2012年04月08日

裸電球のキ-ワ-ド


裸電球のキ-ワ-ド


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焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いてい


戦後も、闇市の裸電球に照らされた真っ赤なリンゴと、
「可愛リンゴに唇寄せて」並木路子さんの歌うリンゴの唄は、
荒廃した街の中の庶民に希望を与えてくれました。


裸電球の下に店を開く準備が始まり、時間とともに市場内は徐々に熱気をはらみ活気づき、威勢のいい売り声が飛び交います

土を固めた床とベニヤを貼った壁と天井から、裸電球がぶら下がっているだけの3坪の店舗。


昨秋改装した店内には、裸電球の下で職人らが道産小豆の生あんを練り、薄皮で包む古い写真

粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。


まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった


戦後、暗い裸電球の下で家族が寄り添って過した日々を思い出しています。


裸電球は隙間風に揺れ・・・


子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。

内部には裸電球や石油ランプを吊るし、買出し用のリュックなど当時の生活をしのぶ資料が展示されていました。
http://uenonorenkai.com/book201009-2.htm


戦後はバラックのような家を建てて暮らしていた人がいた。自分の父親が建てた風呂もそうだった。何にもないところからはじまった。だから裸電球が希望の灯のように見えたというのは考えられないけどそうだったのである。裸電球でも電気の灯であり明るい未来を示していたのである。


廃線の暗いトンネルの奥の記憶



真っ暗な廃線の中のトンネルの奥なのか

記憶をたどるということはそういうことか

そのトンネルの奥に記憶が残っている

北風が外で唸り吹いていた

平屋の古い家に風がふきつける

がらんとした広い家に裸電球だけが灯っている

そこに自分の昔の古い家があった

記憶をつなぎあわせるが定かではない

記憶もこうもはかないものなのか

父、母、姉・・・・二人はもう死んだ

日々記憶は遠ざかってゆく・・・

死んだ人とは記憶の中でしか会えない・・・

それも朧であり廃線の暗いトンネルの奥なのだ



記憶はまさに廃線である。その廃線の跡をたどるのが昔の記憶なのである。人間も終わって見れば最後に残ったのは記憶である。しかしその記憶も定かではない、真っ暗な冷たい廃線のトンネルの奥なのである。そのトンネルの奥には明るい光景は見えてこない、そこに廃線となった駅の跡がむなしくあるだけである。


キ-ワ-ドで読むのはインタ-ネットだからできる。本ではできない、これはインタ-ネットの中での新しい読書方法であり情報の使い方なのである。ここに引用したのはいちいちリンク先を入れなかったけど著作権違反にはならないだろう。新聞社のはなっていた。あまりにも著作権にこだわるとインタ-ネットは利用しにくいのである。こうしてキ-ワ-ドで引用して編集しているのは創造作業であるからそれも狭められると有効なインタ-ネットの活用はできなくなる。本にはできないことが今までの情報環境ではできないことができるときそれが革命となるからだ。

 
posted by 老鶯 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年04月09日

春は曙(春の陽が海より昇る) (東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)の意味


春は曙(春の陽が海より昇る)

(東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)の意味


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雀来てそちこち梅や田舎町


朝日こし駅に一人やクロッカス


梅一枝手折りて置きぬ手水鉢


みちのくの駅や帰らじ冬の鳥


冬の鳥二両の電車相馬まで


五六羽のなお帰らざる冬の鳥


故郷に勤めるものや蟻歩む


春風の吹き抜けゆけり通りかな


東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂


春の陽の海ゆ昇りぬ赫燿とかえり見すれば山に月かな

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芸術は何か最初誰でもむずかしく考えている。実際ありふれた単純なものが詩だった。自分でこの年になって俳句でも不思議に思う。「雀来てそちこち梅や田舎町」これのどこが俳句なのかとなる。誰か作ったような平凡な句ではないか?確かにそうなのだがこれも写生なのだけど雀はどこでもありふれた鳥でありいつも見かけた鳥であり庶民的な鳥なのである。だから何もない平凡な町にふさわしい。田舎の小さな町だと回りが田んぼだから梅もそちこち咲いている。町の中の畑にも咲いている。
梅はそちこちに多いのだ。その中に雀がくるのはありふれた光景である。しかしその当たり前の風景がなんともいえぬ春のおだやかな平和を現していたのである。梅の香りはどこでも無償でその香りあ味わうことができる。庶民なる雀でも町には梅はそちこちにあり気軽にその香りにみたされる。
貴族とか特別な人が高い花を買うのとは違う、梅はそちこちにあり無償でその香りにみたされる。
この辺では田畑が耕されない、種をまかないとか異常であるけど梅は咲いているし花は咲くし鳥も飛んでいる。鳥の餌がなくなるということもない、もし鳥すらいなくなったら荒寥としてこんなところに住んでいたくなるだろう。


今日は朝早く起きて海から昇る春の朝日を見た。真っ赤な色から眩い光りを放つ、陽炎(かぎろひ)が太陽がたってい。野にはたっていないが春の太陽が一段と生気に満ちて赤くまばゆい光を放っていた。この年になってもこういう太陽が見るのははじめてだなと思う。自然は結局老いない、いつも若く新鮮なのである。こんな春の太陽見たことがないというときいかに自然が生き物であり固定したものではない、日々変化している、刻々にも変化している美を現している。人間は決して同じ太陽を死ぬまでみていない、違った太陽なのである。海の方が津浪で開けて見えやすくなったこともあるがもともと家は少なかった。本当に「春は曙」ということを今になって実感した。文明社会は自然の美を遮蔽するものが多すぎる。田舎だとそういうものがないから自然の美が原初のままに現れる。その時が至福の時である。大都会では見えなくなっているのだ。人間の自然への美の感受性はかなり喪失している。「春は曙」を実感している人は少なくなっている。ただこの春の曙は山に囲まれた京都であったし柿本人麻呂の歌も奈良だから山である。万葉集や京都では盆地だから山の歌が中心である。海の歌は少ない。でもここから昇る春の陽は海から昇ってくる。


