2012年04月16日

太陽も航海民にとっては方向として見ていた (東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)


太陽も航海民にとっては方向として見ていた

(東と西の方向感覚-海と陸(土)を分けた地点が日下石(にっけし)?)



「日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)」
    「書(しょ)を」
    「日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す」
    「恙(つつが)なきや。」

聖徳太子の小野妹子が隋に送った国書である。太陽は光として作物の実りをもたらすものと実はもう一つ重要な感覚があった。それは方向を示すものとして太陽があった。航海民は太陽を方向として意識した。太陽がどこから昇りどこへ沈むのかが大事だった。この方向感覚は平原とか砂漠とか遊牧民にとって生死を分けるものとなるから大事だった。砂漠でもどっちに水があるかないかで生死が別れる。だから星などが方向を知る目印として大事だった。北極星や北斗七星信仰が中国で起こったのは遊牧民の文化である。砂漠の民のイスラム教がメッカの方向をいかに大事にしているか?方向がまさに神であり信仰なのである。妙見信仰もそこから起こった。太陽は稲作民族だと天照大御神になるが航海民にとっては方向をみるものとして太陽があったのだ。だから太陽が昇る方向と沈む方向を注意深く見ていたのである。聖徳太子がこの国書に書いたのはまさに太陽の方向感覚であり航海民の文化を引き継いでいたからである。日本は南から船で渡ってきた人々が作った国だということは古事記などの神話で語られている。船でわたってきたということは常に方向が大事になるのだ。方向がまちがったらとんでもいな所に行って命まで落としてしまうからである。


海があり陸地がある。それを分けるのも大事になる。海から陸地が見えるところが重要になる。海を長く航海して陸地が土が見える所があったならその時そこは重要な地点になる。その陸地や土になっているところは航海民の上陸地点になるから大事なのである。「陸が土が見えたぞ」と海から見てなるのだ。西(にし)のニが土だということは海になっいる所と土になっている所を分けたのである。
だから日下石(にっけし)は津浪でわかったようにそのじき前は縄文時代は海だったのである。縄文海進時代は深く海がはいりこんでいた。でも縄文時代ではない万葉時代、奈良時代には海は深く陸に入り込んでいた。その地名の一つが万葉集の真野の草原(かやはら)の歌でありそこに船着とか市庭とかの地名が残っている。津浪が実際にあそこまで押し寄せたのは驚いた。日本全国であのように海が深くはいりこんでいた。縄文時代ではない、万葉時代でそうだったのである。だから別に縄文時代にさかのぼらなくても深く海がはいりこんでいた地域が海側には多い。今回津浪に襲われた地域は縄文時代ではない、万葉時代に海であったことが推測されるのだ。


だから太陽を方向としてみるとき日の昇る方向と日の沈む方向が大事になり東はひの岸(かし)になり西はニが土であり陸を示していたのである。地名をなづける場合、陸地から海を見れば海岸は東浜とか名づけられる。しかし海から見れば逆になり西が名づけられる。常識的には陸地から見て地名がつけられたと見ている。海から陸地をみて西と名づけることはなかなか気づかない、日下石(にっけし)は西という意味ではなく土(に)のある場所、陸地のことだった。海から来て土がある場所、陸地として別れる地点だったのである。だから今回の津浪で日下石(にっけし)まで海になったのである。
方向地名はどこを基点にしているから重要である。どこからみて西なのか東なのかである。陸地から見れば東になり海から見れば陸地は西になるのだ。西(にし)の二が土だというのは普通に気づかないから発見であった。


ではなぜそうした方向感覚が生まれたのか?それは日本にやってきた人たちが海からしか来れないし
航海民であり航海の技術がなかったら日本には来れない、海からやってきたのだから海からの視点で日本列島を見ていたとなる。それは日本の神話の基にもなっている。九州の異民族化されたハヤトなども南から渡ってきた人たちである。



竹にかかわる人々は海洋民族であったと言われています。かつて九州南部にいた隼人民族は南洋諸島の竹細工技術を身に付け、日本にたどり着いて土着民となりました。彼らは勇敢で強大な畿内政権に最後まで頑固に抵抗しましたが、ついに破れ畿内に連れて来られ、畿内隼人と呼ばれて竹器を作らされていたのだそうです
http://www.shinrin-instructor.org/ren08/02.htm


漢字で「東雲」と書くのは、東の空の意味からの当て字。
語源は「篠の目(しののめ)」であろう。
古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を「め(目)」といい、篠竹が材料として使われていたため
「篠の目」と呼ばれた。



竹の家がありそこから東雲(しののめ)の言葉が生まれた。日本では大和でも奈良でも竹はなかったとい。竹はもともと東南アジア辺りに多い。ベトナムなどに多い。竹の文化が伝わり東雲(しののめ)が生まれたというのもわかりにくい。どうしてもここに東は当て字である、ただ雲というとき東の空が曇っているように夜明けは暗いから雲をあてた。竹の文化では竹取物語もそうであり竹は外来のものでありその話なども東南アジア辺りから伝わったものとなる。原型はそこにある。梅すら中国から入ったものであり桜より梅が尊ばれた。

 さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君


さす竹が大宮人を導く枕詞となっていることはいかにすでに竹が日本の文化となり根付いていたか証明している。

隼人(ハヤト)族も海を渡ってきた航海民である。だから方向として太陽を見ていた。日の本(ひのもと)は日の下であり日本の国号になったがこれは日の出る処としての日の本である。ところが日本は(にほん)でありに(ニ)は土を示しているとなり西を意味しているとなると日の沈む土地ともなる。
ともかく方角地名が地名の基本であることはまちがいないのだ。



西原、西台とか柏崎にあるのは土があるところ陸になっているとして海から意識して名づけられたのか?瀬戸内海とか九州だと船の航海は具体的なものとなるのだが東北の海は荒く航海となると古代ではむずかしいからどういう感覚でつけられたのかわかりにくい面はある。ただ西原は一段低くそこに田んぼがあり辛うじて津浪の被害からまねがれた田があった。その下は津浪で浸水した。西台はもっと高くここでは津浪の被害がなかった。柏崎は津浪の被害はなかった。引沼はずっと奥だから津浪とは関係ないでしょう。それでも津浪を考える場合、海であった処がありそれと関係して名づけられている場合があるから注意する必要がある。南相馬市鹿島区の塩崎まで海であった。地名の通りそこまで万葉時代は奈良時代は海だったのである。そこに船着や市庭とかの地名が残っていた。


郷土史関係ではインタ-ネットは実際かなり役立つ、地名の研究なども全国のネットワ-クを作って研究すれば新しい発見もでてくる。地形とかに深く関係しているので地名も地元の人でないとわからないことがかなりある。そこが地名を知るむずかしさである。西原と西台は高さが違っていることなどわかりにくいのである。

地名は研究してきたので地名から学問に興味をもったので鳥野様の研究も暇があったらまた気づいたことを書いてみましょう

posted by 老鶯 at 09:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年04月17日

警戒区域解除の南相馬市小高区の写真


警戒区域解除の南相馬市小高区の写真


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六号線を津浪が越えた。堤谷の付近
向こうに海が見え波しぶきが見える。

