また元の荒野になっても開墾するやつがでてくる、日本はな、土地がないからな、土地は貴重なんだよ、土地を大事にしなきゃならんのだよ、土地が命なんだよ、だからまた帰って来る人はいるよ、」
石があいづちうって言う
「そういうことだな、石は千年ここにいるから動けねえ、30年後には放射能は半減しているし
百年後は元通りになっているな」
 隣の石も言う
「また春が来たよ、ほら、燕も飛んできた、梅の香りも流れてくる、明るい春の光がさしている、蕗の薹もでた、ここは何にも変わらないよ、水もきれいだしな,ここに住めないということはないんだよ」

石はあいづちをうってまたいう。
「俺たちは千年ここにいたから動くことができねえんだよ、お互いにな・・・」
こういって石は動かなかった。春はきてやがて新緑となり山桜が咲き水はきれいに流れて表面は何も変わっていなかった。ただ何百年と江戸時代から耕された田や畑は草ぼうぼうとなり原野化していた。それでも人々は飢えることもなかったから住んでいる。江戸時代と違い食糧はいくらでも外から入ってくるからである。この辺の土地は江戸時代の天明の飢饉のとき三分の一に人口がへった。その時の悲惨さは今にも語られている。人の肉も食ったとか信じられない地獄絵図だった。それから比べたら放射能は騒ぎが大きいけどまだ軽い方に見える。ばたばた人が死ぬようなことはない、空気が吸えなくなったり水が飲めなくなったりもしない、10年後20年後の病気になるということも定かではない、天明の飢饉とは違う、その時と比べればまだいい、人はここに住めるし子供だって住める。確かにガンになる人はいてもみんながなるわけではない、ほんのわずかかもしれない、それで大騒ぎして住めないと故郷をでてゆく人は故郷に未練がない人なのだろう。老人はもう故郷がどうのこうのというより動けないのだ。だからここで死ぬほかないと百才の老女が「墓に入ります」と言って家族と避難せず自殺したのである。
山陰の森の奥の方に隠れていた石がぼそぼそと口数少なく言う。
「もう放射能なんかどうでもいい、オレタチはここにいつづける、動かない、動かないからこそ石であり岩でありそれが尊いことなんだよ、それ故に神とも祭られるのが石なんだよ、人がいなくなってもここにいる、オレタチはな、人が住んでないときからこの森にいたんだよ、その人のいない時代にもどるだけだよ・・・もう人の話しは当分聞かないよ、ここに埋もれてゆくんだよ・・・」


森の奥処の石は動かず
森に埋もれ人のいない
原初の世界に還る
もう人の話は聞こえない
苔むすままに千歳
ここに黙りこむ
そうして石は千年眠るがよい
・・・・・・・・・
いつしかそこに座っていたのは神
人は去って原初の森に還る


確かに人はこの世に生きる、ある人は山間の森の中の細い道を歩いた。しかしそれも本当なのだろうか?ある人はいつしか死ねばこの世から消えてしまう。姿形もなくなる。本当にここにいたという証拠があるんですか?江戸時代に生きた人もいた。その人たちの生きていた確かな証は定かではない、
人が生きるとは風のようなものなのである。明確な足跡は残されない、死んで深い闇の中に消えて二度と現れない、束の間現れて消えるだけである。その人の一生とは何だったんだろう?
その細い道をたどると確かに一つの石がある。人は本当に石になった。石に化してしまった。遂に物言わぬ石と化してしまった。騒々しい世の音は聞こえない、すべては夢と消えてここに石となって隠れてしまったのである。でも世の中の馬鹿騒ぎは終わるわけではない、延々と同じ様につづく、この世の終わるまでその欲も変わらない、騒ぎは延々とつづき、不満も延々とつづく、はてしなくつづく、しかし石は終着点としてそこにあった。人の不満はつきることがない、人の欲もつきることがない、そうして原発事故があり放射能をふりまいた。

 


びろう葉帽子の下で

山に還る

その山がたとえチェルノブエリの灰で汚染されているとしても

わたしはほかに還る所がないのだから

山に還る

びろう葉帽子の下で

死期を迎えた動物のように

山に還る


人間は本能的にこうなってしまう。放射能に汚染されてももうそこで死ぬほかないという感覚になる。もうそこが死に場所であり外に移ってやりなおすことはできない、それは人間も動物や植物と同じ様に本能的なものである。だからもう老人は長年住んだ場所で死なせてやりたいともなる。
浪江の58才の赤字木(あこうぎ)の人は孤独死ではなく自殺だった。


親族は、「原発事故さえなければ自殺なんかしなかった」と言う。そしてこの地区の住民は男性の自殺についてこう口にした。

「あれの自殺は、これは最大の抵抗だ。切腹して死んだ思いを、私たちは大切にしなければいけない」 (長老)
「彼の死は原発への抗議だ」(区長)

「人間には、耐えられる限界というものがある。それを考えて、行政も対応していかないといけない」(馬場町長)
この地区の線量は馬場町長いわく「推定年間200ミリシーベルト」。原発は人をそして住空間を殺した。


二人も自殺したことは重い事実である。このことはあまり報道されていない、あの辺に何度も行っているけど下冷田とかありその地名のように山の中であり米もとるにも寒いからいい場所ではない、それでもそこに住めなくなることは最悪であった。あそこは高すぎるのだ。桁違いであり帰ることはもはやできないとなるから自殺に追い込まれた。

posted by 老鶯 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 童話

2012年05月15日

初夏の花-短歌十首 (春は逝く・・相馬六万石の城跡・・)


