2012年04月28日

桜の短歌十首(橲原村から鹿島の町へ) (日本ではどこでも桜の名所がある)


桜の短歌十首(橲原村から鹿島の町へ)

(日本ではどこでも桜の名所がある)

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犬猫の墓や山家にすみれかな

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二輪草一群れ咲きて山間の流の清く日さしかげりぬ


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鶯と蛙の鳴くや橲原村


山の墓一つありにき錨草


苔むしぬ樹の根元や錨草


犬猫の墓や山家にすみれかな


春の鴨待つ人あれや里の川


星いくつ遠くまばたき花に月


一本の桜の下にの花の影一人行くのみ橲原の村


午後の日の谷間にさして山桜高きに映えて鳥の音ひびく


一本の桜の下に墓ありぬここのみ華やぐ山間の村


山の墓一つありにき一本の桜も散りてあわれ深まる


町方の花の散りぬる夕べかな道を染めにし絹のごとくに


鳥は飛び紅染むる花の色いづれの町も花は咲くかな


風なきに花は散りゆく惜しきかな花には早し時のうつりは


夕日さし花の散りぬるあわれかも時のうつりは早くもあるかな


裏の道花の散りぬる雨しとと我が行き来する町の暮れゆく


夜の森の桜を偲ぶあわれかな帰れぬ人もよその桜見ゆ


 

山鳩に芽吹きし樹々や夕暮れぬ森に隠れて家のともしも


二輪草一群れ咲きめ山間の流の清く日さしかげりぬ


町にある墓はこみ入り狭きかな春の夕べや我が帰るかな


山の墓たずねて町の墓たずね春の日あわれ我が住みにけり


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橲原村の方に行った。一本の桜が咲いてそこを通る女性が一人だった。あそこはいつも人はいなかった。ただ江戸時代からある村だった。ただ墓は明治時代のが多い。あそこで江戸時代の墓が見つからない、杉林にある石塚は名前もわからないが明治時代のものである。戦後も小池に引揚者が開拓に入った人を知っている。その人は自分の父親と双葉の新山の酒屋で働いていたのである。店をやっていたから父親があって親しくなったのである。戦後まもなく全国で引揚者が開拓に入ったのである。
働く場所がなかったのである。上萱などはなくなったが戦後まもなく開拓に入ったのであり新しい村だったのである。それも消えてなくなった。この辺がまぎらわしいのである。江戸時代であればそれは何であれ郷土史関係でも価値があるが明治以降になると価値が落ちるのだ。だから墓を見るときは江戸時代のかどうか見るのがポイントである。

橲原から橲原渓谷を入ってゆくと大葦とかに出るがあの辺は原町区の大原と鹿島区の橲原村に道を分けて分かれている。どちらかというと

大原の方から入って来た人が多いだろう。桜が咲く下に墓が一つあってそれは真宗系の墓だった。一つ石塚がわきにありそれはいつの時代のものなのか?なぜ真宗系なのか?どっちかというと越中などから飢饉のときに相馬藩に入って来た人たちは不便な条件の悪い場所に入った。だからあんな所に入ったのかと思うが別に子孫もいるし江戸時代のものかどうかわからない。ただ上萱よりはあそこは古くから人が住んでいた。大原は江戸時代からあったからその延長の村であり橲原村から入った人は少なかった。ただ良くわからない。

墓が一つだけあるから目立つ、その墓はその近くの家の人だけが参る墓である。そういう墓も田舎には多い。でもその家が途絶えれば墓参りする人もなくなるのだ。それで上萱の墓もなくなった。家族が移動したのである。あの辺は放射能が高いから一部は移動しかもしれない、側溝の落葉のところが20マイクロシ-ベルトあったのは驚いた。道では5か6くらいであった。高いことは高い。側溝は特別どこも高いのだ。水でセシウムが流れだしてたまっているし落葉にはたまりやすいのである。

その墓の近くはキクザキイチゲやらスミレやら二輪草も咲く流れがあり錨草も咲いていた。
ただここは放射能で汚染されたというよりゴミを捨てているのでがっかりした。頻繁に車が通る所なので捨てられたのだろう。放射能よりこっちのゴミの方が目立つのである。放射能は別に水を汚したり見た目には見えない、ただあれだけの放射線量があるとする下流に影響するから鹿島区では耕作させないのだろう。猿が良くでてきた。猿などにどう放射能が影響するのか?山のものを食べていれば必ず放射能の影響があるからだ。

