2012年05月01日

タンポポの詩 (水田がタンポポの原野に変わる)


タンポポの詩

水田がタンポポの原野に変わる


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写真ではタンポポとれていなけど実際はタンポポが遠くまで咲いている。
アップしないと写っていなかった。


水田がタンポポの原野に変わった
青々と草がなびき燕飛びかう
タンポポのまばゆい輝き
燕はその黄金の輝きの中を飛びかう
ここは北海道になった
湿っぽい水田は乾いた原野になる
光が一段と明るくタンポポがどこまでもまばゆい
その果ては海につづき海も光っている
雲雀の声がタンポポの明るさの中にひびきあう
人がふえ店がふえ活気が出た町の不思議
ここが放射能の汚染で汚れ沈んだ街なの?
水田がなくなり明るくなった原野
自然がこれほど変わることはありえない
水田は第二の自然でありそれがなくなるとは・・・
もしかしたらここにかえって新しいものが生まれるのかもしれない
新しい街が生まれるのかもしれない
タンポポはどこまでも明るい
悲観ばかりしていてもしょうがないのか
津浪の被害のあとにまた自然が励ましているのか
タンポポの明るさはどこまでもつづく
子供がかがみその顔にタンポポが一段と眩しい
こういう原野だと車が走っているのも気持ちがいい
電車は二両の行き来で淋しい
ス-パ-ヒタチは風光る中をいつ走るのか
今日は原野に荒々しく風がうなり吹いている
燕はその風を切って盛んに飛んでいる
燕は放射能ことも何も知らない
かえって気持ちよく飛んでいる

水田だと湿っぽい感じになるが原野だと北海道のように乾いて明るい感じになっている。タンポポがどこまでもまぶしい、青々と草がなびき草原化して風もきもちがいい、すでに揚羽が飛んでいる。
北海道に行かなくても北海道の景色を見れる不思議がある。この変の変わりようは自然まで変わったということである。自然が変わるなど水田がなくなるなど想像すらできなかった。農家の人にとってはショックである。でも風景だけを見れば別なものを見る。それはまさに北海道化したのである。
日本では水田があるから湿っぽい感覚になっていた。水田がなくなり乾燥した原野が戻ると明るい感じになるのだ。これは精神的にもかなり影響する。北海道の人は比較的おおらかで因習にとらわれず明るい性格が作られるのかもしれない、どさんことか何かそうした性格が作られてきた。
それは牧場的風土であり水田ではない風土が影響してそうなっていたのだ。


自然が変わったということはその自然に則した村や街作りが要求されているのかもしれない、確かに食糧を生産するにも放射能汚染でできない、でも花栽培などは放射能とは関係ないからできる。現実にいろいろな花をハウスで栽培している人は影響されていないのである。そして風景的に見たとき水田もいいにしても一面がタンポポや花野になっている風景が北海道であり気持ちいいともなる。
ここには放射能汚染されるから来たくないというのもわかるが花は影響されていないのだ。緑の草も青々として同じである。自然は見た目には汚されていない、同じなのである。まだ美は損なわれていない不思議がある。自分のようなものは食べるものより美が損なわれるとそこには住みたくない、
都会はすでに美が損なわれている。自然の美が消失しているのだ。ここは確かに放射能に汚染されているが美は同じようにある。多少放射能の影響を受けてもこれなら別に住んでもいいのではないかとなる。草や木が枯れ花が咲かなくなったりしたらもう住めない、そこは本当に
地獄と化してしまう。

ともかくチェルノブエリでも狼がへら鹿とか野生の動物が戻ってきたり原初の森に還ってしまったという不思議がある。飯館村などは元の原初の森に還ってしまうのか?それがなんとも不思議なのである。地球の自然はあまりにもどこでも大きく損なわれてしまった。だから自然の復活が必要である。森とかが原野でも再生できたらそれはかえって気持ちいいものとなる。ただ生活的には経済的には問題があるにしろこの辺の状態がすべて悪い変化ととらえるのも間違っているみたいだ。そもそもこの辺では放射能の影響がどれほどあるのか?本当に子供も住めないのか?東京などにいるよりタンポポがどこまでも咲いているここの方がまだいいとなる。タンポポが終われば今度は一面のひまわりの畑になるし他にも花を咲かしたら気持ちいいとなる。

 

2012年05月03日

事故を起こした高速バスの運転手は中国人だった (原発事故との共通性)

 

事故を起こした高速バスの運転手は中国人だった

(原発事故との共通性)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120502-OYT1T00694.htm?from=top

 


中国人は夜勤とか日本人が敬遠する仕事
率先してついてるな
低賃金で深夜勤12時間労働とか厭わずにやる。
これは運転手以外の製造業とかにも言える。
こういうニュースになる大事故の蔭で
労災なんか頻繁に起きてるんじゃないかな
しかも保険未加入のケースが多いから
泣き寝入り


労働法制とか見直さないとダメだろう。
利益の追求って言うけど追求にすらなってないだろ
深夜の長時間労働は作業効率を大幅に低下させてるのは明らか。


こんな事故、中国じゃ日常だろ
日本もそういう時代になったってことだな


【ツアー会社】

大阪府豊中市の旅行代理店「ハーヴェストホールディングス」(大屋政士社長)は層化企業。
乗務員の1日の運転時間が基準を超えていたなど行政指導を過去に受けているブラック企業。
http://long.2chan.tv/jlab-long/s/long1335787424046.jpg
(層化三色旗)


・中国出身でカタコトの日本語
・読み書きも不完全となると、必要な標識を読み落とす可能性大
・地理はよくわからず、カーナビでバスを運転
・問われる罪は自動車運転過失致死傷容疑どまり

>客がへって不慣れな遠距離高速バスを1人でやらされ


これも3.11の影響なんだろうね。 中国人、パッタリこなくなったらしいから
今はずいぶん回復してきているようだけど。東京観光運転してるときなら
この運転手も母国語で話できてストレスも軽減したろうに。
だいたい9時間走行で1人ってのを聞いたとき、マジ?と耳を疑った
安さは怖いねえ