初夏の花-短歌十首

(春は逝く・・相馬六万石の城跡・・)

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六万石花は散りにきあわれかな訪う人まれに次に藤の垂れ咲く


武士(もののふ)の城の跡とて昔かな藤と菖蒲と咲きし静けき


街道のの松並木にそ椿散り立谷村の細道曲がる


相馬なる城下を歩み川岸にシャガの花咲く家そ静けき


若葉して欅にそよぐ風清し山鳩高きに一羽鳴くかな


我が庭に緋色の牡丹他の家に深紫の牡丹見るかな


七輪の牡丹一輪散りにけりその豊けさや朝日に映えぬ


栄ある家にしあれや七輪の牡丹一輪散るも残り映ゆ


七輪の牡丹の一輪散りにしも午後の日さしてなお華やぎぬ


白藤と菖蒲の咲けるその間黒猫一匹歩みけるかな


白藤の下に黒猫一匹のひそみ見つめる目の光るかな

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  同題仙遊観       同じく仙遊観に題す


 仙臺初見五城楼   仙台初めて見る五城楼
 風物凄凄宿雨収   風物凄凄として宿雨収まる
 山色遙連秦樹晩   山色遙かに連なる秦樹の晩
 砧聲近報漢宮秋   砧声近く報ず漢宮の秋
 疎松影落空壇淨   疎松影落ちて空壇浄く
 細草春香小洞幽   細草春香ぐはしくして小洞幽かなり
 何用別尋方外去   何ぞ用ゐん別に方外を尋ねて去るを
 人間亦自有丹丘   人間亦た自ら丹丘有り


仙台の由来がこの漢詩である。漢宮の秋となっているけど現代は今の状態からイメ-ジするから錯覚していることが多々ある。中国の宮廷でもそこは自然の中にあり自然の中に配置されているから今の大都会とはまるで違っていた。これだけの宮殿があったとして「砧声近く報ず漢宮の秋」とあるのか?農民の暮らしが宮殿の近くにあった。中国旅行して「私は農民です、ノンミンです、お土産買ってください」といっていたけど日本語と共通したものがあった。漢宮というとき自然から離れた大きなものをイメ-ジしている。でもまじかに農民の生活が感じられる場所だった。ましてや江戸時代の城の回りはこれ以上に田畑が囲む農民の暮らしの真っ只中にあった。城はただ一番目立つものとしてあった。それでも今からするとビルなどを見るとなぜこんなに小さいのだろうと思ってしまう。そんな小さなものが城なのかとなる。中国やヨ-ロッパの城は比較的大きいから余計そう見える。
亘理には駅が城に作ったけどあそこに城があったのか?あの城を見ると回りがほとんど田畑になっている。「農民の冬菜畑や城を見る」とかなる。城下町といってもいかに小さな町だったか、やっと田であったところを町にしたのが城下町だった。だから田町という地名がその名残りとしてどこにでもある。田が町になった、通りになった。相馬藩の相馬市もそうだった。


相馬となると相馬野馬追いで有名だから外から見ると大きな城があるように見える。しかし相馬市の城跡に来てみればなにもない、ここに城があったというのもわからない、門が一つあってもそれが馬一頭がやっと通るだけの門なのである。大手門とか大きな門もない、一体ここに城があったのかと思う。堀しか残っていないのだ。ではなぜ野馬追いの豪華な行列かあるのかという疑問になる。外から見ている人は野馬追いは誰でも参加できると思っている。しかし地元でも野馬追いに出る人は極めて限られているのだ。実際に地元に住んでいても野馬追いに出る人とめったにあわない、知らないのである。ええ、野馬追いに出る人を知らない・・・?実際野馬追いに出る人とあったことがない、知り合いになっている人もまれなのだ。一見あれだけの馬が出ているのだからみんな野馬追いに出ている人を知っていると思っている。でも地元ですら野馬追いに出る人を知らない、それだけ野馬追いに出る人は希少価値がある家なのである。野馬追いに出る人は在郷の給人武士であり農民と武士を兼ね備えた郷士である。相馬藩ではまず城勤めの人は少ない、だから野馬追いでもほとんど農家出身である。

例えば鹿島区でも一軒くらいしか町から野馬追いに出るのを見ただけである。町内からはほとんど出ていない、これは相馬市でも原町でもにている。原町は原町村であり武家の出が一軒しかなかったのである。町内は新しいのであり原町市などは明治以降人口が集中したのでありそれまでは野馬追いの訓練する原っぱでありだから原町になっていた。野馬土手というのが原町の広い範囲にあり街内はほとんど野馬追いのための原っぱだったのである。野馬追いの祭りは文化財の保護のためにもあり勝手に脚色したりして祭りを盛り上げるようなことはできない、他の祭りはネブタ祭りなどは誰でも外から来てもハネコになれる、野馬追いはちゃんとした由来をもったものしか出れないのである。そこが外からの人も誤解している。南相馬市と相馬市とあわせて10万以上の人口がある。その中で500頭が野馬追いに出たとしてもその割り合いは極めて少ないのである。そこが外から見たときかなり野馬追いを誤解しているのだ。全国の人がプログを読んでいるのでこれを書いた。

