2012年04月25日

桜咲く浜街道を相馬市まで行く (地元からの報道の意味は何なのか?)

 

桜咲く浜街道を相馬市まで行く

(地元からの報道の意味は何なのか?)


yokotesakura.jpg
パノラマ写真

鹿島区横手古墳群と枝垂桜


yakushi1111111.jpg

yakushi2222222.jpg

街道に枝垂桜や蔵の家


街道に枝垂桜や古墳群


薬師堂参道の道花の影


相馬へと松並木や落椿


外堀の大町までや柳かな


六万石城の朝かな蛙鳴く


六万石お掘りにたまる花の屑


哀しき跡に偲びぬ夕雲雀


朝静か川の面写る桜かな薬師堂にそ参る人なし


大町に柳芽吹きぬそよそよと朝の風にそゆれてしだれぬ


濁りたる堀に写れる桜花その色濃くも城下町暮る


朝静か城跡に散る桜かな君主にまみえず社残りぬ


城跡に行き交う人や花は散りまたあわめやも離るる人かな


哀しきや妻の面影偲ぶかな津浪の跡に春はめぐれど


三百年つづく相馬の城の跡花散りあわれ集う人かな

sakuradote11111.jpg
クリック拡大!

shirrosakura1111.jpg
クリック拡大!

yanagitamachiii111.jpg



今日は朝晴れていたから相馬の方に行った。やはり日立木の薬師堂のあるところは情緒がある。立谷川に桜が写っていた。医者は特に病院勤務の医者は土着性がないと問題にした。職業には意外と土着性が必要なのかもしれない、土着性は人間の本能としてある。その土地に石や樹のように根付き生活する。人間も生物だからそういう心性をもつのが普通である。動物はトロピズム-本能によっていきている。それは本能的に土着性をもっているということである。江戸時代はもちろん戦前とか戦後十年くらいは農家が中心だから言われなくても土着性は自然と人間はもっていたのである。自給自足だとすると人間は生活そのものがその土地と一体化していた。そういう土着性とから遊離してアイディンティティが失われてきたのが現代なのである。このアイディンティティが失われたことが文明人の病ともなっているのだ。


今は薬師堂といっても病気が直るように祈っても効き目はない、でもこうした薬師堂とかは何の用もなくなったのだろうか?実際はそうでもないのかもしれない、昔からあったものには何らか人間にとって意味があったから残っているのだ。そういうものでも時代が変われば用無きものになる。でも人間自体が変わっていない、病気に効能がないにしろ薬師堂というのは今は癒しとして効能があるのかもしれない、見直されるかもしれない、病気には病気自体を直すことは不可欠である。それとともに病気のときは癒しが要求される。この癒しは軽視される。医者はただ体だけをみる。看護師は確かに癒しの役割がある。医者は癒してくれるような人はまれである。なぜ医者が傲慢になるのかといえば常に弱者になったとき医者に行く、そこで弱者として医者と向き合うことになる。だからそこですでに医者と患者は上下関係ができてしまうのである。あなたは弱い人欠陥人間になった人、私は直す人、患者は医者に頼る人となってしまう。そこに人間としての平等の関係はなくなってしまう。だから癒しもないのである。

癒しというとき薬師堂であれ神社などがパワ-スポットとしてもてはやされるが神社でなくても場には場の力が働く、必ず場を変えれば気分が変わるからである。ただ癒しを求めるとき、賽銭などを入れて何かを得ようとすると癒しはなくなる。その賽銭には人間の欲がこびりついているのだ。これだけ賽銭を入れたのだから見返りがあるべきだとなるのが人間である。そういうふうに神に対応すること自体間違っているのだ。癒しはだからそうした欲を求めないときかえってやってくる。
今なら桜にいやされるし春だから自然に癒される。自然にはそもそも癒しの機能が自ずとあるのだ。
日立木の薬師堂から松並木を経て相馬の城に入る。落椿がにあっている。城跡には桜が満開であり
朝静かに写している。そしてすでに花は散り始めている。城跡には相馬六万石の要であることは変わらない。三百年つづいた相馬藩の要として相馬神社が残っている。

それはcommon mental ,holly and centered placeになる。相馬藩として集権する場が相馬藩の城跡であり相馬神社になりあそこから相馬野馬追いの出陣式が行われる。そこにそういう歴史的パワ-が秘められていることは確かである。ただそれは相馬藩内に生活している人しかなかなか感じないだろう。それも長く生活していないと感じない、実際は何代も生活してきた人、江戸時代から主君に仕えていた武家の人、野馬追いに出る人は一番感じていることである。そういう歴史的場は江戸時代に作られた藩にある。だから会津なら会津の城が中心となる。そこが一つの世界の中心なのである。
だから原発事故でそうした何百年もつづいた千年もつづいた歴史の場を失ったり住めなくなったりすることがイメ-ジすらできなかった。そうした長い時間で積み重ねられた歴史をのアイディンティティを失うことがどれほど重大なことか認識していない、幸い今回の原発事故は相馬藩の余(夜)の森で起こった。中心からは離れていた。でもその影響は大きすぎた。

東京辺りの人や関西の人が面白がって早く福島県から避難しろ、もう住めないんだといって面白がっているけど人間は歴史的に時間でそういうふうにして長く住んだところから簡単に離れられるのか?