 


一つの事故から現代が反映したものがいろいろと浮かび上がってくる。原発事故もそうだった。この事故の深層もそうだった。相馬市玉野の酪農家が自殺したのも原発事故だけが原因ではなかった。フィリッピン人妻が子供と共に事故で自国に帰ったことから絶望した。浪江の津島では東京で暮らしたいという中国人妻がナタで夫を襲ったことに驚いた。あんなところにも中国人がいたのかと思う。
嫁不足とそうなっていた。日本は今いかに外国人が労働の担い手となっているから外国人なしで成り立たない経済となっている。コストカットコストカットを極限まで追求してゆく、どうしても安上がりの労働力を求め外国人に頼らざるを得ない、そこに落とし穴があった。原発事故もこの事故と共通した面があったのだ。安全よりコストカットを進めた結果であった。最も安全が必要な原発でもそうだったのである。コストカッタ-として社長になった。


●安全よりコストカット
●外国人が安全を無視して介入


最初の原発がアメリカのGE制でありそれがマ-ク1とか古い型の欠陥商品だったのである。そういうものを後進国は売りつけられる。そして日本の事情を風土的なものなどを無視ししていたのだ。地震とか津浪をアメリカでは余り想定する必要がなかった。でも西海岸には原発を作らずに東海岸に作った。地震の多い西海岸には作らなかった。アメリカでさえ原発には地震を想定していた。これほど地震国の日本が無防備に原発を作ったのはなぜなのか?根本的にそこに問題があった。

魏志倭人伝には、「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」

とあるとき日本人は漁労民族だから海から栄養分をとるから牧畜や肉食は発達しなかった。ヨウソも海藻類からとっているから原発事故ではさほど影響ないというのも風土の違いがあったのだ。
そもそもそういう風土を無視して国造りすることは危険なものがあった。何でも外国のものならとり入れていいとはならない、宦官の制度などもとり入れていないのはいいことだった。
明治維新後は何でも欧米のものはいいものとしてとり入れたことが失敗だった。危険を制御できない、安全を保てないというのもそのためだった。フクシマ第2原発は自国製だったから事故をまねがれたというときやはり自国での安全技術が発達していたら事故は防げた。外国頼りになっているとき事故は起こりやすい。今回の高速バスの事故はまさに「ICの名前分からない」とか中国人の運転手が日本のことをわからないから事故になった。なぜ運転免許をもっていたのか、とれたのかともなる。そういう高度な安全にかかわるものもすでに外国人がもっていて日本社会に入り込んでいる。原発の中にも作業員でも外国人が入ってくるかもしれない、工作員が入ってくるかもしれない、そしてテロになる恐怖である。それほと外国人がいたるところに入りやすくなっているのだ。そういう危機感が日本ではともしいのである。

旅行代理店が創価系とするときそういうカルト宗教団体には外国人が入ると日本で活動しやすいしカルトの方でも勢力拡大できるから外国人をタ-ゲットに会員を増やそうとしている。外国人参政権問題もまさに外国人が日本の政治にまで深く影響するようになる。その中には外国人の工作員も入りやすい、統一教会とかオウムでも外国人勢力が入っていた。北朝鮮の工作員が入っていたとか問題になった。宗教というときこれも純粋にここの生き方を追求しているなら是認できる。インドのグルとかの覚りを目指すようなものは政治色がない。しかし宗教と政治は密接に結びついていた。だから戦国時代にキリスト教が秀吉により禁止されたのはそのためである。背後にスペインなどの国がかかわっていて宗教を通じて支配されるという恐怖だった。宗教とは個々人の生き方とか生の充実とか何かそうしたものとはかけ離れている。巨大な権力化して政治として働いているのだ。それはすでに信長の時代からあった。今にはじまったことではない、宗教組織は人を奴隷にして支配して政治の道具として使われていたのである。それはすでにカトリックの二千年もの歴史が物語っている。


交通事故も文明から起因して起こるとしたら原発事故も同じであり共通性があったのだ。何事も世界中で起こることには何かしら共通の原因がある。これだけグロ-バル化したらそこに起こることもグロ-バル化している。安い労働力を求める国があるからアメリカでも日本でも外国人は入ってくる。
コストカットを追求するから安い労働力が必要になる。そのために外国人が入ってくる。カルト宗教団体でも勢力拡大を望むから外国人を利用する。また外国人も活動しやすいから入ってくる。その中に日本を政治的に工作して外国人のいいようにする。それはアメリカでもそういうやり口をする。
日本のキリスト教団体には何らかアメリカから資金か入ってきていて裏で操っているのではないかという疑問がある。統一教会はそうであり韓国から資金が入ってくる。ここにも政治家が票田として深くかかわっているのだ。宗教も巨大な権力の支配のために利用される。現代の宗教組織はほとんど政治化たものである。ロ-マ帝国は安い労働力の奴隷を戦争で確保していたができなくなり衰退したという。アメリカの活力も移民であった。それができなくなるとき国も衰退するのはにている。
もはや日本には安全はない、後進国なみになった。日本の技術力も信用できるものではない、何かが大きく崩れてしまっているのだ。それは社会全体にかかわるものでありすべてに共通性があった。