それでも六万石の城があったのだから城下町の様相が相馬市には残っている。枡形とかも細い路次は当時の城下町の名残である。それにしても以前として外から来たらどこか城下町となってしまう。

当時の面影を知るのは日立木の松並木とあの細道なのである。あそこか昔の浜街道の面影が一番残っている場所である。今年も相馬の城
跡の桜は散った。六万石の桜は散った。相馬藩で残念なのはどんな人が住んだとか侍でも物語が浮かんでこない、会津とかは絶えず語られるけど何かそういう人物物語に欠けている。それも何か淋しいのである。武士より二宮尊徳については絶えず語られている。でも二宮尊徳自体も相馬藩には来ていない、その弟子が来て教えられて相馬藩を復興した。いづれにしろ物語に欠けているから何か語るものがないのである。野馬追いがあるから何かもっと語るものがあるように見えてもないのだ。3000の旗があるというとき旗祭りだというのも確かである。この旗についても良くわからない。どういう由来でその旗になっいるのかも明確ではない。野馬追いは明かにいろいろな旗があるから興味深いとなっているが旗についてわからないのだ。研究すればいろいろあるのだろうけどわかりにくい、石田三成の旗が野馬追いに出ていることは面白い。なぜなら石田三成は相馬藩と因縁が深い、南相馬市の鹿島区の田中城の興亡にかかわっていたた。実際に相馬藩に来ていてその旗印を残したのである。これだけは旗印の由来がはっきりしているのだ。

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ともかく今年の春も逝った。相馬の城跡には桜のあとは神社の境内に藤の花が垂れ咲き堀には菖蒲が咲く、人間は武士の時代は終わったというけど実際は明治以降も武士の時代の延長だった。平和がなかったのだ。富国強兵でありかえって平民まで兵隊にされた時代だったのである。強制的に武士にされて戦わされて4百万人も戦死した。武士の時代、戦争の時代が明治維新以後の日本だった。武士だけではない民をまきこんだ戦争の時代であり不幸な時代だったのだ。武士の時代より柔和なるものの時代、花を愛でる時代がいいとなる。柔和なるものが地を継ぐ・・・時代の方がいいとなる。
桜はやはり日本人を象徴した花だというとき一時咲いてたちまち散ってしまう、その一時に美を感じる、それ故、若い人もその桜に例えられ死んだという批判もわかる。結局戦争で死んだ若い人はいくら慰めても英霊とかたたえても不幸だったことはまちがいないない。今の時代の方がどれだけ良かったかと比べればそうなる。実際に20代で死ななければならないと追い詰められたらどうなるのか、肺病で死ぬ人も多かったしそれを考えると今は幸福だったとなる。


牡丹は栄の象徴的花である。今年は七輪咲いた。一輪散ってもなお六輪咲いて光にまぶしい。
金の感覚でも一億円もっている人は百万くらいははした金とかなりやすい、本当の金持ちはやはり資産家は今は一億円ではない、土地とか家とか資産をもっていてさらに何十億と金のある人だろう。
そういう人の金の感覚と貧乏人の金の感覚は違っている。それが本当に豊かなことなのである。
そういう富豪は東北にはまれである。だから豪壮なものが生まれていないだ。東京などの都会には一億円もっている人が百万人いるとかざらにいるし資産家も多い。でも文化は生まれない、ルネサンスは生まれない、フィレンツなどは地方都市であり自然に囲まれていた。東京などはそういう文化を産む基盤がないのだ。だからいくら金があっても文化は生まれない、ルネサンスは生まれない、奈良や京都や大阪でももともと自然を基盤として作られた街であった。奈良は特にそうだった。だからこそ万葉集が生まれたのである。江戸すら自然に囲まれた都市だった。だから浮世絵とか生まれた。
文化は今や地方からしか生まれない、だから地方に金持ちがいるべきなのだ。地方に金を回すべきであり都会に回すべきでなはない、スカイツリ-なんかくだらない、あんなものが文化でありえない、
東京ではどんなことをしても美を作り出せない、そもそも自然が美の基だとしたらそれがないのだからどんなものを人工的に作っても醜くなってしまうのである。


白藤の下に黒猫がいた。その眼が光りこちらを向いていた。これも不気味だったが白藤とか静謐なものに猫はあっている。猫が入り組んだ墓の間を歩くとき何かあっている。猫は静謐なク-ルな目をもっている。何かをじっと静観しして見ている。それは自分の性格とも通じていた。猫の性がある。
犬は絶えずじゃれついている。騒がしい、猫はその正反対なのである。だから藤の花や菖蒲にあっている。

山鳩が一羽欅の木の天辺にとまり鳴いていた。気持ちよく風がそよぎ新緑の季節である。

2012年05月16日

藤の花(デジカメで写真の魅力が一般化した)


藤の花

(デジカメで写真の魅力が一般化した)

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七輪の牡丹の散りし余韻かな


黄金色エビネラン映え七輪の牡丹の一輪散りにけるかな


藤波の花長々と池の面に写りそよふく風にゆれにき


新緑の風にそよぎて枝移り鳥鳴き飛びて消えにけるかな

 


藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君 --大伴四綱-万葉集


藤の花にもいろいろある。もともと山藤で自生したのでもあとで栽培されたものは違っている。
長く紫の色でも濃いのがある。人の手で変えられたのである。山桜と染井芳野はかなり違ったものである。染井吉野も色が濃く人里に咲かせて鑑賞するようになった。山桜でも山藤でも色がうすく淡白である。人工化された桜や藤は艶な色合いになっている。だから都を思うとなった。山藤をみて都を思うなどとなりえないしこの辺ではみちのくでは都すらイメ-ジしたりしない。この藤は人間化された藤であり山藤とは違っている。


藤の花にもいろいろある。もともと山藤で自生したのでもあとで栽培されたものは違っている。
長く紫の色でも濃いのがある。人の手で変えられたのである。山桜と染井芳野はかなり違ったものである。染井吉野も色が濃く人里に咲かせて鑑賞するようになった。山桜でも山藤でも色がうすく淡白である。人工化された桜や藤は艶な色合いになっている。だから都を思うとなった。山藤をみて都を思うなどとなりえないしこの辺ではみちのくでは都すらイメ-ジしたりしない。この藤は人間化された藤であり山藤とは違っている。

写真にとったものも山藤だから長々ととはならないがそういう雰囲気にした。写真にするとイメ-ジされないからこれはそうじゃないとかなってしまうのが問題である。ただ現代は本当に写真の時代である。写真というものが素人化して普及した時代だった。それはデジガメで写真は一般化したのであり今までは写真はそれなりに技術が必要だったのである。だからめんどうで写真の魅力を知らない人が多くいた。デジカメで写真の魅力に一般的に目覚めた時代だった。そして写真の加工が芸術になるということに気づいた。自分がこれまで加工して時々出した写真の加工の絵がそうだった。それは全く才能ではない、技術でありたまたま化学反応のように絵が生まれたのである。明かに昨日の白藤と黒猫の写真は絵だった。構図的にも絵の題材となっていたのだ。そういう写真が無数に生まれた時代である。写生俳句-写俳の時代になった。写真を出すからにはインタ-ネットでないと出せないからこれもインタ-ネット時代の芸術だったのである。


自然を写真にするにはある一瞬をとらえるには結構シャッタ-チャンスを逃さないことであった。デジカメはその点いいのだが瞬間的にとれないという弱点はあった。ただ生の自然の生きた瞬間をとらえることに写真の醍醐味があった。庭にミクバチグリが咲いた。外から種がいつのまにか入ってきたのだろう。庭はこうした小さな虫の観察などに向いている。


牡丹は今年は七輪咲いたけどもう散った。黄金色のエビネランも同時に咲く、ミツバチグリの花はミツバであり葉が三つから見分けられる。クサノオウなどの花とまちがいやすい、葉っぱから識別される花の名がある。ビデオも今はいいのができているからいいのだが一瞬の美は写真の方がいい。ビデオは余計なものが写りすぎるのである。

今日は暑かった。夏はやはり花の観察がいい、放射能と関係なく花は咲いている。燕が餌の関係で少ないようだ。水田がないと虫もいなからなのか、燕はアメンボウなど餌にしている。放射能で生態系がどういうふうに変わるのだろうか?別に魚でも寿命が一年とか短いから魚自体には放射能の影響はない、一年で死んだら遺伝子に影響がない、人間は長く生きるから影響する。原子炉のなかにすらバクテリアか生きているのはそのためである。放射能の影響がないのである。複雑で長生きするものに放射能は影響する。ネズミなどでも寿命が短いからチェルノブエリでも影響がなくかえって繁殖したのはそのためだろう。ただ燕が減ったということは何か影響した。あとは生物に影響はないみたいだ。ということは別に森に生き物がいなくなったりはしないのだろう。ただ人間は影響する。長生きするから影響する。

2012年05月17日

雷雨(雨にぬれた草原)



雷雨(雨にぬれた草原)


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ツツジ赤しかなたに望む鹿狼山


青々と雷雨のあとの草原(くさはら)に夕暮なおも雲雀鳴くかな


今日もまた雲雀鳴く声ひびきあう夕暮れ雨にぬれし草原


写真で見ると草原が遠くまでつづいているように見えるけどこの田の一区画だけが草が茫々と繁っていた。あとは田んぼだったところはそんなにまだ草が繁っていない、でも自然の状態はこうして草が茫々と繁っていた。日本だと雨が多いからその草原が青々とした水々しいものになる。
この辺はもともと湿地帯だった。その湿地帯に還ったともなる。


雲雀は草原とかにあっていた。広々とした草原で鳴いているのがふさわしい。水田のしめっぽいところにあったものではなかった。巣を作るのにも草が繁っている草原がいい、イギリスのようなゴルフ場のような丘にもあっている。水田にはあっていない、水田から草原に変わった自然を見ているのは不思議である。水田だからこそ山が神になりえた。春には神が山から里に下りてくるというとき水と深く関係していた。山から水が流れてきて水田が作れるからだ。そういう自然の摂理の中で山を敬うようになったのである。現実に草原化したら北海道の牧場のようになったら山が神という感覚にならない。なったとしても別な感覚でそうなる。稲作は水と深く関係している。水を分け合うということから共同体が生まれたしまた水争いもあった。水の管理が稲作共同体を育んだのである。そこに山を神とする共通の信仰も生まれた。もし稲作がなければそうした祭りもないのである。