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六号線を津浪が越えた


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小浜の方面、この高さが写真だけからはわかりにくい
あそこは高いから津浪は来ないと思っていたろう
そういう所まで津浪が来た

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村上城のあった所、この一つの山が津浪をやわらげその前の家が流されていなかった。
前に何もない所は一軒の家も残らない、こんなに海に近くて家が残っていたのは
この山のおかげである。
小高は海側に大きな集落がないから鹿島区の海老村や烏崎村のような被害にならなかった。

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ここにも庭の石が残っていた。


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意外とここは松が残っていた。

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ピアノをここでひいていた。

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車がここまで流された。

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小高駅を越えて津浪が街に入ってきていた。小高は海に近かった。

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ゴ-ストタウンというときこういうのを見ると確かにそうである。小高の通りは歩道など整備ささたから鹿島区より感じがいいと思っていた。医院でも泌尿器科がある所があった。老人が増えると泌尿器科にかかる人がふえるからいいと思った。こういう病気は近くにあると便利なのである。


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核兵器廃絶宣言

鹿島区でもこの辺で核兵器廃止宣言の町と看板を出していた。これは何であったのだろうか?
広島でも原水協では核兵器には反対でも平和利用の原発には賛成していたのである。というのは労働組合が中心だとそのなかに必ず電力会社の組合が入っていたからである。この組合は強力であり資金力もある。そうすると平和利用はいい、原発は安全だと言われればそうかなとなり賛成していたのである。そこが誤ってしまった。核そのものが危険なものだったのである。

結局思うに組織団体化したところは巨大な利権団体でありその圧力が大きいから何も言えなくなる。カルト宗教団体も大きな力をもっているしどこにでもいる。創価の圧力も大きい。電事連合とかも大きな力をもっている。そういう組織の意向によって社会は動かされているのだ。
原水協自体がそうでありすると原発が危険なものだという安全神話にくみしていたのである。
ただ共産党系の一部が原発の危険を指摘していた。しかしそれもかえってイデオロギ-的に特赦な人たちとして見られていた。だから原発反対はSF的架空の小説のように見られていた。
現実的に危険なものでも科学的にも検証されないし一般人には安全神話で知らされていなかったのである。

このことで情報は常に権力をもっているものによって操作されていることがわかった。権力を操作する側にとって都合の悪いことは知らされないのである。スピ-ディが最初に知らされたのがアメリカであり日本ではなかった。これも信じられない、日本人に知らせないでアメリカに知らせていたのである。そして浪江の人たちは放射線量か高い津島に集団として避難した。そこで被曝したのである。それで国を訴え裁判になる。
何か今になると核兵器の核は反対だけど平和利用の原子力はいい核だとういのも権力側によって作られたいたのだろうか?小高にも鹿島もこの看板があった。それが何だか虚しいのである。

今回は井田川の方に行けなかった。雷が鳴り雨がふってきた。山の方は雲で暗かった。
原発事故でゴ-ストタウンが生まれた。雨もちょっとふって暗かったから余計に暗く感じた。
そして浪江の方も暗く浪江の方には行けないというとき双葉辺りが昔の相馬藩の境であり余の森、藩主の森として領有を宣言した所である。あの辺は大野とか広野とあるように江戸時代は森がおおっていた。だから今になると森に帰り閉ざされた地帯になってしまうのかと思った。
ただ小高までは自由に出入りできるので燕が飛んできたりと気持ち良かった。
出入りが自由になるとゴ-ストタウンではなくなる。飯館村は人が住んでいなくても出入りは自由であり人影も見えるのでゴ-ストタウンとは違っている。これからあとかたづけとかインフラ整備とかで人が入ってくる。放射線は計測器を忘れて計れなかった。

明日はまた井田川の方に行ってみたい、まだ水がある内に見たい、今度は放射線量を計ってみよう。
 


 

posted by 老鶯 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

春の雷 (警戒区域解除-南相馬市小高区に入り俳句と短歌を作る)


春の雷

(警戒区域解除-南相馬市小高区に入り俳句と短歌を作る)


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小高区へ燕の飛ぶや入れたり


小高区へ入るや轟く春の雷


山に雷海に波打ち揚雲雀


雷鳴りて波しぶきあがり藪椿


波ひびき街復興せむ春の雷


故郷の病院あわれ花曇り


雨ぬれて病院に誰か夕桜


荒々し波うちよせて藪椿赤々と映ゆ城跡の山


庭の石ここにも残り家ありて残れる松や春の日あわれ

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小高区へ入ったら春の雷が鳴った。燕も飛んだからやっと入れたということでうれしかった。
第一そもそも警戒区域とかで入れないことが信じられないというか何か理不尽なのである。
ある土地が入れなくなるということが今まであっただろうか?
こんなとき春の雷が激しくなってちょっと雨がふった。ともかく入れたということが感激になっているのも奇妙である。小高にはあまりこれまで行かなかった。土地に特徴がない、高瀬川のような急流もあるわけでもない、見るところがないのだ。

村上城のあったところに一面に藪椿が咲いていたのは見物だった。あれは自生していたものであり数が多いから見物であった。この時も波も荒く打ち寄せていた。海への恐怖感が植えつけられたから津浪のあったところには住みたくないというのは心情としてわかる。海は怖いなとつくづく思った。
この辺の波は荒いからそもそも親しめるという感覚がない、瀬戸内海のような海とはもともと違っていた。

ここでも流された家の跡に庭の石が残っていた。不思議なのは小さな石も残っていたことである。烏崎村でもそうだった。小さな石は流されてもいいはずだがみんな残っているのだ。

小高の被害は海に接して大きな集落がなかったから被害が小さかったかもしれない、塚原の方は家が全部流されたとかはあまりないみたいだ。山沿いにあり多少高かったから助かったのかもしれない、一番の被害は海側に直接面していたところだった。村上の城跡の山が一つあっても津浪を和らげる力になった。津浪を防ぐのは高い堤防とは限らない、厚い土盛りしたものが効果的である。
名取や仙台辺りでは高速道路が高く厚く土盛りしてあるので津浪をさえぎったのである。


南相馬市立病院には一か月入院していたのでなじみかある。故郷で一番なじみのある場所になったのはこの病院かもしれない、最後に死ぬときも今は病院に世話になる。病院が最後の場所になるとしたらそこはやはり大事な場所になる。あそこの桜は見物である。見晴らしもよく桜も咲くから環境がいいのである。医者や看護師もいい病院の条件だが環境もいい病院の条件なのだ。特にタ-ミナルケアとかの病院になったら環境はさらに大事な条件になる。その点相馬市立病院の環境は悪い、回りに見るべきものがない、情緒的には良くない、ただ看護師とか医者はまた別である。すひべてがいい病院などないのである。


