2012年04月01日

春の星(かなたは飯館村)


春の星(かなたは飯館村)


春の星一つ二つや三つかな


春の星山のかなたは飯館村


たおやかに補佐する女(ヒト)や春の星


咲き初めし梅に我がより離れても香り身につくしばしのまかな


春なれど飯館村の空家には灯もともらずにいつ人帰らむ

今日は風が寒かった。明かに北風ではない、東風だった。今年は東風(こち)が吹くのが遅かった。去年は早かったから3・11の悲劇になった。飯館村の被害があった。昨日辺りとかは暑いくらいだったがこのくらい爽やかな気持ちいい春の感覚である。春の星もきれいに輝いている。それにしてもここはちょうど直線的に山の向こうが飯館村になるから飯館村は地形的に結びついている。真野川でも通じている。その飯館村に人は住んでいないとなるとどうなるのか?そんなこと想像もしなかった。
それでとまどうのである。ただ飯館村には出入りができるのがいい、警戒区域はできないから体の一部をもぎとられた感じになる。春になったから飯館村に行きたくなる。でも相当に荒れてしまっているだろう。

春なれど飯館村の空家には灯もともらずにいつ人帰らむ


人がいない村というのも不思議である。実際は家の中は天井から水がもれて氷柱ができていたとか家が荒れているらしい。家は人が住まなくなると荒れる。まだその空家は廃屋とは違う、人がまだ帰ろうとしている家である。でもすでに帰れないと断念している人たちもかなりいるだろう。

飯館村は一体どうなるのか?放射能の廃棄物処理場に一部なりそのあとに人が住むのか、それとも自然に帰ってしまのうか?ただ別に木が枯れるとかはない、花も咲くだろう。放射能の被害は目に見えないしあと10年、20年後に症状が現れるとか言われるからそんなこと気にしてどうなるのだろうと開き直る人もでてくる。特に先が短い老人はそうである。とにかく村一つがすべてなくなるということ6000人も住んでいた村がなくなってしまうことが現実に思えないのである。限界集落だと何百人とかの単位だろう。ここは6000人だから違っている。

女性でも男性的な女もいるし太った女性もいるしやせた女性もいる。やせた女性はやはりたおやかだとなる。ちょっと手伝ってもらった女はやせているからたおやかだとなる。

梅も何輪か開いた。それは変わりない、しかしこの辺は余りにも変わりすぎた。都会に住んでいる人は自然のことをあまり考えない、ビルと車と人ごみに囲まれて暮らしている。田舎では自然に囲まれつつまれ暮らしている。飯館村などはまさに森が70パ-セントというように森につつまれた静かな村だった。一軒一軒が木立に囲まれて広々として離れ住んでいた。だからいつも気持ちいい場所だったのである。それが人が住めなくなった。飯館村は元の自然に帰ってしまうのだろうか?

そこが放射能を管理する自然公園のようになってしまうのか、それとも放射能は何年かで半減してと元の状態にもどりまた人々がもどってくるのか?ともかくここと地理的一体としてあったから残念である。思想というのもその人の環境から地理から形成される。東京のような場所で形成される思想は歪(えびつ)になる。自然がないのだから言葉も自然の背景がないのだから活きてこないのである。
だから画家であれ詩人であれ音楽家さえ芸術家となれば都会から生まれないだろう。芸術そのものが都会から生まれにくい、その土壌がないからだ。ただ東京にはあれだけ人間が住んでいるのだから個性的な人はいる。ただ文化や芸術を生む環境にはない、ただ今やここも芸術とか文化を生む環境が一部喪失した。そもそも農家が田畑を耕さないとかなったらここに田舎である意味があるのかとなる。

 

2012年04月02日

写真でみる最近の南相馬市 (写真が語る心象風景)

写真でみる最近の南相馬市

(写真が語る心象風景)

百聞は一見にしかずという。言葉より写真が語る時代でもある。


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ここも仮設なのか?人が住んでいるのか、ガスボンベなど設置しているから住んでいるのか?
それともこういうい仮設を売り出しているのか、人が住んでいる気配はない、仮設の需要が多いから作ったのか、一軒一軒の仮設である。南相馬市で1万5千戸の仮設は多いよな


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ダイナムというパチンコ屋ではいつも車が一杯である。パチンコ屋でがんばってどうなるのだろう、パチンコ屋に通って復興になるのか?しかしこれもこの辺の現実である。

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ス-パひたちはとまったままである。一体これはいつ走り出すのだろう。これは時がとまったままなのだ。つくづく交通は遠くとつながってこそ交通の役割を果たしていた。常磐高速道が南相馬市と
相馬市の間を開通しても意味がない、何の効果もないのだ。鉄道も常磐線全通が開通しないと意味がない。効果がないのだ。


ス-パひたちは3・11からとまったまま

身動きしない展示物のようになっている

春風を受けて光の中を走るのはいつの日なのか

自分もここ五年旅行にも行けない

また旅に出る日が待ち遠しい

これもまるで自分の姿だ

あの時以来時がこの辺では止まっている

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イオンの近くの新興住宅地で二軒が空家だった。一軒は車が置いてあるが人はいない、障子はやぶれてぼろぼろになっていた。一見人がいるように見えるがいない、ただ車が置いてあるから帰ってくるのかもはしれない、一時的に避難したのかもしれない、そういう家もあった。


この家は明かに人がいなくなった。一目見てわかる。ここは新興住宅地だからこんな空家になるはずがない、ここはもう人は帰ってこない、ただまだ売りには出されていないのだろう。
原町区の新興住宅地だと小高や鹿島より値がかなり高かった。今は原町区の地価や家は安くなっている。鹿島区は空家が浪江の人などに利用されている。そういう浪江の人に二人もあったからだ。
浪江の人はなかなか住めないとなると移住する人が増えてくるのかもしれない、子供をもっている若い人は遠くに避難する。新興住宅地だから若い人が住んでいたので避難したのか?
見切りをつけて去る人もでてくる。

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五本松のこの枯れた松もとうとう死んでゆく、この松も自分を象徴していた、介護している身内が
もうこんな状態である。これを見るといつも思う、これも自分の心象風景だった。

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トップの判断の責任の重さ (東電と東北電力の相違)


トップの判断の責任の重さ

(東電と東北電力の相違)

東電の清水社長はコストカッタ-としてのしあがり社長になったという。だから効率的ではない金のかかる安全対策はしなかった。津浪でも一旦土台を高くして作っていたのにわざわざ不便で効率的でないと土を削り低くして原発を建てた。これが致命的だったのである。一方東北電力は本当は今の高さでは高すぎるという批判があった。でもあえて副社長かここは津浪が来る、高くなくてはだめだと言って今の高さにして辛うじて津浪からまねがれた。この相違は大きい、やはりトップの判断が生死を分けるということがあった。もちろん今の社会は複雑すぎるからもうそうしたトップの役割はない、巨大複雑なシステムによって動かされているとかなる。そこに英雄は存在し得ないということも現実にある。なかなか個人が人間が介在しにくくなっている。信長のようなかつての英断による時代変革はありえないとなる。でもやはり以前としてトップの判断が大きな影響力をもっていた。みんなで議論して決める合議制なのだから現代はトップは飾りにすぎないとか言うけど原発を作るにはやはりトップの判断がありそれが事故につながった。ただ誰が土台を高くしていたのになぜ削り低くしたのか?その決定をしたのは誰なのか、それがわかりにくい、責任の所在ははっきりしないのだ。

それでも東電と東北電力のトップは違っていた。浪江と小高の原発建設予定地も20メ-トルと高台にあり今回津浪から避難した人がいたし女川の原発にも地元の住民が避難した。

女川原発の敷地をめぐっては、社内で12メートル程度で十分とする意見もあった。だが平井氏は譲らず、社内の検討委員会も15メートルを妥当と結論づけた。
 大島さんは「平井さんは、海岸を知っていた。15メートルに確たる根拠があったわけではないが、経験と直感で導き出された安全な数字だったはず」と振り返る。
 1970年に国に提出された1号機の原子炉設置申請書では、周辺の津波の高さは想定約3メートルにすぎない。だが原子炉建屋の敷地は14・8メートルとされた。


 津波対策は敷地の高さだけでなく、「引き波対策」にも表れている。取水口の内部に段差を設け、波が引いて取水できなくなっても冷却用の水が確保できる。「40分間は冷却が続けられる」(東北電力)という設計は、74年の変更申請で実現した。

 東芝のプロジェクトマネジャーとして計画に携わった小川博巳さん(73)は「東北で津波を考えなかったら何をやっているんだということ。そういう雰囲気が東北電力内にあった」と話す。
http://blog.goo.ne.jp/nishidenjigata/e/615a11152f39b896e7a3b9806e490fe1

 


東電の会議


           「原発は高い所に建てないとまずい、津浪も来るかもしれないし」


清水社長「この辺は津浪の来ない地域だよ、高い所だと効率が悪い、金もかかる

          津浪を防ぐ防波堤など金がかかるから作れないよ」


建設会社「そうですか、それなら低くしましょう、私たちは責任は持ちませんよ」

          保安院(東電でそう言っているんだからしかたないじゃないか、低くしても」


          「そろそろマ-ク1はもともと古い型であり危険性が指摘されていますがとめた方がいいのではないでしょうか」

         「馬鹿言うな、どれだけ建設に金がかかっているんだよ、ぎりぎりまで使うのが原発なんだよ」


  勝俣会長「清水よくやった、コストカットだよ、お前を社長にしたのオレだ、それでいい」


こんな会話だったらやはりトップの責任は重いはずでなのだが問われていない。東電の責任は重いのである。政府の保安院の責任も重い、何ら保安院の役割を果たしていないのだ。東電主導になっていた。


東北電力の会議


     
           「津浪の想定は12メ-トルでいいじゃないですか、これでも高く十分だと思いますが・・・」

平井副社長
「この辺では何度も大きな津浪が来ている、もっと高く想定しないとだめだ、15メ-トルだ」

              「それで高すぎます、金もかかりますし効率的ではないです」

平井副社長
「原発は安全が第一なんだよ、コストじゃない、この辺は津浪が必ず来る、だから高くしない とだめだ、15メ-トルで
な               い と だ めだ 非常用電源も高台に設置しておけ」