橲原村は橲原渓谷があるからいい、高速道路を車がすでに走っていた。あれが東京と通じたらこんなところでも人が入ってくるようになったかもしれない、飯館村なんかも原発事故がなかったらかなり入ってきたかもしれない、高速道路を待ち望んでいたのである。東京から飯館村も来やすくなったことは確かだろう。でもあの辺は風穴の湯とか農業でも畜産農家でもやめる人がふえるだろう。そのあとどうなるんだろうとなる。ただ高速道路が通れば東京からの客が来ることも考えられる。

橲原村は前にも書いたけど丁度鹿島区の奥座敷のようになっていたのである。回りを森に囲まれているからだ。大原は昔は大原山人という人が住んでいたが今は車がひっきりなしだからそういう感じがないのである。橲原は車が通らない分今も奥座敷の静けさを保っているのだ。

そこからまた町の方に下ってきた。桜ももう散って終わりつつあった。花の命は短い。桜で感じることは花が咲き散ることにより時の移りを感じる。それを日本人は自分の命にたくしていたのだ。花が咲いて散る・・・その移り変わりが人生とみるようになった。他の花にはそういうことはない。ただ咲いて枯れるだけなのである。花は美しく散ることこそが美しいとなった。そういう日本的美学を桜は作ったのである。ただそれは戦争のとき故意に作られたということもある。命を惜しむな散る桜こそ美しいのだとなって400万人死んだともなる。ともかく桜は日本人の心の花なのである。


桜は別に京都や大阪でなくてもどこでも咲いている。桜の名所は別に無数にあるのだ。この辺でも南相馬市立病院の桜は自分が一か月入院したからあれは情緒あるなと思った。相馬市でもお掘りの桜がある。桜は土地土地にある。夜ノ森の桜も有名だった。それを見れなくなるとは思わなかったろう。でもよその桜を見ている。他にも桜の名所はいくらでもある。吉野や京都だけではないのだ。ただ京都とか奈良だと何でも名所になるから得なのである。キ-ワ-ドでも桜を知りたいというとき辺鄙な知らない町のことなど調べないのだ。必ず京都となり俳句でも短歌でも京都のことを書くとアクセスがふえるのである。地方はキ-ワ-ドでも注目されないのである。


今回も橲原村から町の方に帰るとここでも山の方と町の方では違っていると思った。山の桜と町の桜は違っている。町が都とはなちないがそれとにたものがある。山の墓は一つだったが町の墓は狭い所に密集している。墓も町のように入り組んでいるのだ。だから山と町は違っている。墓も狭くいりくんでいることはまさに町は現実の町もそうである。現実の町もそうだから墓所もそうなっているのだ。土手の桜は散って花びらで桃色に染まったのは美しかった。まるで布がそめられた感じになった。これは町ならではの美しさであり都的な美しさだった。どこにでも本当は美はある。ただ人は見る目がないと何も見えないのである。田舎はかえって自然は美しい、放射能は別に自然の美を損なうことはなかった。花が咲かなくなったり木が枯れたりしたらショックであり住めない,人は美のない所に住めない、それでも東京のような美のない所に住んでいるのがわからないのだ。京都だって都会だからすべてが美しいとは言えないのである。空でも街でもやはり濁っている。歴史があっ

ても自然は汚れている。ただ京都は水はきれいだし自然と調和したものが残っている。

それにしても桜いくら見ていてもあきない、桜は場所によって違って見えるのだ。それから桜前線によって咲く時期が全国で違っている。テレビでやっていたけど弘前の桜は雪がようやくとけて咲くから一段と美しいと言っていた。その雪国の時間の移り変わりを外からきた人は体験できないのだ。
だから福島県でも会津の桜とかは良くわからない、そもそも会津は浜通りからする異質の世界なのである。日本海側の桜も見ていない、なぜみれないかというと時期をはずすと桜は見れないからである。自分は稚内まで行って桜を見た。5月の下旬頃まで咲いているのが桜だったのである。全国の桜をみるということはそれだけぜいたくなことでもあった。九州の桜などは見ていない。ただ桜はどこでも見れるものである。山の鄙びた山桜を見て町の華やかな桜を見るということもあったのだ。
やっぱり日本は桜の時期が一番いいのだ。ただ今や旅もできない。でも近くでも桜は見れるのである。

ようやくに稚内に着き桜見る日本の果てや旅もつきしも