2012年04月01日

春の星(かなたは飯館村)


春の星(かなたは飯館村)


春の星一つ二つや三つかな


春の星山のかなたは飯館村


たおやかに補佐する女(ヒト)や春の星


咲き初めし梅に我がより離れても香り身につくしばしのまかな


春なれど飯館村の空家には灯もともらずにいつ人帰らむ

今日は風が寒かった。明かに北風ではない、東風だった。今年は東風(こち)が吹くのが遅かった。去年は早かったから3・11の悲劇になった。飯館村の被害があった。昨日辺りとかは暑いくらいだったがこのくらい爽やかな気持ちいい春の感覚である。春の星もきれいに輝いている。それにしてもここはちょうど直線的に山の向こうが飯館村になるから飯館村は地形的に結びついている。真野川でも通じている。その飯館村に人は住んでいないとなるとどうなるのか?そんなこと想像もしなかった。
それでとまどうのである。ただ飯館村には出入りができるのがいい、警戒区域はできないから体の一部をもぎとられた感じになる。春になったから飯館村に行きたくなる。でも相当に荒れてしまっているだろう。

春なれど飯館村の空家には灯もともらずにいつ人帰らむ


人がいない村というのも不思議である。実際は家の中は天井から水がもれて氷柱ができていたとか家が荒れているらしい。家は人が住まなくなると荒れる。まだその空家は廃屋とは違う、人がまだ帰ろうとしている家である。でもすでに帰れないと断念している人たちもかなりいるだろう。

飯館村は一体どうなるのか?放射能の廃棄物処理場に一部なりそのあとに人が住むのか、それとも自然に帰ってしまのうか?ただ別に木が枯れるとかはない、花も咲くだろう。放射能の被害は目に見えないしあと10年、20年後に症状が現れるとか言われるからそんなこと気にしてどうなるのだろうと開き直る人もでてくる。特に先が短い老人はそうである。とにかく村一つがすべてなくなるということ6000人も住んでいた村がなくなってしまうことが現実に思えないのである。限界集落だと何百人とかの単位だろう。ここは6000人だから違っている。

女性でも男性的な女もいるし太った女性もいるしやせた女性もいる。やせた女性はやはりたおやかだとなる。ちょっと手伝ってもらった女はやせているからたおやかだとなる。

梅も何輪か開いた。それは変わりない、しかしこの辺は余りにも変わりすぎた。都会に住んでいる人は自然のことをあまり考えない、ビルと車と人ごみに囲まれて暮らしている。田舎では自然に囲まれつつまれ暮らしている。飯館村などはまさに森が70パ-セントというように森につつまれた静かな村だった。一軒一軒が木立に囲まれて広々として離れ住んでいた。だからいつも気持ちいい場所だったのである。それが人が住めなくなった。飯館村は元の自然に帰ってしまうのだろうか?

そこが放射能を管理する自然公園のようになってしまうのか、それとも放射能は何年かで半減してと元の状態にもどりまた人々がもどってくるのか?ともかくここと地理的一体としてあったから残念である。思想というのもその人の環境から地理から形成される。東京のような場所で形成される思想は歪(えびつ)になる。自然がないのだから言葉も自然の背景がないのだから活きてこないのである。
だから画家であれ詩人であれ音楽家さえ芸術家となれば都会から生まれないだろう。芸術そのものが都会から生まれにくい、その土壌がないからだ。ただ東京にはあれだけ人間が住んでいるのだから個性的な人はいる。ただ文化や芸術を生む環境にはない、ただ今やここも芸術とか文化を生む環境が一部喪失した。そもそも農家が田畑を耕さないとかなったらここに田舎である意味があるのかとなる。