 
posted by 老鶯 at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2012年05月04日

春から夏へ-俳句


春から夏へ-俳句



雨しとといつもの道や余花に暮る


雨にぬれ夕風きりて雲雀鳴く


道の駅遠くより来る若葉かな


葉桜の青々として雨にぬる


雨ふりて蛙の鳴くや湿地かな


ゆうたりと鯉の動かずアメンボウ


月光り晩年あわれ雲雀鳴く

夏になった。葉桜などが雨にぬれて青々として気持ちがいい。原町の道の駅によると連休で遠くから車が来ている。六号線からは来れないからここにくる人は特別興味あるから用事ある人かもしれない、ただ未だに除染とか工事関係の人の出入りが多いのがこの辺である。
自転車で走っているときが一番気持ちいい、雨とか風には弱いけど風を切って走ることは気持ちいいのである。これは車で味わえない、車は自然を遮断してしまう。でも車にのる人は車にのったときだけ主人公になれる。車で飛ばすときただ使われる労働ではなく自分が主人になれる。だから用事でのる人よりそういう爽快感を得るために乗っている。これは車をもっていない人にはわからない心境である。車にのっているときだけ自由を感じるというのはありえる。だから暴走族とかもそういう感覚で飛ばすのである。それだけ現代社会は自分が主人になれるということがなさすぎるのかもしれない、何かに絶えず追われ使役される。労働に満足がないからそうなる。
池に鯉が動かない、ゆったりとして動かない、それを見ていただけでゆったりする。まず今の人間を見てゆったりすることなどありえない、めまぐるしく人も変わってゆく、みんな余裕がない、この辺は特にそうなった。ただ昼間から酒飲んでいるとか暇になった人がふえた。それはゆったりしているともいえない。ゆったりとして動かないものがいて子供のようにアメンボウのように波紋を作り遊ぶものがいる。前はこうしてゆったりとした時間があったが今はない、自分も絶えず食事の用意とかに追われている。三食用意するのは自分一人だけでも大変なのである。

月が光りなおも雲雀が野に鳴いていた。田んぼはないから原野化して野に鳴いているのも不思議である。明かに雲雀や燕でも草原のような所があっていた。水田は実は人工的な文明の一つだったのである。もともと湿地帯とか原野が自然の状態だったのである。北海道ではエゾシカが原野を駆けていた。何かわからないこの辺で原野化して野生化した大型の犬なのだろうか、一瞬幻のように疾走して消えた。20キロ圏内は警戒区域になっていた。その時野生化した牛や犬や猫がいた。その一部が境界を越えて来たのかもしれない、犬のようにも見えなかった、何かの野生のものなのだろうか?
警戒区域内は人が住まず野生化してゆく、チェルノブエリでも狼とかヘラジカとかが入ってきた。
人が住んでいないところは野生の動物が住むのには適しているからそうなるのだ。

 
 
 

夏の月 (草原化、湿地帯化し北海道になった)


夏の月

(草原化、湿地帯化し北海道になった)


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雨ぬれて草の潤う夏の月


点々と湿地に写る夏の月


ふっくらと姉の顔かな夏の月


夕蛙鳴くや雲間に月のぞく


夕蛙盛んに鳴きめ湿地かな

草原化したというときこれは北海道の景色なのである。緑の草原であり今回のように雨が降ると湿地帯になりそこに丸い月がゆらゆらと写っていた。明かに春より夏の月だった。水田に写る月と湿地帯に写る月は違っている。田んぼになる前はみんなこんなふうだったのである。湿地帯であり草原だった。今年は盛んに蛙も鳴いている。蛙も水田より湿地帯が気持ちいいかもしれない、放射能の影響はないだろう。人間のような複雑な生物は影響しやすいが単純な生物だと影響しないという。もし蛙の声も聞こえなくなったら異常である。蛙は盛んに鳴いている。


夏の月というと姉の顔を思い出す、ふっくらとしていていつも陽気で笑っていたからである。あういう陽性の性格だった。自分は陰性だから陽性なものやおおらかなものとか何か気宇が大きい人とかに憧れる。弱いから強い人にも憧れてきた。人間はないものを満たそうとする働きがある。それは性格でもそうである。すべてをもっている人はいないのである。そしてどんな人でもいいものをもっている。学があるとか関係なくそうである。何ももっていない人はいないのである。体力がある人もうらやましいと思ったが知性がないとか一方は体力が欲しいと思い一方は知性が欲しいと思うのである。体力があって知性がある人は天才しかいない、ただ人間の不思議は自分にないものを他者から補うことができるということである。男性にないものを女性がもっていて補いあうし才能でもそうである。あらゆる才能をもっている人はいない。だから人間社会は互いに補いあうことによって成り立っている。


遅すぎた面はあるが最近前に読んだ本を深く自分なりに理解できるようになった。本もむずかしいといくら読んでもわからない、若いときは特にわからない、でも今になるとこの人はこういうことを言っていたのかと納得するしその人の書いたものを自分なりに応用できる。もうただ読んでいるだけではない自分なりに応用できるとき本当に読書しているのである。そして人間は天からか神からか霊感があたえられる。才能にかかわらず神が関与して与えるものがある。それは自分のもっている才能ではない、神が覚らせるということがあるのだ。それで最近そうした詩をずいぶん一気に書いた。その詩はまだプログには出していない。洞察力とか理解力、鑑賞力が年をとると増してくる。それは特別優れた人だからというのではない、普通の人もそうなる場合があるのだ。透徹した見抜く力をもつようになる。そうしたものは若いときは中年でももちにくいが最後にそういう洞察力をもつことができるようになる。ただその時はすでに死が近いとなる。死の間際になれば人間は何か大事だったのか本当に価値あるものだったがどんな人でも悟るのである。しかしすでに時遅しとなっているのだ。

2012年05月05日

夏の海(津浪のあとに草原から望む海)


夏の海

(津浪のあとに草原から望む海)


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360度パノラマ

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波しぶき遠くにたちて夏の海


波しぶき砕ける白さ夏の海


波しぶき朝に砕けぬ夏雲雀


草原に朝風そよぎ夏雲雀


荒々し白波たつや津浪にも残れる松の数本立ちぬ


田中城湿地の中に蛙鳴く声高鳴りて城を守りぬ


松原がこの辺ではどこでも津浪で流され喪失した。右田の松原はいい松原だった。その松原も百年とかありみんな見てきた。自分もいつも見ていた。ただ松原があるから遠くから海は見えない、浜通りでも宮城県でも意外と海が近かったのだか松原などで海は遠くから見えない、だから海を意識しなかったのである。常磐線でも海が見えたのは新地駅だけでありあとは見えない、ところが浜吉田駅まで津浪がきていた。浜吉田だから海が近かったのである。津浪は遠くから見て津浪が来てから逃げて助かった人がいる。仙台の遠見塚とあるけどやはり遠く、それも海を見ていたからその名がついた。そこも海に近かったのである。海も見えないと意識しないのである。