東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂 万葉集 1-48


まさにこれだった。陽炎(かぎろひ)は水平線にたっていなかったが真っ赤な太陽でありやがてかくやくと輝く太陽だった。それは本当に若々しい命がみなぎる太陽だった。この歌は若さと老いも象徴している。春の陽が昇るのはまさに若さである。一方かえみすれば月が傾く・・・これは老いを象徴している。世代交代などを象徴した歌だった。あまりにも対比がはっきりした太陽と月だった。
人間はみんな老いるからこういうことを巡り経験する。若いときはたちまち消失する。残っているのは月である。それ輝く月とも違う、朝の残月でよく見ないとわからない、返り見すればというとき・・意図して見ないと傾く月は意識できない、新しく輝く未来を象徴する朝の太陽は意識しなくても見えるのだ。傾く月は意識しないと見えないのである。自分も山に呵々ていた残月を気づかなかった。自らの意志でかえりみないと傾く月は見えない、それは歴史でもそうである。勝者ばかりが歴史ではない、敗者も歴史でありその敗者については良く意識しないと見えないのである。それなりに関心をもって調べないとみえてこない、芭蕉は歴史の敗者に同情をよせた。それが金色堂の俳句であり
近江の義仲寺無名庵に墓があるのもそうである。


春の陽の海ゆ昇りぬ赫燿とかえり見すれば山に月かな


ここでは海と山の風景なのである。奈良や京都は海から昇り山に沈む太陽であり月なのである。

この辺は原町から相馬まで二両の電車しか通らなくなった。それでも電車が通っているといないのとは違う。電車の方が乗っていても気持ちいいのだ。景色が広く見えるのだ。バスはあまり好きではない、駅がおり駅が一つの旅の休息点になるのも違っている。田舎駅だと花とか見たりする。待ち時間がありそれがいいのである。余り長くなるとこまるが都会では待ち時間すらないから花にも目をやる時間もないのである。今日はともかく凄い風が吹いてあたたかかった。遅い春一番だったのか?

街の中をふきぬけた。蟻もでてきた。今や故郷に勤める蟻なのか、今日は相馬の病院に行った。ここ五年間旅していない、春になったらそわそわしていたけど今や蟻のように毎日介護とかになっている。誰も代わりがないから一日も行けないのである。冬の鳥が今年はまだ帰らないがそろそろあたたかくなったから帰るだろう。

 
 

2012年04月10日

春の喜び(二つの茶碗-愛(いと)おしむ時間)

 

春の喜び(二つの茶碗-愛(いと)おしむ時間)


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年ふればひとしお深く春の色こころにしみて時のうつらふ


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春の日や茶碗を変えて抹茶飲む


小さなるハコベの花を愛でるかな


風にゆれ木蓮のつぼみふくらみぬ


鮮やかに孔雀蝶や春来る


日のまぶし蕗の薹あまた家の前


家の前一面埋めるイヌフグリ


小さなる花一輪の喜びに我が庭にそ咲きいずる春


川子なる坂をのぼればさえづりの四方にひびきぬ我が里の春


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庭にようやく花がさきはじめた。一輪黄色の菊であり小さい菊だった、なんともかわいらしい、何か赤子を見るようだった。もう一つの花はあまりにも小さい、ハコベの花とも違っていたみたい。野草の花である。茶室はなくなったけど庭はある。茶碗を変えて抹茶を飲む。一つは色合いから深草とした。もう一つは若草である。若草というときいかにも若さを示しているがその若さは輝くほどなのだが深い渋い色合いがない、人間でも必ずしも若いということがすべて美とはならない、女性でも外見はおとろえても色合い深い美をかもしだすこともありうる。深草になるのである。この湯飲み茶碗は大堀で買った。浪江の大堀の相馬焼の窯元はどうなってしまうのか、あの辺は放射線量が高いから帰れないのだろうか?相馬焼などもどうなってしまうのだろうか、今は土は他からとりよせているから技術は悪のだから場所にこだわる必要はない、だから移った先で相馬焼を作っていた人がいた。でも高瀬川の岸辺で場所がいい所だったから残念である。双葉と大熊は全員帰れるとか無理だろう。浪江はどうなるのか、ここは中途半端なのか、小高はほとんど帰れるだろう。そうすると南相馬市はなんとか維持できるとなる。それでも浪江が二万いたとすると影響は大きいのである。経済が縮小してしまうのである。


今年は一部に田畑を耕せないとかあるが春が来た。去年は春はなかった。放射能汚染でも同じ様に春が来ている。一軒の農家の前にふきのとう一杯でてイヌフグリがおおっている。道端で孔雀蝶を見つけた。家の前がこうして春の彩りがあるのは格別なのだ。前田や前畑が生活の基だったようにすぐ回りが自然であることが自然な生活だったとなる。そして昔はそうした自給自足の生活だから近くがもっている意味が今より何十倍も重かったのである。車もないし馬車とかであり近くでほとんどの用をたすほかなかった。燃料にしても薪であり炭だったら余計にそうなる。今の生活とはあまりにも違っていた。その時の生活感覚もあまりにも違っていた。そういうときは人間も近隣で助け合うということが極自然に行われていたしそうしなければ暮らせないということがあった。そもそも相馬藩で飢饉のとき三分の一が餓死したという悲惨なことがあった。田畑を耕さなかったら餓死するほかない、他からなど入ってこないのである。伊達藩からなども入ってこない、相馬藩内でしか助け合わないからだ。現実に飯館村で飢饉のようになったときは相馬藩内で援助しているが伊達藩は援助しないのである。そういう社会とも今はあまりにも違っている。全国から世界からも食糧は入ってくるから援助があるから食糧の心配がないのである。だから地元意識郷土愛なども昔とは違ったものとなる。どここに行っても金さえあれば暮らせるとかなるからだ。ただ故郷を離れて暮らしている人今どう思っているのか?故郷を失うことがどういうことなのか?そういうことが現実問題として問われている。
飯館村などは住環境としては良かったから相当になつかしんでいるしあそこに暮らせたことを思い出して帰りたいという人が思いをつのらせているだろう。つまり当たり前に住めたことが住めなくなったことが信じられないのである。