そうすると人間の根源的アイディンティティを失うことになる。もちろん新しいアイディンティティ求めて移り住むことは可能である。それでもそのアイディンティティを作るには長い時間がかかる。会津に移り住んで会津人のようになるには長い時間がかかる。一代だけではできないほど長い時間がかかるのである。

外からの報道と一地域からの報道は違っている。福島県の新聞やテレビすらその報道するものは違っていた。インタ-ネットはプログは実は一つの報道機関、メデアを個人的にもったものだという自覚をした。地元から報道することは何を意味しているのかわからない面があった。本を出すこととこうして毎日報道のようなことをしているのとは違っている。地元から報道することは時間が途切れなく継続していることなのだ。全国でも福島県ですら一時的なものとして途切れることがありうる。
しかし地元に住んでいる人の違いは時間は津浪であれ原発事故であれ継続したものとしてある。途切れることはないのだ。他からなら一時的な興味としてあとは忘れることもできるが地元では津浪の跡は消えず残っているしその被害者もここで生活している。それは延々と継続している。一代では終わらず継続した時間を生きるのが地元なのである。特にインタ-ネットで報道の主体となったときそれを感じたのである。

亡き妻に法螺貝を鳴らして去年もあえて出陣した人がいた。その津浪の跡は以前として何も変わりはない、土台しか残っていない、新しい家は一部町内に建ったが海岸沿いには建たないだろう。
ここでは津浪の被害の悲しみもつづいているし放射能被害もこれからつづいている問題なのである。外の人は忘れることができても地元の人は継続して悲しみ苦しむことになる。これは神戸の地震時は他人事であり最初だけ注意したのとにている。遠いから関心が一時的なものとして終わったのである。地元が被害にあえば一時的ではない延々とつづく問題としてここでその重荷をそれぞれ負うことになり共同で負うことになるのだ。


哀しきや妻の面影偲ぶかな津浪の跡に春はめぐれど


簡単に人は長年暮らした人のことを忘れられないだろう。ともかく継続した時間を生きているのが地元であり外からかかわるときは一時的なものとして終わり安いのである。そして記録するというだけでも意味がある。今までは地元の人でもメデアをもっていないから発言もできないし記録ということもできない。記録として日々残されていることだけでも意味がある。こんなに大惨事になると大きな記録の作業をしていることがわかったからだ。郷土史の基本は記録にもあった。400年前の慶長地震と津浪のことは一行しか記録されていないから忘れられていたのである。記録は歴史を残す基本的な仕事なのである。

鎮魂の野馬追い
http://musubu.sblo.jp/article/47599444.html

2012年04月26日

交通事故と原発事故 (車文明の生贄が被害者だ)


交通事故と原発事故

(車文明の生贄が被害者だ)

最近交通事故の惨事がつづいている。交通事故はなくなることはない、交通事故は車社会の生贄である。人を無残に何人殺そうがそれほどの罪にならない、子供まで殺されても親はいかに憤ってもたいして罪にならないように法律はできている。交通事故の惨事は必ず今もありこれからも起こる。しかしとめようがないのだ。車社会がそういう事故をリスクとしてかかえているのだ。少年がそういう事故を起こすのもアメリカが銃社会だとにている。銃がいつも手に入る、だから少年でも銃を使うように必然的になっているのだ。凶器がそこに置いてあるから事故が犯罪が起きるのである。そういうリスクを容認して車社会があるのだ。

交通事故は車社会の生贄だ、もうさけられない犠牲だ、いくら車を運転する人を呪ってもむだだ。
憎むべきは車社会なのだ。でも社会は車社会を容認している。車がなかったらどうするのだ。
確かに無残な犠牲者はある、でも車社会をやめることはできないから車文明を維持するための
犠牲者であり生贄なのだ。


これは原発事故にも通じている。電気が必要なら原発も必要なのだ。放射能被害があっても電気がない社会や文明はありえない、今回と一地域が犠牲になったけどやめることはできない、犠牲になった人は生贄であり放射能のことはこれから被害がわかる。そのモルモットとして福島県人はあるのだ。原発はやめることはできないのだ、それは大きく言えば文明を否定することなのだ。

大熊辺りに住んでいる人が原発事故で家族がばらばらになりこれならロウソクで暮らしも家族一緒の方がいいと言っていた。まさにこれは原子力や過度な電気文明を否定するにいたったのである。

交通事故でもいくら被害が悲惨でもその訴えるものが交通事故を起こした人が誰であれこうした交通事故はなちならない、それはどんなに注意しても一定割合で事故は起きるしとめようがないのである。人間はどんなにしたって四六時中注意していられない、ちょっと気がぬくとき事故が起きる。それは車社会ではさけられないのである。自分は常に考えごとしているから車にはのらない。ただ事故を起こした少年にしても社会が車社会であり就職するにしたって車の免許がないと働けないのが車社会である。車社会のリスクとしてこうした悲惨な事故は一定数起こるしさけられない、それは運転する個人が悪いにしてもどんなに注意しても起こるのが交通事故だからさけられない。