           「そこまで言い張るならやむをえないでしょう、従う他ないです」


こういう会話がなされていたとしたらやはりトップで決まるとしたらそのトップの判断が生死を握るということもっあった。一旦事故になったらその影響は今回のように計りしれないのだ。原発はそもそも本当は電力会社や政府だけにもまかせられるものでもなかった。自治体でも知事でも地元民でも広く参画して決めるものだった。それが原子力村が形成されて素人は全くシャットアウトされていたのである。議会や議員でもほとんどの人が推進派であり賛成なのだからすでにこの点で選挙民はもう何も言うことはできないつ、埒外だったのである。やはりこのようにトップの責任があるとすれば
清水社長や勝俣会長は死刑に値するし保安院もそれに準じる罪である。検察も原子力推進に加担して判決を下していた。ここも罰せられる対象だったのである。


いづれにしろ砂漠を日本人の集団がキャラバンのようなものを組んで旅したとき、道に迷い水のあるところの方向を一人の指導者の日本人が決めてあたり命が救われた。砂漠のような所では方向が命を決する。だから北極星など方向の目印になるのが重要になるから砂漠地帯の国の旗は星になる。
その時のトップの判断が生死を決するのだ。そういう所では英雄が生まれ安いのである。
どっちに行くかはトップの判断で決まる。いくら議論しても多数決でも決められないだろう。
そもそも生死がかかるとき多数決で決められるだろうか?人はその多数決に従うものだろうか?
議論していれば時間がかかる、危険が迫っているときは即座に決めねばならないことがある。
即断、英断が危機を救う、それが信長の桶狭間だったのである。家来の意見を聞いていてはもう助からないのである。


現代は民主主義の社会だとすると平常時には時間をかけてもいい、危機のときは対応できない、復興会議など会議ばかりしても何ら対策が成されなかった。会議は踊るなど悠長なことをしていられないのだ。即断して英断して決めねばならない、そういう危機の時代に民主主義は効果を発揮しないのだ。でも社会がそういう仕組みになっているのだから有効な手を打てずいるうちに状態はますます悪化するだけなのである。この辺でもいかに市町村長が重要な役割をになわされたか、その能力が問われたか、普通の平常時なら誰がなっても同じだとなっていた。しかし今回は本当にその役割は大きかった。市町村の運命を決めるほどに大きな役割と責任をになわされたのである。だから批判もあって当然だったしそれに答えきれないということもあった。現実に南相馬市長の評判は地元では良くないし相馬市長も良くない、この危機にさいしして答えきれない現実と重荷を課せられたためでもある。
こういうときもう誰か特別優れた人を選びまかせる方がいいとなる。ただそういう仕組みもないし人もいないとなるからどうにもならないとなる。集団指導制ではどうにもなちらなくなったのである。

それにしても平井副社長は貞観津浪のことまで考えていた。


平井氏の実家(宮城県岩沼市)近くには、千貫(せんがん)神社がある。今の海岸線から7キロ以上内陸にあるが、仙台藩に伝わる記録では慶長津波が到達した。

 東京帝国大(現東京大)の後輩で、東北電力で土木を担当した大島達治さん(82)によると、平井氏はしばしば千貫神社に津波が到達したことに触れ、「貞観津波クラスの大津波に備える必要がある」と力説していた、という

地質調査で貞観津浪のことを東電に警告していたのである。ただ岩沼辺りでもそんなに津浪のことを心配する地域ではなかった。ところが岩沼は実はかなり海が近かった。岩沼から館腰駅もすぐ近くまで津浪が来ていたのには驚いた。それと遠見塚古墳とか名取の雷神塚古墳がかなり津浪の来た地点と近い。


愛島丘陵南東端(写真中央左下)に雷神山古墳がある。また、写真左上の同丘陵北東端に飯野坂古墳群が見える。
愛島丘陵はその東端が縄文海進で南北に直線的な海食崖(現在は木々が植えられている)となり、その崖下に沿って浜堤が形成されてい
る。


縄文時代は海が迫っていた地点でもあったのだ。館腰駅のすぐ近くが雷神塚古墳だから津浪もすぐ近くまで迫っていたのである。遠見塚古墳もまさに海の遠くを見る古墳でもあった。海に近かったのである。津浪は明かに縄文海進の時を再現した。将来的に千年後とかにはまた海になる地域だった。

そういう土地の歴史とかにも通じている必要が電子力会社にはあった。市長村長にもあった。
つまり昔の長老のような人が必要だったのである。科学者は専門家は外から来た場合こういうことを軽んじる。ただ原子力の専門家であり総合的にとらえることは苦手なのである。その総合性が要求されたのが原発の建設だったのである。


原発事故にも関係していた 「天の時、地の利、人の和」
http://musubu2.sblo.jp/article/54567694.html

(地理を知らずしてすべての学問は成り立たない)
http://musubu2.sblo.jp/article/54567694.html

posted by 老鶯 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年04月04日

春の嵐(自然のサイクルに合わせられない人間の文明)


春の嵐

(自然のサイクルに合わせられない人間の文明)

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みちのくや嵐の中を燕来る



吹き荒れる春の嵐のなおやまじ日本列島駆け抜けるかも

一夜さに散れる桜や津浪にそのまるる命はかなき跡かな


吹き荒るる嵐に桜咲きにけり世も乱れつつ自然も乱れぬ


津浪来てその爪痕の深きかな春の嵐の吹き荒れにけり




ひと夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも 啄木



嵐がまだ吹き荒れている。日本列島を縦断した春の嵐だった。啄木のこの歌は津浪にもあてはまる。一瞬にして大勢の命を奪い墓を築いてしまったのである。そういうことがこの世にはあった。
一時に大量の人が死ぬ、戦争でもあったし過去にもあった。それはちょうど桜が咲いてぱっと散るのとにている。九州ではすでに桜が満開だし上野でも花見があった。嵐の中の花見になった。
俳句にすると「時惜しみ嵐の中の花見かな」とかなる。それよりもその時しか集ることができないからあえて花見をしたと言っていた。天候も実際は毎年違っている。ただ天候のことも人は忘れやすいのだ。さすがに津浪のことは一年たっても同じままであり忘れられない、その傷跡が余りにも生々しいのである。すぐ近くで一軒も家がなくなった所を常時見ているからそうなる。これも離れていればそれほどに感じないのだろう。神戸の地震でも広島の原爆についても余り感じなかったのは遠いためだったのである。神戸の地震も実際は相当に悲惨だった。だけどなかなか実感できなかった。
テレビの映像だけではその悲惨さが実感しえないのだ。今回は身近で起こったから実感する。

放射能被害というのもはじめて経験することでありこれも実際に被害にあった人でないと実感しにくい、そして外部の人が福島県を廃県にしろとかそんなところに住むな、移住しろとか簡単に言うことに腹たつのである。遠いて自分に被害がないと人間は無関心でありかえって喜んでいるやつもいる。福島県などなくななれとかしきりあおって喜んでいる。2ちゃんねるは特別にしろそう言われる身になったらそう簡単に移れない人も多数いる。被害者のことを親身になる人は少ない。

故郷自体を失うということがどういうことかまだ被害者自体も良く理解していない、それは切実なものでありそれぞれによって違うにしろそれがどれほど深刻なものか、心にどれほどの影響を与えるのか?自分の場合、田畑が耕されていないことがなんとも荒寥とした気分になる。蕗の薹が芽生え椿が赤く咲いたし梅も咲いた。それは変わりないのだけどそもそも田舎は春田とか春耕とかこれから田植えしたり大地を耕すんだというとき人間にも力がでてくるんのではないか?別に農家でなくてもそういう姿を見ているとき春がはじまるんだなと意識する。それがなくなったときどうなるのか?農家でなくても何か大きく欠けた空虚感に支配される。第一田畑が耕されないということをこれまで経験しているだろうか?減反された田とにている。それが広範囲に広がったという状態と確かににている。でもそれは一部でありやはり全体は田畑は生きている。

都会だったら別に田畑がもともとないのだからこんなに深刻にならないし意識もしないだろう。
工業と商業都市に生きていれば生活の糧は農業ではない、都市から見たとき田舎は農家を補助金つけで能無しなんだとか卑下している。そういう感覚の都市人は田畑がなくても何にも感じない。
それは別に自ら耕さなくても田舎にいれば農家の人と同じ感覚になっているのだ。農家の人が耕していれば自分がしなくてもそういう気分になっている。それが田舎なのである。しかし考えてみると

現代は第一次産業の割合は一割とかでありとすると自然と密接に結びついた生活をしている人は極めて少ない、ということは海を糧として暮らす人や山であれ大地を糧にして暮らす人は少ない、全体として自然から遊離して人は生活しているのだ。津浪にしてもこれは一つの大自然の作用であり地球が受け入れねばならないものだという見方もでている。津浪は海をかきまわすから下にたまった養分が上にあがり栄養分が高い海となり牡蠣などが大きくなったという。ナイル河の氾濫は災害ではない、栄養分のある泥を拡散して実り豊にする自然の作用であり災害ではない、かえってアスワンダムなどをつくったとき洪水がなくなり泥か拡散されず流域では化学肥料を使っている。この栄養分の高い泥は上流のエチオピア高原の岩が泥をつくりだしたということに驚いた。そういう地球的営みの一環としてあった。火山の噴火も津浪も滅多に起こらないにしても自然側では人間に災害をもたらすものとして活動しているのではない、それが地球の営みであり人間に災いをもたらしているということではない。人間の方がその大きな自然の営みに合わせるしか生きようがないのである。津浪の場合は400年に一回とかなるから人間はその自然の長いサイクルに合わせることができなかっただけである。
だから人間が文明を作ったがその文明がかえって災害を大きくした。それは自然が悪いというのではない、人間が自然に合わせないから悪いとなる。

今回の津波災害では嵐の中をボランティアがきてくれた。でもなかなか嵐の中にくるのは大変である。津浪の跡を見るだけで気が滅入ってしまう。ただ放射能汚染地帯にはきてくれなかった。はじめてのことだから怖かったこともわかる。驚怖する人は恐怖する。
これから放射能の影響は生物にどうあらわれるのか?チェルノブエリでは燕など小型化して数が減ったという。
この辺はどうなのだろうか、双葉辺りの原発周辺での生物の状態はどうなるのだろうか?