人間は老人になると見方ががらりと変わるし見えないものがいろいろと見えてくる。人生とはこんなものだったのかと別に学問しないものでもわかるのだ。そしてその時後悔ばかりがあることをしる。なぜあんな無駄をしていたのとか、馬鹿なことをしたのとか、罪を犯してしまったのとかいろいろ反省ばかりなのである。一番無駄しているのは時間の無駄だったのである。もはや何かをする時間が消失してしまった。愛を育むといってもその時間がない、信用を育むといってもその時間がない、例えば信用でも十年くらい一緒に働いたり勤めないと生まれない、だから家の中に入る人は本当に危険だった。そういう時間を共有していないから全く信用できなかったのである。それは近くの人でもそうだった。例えば愛するを愛(いと)おしむと日本語で言うとき、まさに老後はいとおしむ時間である。それは人でもモノでも自然でもそうである。茶碗でも物でもやはりいとおしむ、惜しむのである。
なぜなら惜しむ時間がなくなってくるからだ。この世の時間は何かをいとおしむ時間だったのである。その時間がすぐに消失してしまうのである。花でもいろいろありいとおしむ、でも花の名前を知らないような人も多い、それはいとおしまなかったからである。何か金儲けやいいろいろな欲望に追われ奔走して見すごしていたのである。もちろん花に全く興味もないいとおしまないのは異常な人生だった。そういう環境になかったのも原因だが索漠としている。そういう人と接するのも索漠となるいとおしむのは金だけだとかなっている人もわびしいとなる。その人が何をいとおしんできたのかが老後は大事になる。

そしてついのすみかは意外と大事かもしれない、なぜなら最後にいとおしむ場所としてあるからだ。そこが大都会のような場所だったら嫌だとなる。だから老後は田舎暮らしを志向する人が増えてくる。それも生物として人間として自然なことである。遂には「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を今日のみ見てや 雲隠りなむ・・・」あまりに早すぎた非業の死であったけど最後はみんなそうなる。この世からひきはなされていなくなるのだ。あなたが見るものは今日しかない・・・それがいかに衝撃的なことか?そういう日が実はみんな迫ってくるし現実なのである。


いづれにしろこの辺では蕗の薹はでたけどそれをとって食べることはできない、山菜とりはできない、山菜とりを楽しみにしていた人はいた。そういうことができるのが田舎であり田舎の生活の喜びだったのである。ただ別に梅は食べられなくても花は鑑賞できている。梅の実は他から入ってくるからそれを食べればいいとなるのが現在である。でも金をどうして稼ぐのかとかこれからここでは問題になる。


教訓


満たされない願望による苦痛は後悔の苦しみくらべれば小さいものだ。なぜなら前者はつねに開け放たれて見渡すことができない未来の前に立っており、後者は完結して取り返しのつかない過去に面しているからだ。(ショ-ペンハウエル)


何か欲望が満たされないということが不幸ではない、後悔の不幸の方が多いのである。若い人が無謀でただ様々な欲望を満たそうとしている、満たされないことが不幸だと思っている。むしろあとで後悔することの方が不幸をもたらすことになる。それは過去が変えられないからなのだ。あのうまいものを食べられなくて損だったとかはならないのだ。あえて食べられても食べなくても良かったということになる。若いときの過ちは若気のいたりだとか言うがそういうことが生々しく蘇ってくる。それが辛く不幸なものとなることがわからないのである。でも欲望の暴走は止めることができないということである。

2012年04月11日

南相馬市小高区は16日警戒区域解除-でも帰る状態ではない・・・ (分断される原発事故の被害地域・・・)


南相馬市小高区は16日警戒区域解除-でも帰る状態ではない・・・

(分断される原発事故の被害地域・・・)


 
警戒区域が16日解除される南相馬市は7日、立ち入りに関する注意などについて住民説明会を開いた。住民は県外からも参加し、会場に入り切れずに急きょ2回に分けて開催。期待と不満から激しい質問が相次ぎ、国の対応の遅れにいらだちの声が上がった。

97歳の母親を亡くした経験を話す。林さんの母親は事故後、老人ホームを転々と移されたあと、遠く離れた施設で昨年4月に亡くなった。だが東電は、林さんが受けたと主張する精神的損害600万円の支払いを拒否した。林さんが東電にその理由を尋ねると、単に請求は「補償の範囲外」とだけ説明した書簡が送付されてきたという。


 それから間もなくして、妻の輝子さんが心臓の手術を受けた。医者によると、避難のストレスで健康状態が悪化したことが原因だった。林さ
ん夫妻は避難所となっていた学校の体育館の床で1カ月、寝泊まりし、その後4カ月はホテルの1室を別の夫婦と共有していた。だが東電は、輝子さんが請求した精神的損害賠償1000万円について、既に医療費を支払ったとして拒否した。
http://blog.zaq.ne.jp/achikochitei/article/4579


宿泊禁止で、水道もトイレも使えない。家庭ゴミやがれきの処理、除染は国の責任で行うが、日程すら決まっていない。桜井勝延市長は「許可や時間制限なく帰宅できるようになるが、住める訳ではない。避難は続く」と説明した。
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20120408ddlk07040060000c2.html


準備区域解除は、除染やインフラ整備の終了、病院や学校の再開にめどがつくことが条件。「早く復旧しないと、誰も戻らなくなる」などの意見もあり、復旧は住民帰還に向け時間との闘いになる。



警戒区域内工場を閉鎖=大日本印刷と藤倉ゴム−再開決断企業も
 大日本印刷と藤倉ゴム工業は6日、福島県南相馬市小高区の「警戒区域」内にある工場を閉鎖する方針を固めた。工場周辺は16日、東京電力福島第1原発事故の影響で立ち入り禁止となっている同区域から解除されるが、両社は既に他県への生産移転を決めており、「コスト面から再開は難しい」と判断した。
 震災発生から1年。「被災地の復興に水を差しかねない」と閉鎖や撤退の判断を先送りしてきたが、「いつまでも放置できない」(藤倉ゴム)として、警戒区域の見直しを機に決断した。(2012/04/06-21:03)


昭和53年 浪江町に福島工場新設 エスエス製薬福島工場閉鎖(エスカップ生産)



