2012年04月20日

花曇り(みちのくの桜も満開なれど・・・)


花曇り(みちのくの桜も満開なれど・・・)


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故郷の病院あわれ花曇り


みちのくは災害の年花曇り


雨ぬれて病院に誰か夕桜


みちのくの桜ようやく満開に咲きしも暗くくもりけるかな


みちのくの桜満開に咲きにしも厚くも雲のたれこめにけり


一鉢の日本桜草我が買いぬその名の良しも我が愛でにけり



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今年は桜も咲いたけどみちのくは曇りの日が多い。何か今の状況とあっている。桜を心から楽しめない、ぱっと咲かない、花曇りがにあっている。こんな災害の時はなかった。心から明るくぱっと咲くのはいつになるのか?もともとみちのくの桜はぱっと咲かない、京都とか大阪とか西とは違っている。醍醐の花見とか昔から栄えた大阪辺りとは違いみちのくは栄えていない、桜もやはりその土地土地によって違ったものとなる。桜咲くときはいつも京都や大阪とか西の方に旅していた。ずいぶん我ながら旅したものである。今になると旅ができないというのもその報いなのだろうか?家から簡単に出れない。それだけ恵まれていた。しかし時はたちまちすぎてしまった。桜が美しいのはやはり西の方だから特に京都や大坂城の桜は見物であった。もう一度見たい、しかし旅というと一日とはいかない、やはりゆっくり旅するのには一週間でも東北からだとたりない、ゆっくりと旅することは贅沢だった。一か月くらい平気で旅していたから恵まれていた。それが思い出となり思い出して詩を書いたりしている。旅は自由気ままで時間をかけないと旅にならないのだ。あとで記憶に残らないからだ。
風のように旅する必要がある。つまり旅人になることは普通の生活を勤め人のような生活をしていればできない、旅人は時間に制約されず風のように自由でなければ旅人にはなれない、だから実際は旅人は少ない、今の旅は保養の旅であり休養の旅である。


日本桜草は種類がいろいろあった。自分が買ったのは写真にあるものだろう。名前がそれぞれついている。日本とついているところがいい。大和撫子とかも何かその花と共に日本人の心を象徴する感覚になるからいいのだ。今の女性の名前はそういうものがない、名前が何かあまりにも日本的なものではない、どこの国の人かもわからないだろう。とにかく桜草というのは日本に自生している花である。この花は金華山で見た。あんなところに咲いているのは意外だった。自生している花は栽培しているのとは違う。野性味があり自然にマッチして咲いているから違っている。小高区の村上城跡に咲いていた椿の群生は自生していたものである。だから栽培された椿と違って貴重であった。

自生した花はより神秘的でありふれがたい美しさ清純さがある。尾瀬の花がそうであり高山植物がそうである。ただこういう花は日常的鑑賞できない、登山するにしても疲れてしまうからゆっくりと鑑賞する余裕がない、そこが問題だった。自転車旅行もいいのだか疲れてゆっくり鑑賞できないのである。最近疲れやすくなっているし病気持ちだから遂に登山も遠くの旅行もできない、人間はいくら旅しても美しものを見たと言ってもつくづく一部にすぎなかった。よく見ていないのだ。自分でさえそうなのだから他の人はさらに見ていない、いろいろな雑事に追われて花を見ていない、そのうち時間が過ぎてしまうのが人生であった。