雷雨のあとに水々しい草をみている。ただ白鷺とか見えない、燕が飛んでいても少ない、水田には餌となるのもがかなりあった。それがないから蛙もいても鳴いているのはわずかである。ただこういう状態が長くつづくと湿地帯化して自然の状態にもどる。その時北海道のような釧路湿原のうよなものになる。するとそこは自然だけとして見るならそれなりに気持ちいいとなる。でも暮らしがないのが淋しいとなる。

請戸の人が船を出して漁をしたことをなつかしんで歌を作った。無事で帰ってきたよ・・・とか漁師は無事に帰ることが何よりなことが実感としてわかる。必ず漁師は海で遭難しているしその遭難の碑が必ず港にはあるからだ。漁師であれ農家であれまるごと生活を失うことを想像すらしなかった。

これからも漁師の場合は請戸でも復活できるかどうかわからない、放射能汚染があるから簡単にはいかないだろう。牡鹿半島は漁ができて魚をとれたことを仲間と喜んでいた。そういう生活がいつもどるのか?雑誌にでていた家族でともに働いたいた方がどれだけ楽しいか、それ以上のものは望まないとか言うのは今はそうかもしれないがそう思って仕事していた人はいない、請戸の漁師でもそうだし農家でもただたりないたりないということから原発を誘致したのである。これでもたりない、たりない、欲望が尽きることがない、もっといい家が欲しい、車が欲しい、もっといいものが買いたい、もっともっと・・・欲しい欲しい・・・そうして犯罪にもなる。家もなくてそうなった人もいるけど家があり車があってもさらに欲しいとなっていた人もいた。そこから原発を安易に誘致したのである。

いづれにしろ原発から避難した人は難民化した。磐城市でも二万人くらい双葉や富岡とから避難しているから住宅が一杯で外から来る人が住む所もないという。仮の町を作るにしてもいわき市との軋轢が生じている。そこで非常に肩身の狭い思いをしている。今になると原発の近くに住んでいたらいかに災難だったかわかった。浪江の人なども親しい人だった人と電話していつも泣いて話ししているというのもわかる。ここはなんとか留まり住めたからいい、でも全体的には市自体が衰退してくるからこういう所には住みたくないという人がでてくる。自分にとってはこの辺は性にあう所だった。

不便なことは何も感じていなかった。車がなくても電車があるし仙台にも簡単に行けた。確かに病院では困っていたがその他はさほど困らない。夕張の人口は7万から一万になった。そんなに減ったらもういろいろなものが維持できない、もう住みたくないとなるし住めなくなってくる。この辺は今後どうなるのか先は読めない、ただ夕張のようなことがありうるんだと思った。でもこの辺では家をなくした人が増えて町内に建つ家がふえた。こわされた家も10軒以上あった。小高はこれからどうなるのか、徐々に回復するのか、まだ先が見えない、浪江はどうなるのか、これもわからない、原発に近くなればなるほどその先は暗くなり住みたくなくなるだろう。飯館をのぞいては原発事故は距離に比例してその被害感覚が違っていたことは確かであった。

 

2012年05月18日

丸森から梁川へ 春の短歌十首 (金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

 

丸森から梁川へ 春の短歌十首

(金山城、小浜城、梁川城を訪ねる)

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幾代の城主や梁川花の散る


丸森へ我が入りゆくや山の間に鳥なきひびき山桜咲く


丸森に入りて知られじ梅林の馥郁とにおい家そひそけき


丸森の夕べの桜あわれかな我が坂越えて相馬へ帰る


丸森の金山城に残雪の蔵王の光り新緑に映ゆ


一時は相馬の城や金山城夏草踏みて跡をたずねき


丸森に山越えてこそ東風(こち)吹きぬ政宗の初陣相馬を望む


丸森の坂越え相馬へ還り来て何を伝えむ夏の日暮れぬ


一時は政宗が居城山城や花咲きそめて我が訪ねけり


丸森の我が坂越えて梁川や城跡古りて桜散るかな


一時は会津の治む梁川やせめぎ合いにつ夏の日暮れぬ


残雪の吾妻蔵王を望みつつ桜は桃の伊達の春かな


梁川や柳青める城跡を訪ねてあわれ夕ぐるるかも



春のサイクリング-丸森-梁川-阿武隈川-丸森(短歌の部)
写真
http://musubu2.sblo.jp/article/37411301.html

 

丸森(金山城)

金山城は、永禄年間に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したと言われる。
その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。
天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。
そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。


小浜城

永禄11年(1568年)小浜城主・大内義綱は田村氏に通じて主家の石橋尚義を追放し、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、田村氏からの独立を目論んで伊達氏・蘆名氏の側に転じた。
天正12年(1584年)伊達政宗が家督を継ぎ、当主・大内定綱は引き続き伊達氏への従属を誓ったが、翌年には離反し、蘆名氏に属する。この後政宗は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし、
天正14年(1586年)8月までの約1年間滞在した。
天正19年(1591年)、奥州仕置によって塩松が蒲生氏郷領となると、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたものである。その後、上杉氏時代は山浦景国、再蒲生時代は玉井貞右が城代となり、寛永4年(1627年)廃城となった。


梁川城

伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)

http://musubu2.sblo.jp/article/33335304.html
 
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梁川の川の岸辺に桜咲き柳も青みて夕暮れせまる


梁川はこの川と柳が印象的な場所だった。街からはずれたところに阿武隈川が大きく蛇行しているのも見物である。阿武隈川は意外と魅力に欠けているがあそこは蛇行して激流となり流れるから魅力がある。桜も桃も映えて川は丸森の方へ流れてゆきやがて亘理の方へ流れ海に出る。


やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 石川啄木

柳は北上川でも一本の柳ではない、それなりに目立って何本もの柳なのだろう。この辺では川に柳を見ない、するとイメ-ジしにくいのである。他では川に柳がある。
川柳(せんりゅう)」という歌は、江戸時代に実在した柄井八右衛門という人の俳号「川柳」に由来するもの。川に柳はつきものだったのだ。


柳橋とかもあるし柳と川は一体としてあった。
ただ桜だったわかるけど柳をそれほど泣けとごとくに心の目でイメ-ジしたことがわからない、
春の息吹を感じるのは梅であり桜であり柳というわけではない、ただ川にあっているから川を思い出して柳が目に浮かんできたのである。梁川には旅してやはりこの柳があっていた。
ただ一時いただけであり急ぎ去ったからそれほど印象に残ったとはいえない。ただ梁川はこの柳の方があっていたことは確かである。旅も印象が薄れるとどういう場所だったかわからなくなる。
それで写真を見たりして思い出すのである。近くだと思い出しやすい、梁川は歴史的にも伊達氏の拠点となって城であり地理的にもそうだったのだろう。



丸森の金山城とか小浜城の魅力は小さいけど城の最初の形を維持していることである。山城であり山が防御のために利用されている。小浜城は小さいようだけど山を利用したもので頂上まで上り攻めるのには地形的に難儀する。地形を利用した要害である。南相馬市の江垂(エタリ)の中館も山を要害とした砦でであった。それが中世から起こった城であり最初は山のような要害を利用した山城だった。あとに平城になった。鹿島区の駅の近くの田中城が石田三成の戦国時代に最期の興亡の城となったのは地理的なもの地形が影響していた。平地の城で戦うことになったからだ。その城は回りが湿地帯であり今回の津浪でその近くまで津浪が押し寄せて今は湿地帯化していることでもわかる。
中世の城は館(タテ)と呼ばれていて地名化している。飯館村でももともとは大館村などがあり合併した。大きな館(たて)があり地名化した。館は山を要塞として不便な地域にあった。山自体を要害としていたからである。


その地域を見る場合、こうした山城の跡でもあれば古いとわかる。それから古墳などもあれば古代からつづいている地域だとわかる。梁川は城跡があってもこれも城があったのかどうかもわかりにくい、でも古い要の場所だから伊達政宗が抑えていた。ただ今は街を改造したので新住宅地にして古い町並みもなくなっているのでここは新しい街なのかと錯覚する。でも城跡があったから古いとわかる。そこからその町を見る必要がある。どんな所に行っても旅しても最低の歴史認識は必要である。
梁川などは城跡見ないと新しくできた町かと錯覚する。でもそこでは代々つづいていたのであり興亡があった。この辺では相馬市の玉野の領地争いで象徴されているように会津、米沢、伊達、相馬で争っていたのである。だから交互に城主にもなったりしていた。金山城はそうだった。


この三つの城あるところは景観が優れている。小浜城から安達太良山が大きく見える。丸森に入ると小高い丘に金山城がある。そこから見た蔵王は近くに見えるから威容がある。それから丸森から坂を越えると残雪の吾妻嶺がかなたに望まれ蔵王すら見えてくる。そして阿武隈川が梁川で合流していたり蛇行してその景観が雄大だった。伊達には桜と桃が一時に咲くのも見物である。桜咲く時期が一番見物である。日本はどこでも地形が複雑であり地形的に魅力がある。ただ平坦な地ばかりつづいていたら満州のように嫌になる。日本はだから旅してあきることがないのだ。日本ではどこでも桜咲く時期が一番美しくなる。放射能騒ぎでもこうした景観には影響していない、桜も桃も実は食べられなくても花は咲いて鑑賞できる。でも桃などは実が食べられないとしたらやめる人も出てくるだろう。
花だけでは売り物にはならないからだ。とにかく山の美しさは中通りから会津にあり浜通りにはない。でも高い山は阿武隈高原からも望まれる。景観的には福島県は中通りまでは望まれるが会津になると視界に入らない、そこには2000メ-トル級の山がひしめきあっている。だから福島県でも別世界になってしまうのである。それだけ福島県は広いのである。日本の地理のわかりにくいのは山が縦横に重なっていて視界をさえぎるからである。山の中にまぎりいると方向も地理もわからなくなるからだ。


俳句とか短歌とか詩の鑑賞でもこうした地形をよまないと鑑賞できない、最低限の歴史的認識は必要なのである。だから小さな山城でもその跡でも訪ねる必要がある。何度も丸森に行ったけどちょうど相馬との境が坂を上った所にある。金山城は相馬領に最も近い所にあった。日本は坂が境になりやすいことがわかる。自転車でその坂を越えたり下ったりしたことが体に刻まれているから記録が蘇るのである。丸森は相馬から遠いようで近い。海の風が春吹く東風(こち)が山を越えて吹いてきたのがわかった。政宗の初陣の地として有名であり政宗は相馬との戦いで海をはじめて意識したという、海は丸森から確かに近いし山から見えるのである。


