2012年04月08日

裸電球のキ-ワ-ド


裸電球のキ-ワ-ド


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焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いてい


戦後も、闇市の裸電球に照らされた真っ赤なリンゴと、
「可愛リンゴに唇寄せて」並木路子さんの歌うリンゴの唄は、
荒廃した街の中の庶民に希望を与えてくれました。


裸電球の下に店を開く準備が始まり、時間とともに市場内は徐々に熱気をはらみ活気づき、威勢のいい売り声が飛び交います

土を固めた床とベニヤを貼った壁と天井から、裸電球がぶら下がっているだけの3坪の店舗。


昨秋改装した店内には、裸電球の下で職人らが道産小豆の生あんを練り、薄皮で包む古い写真

粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。


まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった


戦後、暗い裸電球の下で家族が寄り添って過した日々を思い出しています。


裸電球は隙間風に揺れ・・・


子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。

内部には裸電球や石油ランプを吊るし、買出し用のリュックなど当時の生活をしのぶ資料が展示されていました。
http://uenonorenkai.com/book201009-2.htm


戦後はバラックのような家を建てて暮らしていた人がいた。自分の父親が建てた風呂もそうだった。何にもないところからはじまった。だから裸電球が希望の灯のように見えたというのは考えられないけどそうだったのである。裸電球でも電気の灯であり明るい未来を示していたのである。


廃線の暗いトンネルの奥の記憶



真っ暗な廃線の中のトンネルの奥なのか

記憶をたどるということはそういうことか

そのトンネルの奥に記憶が残っている

北風が外で唸り吹いていた

平屋の古い家に風がふきつける

がらんとした広い家に裸電球だけが灯っている

そこに自分の昔の古い家があった

記憶をつなぎあわせるが定かではない

記憶もこうもはかないものなのか

父、母、姉・・・・二人はもう死んだ

日々記憶は遠ざかってゆく・・・

死んだ人とは記憶の中でしか会えない・・・

それも朧であり廃線の暗いトンネルの奥なのだ



記憶はまさに廃線である。その廃線の跡をたどるのが昔の記憶なのである。人間も終わって見れば最後に残ったのは記憶である。しかしその記憶も定かではない、真っ暗な冷たい廃線のトンネルの奥なのである。そのトンネルの奥には明るい光景は見えてこない、そこに廃線となった駅の跡がむなしくあるだけである。


キ-ワ-ドで読むのはインタ-ネットだからできる。本ではできない、これはインタ-ネットの中での新しい読書方法であり情報の使い方なのである。ここに引用したのはいちいちリンク先を入れなかったけど著作権違反にはならないだろう。新聞社のはなっていた。あまりにも著作権にこだわるとインタ-ネットは利用しにくいのである。こうしてキ-ワ-ドで引用して編集しているのは創造作業であるからそれも狭められると有効なインタ-ネットの活用はできなくなる。本にはできないことが今までの情報環境ではできないことができるときそれが革命となるからだ。

 
posted by 老鶯 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


一生貧乏
60代, 男性, 自営業

私は10歳で母親に捨てられました。(父親は私が3歳から肺結核の為に入院していて14歳の時に病死)兄嫁と母親が不仲で 10歳の時に出て行きました。1年に一回位日帰りで来るくらいです。当然兄嫁にいじめられて本当に辛い思いをしました。

ようやく中学校を卒業して、東京江東区清澄町の松本自動車という自動車修理工場に就職しました。これからが本当の地獄でした。仕事は住み込みです。最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。(工場の上に6畳間の部屋が3ツ有りましたが2ツの部屋は人に貸していました。)この状態が約半年です。仕事の時間は朝8時〜12時  午後は13時〜18時
残業は毎日19時〜23時 合計13時間毎日仕事です。

毎月の休みは5日と15日の2回だけです。それで給料は残業代も入れて1ヶ月1500円です。当時菓子パンが10円です。
休日と残業時間の食事は支給有りません。1500円は一週間の
食事代だけで消えました。
腹はいつでもぺこぺこです。お金が無くなると、コッペパンを3切りにして、1日分の食事です。後は水で我慢しました。
信じてもらえないかもしりませんが本当のことです。

半年後に1万円にしてくれましたが、それから入社してから、 18歳までにげだすまで変わりませんでした。(なぜすぐ逃げ出さなかったというかたもいるかもしれませんが、当時は15,6歳の田舎の子供です。無理です。)