車社会の生贄だ、それでも車社会は維持せねばならない、生贄として手厚く葬るほかないのだ


石油だってそうである。石油がないなら電気も車も動かないとなる戦争してでも石油を手に入れるのだ。石油文明は文明の根幹だ、石油なくしては文明は破壊される。だから戦争しても犠牲者が出ても生贄を提供して石油を手に入れるのだとなる。人間の命より文明の方が大事な
のである。



公共の福祉を優先させるとの名の元にクルマ優先社会にし
現代のいけにえともいえる交通事故による犠牲者たち。
真の公共の福祉は誰一人犠牲者が出てはいけないし
また、犠牲の上に成り立つ利便性などはありえない。
人の命は地球より重いのだから
http://www.ne.jp/asahi/remember/chihiro/forum.htm


65歳以上年齢層の死者割合に関しても、日本はドイツ、フランス、アメリカの倍近く、全体としてこれらの先進諸国の中で最も高い。クルマ優先社会の放置と人車分離の不徹底という日本の交通行政の構造的問題がまさに、歩行中および自転車走行中の死者割合、65歳以上年齢層の死者割合の高さを生んでいるのである。
http://toinaosu.org/kaiho/tok/01.htm


日本はオランダについて自転車の事故が多い。オランダは自転車の国だからわかる。高齢者の事故も多い。クルマ優先社会の放置と人車分離の不徹底という日本の交通行政の構造的問題・・がある。
日本は国土が狭いから自転車道路とか歩道が整備されていないから事故が起こりやすいのだ。
テレビで見て子供の通学路が狭いのである。すれすれに車が走っている所が多すぎるから歩行者の事故が多いのだ。日本は狭いから道路が整備されないから車社会にも合わないという面があった。原発でも地震国なのだから合わないということがあった。ただ鉄道はあっていたのである。事故はル-ト化すると極端に低くなる。バスでも鉄道の廃線跡を走っているようだと事故は起きないのである。
車はとこにでも路次でもどんな細い道でも入ってゆくから事故が起きやすいのだ。


交通事故では自分も二人が身内でかかわった。必ず家々でかかわっているのが交通事故である。でも結局あれだけ悲惨な交通事故が起きても車社会自体を変えることはできない、悲惨な事故にあった人はそういう運動を起こしているが極少数であり犠牲にされ生贄にされて終わりなのである。
つまり車文明を維持するには少数の犠牲はやむを得ないとという社会的合意があり法律もその線にそってできている。だから一時的には騒ぐにしてもまた起きるのだ。根本的解決方法がないのである。車社会でも原発社会でもそうである。いったん便利な文明ができたら後戻りできない。文明と共に心中する他なくなっている。原発事故は文明の災禍だった。それもさけられずに起こる災禍である。


交通事故者は車文明の生贄だ
原発事故の被災者も原子力文明の生贄だ
石油文明も戦争で死んだら生贄だ
電気がなくては文明は終わりだから
車文明、原子力文明に栄光あれ
我等はそれらとともに運命をともにする
少数者の意見は聞かぬ
それはやむをえぬ尊い生贄なのだ


現実にそうなっている。少数の悲惨な犠牲者や生贄はやむをえないものとして是認されているのだ。それより車社会、原子力文明を維持することが優先されるのである。人間の命が重いというけど戦争のときだって国の方が人間の命よりはるかに重かった。だからこそ四百万人も犠牲にされた。
交通事故だってそうなのである。本当は安全な車社会を作ることができるかもしれない、しかし車はあまりにも便利な故に危険なのである。鉄道とか飛行機を見ればわかる、バスでもそうである。そういう交通に頼っていれば悲惨な犠牲者はでてこないのである。

posted by 老鶯 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2012年04月27日

畑打つ(アマゾンでまた本を買った)


畑打つ(アマゾンでまた本を買った)


●関連した知識を得るには便利になった


本で家が傾くほど本があった。百科事典はかたづけた。今はインタ-ネット時代だから必要でなくなった。なぜは本は整理できないのか?本がなかなか捨てられないのは愛着があるのはモノだからということもある。それもあるのだが本はあくまでもそこに書いてある知識が大事なのである。その知識が整理できない、長年生きていると知識の量も膨大になるのだ。すると知識が整理できなくなる。
本の山に埋もれているのも知識が整理できないからだ。知識はまたいくら年取って乗数的に増えてくるのだ。そしてインタ-ネット時代で気づいたことはこんなにいろんな本があることの不思議だった。これまで手にした本は決して巨大な書店でも手に入らない、古本にもなっているからだ。どんな古本もアマゾンだと手に入る。すると今まで決して手にとることのできない本が読める不思議があるのだ。詩は極めて少数者のものだから大書店でも置いてない、だからいろいろな詩に接することはできない。でもアマゾンだと探せば自分が興味ある詩集があったりする。それで買ったりする。
本を読んでいてもインタ-ネットなどを読んでいてもそれに関連したものが知識として必ずある。
一冊の本は決して一冊では終わっていない、知識は無限に連鎖しているのだ。また自分だけが感じたり考えたりしたことが実は他人も同じこと考えていた感じていたということは往々にしてある。
それがインタ-ネットでわかったりする。交通事故などでも被害者は生贄だというとき同じことを思って書いていた人がいたのである。