今日はまた母が胃が痛いとかで病院に行った。そこでは南相馬市出身の医者がいた。地元出身だと何か親しみがもてるかもしれない、医者は土着性がないと指摘があった。意外と土着性というのも仕事に必要なことかもしれない、病気になったりしたらいい医者が遠くにいても親しみがもていなとか何か心の面で安心しないとか落ち着かないという心の問題が起きてくる。そういうことも病気に影響することは確かである。医者自体心が体に影響すると言っているのだから病気には心の問題が影響するからだ。病気は総合的なものとして対処するのが理想なのである。土着的だとか回りの環境も影響する。その土地に根付くように仕事をするということが必要なのかもしれない、ただ技術的なことだけならば他かの遠くの医者が上手であり高い技術をもっていることはいえる。高度な手術はやはり地方の小さな病院では無理だということはいえる。小高に泌尿器科の医院があったのは意外だった。
病院は近くにあるのが意外と大事である。確かに車がある時代だから遠くに行けるようでも車がない人もあり車に乗っていても病人は疲れるのである。だから近くがいいとどうしてもなるからだ。


ともかく忙しい一日だった。旅をしないと一日家にいると暇になることは確かだが介護とかあるので暇がもてないということもある。食事の問題が一番時間をくう、片づけたり洗ったりするのがめんどうなのである。だから原町にあるチェ-ン店で200円の朝食があるのには驚いた。
350円でも納豆定食食べられるからあれだったら楽だし金もかからないからいい。
朝昼は外食で夜だけちょっと軽いものを作るとなれば時間はかからない。
なんかあと5,6年しか生きないとすれば短いがまた10年とか生きれば結構長いものかもしれない。
とにかく人間はいつ死ぬかは医者もわからない、60代でも結構死んでいるから死は身近なのである。

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2012年04月19日

桜咲く(戦争の話しを老人に聞く)


桜咲く(戦争の話しを老人に聞く)


春日さし昔を語る老爺かな


春日さし石あたたまり里に老ゆ


梅の香の流れたたずむでで虫の一匹歩む朝の静けし


みちのくは未だに花の咲かざりき南は盛りを過ぎて散りしを


みちのくにようやく咲きし桜かな仮設に住める人も歩みぬ



88歳の老人と道端で話した。この年だとやはり戦争の話だった。東京の飛行機作る工場で働いていたという。地方からも人を集めていたのだろうか?特攻隊を見送る話しをしていた。直接見送ったわけではない、女性が花束を特攻隊員にささげて別れた。油は帰る分がないので帰ることはできないし死ぬのだから帰ることはないと攻撃したのだからそれでも良かった。

この人は直接戦争に行ったわけではないし人を殺したわけでもない、志願兵で行った人は本当に人を銃剣で殺している。中国人を殺している。だからそのところは詳しく語らなかった。今日あった老人は人に聞いた話であり経験した話ではない、戦地に行っていない、ただ東急空襲を経験している。

人づてで聞いた話で中国人を並べて戦車でひいたと語っていたがこれもよくわからない、ソ連兵は日本人を戦車でひいたことは確かである。天安門でも戦車でひいた。これはあまりにも残酷なことである。人間は戦争になればそこまでやるのかとなる。戦争に関しては生きている人もすくなくなり経験者よりその話を聞いたという人が多くなっている。この世代の人は必ず戦争のことを語る。姉も死ぬまで戦争のことを語り続けしんだ、死ぬ前まで語っていた。シンガポ-ルに4年間も従軍看護婦で働いていたからである。そのことが忘れられないのである。人間はこうした強烈な事件は経験は忘れられない。それは戦争でなくても人間の一生のなかで起こることで強烈な印象になることは忘れないのである。だからそのことを延々と語ることになるのだ。

戦争で確かなことはやはりその人が身近に見たことなのである。梅毒になって死んだ人を近くで知っているから梅毒が蔓延したことはまちがいない、その人も近くでそういう人がいたと言っていたから各地に戦争帰りの人で梅毒になった人がいたのである。


(4)10年以降、中枢神経系と循環器系を中心に全身が冒され、麻痺や痴呆、精神障害


戦争が終わって10年後になるということでもわかる。近くの人もそうだった。梅毒は戦争と共にもたらされたのである。


 フランス王の シャルル 8 世 ( 1470〜1498 年 ) は イタリアの ナポリの王女と結婚した父親の遺産を相続し、ナポリを自分のものにするのは当然と考えました。そこで兵を進め 1495 年には港町の ナポリを包囲し陥落させましたが、征服軍の兵士たちはここで売春婦などと遊び興じたために、多くの兵士が新大陸直輸入の新種の病気である性病の梅毒に感染しました。

上流階級の男性の間では インディオの女奴隷を 賞味すること が流行したためであり 、その女奴隷を通じて新大陸の風土病であった梅毒に罹ったとする説がありました。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/koronbusu.htm


人間の病気はいろいろありなぜこんなに病気になるのかと思う。梅毒は戦争から生まれたということは戦争により人間の性が乱れることが原因している。韓国女性の従軍慰安婦もいろいろ言われるがすべては否定できないだろう。そういう女性を必要としていた。戦争は人間をアブノ-マルにしてしまうからだ。人間の病気は罰なのだろうか?性の乱れからだとするとエイズなどもそれと関係しているしソドム、ゴモラも同性愛とか性の乱れから滅ぼされた。ともかく戦争は露骨に人間の悪の側面が現れる。その一つが性の乱れである。梅毒とかエイズとかは他の病気とは違う、文明病とか言われたように戦争とかが原因でなっていたのだから他の病気とは違う、心臓病とか脳梗塞などは普通にある病気だけど梅毒は戦争を通じてもたらされたから違っている。戦争から様々な悪が生じてくるのである。


今日話を聞いた老人の顔は子供のような顔していた。そこに悪を感じない、素直な童顔であり飾り気のない子供のような顔をしていた。もう欲望もないしいい顔だと思った。88才までも病気にもならなかったのかもしれない、だから幸せな顔していたのかもしれない、まず今は60代は老人とは言えない、なお欲望でぎらぎらしている。これも女性でもそうだったから60代は危険な人が多い。個人差はあるにしろ全く枯れていない、ただ80以上の人は義理人情とか素朴な人がまだいる。そういう農家の人にあった。素朴な人は接していて顔を見ていてわかる。何か悪さをするという感じが見えないのである。正直であり素朴なのである。個人差はあるにしろそういう人は結構多いのかもしれない、60代はそういう人はまれである。以前としてぎらぎらした欲望がむきだしになっているのだ。そういう人だということを知っていればもっとを気をつけたが失敗だった。そういう人と接すると害を受けるから怖いのである。


ともかくこの辺では農家の人でも田んぼや畑を耕さないのだから昼間から酒飲んでいる人が多いのである。その人は仮設の人ではない、地元の人でも農家の人はやることがないから酒飲んでいる。
88才になれば何もできないからだが仕事できる人もできないから酒飲んでいる。この辺はどうなってしまうのか? ぼかぼかと石が春の日にあったまるようにいられるならいいがいられなくなった老人もいるから悲劇である。


この辺もようやく桜が咲いた。多少落ち着いたが自分はいろいろと生活に追われている。家事だけでも一人でやることが大変なのである。最近身内が死んだがその貯金を全部下ろしていなかったのだ。それで連絡がきたが通帳はすでに捨てた。通帳があれば引き出すことが簡単にできた。それがないので戸籍謄本とかを送ったりかなりめんどうなことになる。相続問題がでてくるからだ。一人の人間が死ぬことは財産があったりするといろいろあとあとまで整理が大変なのである。自分の場合は相続する人が一人だったりしているから楽だったが兄弟がいたりしたらめんどうになる。
死んだら通帳は必ず見てもらった方がいい、ここは盲点だった。いろいろ証書があってわからなくなっていたのである。