草原のかなたに波しぶきがたち何かそれが夏らしく清々しい、津浪で原初の風景に戻ったのである。田中城は湿地帯に囲まれていた。湿地帯が防御の役割を果たしていた。その近くまで津浪で来て湿地帯になったことでよりリアルになった。湿地帯と言ってもリアルにイメ-ジできないことがあった。
現実に今は田中城の回りは湿地帯になっているからわかる。ともかく草原化して草が風になびき光景は田んぼがある風景とは全然違っている。でも水田は人工的な風景であり津浪のあとの風景がもともとの風景だったのである。


千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)
http://musubu.sblo.jp/article/34831653.html


ここになぜか三成がでてくる。三成の畑も野馬追いにでている。三成とは縁が深いとなる。


ともかく波がうちよせ一段と砕ける波が夏の日をあびて白い。草原化した湿地帯化した風景は原初の風景に戻ったのである。蛙もかえって元気になり声高く鳴いている感じがする。水田より草原が夏の感じが出ている。水田はどうしても湿っぽくなる。草原は広々として果てに海が見え波が白く砕けて夏らしい。水田の風景は山の方があっていたのかもしれない、海側はもともと湿地帯であり水田に適していなかったが土地がないので無理やり干拓したからである。宮城県の海側もそうである。無理に開拓した所だったのである。広い土地は海側にあったからそうなった。それが元の海に戻ったのである。

福島県の桜散る(短歌で綴る) (福島県の広大さ-ハマ-ナカ-アイヅの風土の影響)


福島県の桜散る(短歌で綴る)


(福島県の広大さ-ハマ-ナカ-アイヅの風土の影響)

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熊川の桜



(夜の森)
夜の森の桜を偲ぶあわれかな帰れぬ人もよその桜見ゆ

(大熊)
熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ

(白河)
双葉より白河に逃れ小峰城花散るあとやあわれ深まる

(三春)
優艶に時を惜しみて枝垂れたる滝桜の香りの濃しも

(二本松)
二本松散れる桜のそのあとにたずねてあわれ散り安きかな

(小高)
浮舟城荒れにしあとに桜咲き復興願う小高の人かな

(飯館)
飯館に花は咲きしも人住まず誰かよるべし花もちりゆく

(南相馬市大原-大芦)
墓一つ山の桜も散りゆきぬ誰がたずぬるやあわれ深まる


森の中隠れて花の咲きにしを花散りてしるその桜かな


来て見れば花は散りにき風うなり過ぎ行く時の今年も早きも


故郷を離れ散りじり何思ふよその桜も散りてあわれも


いずこにも桜はさきぬ日本なりそれぞれの思いあわれなるべし


小峰城に避難した双葉の人
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/11/post_2345.html

 


白河にも双葉の人が避難した。会津にも避難した。会津の城をながめ桜を見た。避難者は全国にちらばった。縁故をたどるときそれだけ今は遠くに嫁に行ったりする。もちろん外国まで行っている時代だから昔とは違う。ただ福島県内に避難したというときやはり地元ということがあるのか?
他の県にゆくよりは仲間意識がでる。自治体としてもサ-ビスがあるし情報も入ってくる。他県にゆくと福島県のテレビなどが見られないということがある。インタ-ネットは別である、だから全国にちらばっている人が福島県や浜通りの情報を求めていることがある。自分のプログでもそうである。
こういうときインタ-ネットは役立つ、ただもう一つ情報の活用がうまくいっていない。 福島県といっても実際は広すぎる。浜通りと中通りと会津があるけど会津は一つの別の山国である。会津自体が歴史もあるしその歴史の層も厚い。広大な森に歴代の藩主や会津藩にかかわりある武家の人の菩提がある。



会津武士桜に月や山に散る

秋日さし苔むし重なる菩提かな

歴代の墓の重なり秋の蝉


その中に三人女性の菩提かないかなる女(ひと)やあわれ深まる


奥山を藩主たずねて咲く桜会津知られじ山に月かな


会津は広すぎるのと山が多いしその山も高いから地理がわかりにくいのだ。会津というとき月にしても山に月であり山国の情緒である。この辺は海から月が昇り山に沈むけど山に月を見ることがない、谷間の月も見ることがない、2000メ-トル級の山が重なる会津で奥深い山の峰の間に月が落ちる。
その情緒はこの辺とは全然違っている。


ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて返り見すれば 月かたぶきぬ 柿本人麻呂


これは山の中で歌われた。しかし海辺だったら海から日が昇る。浜通りではそうである。すると福島県全体ではひんがしは浜通りであり月かたぶきぬ・・・は会津になるのだ。無理やり福島県を一国とすればそうなる。その範囲は拡大化しすぎているけど無理すればそうなる。月は山にあう。


蕎麦 一斗打 草臥し 暮の月 蕪村
http://haikusenryu.yomibitoshirazu.com/yume_haiku/
yume_sobaudon_soba_haiku_sono4_buson.htm


蕎麦と月はあっている。山に月があっていると同じ感覚がある。檜枝岐などは相当な僻地でありだから平家の落人伝説が生まれた。そこでは蕎麦が主食であり米の飯は食べるのは贅沢であった。米は他から買っていたのだ。買うにしても駒止め峠がありあの峠は凄い峠だった。今は下にトンネルができて楽に行ける。昔は檜枝岐は交通が隔絶された陸の孤島だったのである。今は尾瀬などの観光地になったからわからなくなったのである。会津は蕎麦が主食とするような所であり食文化すら相当違っていたのである。