どんな本を読んでもある人の引用している人が多い。そうすると引用したものに興味をもつのである。この人は誰なのか、詩集を出しているのか、もっと詳しく知りたいとなる。その時アマゾンが便利なのである。ものを書くにしても自分だけでは書けない、誰かの引用をしなければ書けないのである。そういうときインタ-ネットだけでなくアマゾンでそれに関連した本を探し買うのが便利なのである。ともかく連鎖、リンクして知識が拡大して深めることができるのだ。インタ-ネットはペ-ジだけしか読まれないことが多い。あるタイトルはどうしてかわからないが毎日10くらいあることに驚く。すでに数年間もつづいているからそのアクセス数はト-タルではどのくらいになるのか?


「古池や蛙とびこむ水の音-芭蕉」この句の感想が延々と読まれていることの不思議である。一ペ-ジくらい読まれるのはある。でも10近く毎日読まれるのはどこにもないのである。この句になぜこれほど関心があるのかもわからない、これは外国でも興味をもっている。外国からもアクセスされたからである。「これがまあつひのすみかか雪五尺 小林一茶」これも結構読まれている。中国語でアクセスがあった。こういう句は一般的にみんな興味をもっていることがわかる。でもそんなに興味のないものでもある人が紹介するとその短歌や俳句に興味をもつのである。この人はこの句にこういうことで興味をもっていたのかとわかりその俳句やら短歌を見直すのである。こういうことは確かに本でもあるがインタ-ネットになると増えたと思う。本がインタ-ネットと違うのは本全体を閲覧して要旨をつかむことができることである。ぱらぱらとめくりだいたいのことがわかる。プログなどだとなかなか全体が見えてこないのだ。毎日読んで記録するというのが感じるというのがプログなのだ。


●畑打つ(耕し)の類似俳句


最近近くの本屋で郷土史関係の本をアマゾンで買った。古本になっていて安かったのである。
その中でやはり一茶の句が引用されていた。地元であることが今はそれほどメリットがない。
特に情報関係はそうである。本も情報の一つであり電子化しやすいものだったのである。
交通が発達すると地域が関係なくなる。それは問題にしても味噌を地元で作っていても全国から味噌が入ってくる。すると地元の味噌を買うとは限らない。そういう全国的世界的競争からまねがれなくなったのが現代なのである。地方では売ってないものも買えるからどうしても利用してしまうのである。


畑打つや土よろこんでくだけけり 阿波野青畝


耕され土も喜ぶ春なりき 自作


この句と自分の句はうり二つだとなる。類似俳句になる。俳句は短いから誰かと同じ発想の俳句がどこにある。ただこれで失敗したのは耕しは春の季語だったのである。季語が二つあったからまずかった。俳句の季語覚えるだけで大変な時間がかかる。

耕され土も喜ぶ我が里に


このように直した。こういうふうにあとから簡単に直したりできるのもインタ-ネットではできるからいい。これがいったん本になったら直せないのである。


畑打ちや我家も見えて暮遅し   与謝蕪村


前畑を耕す人や里暮れぬ 自作


これも類似俳句なのである。俳句は何か連句的なところがあるから類似類想俳句が多くなるのだ。
前畑、前田なら家も近くであり見えるから安心感がある。遠くで家が見えなくなると暮れるのも早くなる。こういう土地と家とが一体化して働いていたのが普通だった。それが人間的なことであり自然と一体化した生活だったのである。


畠打ちの顔から暮るるつくば山 小林一茶


確かにこの句は江戸時代を象徴していた。江戸時代は九割とかが農民だった。だから農民的な顔をしていた。農民が顔を代表していたのである。今はいろんな職業の人がいるから農民が時代の顔ではない。農民が時代の顔だったときは素朴な時代だったのである。現代の不思議が田舎でも土地は九割は田んぼなのである。だから農民的世界かと感覚的に思うが実質はそうではなくなっている。農民が土地の顔になることは今でもある。しかしサラリ-マンが普通に田舎でも多いから昔とは違う。農民の顔は今や稀少になってしまったのである。その顔はもうこれが時代の顔だというのはない、顔自体がロボットのような人もいるしもう混交してわからないのである。ただ鬱病的憂鬱な顔が増えていることは間違いないのだ。農民的顔はない、様々な職業に分化して一つの時代の型になるような顔はないのである。


浮世絵の顔がパタ-ン化したのは偶然ではなくそういう一つのパタ-ン化した顔になっていたのだ。
現代ではそういう型になる顔がありえないことでもわかるのだ。そういう同じ顔だと精神的には落ち着いたものとなる。相手のことが顔からすでに話さなくてもわかりあうという間柄になっていた。
現代は田舎だって相手がどんな人間なのかわかりにくくなっている。信用もできなくなってしまったのである。金の力が田舎でも大きいというとき人間は相手と接するとき金勘定しかしていないのである。そういうことは全世界で共通していることなのである。都会だけではない、田舎だって殺伐としているのが現代なのである。