怪しい地名の研究(島野氏)の解読


怪しい地名の研究(島野氏)の解読


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●日本のニは湿地帯の意味

「日新」「新田(にった)」など語尾はいろいろであるが、語頭が「ニッ」で始まる地名は縄文地帯の東日本に明白に偏在する。「にっぽん」「にほん」の「ニッ」あるいは小さな「ッ」が脱落した「ニ」は「湿地帯」「しめった」と解釈した。(怪しい地名の研究7)

日本(にほん)が二に注目するとニはそもそも湿地帯のことは明らかなようです、新田(にった)は地名では多いですから間違いないでしょう。
日本は湿地帯の国、豊葦原瑞穂国の国です、そこで邪馬台国とは台であり湿地帯の中で高台になっているところでしょう。湿地帯があり高台に国ができた。日本が最初は縄文時代は東が東北地方が人口が多く栄えていた。「日高見国」がもともと大和の前の国号だった。日本の地名は湿地帯が多いから湿地帯のニのつく地名と台のつく地名が対称的になって多い。台から低地の湿地帯と住む場所を広げた。海側でなくても奈良盆地でもとともと盆地の真ん中は湖であり湿地帯でありその山辺に日本最古の道ができた。飛鳥も前が海のような地形だから鴎が飛んでいる歌が万葉集にのっている。ヤマトとやはり山の戸(門)であり山口のことでしょう。
山の入り口は神社の入り口-鳥居のある場所で結界になっていた。奈良の三輪山は山自体が御神体ですから山そのものに対する信仰があったのです。


東日本の内陸盆地のみならず、奈良盆地にも多くの「いそ」「ふね」「おき」など海洋を思わせる地名が散在する。「くじら(櫛羅)」さえ居る


奈良盆地は海とつながっていたという説がありするとこの地名はその太古の状態をさしているとすると地名はそれだけ古いとなる。自分も今回の津浪でヒントを得て書きました。海になったときクジラが入って来たということになると地名がどれだけ古いかともなる。


太古の奈良盆地
http://musubu2.sblo.jp/article/45685693.html


「ほ」が「穂」であるという解釈を力づけてくれる


稲作は南から入ってきたとすると東から入った二(湿地帯)と南から入ってきた穂が合体して日本となったというのは理屈的にはあう。なぜならもともと縄文時代は東中心であり日高見国(ひだかみのくに)があったからである。


●川(かわ)沢(さわ)はわの人たち、東日本に多い

「沢」地名の、明確な東日本偏在を考えると、「わ」の人々は氷河期には陸続きであったサハリンから徒歩で南下してきた人々だと考えた。

カワ(川)のワがわの人たち、民族集団をさしていた、さわはさ-わでありわの住む人たちでありカワのワもそうである。この人たちは北から南下した人たちだというのはユニ-クな解釈である。
川と沢はにている。人間はもともと水のある川や沢の場所に住みはじめた。水がないことには生活できないからだ。南から来た人たちはネの人たちであるというのも独特の解釈である。島根とかそうでありネの人たちは日本海回りで来たのかもしれない、確かに倭人というのワの人たちのことですから一字が部族名であり一部族が拡大化して倭人になったとは言える。ただ日本語そのものがどこから来たか謎ですから言語学的にはいろいろ問題があるでしょう。

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船(ふね)米(よね)であり金(かね)はネ族のものがもたらした言葉である。言ってみれば外来語であり新しい文化をもたらした言葉だとなる。船も米も金も縄文人にとっては新しいものだったといえる。これなどからネ族が南方系の稲作文化をもたらした人たちだという推測はあたっているかもしれない。そもそも船は丸木舟でも縄文時代使っていたとしても金(かね)や米(よね)は縄文時代はないからだ。だから縄文人はその言葉を知らないとなる。そういう分け方はわかりやすい、中国から入った漢字と大和言葉を分けることはわかりやすいのである。


●ヒの謎

ヒについてはこれも謎が多い。干潟-干るというのは見ずが引いたからであり日をあてるのではなくもともとひあがる・・・水が引くことを意味していた。水が引いたり上がったりすることであり太陽のことではない、海に囲まれていたから潮の満ち引きには敏感である。潮が引いたらそこで干潟になり鳥も餌をついばみにくる、人もそこで貝をとったりするからヒは干上がるということが基本にありヒル(昼)は潮が干上がった時が昼であった。アサヒも浅く干上がった干潟のことである。太陽のことではないとなる。海辺に住んだ人たちの生活感覚から生まれた言葉だとなる。縄文人は貝塚があるように貝を主食としていたから干潟は大事だった。生活の根拠となる場だったからヒが生まれた。ヒは太陽と関係なく潮の満ち引きと関係しているとなるとヒが日になり太陽となったのか解せない、ヒは家族語だというのはどういう意味なのだろう。?家族語の意味がわからない。

干上がるということで干潟を中心に生活していたヒ族がいてサワとかカワとか川を中心にして生活していたワ族がいてヤマを中心に生活していたヤマト族いたのか?船(フネ)をあやつるネ族が南から入ってきて縄文人と交わったのか?一番の疑問はヒの解明でしょう。引く(ひく)は日本では引地とか引いたという地名が多い。それは水が引いたですから潮の満ち引きとにている。

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日高見国(ひだかみのくに)とは干潟(ひ-がた)-高見の国である。とすると干潟の高見にある国となる。干潟を見下ろす高台にあった国となる。干潟を中心として貝をとって暮らしていた縄文人なのだろうか?この辺の新地はそういう地形であり海が近く高台に貝塚があった。そして手長明神の伝説がある。貝をとって暮らしていた巨人がいたというから地形的にはあっている。
たた日高見の国でも内陸部にもあり北上は日高見だともいうし海岸とは限らない。
要するにヒが解読できないことに問題がある。

ヒラが平たいとからが複数形のようだとヒはやはり干潟のことなのか?
人(ヒト)とはなになのか?日がとまると解釈するが干潟(ひがた)に止まっている人なのか?
ヒトとは干潟にいつもいて貝をとっているからヒトになったのだろうか?
縄文時代は確かにそうだった。

百済や新羅から入ってきた地名

百済とか新羅とかから入った言葉が地名化したのはなかなか証明しにくい


みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎


この歌の草原(かやはら)は地名だと解読した。草(かや)は伽耶のことでもあり入江のことを意味していると近江の人も言っている。草原(かやはら)を奈良から面影にして見るというものにはなりえない、地名のことだったと解釈した。現実に入江は塩崎まで入り込んでいて今回の津浪で船着という近くまで船が烏崎の港から流されてきたのには驚きました。

ともかく地名の解読はむずかしいです、どうしてもあてつけが多くなりますから・・・
では今回はこのくらいでまた暇があったら書いてみましょう
posted by 老鶯 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年04月20日

花曇り(みちのくの桜も満開なれど・・・)


花曇り(みちのくの桜も満開なれど・・・)