奥深き会津の山に没る月のあわれや主食は蕎麦なりし日かな


福島県の桜というとき他にいくらでもある。会津の桜は有名であっても訪ねることはなかなかできない。桜にも月があっているから会津武士は山をよりどころとしてある。この感覚は浜通りでは実感としてわからないのである。「会津武士桜に月や山に散る」山に咲き山に散る桜である。それは潔く高い山の清気のように清らかである。だから白虎隊の壮烈な悲劇があった。山国故の閉鎖された環境と言えばそうなる。会津という風土がそうさせたともいえる。貿易とか盛んな港があると適当な所で妥協している。そういうことができない「ならぬことはならぬ」とか頑固に拒絶して首相にならなかった政治家もいたことでわかる。海に接していると心は開けてくるが山は閉ざされるのである。山で形成される思想と海から形成される思想はまるで違ったものとなるのだ。


イサスミの杉の木立の森厳に齢を保つ薄墨桜


言い伝え残し会津の山の奥千歳桜の今だ咲かじも


京の姫幾年ここに過ごせしや御前桜の咲きて散りにき


桜前線の短歌
 http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm


御前桜は白河街道の福良には泊まったことがあった。あの時は風雨が激しかった。それも一興だった。自転車だからもらに雨風を受けた。


風雨なか御前桜や旅路きて我がしのべるや街道の道


福良なる土蔵の宿に我がとまる堀に菖蒲やあわれ深まる


茅葺きの家の通りや福良宿菖蒲咲きにつ曲がる細道


福良は情緒あるところだった。白河街道は昔の風情が残っている。忘れられた道として魅力がある。あそこから会津の城下に入った方が趣がある。御前桜はここにあった。この桜もあまり知られていないだろう。今また旅を思い出して書いている。前に書いていたからそれに追加して書いている。
インタ-ネットだとこういうことがしやすい、書き換えたり追加するのが簡単なのである。
だから前に書いたもののつづきかなり書いているのだ。元になるものがありそれに追加してゆく,補てんして書いてゆくのである。会津は広いから探求したらきりがない、高い山が望めるから気持ちいいのだ。会津はやはり山国であり山国の文化である。山によってたつ文化である。それは奈良ともにている。ただ奈良には山に囲まれていても広い平地があった。あの平地はもとは大阪湾から海が入り込んでいて湖になり湿地になり平地になった。琵琶湖もそうである。山国でも海が太古には関係していたのだ。(やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし」この感覚とは違っている。会津城があるところは多少にている。平地があるからだ。

福島県では夜ノ森の桜もいいが熊川の桜も見た。あそこに行ったのは貴重だった。あの一本の桜は津浪で流されたかもしれない、かなり海に近いからだ。あの道の脇には家があった。それも流された。今になるとこの写真は貴重である。今年の春では大原や橲原から行った昔の秘境である大芦の桜であった。桜一本の下に墓が一つあってあわれが深まる。墓一つだからその墓一つに注目されるのだ。
墓が多いと一つには注目されないのである。飯館村には今年は行っていない、あそこに桜並木がありその花影の下を歩いたことがある。飯館は別に自由に出入りできるからいい、浪江などは高瀬川などの景勝地があっても入れないから損なのである。あそこにも桜咲いていた。


高瀬川激つ流れや磐を打ち山桜映え芽吹きけるかな


都路は山のかなたや春なればまた行かむかな鳥鳴き飛びぬ


飯館に今年は行かじ静かにも花の影歩む日を偲ぶかな


高瀬川は流が激しい、その山のかなたは都路村であった。今は都路という名前は合併で消えたけどやはりこの名前だけでも都でもなんでもないのに山の都に行くという気分になるから不思議である。


月見れば 国は同じぞ 山へなり 愛(うつく)し妹は へなりてあるかも


山隔(へ)なりが日本の風土である。福島県は阿武隈山脈で隔てられ中通りがありさらに山国の会津がある。ここも山又山でありチベットかネパ-ルなのである。阿武隈高原でも山にさえぎられている。
会津になるとその峠は駒止め峠のようにはるかに高いものになる。山頂は湿原であり高山植物が咲いているからだ。

ともかく日本は桜の国である。桜は咲いてはかなく散ってゆく・・だから人生を投影しやすい、短い時期に一生が投影される。それで日本人のアイディンティティが桜になったのである。だから桜について語り尽くせないのである。みちのくの桜もいろいろある。ただ岩手県にしろ弘前の桜にしろかえって見なかった。西の京都、大阪は見た。


平泉夕べ桜や栄えたる昔の跡を旅人たずぬ


広瀬川流れの早し花の散る反る石垣燕飛ぶかも


海に映え桜は咲きぬ石巻正宗の心ここにあるべし


政宗は石巻の月の浦から支倉常長をヨ-ロッパに船で遣わしたように石巻に城を作る予定だったのである。より海に近く海を望んでいた
みちのくでは唯一視野の広い英傑だった。日和山には桜が咲いたがやはり今年は石巻は観光とはいかない、その前が津浪に襲われ無残すぎた。景色は変わらないしあの日和山は変わらない、みちのくといってもさらに奥深いのである。

 


 

2012年05月06日

自然に悪意はない、津浪はただ自然のバランスを取り戻すためだった (失われた白砂の風景が津浪で回復する)


自然に悪意はない、津浪はただ自然のバランスを取り戻すためだった

(失われた白砂の風景が津浪で回復する)



もし,防潮堤が造られていなかったら,どうなって
いただろうか.時に浜や松林が侵蝕されることはあろ
うが,また徐々に浜に砂が戻り,自然に復元される.
昔ながらの風景が残されたのではないだろうか?
http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/05_12_03.pdf