病院であった大原の農家の人は素朴な人だった。大原の草分け的な農家だったらしい。前田という地名のあるところに住んでいるからわかるのだ。あそこには遠田もありその前田から遠いのである。
ただ放射線量が高いから子供のある人はいなくなったらしい。ただ老人は残っている。


大原に動けぬ老人春も暮る


老人は動けなくなってしまう。認知症の人でも住み慣れた見慣れた所だと安心するけどちょっとでも変わった環境になると悪化する。見慣れたものしか認識できなくなっているのだ。だから老人は変化に弱いのである。

2012年04月28日

桜の短歌十首(橲原村から鹿島の町へ) (日本ではどこでも桜の名所がある)


桜の短歌十首(橲原村から鹿島の町へ)

(日本ではどこでも桜の名所がある)

yamahakaemdnewnew1111222.jpg


yamahakanew11111.jpg

catanddog.jpg

犬猫の墓や山家にすみれかな

nirinnsou111.jpg

二輪草一群れ咲きて山間の流の清く日さしかげりぬ


すべてクリック拡大!


yamahakaemdnew111.jpg

鶯と蛙の鳴くや橲原村


山の墓一つありにき錨草


苔むしぬ樹の根元や錨草


犬猫の墓や山家にすみれかな


春の鴨待つ人あれや里の川


星いくつ遠くまばたき花に月


一本の桜の下にの花の影一人行くのみ橲原の村


午後の日の谷間にさして山桜高きに映えて鳥の音ひびく


一本の桜の下に墓ありぬここのみ華やぐ山間の村


山の墓一つありにき一本の桜も散りてあわれ深まる


町方の花の散りぬる夕べかな道を染めにし絹のごとくに


鳥は飛び紅染むる花の色いづれの町も花は咲くかな


風なきに花は散りゆく惜しきかな花には早し時のうつりは


夕日さし花の散りぬるあわれかも時のうつりは早くもあるかな


裏の道花の散りぬる雨しとと我が行き来する町の暮れゆく


夜の森の桜を偲ぶあわれかな帰れぬ人もよその桜見ゆ


 

山鳩に芽吹きし樹々や夕暮れぬ森に隠れて家のともしも


二輪草一群れ咲きめ山間の流の清く日さしかげりぬ


町にある墓はこみ入り狭きかな春の夕べや我が帰るかな


山の墓たずねて町の墓たずね春の日あわれ我が住みにけり


sakurachirumichi.jpg

starmoonhana111.jpg



橲原村の方に行った。一本の桜が咲いてそこを通る女性が一人だった。あそこはいつも人はいなかった。ただ江戸時代からある村だった。ただ墓は明治時代のが多い。あそこで江戸時代の墓が見つからない、杉林にある石塚は名前もわからないが明治時代のものである。戦後も小池に引揚者が開拓に入った人を知っている。その人は自分の父親と双葉の新山の酒屋で働いていたのである。店をやっていたから父親があって親しくなったのである。戦後まもなく全国で引揚者が開拓に入ったのである。
働く場所がなかったのである。上萱などはなくなったが戦後まもなく開拓に入ったのであり新しい村だったのである。それも消えてなくなった。この辺がまぎらわしいのである。江戸時代であればそれは何であれ郷土史関係でも価値があるが明治以降になると価値が落ちるのだ。だから墓を見るときは江戸時代のかどうか見るのがポイントである。

橲原から橲原渓谷を入ってゆくと大葦とかに出るがあの辺は原町区の大原と鹿島区の橲原村に道を分けて分かれている。どちらかというと

大原の方から入って来た人が多いだろう。桜が咲く下に墓が一つあってそれは真宗系の墓だった。一つ石塚がわきにありそれはいつの時代のものなのか?なぜ真宗系なのか?どっちかというと越中などから飢饉のときに相馬藩に入って来た人たちは不便な条件の悪い場所に入った。だからあんな所に入ったのかと思うが別に子孫もいるし江戸時代のものかどうかわからない。ただ上萱よりはあそこは古くから人が住んでいた。大原は江戸時代からあったからその延長の村であり橲原村から入った人は少なかった。ただ良くわからない。

墓が一つだけあるから目立つ、その墓はその近くの家の人だけが参る墓である。そういう墓も田舎には多い。でもその家が途絶えれば墓参りする人もなくなるのだ。それで上萱の墓もなくなった。家族が移動したのである。あの辺は放射能が高いから一部は移動しかもしれない、側溝の落葉のところが20マイクロシ-ベルトあったのは驚いた。道では5か6くらいであった。高いことは高い。側溝は特別どこも高いのだ。水でセシウムが流れだしてたまっているし落葉にはたまりやすいのである。

その墓の近くはキクザキイチゲやらスミレやら二輪草も咲く流れがあり錨草も咲いていた。
ただここは放射能で汚染されたというよりゴミを捨てているのでがっかりした。頻繁に車が通る所なので捨てられたのだろう。放射能よりこっちのゴミの方が目立つのである。放射能は別に水を汚したり見た目には見えない、ただあれだけの放射線量があるとする下流に影響するから鹿島区では耕作させないのだろう。猿が良くでてきた。猿などにどう放射能が影響するのか?山のものを食べていれば必ず放射能の影響があるからだ。