その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です。)がこの病気の為に仕事は思うようにいかず、結婚も当然出来ませんでした。(気持ちが悪い、移されそうで怖いといわれました。)こんな辛い人生は何万人に何人いるんだろうかと思います。辛さは死ぬまで変わらないとと思います。
http://poor.life-taikenki.net/taikenki62.html



これも過酷な運命の下に生まれた人だった。老後というとき何が興味ある事になるかというとそれぞれの人生を読むことなのだ。こんな人生が送った人がいたのかと自分の人生と照らし合わせて比較すると興味深いのである。意外と隣に住んでいてもその人の人生がわからないのが現代である。
「秋深し隣は何をする人ぞ」なのが現代である。田舎でも隣近所は疎遠になっている。買い物だってすべてス-パ-だから小さい店は姿を消した。するとそれぞれの人生をなかなかしりえないのである。老後は何かをふりかえることであり思い出すことが仕事になる。本でも前に読んだものを読み返すと本当に理解することになる。新しい本は読みにくいし理解しにくい。そして本というものも積んどくが多く読んでいない、読んだと思っていたものも深く読んでいないし忘れているのだ。


この人の人生に興味をもったのは密接な身内でこれと同じような人生だったのを知ったからである。実にこの人の運命は過酷そのものだった。この人の恵まれていた点は東京で生活していたから金の卵のような集団就職をしていないことである。集団就職は15才くらいで親元を離れるのだからこれも過酷だったのである。自分は恵まれて勉強嫌いでも東京の私立大学に入れた。それもほとんど勉強はしなかった。もともと自分は今になると学問好きなことがわかった。いろいろなことに知的な興味が尽きない自分に気づいたのである。そして老後になるとむずかしい本でも理解できるようになった。

この人が何を言おうとしているのか本をぱらぱらとめくるとだいだい要旨がつかめる。古典でも深く理解できる。本でもそうだが他人の人生も見通せる、理解できる。若いときは人生にしても人間のことにしても社会についても五里霧中なのである。社会に翻弄されて生きるほかないのである。それで無駄なカルト宗教団体に入ったりといろいろ無駄が多すぎるのだ。


最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。


学生のとき町工場でアルバイトしていた。その時、集団就職したような人がそういう所だった。住環境は劣悪だったのだ。この人は食事も満足にできなかった。仕事は自動車修理工場というとき流れ作業ではなかった。自分がしたことは流れ作業が多かった。なぜ自分が仕事を嫌悪するようになり会社勤めを嫌ってそのまま幸運にも老後を迎えたのか、それはもともとの性格にもあった。学校という規則的な集団生活のときも適応できなかった。性格的に甘やかされたこともあった。自分は社会にも会社にも適応できない性格だった。だからまともに働いたのは20代前半だけである。それも流れ作業しかなかった。一日中機械でドリルで穴を空ける仕事とかであり嫌悪するようになったのはそのためである。何か創造的仕事があるなど考えようもなかった。仕事とはみんなそんなものかと思ってしまったのである。残業にしたって流れ作業になると本当に嫌になる。もう定時だけでうんざりしてしいるからだ。その後は全くこういうロボットのような仕事はまるで違って旅行に明け暮れたというのも恵まれていた結果だった。そんな仕事をしつづけたら生きることさえ嫌になったろう。


その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です)


身内の人も円形脱毛症になったからにていた。ストレスのためになったのだろう。集団就職した人は何かしらこういう苦労をししているだろう。でもその後それなりに自立して結婚して一家を構えて東京辺りで暮らし田舎には帰ってこない。不幸にも自分の身内は若くして交通事故で死んでしまった。その墓が原町にある。この人の人生とにていた。この頃集団就職の人生の人は苦労しているからそれなりの数がいた。この人は最初から不幸な星の下に生まれてしまったのである。ただいくら不幸でも集団就職しても今は高度成長期でありそれなりに自立生活している人も多いだろう。この人は結婚していないから家庭をもっていないから余計不幸を感じているのだ。ともかく人間の一生はいろいろある。団塊の世代こうして過去をふりかえる老後を迎えた。過去の苦労を語る時を迎えた。戦争時代は戦争のことを語りつづけて死んだ。団塊の世代を何を語るのか?たいして語ることもないのか?恵まれた時代だから語ることもないのか、集団就職したような人は語ることがあるだろう。一人一人の人生はみな違っている。一人一人の人生も実は郷土史の一こまである。それら一人一人の人生はすでに歴史となっているのだ。同じ世代でもそんな人生があったのかと驚くことがあるだろう。それは後世への教訓である。失敗の体験も後世の若い人への教訓である。自分が失敗したことと同じ様なことをしている人もいるからだ。