どんな文明はそもそも自然破壊になる。文明は人工的に自然を改造することである。縄文時代は自然とマッチしていた生活だけど稲作は文明でありその時飛躍的に人口がふえた。この稲作文明は日本でも二千年ととかつづいた。だから江戸時代になるといたるところ開墾して山では棚田を作り海側を干拓するようになった。それは一見自然のように見えて美しいのだけど自然破壊から成り立っていた。焼き畑農業にしても自然破壊だった。森を切って畑を作れば自然破壊なのである。人間は自然破壊しなければ生きていけない宿命を背負っていたのである。動物は自然破壊をしない、ある種だけが異常にふえたりしない、増えれば淘汰されバランスを保つ、自然は絶妙なバランスの上に成り立っている。そのバランスを壊したのが人間だった。道具をもつことも自然破壊に通じていた。だから老子は2千年前に道具をもつことさえ否定した。小国寡民が理想だとした。それは自然を破壊しない生活だったのである。縄文時代は小国寡民である。弥生時代は稲作はイナリが鋳成りのように鉄の道具と密接に結びついていた。稲作は土木事業であり鉄器の鍬や鎌などの道具がないとできないから一大文明だったのである。


もう江戸時代になると米を作る場所がない、もう人口は増えない限界に達していたのだ。稲作中心の文明は限界に達していた。そこから工業化が起こり明治になるとまた飛躍的に人口がふえたのである。結果的にはもっと大規模な自然破壊になった。自然破壊は今や頂点に達していた。白砂青松の風景は人工的な風景であっても美しかった。ただ白砂はどこでも喪失していた。青松は松原はどこでもあっても白砂の浜辺を見る所はまれになっていた。だから江戸時代にあった白砂青松の風景はなくなっていたのだ。海岸の浸食も激しくただ海岸では防潮堤を見るだけになっていた。今回の津浪は悲惨だったけど元の自然にもどったということがある。防潮堤は破壊されて白波が海岸に直接よせて白い波が砕けている。防潮堤がなくなれば元の白砂の浜辺に戻るかもしれない。

松原がなくなり名取り辺りまでの海岸線は白砂の浜辺になるかもしれない、遠くから海も見えるようになる。湿地帯であり白砂の浜辺は北海道になる。それは元の自然にもどった。自然は無常であり残酷というけどそもそも人間に自然が敵対して人間に罰を与えるとかそういう意図はない、ただ人間側に悪が蔓延すると天変地異が起こるというのはむしろ自然災害によって地を清めるという作用もあった。津浪は元の自然にもどした。自然はそういうバランス感覚がある。海岸線は白砂が長くつづいていてそこは丁度海の前庭だった。海には前庭が必要だった。そこが人工的に干拓されて田になったということが不自然だったのである。自然から見れば何か悪い意図があったということでない。人間側で無造作に不用意に自然を改造しすぎたから津浪がきて元の状態にもどされたともなる。津浪が自然の側からすれば特別なことではなく自然なことだったとなる。


自然災害は文明化すればするほど被害が甚大になる。都会はだから災害に弱い。大地震がきてこれからどんな被害になるか予想もつかないのはそのためである。原発事故も文明故の災禍だった。そんな危険なものを作るなよという自然からの警告だった。前から書いてきたけど文明はあまりにも天地から遊離してしまったのである。誰も古代のよう天にお伺(うかが)いをたてることなどしない、お伺いは科学者にたてる。科学者が現代文明の神官だからである。天に海に古代のようにお伺いをたてることなどしないのである。文明とは人間が神となってしまったことに通じている。すべては人間の力で解決できる。科学時代は科学の力で解決できる。科学万能時代になった。それは絶対化して科学が宗教になった時代である。何かあれば科学的に説明してくれ。それで納得するとなる。でもその科学的説明がかえって科学的ではなく人をだましてしまった。

科学的に人をだますということである。宗教的に人をだますということもカルト宗教ではある。宗教的詐欺がある。宗教は責任は問われない。直人間に手をかけて治療したりしない、手術したりはしない、工事をしたりもしない、それを実際にやるのは科学者であり技術者である。科学を絶対化すれば科学も宗教になる。天にお伺いたててどうなるんだ、科学的に解析して証明すれば問題は起こらないというのが現代だったのである。浪江はやはり津浪を暗示した名であり標葉(しめは)とは禁断の地だったのか?人間が入ってはならない地だったのか?何かそういうものを暗示したものだったのか?そこが今回原発のあるところであり津浪が来て事故になったのである。


「こゝへ畑起してもいヽかあ。」「こゝに家建ててもいヽかあ。」「こゝで火たいてもいいかあ。」「すこし木(きい)貰(もら)つてもいゝかあ。」それに森は一斉に「いゝぞお。」とか「ようし。」と答え・・・(賢治-狼森と笊森、盗森)


森におうかがいをたてている。ここに畑を作っていいかとか、田を作っていいかとか、村を作っていいかここに町を作っていいかとか・・そんなことを自然におうかがいをたてることなどしない、それはすべて科学者が技術者が決めることでありその人たちが万能になっていたのである。神となっていたのである。確率的には百万年に一回しか事故は起こらないと統計的数学的に確率論で割り出していることこそこれも宗教的詐欺とにている。科学によって人を信じさせていたのである。科学が宗教になればそうなる。単なるあてずっぽうではなく科学的だから確実であり信頼できるとなりだまされたのである。結果的には科学もだます一つの手段だったとなる。ただ呪文を唱えている時代とは違う。科学は確実に効果を効験があるから科学時代になった。そして科学が宗教になったときそこに落とし穴があったのである。ともかく科学は万能ではない、原子力のことは全部知らないしもともとコントロ-ルもできない危険なものだったのである。だから火を盗んだプロメテウスのように過酷な罰を受ける結果になった。人間はどれだけ科学は発達しても万能にはならなし神が最終的には左右する力をもっている。神が奇跡を起こすというときまさに科学を越えたものを神はできるし奇跡を起こしてきた。万能だからできることである。その万能の神に最後は祈るほかないとなる。津浪によって人間はその無力を知らしめられたのである。

posted by 老鶯 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年05月07日

雷雨のあとの夏の月

 