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故郷の病院あわれ花曇り


みちのくは災害の年花曇り


雨ぬれて病院に誰か夕桜


みちのくの桜ようやく満開に咲きしも暗くくもりけるかな


みちのくの桜満開に咲きにしも厚くも雲のたれこめにけり


一鉢の日本桜草我が買いぬその名の良しも我が愛でにけり



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今年は桜も咲いたけどみちのくは曇りの日が多い。何か今の状況とあっている。桜を心から楽しめない、ぱっと咲かない、花曇りがにあっている。こんな災害の時はなかった。心から明るくぱっと咲くのはいつになるのか?もともとみちのくの桜はぱっと咲かない、京都とか大阪とか西とは違っている。醍醐の花見とか昔から栄えた大阪辺りとは違いみちのくは栄えていない、桜もやはりその土地土地によって違ったものとなる。桜咲くときはいつも京都や大阪とか西の方に旅していた。ずいぶん我ながら旅したものである。今になると旅ができないというのもその報いなのだろうか?家から簡単に出れない。それだけ恵まれていた。しかし時はたちまちすぎてしまった。桜が美しいのはやはり西の方だから特に京都や大坂城の桜は見物であった。もう一度見たい、しかし旅というと一日とはいかない、やはりゆっくり旅するのには一週間でも東北からだとたりない、ゆっくりと旅することは贅沢だった。一か月くらい平気で旅していたから恵まれていた。それが思い出となり思い出して詩を書いたりしている。旅は自由気ままで時間をかけないと旅にならないのだ。あとで記憶に残らないからだ。
風のように旅する必要がある。つまり旅人になることは普通の生活を勤め人のような生活をしていればできない、旅人は時間に制約されず風のように自由でなければ旅人にはなれない、だから実際は旅人は少ない、今の旅は保養の旅であり休養の旅である。


日本桜草は種類がいろいろあった。自分が買ったのは写真にあるものだろう。名前がそれぞれついている。日本とついているところがいい。大和撫子とかも何かその花と共に日本人の心を象徴する感覚になるからいいのだ。今の女性の名前はそういうものがない、名前が何かあまりにも日本的なものではない、どこの国の人かもわからないだろう。とにかく桜草というのは日本に自生している花である。この花は金華山で見た。あんなところに咲いているのは意外だった。自生している花は栽培しているのとは違う。野性味があり自然にマッチして咲いているから違っている。小高区の村上城跡に咲いていた椿の群生は自生していたものである。だから栽培された椿と違って貴重であった。

自生した花はより神秘的でありふれがたい美しさ清純さがある。尾瀬の花がそうであり高山植物がそうである。ただこういう花は日常的鑑賞できない、登山するにしても疲れてしまうからゆっくりと鑑賞する余裕がない、そこが問題だった。自転車旅行もいいのだか疲れてゆっくり鑑賞できないのである。最近疲れやすくなっているし病気持ちだから遂に登山も遠くの旅行もできない、人間はいくら旅しても美しものを見たと言ってもつくづく一部にすぎなかった。よく見ていないのだ。自分でさえそうなのだから他の人はさらに見ていない、いろいろな雑事に追われて花を見ていない、そのうち時間が過ぎてしまうのが人生であった。

2012年04月22日

コンビニの前で戦争の話しを聞く(2)


コンビニの前で戦争の話しを聞く(2)

コンビニ前でこの前話しした老人がまた酒を飲んでいた。
あの人は話しができる人だった。全然話しができない、聞けない人もいる。
88才まで生きていても体が小さい、肉体労働には向いていない、でも長生きするのは体力とは関係ないみたいである。最近力道山のような肉体派の有名な俳優が病気で死んだ。
その人は何にも負けるような人には見えない人だった。その人もここ十年は病気で苦しんでいたのである。息子から膵臓か肝臓かもらって移植していた。
60代なるとあのような体力ある人も病気になり死んでいる。
60代とか以降は金があるより地位があるよりも健康なことが第一なのである。
自分も痛切にそのことを感じた。


その人は前も書いたが東京で飛行機を作る工場にいた。それで東条秀樹が乗っている車を見たという。これはなかなか本物を見るということはない、映像で見ても本物を見るというのはない。
飛行機を作る工場でありその前を頻繁に軍用の車などが通っていたという。
その頃のトラックなどはしょっちゅう故障して修理していたという。
今の車とは大違いだから故障していたことがわかる。
それから自転車で物を運んでいたこともわかる。
車に乗っている人はまれだった時代である。


御所の職員は職業柄、そんな事はできず、御料(殿下のご食糧)
    にも事欠く状態であった。


     そこで御所の周辺の空き地を畑にして、食糧を自給自足でき
    るようにしようということになった。職員たちは勤務の余暇に
    にわか百姓となって、空き地の開墾を始めたが、草を刈り、根
    を掘り返す重労働に、手は豆だらけ、体はくたくたになってし
    まった。それでも手に包帯を巻きながら、作業を続けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog624.html


天皇家でもこういうことがあったのだから宮家では買い出しをしていたのかもしれない、でも
「食べ物をゆずってください」と買い出しに出るとなればいかに日本全体が食糧に窮していたかわかる。


それから話しを聞いていると
「オ-ストラリアでは2000町の土地をもっている」
「飛行機で種まきしているからな」
「とても、かないっこないよ、日本と比べられないよ」
「この辺で38町もっている農家の人いて驚いたけどな、2000町は驚きだな
38町でもめったにいないよ、日本では・・15町の人がいたけどそれで大農家だよ
5町で平均よりも上になるのか、日本ではそんなもんだよ」


この会話で2000町と言ったことでその土地の広さを実感したのである。なぜならヘクタ-ルとかなるとわかりにくいのだ。2000町となったらとんでもいな広さだと即座に実感したのである。


「ものがないから日本は負けたんだよ」
「戦争するにも弾がないけりゃ、何もできない、竹槍で戦おうとしていたんだからな、日本は」
「朝鮮人は多かった、どこにでもいたよ、みんな金かせぐために日本に来たんだよ」
「朝鮮は日本の属国だからパスポ-トもなち入れただろう、入り安かったからなあの頃は」


物資の不足は日本では致命的だったのだ。それからその時朝鮮人が大量に入ってきた。それは強制的というより日本で仕事ができて金になったからである。原町の大原の発電所辺りでも働いていたという。全部が強制的ではない自主的に働きに来ていたのである。

80代くらいの人の話は60代の人はあわせられる。でも若くなるに連れてあわせられなくなる。
車もない時代も知っている。物がない時代も子供の時に経験している。だから話をあわせられる。
ものが豊に出回った世代になるとその辺のものがない時代がわかりにくいのである。

歴史というとき郷土史でもやはり直接に話しを聞くことがリアルに歴史を感じることになる。
話して何かわかることがある。そもそも人間の体験はみんな同じではない、だから戦争の体験もみんな同じではない、働いた場所も違うしそれぞれ違った体験をしている。その一人一人の体験を総合するとき何があったのか見えてくることがわかる。前に書いた戦後梅毒にかかった人は全国にいた。
だからそれは戦争のためだったということがわかる。数が多いからわかるのだ。


戦争の話しを老人に聞く(1)
http://musubu.sblo.jp/article/55380545.html

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2012年04月23日

孤立死や無縁化は別に特殊な人たちだけではない、社会全般の現象 (近くの人が施設で死んだ知らせを聞いて・・・)