人間は他者を知るというとき自分の体験を基にしているのだ。だから自分が体験しないことはいくら聞いてもリアリティが伝わらない、戦争などあれほど悲惨なものでも戦争の体験をしていないからなかなか理解できないのである。自分は現実に下町の油臭い町工場でアルバイトしたから集団就職の人たちのこともそこからイメ-ジされた。しかしそれもしない人はわからない、アルバイトでも出版社とかでして興味を覚えてそこに就職したという人もいる。アルバイトでもやはり流れ作業でない仕事をして興味をもてばそういう仕事あるのかと就職しようとするだろう。ただそういうアルバイトはみんながなれるわけではない、底辺の大学ではなれなかったということがある。家庭教師にだってやはり底辺大学では無理である。結局自分はそんな油臭い、下町の流れ作業の工場などで働いたのは一時期にすぎない、あとは風のように自由に生きて今日に至ったのである。だから自分には会社も工場もなにもない、ただ自然の自由の風吹いている。心の中でも吹いている。それでそれを俳句や短歌や詩にしているのだ。こういうふうに自由に生きられたということ自体奇跡的なことかもしれない、他の人は営々と働いて会社勤めだったからである。


500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた
http://www.takemori.co.jp/omoide.htm


この人は天草の農家の貧乏生活より食い物もいいし良かった書いてある。この人は仕事ができるので優遇されたのかもしれない、個々に事情が違ってくる。東京はその頃田舎とは全く違っていた。この人は東京だったが食べ物を違っていたし生活は金があれば豊かなものになっていた。この人は雇い主からの待遇が良かったのである。九州の田舎より東京の方がいい暮らしができると実感した。それなりに苦労したにしろ自分の会社をもつまでになった。集団就職でもこういう人もかなりいた。
経済が今とは違い右肩上がりの高度成長時代だから独立もできたのである。


裸電球の下でヤスリをかけ・・・・・


この時は裸電球であった。最近昔のテレビドラマを見ている。サスペンスなのだが昔と今の光景がどこが変わったのかというと映像を見ても30年前でも40年前でもさほど変わらない、変わったのは道具だった。裸電球のあるところで取り調べをしていた。車をみると旧式の型のものが多い。それでも普通に車走っているのでさほど今と変わらないように見える。40年前とか学生で車をもっていた人がいた。その人は恵まれていたのだ。まだまだ車は普及していない、ただその辺から急速に普及していった。携帯のないときは公衆電話を良く使っていた。刑事も連絡に公衆電話や家の電話を使っていた。コンピュ-タ-で仕事している人がいたけど20年前くらいでもコンピュ-タ-はあり仕事していた。ただそのコンピュ-タ-が大きな古いものであった。そこだけが今と明確に違っていたのだ。他の様子はテレビの画面からはわかりにくい、これを見ると人間の社会は変わったというとき道具が変わったというのが一番わかりやすい。なぜなら江戸時代には鉄道もない車もない、電話もないとかそうしたいろいろな道具がないことが一番違ったことなのでなである。人間そのものはそんなに変わらないということもある。


昭和は遠く成りにけり ・・・


64才の俳優が死んだ・・・60代でも俳優など結構死んでる、時代はすぐに変わる、昭和から平成、昭和も遠くなるということがまじかに迫っている。自分も70くらいで死ぬんじゃないかという不安がある。ただ癌ではなかったからその点は救いだ。普通に暮らせるから病気という感じもしない、酒とか煙草は30代でやめた。70くらいで死ぬのがいいとか思ったりするが作品を完成するにはいくら生きても完成しないだろう。いづれにしろ老後になるとそれぞれの人生も興味深いものとなる。なぜなら人間や人生を深くみる、理解できるからそうなる。そして人間の心は変わらないから人間はしょうこりもなく同じ犯罪、業をくりかえす、カルマをくりかえす、それはインド人が言ったことと同じである。職業が業としたとき原発事故だって一つの人間の業として開発があり事故につながっていたのである。人間の業(カルマ)はとめることができないからそうなるのだ。

posted by 老鶯 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)


木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)