2012年04月05日

(科学技術が未来である時代から変われるのか?)


 未来とは何であったのか

(科学技術が未来である時代から変われるのか?)

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原子力明るい未来のエネルギー(大熊町)

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原子力郷土の発展豊かな未来”と掲げてあります(双葉町)


●未来という言葉の由来


未来は何かと問うとき、未来という言葉自体明治以前にはなかった。日本語は大和言葉と漢語から成り立っていた。それに西欧的なものが入ってきたときそれを翻訳するに大変な苦労した。どうしても大和言葉では翻訳できないので漢字で翻訳した。その漢字も日本人が造語した漢字であり奈良時代に大和言葉を漢字にしたのとは違っている。その時も中国の文化の大量に流入して翻訳して漢字をとり入れた。その時もすでに漢字の解釈はある程度は日本語化、大和言葉化していたのである。
本居宣長が大和言葉と唐の言葉を分けて日本人の淵源をたどろうとしたことは正解である。
なぜなら言葉の中にその国の文化が凝縮して残されているからだ。日本人を知るなら大和言葉を知るのが一番わかりやすいからである。詩にしても大和言葉のみで表現したとき日本人の詩になっている。そこに漢字や外国語が入ってくると何か詩になりにくい、大和言葉にすると理屈ではなく情緒的になる。日本語は情緒的な言葉だということがわかる。文の構成も理屈として解明できない、英語でも文法は一つの学問であり数学と数式と多少にているところがある。だからコンピュタ-と相性が良くコンピュ-タ-のソフトを作る言語となった。とても日本語や漢字ではなりえなかったのである。
つまり英語という言葉の上にコンピュ-タ-が作られたというとき正にそれも西欧の文化の流として作られたとなる。ともかく未来という言葉は未だ来ないものという意味であり漢字にすると意味がその漢字から視覚としてわかる。未来という言葉は大和言葉にはないし江戸時代には使われていないのだ。

明治以降こうした言葉の面でも大変な変革を強いられた。その造語の数も多くあとで中国人が日本人の西欧化した造語を使用するようになった。西欧の文化を日本人が解釈したものを中国人が使用するようになったのである。未来という言葉を何気なく使っていてもこれも日本語の造語でありこの言葉を発明した人は日本文化も創造したのである。西欧化で具体的な技術の導入は鉄道などはわかりやすいけどこうした言葉の創造は誰が創造したのかわからなくなっているものが多い。でもこの言葉を創造した人はやはり大きな功績があった。天才は新しい概念と同時に言葉を作る。その言葉今までにない概念や発明につながっていたのである。だから簡単に造語は普通の人はできないのである。

未来というとき未だ来ないものとは何であったのか?それは明治以降の西欧文明でありその主なものは科学技術であった。未来とは西欧文明であり科学技術であった。江戸時代の未来は何か、それは限られた世界で生きていたのだから米の生産の増大とかで豊になるとかであったがそれには限度があった。自給自足的たいして変わらない世界で生きていたし世界観も変わらないものだった。西欧文明が入ってきたとき急激な変化の波にさらわれた。民主主義にしてもそういう概念もないし投票ということもわからない、だから札入れとか約していた。投票して代表者を決めるという手法すらないから訳すにしてもその概念自体が訳せないものがいくらでもあった。だから日本人は西欧文明をとり入れるのに苦心したし努力したのである。だから未来というとき西欧文明が未来になっていた。その西欧文明は科学技術だったのである。これは世界的なものとしてグロ-バル化した。未来とは常に科学技術のことである。宇宙への挑戦も科学技術だしいかに最先端の科学技術をもつことが未来を制する国になるかしのぎをけずる。パソコンのようなものでも発明すれば世界を制して巨大な富をもたらす、パソコンは鉄道や飛行機などと違った頭脳としての科学技術だったのである。


●未来は科学技術になった


現代は科学技術なしではありえない社会である。現代で一番尊敬されているのは科学技術者である。宗教家にしても昔は病気を祈祷するものとして山伏などが必ず小さな単位の村に一人二人はいた。それは病気を直すために祈祷のためにいた。薬師堂が各地に多いのは病気直ることを祈ったためである。今はみんな医者に行き病院が薬師堂になっている。そして医者が神様のようになっいるのもまさに病気を直してくれる医者は神様に近いのである。つまり科学技術者が未来をもたらす、そこにもう老化をしない薬が発明されるだとか中国人の不老長寿が現実になるとか未来を期待している。あらゆるものは科学技術によって問題が解決されるという信仰にもなっているのが現代なのである。だから科学技術なしでは現代は成り立たない、オウムでもサリンを作る優秀な理系の人が中核であった。
オウムの犯罪は極めて現代的なものを象徴していたのである。なぜなら原発事故でわかったことが
政府自体が東電と結託したオウムでありオウムはサリンをばらまいたがそれ以上にしまつにおけない放射性物質を広範囲にばらまいてしまった。そして科学技術者は現代では神官であり僧侶であり一番権威をもっていた。だから容易に安全神話が宗教のように作られたのである。その科学技術に官僚やら政治家やらマスコミや自治体やらが付属して利益を得ていたのである。現代では政治家が力をもっていない、宗教も力をもっていない、現実の権力をもっていたのは科学技術であった。ただその背景となる資源がないと力をもつことはできない、そのことが露骨に現れたのが電力会社が電力をとめると脅したときその本性が露にされた。電力をとめられたら文明の活動は停止してしまうからだ。また石油も同じであり石油がなくなったらどうするのだとなるとき石油のためにも戦争になる。電力をとめてもいいのか、そのためには原発なしではやっていけないぞと脅されるのである。その脅しは一番効果的だというとき電気なしでは文明が維持できなくなっているからそうなる。


●原発事故で未来は見直される


未来が科学技術だというとき今回の原発事故はその未来に大きな暗雲をもたらした。それは致命的なものにさえなった。一旦事故が起きたら国が滅亡しかねないほどの災害をもたらすことがわかった。つまり科学技術の最先端の原発が未来でなくなった。原発周辺の町では原発が未来を作るものだったのである。その未来は根本的に破壊された。そもそも故郷に住めないとなると町自体の未来もなにもない、町自体の未来は根こそぎ奪われたのである。町自体の未来などももう描けないだろう。町民は村民はばらばらになりただ事務手続きとして賠償を要求するものとして町があるだけになった。それはもはや町とは言えないだろう。現代の科学技術の最先端の原子力が未来であったがそれが完全に未来を喪失させたのである。では何が原発の前は未来だったのか?農業に未来があったのか、農業は金にならない、農業やっても何の未来ものないよ、だから子供は跡を継がない、漁業もそうだろう。

この辺では漁業は零細であり何か原発ができたとき漁業権で巨額の金をもらった。漁業権は大きな権利がありそれをもっていた人のみが巨額の金をもらったのである。漁業には未来はなかったが原発ができてその漁業権で補償され未来が生まれたとまでなる。でも原発事故でそうした未来はすべて喪失した。漁業権をもっていた港は津浪で壊滅的打撃を受けた。農業も放射能で再開できない耕すこともできない、でももともと農業や漁業や山林業には未来がないとして原発を導入したのである。
だから一体未来とは今何なのだろうとなる。個々人の未来は別に町や村がなくなってもありうる。

一億円補償されたらそれで子供を大学にあげるとか家がない人は家を建てるとかありうる。個々人的には移動が容易な社会だから医者になりたいといえばその金があれば大学に入れるかもしれない、画家になりたいといえばパリに留学させるとかある。しかし市町村として自治体としての未来は町自体がないのだからありえない、それは消失したのである。だから市町村の未来とは何なのだろうかと考えさせられた。今になれば別な市町村の未来が模索されたとかなる。農業や漁業でも山林業でも他にも何か未来を作るものがありえたとか反省する。
それは実は原発事故の被害にあったここだけではない、これは全国の問題であり日本だけではない、世界の問題でもある。なぜなら科学技術最優先の文明では世界で同じだから一旦原発事故が起きればここと同じ様な被害にあうからだ。未来は奪われるのである。

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2012年04月06日

冬の鳥(終わらない介護・・・)


冬の鳥(終わらない介護・・・)

冬の鳥遠くに飛べず介護かな


墓の間に黒猫消える春の町


冬の鳥いまだ帰らず寒き年介護をしつつ今日も暮れにき


ラ-メンを一つ作るに苦労かな冬の日あわれ男の介護


津浪にて今年は萌えぬ川岸の猫柳またいつの日萌えむ


買い物に仮設の商店なじめるや木々の芽吹きて春のめぐりぬ


町の辻梅の香るや店なきもその香りにそ心いやさる


同じ墓所世話になりにしその女(ヒト)の墓に参りぬ春の彼岸に



今年は寒いから冬の鳥、ツグミが帰らない、これは高く飛ばない、地中の餌を漁っているのだろうか?雑食性だから柿の実なども食べる。今年は柿は人が放射能に汚染されているから食べないからとられずままにあったから鳥にとっては餌が多かった。鳥にはさほど影響しないのだろう。放射能は人間のような複雑な機能をもつものに影響しやすいとあったからだ。だから別に鳥がいなくなるということはないし虫もいなくなることはない、川にも魚でも餌があるから水鳥がきている。ただ田畑は荒地になっている。