 

孤立死や無縁化は別に特殊な人たちだけではない、社会全般の現象

(近くの人が施設で死んだ知らせを聞いて・・・)


核家族化、近所づきあいの希薄化が進む中、生活に困窮したり、家族の介護を抱える家庭が孤立するなど、死に追い込まれる事件が各地で起きている。
 今年二月二十日には、さいたま市北区のアパートで、住人の六十代夫婦と三十代息子とみられる三人が餓死しているのが見つかった。室内に食料はなく、冷蔵庫も空っぽだった。家賃を滞納しガスと電気を止められていた。
 二〇〇六年には、福岡県北九州市門司区で二カ月間に三名の餓死者が出た。このうちの一件は、餓死した男性が生前に生活保護の受給申請に行ったにもかかわらず、市が申請書を交付せず、受付自体を拒絶していた。

死はたしかに他者にも分かち合われている。すなわち、ある者の死(亡)は他人事にとどまらず、私の死ともなっているのだ
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/kubes/kato01.htm

近くの人が死んだと近くの人から聞いた。92才だった。その女性は医者のおくさんであり経済的には恵まれていた。息子が60過ぎてから帰ってきて医院を開いていた。ただ家庭は生活の根拠は東京にあった。息子一人が故郷の医院に単身赴任という状態だった。家族は住んでいないのだからそうなる。その人はずっと知っていた人だからいなくなったのは息子の所に行ったのかと思っていた。原発事故後医院は閉鎖したからである。しかしその前にその女性は施設に入れられていたのである。死んだのは施設であった。しかしそのことを知っている人は回りでもわからなかった。死んだとき、ええ、施設で死んだのと驚いた。たいがい今は施設か病院で死ぬ人が多い。施設で死ぬ人は金持ちの人はたいがい施設に入る、入れさせられるのが多い。金持ちは自分の親をめんどうみなくてもいいのだ。金で施設に入れられるからいいのだ。それが本人にとって幸福なのかどうかはわからない、ともかく施設に入れる人は特養をのぞいては金持ちの人なのである。特養でも金をとるようになったから年金を多くもらている人でないと入れない、だから施設は金持ち用になっているのだ。


前に医者は土着性がないというとき病院勤めの医者はそうである。しかし開業医は極めて土着性がある。その土地に根付いている。そして何代も医者をしている人が多いから余計にそうなる。そこの医者は相当に有名ないつも話題になる人だった。口が悪いが見立てはいいということで話題になっていた。でも死んでからその人の話しを聞かないのも不思議である。あれだけいつも話題にされていたのにぱったりと死んでから話題にされないのである。その跡を継いだ息子は東京から来ても大人しい人なのでその人についても話題にならなかった。そのうち原発事故でやめてしまった。今は家が空になって残っている。他でも歯医者が一軒やめて家まで取り壊されてさら地になった。この辺は津浪、原発事故後いろいろ変化が大きかった。だからその女性のことなど忘れていた。ところが人間は死んだというとき必ずどんな人でもええ、死んだのと驚きその人のことを思うのだ。あの人が死んだのと驚きその人を一時でも思う、生きているときは思わなくても死んだ時は思うのである。死はやはりその人の一生を他者もふりかえるのだ。そこに死の意味がある。現代の特徴は死も共同体から切り離された孤立した死になっているのだろう。病院とか施設とか死ぬということはまず家から切り離されて死がある。すると最小単位の家という共同体から切り離された所で死ぬことでもわかる。家族からも切り離された死になりやすい。だから病院では死者は一つのもののように扱われる。早く死体を片づけてください、邪魔ですから・・・そんな感覚でしかない、死に対して無感覚になる。毎日のように死者に接ししていれば死者は一つのもののように病院ではなってしまうのだろう。ものを処理する感覚になっている。


現代が孤立死とか言われるけどそれは金がない身寄りがない人に言われる。でも金持ちでも家族がいても家族から切り離された死になっている。孤立死になっているのかもしれない、昔は葬儀のとき家族はかかわらないで欲しいと回りの人が言ったという。それはなぜだったのか、その一人の死がみんなの共同体の中での死でありみんなで死をいたみ供養するということがあったからだろう。ただそうした仰々しい手間のかかることは大家族のときにできた。家族がしっかりししていなければ葬儀自体できない、少子化とか家族の単位が小さくなると大きな葬儀はできないから葬儀屋にまかせ簡単にするようになった。そういう葬儀は因習的だとか嫌っている面もあったのだ。なるべく金のかからない簡単な葬儀にした経過もそこにあった。ただ一人の人間の死とは何なのか、それが自分とどうかかわるのか、回りとどうかかわるのか、大きく言えば社会とどうかかわるのかが問題になる。死とは個人的問題でもあるが社会的問題でもある。津浪で死んだ人たちについても日本ではどう供養していいかわからない、その大量死をどう供養していいかわからないというときやはり共同体が喪失して共同体の中で供養するということができないからとまどっていると指摘する人もいる。あまりにも一挙に大量の死に直面することは戦後なかった。それでただ茫然としてとまどうことになった。とてもこれだけの死者には個人では対応できないからだ。だから日本人が全員で供養するということにもなった。それは戦争で死んだ人を供養するのとにていたのである。この大量死は日本人全員の問題として供養が迫られたのである。


その死んだ女性については金持ちということで話し方まで違っていた。本当に奥様であり常時手伝いの人が二人とかいた。だから本当の金持ちだったのである。
死者の不思議は死者はお盆には家に帰ってくるとか言うけど未練のある執着する場所に帰ってくるのかもしれない、それは個人的だけではなく家族の中に帰ってくるというときもありまた村の中に帰ってくるというときは共同で暮らした所に帰ってくるということになる。しかし今はそうして死んでも帰る場所がなくなっている。家族でもそうだし共同体のつながりも希薄になっている。反面そういう田舎の拘束された人間関係の束縛を嫌って都会に出る若者も多かった。今でもそうであるし自分もそうだった。そうした昔がすべて肯定的になるわけではない、ただ死者も家族と切り離され共同体と切り離されたとき安住する場がないとかなる。その医者の家では息子は東京に帰り墓は檀家は故郷にありそこの墓に入ったが墓参りするにしても東京となると遠い、そういう人も増えている。墓の跡継ぎがなくなっているのだ。それでやむなく故郷の墓を廃棄して共同墓地に入るようにした人もいる。そこで死者と生者のつながりも断たれてしまっているのだ。た孤立死、無縁化というときこれは特殊な人のことではない、社会全般に起きていることなのだ。