阿武隈の流れの早し春の草

紅梅や東海の海かがやきぬ


木蓮の芽のふくらみて朝風にゆれ遠くへと我また行かむ


峠こえ遠く来たりぬ木蓮の開きて仰ぐ高き峰かな


残雪の吾妻峰光り峠こえ我が望むかも遠く来たりぬ


桃の花もゆるがごとく咲きにつつかなたに望む海の碧かな


日本は海と山の国である。海彦山彦の国である。ただ浜通りには高い山が望めない、阿武隈高原を越えると吾妻とか安達太良が望める。山を見たければ峠を越えねばならない、丸森町から梁川に出て阿武隈川を下る道は圧巻である。桜と桃の花がまばゆいほどに咲いている。別に放射能でも外観は何にも変わらない。ただ阿武隈川には常時億ベクレルの放射能汚染水が流れている。大きい川だから放射性物質を泥と共に集めているのだ。だから魚などは食べられない、でも今はあまり川の魚はあまり食べていない。放射性物質はやはり相当に雨が降り泥にしみこみ川に流れだす、その分山の放射性物質は減ってゆくのかもしれない、そうして長い時間の中で減ってゆくのかもしれない、その待つ時間は長いことは確かである。


ともかく浜通りに欠けているのは高い山である。高い山を望めないことが精神的に貧しくしている。その代わり海があることが景色としては良かった。山に囲まれて住む人は海に憧れる。峠を越えるというとき広々とした海を望むことである。飯館から八木沢峠に出るところから海が見えるのである。飯館村はまだ出入りができるからいい、浪江の高瀬川などは出入りができない警戒区域になっているからこの辺では損である。高瀬川は激流となっているから春に行くと気持ちいいからである。


春になると遠くへ行きたくなるが行けない、明日は病院である。でも旅ばかりしていたから心の中で旅がつづいているのだ。人間は老後になるとこれまで何をしてきたか本でも何を読んできたのかふりかえることになるのだ。一生の総決算のように過去をふりかかることになる。自分のしたことを生々しくふりかえり思い出されることになる。それが偽ることなくそうなる。だから悪いことをした人は過去を老人になっても語らない、語りたくないのだ。自分にしても過去の嫌なことは語りたくない、戦争のことが良くわからないのは戦争を経験した人が本当のことを語らないからである。人を殺したりしたことをなかなか語りにくいからである。だから真相は明かにされていないのだ。だから過去を語れる人はその人生は自分なりに納得したものとなっている。それも個としての人生であり組織として生きた人生ではない、自分はこういう罪を犯したとか過ちをしたとか言っている人は自分に正直なのである。


いづれにしろ旅の記憶でも時々ふいとあんなところに自分がいたなと思い出すことは不思議である。思い出したときもう一度旅している。思い出すときは体で記憶したような場所なのだ。車とか鉄道とかの旅は忘れやすい、思い出す場所はやはり体で記憶しているような所だったのである。木蓮が風にそよいで咲いているというのを車から見たら印象に残らない。自転車で風を切って走っていれば体で記憶しているから思い出すのである。30年前とかでもそういう所は思い出すことがありそれでまた短歌とか書いている。旅ばかりしていたら旅のことを思い出すし他でも工場で仕事していたらその仕事をしていることを思い出す、そういうことは体に刻まれているのだ。だから認知症になった女性がベットで田植えしていたというのもわかるのだ。
そういうことを長年してきたのだから体に刻まれているから忘れないのだ。それで認知症になってもそういう昔のしたことを料理でもできる場合がありやらせると多少は改善するのだ。料理でも体で覚えているのは忘れないのである。

大和の春満月

 
大和の春満月



にほふがごとく

若々しく

みずみずしく

したたるごとし

憂いもなく満面の笑み

ふくよかなるおみなの顔

血色のいい、若やぐ顔

ああ かつて我が側にありし女

やさしさの満ちたる女

ああ 人の老ゆるは悲し

健やかに快癒される日よ

老いざる日を人は願う

天なる高見に月は汚されず

静かに慈愛の光を放つ

月光菩薩のそこに見えしや

汚れし世の上に月輪の光

うるわしき大和の国の春満月

このみ国を汚せしものは呪われよ

大和の国の天地海はいかに尊き

神の与えし天地海なりしを

大和の民の慈しみあいかしこくあれ

ああ 大和の国の美しきかな

その天地とともに命長かれ

神の恵みはここに尽きざらむ

posted by 老鶯 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般