警戒区域では富岡、双葉・大熊≫浪江≫南相馬市小高区≫南相馬市原町区≫南相馬市鹿島区


この順序で被害も住民意識の違いが現れた。富岡、双葉、大熊は原発の恩恵を一番受けていたが被害も一番大きかった。真意はともかく富岡町長の5億円の金庫が話題になったのもそのためである。
浪江で富岡、双葉・大熊が原発を積極的に誘致したためだと恨む人がでている。浪江の被害も大きかったからである。次に小高区もそれほど放射線量が高くないのに警戒区域になったので被害が大きかった。ただ浪江と小高の間に東北電力の原発が建てられることが決まっていたので南相馬市内で原町区や鹿島区で今になって避難する人たちがいる。自分は知らないし知らない人もいた。原発は秘密裏に行われ知らないという人が結構いる。政府も東電も知らせないのである。スピ-ディを最初に知らせたのはアメリカ政府であり日本政府でなかったことでもわかる。政府も東電も安全管理などしていなかった。事故はほぼ絶対に起こらないという安全神話の上に成り立っていたからである。だから危険な山側に浪江の人たちは避難した。双葉とか大熊は埼玉とかに避難したから放射能の危険を知って遠くに避難した。それなりに情報が入っていたのか、事前の準備があったのか、浪江とは違っていた。飯館も全く放射能のことは知らないから知らせられないから避難しなかった。一時1000マイクロシ-ベルトになった所があったというから驚く。危険は政府からも東電からも知らせられなかった。
一か月あとくらいに要約政府東電以外の専門家が入って危険を指摘して避難したのである。

小高区はやはり警戒区域になり強制的に避難させられたから精神的被害の補償を要求している。体育館などに避難した人はそうである。避難の過程で高齢者が弱って死んだ。その数は100人くらいいるとか表にでてこない。自分でも高齢の母親を介護しているから避難したら確実に死んだ。避難するほかないと言ったときふるえていたからである。避難する体力もなかった。南相馬市原町区は緊急時避難区に指定された。30キロ圏内でありここでも避難することが要求されたが妊婦とか子供をもっている人は避難したが高齢者や介護している人は残っていた。ここでも補償は要求している。南相馬市鹿島区は30キロ圏外であったが市役所の人が避難するように言ってバスで避難した人がそれなりにいた。ただ残った人も多かった。屋内待避だった。あとで補償金をもらった。相馬市は補償金はゼロだけと耕作禁止にもならないから普通に暮らしている。でも原発の被害はそれなりに受けている。


原町区は精神的補償の被害などを要求できるが鹿島区はできない。でも体育館などに避難した人はしているだろう。こうして原発事故では市町村で被害が違っていてそこで住民感情が違ったものとなってしまった。住民が感情的に分断されてしまったのである。特に南相馬市は四つくらいに分けられて分断させられた。居住困難地域もわずかだがある。これは双葉や大熊でも他でもも放射線量が多い地域と少ない地域がありそこで地域のまとまりがなくなり分断される。伊達市の小国地域などがそうである。隣は避難できて援助があっても自分の家はないと嘆いている人がいる。こういうふうに分断されるのは政府とか東電にとっては都合がいいのかもしれない、もちろん全部補償しきれないということもある。でも地域のまとまりがなく分断されれば自治体の力は弱まり政府や東電の言いなりになるということもある。

人間はともかく金のことになると目の色を変えるし妥協はしない、親族の遺産争いがそうであり金がからむと人はばらばらになる。そもそも原発自体が金のなる木であったことに問題を発していた。

金になるのなら危険もかえりみない、それは政府でも官僚でも自治体でもマスコミでも莫大な金が流れたからそうだった。人間の欲が深くからんでいたのである。そして第一産業でも農家でも漁業でも跡継ぎがいないとか建築土木関係も公共事業の減少で衰退していた。だから仕事かないと盛んに言っていた。小高の大工さんも原発ができれば景気よくなるとか言っていた。そして大堀の相馬焼の人も東京に避難したが斜陽産業だからつづけられるかどうかわからないと告白していた。相馬焼も焼き物も斜陽産業なのかと思った。 小高区の人で南相馬市立病院でしりあった人はエスエス製薬のエスカップの生産にたづさわっていた。昭和53年 浪江町に福島工場新設とあり浪江町の工場があって通っていた。こういう工場の閉鎖は大きな痛手となる。これは斜陽産業ではないだろう。


不思議なのは回りが田んぼだと田舎は第一次産業が中心だと感覚的に思ってしまうけど今は違う。工場とか会社かなくなったら働く場所がなくなり住めなくなる。浪江の人で二本松に工場を移して通っていた人がいた。会社とか工場がやはり重要な役割を果たしている。昔だったら第一次産業が中心の世界だったら田畑を耕さないから死に直結していた。そういう危機感が全くないのも不思議である。食糧は金さえあればどこからでも全国から世界中から入ってくる。だから米を作らなくても別に金さえあればいいとなる。でも田もない畑も耕されないとなると荒寥としてくるのが田舎である。原発事故は放射能汚染であり一番第一次産業に影響した。山林が汚染されたし水も汚染されたりとか生活の基となる所が一番汚染されたのである。都会の場合だったらまた違っていた。食糧をもともと生産していないのだから他から買えばいいとなっているからだ。でも放射能汚染はアスファルトの道でもコンクリ-トのビルでも汚染されると削るほか放射性物質をとる方法がないからこれまた除染ができないとなる。
樋の下のコンクリ-トの所は高くいつまでも放射線量が高いのである。一方森とかの放射性物質は泥と共に川に流れたりしてへってゆく、コンクリ-トの中にしみこんだものはへらないのである。


いづれにしろ住民が補償金のことで感情的に分断されていることは政府や東電にとっては都合がいいから放射能汚染地帯の自治体は何か手を打つ必要があるのかもしれない、それより本当は広い範囲で原発は反対しなければとても政府とか東電とかの財力に負けてしまうものだった。原発に関してそういう認識がなかった。原発はここから遠いと思い安心していた。中通りの郡山でも二本松でも福島市でもそうだろ。自治体が分断されている所には原発はもともと建てやすいということがあったのだ。福島県全体で反対していれば原発は建たなかったのである。前も書いたけど非常に狭い範囲で決められていた。他の人は門外に置かれた。被害があってはじめて原発が遠くも危険だと認識したのである。今になれば中通りの人も被害にあったのだから郡山と福島市の人たちが反対したらとても原発は建てられなかった。一地域の住民エゴで原発が建てられたから今になって問題になった。そして今度は補償金の問題で地域が分断されている。金で分断されている。金がからむと人の心は分断される。これまた金であり金が諸悪の根源だともなる。補償金で目がくらんでいる人もいる。一億円補償してもらうとか現実味帯びてくるとそれで目がくらみ金の勘定ばかりして原発事故のことなど忘れる人もでてくるかもしれない、問題の本質は忘れ金の問題だけになってしまうこともありうる。金がなくても故郷で先祖代々の地で仲間と暮らすのが一番いいのだとかいう心の問題も喪失してしまう。一億円もらって移った方がいいとなる。そしてそれは政府とか東電には都合がよく核の廃棄物の処理場にされてしまう。人間は金がからむともう眼がくらみ本質が心の問題は無視されるのである。