介護はやはり料理できないとうまくできない、料理は買ってばかりではうまいものが食べられない、どうししても自分で料理二つでも三つでも覚える必要があるのだ。野菜をうまく利用するのがコツみたいだ。こまかく刻んだニンジンなどでも玉子焼きなどに入れるといいのかも、白菜でも油であげると臭みを消す。そして一種類だけでは料理にはならない、魚をだしたらやはり必ず野菜を少しだすのがいい。そういう取り合わせが料理だった。料理はインスタントのラ-メンを買ってもめんどうだった。煮てからラ-メンの麺を洗い出して入れたりあと洗うのがめんどうだった。インスタントとしていいのができているのだがそれでも手間がかかっているのだ。自分は本当に恵まれていた。いつも料理は当たり前のように出ていた。それを何とも思わなかった。しかし今になるとそのことがいかに恵まれていたかつくづく思う。ただ一人今や家事すべてをやることは大変なのである。だから下男と同じなのである。ここに自分の病気が加わったからさらに大変だとなる。


仮設ができてからすでに一年以上すぎた。すると多少はなじんできた。仮設商店はバイキング形式の惣菜屋や安いラ-メンや豚どんなどの食堂は人気ある。そういうものがなかったからいい。となるとそういう店がいつまでもあってほしいとなる。何か役に立てばその町にとって必要なものとなる。でも補償金だけをもらっていたら歓迎されないだろう。一人二人なら別にかまわないけど人が多すぎるからだ。でもあと二週間くらいで小高区は警戒区域が解除になるから出入りができる。すると帰る準備をする人もいる。でもすぐには帰れない、インフラが破壊されたからである。すると三年くらいはかなりの人が仮設に残る。それはそれなりに長いのかもしれない、そのままここにいつく人も出てくるのか?そういうこともありうる。ずっと補償されればそれでいいという人たちはいる。


川の猫柳は津浪で流されなくなった。猫柳をいつもとってきたのが姉だった。その姉が認知症になったとき受け入れてくれたのが近くの死んだ女だった。認知症になったりすると親しかった人もよりつかなくなる。認知症でなくても病気になったりすると人はよりつかなくなる。どんなに世話しても来ないとか嘆いた人が病院にいたからどこも同じなのだろう。津浪や放射能汚染でも当事者でない人はかえって面白がっている人たちがいる。人間はつくづくそういうものなのだ。自分の身に不幸がふりかからないかぎりその不幸のことを思わないのだ。他人事なのである。認知症なんか差別されたりもした。知的障害者だからそうなる。ただ知的障害者でも生まれつきとは違う、いろいろ世話したり貢献した人だから粗末にできない、ただたいした世話もしなくてもその女(ヒト)はかわいそうだなと相手にしてくれたのである。

同じ墓所というとき、やはりともに供養したいというものが生まれといい。ただの他人が寄り集まっても墓すら共同の場所とはなりにくい、ただ

現代はそうした共同が作りにくい、田舎の農家の部落辺りだとそういうことは作りやすい。共同はともに働く協働から生まれる。だから農家では協働が共同になりやすかったのである。そこではあまり競争はしない、街だと商店などは競争するから協働ともなりにくい面はあった。つまり田舎でもザイとマチでは違っているのだ。マチは連帯が共同が希薄なのである。ただ一面協働のしきたりに縛られない面はある。

墓には猫があっている。忍び足で墓の間を歩いて消えてゆく。死んだ人の霊を背負っているように歩いて音もなく消える。黒猫がさらに墓にはあっていた。
田舎でも何もないけど書くことはある。原町区辺りだと街中に梅が咲き匂うということはないがこの辺で街中に畑があるから梅がある。ただ畑は耕されていないから淋しい。

 


山の際(ま)に 雪は降りつつ、しかすがに
       この河楊(かはやぎ)は 萌えにけるかも
            万葉集10−1848    詠み人しらず


河楊(かはやぎ)は猫柳のことだった。この歌はこの辺の気候を象徴していた。なぜなら山の際(ま)に 雪は降りつつ、しかすがに ・・というとき山の際とは飯館村の方であり海の方はあたたかく山の方は寒い、雪もふるし雪も残っている。河楊(かはやぎ)が萌えるのは海に近い平地なのである。
河楊(かはやぎ)とあるごとく猫柳は河に生えるものだったのである。その猫柳が見つけられないことは淋しい。しかし上流の方であるかもしれないから探してみよう。

春満月(海から出る月と山から出る月の相違)


春満月(海から出る月と山から出る月の相違)


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春満月天の高見に汚されじ

瑞々し海から昇る春満月


春満月匂うがごとき美しき


大石の動かず二つ春満月


水仙や石に風鳴り人入らじ


一番星見つけ明るし春の夕



 血色のいい月
http://miyajimatenki.at.webry.info/201102/article_15.html


蘇州
http://www.musubu.jp/chainasoshu.htm


双塔に春満月の曇るかな


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春満月大河に映えて春満月

春満月大人動ぜず六和塔

今日は春満月だ、月はこの辺では海の方から昇る、海の方から昇る月は大きい、その大きいとき満月を見ないとだんだん空高くなると小さくなるので満月でも見物ではない、これが山国だと山から出る月になるけどその情緒がわかりにくい、常にここでは海を意識している。景色としては田んぼがあったり家もなく広々とした入江のようになっているとかえって気持ちいいということもある。北海道辺りの景色である。津浪がそういう原初の状態に戻したともいえる。ただこの辺は海の方にもともと家は少なかった。それでも地平線と水平線が合体するようになった。海が遠くから見えるのが違っている。


今日見た春満月はにおうようであり水がしたたるようでもある。水も滴るいい男というのは何なのだろう。水分が多いのは若い証拠である。肌もみずみずしいとなる。老人の肌は乾いたように水分がなくなっているからだ。若い人は肌もすべすべしている。それが老人は乾いたような水気のない肌になっている。これも個人差がかなりある。60すぎるとひどく老いて顔になる女性がいる。10才くらい感覚的に違っている。女性の場合は老いることは男より悲惨なのかもしれない、目に見えて現れすぎるからだ。これも無常である。

ともかく満月は大きくないと見物ではない、小さいと満月の感じがない。山国では大きい満月が見れないかもしれない、海だと水平線から昇るからその時いつも大きな満月となっているのだ。

春満月を血色のいいと表現したのはうまい表現である。健康的で血色がいい感じに見える。それは
若い女性の顔や肌なのである。春はエロチックにもなる。エロとは縁がないにしろ白い肌に魅惑される。匂うような感覚もそうである。

自分の場合はここが何とか移動しなくてもよかったのが助かった。警戒区域の人は悲惨である。仮設で春の月を見ることになった。故郷ではもう月を見れないのか?ただ月はべつにどこでも見られる。
ただ山の月というのはこの辺では感覚的わかりにくい、海から昇る月は常に見ている。ところが京都は盆地であり奈良も盆地だから月を歌ったしたら山の月なのである。


ほととぎす今やと思ふ山の端に 月をまつごとなれをこそまで  西園寺実
  「月をまつごと云々」は、月の出を待つように、お前を待っている。
 
京都だったら山に囲まれているから山から出る月なのである。何度も言っているけど地理が地形がわからないと本当に歴史もわからないし芸術も鑑賞できない、会津なら山に囲まれた感覚がわかる。
ところが海に面しているとわかりにくいのである。人はその住んでいる場所から地理から発想している。山国の人はこういう歌は理解しやすいのである。奈良でも京都でも山の感覚の歌である。万葉集でもそうである。深く鑑賞しようとするとき人間は自分の住んでいる場所からイメ-ジするからそこに常に錯覚が生まれているのだ。海側に住んでいる人は山の端から出る月を見ていないのだ。

だからそういう短歌や俳句があっても実感としてイメ-ジされていないのだ。月はどこでも同じ様に出ていても出る場所によってまるで違ったものとなっているのだ。これが外国の平原や砂漠となると全く別なものとなってしまう。地理が場所が文化を作っているのだ。福島県などは広いから会津と浜通りの人の感覚は相当に違っているし文化も違っているのだ。だから福島県自体を知ること自体容易ではないのだ。福島県に住んでいてもそうである。会津は東京より遠い感覚だということがわからないのである。地理には常にそういうことがある。地理から場所から人間は誤解が生まれているのである。


吉野山 さくらが枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな
『山家集』 第16番歌


吉野山は京都から相当奥であり遠い、飯館村とは違っているかやはりにている面がある。飯館村は標高が高いから春でも雪が残っていたし寒い地域なのである。高原地帯なのである。ただ吉野といったら高い山があるからまた違っている。この辺ではほとんど千メ-トル級の山さえ望めないから景観としては肝心なものが欠けているとなるのだ。


蘇州の双塔はいかにも古い、街全体が古都である。そのすぐ近くに泊まったのでこの句ができた。それも10年くらいたつと印象が薄れてしまった。外国は変わっているから忘れやすいのである。日本だったら地理的に思い出すとイメ-ジできるから詩でも深く理解しやすい、それでも地理から場所からくる錯覚が常にあるのだ。それだけ地理は記憶しにくいのである。

2012年04月08日

大和の春満月

 
大和の春満月



にほふがごとく

若々しく

みずみずしく

したたるごとし

憂いもなく満面の笑み

ふくよかなるおみなの顔

血色のいい、若やぐ顔

ああ かつて我が側にありし女

やさしさの満ちたる女

ああ 人の老ゆるは悲し

健やかに快癒される日よ

老いざる日を人は願う

天なる高見に月は汚されず

静かに慈愛の光を放つ

月光菩薩のそこに見えしや

汚れし世の上に月輪の光

うるわしき大和の国の春満月

このみ国を汚せしものは呪われよ

大和の国の天地海はいかに尊き

神の与えし天地海なりしを

大和の民の慈しみあいかしこくあれ

ああ 大和の国の美しきかな

その天地とともに命長かれ

神の恵みはここに尽きざらむ

posted by 老鶯 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)


木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)