自分としては田舎は葬儀となるとめんどうである。お悔やみのお返しをするとかいろいろめんどうだから自分もしなかった。とういのは一人だからできなかったのである。ただ近くで助けてくれた人は正直な人で情深い人だった。その人の墓も同じ墓所にあるので墓参りしている。とすると死者と自分はつながりをもっているとなる。同じ墓所にあるということもそれも縁だったのかもしれない、土地の縁は思った以上深いともなる。今度死んだ女性の墓は近くにあるにしてもまた違っている。例えは江戸時代なら村の人は同じ墓所に葬られていた。それも墓があったわけではない、空き地のような所に葬られていた。ホトケッポとか言われていた。墓がみんなもつようになったのは明治以降であり家族墓になったのも明治以降だった。というのは夫婦墓というのが家族墓の前にあった。その夫婦墓だと墓が増えて困ってしまうから家族墓として一カ所に納めたのである。それでも墓はふえすぎてしまったのである。それで今度は逆に見知らぬ人でも墓だけを一緒にする共同墓が生まれた。それでも墓ですら人間は共同性を志向するから何らかの共同性がなかったら共同の墓もありえないのだ。その共同性の喪失が死や墓の問題の根底にあった。実際はカルト教団に入ったら創価でも他の宗教団体でも墓所は同じになる。その墓は村の墓や町の墓とは別である。広大な敷地に墓標を同じくしている。

死までも共同性の象徴としてある。それは問題にしろそうなっているのだ。ただ真宗の人の墓はこの辺では宗派が違っても同じ墓所にある。

なんだか近くの90になる老人が見も知らぬ人が毎日のように来るのを見たという,それは誰だかわからないというのだ。死んだ知っている人でもない、知らない人だという、老人の戯言かもしれないが見も知らぬ人が死んだ人の霊が行き場もなく彷徨っているのかもしれない、死者にも安住の場所が必要なのかもしれない、原発事故で故郷に住めなくなった人たちも墓の問題がある。墓は家がなくなっても最後まで残る。実際実家の墓は家がなくなっても墓だけ残っているのだ。墓はなかなか消えない、故郷に住めなくなっても墓だけは当分残っているのだ。墓は簡単に壊して廃棄するわけにいかないからだ。だから何十年後も人が住めなくなっても墓だけが残っているということもありうる、無縁仏でも残っていることは残っているのだ。遺跡のようにのこるということもありうるのだ。墓は最後に死者を記憶して思い出す場所なのである。
今回死んだ人も確かに近くの墓所に納まればそこにいるのかという感覚にはなる。現実はそうでないにしろそういう感覚をもたらすのが墓の不思議だったのである。自分でも身内の人が静岡とか遠い所で生活して交通事故で死んだのでもし向こうの墓に納まったらその人は近くにいないと思う、でも墓があれば近くにいると感じるのが不思議なのである。


この記事は経済的に困窮しての孤立死だが孤立死の前には社会との断絶がある。近くの人とつながりがあれば米などをくれたりするだろう。昔の長屋では今日食う分の米がないから貸してくれとか気軽に来ていたかもしれない,今そういうことがない、役所で生活保護受けられないとそれが即死につながる。この辺で起きた障害者とその親が孤立化して餓死したのもそのためだろう。原発事故も関係していたがそれだけではない、田舎でも孤立死はありうるし経済的困窮の死ではないにしろ精神的孤立死は日常的なものになっているのだ。


 

posted by 老鶯 at 01:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2012年04月24日

南相馬市鹿島区の春(仮設の人の耕す畑)


南相馬市鹿島区の春
(仮設の人の耕す畑)


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寺内の古墳

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春耕や仲間と喜ぶ仮設の人

耕され土も喜ぶ我が里に


鶯の鳴き競う声森の奥


生まれたて黄色の蝶や日をあびぬ


風そよぎ孟宗竹に芽吹きかな


朝風に木蓮百輪そよぎゆる


春の鴨しきりにくぐる波紋かな


花散らし鳥また桜へ飛びうつる


千本のツクシの伸びよ日の光


一石坂江垂の中館山桜


百輪の二色の椿夕日映ゆ


寺内に三つの古墳春の草


紅梅や墓石新し花模様



満開に咲きにし桜一二片はや散りそめて静心なし


飛ぶ鳥の花から花へ鳴きわたる晴れ渡る空燕飛びかふ


真野川の土手の桜の満開に飛び交う鳥の暇なかりけり


一本の樅の樹ここに立ちにしを知らずに春や力強きかな



今日はようやく春がきた。それも一挙に来た。桜も満開である。人間は地元でも灯台もと暗しなのである。近くに何があるか良くみていないのだ。今回も近くで見たのは初めてだという感じになっていた。ここに椿が咲いていたかのか樅の樹も一本ここにあったのか、こんなところにこんな家があり花が咲いていたとか気づかないことが近くであるのだ。

郷土史研究などしていても近くのことが意外とわからない、注意していない、寺内の古墳など万葉集にも歌があるしあの古墳は有名だから知っていると思っていた。実際はこの年まであそこに三つの古墳があることがわからなかった。あそこに集中して三つの古墳があることはやはりあそこが歴史的場所であり古代の真野郷の中心地帯だった。一つには注目していたが三つあったことに注目していなかった。それも大きな古墳だったのである。それから江垂の中館というのは中世では有名であったからあそこに山桜が咲いていた。山桜が山城だからにあっていたともなる。こたにも歴史的場所がある。他の人はわかりにくいけど地元の人もわからない、その歴史的背景を知らないと俳句とか短歌もつくれないのである。また鑑賞もできないのである。


仮設の人が岡和田へ行く橋をわたった所で耕して種を植えたり水をやったりしていた。何か楽しそうであった。小浜の人で津浪で家が流されたという、その人はいち早く逃げたから家族は助かったという。小浜は南相馬市原町区であった。小高と境を接している。ビニ-ルハウスは60万で寄付されたという。他にも畑をNPOなどで提供されているが自由がないがここは自由に作れるという。放射能も計っているし自分たちで食べることもできるし売ることもできるというのは意外だった。別に耕すこと自体がこの辺は禁止されているのとも違っていた。だから耕している所はある。やっぱり畑が耕されないということは土も死んでしまう。耕されて土も喜んでいるなと本当に感じた。耕されない土地をみていたから余計にそう感じたのである。土も喜び人間も喜ぶ・・こんなことを感じたのはやはりこの辺の異常な環境からだったのである。

 

この辺は環境が変化した。仮設が建っていることと避難した人で人が増えたからにぎやかになったのだ。人口減少していたから人口がこの辺はどこも増えた方がいいことがわかった。人口が増えると便利なものができてくるのだ。ともかく人間の世の中は変わるものだ。
世の中は三日見ぬ間の桜かな・まさにこれだ。桜も満開となり二三片花びらがすでに散りはじめたのである。とにかくこれほど変わるということは経験したことがない、世の中は急激に変わってしまうことがある。この辺は古い家があちらこちらで壊されている。新しい家も建っている。家がなくなった人がこっちに建てている。寺内の墓所は陰気な所だった。それが新しい墓も増えたのか回りの木も切られて明るくなった。
花模様の墓石も珍しいし明るい、墓所も明るい方がいいのかもしれない。墓まで世の中は変わってしまうのだ。

ともかく南相馬市はまだ住めるからいい、住めなくなった浪江やら双葉やらの変化はこれ以上に激しい。
自分たちの住む場所がなくなったのだからその変わりようは未だに信じられないだろう。南相馬市ではまだ人が住めるから変化しても良しとなる。でも津浪で家が流されたとか家族が死んだとかそんな人が回りにいるということはその変化が激しすぎるのだ。いづれにしろまた春の盛りもたちまち過ぎてしまうだろう。今年は一挙に春が押し寄せた感じだ。

2012年04月25日

相馬市の長屋風共同住宅完成 (相馬市の放射線量は意外と高いのでは?)


