2012年04月30日

大芦や地蔵木などは昔は秘境だった (不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)


八木沢峠の麓の大芦や地蔵木などは昔は秘境だった

(不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)

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郷土史でもやはり地形に通じないと見えてこないものがある。日本の地形は山あり谷あり川あり海ありと複雑なのである。海にそった浜通り側は比較的わかりやすい地形だった。でも山側になると複雑に入り組んでいるのだ。だから阿武隈高原でも地形的にはわかりにくい所だった。
飯館村の八木沢峠の麓の地帯は山間であり地形的に窮屈な所でありここに人が住んだの南相馬市の原町区や鹿島区の橲原村よりはあとである。分家した人たちが入植した。姓を見れば橲原村や大原村の人たちが入植したことがわかる。あそこでは田にする平地がない、それでもわずかに田を作っていた。大原から坂を上って遠田と地名があるから大原の草分けの前田から遠田に開拓地を広げた。それは分家して遠くに田を作り人が住み着くようになる。それが八木沢峠の麓の谷間に人が住むようになったプロセスである。ただ江戸時代からあそこに人が住んだかどうかはわかりにくい、真宗系の石塚の墓が一つあったが時代がわからない、橲原村でも明治時代ものしか残っていない、あそこの谷間から上萱(うえがや)へは戦後に開拓する人が入った。新しい村でありそれも消滅した。
江戸時代に人が住んでいたかどうかが村を見るには大事である。

橲原渓谷から大原への坂を下る所に六地蔵があった。これは埋もれていたのでわかりにくい、六地蔵は村と村の境界にある。とするとあそこが橲原村と大原村の境界だったのか?江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。民情が違うということはどういうことなのかわかりにくいけど村と村は交わらない一つの国と化していたためだろう。橲原村と大原村には新しい道ができたけどそれまでは地蔵木からなどの道が大原に行く道だった。今は車が頻繁に通るからあそこが不便な所などと意識しないのである。あそこは大原村よりも橲原村よりも不便な所だった。車のために本来は不便なところが便利な所のように見える錯覚を作り出しているのだ。
あそこの谷間の特徴は道を挟んで原町区の大原村と橲原村に分かれていた。どちらからも分家した人たちが開拓に入った。そこで混在することになったのだ。上萱は栃窪村に編入された。原町市と鹿島町が合併する前は行政的には統一されていなかった。


橲原村からであれ大原村からであれこの土地で暮らすとしたら土地が必要である。その土地がないとなるとあのような不便な土地を開拓して住むほかなかったのである。地形を見ればその村の古さがわかる。そして郷土史研究の基本が村の新旧を知ることがまずある。江戸時代から村があるのと明治以降開拓された村は分けるべきである。武家の出や野馬追いの出る家はそうした家にはない。なぜ上萱とかさらに不便な場所に開拓に入ったのか?それはもう土地がないからだ。それで戦後農業する人はプラジルに渡ったりしている。土地がないから土地を求めて渡ったのである。

あそこは自然的には魅力ある場所だった。橲原渓谷の上流であり不動滝の御堂があるところから太古林道を上るとその源流があり大きな岩があったりする。橲原村が鹿島区の奥座敷でありそこからさらに奥の秘境だったともなる。ただ今は車が頻繁に通るからあそこがかえってにぎやかな所だと錯覚しているのだ。昔だったら人も訪ねるもまれなる地域だった。橲原からも大原からも坂でありいかに辺鄙な場所だったかわかる。あそこには村の墓地があったのか?一つだけ家の墓があった。それも新しいものである。上萱には墓地があったがなくなった。いづれにしろ人間は地形にそって住む場を広げたことがわかる。

posted by 老鶯 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

草原化した田んぼにタンポポが咲く (高齢化社会にはコンパクトシティがいいのか?)


草原化した田んぼにタンポポが咲く

(高齢化社会にはコンパクトシティがいいのか?)