阿武隈の流れの早し春の草

紅梅や東海の海かがやきぬ


木蓮の芽のふくらみて朝風にゆれ遠くへと我また行かむ


峠こえ遠く来たりぬ木蓮の開きて仰ぐ高き峰かな


残雪の吾妻峰光り峠こえ我が望むかも遠く来たりぬ


桃の花もゆるがごとく咲きにつつかなたに望む海の碧かな


日本は海と山の国である。海彦山彦の国である。ただ浜通りには高い山が望めない、阿武隈高原を越えると吾妻とか安達太良が望める。山を見たければ峠を越えねばならない、丸森町から梁川に出て阿武隈川を下る道は圧巻である。桜と桃の花がまばゆいほどに咲いている。別に放射能でも外観は何にも変わらない。ただ阿武隈川には常時億ベクレルの放射能汚染水が流れている。大きい川だから放射性物質を泥と共に集めているのだ。だから魚などは食べられない、でも今はあまり川の魚はあまり食べていない。放射性物質はやはり相当に雨が降り泥にしみこみ川に流れだす、その分山の放射性物質は減ってゆくのかもしれない、そうして長い時間の中で減ってゆくのかもしれない、その待つ時間は長いことは確かである。


ともかく浜通りに欠けているのは高い山である。高い山を望めないことが精神的に貧しくしている。その代わり海があることが景色としては良かった。山に囲まれて住む人は海に憧れる。峠を越えるというとき広々とした海を望むことである。飯館から八木沢峠に出るところから海が見えるのである。飯館村はまだ出入りができるからいい、浪江の高瀬川などは出入りができない警戒区域になっているからこの辺では損である。高瀬川は激流となっているから春に行くと気持ちいいからである。


春になると遠くへ行きたくなるが行けない、明日は病院である。でも旅ばかりしていたから心の中で旅がつづいているのだ。人間は老後になるとこれまで何をしてきたか本でも何を読んできたのかふりかえることになるのだ。一生の総決算のように過去をふりかかることになる。自分のしたことを生々しくふりかえり思い出されることになる。それが偽ることなくそうなる。だから悪いことをした人は過去を老人になっても語らない、語りたくないのだ。自分にしても過去の嫌なことは語りたくない、戦争のことが良くわからないのは戦争を経験した人が本当のことを語らないからである。人を殺したりしたことをなかなか語りにくいからである。だから真相は明かにされていないのだ。だから過去を語れる人はその人生は自分なりに納得したものとなっている。それも個としての人生であり組織として生きた人生ではない、自分はこういう罪を犯したとか過ちをしたとか言っている人は自分に正直なのである。


いづれにしろ旅の記憶でも時々ふいとあんなところに自分がいたなと思い出すことは不思議である。思い出したときもう一度旅している。思い出すときは体で記憶したような場所なのだ。車とか鉄道とかの旅は忘れやすい、思い出す場所はやはり体で記憶しているような所だったのである。木蓮が風にそよいで咲いているというのを車から見たら印象に残らない。自転車で風を切って走っていれば体で記憶しているから思い出すのである。30年前とかでもそういう所は思い出すことがありそれでまた短歌とか書いている。旅ばかりしていたら旅のことを思い出すし他でも工場で仕事していたらその仕事をしていることを思い出す、そういうことは体に刻まれているのだ。だから認知症になった女性がベットで田植えしていたというのもわかるのだ。
そういうことを長年してきたのだから体に刻まれているから忘れないのだ。それで認知症になってもそういう昔のしたことを料理でもできる場合がありやらせると多少は改善するのだ。料理でも体で覚えているのは忘れないのである。

団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


一生貧乏
60代, 男性, 自営業

私は10歳で母親に捨てられました。(父親は私が3歳から肺結核の為に入院していて14歳の時に病死)兄嫁と母親が不仲で 10歳の時に出て行きました。1年に一回位日帰りで来るくらいです。当然兄嫁にいじめられて本当に辛い思いをしました。

ようやく中学校を卒業して、東京江東区清澄町の松本自動車という自動車修理工場に就職しました。これからが本当の地獄でした。仕事は住み込みです。最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。(工場の上に6畳間の部屋が3ツ有りましたが2ツの部屋は人に貸していました。)この状態が約半年です。仕事の時間は朝8時〜12時  午後は13時〜18時
残業は毎日19時〜23時 合計13時間毎日仕事です。

毎月の休みは5日と15日の2回だけです。それで給料は残業代も入れて1ヶ月1500円です。当時菓子パンが10円です。
休日と残業時間の食事は支給有りません。1500円は一週間の
食事代だけで消えました。
腹はいつでもぺこぺこです。お金が無くなると、コッペパンを3切りにして、1日分の食事です。後は水で我慢しました。
信じてもらえないかもしりませんが本当のことです。

半年後に1万円にしてくれましたが、それから入社してから、 18歳までにげだすまで変わりませんでした。(なぜすぐ逃げ出さなかったというかたもいるかもしれませんが、当時は15,6歳の田舎の子供です。無理です。)

その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です。)がこの病気の為に仕事は思うようにいかず、結婚も当然出来ませんでした。(気持ちが悪い、移されそうで怖いといわれました。)こんな辛い人生は何万人に何人いるんだろうかと思います。辛さは死ぬまで変わらないとと思います。
http://poor.life-taikenki.net/taikenki62.html



これも過酷な運命の下に生まれた人だった。老後というとき何が興味ある事になるかというとそれぞれの人生を読むことなのだ。こんな人生が送った人がいたのかと自分の人生と照らし合わせて比較すると興味深いのである。意外と隣に住んでいてもその人の人生がわからないのが現代である。
「秋深し隣は何をする人ぞ」なのが現代である。田舎でも隣近所は疎遠になっている。買い物だってすべてス-パ-だから小さい店は姿を消した。するとそれぞれの人生をなかなかしりえないのである。老後は何かをふりかえることであり思い出すことが仕事になる。本でも前に読んだものを読み返すと本当に理解することになる。新しい本は読みにくいし理解しにくい。そして本というものも積んどくが多く読んでいない、読んだと思っていたものも深く読んでいないし忘れているのだ。


この人の人生に興味をもったのは密接な身内でこれと同じような人生だったのを知ったからである。実にこの人の運命は過酷そのものだった。この人の恵まれていた点は東京で生活していたから金の卵のような集団就職をしていないことである。集団就職は15才くらいで親元を離れるのだからこれも過酷だったのである。自分は恵まれて勉強嫌いでも東京の私立大学に入れた。それもほとんど勉強はしなかった。もともと自分は今になると学問好きなことがわかった。いろいろなことに知的な興味が尽きない自分に気づいたのである。そして老後になるとむずかしい本でも理解できるようになった。

この人が何を言おうとしているのか本をぱらぱらとめくるとだいだい要旨がつかめる。古典でも深く理解できる。本でもそうだが他人の人生も見通せる、理解できる。若いときは人生にしても人間のことにしても社会についても五里霧中なのである。社会に翻弄されて生きるほかないのである。それで無駄なカルト宗教団体に入ったりといろいろ無駄が多すぎるのだ。


最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。


学生のとき町工場でアルバイトしていた。その時、集団就職したような人がそういう所だった。住環境は劣悪だったのだ。この人は食事も満足にできなかった。仕事は自動車修理工場というとき流れ作業ではなかった。自分がしたことは流れ作業が多かった。なぜ自分が仕事を嫌悪するようになり会社勤めを嫌ってそのまま幸運にも老後を迎えたのか、それはもともとの性格にもあった。学校という規則的な集団生活のときも適応できなかった。性格的に甘やかされたこともあった。自分は社会にも会社にも適応できない性格だった。だからまともに働いたのは20代前半だけである。それも流れ作業しかなかった。一日中機械でドリルで穴を空ける仕事とかであり嫌悪するようになったのはそのためである。何か創造的仕事があるなど考えようもなかった。仕事とはみんなそんなものかと思ってしまったのである。残業にしたって流れ作業になると本当に嫌になる。もう定時だけでうんざりしてしいるからだ。その後は全くこういうロボットのような仕事はまるで違って旅行に明け暮れたというのも恵まれていた結果だった。そんな仕事をしつづけたら生きることさえ嫌になったろう。


その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です)


身内の人も円形脱毛症になったからにていた。ストレスのためになったのだろう。集団就職した人は何かしらこういう苦労をししているだろう。でもその後それなりに自立して結婚して一家を構えて東京辺りで暮らし田舎には帰ってこない。不幸にも自分の身内は若くして交通事故で死んでしまった。その墓が原町にある。この人の人生とにていた。この頃集団就職の人生の人は苦労しているからそれなりの数がいた。この人は最初から不幸な星の下に生まれてしまったのである。ただいくら不幸でも集団就職しても今は高度成長期でありそれなりに自立生活している人も多いだろう。この人は結婚していないから家庭をもっていないから余計不幸を感じているのだ。ともかく人間の一生はいろいろある。団塊の世代こうして過去をふりかえる老後を迎えた。過去の苦労を語る時を迎えた。戦争時代は戦争のことを語りつづけて死んだ。団塊の世代を何を語るのか?たいして語ることもないのか?恵まれた時代だから語ることもないのか、集団就職したような人は語ることがあるだろう。一人一人の人生はみな違っている。一人一人の人生も実は郷土史の一こまである。それら一人一人の人生はすでに歴史となっているのだ。同じ世代でもそんな人生があったのかと驚くことがあるだろう。それは後世への教訓である。失敗の体験も後世の若い人への教訓である。自分が失敗したことと同じ様なことをしている人もいるからだ。


人間は他者を知るというとき自分の体験を基にしているのだ。だから自分が体験しないことはいくら聞いてもリアリティが伝わらない、戦争などあれほど悲惨なものでも戦争の体験をしていないからなかなか理解できないのである。自分は現実に下町の油臭い町工場でアルバイトしたから集団就職の人たちのこともそこからイメ-ジされた。しかしそれもしない人はわからない、アルバイトでも出版社とかでして興味を覚えてそこに就職したという人もいる。アルバイトでもやはり流れ作業でない仕事をして興味をもてばそういう仕事あるのかと就職しようとするだろう。ただそういうアルバイトはみんながなれるわけではない、底辺の大学ではなれなかったということがある。家庭教師にだってやはり底辺大学では無理である。結局自分はそんな油臭い、下町の流れ作業の工場などで働いたのは一時期にすぎない、あとは風のように自由に生きて今日に至ったのである。だから自分には会社も工場もなにもない、ただ自然の自由の風吹いている。心の中でも吹いている。それでそれを俳句や短歌や詩にしているのだ。こういうふうに自由に生きられたということ自体奇跡的なことかもしれない、他の人は営々と働いて会社勤めだったからである。