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相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた 怪しい地名の研究-鳥野博文氏


相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた

怪しい地名の研究-鳥野博文氏
 http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm



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津浪の浸水地域(相馬市日下石-磯部)

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「西(にし)」と「東(ひがし)」


「太陽の昇るのが東で、沈むのが西」と教わり、同じ事を子供たちに教える。このフレーズは何回発せられたであろうか。日本人に限らず世界の多くの人々が方位の認識に「太陽」利用している。
ところで、正反対の方位である「にし」と「ひがし」はともに末尾は「し」である。

東日本に分布が厚い「橋」の付く地名の語源解釈のなかで、「は」は「端(は)」で、「し」は単なる部分ではなく重要な部分という意味ではないかと考えた。「橋」は「端の重要な部分」ではないかと考察した。

東は太陽(ひ)の昇る方向であり、太陽にとって重要な部分すなわち「日ケ子(し)」ではないか、とだれでも考えることだと思う。



相馬郷土史研究をしているので地名も研究しています、もともと小生は学問に興味をもったのは旅をして地名に興味をもったからです。「怪しい地名の研究」はプロ級だと思い感心して読みました。
ただこの頃原発事故のあった所に住んでいるので他のことに注意が向きません
怪しい地名の研究も読んでいませんでしたし深く検討もしていませんでした。 今回ちょっと読み直して発見がありました。相馬市では津浪がありました。津浪には本当に驚きました。津浪によって今までわからないことが明かにされたことが多々ありました。その中で縄文海進時代の海の状態が明らかになった。再現されたことには驚きました。縄文海進時代が目の前に再現されたのです。


この辺では「日下石(にっけし)」という地名はアイヌ語で解明していました。日本語では解明しにくいからそうなったのでしょう。それで「日ケ子(し)」と書いてあることに驚きました。まさにここの日下石(にっけし)そのものです。その日下石(にっけしのすぐ近くまで津浪は来ていました。
あの辺に磯部から死体が流れ着きました。磯部の被害は大きく、相馬市磯部村 1,813人 497世帯
このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。家は一軒も残らずもともと砂州だった所が砂州に戻ったのは驚きです。


最近出版された「この地名が危ない」楠原祐介は興味深いものでした。小名浜(いわき)女場(おなば-小高)とか女川(おながわ)は男波(おなみ)であり津浪のことだという指摘など津浪関係のことが書いてあった。どうも怪しい地名の研究でも日本語の一字から解明しているけどこれは縄文語にも通じる古いものだった。アイヌ語ではない縄文時代から使われていた言葉だった。ヨコがヨから解明していたりネという言葉やワという五十音の一字に注意していたのは自分もそれを解明しようとしたができなかった。南相馬市小高の縄文時代のことを書きましたがやはり縄文人が住んだ所の遺跡はもともと海だった所をさけて住んでいた。それより海だから住めなかったのです。そこが本当に津浪で海になったから驚きです。海側の地名は縄文海進時代からものでそれだけ古いことがわかった。これは津浪でわかったことです。


最近原発事故とかのことで忙しいので「怪しい地名の研究」などでも読んでいません。最初からこれほど研究されていることに驚きました。そこまでインタ-ネットでは出さないから学者並だと思っていました。大和言葉の五十音の一字一字には深い意味がある。そこが怪しい地名研究の発見ではないでしょうか?そこから新しい地名の発見があるでしょう。それが「日下石(にっけし)」が「日ケ子(し)」という発見だったのです。


「にし」とは「土、地面」の上のどこかにある「日」の没する重要な部分ということになる。日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


「日ケ子」は日下石(にっけし)でありニに日(陽)をあてたのは正解です。太陽のことです。津浪でわかったようにまさに太陽が昇る所だったのです。地名には重要なことが隠されているようです。

誤解があった-日ケ子(ひけし)?であり日下石(にっけし)である。

陸の方向「土(に)子(し)」だとする日下石(にっけし)は西の方角になる。日ケ子(ひけし)のことですか?東はひんがしであり日が昇る岸でしょう。不思議なのは日下石(にっけし)まで海になったとき太陽は沈むのを見ました。それは日下石(にっけし)西の方に沈んで行ったのです。つまり陸地の方に向かって沈んでゆきました。その前は海でした。ということは陸からみて陽が昇る岸がひんがしであり西は海から陸になる地帯である。ともかく海から見た感覚であり陸地から太陽を見ていないとなる。日本人は海洋民族であり海から望むということは船で陸地を見ている人の感覚である。
日下石(にっけし)が西の方向という感覚はわかりにくい、海に接しいるのだから西となると海側から見て陸地だから西だとなる。日はひではなくニに当てた字である。

地名は科学的に証明するのがむずかしい。統計的に証明しようとしたのは科学的に証明しようとしたからその努力には驚きました。

最近、原発事故のことで忙しいのでいろいろ読めません、本を献呈されても深く読めません。

インタ-ネット上で暇があったら相馬郷土史研究の一つとしてまた発見があったら書いてみます。
どうもコメントやら本の献呈やらの申し出ありがとうございます、アマゾンでも買えるようですから買うかもしれません。いろいろ本も読むのが今あり目を通せません


ところで津浪に関しての地名についてインタ-ネット上で書いているでしょうか?
書いていたらお知らせください、今津浪のことを継続して研究していますのでよろしくお願いします