雷雨のあとの夏の満月

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満月や雷鳴るあとに澄みにけり


夏の月早き流れに映え光る


夏の月光反射し流れかな


月明かり雷雨にぬれて若楓

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今日の天気は一日めまぐるしく変わった。最初は海の方から霧がでていた。それも晴れたと思ったら山の方から雷がなった。稲光りも激しく瞬間的に停電した。つくば市では竜巻であり死んだ人もいた。家も破壊された。落雷で死んだ人もいた。何か津浪とか自然が変化しやすい、津浪の前は猛暑があった。一身上でも身内が認知症になってからろくなことがなかった。災いの連続だった。どうしてこんなに災いがつづくのかと疑問に思っていたら津浪が来たのだ。犯罪にあったしそれでかなり相手をのろっていた、そしたらあの津浪がきたのである。自分の家の中が姉が死んでからめちゃめちゃになったのである。それは信じられないことの連続だった。最後に津浪がてき原発事故になった。

この雷にも外に出て追われた。でもそのあとは晴れ渡りきれいな満月が出ていた。それで外に見に行った。今日の満月は大きく見えるとかネットで自分のサイトにくる人がいた。こういうとき同時につながっているから検索すると同時間を共有できるのがネットである。
本当にこの雷のあとに澄んだ夏の満月が輝いていた。水がまして流の早い川の面にその月が写っていた。光を反射していた。それから家の若楓も雷雨にぬれて瑞々しく月の光に照らされていた。

この一連の自然の変化は激しかった。その時リアルタイムでアップすれば臨場感がでる。
この同時間を共有するのがネットの醍醐味なのである。今も全国で同じ満月を見ている。ただ場所が違っているから違うように見えるのである。春から夏はやはり生命が一番輝くときである。

 

古殿の越代の桜(古殿の歴史の道)


古殿の越代の桜(古殿の歴史の道)


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古殿の越代の桜今盛り山風そよぎ磐により見ゆ
http://blogs.yahoo.co.jp/yuuzen50/36954194.html


古殿の越代の桜その下に岩のいくつか動かざるかな


縁側に山桜見て下郷の戸赤の村や家も古りにき


縁側に山桜見て戸赤かなここに年ふり語る人あり
http://www.tohoku-sakurakaido.jp/lineup/fukushima/sakura16.html

 


古殿町は古くから太平洋岸と内陸部を結ぶ物流の中継地として栄えた。今に残る「荷市場」などの地名は当時の名残なのだろう。伝統行事の流鏑馬にも歴史がうかがえる。

古殿地方の新領主は岩城大和守隆宗であったという。彼は主家岩城氏没落後、上洛して家康にあい成瀬隼人正政成のとりなしで竹貫3000石を新たに賜り、しばらく伏見城在番の上、慶長9年改めて竹貫へ入部したという。
隆宗が慶長15年に死去すると、領地は没収され相馬家の家臣となったなお、竹貫氏からは大竹氏が出ており
http://yaminabe36.tuzigiri.com/fukusima%20nangoHP/takanuki.htm


標高500mの阿武隈山系のど真ん中古殿町竹貫は、中通りと浜通りをつなぐ御斎所街道の宿場町として発達した町でした。古殿町の中心部である竹貫は、中世竹貫氏の城下町でもあり、当時から宿場町として問屋が置かれ、市が立ちにぎわったと言われます。

「御斎所山熊野神社」の標柱が立っているので、迷うことなく出発点となる熊野神社の鳥居に着くことができた。
http://ftk-ac.net/01_hik/2009_hik/4302_gozaisyo/4302_gozaisyo.html

 


源頼朝から竹貫の領主に社領地が下り、時の竹貫領主はこれを記念して、領内兵士達による笠懸(かさがけ)と流鏑馬(やぶさめ)を盛んにして祭礼当日の神事としたと伝える。棚倉藩になっても祭礼当日は領主の代参は欠かさなかった。 鎌倉山とあるから明かにこれは鎌倉と関係していた。南相馬市鹿島区の岩松氏も鎌倉から来た武家である。鎌倉から東北に領地を与えられて移住した人々は多い。テレビで見たとき岩があることに注目した。田村市にある同名の山と区別するために、こちらは竹貫鎌倉岳とも呼ばれている。鎌倉とついてもすべてが鎌倉に由来するとは限らない。


インタ-ネットで見たら岩がほかにもある。その岩が実際に見ていないにしろ村の人が取り囲むようにまた座談しているようにも見えた。石も人間に見えるのである。いかにも山奥の村らしい。一回ここに阿武隈高原を通って自転車で行ったことがあった。ここも地理的にわかりにくかった。山だとわかりにくい。古殿の町に入る所に滝がありその流れで頭を冷やした。秋であったが暑くてそうなった。それから御斎所山街道というのは御斎所山熊野神社があり修験道の山でありここにお参りしたためについた。それにしてもここはくだっただけど相当にきつい坂が延々とつづいていた。この道を上り塩など運ぶのは容易でなかった。古殿町はその中継地点としてあった。いわきの海からここまで来ること自体容易ではない、今でもそうである。この道が会津に通じていたというのもまた遠い道のりである。あとで棚倉藩に組み入れられた。相馬藩の家臣になったというのも興味深い。相馬からそれほど遠いというものでもない、でも磐城氏や棚倉藩の狭間にあった。あの辺の地理が本当にわかりにくい、つくづく福島県は広すぎるのだ。わからない地点がいくらでもある。ここの越代の桜は確かにテレビでも写真でも見物である。桜にしても桜の咲く時期に見れるのは限られているからいくらでも見れない桜は日本ではある。ここは古殿とか越代とか地名がいかにも重厚な感じでいい。百伝う磐余の池・・・の地名ともにている。何か地名からも荘重な雰囲気がでてくる。これは確かに山桜であり見物である。