500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた
http://www.takemori.co.jp/omoide.htm


この人は天草の農家の貧乏生活より食い物もいいし良かった書いてある。この人は仕事ができるので優遇されたのかもしれない、個々に事情が違ってくる。東京はその頃田舎とは全く違っていた。この人は東京だったが食べ物を違っていたし生活は金があれば豊かなものになっていた。この人は雇い主からの待遇が良かったのである。九州の田舎より東京の方がいい暮らしができると実感した。それなりに苦労したにしろ自分の会社をもつまでになった。集団就職でもこういう人もかなりいた。
経済が今とは違い右肩上がりの高度成長時代だから独立もできたのである。


裸電球の下でヤスリをかけ・・・・・


この時は裸電球であった。最近昔のテレビドラマを見ている。サスペンスなのだが昔と今の光景がどこが変わったのかというと映像を見ても30年前でも40年前でもさほど変わらない、変わったのは道具だった。裸電球のあるところで取り調べをしていた。車をみると旧式の型のものが多い。それでも普通に車走っているのでさほど今と変わらないように見える。40年前とか学生で車をもっていた人がいた。その人は恵まれていたのだ。まだまだ車は普及していない、ただその辺から急速に普及していった。携帯のないときは公衆電話を良く使っていた。刑事も連絡に公衆電話や家の電話を使っていた。コンピュ-タ-で仕事している人がいたけど20年前くらいでもコンピュ-タ-はあり仕事していた。ただそのコンピュ-タ-が大きな古いものであった。そこだけが今と明確に違っていたのだ。他の様子はテレビの画面からはわかりにくい、これを見ると人間の社会は変わったというとき道具が変わったというのが一番わかりやすい。なぜなら江戸時代には鉄道もない車もない、電話もないとかそうしたいろいろな道具がないことが一番違ったことなのでなである。人間そのものはそんなに変わらないということもある。


昭和は遠く成りにけり ・・・


64才の俳優が死んだ・・・60代でも俳優など結構死んでる、時代はすぐに変わる、昭和から平成、昭和も遠くなるということがまじかに迫っている。自分も70くらいで死ぬんじゃないかという不安がある。ただ癌ではなかったからその点は救いだ。普通に暮らせるから病気という感じもしない、酒とか煙草は30代でやめた。70くらいで死ぬのがいいとか思ったりするが作品を完成するにはいくら生きても完成しないだろう。いづれにしろ老後になるとそれぞれの人生も興味深いものとなる。なぜなら人間や人生を深くみる、理解できるからそうなる。そして人間の心は変わらないから人間はしょうこりもなく同じ犯罪、業をくりかえす、カルマをくりかえす、それはインド人が言ったことと同じである。職業が業としたとき原発事故だって一つの人間の業として開発があり事故につながっていたのである。人間の業(カルマ)はとめることができないからそうなるのだ。

posted by 老鶯 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

裸電球のキ-ワ-ド


裸電球のキ-ワ-ド


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焼け野が原の富山市清水町(音羽町)に掘立て小屋を建て、一家6人で雨露をしのぐ生活を強いられていたが、立山重工の捕虜収容所がアパートとして開放されたのを機にそこに移住。まぶしく光る裸電球の輝きが目に焼き付いてい


戦後も、闇市の裸電球に照らされた真っ赤なリンゴと、
「可愛リンゴに唇寄せて」並木路子さんの歌うリンゴの唄は、
荒廃した街の中の庶民に希望を与えてくれました。


裸電球の下に店を開く準備が始まり、時間とともに市場内は徐々に熱気をはらみ活気づき、威勢のいい売り声が飛び交います

土を固めた床とベニヤを貼った壁と天井から、裸電球がぶら下がっているだけの3坪の店舗。


昨秋改装した店内には、裸電球の下で職人らが道産小豆の生あんを練り、薄皮で包む古い写真

粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。


まもなく校舎は現在の陣屋跡に移ったが、古い木造校舎の広い教室に100ワットの裸電球がたった4個という貧弱なものであった


戦後、暗い裸電球の下で家族が寄り添って過した日々を思い出しています。


裸電球は隙間風に揺れ・・・


子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。

内部には裸電球や石油ランプを吊るし、買出し用のリュックなど当時の生活をしのぶ資料が展示されていました。
http://uenonorenkai.com/book201009-2.htm


戦後はバラックのような家を建てて暮らしていた人がいた。自分の父親が建てた風呂もそうだった。何にもないところからはじまった。だから裸電球が希望の灯のように見えたというのは考えられないけどそうだったのである。裸電球でも電気の灯であり明るい未来を示していたのである。


廃線の暗いトンネルの奥の記憶



真っ暗な廃線の中のトンネルの奥なのか

記憶をたどるということはそういうことか

そのトンネルの奥に記憶が残っている

北風が外で唸り吹いていた

平屋の古い家に風がふきつける

がらんとした広い家に裸電球だけが灯っている

そこに自分の昔の古い家があった

記憶をつなぎあわせるが定かではない

記憶もこうもはかないものなのか

父、母、姉・・・・二人はもう死んだ

日々記憶は遠ざかってゆく・・・

死んだ人とは記憶の中でしか会えない・・・

それも朧であり廃線の暗いトンネルの奥なのだ



記憶はまさに廃線である。その廃線の跡をたどるのが昔の記憶なのである。人間も終わって見れば最後に残ったのは記憶である。しかしその記憶も定かではない、真っ暗な冷たい廃線のトンネルの奥なのである。そのトンネルの奥には明るい光景は見えてこない、そこに廃線となった駅の跡がむなしくあるだけである。


キ-ワ-ドで読むのはインタ-ネットだからできる。本ではできない、これはインタ-ネットの中での新しい読書方法であり情報の使い方なのである。ここに引用したのはいちいちリンク先を入れなかったけど著作権違反にはならないだろう。新聞社のはなっていた。あまりにも著作権にこだわるとインタ-ネットは利用しにくいのである。こうしてキ-ワ-ドで引用して編集しているのは創造作業であるからそれも狭められると有効なインタ-ネットの活用はできなくなる。本にはできないことが今までの情報環境ではできないことができるときそれが革命となるからだ。

 
posted by 老鶯 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年04月09日

春は曙(春の陽が海より昇る) (東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)の意味


春は曙(春の陽が海より昇る)

(東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)の意味


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雀来てそちこち梅や田舎町


朝日こし駅に一人やクロッカス


梅一枝手折りて置きぬ手水鉢


みちのくの駅や帰らじ冬の鳥


冬の鳥二両の電車相馬まで


五六羽のなお帰らざる冬の鳥


故郷に勤めるものや蟻歩む


春風の吹き抜けゆけり通りかな


東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂


春の陽の海ゆ昇りぬ赫燿とかえり見すれば山に月かな

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芸術は何か最初誰でもむずかしく考えている。実際ありふれた単純なものが詩だった。自分でこの年になって俳句でも不思議に思う。「雀来てそちこち梅や田舎町」これのどこが俳句なのかとなる。誰か作ったような平凡な句ではないか?確かにそうなのだがこれも写生なのだけど雀はどこでもありふれた鳥でありいつも見かけた鳥であり庶民的な鳥なのである。だから何もない平凡な町にふさわしい。田舎の小さな町だと回りが田んぼだから梅もそちこち咲いている。町の中の畑にも咲いている。
梅はそちこちに多いのだ。その中に雀がくるのはありふれた光景である。しかしその当たり前の風景がなんともいえぬ春のおだやかな平和を現していたのである。梅の香りはどこでも無償でその香りあ味わうことができる。庶民なる雀でも町には梅はそちこちにあり気軽にその香りにみたされる。
貴族とか特別な人が高い花を買うのとは違う、梅はそちこちにあり無償でその香りにみたされる。
この辺では田畑が耕されない、種をまかないとか異常であるけど梅は咲いているし花は咲くし鳥も飛んでいる。鳥の餌がなくなるということもない、もし鳥すらいなくなったら荒寥としてこんなところに住んでいたくなるだろう。


今日は朝早く起きて海から昇る春の朝日を見た。真っ赤な色から眩い光りを放つ、陽炎(かぎろひ)が太陽がたってい。野にはたっていないが春の太陽が一段と生気に満ちて赤くまばゆい光を放っていた。この年になってもこういう太陽が見るのははじめてだなと思う。自然は結局老いない、いつも若く新鮮なのである。こんな春の太陽見たことがないというときいかに自然が生き物であり固定したものではない、日々変化している、刻々にも変化している美を現している。人間は決して同じ太陽を死ぬまでみていない、違った太陽なのである。海の方が津浪で開けて見えやすくなったこともあるがもともと家は少なかった。本当に「春は曙」ということを今になって実感した。文明社会は自然の美を遮蔽するものが多すぎる。田舎だとそういうものがないから自然の美が原初のままに現れる。その時が至福の時である。大都会では見えなくなっているのだ。人間の自然への美の感受性はかなり喪失している。「春は曙」を実感している人は少なくなっている。ただこの春の曙は山に囲まれた京都であったし柿本人麻呂の歌も奈良だから山である。万葉集や京都では盆地だから山の歌が中心である。海の歌は少ない。でもここから昇る春の陽は海から昇ってくる。


東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂 万葉集 1-48


まさにこれだった。陽炎(かぎろひ)は水平線にたっていなかったが真っ赤な太陽でありやがてかくやくと輝く太陽だった。それは本当に若々しい命がみなぎる太陽だった。この歌は若さと老いも象徴している。春の陽が昇るのはまさに若さである。一方かえみすれば月が傾く・・・これは老いを象徴している。世代交代などを象徴した歌だった。あまりにも対比がはっきりした太陽と月だった。
人間はみんな老いるからこういうことを巡り経験する。若いときはたちまち消失する。残っているのは月である。それ輝く月とも違う、朝の残月でよく見ないとわからない、返り見すればというとき・・意図して見ないと傾く月は意識できない、新しく輝く未来を象徴する朝の太陽は意識しなくても見えるのだ。傾く月は意識しないと見えないのである。自分も山に呵々ていた残月を気づかなかった。自らの意志でかえりみないと傾く月は見えない、それは歴史でもそうである。勝者ばかりが歴史ではない、敗者も歴史でありその敗者については良く意識しないと見えないのである。それなりに関心をもって調べないとみえてこない、芭蕉は歴史の敗者に同情をよせた。それが金色堂の俳句であり
近江の義仲寺無名庵に墓があるのもそうである。


春の陽の海ゆ昇りぬ赫燿とかえり見すれば山に月かな


ここでは海と山の風景なのである。奈良や京都は海から昇り山に沈む太陽であり月なのである。

この辺は原町から相馬まで二両の電車しか通らなくなった。それでも電車が通っているといないのとは違う。電車の方が乗っていても気持ちいいのだ。景色が広く見えるのだ。バスはあまり好きではない、駅がおり駅が一つの旅の休息点になるのも違っている。田舎駅だと花とか見たりする。待ち時間がありそれがいいのである。余り長くなるとこまるが都会では待ち時間すらないから花にも目をやる時間もないのである。今日はともかく凄い風が吹いてあたたかかった。遅い春一番だったのか?

