2012年04月26日

交通事故と原発事故 (車文明の生贄が被害者だ)


交通事故と原発事故

(車文明の生贄が被害者だ)

最近交通事故の惨事がつづいている。交通事故はなくなることはない、交通事故は車社会の生贄である。人を無残に何人殺そうがそれほどの罪にならない、子供まで殺されても親はいかに憤ってもたいして罪にならないように法律はできている。交通事故の惨事は必ず今もありこれからも起こる。しかしとめようがないのだ。車社会がそういう事故をリスクとしてかかえているのだ。少年がそういう事故を起こすのもアメリカが銃社会だとにている。銃がいつも手に入る、だから少年でも銃を使うように必然的になっているのだ。凶器がそこに置いてあるから事故が犯罪が起きるのである。そういうリスクを容認して車社会があるのだ。

交通事故は車社会の生贄だ、もうさけられない犠牲だ、いくら車を運転する人を呪ってもむだだ。
憎むべきは車社会なのだ。でも社会は車社会を容認している。車がなかったらどうするのだ。
確かに無残な犠牲者はある、でも車社会をやめることはできないから車文明を維持するための
犠牲者であり生贄なのだ。


これは原発事故にも通じている。電気が必要なら原発も必要なのだ。放射能被害があっても電気がない社会や文明はありえない、今回と一地域が犠牲になったけどやめることはできない、犠牲になった人は生贄であり放射能のことはこれから被害がわかる。そのモルモットとして福島県人はあるのだ。原発はやめることはできないのだ、それは大きく言えば文明を否定することなのだ。

大熊辺りに住んでいる人が原発事故で家族がばらばらになりこれならロウソクで暮らしも家族一緒の方がいいと言っていた。まさにこれは原子力や過度な電気文明を否定するにいたったのである。

交通事故でもいくら被害が悲惨でもその訴えるものが交通事故を起こした人が誰であれこうした交通事故はなちならない、それはどんなに注意しても一定割合で事故は起きるしとめようがないのである。人間はどんなにしたって四六時中注意していられない、ちょっと気がぬくとき事故が起きる。それは車社会ではさけられないのである。自分は常に考えごとしているから車にはのらない。ただ事故を起こした少年にしても社会が車社会であり就職するにしたって車の免許がないと働けないのが車社会である。車社会のリスクとしてこうした悲惨な事故は一定数起こるしさけられない、それは運転する個人が悪いにしてもどんなに注意しても起こるのが交通事故だからさけられない。

車社会の生贄だ、それでも車社会は維持せねばならない、生贄として手厚く葬るほかないのだ


石油だってそうである。石油がないなら電気も車も動かないとなる戦争してでも石油を手に入れるのだ。石油文明は文明の根幹だ、石油なくしては文明は破壊される。だから戦争しても犠牲者が出ても生贄を提供して石油を手に入れるのだとなる。人間の命より文明の方が大事な
のである。



公共の福祉を優先させるとの名の元にクルマ優先社会にし
現代のいけにえともいえる交通事故による犠牲者たち。
真の公共の福祉は誰一人犠牲者が出てはいけないし
また、犠牲の上に成り立つ利便性などはありえない。
人の命は地球より重いのだから
http://www.ne.jp/asahi/remember/chihiro/forum.htm


65歳以上年齢層の死者割合に関しても、日本はドイツ、フランス、アメリカの倍近く、全体としてこれらの先進諸国の中で最も高い。クルマ優先社会の放置と人車分離の不徹底という日本の交通行政の構造的問題がまさに、歩行中および自転車走行中の死者割合、65歳以上年齢層の死者割合の高さを生んでいるのである。
http://toinaosu.org/kaiho/tok/01.htm


日本はオランダについて自転車の事故が多い。オランダは自転車の国だからわかる。高齢者の事故も多い。クルマ優先社会の放置と人車分離の不徹底という日本の交通行政の構造的問題・・がある。
日本は国土が狭いから自転車道路とか歩道が整備されていないから事故が起こりやすいのだ。
テレビで見て子供の通学路が狭いのである。すれすれに車が走っている所が多すぎるから歩行者の事故が多いのだ。日本は狭いから道路が整備されないから車社会にも合わないという面があった。原発でも地震国なのだから合わないということがあった。ただ鉄道はあっていたのである。事故はル-ト化すると極端に低くなる。バスでも鉄道の廃線跡を走っているようだと事故は起きないのである。
車はとこにでも路次でもどんな細い道でも入ってゆくから事故が起きやすいのだ。


交通事故では自分も二人が身内でかかわった。必ず家々でかかわっているのが交通事故である。でも結局あれだけ悲惨な交通事故が起きても車社会自体を変えることはできない、悲惨な事故にあった人はそういう運動を起こしているが極少数であり犠牲にされ生贄にされて終わりなのである。
つまり車文明を維持するには少数の犠牲はやむを得ないとという社会的合意があり法律もその線にそってできている。だから一時的には騒ぐにしてもまた起きるのだ。根本的解決方法がないのである。車社会でも原発社会でもそうである。いったん便利な文明ができたら後戻りできない。文明と共に心中する他なくなっている。原発事故は文明の災禍だった。それもさけられずに起こる災禍である。


交通事故者は車文明の生贄だ
原発事故の被災者も原子力文明の生贄だ
石油文明も戦争で死んだら生贄だ
電気がなくては文明は終わりだから
車文明、原子力文明に栄光あれ
我等はそれらとともに運命をともにする
少数者の意見は聞かぬ
それはやむをえぬ尊い生贄なのだ


現実にそうなっている。少数の悲惨な犠牲者や生贄はやむをえないものとして是認されているのだ。それより車社会、原子力文明を維持することが優先されるのである。人間の命が重いというけど戦争のときだって国の方が人間の命よりはるかに重かった。だからこそ四百万人も犠牲にされた。
交通事故だってそうなのである。本当は安全な車社会を作ることができるかもしれない、しかし車はあまりにも便利な故に危険なのである。鉄道とか飛行機を見ればわかる、バスでもそうである。そういう交通に頼っていれば悲惨な犠牲者はでてこないのである。

posted by 老鶯 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層