古殿や滝水に頭冷やすかな


古殿の秋こそあわれ荷市場と昔の人の通う道かな


古殿ゆ遠野をめぐりいわきへと海を望めば秋となるかな

古殿から遠野にでて磐城の海の方へ向かった。ここの道は遠かった。ただ記憶がうすれどういうふうに行ったかわからなくなった。
磐城そのものがここも広いからわかりにくいのである。

下郷の戸赤の桜は村の人が縁側から見ていた。山桜を縁側から見るのは贅沢である。あれだけ集まって咲いているからこれも見物である。あそこで縁側はまだ生きている。縁側自体なくなっている家が多くなった。なんかなつかしい風景にもなっている。実際に過疎の村であり若い人は桜の時期にもどってくるというのはわかる。ちょうど連休の五月ころ咲くからである。桜は他にいくらでもある。知られない桜もいくらでもある。その桜を短歌にした。福島県は実に広大である。会津は奥深くてその全容は知り得ようがないのだ。
 



インタ-ネットは郷土史関係では役立つ、一つの村でも町でも一ペ-ジでも書いてあればそれだけで全国になれば膨大な量となるのだ。本だと調べようがないのである。もう一つ効果的な利用方法はテレビで見たり本で読んだりしたことと連携することでてある。メデアミックスである。ただ今までのマスプデアはインタ-ネットを敵視ししている。自分たちの特権が奪われるからそうなっている。インタ-ネットは関連したものを探すのが得意でありそこから興味を拡大化できるのである。福島県だって古殿といってもわかりにくいのである。インタ-ネットは個人的にでも膨大な情報収集できてそれを福島県のインタ-ネット内の図書館のようにできるのだ。インタ-ネットは個人的にでもメデアをもつということが強みなのである。
メデアをもっていたのは新聞社とか出版社とかテレビ局でありこれは金がかかりすぎるから個人ではできなかった。インタ-ネットで個人放送局ができたことは大きい情報社会の変化なのである。
ただまだ十分に利用されていない。利用方法がわからないという面もある。プロ的な仕事をインタ-ネットでしているのも少ない、結局金にならないからしないのである。そこに一つの問題がある。

2012年05月08日

夏の俳句十句(浜街道を相馬市まで)

 

夏の俳句十句(浜街道を相馬市まで)

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我が家や姉亡きあとの牡丹かな


街中の倉に紋かな藤の花


家新し広がる夏野住宅地


仮設の畑の広し夏の午後


ほしいまま草原を飛ぶ夏燕


自転車に遠くに行かむ夏燕


街の中羽つくろうや夏燕


水張る田田鴫のあまたいでにけり


詩碑には遠潮鳴りと若葉かな


城下町辻を曲がりて日影かな

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水張る田田鴫のあまたいでにけり


八重桜咲きて来なれし道歩む介護しつつも今日も暮れなむ


街道に二本の松や八重桜ここに咲きにつレストランあり


嫁ぎきて長くも家にありにける母を介護し八重桜咲く

 


街の中の通りにある家は古いのだろう。倉がある家はまず古い。街でももともと農家だった家がありそういう家は倉をもっている。この辺は町自体が小さいから富豪はいない。医者とかが金持ちでその他目立って金持ちはいない、ウダツの町並みなどは有名だけどそういうふうにみちのくでは栄えた町は少ない、喜多方は蔵の町として栄えた。蔵をもつことが一人前になったということであり蔵を建てて誇った。喜多方は商人の街だからそうなった。この辺では震災以後ずいぶん家が壊された。古い家が壊された。だから変化が激しいのだ。古い家が十軒くらい壊されている。

五本松というレストランは環境がいい、街道沿いでありあそこにはいい松が残っている。今は八重桜の季節である。あそこで食事した。店がいいというとき他でも常に評価するのは料理としての技術であり次にもてなしであり次に環境なのである。旅館なども見晴らしがいい所は部屋が高くなる。
病院すら環境が大事である。環境はどこでも大事なのである。意外と料理ばかりが注目される。
環境が評価されることはない、あそこは環境が一番良かった。立地条件がいいところはやはり価値が高くなる。

相馬市に入るとまだ田植えはしないにしろ水を張っている。そこに田鴫だろうか十羽くらいいたのは見物だった。それが丁度昔なら田植えにでてくるような人をの光景に見えた。昔は村総出で田植えしていたのである。それはまたこの田鴫が一杯水張る田にでてきたのとにていた。人間もそのとき自然とマッチしていたのである。一度にあれだけの田鴫を見たことはない、田鴫は一羽くらいは飛んでいる。田鴫は秋の季語だった。渡り鳥だからたくさんやってきたのだろう。尼鷺も一羽すでにみかけた。やはり夏らしくなった。
相馬市の城跡の神社に「遠潮鳴り・・・」という詩句があった。確かにこの詩語はあっている。夏らしく感じた。


遠潮鳴りは われら呼び・・・

http://www.miyapedia.com/index.php?title=
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岩手県宮古の小学校の校歌にあった。このことで思ったのは相馬市は松川浦があっても海からかなり遠いのである。鹿島区や原町や小高や浪江は海に近い、だから六号線近くまで津浪が来た。小高では駅を越えたのである。相馬市は海から一番遠かったのである。そして阿武隈山脈の山側に近いのである。それで海側の原町や鹿島より放射線量が高かったのである。放射性量は山側になると確実に高くなっているのだ。それで疑問なのはなぜ高いのに田でも普通に作らせていることである。南相馬市とそんなに変わらないからである。ただ水の影響は南相馬市の方が受けているからなのかわからない。ただ普通と同じだから相馬市は変わらないと見てしまうだろう。


ともかく夏は遠く行きたくなる。自転車でまた遠くへ行きたい、しかし介護であり病気持ちでもあるから行けない。病気はそれほどでもないから行けないこともない。夏はやはり北海道をどこまでも走りたい。あそこは自転車に一番向いていたのだ。