2012年04月16日

太陽も航海民にとっては方向として見ていた (東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)


太陽も航海民にとっては方向として見ていた

(東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)



「日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)」
    「書(しょ)を」
    「日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す」
    「恙(つつが)なきや。」

聖徳太子の小野妹子が隋に送った国書である。太陽は光として作物の実りをもたらすものと実はもう一つ重要な感覚があった。それは方向を示すものとして太陽があった。航海民は太陽を方向として意識した。太陽がどこから昇りどこへ沈むのかが大事だった。この方向感覚は平原とか砂漠とか遊牧民にとって生死を分けるものとなるから大事だった。砂漠でもどっちに水があるかないかで生死が別れる。だから星などが方向を知る目印として大事だった。北極星や北斗七星信仰が中国で起こったのは遊牧民の文化である。砂漠の民のイスラム教がメッカの方向をいかに大事にしているか?方向がまさに神であり信仰なのである。妙見信仰もそこから起こった。太陽は稲作民族だと天照大御神になるが航海民にとっては方向をみるものとして太陽があったのだ。だから太陽が昇る方向と沈む方向を注意深く見ていたのである。聖徳太子がこの国書に書いたのはまさに太陽の方向感覚であり航海民の文化を引き継いでいたからである。日本は南から船で渡ってきた人々が作った国だということは古事記などの神話で語られている。船でわたってきたということは常に方向が大事になるのだ。方向がまちがったらとんでもいな所に行って命まで落としてしまうからである。


海があり陸地がある。それを分けるのも大事になる。海から陸地が見えるところが重要になる。海を長く航海して陸地が土が見える所があったならその時そこは重要な地点になる。その陸地や土になっているところは航海民の上陸地点になるから大事なのである。「陸が土が見えたぞ」と海から見てなるのだ。西(にし)のニが土だということは海になっいる所と土になっている所を分けたのである。
だから日下石(にっけし)は津浪でわかったようにそのじき前は縄文時代は海だったのである。縄文海進時代は深く海がはいりこんでいた。でも縄文時代ではない万葉時代、奈良時代には海は深く陸に入り込んでいた。その地名の一つが万葉集の真野の草原(かやはら)の歌でありそこに船着とか市庭とかの地名が残っている。津浪が実際にあそこまで押し寄せたのは驚いた。日本全国であのように海が深くはいりこんでいた。縄文時代ではない、万葉時代でそうだったのである。だから別に縄文時代にさかのぼらなくても深く海がはいりこんでいた地域が海側には多い。今回津浪に襲われた地域は縄文時代ではない、万葉時代に海であったことが推測されるのだ。


だから太陽を方向としてみるとき日の昇る方向と日の沈む方向が大事になり東はひの岸(かし)になり西はニが土であり陸を示していたのである。地名をなづける場合、陸地から海を見れば海岸は東浜とか名づけられる。しかし海から見れば逆になり西が名づけられる。常識的には陸地から見て地名がつけられたと見ている。海から陸地をみて西と名づけることはなかなか気づかない、日下石(にっけし)は西という意味ではなく土(に)のある場所、陸地のことだった。海から来て土がある場所、陸地として別れる地点だったのである。だから今回の津浪で日下石(にっけし)まで海になったのである。
方向地名はどこを基点にしているから重要である。どこからみて西なのか東なのかである。陸地から見れば東になり海から見れば陸地は西になるのだ。西(にし)の二が土だというのは普通に気づかないから発見であった。


ではなぜそうした方向感覚が生まれたのか?それは日本にやってきた人たちが海からしか来れないし
航海民であり航海の技術がなかったら日本には来れない、海からやってきたのだから海からの視点で日本列島を見ていたとなる。それは日本の神話の基にもなっている。九州の異民族化されたハヤトなども南から渡ってきた人たちである。



竹にかかわる人々は海洋民族であったと言われています。かつて九州南部にいた隼人民族は南洋諸島の竹細工技術を身に付け、日本にたどり着いて土着民となりました。彼らは勇敢で強大な畿内政権に最後まで頑固に抵抗しましたが、ついに破れ畿内に連れて来られ、畿内隼人と呼ばれて竹器を作らされていたのだそうです
http://www.shinrin-instructor.org/ren08/02.htm


漢字で「東雲」と書くのは、東の空の意味からの当て字。
語源は「篠の目(しののめ)」であろう。
古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を「め(目)」といい、篠竹が材料として使われていたため
「篠の目」と呼ばれた。



