2012年04月10日

春の喜び(二つの茶碗-愛(いと)おしむ時間)

 

春の喜び(二つの茶碗-愛(いと)おしむ時間)


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年ふればひとしお深く春の色こころにしみて時のうつらふ


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春の日や茶碗を変えて抹茶飲む


小さなるハコベの花を愛でるかな


風にゆれ木蓮のつぼみふくらみぬ


鮮やかに孔雀蝶や春来る


日のまぶし蕗の薹あまた家の前


家の前一面埋めるイヌフグリ


小さなる花一輪の喜びに我が庭にそ咲きいずる春


川子なる坂をのぼればさえづりの四方にひびきぬ我が里の春


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庭にようやく花がさきはじめた。一輪黄色の菊であり小さい菊だった、なんともかわいらしい、何か赤子を見るようだった。もう一つの花はあまりにも小さい、ハコベの花とも違っていたみたい。野草の花である。茶室はなくなったけど庭はある。茶碗を変えて抹茶を飲む。一つは色合いから深草とした。もう一つは若草である。若草というときいかにも若さを示しているがその若さは輝くほどなのだが深い渋い色合いがない、人間でも必ずしも若いということがすべて美とはならない、女性でも外見はおとろえても色合い深い美をかもしだすこともありうる。深草になるのである。この湯飲み茶碗は大堀で買った。浪江の大堀の相馬焼の窯元はどうなってしまうのか、あの辺は放射線量が高いから帰れないのだろうか?相馬焼などもどうなってしまうのだろうか、今は土は他からとりよせているから技術は悪のだから場所にこだわる必要はない、だから移った先で相馬焼を作っていた人がいた。でも高瀬川の岸辺で場所がいい所だったから残念である。双葉と大熊は全員帰れるとか無理だろう。浪江はどうなるのか、ここは中途半端なのか、小高はほとんど帰れるだろう。そうすると南相馬市はなんとか維持できるとなる。それでも浪江が二万いたとすると影響は大きいのである。経済が縮小してしまうのである。


今年は一部に田畑を耕せないとかあるが春が来た。去年は春はなかった。放射能汚染でも同じ様に春が来ている。一軒の農家の前にふきのとう一杯でてイヌフグリがおおっている。道端で孔雀蝶を見つけた。家の前がこうして春の彩りがあるのは格別なのだ。前田や前畑が生活の基だったようにすぐ回りが自然であることが自然な生活だったとなる。そして昔はそうした自給自足の生活だから近くがもっている意味が今より何十倍も重かったのである。車もないし馬車とかであり近くでほとんどの用をたすほかなかった。燃料にしても薪であり炭だったら余計にそうなる。今の生活とはあまりにも違っていた。その時の生活感覚もあまりにも違っていた。そういうときは人間も近隣で助け合うということが極自然に行われていたしそうしなければ暮らせないということがあった。そもそも相馬藩で飢饉のとき三分の一が餓死したという悲惨なことがあった。田畑を耕さなかったら餓死するほかない、他からなど入ってこないのである。伊達藩からなども入ってこない、相馬藩内でしか助け合わないからだ。現実に飯館村で飢饉のようになったときは相馬藩内で援助しているが伊達藩は援助しないのである。そういう社会とも今はあまりにも違っている。全国から世界からも食糧は入ってくるから援助があるから食糧の心配がないのである。だから地元意識郷土愛なども昔とは違ったものとなる。どここに行っても金さえあれば暮らせるとかなるからだ。ただ故郷を離れて暮らしている人今どう思っているのか?故郷を失うことがどういうことなのか?そういうことが現実問題として問われている。
飯館村などは住環境としては良かったから相当になつかしんでいるしあそこに暮らせたことを思い出して帰りたいという人が思いをつのらせているだろう。つまり当たり前に住めたことが住めなくなったことが信じられないのである。


人間は老人になると見方ががらりと変わるし見えないものがいろいろと見えてくる。人生とはこんなものだったのかと別に学問しないものでもわかるのだ。そしてその時後悔ばかりがあることをしる。なぜあんな無駄をしていたのとか、馬鹿なことをしたのとか、罪を犯してしまったのとかいろいろ反省ばかりなのである。一番無駄しているのは時間の無駄だったのである。もはや何かをする時間が消失してしまった。愛を育むといってもその時間がない、信用を育むといってもその時間がない、例えば信用でも十年くらい一緒に働いたり勤めないと生まれない、だから家の中に入る人は本当に危険だった。そういう時間を共有していないから全く信用できなかったのである。それは近くの人でもそうだった。例えば愛するを愛(いと)おしむと日本語で言うとき、まさに老後はいとおしむ時間である。それは人でもモノでも自然でもそうである。茶碗でも物でもやはりいとおしむ、惜しむのである。
なぜなら惜しむ時間がなくなってくるからだ。この世の時間は何かをいとおしむ時間だったのである。その時間がすぐに消失してしまうのである。花でもいろいろありいとおしむ、でも花の名前を知らないような人も多い、それはいとおしまなかったからである。何か金儲けやいいろいろな欲望に追われ奔走して見すごしていたのである。もちろん花に全く興味もないいとおしまないのは異常な人生だった。そういう環境になかったのも原因だが索漠としている。そういう人と接するのも索漠となるいとおしむのは金だけだとかなっている人もわびしいとなる。その人が何をいとおしんできたのかが老後は大事になる。

そしてついのすみかは意外と大事かもしれない、なぜなら最後にいとおしむ場所としてあるからだ。そこが大都会のような場所だったら嫌だとなる。だから老後は田舎暮らしを志向する人が増えてくる。それも生物として人間として自然なことである。遂には「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を今日のみ見てや 雲隠りなむ・・・」あまりに早すぎた非業の死であったけど最後はみんなそうなる。この世からひきはなされていなくなるのだ。あなたが見るものは今日しかない・・・それがいかに衝撃的なことか?そういう日が実はみんな迫ってくるし現実なのである。


いづれにしろこの辺では蕗の薹はでたけどそれをとって食べることはできない、山菜とりはできない、山菜とりを楽しみにしていた人はいた。そういうことができるのが田舎であり田舎の生活の喜びだったのである。ただ別に梅は食べられなくても花は鑑賞できている。梅の実は他から入ってくるからそれを食べればいいとなるのが現在である。でも金をどうして稼ぐのかとかこれからここでは問題になる。


教訓


満たされない願望による苦痛は後悔の苦しみくらべれば小さいものだ。なぜなら前者はつねに開け放たれて見渡すことができない未来の前に立っており、後者は完結して取り返しのつかない過去に面しているからだ。(ショ-ペンハウエル)


何か欲望が満たされないということが不幸ではない、後悔の不幸の方が多いのである。若い人が無謀でただ様々な欲望を満たそうとしている、満たされないことが不幸だと思っている。むしろあとで後悔することの方が不幸をもたらすことになる。それは過去が変えられないからなのだ。あのうまいものを食べられなくて損だったとかはならないのだ。あえて食べられても食べなくても良かったということになる。若いときの過ちは若気のいたりだとか言うがそういうことが生々しく蘇ってくる。それが辛く不幸なものとなることがわからないのである。でも欲望の暴走は止めることができないということである。