2012年04月09日

春は曙(春の陽が海より昇る) (東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)の意味


春は曙(春の陽が海より昇る)

(東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)の意味


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雀来てそちこち梅や田舎町


朝日こし駅に一人やクロッカス


梅一枝手折りて置きぬ手水鉢


みちのくの駅や帰らじ冬の鳥


冬の鳥二両の電車相馬まで


五六羽のなお帰らざる冬の鳥


故郷に勤めるものや蟻歩む


春風の吹き抜けゆけり通りかな


東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂


春の陽の海ゆ昇りぬ赫燿とかえり見すれば山に月かな

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芸術は何か最初誰でもむずかしく考えている。実際ありふれた単純なものが詩だった。自分でこの年になって俳句でも不思議に思う。「雀来てそちこち梅や田舎町」これのどこが俳句なのかとなる。誰か作ったような平凡な句ではないか?確かにそうなのだがこれも写生なのだけど雀はどこでもありふれた鳥でありいつも見かけた鳥であり庶民的な鳥なのである。だから何もない平凡な町にふさわしい。田舎の小さな町だと回りが田んぼだから梅もそちこち咲いている。町の中の畑にも咲いている。
梅はそちこちに多いのだ。その中に雀がくるのはありふれた光景である。しかしその当たり前の風景がなんともいえぬ春のおだやかな平和を現していたのである。梅の香りはどこでも無償でその香りあ味わうことができる。庶民なる雀でも町には梅はそちこちにあり気軽にその香りにみたされる。
貴族とか特別な人が高い花を買うのとは違う、梅はそちこちにあり無償でその香りにみたされる。
この辺では田畑が耕されない、種をまかないとか異常であるけど梅は咲いているし花は咲くし鳥も飛んでいる。鳥の餌がなくなるということもない、もし鳥すらいなくなったら荒寥としてこんなところに住んでいたくなるだろう。


今日は朝早く起きて海から昇る春の朝日を見た。真っ赤な色から眩い光りを放つ、陽炎(かぎろひ)が太陽がたってい。野にはたっていないが春の太陽が一段と生気に満ちて赤くまばゆい光を放っていた。この年になってもこういう太陽が見るのははじめてだなと思う。自然は結局老いない、いつも若く新鮮なのである。こんな春の太陽見たことがないというときいかに自然が生き物であり固定したものではない、日々変化している、刻々にも変化している美を現している。人間は決して同じ太陽を死ぬまでみていない、違った太陽なのである。海の方が津浪で開けて見えやすくなったこともあるがもともと家は少なかった。本当に「春は曙」ということを今になって実感した。文明社会は自然の美を遮蔽するものが多すぎる。田舎だとそういうものがないから自然の美が原初のままに現れる。その時が至福の時である。大都会では見えなくなっているのだ。人間の自然への美の感受性はかなり喪失している。「春は曙」を実感している人は少なくなっている。ただこの春の曙は山に囲まれた京都であったし柿本人麻呂の歌も奈良だから山である。万葉集や京都では盆地だから山の歌が中心である。海の歌は少ない。でもここから昇る春の陽は海から昇ってくる。


東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂 万葉集 1-48


まさにこれだった。陽炎(かぎろひ)は水平線にたっていなかったが真っ赤な太陽でありやがてかくやくと輝く太陽だった。それは本当に若々しい命がみなぎる太陽だった。この歌は若さと老いも象徴している。春の陽が昇るのはまさに若さである。一方かえみすれば月が傾く・・・これは老いを象徴している。世代交代などを象徴した歌だった。あまりにも対比がはっきりした太陽と月だった。
人間はみんな老いるからこういうことを巡り経験する。若いときはたちまち消失する。残っているのは月である。それ輝く月とも違う、朝の残月でよく見ないとわからない、返り見すればというとき・・意図して見ないと傾く月は意識できない、新しく輝く未来を象徴する朝の太陽は意識しなくても見えるのだ。傾く月は意識しないと見えないのである。自分も山に呵々ていた残月を気づかなかった。自らの意志でかえりみないと傾く月は見えない、それは歴史でもそうである。勝者ばかりが歴史ではない、敗者も歴史でありその敗者については良く意識しないと見えないのである。それなりに関心をもって調べないとみえてこない、芭蕉は歴史の敗者に同情をよせた。それが金色堂の俳句であり
近江の義仲寺無名庵に墓があるのもそうである。


春の陽の海ゆ昇りぬ赫燿とかえり見すれば山に月かな


ここでは海と山の風景なのである。奈良や京都は海から昇り山に沈む太陽であり月なのである。

この辺は原町から相馬まで二両の電車しか通らなくなった。それでも電車が通っているといないのとは違う。電車の方が乗っていても気持ちいいのだ。景色が広く見えるのだ。バスはあまり好きではない、駅がおり駅が一つの旅の休息点になるのも違っている。田舎駅だと花とか見たりする。待ち時間がありそれがいいのである。余り長くなるとこまるが都会では待ち時間すらないから花にも目をやる時間もないのである。今日はともかく凄い風が吹いてあたたかかった。遅い春一番だったのか?

街の中をふきぬけた。蟻もでてきた。今や故郷に勤める蟻なのか、今日は相馬の病院に行った。ここ五年間旅していない、春になったらそわそわしていたけど今や蟻のように毎日介護とかになっている。誰も代わりがないから一日も行けないのである。冬の鳥が今年はまだ帰らないがそろそろあたたかくなったから帰るだろう。