丸森を去るときいつも夕暮れが迫っていてそこで夕桜をいつも見て相馬の方に帰ってきていたのである。つまりそういう難儀な過程があって旅になっている。車だとそういう記録が残りにくいのである。坂という感覚すらなくなってしまうのである。地形と一体化できない、つくづく車がいかに便利でも自然との一体感とか人情の世界を破壊してしまったかわかる。浮世絵とか見れば自然であれ街であれ江戸であれ明治であれまだ人間は外界との一体感があった。情緒的に人間と外界は分断されていないのである。人間と外界は自然であれ街であれ現代は分断されている。でも自然の景観自体は大きくは変わっていないのである。丸森から梁川から阿武隈川を下ってまた丸森に帰る道は景観が雄大である。ここは観光コ-スとしてお勧めである。

2012年05月20日

藤の花とツツジ (相馬市山上-玉野-霊山-飯館村を回る)


藤の花とツツジ

(相馬市山上-玉野-霊山-飯館村を回る)


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山上の日輪の碑はめずらしい、他で見ないからだ


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滝平の手前の家の藤棚は見物

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落合の丸森に行く所の白藤は見物

一本の木に藤の蔦がからまみついている



朝風に草原そよぎ夏菊の白く映えにつサイクル車行く


日立木の細道あわれ紫と白の菖蒲に松並木見ゆ


屋敷林木蔭の深し朝静かシャガの花咲く城の近きに


宇多川の上や静かに藤の花風にそよゆれホ-ムのありぬ


古き碑のまたここにありにき我がたずね朝の静かに藤のたれにき


物倉とバス停に名や山上の奥に田植えや人のすみつく


藤棚をしつらえ静か紫と白映えにつつ木の間より見ゆ


滝平とどろきひびき夏来る我が上り来て峠を越さむ


そうそうと山風そよぎ一木に白藤の花からまりつきぬ


たぎり落つ清水のひびき朝日さしツツジの赤く映えにけるかな


山里につつじの赤くそちこちに田植えしてをり暮らしありにき


新緑に風のそよぎて開拓の村や今日知る霊山の裏


山中に分かれ道かな旅心我に覚えぬ夏の日さして


玉野なる旧き道来て一人会う土地の人かな木蔭に休む


玉野なる昔の道や古き碑の並びてあわれ菖蒲咲くかな


笹町と昔の名かな争いのここにありしも古き碑のあり


玉野より霊山に来て残雪の吾妻嶺光り我に迫りぬ


飯館の人なき家や蛙鳴き帰れと待つや田は荒れにけり


どぶろくを作る家あり佐須に来てここにありてそ味の良しかも


赤々とつつじの咲きてこの家の人の帰るを待ちにけるかな


山中はなお八重桜咲きしも人なし淋し残る家かな


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この写真はよくとれている

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副霊山の開拓地に入る
ここが宇多川の源流になっていた


相馬市玉野村を通る(旧道)

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飯館村へ
 
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佐須から大倉への道は通行止め
自転車はたいがい通れる

写真はクリックすると鮮明に見えます-縮小しているので画面ではぼやけています



今回は宇多川の上流を上って行ったことになった。丸森の方にはよらなかった。古い碑は必ずわからなくても見ていた方がいい、そこが古い場所として確認できるからだ。ちょうど山上に老人ホ-ムがありその脇に江戸時代の碑が並んでいる。山上はそれなりに古い村である。今回「物倉」というバス停に注目した。なぜここにこういう地名が残ったのか?やはり人が住みついて倉ができてそこが目立ったのか共同的なものとしてあったのか?昔は個人でも大きい農家は中心的役割を果たしたから倉でも必ずしも個人の倉とは限らない。地名化するにはなんらかその土地に住んでいる人々の共同性があるからついたのである。そこでは手で田植えする人があった。そこから大きな藤棚しつらえている家があった。あれは見物である。そこからすぐに滝平になる。そこからが急な上りがつづく、落合で丸森の松が房ダムの方に向かった。

この辺で福島市と通じる高速道を作っていた。震災で早期に作るようになった。飯館村が放射能で住めなくなったことが影響した。松が房ダムから副霊山の方に向かった。そこははじめて行く所だった。阿武隈山地が意外と広い、全部を行くことはできない、自転車の旅は気ままに道にそって行くことだった。だから別れ道が旅心を旅心を誘う。どっちの道に行くかな・・というとき旅をしているのだ。その道を事前に決めてしまうと旅はつまらないものになる。旅は道を行く、道は未知なのである。近くでも道はいくらでもあるから未知の領域がある。今回の道もそうだった。ここはどこなんだろうと見当つかなかった。宇多川の上流であり源流であり副霊山に通じていた。ここは開拓村であった。だからその記念の碑があった。ここは伊達市に属している。

そこから玉野村にでてきた。ここは相馬市である。玉野村では領地争いで有名である。山林資源が豊だから米沢藩-伊達藩-相馬藩で争いがあった。伊達と相馬の境であり「伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に」であり境の桜は東玉野の115号線沿いにある。それを確かに今回丸森から伊達市を回り地理的に自覚した。米沢は遠いにしても三つの藩がかかわる境が交差するところだった。玉野も115号線の広い道路ではない旧道の方にでてきた。ここがまぎらわしい。ここの旧道にはさらに旧道があったのか細い道の脇に古い碑が並んでいた。その一つに・・暦とありこれは明暦なのか明暦となると元禄の前でありこの辺ではほとんどない、葛尾(かつろう)村の落合で見ただけである。この碑は確かに古いことは確かである。この道の方が霊山から落城のとき落ち延びて来た道なのだろう。