橲原村は橲原渓谷があるからいい、高速道路を車がすでに走っていた。あれが東京と通じたらこんなところでも人が入ってくるようになったかもしれない、飯館村なんかも原発事故がなかったらかなり入ってきたかもしれない、高速道路を待ち望んでいたのである。東京から飯館村も来やすくなったことは確かだろう。でもあの辺は風穴の湯とか農業でも畜産農家でもやめる人がふえるだろう。そのあとどうなるんだろうとなる。ただ高速道路が通れば東京からの客が来ることも考えられる。

橲原村は前にも書いたけど丁度鹿島区の奥座敷のようになっていたのである。回りを森に囲まれているからだ。大原は昔は大原山人という人が住んでいたが今は車がひっきりなしだからそういう感じがないのである。橲原は車が通らない分今も奥座敷の静けさを保っているのだ。

そこからまた町の方に下ってきた。桜ももう散って終わりつつあった。花の命は短い。桜で感じることは花が咲き散ることにより時の移りを感じる。それを日本人は自分の命にたくしていたのだ。花が咲いて散る・・・その移り変わりが人生とみるようになった。他の花にはそういうことはない。ただ咲いて枯れるだけなのである。花は美しく散ることこそが美しいとなった。そういう日本的美学を桜は作ったのである。ただそれは戦争のとき故意に作られたということもある。命を惜しむな散る桜こそ美しいのだとなって400万人死んだともなる。ともかく桜は日本人の心の花なのである。


桜は別に京都や大阪でなくてもどこでも咲いている。桜の名所は別に無数にあるのだ。この辺でも南相馬市立病院の桜は自分が一か月入院したからあれは情緒あるなと思った。相馬市でもお掘りの桜がある。桜は土地土地にある。夜ノ森の桜も有名だった。それを見れなくなるとは思わなかったろう。でもよその桜を見ている。他にも桜の名所はいくらでもある。吉野や京都だけではないのだ。ただ京都とか奈良だと何でも名所になるから得なのである。キ-ワ-ドでも桜を知りたいというとき辺鄙な知らない町のことなど調べないのだ。必ず京都となり俳句でも短歌でも京都のことを書くとアクセスがふえるのである。地方はキ-ワ-ドでも注目されないのである。


今回も橲原村から町の方に帰るとここでも山の方と町の方では違っていると思った。山の桜と町の桜は違っている。町が都とはなちないがそれとにたものがある。山の墓は一つだったが町の墓は狭い所に密集している。墓も町のように入り組んでいるのだ。だから山と町は違っている。墓も狭くいりくんでいることはまさに町は現実の町もそうである。現実の町もそうだから墓所もそうなっているのだ。土手の桜は散って花びらで桃色に染まったのは美しかった。まるで布がそめられた感じになった。これは町ならではの美しさであり都的な美しさだった。どこにでも本当は美はある。ただ人は見る目がないと何も見えないのである。田舎はかえって自然は美しい、放射能は別に自然の美を損なうことはなかった。花が咲かなくなったり木が枯れたりしたらショックであり住めない,人は美のない所に住めない、それでも東京のような美のない所に住んでいるのがわからないのだ。京都だって都会だからすべてが美しいとは言えないのである。空でも街でもやはり濁っている。歴史があっ

ても自然は汚れている。ただ京都は水はきれいだし自然と調和したものが残っている。

それにしても桜いくら見ていてもあきない、桜は場所によって違って見えるのだ。それから桜前線によって咲く時期が全国で違っている。テレビでやっていたけど弘前の桜は雪がようやくとけて咲くから一段と美しいと言っていた。その雪国の時間の移り変わりを外からきた人は体験できないのだ。
だから福島県でも会津の桜とかは良くわからない、そもそも会津は浜通りからする異質の世界なのである。日本海側の桜も見ていない、なぜみれないかというと時期をはずすと桜は見れないからである。自分は稚内まで行って桜を見た。5月の下旬頃まで咲いているのが桜だったのである。全国の桜をみるということはそれだけぜいたくなことでもあった。九州の桜などは見ていない。ただ桜はどこでも見れるものである。山の鄙びた山桜を見て町の華やかな桜を見るということもあったのだ。
やっぱり日本は桜の時期が一番いいのだ。ただ今や旅もできない。でも近くでも桜は見れるのである。

ようやくに稚内に着き桜見る日本の果てや旅もつきしも

2012年04月29日

タンポポ (耕されない田畑がタンポポで埋まる)

タンポポ

(耕されない田畑がタンポポで埋まる)


年老ゆも鳴き合いひびく夕雲雀


たんぽぽや子供の顔に輝きぬ


タンポポの耕さぬ田畑に満ちにけり


草原に春の夕風海近し


耕されない田畑に一面にタンポポが咲き満ちている。ハコベのようなものも咲き満ちている。あとは一部耕されているが草原化している。草原だと風も夏の感じになる。海まで見通しが良くなったから風が海から気持ちよく吹いてくる。この景色はまた北海道なのである。北海道は牧場で草原なのである。一面にタンポポの咲いている所がにているのだ。この景色も悪くないと思うがこういう状態でそのままにしておくわけにはいかないだろう。