街の中をふきぬけた。蟻もでてきた。今や故郷に勤める蟻なのか、今日は相馬の病院に行った。ここ五年間旅していない、春になったらそわそわしていたけど今や蟻のように毎日介護とかになっている。誰も代わりがないから一日も行けないのである。冬の鳥が今年はまだ帰らないがそろそろあたたかくなったから帰るだろう。

 
 

2012年04月10日

春の喜び(二つの茶碗-愛(いと)おしむ時間)

 

春の喜び(二つの茶碗-愛(いと)おしむ時間)


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年ふればひとしお深く春の色こころにしみて時のうつらふ


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春の日や茶碗を変えて抹茶飲む


小さなるハコベの花を愛でるかな


風にゆれ木蓮のつぼみふくらみぬ


鮮やかに孔雀蝶や春来る


日のまぶし蕗の薹あまた家の前


家の前一面埋めるイヌフグリ


小さなる花一輪の喜びに我が庭にそ咲きいずる春


川子なる坂をのぼればさえづりの四方にひびきぬ我が里の春


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庭にようやく花がさきはじめた。一輪黄色の菊であり小さい菊だった、なんともかわいらしい、何か赤子を見るようだった。もう一つの花はあまりにも小さい、ハコベの花とも違っていたみたい。野草の花である。茶室はなくなったけど庭はある。茶碗を変えて抹茶を飲む。一つは色合いから深草とした。もう一つは若草である。若草というときいかにも若さを示しているがその若さは輝くほどなのだが深い渋い色合いがない、人間でも必ずしも若いということがすべて美とはならない、女性でも外見はおとろえても色合い深い美をかもしだすこともありうる。深草になるのである。この湯飲み茶碗は大堀で買った。浪江の大堀の相馬焼の窯元はどうなってしまうのか、あの辺は放射線量が高いから帰れないのだろうか?相馬焼などもどうなってしまうのだろうか、今は土は他からとりよせているから技術は悪のだから場所にこだわる必要はない、だから移った先で相馬焼を作っていた人がいた。でも高瀬川の岸辺で場所がいい所だったから残念である。双葉と大熊は全員帰れるとか無理だろう。浪江はどうなるのか、ここは中途半端なのか、小高はほとんど帰れるだろう。そうすると南相馬市はなんとか維持できるとなる。それでも浪江が二万いたとすると影響は大きいのである。経済が縮小してしまうのである。


今年は一部に田畑を耕せないとかあるが春が来た。去年は春はなかった。放射能汚染でも同じ様に春が来ている。一軒の農家の前にふきのとう一杯でてイヌフグリがおおっている。道端で孔雀蝶を見つけた。家の前がこうして春の彩りがあるのは格別なのだ。前田や前畑が生活の基だったようにすぐ回りが自然であることが自然な生活だったとなる。そして昔はそうした自給自足の生活だから近くがもっている意味が今より何十倍も重かったのである。車もないし馬車とかであり近くでほとんどの用をたすほかなかった。燃料にしても薪であり炭だったら余計にそうなる。今の生活とはあまりにも違っていた。その時の生活感覚もあまりにも違っていた。そういうときは人間も近隣で助け合うということが極自然に行われていたしそうしなければ暮らせないということがあった。そもそも相馬藩で飢饉のとき三分の一が餓死したという悲惨なことがあった。田畑を耕さなかったら餓死するほかない、他からなど入ってこないのである。伊達藩からなども入ってこない、相馬藩内でしか助け合わないからだ。現実に飯館村で飢饉のようになったときは相馬藩内で援助しているが伊達藩は援助しないのである。そういう社会とも今はあまりにも違っている。全国から世界からも食糧は入ってくるから援助があるから食糧の心配がないのである。だから地元意識郷土愛なども昔とは違ったものとなる。どここに行っても金さえあれば暮らせるとかなるからだ。ただ故郷を離れて暮らしている人今どう思っているのか?故郷を失うことがどういうことなのか?そういうことが現実問題として問われている。
飯館村などは住環境としては良かったから相当になつかしんでいるしあそこに暮らせたことを思い出して帰りたいという人が思いをつのらせているだろう。つまり当たり前に住めたことが住めなくなったことが信じられないのである。


人間は老人になると見方ががらりと変わるし見えないものがいろいろと見えてくる。人生とはこんなものだったのかと別に学問しないものでもわかるのだ。そしてその時後悔ばかりがあることをしる。なぜあんな無駄をしていたのとか、馬鹿なことをしたのとか、罪を犯してしまったのとかいろいろ反省ばかりなのである。一番無駄しているのは時間の無駄だったのである。もはや何かをする時間が消失してしまった。愛を育むといってもその時間がない、信用を育むといってもその時間がない、例えば信用でも十年くらい一緒に働いたり勤めないと生まれない、だから家の中に入る人は本当に危険だった。そういう時間を共有していないから全く信用できなかったのである。それは近くの人でもそうだった。例えば愛するを愛(いと)おしむと日本語で言うとき、まさに老後はいとおしむ時間である。それは人でもモノでも自然でもそうである。茶碗でも物でもやはりいとおしむ、惜しむのである。
なぜなら惜しむ時間がなくなってくるからだ。この世の時間は何かをいとおしむ時間だったのである。その時間がすぐに消失してしまうのである。花でもいろいろありいとおしむ、でも花の名前を知らないような人も多い、それはいとおしまなかったからである。何か金儲けやいいろいろな欲望に追われ奔走して見すごしていたのである。もちろん花に全く興味もないいとおしまないのは異常な人生だった。そういう環境になかったのも原因だが索漠としている。そういう人と接するのも索漠となるいとおしむのは金だけだとかなっている人もわびしいとなる。その人が何をいとおしんできたのかが老後は大事になる。

そしてついのすみかは意外と大事かもしれない、なぜなら最後にいとおしむ場所としてあるからだ。そこが大都会のような場所だったら嫌だとなる。だから老後は田舎暮らしを志向する人が増えてくる。それも生物として人間として自然なことである。遂には「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を今日のみ見てや 雲隠りなむ・・・」あまりに早すぎた非業の死であったけど最後はみんなそうなる。この世からひきはなされていなくなるのだ。あなたが見るものは今日しかない・・・それがいかに衝撃的なことか?そういう日が実はみんな迫ってくるし現実なのである。


いづれにしろこの辺では蕗の薹はでたけどそれをとって食べることはできない、山菜とりはできない、山菜とりを楽しみにしていた人はいた。そういうことができるのが田舎であり田舎の生活の喜びだったのである。ただ別に梅は食べられなくても花は鑑賞できている。梅の実は他から入ってくるからそれを食べればいいとなるのが現在である。でも金をどうして稼ぐのかとかこれからここでは問題になる。


教訓


満たされない願望による苦痛は後悔の苦しみくらべれば小さいものだ。なぜなら前者はつねに開け放たれて見渡すことができない未来の前に立っており、後者は完結して取り返しのつかない過去に面しているからだ。(ショ-ペンハウエル)


何か欲望が満たされないということが不幸ではない、後悔の不幸の方が多いのである。若い人が無謀でただ様々な欲望を満たそうとしている、満たされないことが不幸だと思っている。むしろあとで後悔することの方が不幸をもたらすことになる。それは過去が変えられないからなのだ。あのうまいものを食べられなくて損だったとかはならないのだ。あえて食べられても食べなくても良かったということになる。若いときの過ちは若気のいたりだとか言うがそういうことが生々しく蘇ってくる。それが辛く不幸なものとなることがわからないのである。でも欲望の暴走は止めることができないということである。

2012年04月11日

南相馬市小高区は16日警戒区域解除-でも帰る状態ではない・・・ (分断される原発事故の被害地域・・・)


南相馬市小高区は16日警戒区域解除-でも帰る状態ではない・・・

(分断される原発事故の被害地域・・・)


 
警戒区域が16日解除される南相馬市は7日、立ち入りに関する注意などについて住民説明会を開いた。住民は県外からも参加し、会場に入り切れずに急きょ2回に分けて開催。期待と不満から激しい質問が相次ぎ、国の対応の遅れにいらだちの声が上がった。

97歳の母親を亡くした経験を話す。林さんの母親は事故後、老人ホームを転々と移されたあと、遠く離れた施設で昨年4月に亡くなった。だが東電は、林さんが受けたと主張する精神的損害600万円の支払いを拒否した。林さんが東電にその理由を尋ねると、単に請求は「補償の範囲外」とだけ説明した書簡が送付されてきたという。


 それから間もなくして、妻の輝子さんが心臓の手術を受けた。医者によると、避難のストレスで健康状態が悪化したことが原因だった。林さ
ん夫妻は避難所となっていた学校の体育館の床で1カ月、寝泊まりし、その後4カ月はホテルの1室を別の夫婦と共有していた。だが東電は、輝子さんが請求した精神的損害賠償1000万円について、既に医療費を支払ったとして拒否した。
http://blog.zaq.ne.jp/achikochitei/article/4579