霊山城落城のとき落ち延びたのが二手に分かれた。一つは鹿島区の真野に逃れ中館となって残った。もう一派は山上の方に逃れた。だからそこに山王神社が祭られている。日吉神社も日枝神社もそうである。霊山は玉野から近い。ただ玉野からかなりの峠道になる。霊山町は伊達市として合併したからわかりにくくなった。合併するとなじみがないからわかりにくいのである。もともと伊達の領地として歴史があるからかえって歴史がわかりやすくなったとはいえる。でもなじんでいないからとまどうのである。伊達市の範囲が広まったこともとまどうことになる。伊達市がどこからどこまでかわからなくなる。狭い範囲のことがわかりにくくなる。その点飯館村は合併しなかったのでわかりやすい。

行合道から新しい道を上り佐須に入った。この辺は道だけはどこも新しくなって造成していた。ここもその一つである。どぶろくを作っている家はテレビでも有名であった。ただこの佐須という場所が狼も祭っている山津見神社があり神秘的色合いを出していた。この場所で本当は昔物語でも聞いてどぶろくを飲めば一層うまいとなる。店は場所の影響がある。霊山の紅葉館は吾妻山が見えるので絶景の場所にあるから気持ちがいい。あそこまで来たとき残雪の吾妻山が見える。すると福島市の方を意識するのである。飯館村では人が住んでいない、でも前も不思議だったのは廃屋とは違う、人が自由に出入りしているし家には人がいるところもあったし農作業していた人もいた。蛙も鳴いていた。その蛙の鳴く声で気づいたのは蛙は人里に鳴くものと決まっていた。田んぼと一体化して蛙が鳴いていた。その田んぼがなくなったとき蛙が鳴いているので不思議だった。蛙は人間が住んでいないときから沼地などにいたろう。しかし田んぼのなかで生きるようになってからの年月はあまりにも長い、だから人里があって蛙も鳴いていた。蛙は極めて人間的なものと化していたのである。だから人が住んでいない田んぼがいない所に鳴く蛙をイメ-ジすらできない、蛙はだから人が帰ってこいよと鳴いている。ペットとにていたのである。

ただ飯館村は放射線量が27マイクロシ-ベルがあるホットスポットがあった。これにはびっくりしたけどそこだけ異常に高かったのである。飯館村は帰れるようになるのだろうか?どうしても人がいないなくなるとは考えられないのだ。佐須から大倉の方に下ってくると一軒の家がまだ残っていてそこはツツジにおおわれていた。だからあそこも人が帰るのを待っている。とても人がいないというふうに見えないのである。八重桜がまだ山里だと咲いている。それは山里の雰囲気をかもしだしている。「遅桜なほもたづねて奥の宮 虚子」遅桜とは八重桜だったのだろうか?この句はいい句だった。山津見神社は本当に奥の宮なのである。神社は場所と密接に関係しているから移動できない、そうなると飯館村にある神社はどうなるのか?すでに半分以上は帰ることをあきらめているとかなるとどうなってしまうのだろうか?どぶろくを作っている人は福島市で作ったけどあそこて作ってこそ意味があった。場所のもたらす価値がある。そういうものは他に行ってしまったら作れない、飯館村にあったからこそ価値があるものが他にもあったのである。


ともかく大倉を下って栃窪に出る。あそこに隠された大岩がありあれがまさに千歳の岩なのである。あれに気づいている人はまれである。隠れるようにしてあるからわかりにくいのである。千年眠りにつく岩である。自転車の旅も今は疲れる。限界を感じた。なんとか病気でも行けたから良かった。

それでも天皇陛下みるとあれだけの手術しても海外旅行までしている。カ-テルを交換しただけであれだけ回復している驚きである。人間の体は機械であり血管がつまるようになったら水道管のように交換すればいいとなる。その技術がほとんど完璧だったからあれだけ回復した。自分もそうして機械のように体の部品を人工化している。別に癌ではないとするとすぐに死ぬということではない、だから運動も前のようにできなくてもそれなりにできる。長生きするのは医療の発達もあるのだ。胃ろうですでに三年も生きている人もいる。これも体を機械のように扱い生きているのだ。


ずいぶん旅ばかりしていた。旅をしたものはどこまでも旅をしたいのである。病気の中で芭蕉は旅をしていた。つまり西行とか芭蕉は旅を棲家とした常時旅人だったのである。一時的な物見遊山の旅人ではない、旅を人生として生きていたのである。旅ばかりしていると人生そのものも旅となってしまう。旅人の感覚で人生もみる。会ったり分かれたりするのも旅では常時起こっている。ただ遂には人は石のように動けなくなる。石は最終地点の象徴である。動けなくなって人は死ぬのである。

 

追記

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この辺もあまり人は通らない、車はそれなりに通っているのか、それで少ないほうだろう
車が通らない道があったら不思議だろう。

飯館村でもいかに人間は自然の中に溶け込み暮らしていたかわかる
贅沢な空間を所有していたのである。

こういうところに暮らしている人がどうして都会や東京のような所に住めるのかと思う
福島市のマンションに住んだ人がいるがそれでも相当に違っている

花だけに飾られて人が住んでいないという家も不思議である。
花がきれいだから廃屋とは違う。誰かが住んでいるように見える。