あとがき

 
海から渡ってきて陸の方に太陽が沈む、陸を意識して西のニが土だということはわかる。つまり陸からみて陸に沈む太陽ではなく海から見て陸に沈む方向が西だった。これが大陸だったら陸から昇り陸から沈むから日本人の感覚にはならない。日本人は海を意識した民族というのは海に囲まれているから当然である。だから津浪と海岸線の地名は深い関係があるかもしれないということはありえますねこの辺が今回の津浪で解明されれば興味深いし警告にもなるということです
posted by 老鶯 at 21:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年04月12日

相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

 
相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

東(ひがし)はひんがしは陽(日)向かう岸だろう。岸ということは海の岸になる。東を意識したのは海を望んだ時だった。でも陽が昇るのは海からとは限らない、山からも陸地からも昇る。日本海などは山から昇り陽は海に沈むのだ。海に陽が沈む所もある。日本語では大和言葉では東は海から昇るものと意識した。一方西はニに日をあてているごとくやはり陽でありニシのシは土とか陸だとするとニシは陸地の方であり陸地に沈む方を西と意識した。日本でも世界でもそういう方向感覚がユニバ-サルではない。それは一面一地域としてのロ-カルな方向感覚なのである。

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日(ひ)にちを数えるという言葉を分解するとヒ(陽)ニ(にし)ち(地)である。ヒはわかりやすいけど
ニチはわかりにくい、ニチはニも陽であり地と一体化している。つまり西は地と陸に一体化しているから西は陸地の方だという感覚なのである。日にちは日西(ヒニシ)であり日が昇り沈むことを数えることである。聖(ひじり)はまさにその日を数える人だったとなる。日を支配するものが王となるというのはマヤ文明を見ればわかる。エジプトなども天体学が発達していたことでもわかる。
天の岩戸の神話も日食に由来していたとか言われるから日と関係していたのである。もし日食を予言できたらその日を予言できたら絶大な権力をもちえるのである。それは科学の世界であり今日までつづいている。


ともかく東はひんがしは海から昇る日の方向であり、西は地や陸や山の方に沈む方向である。とするととは日下石(にっけし)とはいかなる方向なのか?今回の津浪でわかったように日下石(にっけし)近くまで津浪が押し寄せていたから日下石(にっけし)の前は海が入り込んでいたのである。そうなるとその海から日が昇るのだから日下石(にっけし)というのがわかりにくくなる。西の方角だとすると
海から見て陸地の方角だったとなる。海の岸の陸地でも海から見れば陸地であり西の方角になるのだ。実際に津浪で日下石(にっけし)近くまで海が湾のように入りこんだとき陽が陸地の方に日下石(にっけし)の方に沈むのを見たのである。湖のようになったので見えたときはなんともいえぬ驚きだった。それは一回しか見られない美しい光景だった。春の陽が広々とした湖と化した所に輝き陸地の方に沈んでいったのである。


方向地名はどこが基点となるかが問題になる。基点とする場所によって違ってくるのだ。海を基点とするということは常に海で暮らすような民の方向感覚だとなる。海から見て陸地の方に沈む方角が西となる。しかし日本海では海からみて山側が陽の昇る方角であり陽が沈む方角が海なのだから反対になる。世界的に日が昇る方向が東であり沈む方向は西である。どこから昇るかは問題にしない。日本は海に囲まれていたから海の意識が強いといかことで違っていた。


日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


沖縄各地の「西原」は「城(ぐすく)跡」などの「北側の原」という意味とみられる、と述べている。なお「西原」は「にしはら」「にしばる」とよむとも言っている。
琉球音声データベースで確認しても「にし」とは祖先がやって来た(きた)方角、「北」のことである。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm


西と北は方角として混同しやすいのである。西風と北風はわかりにくい、風はいつも一定ではない、西風が北風に変わりやすいし北風は西風に変わりやすいのである。春になると東北の海側では北風から東風になる。これは春を告げる風だし全国的にそうである。だから沖縄で西が北と意識するのはわかるし九州の陸地を意識したというとき沖縄は西から北から移住した人々である。それは言葉などからも証明されている。沖縄の言葉は古い大和言葉が残っているからだ。青森などの辺境に古い大和言葉が残っているのと同じである。地名研究では方角地名が基本にある。南相馬市も城のあった相馬市の南だから合併してそうなったことでもわかる。

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津浪で大きな湖と化した磯部から日下石(にっけし)方面

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posted by 老鶯 at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年04月13日

春の朝(南相馬市の国見山に行く)


春の朝(南相馬市の国見山に行く)

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老いざらむ脳活性化春の雷

定まらぬ余震つづきて春の雷


高倉の木橋渡りて梅におふ


石神に蛙の鳴くも耕さじ


石神の小学校や蕗の薹


朝日さし鶯ひびく国見山


朝日さし猫柳芽ぶく国見山


木蓮に山風そよぎ朝日さし椿群れ咲く石神の里


清流の流れのひびき朝日さし磐にすみれや山に入るかな


山鳩の鳴きあう声のこもりつつ森に騒げる風の音かな


国見山海より東風(こち)の吹きそよぎさえづり高くひびきけるかな

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昨夜は春雷で稲光りが走った。そして今度は余震だった。余震は今夜もあった。まず落ち着かないのがこの辺である。人は老いたくないし、頭を使うと脳の血流が良くなり体全体に影響するからいいという。認知症はこまめに体を動かさなかったり頭を使わない人がなりやすいのかもしれない、自分の姉も役所をやめてから何もしない、怠惰になってしまったことが原因していたことは言える。頭を使わないと血流が悪くなりそれが体にも影響するのだ。

一体いつになったら安定してくるのだろうか?時々この辺は特別呪われた地域になったのかと思い不安になる。原発事故の影響も大きすぎたのである。
原町区のイオンから意外と石神は近かった。この辺で放射線を計ったから1・5くらいあったから高い方だったのだろう。それでなかなか石神小学校ははじまらなかったのだ。石神には子育て地蔵とかもあった。今回注目したのは写真の木の橋だった。木の橋は今やめずらしい。梅も咲いてにおっていた。

そこから流れの上流をたどり国見山に行く、山鳩が鳴きあっていた。国見山は通行止めになっていたが自転車だと上れる。この電動自転車は坂には強い、頂上まで上った。国見山からちょうど南相馬市の全容が視界に入る。鹿島区-中心の原町区-小高区が見えるからまさに国見山だったのである。