竹の家がありそこから東雲(しののめ)の言葉が生まれた。日本では大和でも奈良でも竹はなかったとい。竹はもともと東南アジア辺りに多い。ベトナムなどに多い。竹の文化が伝わり東雲(しののめ)が生まれたというのもわかりにくい。どうしてもここに東は当て字である、ただ雲というとき東の空が曇っているように夜明けは暗いから雲をあてた。竹の文化では竹取物語もそうであり竹は外来のものでありその話なども東南アジア辺りから伝わったものとなる。原型はそこにある。梅すら中国から入ったものであり桜より梅が尊ばれた。

 さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君


さす竹が大宮人を導く枕詞となっていることはいかにすでに竹が日本の文化となり根付いていたか証明している。

隼人(ハヤト)族も海を渡ってきた航海民である。だから方向として太陽を見ていた。日の本(ひのもと)は日の下であり日本の国号になったがこれは日の出る処としての日の本である。ところが日本は(にほん)でありに(ニ)は土を示しているとなり西を意味しているとなると日の沈む土地ともなる。
ともかく方角地名が地名の基本であることはまちがいないのだ。



西原、西台とか柏崎にあるのは土があるところ陸になっているとして海から意識して名づけられたのか?瀬戸内海とか九州だと船の航海は具体的なものとなるのだが東北の海は荒く航海となると古代ではむずかしいからどういう感覚でつけられたのかわかりにくい面はある。ただ西原は一段低くそこに田んぼがあり辛うじて津浪の被害からまねがれた田があった。その下は津浪で浸水した。西台はもっと高くここでは津浪の被害がなかった。柏崎は津浪の被害はなかった。引沼はずっと奥だから津浪とは関係ないでしょう。それでも津浪を考える場合、海であった処がありそれと関係して名づけられている場合があるから注意する必要がある。南相馬市鹿島区の塩崎まで海であった。地名の通りそこまで万葉時代は奈良時代は海だったのである。そこに船着や市庭とかの地名が残っていた。


郷土史関係ではインタ-ネットは実際かなり役立つ、地名の研究なども全国のネットワ-クを作って研究すれば新しい発見もでてくる。地形とかに深く関係しているので地名も地元の人でないとわからないことがかなりある。そこが地名を知るむずかしさである。西原と西台は高さが違っていることなどわかりにくいのである。

地名は研究してきたので地名から学問に興味をもったので鳥野様の研究も暇があったらまた気づいたことを書いてみましょう

posted by 老鶯 at 09:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

美しいギリシャの遺跡(詩)

 
美しいギリシャの遺跡

神は人の営みを隠した・・・ヘシオドス

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ギリシャの遺跡は埋もれている
山々の中にありし日のままに
威厳に満ちて埋もれている
雪におおわれた奥深い峰々
岩山から清水が流れひびき落ちてくる
オリンポスの山々は今も聖域である
雲間からさす光が神々しい
ギリシャの遺跡は春の花々の中に埋もれている
地中海からの風がそよぎわたり
ただ語るのは遠い昔のこと
ヨットが帆をふくらませ島をめぐる
遠大なオデッセの冒険が蘇る
自然と調和した神殿
その神殿も自然に還った
ここに神話はまだ息づいて
古代の人はそこに静かに眠っている
その遺跡は自然の中に埋もれた
遺跡は自然の一風景として溶け込む
ああ 現代の文明は自然を破壊して
その巨怪な姿を露にして埋もれることはない
見よ、無残なる原発のその破壊された跡
凄まじい戦争の殺戮の跡
機械に蹂躙されて一かけらの美もない
醜さが剥き出しになってさらされている
ああ ギリシャの神殿の遺跡は美しく埋もれている
高い塔もなく堅固な城の塀もなく
花々の中に埋もれている
静かに遠い過去を回想しつつ埋もれている
蝶は花々を求めて変わらず飛んでくる
明るい春の陽ざしのなかを嬉々として
遺跡も廃墟も自然と調和すれば美しい
人の労働は労苦は何なのか
自然を汚して破壊して何を建てたのか
工場の煤煙よ、放射能よ、戦禍の凄まじい跡よ
人の成したことは災いの都市を作ったこと
残されたのは巨大な迷路、逃れることのできない迷宮
ああ ソドム、ゴモラのように滅ぼされる市よ
人は自然の中に埋もれて美しい
遺跡となりて廃墟となりても美しい
人は何をせずとも神は花環をめぐらせ
村を彩り美はその中に映える
そして遺跡は埋もれて自然に還る
ギリシャの遺跡よ、美しく眠るがよい
人よ、その眠りを覚ますな
ひそかに訪れ聖地を汚すなかれ
人よ、何も残さなくてもいい
美しい自然を残して地上から消えろ
あどけなき花々は咲き満ちて
ひらひらと蝶は今日も舞っている