相馬市の長屋風共同住宅完成

(相馬市の放射線量は意外と高いのでは?)

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ここは共同の食堂

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●共同生活の住宅だった


相馬市長が、仮設住宅について、予想される「孤独死」を防止するために、「長屋」方式によって、共同生活が営めるようなものにするよう提唱している。
お風呂も、共同浴場を併設することを求めている。


阪神大震災の時、その後、仮設住宅において、多くの「孤独死」が見られた。実は、四川大震災の時は、中国は、阪神大震災の教訓に学んで、仮設住宅に共同浴場を設け、被災者相互のコミュニケーションの確保に意を配り、「孤独死」を防いだ。


立谷秀清・相馬市長さんは、新しい仮設住宅を日夜考案中です。
医師として、また病院・介護施設の経営者としての知恵が活きます。
「今後の目標は孤独死、自殺を出さないことだ!」と断言されます。

阪神大震災の時も同じことが言われました。
しかし、多くの2次犠牲者が出ました。
今回は、規模があまりにも甚大なので相当な対策が必要です。

立谷秀清さんは、井戸端会議ができる長屋を考案しました。
比較的元気な単身高齢者が暮らす長屋です。
食事は、原則、皆で集まってします。

大型浴槽での入浴も。
1ユニットで、12人が暮らします。
「立谷S−12型被災高齢者共助生活住宅」の設計図を見ました。


設計趣旨は

1 夕食は一堂に会して摂る
2 共通ランドリースペースに「井戸端」を作る
3 ランドリースペースの外側に「濡れ縁」を設ける
4 16.5uの畳コーナーを設け団欒の場とする
5 全館ユニバーサルデザインとする
6 全館バリアフリーとする
7 手摺付きの大型浴槽を1ケ配備する
8 ボランテイア対応スペースを設ける
9 来客対応の客間を設ける
10 共助スペースは、災害時の支援拠点とする
http://www.nagaoclinic.or.jp/doctorblog/nagao/2011/05/post-1533.html


部屋はスペ-スが二つある。実際は一間になる。ホテルのような部屋割りになっている。真ん中に
共同の食堂があり大型浴槽があるから個室には風呂はついていないのか、これは孤独死をさけるためだとあるから一人暮らしの老人の共同住宅である。馬場野にありコジュウケイが鳴いていたように山際だから環境はいい。でもこれは明かに共同生活でありプライバシ-はそれほど保てないかもしれない、共同生活になってしまう。食堂が真ん中にありそこで毎日みんなで食事するとなるとそうなる。個室はあるにしてもホテルの部屋のような感じになる。仮設住宅よりはいいにしても共同生活になる。老人ホ-ムでも共同生活だから共同生活に向いていない人は暮らしにくいとなるが共同だから孤立せずにすむし一人暮らしの人にとっては心強い。老人の一人暮らしはいろいろ不安になるのである。部屋数は思った以上少ない、一つの建物で12人では少ない、二棟建てていたがそれでも24名くらいしかないとなるとみんなが入れるとは限らない。


これもあくまでも災害のための住宅として市が用意したのである。相馬市の道の駅は曲屋風だとか何か伝統的に工夫している。相馬市では津浪の被害が大きいから家がなくなってもう家を建てられない人が多数でているから仮設ではない、住みつく住居を必要とされる。これはあくまでも一人暮らし用であり夫婦でもそういう施設が必要になっている。でも二人用となるとさらに大がかり建物となる。一間で二人ならいいが二人になるとやはり一人用とはなりにくい。普通のアパ-トでも二間あるのがこの辺では普通である。でもこの共有住宅で二間作るとかなり大きな建物になってしまう。この長屋風住宅は外から見ても相当大きく見えた。さらに大きくなったら費用も相当にかかる。見た感じだと庭なんかもないしやはり一軒家がいいとはなる。


庭の空間が作られていないのだ。そこまで贅沢はできなかったとなる。一軒一軒にはなっていない、ホテルの個室みたいだからそうなる。家は狭い庭でもあるのとないのでは心に影響する。田舎で広い庭をもって田畑をもって暮らしている人が多いのだからあのようなホテルのような部屋だと閉塞感がある。マンションやアパ-ト暮らしになったような人たちもそれを感じているだろう。まず理想的だったのは飯館村の家だったのである。一軒一軒が森に隠れるようにしてあった。隣との間は離れているしみんな広い庭をもっていたのである。あそこは住環境としては理想的だったのである。

 

これはアメリカの会社の援助で作られた・

間取り

http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/kouei_jyuutaku_pdf/kihon_keikaku.pdf

六畳と四畳がある、二間だと余裕がうまれる。一間だと窮屈になる





●相馬市の放射線量は意外と高いのでは?


相馬市の放射線量は思った以上高かった。イオンの前で道で0・5あり道端の土で0・7とかあり
市内で0・4とか道端の土で0・7とかなっていた。相馬神社でも0・5とかなっているのは高い。
南相馬市の原町区では普通は道で0・2くらいである。鹿島区でもそうである。ただ場所によって違っている。鹿島区でも寺内0・5になってる。原町区でも高い所はある。放射線量は平均していないのだ。相馬市はそれなりに高いからなぜ普通に耕作しているのかわからない、原町区や鹿島区より高い所がそれなりに多いのだ。これが山上とか玉野とかになるとさらに高いし住めない地域になってくる。玉野で自殺した酪農家の人は妻と子供がフィリンピンに帰ったことにあった。補償地域になっていなかった。そういう個人的事情と原発事故が重なって自殺に追い込まれたのだ。津島にも中国人妻が夫に東京で暮らしたいとナタで襲ったことには驚いた。外国人の女性がそうした辺鄙な所に嫁に来ているのだ。


・丸森町 1.05
・角田市 0.51
・山元町 0.38


丸森町はこれくらいなのか?角田市が意外と高い、相馬市なみである。この辺は余り話題にならない。南相馬市意外で南相馬市より高い所があるのだ。そこは賠償の範囲内にならなかったりする。
丸森では妊婦や子供に20万円補償するとかなった。丸森町は本当はもっと高くなっているだろう。
なぜなら飯館村のすぐ隣なのだからこれくらいの放射線量とは思えない。道で1・05としたとき山では道の脇の土では三倍くらいになるから3にはなる。宮城県は全国的に放射能の話題にならない、それで損している面はある。相馬市の隣の山元町でも高い、相馬市で0・5なのだからこのくらいあるのがわかる。放射線量はぱらつきが意外と大きい。警戒区域内でも少ない所は少ないし人が住んでもいい所があるのだ。ただ近くに高い所があれば影響するから全体的に放射線量は計らねばならない。
いづれにしろ相馬市では普通に田畑を耕作できるのに南相馬市では相馬市より低い放射線量なのにできないことが納得いかない、20キロ圏内とか30キロ圏内で区切ったことがこういう問題を起こさせているのだ。30キロ圏内でもばらつきがあり30キロ圏外でもばらつきがあるのが放射線量だったのである。

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イオンの前


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相馬市に入る橋の手前

アスファルトの道と道端の土や草むら


相馬市の放射線量
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/housyasei_bussitu/jyosenkeikaku_1_.PDF

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