ここに海から東風(コチ)が吹いてくるがこの東風が災いした。飯館村はこの東風のために放射性物質が大量に運ばれた不運があった。

放射能の被害と言っても目に見えてはわからない、ただ耕作されないということが一番目に見えての被害なのである。相馬市だと普通に耕作しているから普通と外見は変わりない、田舎で田畑を耕作しなかったら田舎になるのかとなる。飢饉にはならないにしろそんなことを経験もしていないだろう。田畑があって田舎なのである。江戸時代だったらもう住めなくなる。

俳句とか短歌とか芸術などができるのもそもそも平和がなければできない、確かに一年前よりは平和な春が来ているにしても正常ではない、逆に俳句でも短歌でも芸術が楽しめない地域は異常なのである。普通の暮らしがない平和がないとなる。だからこういうところに住みたくなくなる人がでてくる。若い人は他に移る。すると高齢者だけが残されることになる。残る人は家と土地をもっている人である。田舎の家は広々としているし簡単に移れないのである。


国見山はまさに南相馬市を見晴らせる山である。南相馬市を訪ねたら必ずよる必要がある場所である。この辺は別に原発事故などがなけれ
ば悪い場所ではなかった。住みやすい場所だったのである。
住めないことはないにしても何か落ち着かない住みにくい場所になったのは残念である。

2012年04月14日

南相馬市石神から国見山の放射線量を計る


南相馬市石神から国見山の放射線量を計る

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南相馬市のイオンから石神-高倉-国見山とアマゾンで買った放射線計測器で計った。
石神第二小学校の見えるところでは道路は0・9であり道の脇の土の所は1・1とかであり草の所は
1・3とかでありそんなに高くない、それでも石神小学校がはじまったのは最近であり校庭などを
除染してはじまった。あそこに子育地蔵があったのも注目した。子育てもできない地域になったことがあの地蔵を見て里の人々はどう感じたのか?

子育てできなかったらその地域は存続し得ないのではないか?
その時子育地蔵に祈るほかない、放射能汚染に負けないように子育てできますようにとか祈るほかないまでなっていた。そもそも一地域でも村がなくなるというこなど考えられない、飢饉のときは相馬藩でそういう危機にひんした。

今回はまた事情が違っているから対策も違ってくる。人はもう子育てできないとよそに移ってしまう。残されるのは高齢者だけになったらその地域を支えるものもなく遂には消滅してしまう。
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それなら今度は中国人でも移民をつのり住まわせて村を維持するほかないとなるかもしれない、
中国人なら多少の放射能を気にしないかもしれないと思うからである。
それなりに援助してもてなせば来る人がいるかもしれないとまで考える。

石神から高倉に行くと道路で2・1じ道端の落葉では3・5とか高くなっている。山側に近づくにつれ高くなる。流れを上って山に入ると3・3-道端の落葉で8・6となり高くなる。

一番高かったのは頂上付近であり道路で7あり落葉で9あって最高だった。高いところはやはり高くなっている。山では山菜とりとか野草をとることはできない。でも外見は何も変わりない、山鳩が鳴き鶯が鳴き他の鳥もさえづっていた。放射能は気にしなければ変化がわからない、草木は芽ぶいていた。鳥も住んでいるし普通と変わらないのである。

 


居住制限区域


高倉の字助常、字吹屋峠、字七曲、字森及び字枯木森の区域
片倉の字行津の区域
馬場の字五台山、字横川及び字薬師岳の区域

高倉は居住制限区域になっている。横川ダムの方も高い同じである。
http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/20120330_02d.pdf



家の近くでは意外と瓦屋根を直してもらったが瓦自体を計ったら0・6とか道路より高いにしろ思った以上低かった。というのは瓦から放射性物質が水で流れ樋にたまり樋から流れ出た。だから樋の下のコンクリ-トの出口は高く、その下の泥化した土も高い,でも泥化した土の方がコンクリ-トの出口より低くなっているのだ。泥でもセシウムが泥となり流れだすからそうなる。それで阿武隈川には毎日何億ベクレルのセシウムが泥と共に流れだししているのだ。その量はものすごいものである。その分森とかの放射性物質は減っているのだ。コンクリ-トのようなものに付着したものは削らない限り消えないのである。
posted by 老鶯 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年04月15日

統計で見る浜通り-相双地域 (原発、火力発電地帯の恩恵の大きさ)

 

統計で見る浜通り-相双地域

(原発、火力発電地帯の恩恵の大きさ)


福島県市町村民経済計算の概要
http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=17021

統計とかグラフで見るとやはり相双地域は原発や火力発電所とか電力供給地帯として潤っていた。産業は電力だった。さらに今居住困難地域となった原発に一番近い大熊とか双葉は収入が県内で一番良かった。普通南相馬市から大熊まで働きに行くということはないけど原発関係でない人も働きに出ていた。働き口もあった。原発関係でも東電の人も南相馬市にもいた。それから火力発電所でも南相馬市にも相馬市にもあり千人も雇っていた。この経済的影響は大きいのである。原発は燃料費が安いからコスト的に電力会社では推進したいことがわかる。石油だと高すぎるのだ。原発は電力会社でも地元でも金のなる木だったのである。そして一時産業農水山林業とかなるとグラフで見るといかに少ないか一目瞭然である。一割にも満たない、ところが感覚的には土地をしめているのは田んぼであり山林である。飯館村でも7割が山林であり除染がむずかしくなっている。ここに田舎に住んでいるものの現代の錯覚がある。経済的には農林とか漁業の経済でしめる割合は極端に少ないのが現代なのである。ただ感覚的に農林漁業が主体のように見えてしまうのが田舎なのである。農協でも以前として票田として力をもっている。でも実質は農林漁業ではなく収入は別になっている。会社とか工場勤めの収入であり専業農家は少ない、兼業農家が多くそれでも田をもっていれば国から補償される。

そういう矛盾が原発事故問題にも現れていた。戦前までは八割は一次産業であった。ほとんどが東北では特に農民で貧しかった。そこで問題になっていたのは土地をもたない小作であり地主に対する恨みが深かった。ところが経済の一割くらいしか経済でしめる割合がなくなったとき農業の実体は変わってしまった。田舎に住んでいると田舎を支えているのは田畑をもっている今でも農民だと感覚的に思ってしまうのである。でも現実は変わっている、第一次産業のしめる比率は一割に満たないのである。