ソ-ラパネルの仕事も山の木を切ったりして大変ならしい。何か仕事を生み出すにしても簡単にはできない。みんなこの先、福島県などはどうなるんだろうと心配する。田畑の仕事がなくなったら農家の人はどうなるんだろうとか他からも心配になる。ただハウスでいろいろな花を栽培している家があったけど花は放射能の影響はない。水田がなくなっても一面に花が咲いたらかえって美しいともなる。ひまわりは相当植えてあるから一面のひまわり畑になる。


タンポポが辺り一面咲いている。そのタンポポにかがみ子供が遊んでいる。その時自然と子供は一体になっていた。その花に近づける顔にタンポポも明るく輝いて咲いている。畠打つとか耕しとか人間と自然が一体化するとき調和して美しいのである。


my cultivating homeland in spring
humanbeing and the earth in one body


以前として家の方が整理できない、本は乱雑に積まれているしまだ地震で壊れたところや掃除しないところがある。一人は寝ているのでなかなか咲きに進まない。一年間すでに整理に追われている。

近くの人が死んだ。老夫婦であり二人とも病気みたくなっていた。夫が先に死んだけど妻ももう一人では生活できない、90近い人が買い物している。回りにはそんな人ばかりである。老々介護とかよたよた何とか歩いている高齢者である。この辺は津浪、原発事故で病院や福祉関係のサ-ビスの質が落ちた。これから施設に入るのは容易ではない、国では在宅介護にしようとしているが今や少子化や家族数が致命的に少ない、その中で一人倒れられると介護する人大変なことになる。自分は二人も介護する人いたが一人は苦しかったけど死んだので助かった。もし二人も介護していたら自分も倒れた。少子化というのは高齢化して二人でも四人でもその少子化した子供がみなくならねばならぬ。
その重荷はとても背負いきれないものとなる。兄弟もいないとなれそうなるのだ。昔のような大家族だったらなんとかのりきれる。少子化やら高齢化やら一人暮らしの増大はこれから悲劇を生む。

90近い人が多い、その人たちはどうしても病気とかになり倒れる、それが見えているのだ。百までも健康な人などまれだからだ。その時老々介護とかなり共倒れになる人も多数でてくる。
近くで死んだ人は子供が親のめんどうみなけれならなくなる。一か月くらい子供ではなく近くの人がめんどうみていたという。子供でも離れていると今はめんどうみないのである。だからといって近くの人がめんどう見るなどとは今はならない、少子高齢化はやはりえびつな社会構図なのである。

2012年04月30日

草原化した田んぼにタンポポが咲く (高齢化社会にはコンパクトシティがいいのか?)


草原化した田んぼにタンポポが咲く

(高齢化社会にはコンパクトシティがいいのか?)


tannpopopo1111.jpg

タンポポに子供の顔の大きくも迫り輝きうれいのなきも

青々と草の茂りて燕とびタンポポ満ちぬ海も近きに


海よりの風のそよぎて青々と草のなびきて揚羽飛ぶかな


故郷に我が年ふるもこの夕べ雲雀鳴きあふ声のひびけり



この辺の風景は津浪以後変わってしまった。北海道のように草原化したのだ。田んぼに青々と草が茂り一面にタンポポが咲いている。この景色は北海道である。北海道には奥になると水田がない、広々とした草しげる原がつづいている。北海道に来たとき空気まで違うと感じたのはやはり水田がない、湿っぽくないということにあった。カラリと乾燥していて草原があり花々が咲いている。日本の水田的景色とは違っている。牧場的景色でありそれは明かに地中海とかヨ-ロッパの牧場的風土になる。
イギリスなどでも丘が連なりゴルフ場のようになっている。あそこにゴルフが生まれたことは風土からしてわかる。自然のゴルフ場になっていたからだ。湿潤なモンス-ン的風土と北海道的牧場的風土は精神的にも違ってくる。これは和辻哲郎の風土文化論になる。


この辺の変化は津浪、原発事故が激しい。人口が増えてにぎやかになったのも不思議である。仮設店舗なども30軒くらい増えたのである。他から入ってくる人も多い。名古屋から来た人が太鼓を披露していた。そういう芸能関係の人々も入ってくるからにぎやかになったのである。それは悪いことではなかった。こうなると津浪被害にあったところは今までとは違う街作りが要求されている。逆にそういうチャンスだということもある。更地になったのだから思いのままに新しい計画を作れるとういことがある。でも水田がなくなってそのあとに一体何を新しく作るのかとなるととまどうだろう。

放射能で牧場もだめだとなると北海道のようにはならない。ソ-ラパネル発電は試している。それも土地がないとか採算が合わないとか問題がある。新しいものを創造するチャンスにしてもそれがどういうものか描けないということは確かである。



特に中山間地帯では、隣の家まで車で5分以上かかるというように、さらに低密度に家が建っています。ご飯を作ることが大変なお年寄りに弁当を配る「配食サービス」という福祉事業がありますが、このような中山間部では配る手間がかかるので採算割れとなり、公的支援なしには成り立たなくなっています。


 これは介護ヘルパーさんも同じです。家が分散していると、移動にかかる時間と費用が馬鹿になりません。福祉サービスの実施の面でも問題が生じるのです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3188