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タンポポに子供の顔の大きくも迫り輝きうれいのなきも

青々と草の茂りて燕とびタンポポ満ちぬ海も近きに


海よりの風のそよぎて青々と草のなびきて揚羽飛ぶかな


故郷に我が年ふるもこの夕べ雲雀鳴きあふ声のひびけり



この辺の風景は津浪以後変わってしまった。北海道のように草原化したのだ。田んぼに青々と草が茂り一面にタンポポが咲いている。この景色は北海道である。北海道には奥になると水田がない、広々とした草しげる原がつづいている。北海道に来たとき空気まで違うと感じたのはやはり水田がない、湿っぽくないということにあった。カラリと乾燥していて草原があり花々が咲いている。日本の水田的景色とは違っている。牧場的景色でありそれは明かに地中海とかヨ-ロッパの牧場的風土になる。
イギリスなどでも丘が連なりゴルフ場のようになっている。あそこにゴルフが生まれたことは風土からしてわかる。自然のゴルフ場になっていたからだ。湿潤なモンス-ン的風土と北海道的牧場的風土は精神的にも違ってくる。これは和辻哲郎の風土文化論になる。


この辺の変化は津浪、原発事故が激しい。人口が増えてにぎやかになったのも不思議である。仮設店舗なども30軒くらい増えたのである。他から入ってくる人も多い。名古屋から来た人が太鼓を披露していた。そういう芸能関係の人々も入ってくるからにぎやかになったのである。それは悪いことではなかった。こうなると津浪被害にあったところは今までとは違う街作りが要求されている。逆にそういうチャンスだということもある。更地になったのだから思いのままに新しい計画を作れるとういことがある。でも水田がなくなってそのあとに一体何を新しく作るのかとなるととまどうだろう。

放射能で牧場もだめだとなると北海道のようにはならない。ソ-ラパネル発電は試している。それも土地がないとか採算が合わないとか問題がある。新しいものを創造するチャンスにしてもそれがどういうものか描けないということは確かである。



特に中山間地帯では、隣の家まで車で5分以上かかるというように、さらに低密度に家が建っています。ご飯を作ることが大変なお年寄りに弁当を配る「配食サービス」という福祉事業がありますが、このような中山間部では配る手間がかかるので採算割れとなり、公的支援なしには成り立たなくなっています。


 これは介護ヘルパーさんも同じです。家が分散していると、移動にかかる時間と費用が馬鹿になりません。福祉サービスの実施の面でも問題が生じるのです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3188


一軒一軒回ることは相当な手間なのである。福祉サ-ビスはこういうことに時間をかけると行き届かない。一所に集めると楽なのである。労働力が不足してきたとき効率的にするとするとやはりコンパクトシティがいいとなる。現実この辺では津浪の被害にあった人は街周辺に集まり期せずしてそういう状態が作られたのである。やはり高齢化社会は分散しているとサ-ビスができなくなる。自給自足の村社会とは違っている。病院でも福祉でもサ-ビスを受けたいとなると効率的ではないのである。

この辺ではそういう将来のビジョンが混乱して描けない、変わりよう激しすぎたのである。ただとまどい混乱しているだけである。田んぼがなくなるなど想像すらできなかったからだ。もちろん故郷自体が消失することなども想像すらできなかった。

でも高齢化社会とかにはコンパクトシティ化が要求されるし何か方法を考えねばならないしこの辺はそうした新しい計画が必要になったのである。水田が草原化するということ、これ自体が余りにも大きな変化だった。ただ水田は復活するのか?別に隣の相馬市では風景は変わらないのである。ただ不思議なのは中通りの福島市でも郡山でもここより放射線量が高いのに同じ様に米は作っている。
それもどうしてなのかとかと思う。


要するにこの大きな変化に未だ人々は対応できないない、小高の人は警戒区域解除でも何ら変わりないとか喜ぶべきことではないとか帰れないとか言っている。まだ将来の見通しが小高区ではたてられないのである。だから帰らない人が多いのである。