だから今回の津浪や原発事故で一番困ったことは交通の問題だった。車がガソリンなどが入らないことで物資が入らないことだった。南相馬市では特に放射能を恐れて物流が途絶えたのである。食べるだけだったら米だけでも一二週間ならまにあう。ところがその前に物流が途絶えると不足するものが現代の生活では多すぎるのだ。医療では薬とかが不足して外から入らず困ったことでもわかる。

医療関係も第一に困ったのである。困る優先順位は必ずしも食糧ではない、水道とか電気や道路、交通のインフラだった。水道が壊れたところもあり電気も通らなくなったら米があっても米もたけないのである。かえってこういう時は自給自足している生活は強い、現実に三陸の方では牡鹿半島などでも水源に裏山の清水とか利用して薪を燃やして米をたいていたのである。水道も電気も途絶えればそうせざるをえない。田から都会などは災害には弱いのである。電気も水道も途絶えるとお手上げになってしまうからである。現代は外からいくらでも物資が入ってくる時代である。でも交通が途絶えたら何も入ってこないからかえって災害には弱いとなる。なるべく近くのあるもので生活していれば災害には強いのである。


いづれにしろいかに浜通りが電力供給地として経済的に大きな割合をしめていたかグラフでわかる。だから原発事故の影響は計り知れなく大きい、もちろん浪江町とか双葉とか大熊も町として消滅すれば全体的に経済は縮小してしまう。田舎を支えているのは今は第一次産業ではない、だからこそ漁業権者は原発から多額の補償金をもらっていた。福島県では漁業がなくなってもそれほど影響がない、原発とか火力がなくなることの方の影響が大きすぎたのである。農業もそれほどの影響がないというのも感覚的にわかりにくくても実質の経済ではそうなっていた。でも農業などは第一次産業は経済的統計的にだけ見れるものかどうかはわからない、田舎に住んでいれば感覚的にそうはなっていないからだ。田んぼに人がいないで耕していないということは田舎ではない、すでに都会と同じになってしまう感覚なのである。でも実質的には第一次産業が一割にも満たないということは経済的影響は少ないとかなる。おそらく農業漁業がなくなっても他の産業があれば市町村が経済的には成り立つ、それがどんな市町村になっているのか今は想像しにくいし未来を描けないのが実情である。

経済規模が縮小して若い人がさり高齢者だけがふえて限界集落のように高齢者の街になってしまう。限界集落化してゆく恐怖がある。

南相馬市では原町区で震災前は4万7千であり震災後は3万2千である。
鹿島区で震災前は1万1600であり震災後は一万三千くらいである。
鹿島区であれだけ仮設住宅建ったのに人口は2000くらいしかふえていないのは意外である。
少なくとも5千人くらい増えた感じがする。
小高の人は一万二千人いても全国に散ったのである。他の人も親戚などを頼り全国に散った。
南相馬市内に移動している人はどれくらいなのか、意外と南相馬市より外に出ている人も多い。
鹿島区に小高区の人が多いと思ったが意外と少ないから全国に散らばったのである。
南相馬市のホ-ムペ-ジでは5千人は南相馬市以外に転出した。

南相馬市立病院の看護師が130人にいたのが108人まで回復したのは心強い。一時半分以下になり崩壊状態だった。病床数は半分である。医者の数はどこも3人くらいへっているからこの回復が問題である。
看護師の数をみると確かに前よりは意外と増えているから何か安心する。でも医者の数は以前として少ない、医療関係は高齢化社会では重要なインフラだからこれが弱いところに高齢者も住みたくないとなる。


南相馬市の統計資料
http://www.city.minamisoma.lg.jp/shinsai2/sinaijokyo/hinan-jokyo.jsp

posted by 老鶯 at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年04月16日

美しいギリシャの遺跡(詩)

 
美しいギリシャの遺跡

神は人の営みを隠した・・・ヘシオドス

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ギリシャの遺跡は埋もれている
山々の中にありし日のままに
威厳に満ちて埋もれている
雪におおわれた奥深い峰々
岩山から清水が流れひびき落ちてくる
オリンポスの山々は今も聖域である
雲間からさす光が神々しい
ギリシャの遺跡は春の花々の中に埋もれている
地中海からの風がそよぎわたり
ただ語るのは遠い昔のこと
ヨットが帆をふくらませ島をめぐる
遠大なオデッセの冒険が蘇る
自然と調和した神殿
その神殿も自然に還った
ここに神話はまだ息づいて
古代の人はそこに静かに眠っている
その遺跡は自然の中に埋もれた
遺跡は自然の一風景として溶け込む
ああ 現代の文明は自然を破壊して
その巨怪な姿を露にして埋もれることはない
見よ、無残なる原発のその破壊された跡
凄まじい戦争の殺戮の跡
機械に蹂躙されて一かけらの美もない
醜さが剥き出しになってさらされている
ああ ギリシャの神殿の遺跡は美しく埋もれている
高い塔もなく堅固な城の塀もなく
花々の中に埋もれている
静かに遠い過去を回想しつつ埋もれている
蝶は花々を求めて変わらず飛んでくる
明るい春の陽ざしのなかを嬉々として
遺跡も廃墟も自然と調和すれば美しい
人の労働は労苦は何なのか
自然を汚して破壊して何を建てたのか
工場の煤煙よ、放射能よ、戦禍の凄まじい跡よ
人の成したことは災いの都市を作ったこと
残されたのは巨大な迷路、逃れることのできない迷宮
ああ ソドム、ゴモラのように滅ぼされる市よ
人は自然の中に埋もれて美しい
遺跡となりて廃墟となりても美しい
人は何をせずとも神は花環をめぐらせ
村を彩り美はその中に映える
そして遺跡は埋もれて自然に還る
ギリシャの遺跡よ、美しく眠るがよい
人よ、その眠りを覚ますな
ひそかに訪れ聖地を汚すなかれ
人よ、何も残さなくてもいい
美しい自然を残して地上から消えろ
あどけなき花々は咲き満ちて
ひらひらと蝶は今日も舞っている