一軒一軒回ることは相当な手間なのである。福祉サ-ビスはこういうことに時間をかけると行き届かない。一所に集めると楽なのである。労働力が不足してきたとき効率的にするとするとやはりコンパクトシティがいいとなる。現実この辺では津浪の被害にあった人は街周辺に集まり期せずしてそういう状態が作られたのである。やはり高齢化社会は分散しているとサ-ビスができなくなる。自給自足の村社会とは違っている。病院でも福祉でもサ-ビスを受けたいとなると効率的ではないのである。

この辺ではそういう将来のビジョンが混乱して描けない、変わりよう激しすぎたのである。ただとまどい混乱しているだけである。田んぼがなくなるなど想像すらできなかったからだ。もちろん故郷自体が消失することなども想像すらできなかった。

でも高齢化社会とかにはコンパクトシティ化が要求されるし何か方法を考えねばならないしこの辺はそうした新しい計画が必要になったのである。水田が草原化するということ、これ自体が余りにも大きな変化だった。ただ水田は復活するのか?別に隣の相馬市では風景は変わらないのである。ただ不思議なのは中通りの福島市でも郡山でもここより放射線量が高いのに同じ様に米は作っている。
それもどうしてなのかとかと思う。


要するにこの大きな変化に未だ人々は対応できないない、小高の人は警戒区域解除でも何ら変わりないとか喜ぶべきことではないとか帰れないとか言っている。まだ将来の見通しが小高区ではたてられないのである。だから帰らない人が多いのである。

 

大芦や地蔵木などは昔は秘境だった (不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)


八木沢峠の麓の大芦や地蔵木などは昔は秘境だった

(不便な地域に分家して開拓に入るプロセス)

map-ooashi.jpg


郷土史でもやはり地形に通じないと見えてこないものがある。日本の地形は山あり谷あり川あり海ありと複雑なのである。海にそった浜通り側は比較的わかりやすい地形だった。でも山側になると複雑に入り組んでいるのだ。だから阿武隈高原でも地形的にはわかりにくい所だった。
飯館村の八木沢峠の麓の地帯は山間であり地形的に窮屈な所でありここに人が住んだの南相馬市の原町区や鹿島区の橲原村よりはあとである。分家した人たちが入植した。姓を見れば橲原村や大原村の人たちが入植したことがわかる。あそこでは田にする平地がない、それでもわずかに田を作っていた。大原から坂を上って遠田と地名があるから大原の草分けの前田から遠田に開拓地を広げた。それは分家して遠くに田を作り人が住み着くようになる。それが八木沢峠の麓の谷間に人が住むようになったプロセスである。ただ江戸時代からあそこに人が住んだかどうかはわかりにくい、真宗系の石塚の墓が一つあったが時代がわからない、橲原村でも明治時代ものしか残っていない、あそこの谷間から上萱(うえがや)へは戦後に開拓する人が入った。新しい村でありそれも消滅した。
江戸時代に人が住んでいたかどうかが村を見るには大事である。

橲原渓谷から大原への坂を下る所に六地蔵があった。これは埋もれていたのでわかりにくい、六地蔵は村と村の境界にある。とするとあそこが橲原村と大原村の境界だったのか?江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。民情が違うということはどういうことなのかわかりにくいけど村と村は交わらない一つの国と化していたためだろう。橲原村と大原村には新しい道ができたけどそれまでは地蔵木からなどの道が大原に行く道だった。今は車が頻繁に通るからあそこが不便な所などと意識しないのである。あそこは大原村よりも橲原村よりも不便な所だった。車のために本来は不便なところが便利な所のように見える錯覚を作り出しているのだ。
あそこの谷間の特徴は道を挟んで原町区の大原村と橲原村に分かれていた。どちらからも分家した人たちが開拓に入った。そこで混在することになったのだ。上萱は栃窪村に編入された。原町市と鹿島町が合併する前は行政的には統一されていなかった。


橲原村からであれ大原村からであれこの土地で暮らすとしたら土地が必要である。その土地がないとなるとあのような不便な土地を開拓して住むほかなかったのである。地形を見ればその村の古さがわかる。そして郷土史研究の基本が村の新旧を知ることがまずある。江戸時代から村があるのと明治以降開拓された村は分けるべきである。武家の出や野馬追いの出る家はそうした家にはない。なぜ上萱とかさらに不便な場所に開拓に入ったのか?それはもう土地がないからだ。それで戦後農業する人はプラジルに渡ったりしている。土地がないから土地を求めて渡ったのである。

あそこは自然的には魅力ある場所だった。橲原渓谷の上流であり不動滝の御堂があるところから太古林道を上るとその源流があり大きな岩があったりする。橲原村が鹿島区の奥座敷でありそこからさらに奥の秘境だったともなる。ただ今は車が頻繁に通るからあそこがかえってにぎやかな所だと錯覚しているのだ。昔だったら人も訪ねるもまれなる地域だった。橲原からも大原からも坂でありいかに辺鄙な場所だったかわかる。あそこには村の墓地があったのか?一つだけ家の墓があった。それも新しいものである。上萱には墓地があったがなくなった。いづれにしろ人間は地形にそって住む場を広げたことがわかる。

posted by 老鶯 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)