宿泊禁止で、水道もトイレも使えない。家庭ゴミやがれきの処理、除染は国の責任で行うが、日程すら決まっていない。桜井勝延市長は「許可や時間制限なく帰宅できるようになるが、住める訳ではない。避難は続く」と説明した。
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20120408ddlk07040060000c2.html


準備区域解除は、除染やインフラ整備の終了、病院や学校の再開にめどがつくことが条件。「早く復旧しないと、誰も戻らなくなる」などの意見もあり、復旧は住民帰還に向け時間との闘いになる。



警戒区域内工場を閉鎖=大日本印刷と藤倉ゴム−再開決断企業も
 大日本印刷と藤倉ゴム工業は6日、福島県南相馬市小高区の「警戒区域」内にある工場を閉鎖する方針を固めた。工場周辺は16日、東京電力福島第1原発事故の影響で立ち入り禁止となっている同区域から解除されるが、両社は既に他県への生産移転を決めており、「コスト面から再開は難しい」と判断した。
 震災発生から1年。「被災地の復興に水を差しかねない」と閉鎖や撤退の判断を先送りしてきたが、「いつまでも放置できない」(藤倉ゴム)として、警戒区域の見直しを機に決断した。(2012/04/06-21:03)


昭和53年 浪江町に福島工場新設 エスエス製薬福島工場閉鎖(エスカップ生産)



警戒区域では富岡、双葉・大熊≫浪江≫南相馬市小高区≫南相馬市原町区≫南相馬市鹿島区


この順序で被害も住民意識の違いが現れた。富岡、双葉、大熊は原発の恩恵を一番受けていたが被害も一番大きかった。真意はともかく富岡町長の5億円の金庫が話題になったのもそのためである。
浪江で富岡、双葉・大熊が原発を積極的に誘致したためだと恨む人がでている。浪江の被害も大きかったからである。次に小高区もそれほど放射線量が高くないのに警戒区域になったので被害が大きかった。ただ浪江と小高の間に東北電力の原発が建てられることが決まっていたので南相馬市内で原町区や鹿島区で今になって避難する人たちがいる。自分は知らないし知らない人もいた。原発は秘密裏に行われ知らないという人が結構いる。政府も東電も知らせないのである。スピ-ディを最初に知らせたのはアメリカ政府であり日本政府でなかったことでもわかる。政府も東電も安全管理などしていなかった。事故はほぼ絶対に起こらないという安全神話の上に成り立っていたからである。だから危険な山側に浪江の人たちは避難した。双葉とか大熊は埼玉とかに避難したから放射能の危険を知って遠くに避難した。それなりに情報が入っていたのか、事前の準備があったのか、浪江とは違っていた。飯館も全く放射能のことは知らないから知らせられないから避難しなかった。一時1000マイクロシ-ベルトになった所があったというから驚く。危険は政府からも東電からも知らせられなかった。
一か月あとくらいに要約政府東電以外の専門家が入って危険を指摘して避難したのである。

小高区はやはり警戒区域になり強制的に避難させられたから精神的被害の補償を要求している。体育館などに避難した人はそうである。避難の過程で高齢者が弱って死んだ。その数は100人くらいいるとか表にでてこない。自分でも高齢の母親を介護しているから避難したら確実に死んだ。避難するほかないと言ったときふるえていたからである。避難する体力もなかった。南相馬市原町区は緊急時避難区に指定された。30キロ圏内でありここでも避難することが要求されたが妊婦とか子供をもっている人は避難したが高齢者や介護している人は残っていた。ここでも補償は要求している。南相馬市鹿島区は30キロ圏外であったが市役所の人が避難するように言ってバスで避難した人がそれなりにいた。ただ残った人も多かった。屋内待避だった。あとで補償金をもらった。相馬市は補償金はゼロだけと耕作禁止にもならないから普通に暮らしている。でも原発の被害はそれなりに受けている。


原町区は精神的補償の被害などを要求できるが鹿島区はできない。でも体育館などに避難した人はしているだろう。こうして原発事故では市町村で被害が違っていてそこで住民感情が違ったものとなってしまった。住民が感情的に分断されてしまったのである。特に南相馬市は四つくらいに分けられて分断させられた。居住困難地域もわずかだがある。これは双葉や大熊でも他でもも放射線量が多い地域と少ない地域がありそこで地域のまとまりがなくなり分断される。伊達市の小国地域などがそうである。隣は避難できて援助があっても自分の家はないと嘆いている人がいる。こういうふうに分断されるのは政府とか東電にとっては都合がいいのかもしれない、もちろん全部補償しきれないということもある。でも地域のまとまりがなく分断されれば自治体の力は弱まり政府や東電の言いなりになるということもある。

人間はともかく金のことになると目の色を変えるし妥協はしない、親族の遺産争いがそうであり金がからむと人はばらばらになる。そもそも原発自体が金のなる木であったことに問題を発していた。

金になるのなら危険もかえりみない、それは政府でも官僚でも自治体でもマスコミでも莫大な金が流れたからそうだった。人間の欲が深くからんでいたのである。そして第一産業でも農家でも漁業でも跡継ぎがいないとか建築土木関係も公共事業の減少で衰退していた。だから仕事かないと盛んに言っていた。小高の大工さんも原発ができれば景気よくなるとか言っていた。そして大堀の相馬焼の人も東京に避難したが斜陽産業だからつづけられるかどうかわからないと告白していた。相馬焼も焼き物も斜陽産業なのかと思った。 小高区の人で南相馬市立病院でしりあった人はエスエス製薬のエスカップの生産にたづさわっていた。昭和53年 浪江町に福島工場新設とあり浪江町の工場があって通っていた。こういう工場の閉鎖は大きな痛手となる。これは斜陽産業ではないだろう。


不思議なのは回りが田んぼだと田舎は第一次産業が中心だと感覚的に思ってしまうけど今は違う。工場とか会社かなくなったら働く場所がなくなり住めなくなる。浪江の人で二本松に工場を移して通っていた人がいた。会社とか工場がやはり重要な役割を果たしている。昔だったら第一次産業が中心の世界だったら田畑を耕さないから死に直結していた。そういう危機感が全くないのも不思議である。食糧は金さえあればどこからでも全国から世界中から入ってくる。だから米を作らなくても別に金さえあればいいとなる。でも田もない畑も耕されないとなると荒寥としてくるのが田舎である。原発事故は放射能汚染であり一番第一次産業に影響した。山林が汚染されたし水も汚染されたりとか生活の基となる所が一番汚染されたのである。都会の場合だったらまた違っていた。食糧をもともと生産していないのだから他から買えばいいとなっているからだ。でも放射能汚染はアスファルトの道でもコンクリ-トのビルでも汚染されると削るほか放射性物質をとる方法がないからこれまた除染ができないとなる。
樋の下のコンクリ-トの所は高くいつまでも放射線量が高いのである。一方森とかの放射性物質は泥と共に川に流れたりしてへってゆく、コンクリ-トの中にしみこんだものはへらないのである。


いづれにしろ住民が補償金のことで感情的に分断されていることは政府や東電にとっては都合がいいから放射能汚染地帯の自治体は何か手を打つ必要があるのかもしれない、それより本当は広い範囲で原発は反対しなければとても政府とか東電とかの財力に負けてしまうものだった。原発に関してそういう認識がなかった。原発はここから遠いと思い安心していた。中通りの郡山でも二本松でも福島市でもそうだろ。自治体が分断されている所には原発はもともと建てやすいということがあったのだ。福島県全体で反対していれば原発は建たなかったのである。前も書いたけど非常に狭い範囲で決められていた。他の人は門外に置かれた。被害があってはじめて原発が遠くも危険だと認識したのである。今になれば中通りの人も被害にあったのだから郡山と福島市の人たちが反対したらとても原発は建てられなかった。一地域の住民エゴで原発が建てられたから今になって問題になった。そして今度は補償金の問題で地域が分断されている。金で分断されている。金がからむと人の心は分断される。これまた金であり金が諸悪の根源だともなる。補償金で目がくらんでいる人もいる。一億円補償してもらうとか現実味帯びてくるとそれで目がくらみ金の勘定ばかりして原発事故のことなど忘れる人もでてくるかもしれない、問題の本質は忘れ金の問題だけになってしまうこともありうる。金がなくても故郷で先祖代々の地で仲間と暮らすのが一番いいのだとかいう心の問題も喪失してしまう。一億円もらって移った方がいいとなる。そしてそれは政府とか東電には都合がよく核の廃棄物の処理場にされてしまう。人間は金がからむともう眼がくらみ本質が心の問題は無視されるのである。

posted by 老鶯 at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた 怪しい地名の研究-鳥野博文氏


相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた

怪しい地名の研究-鳥野博文氏
 http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm



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津浪の浸水地域(相馬市日下石-磯部)

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「西(にし)」と「東(ひがし)」


「太陽の昇るのが東で、沈むのが西」と教わり、同じ事を子供たちに教える。このフレーズは何回発せられたであろうか。日本人に限らず世界の多くの人々が方位の認識に「太陽」利用している。
ところで、正反対の方位である「にし」と「ひがし」はともに末尾は「し」である。

東日本に分布が厚い「橋」の付く地名の語源解釈のなかで、「は」は「端(は)」で、「し」は単なる部分ではなく重要な部分という意味ではないかと考えた。「橋」は「端の重要な部分」ではないかと考察した。

東は太陽(ひ)の昇る方向であり、太陽にとって重要な部分すなわち「日ケ子(し)」ではないか、とだれでも考えることだと思う。



相馬郷土史研究をしているので地名も研究しています、もともと小生は学問に興味をもったのは旅をして地名に興味をもったからです。「怪しい地名の研究」はプロ級だと思い感心して読みました。
ただこの頃原発事故のあった所に住んでいるので他のことに注意が向きません
怪しい地名の研究も読んでいませんでしたし深く検討もしていませんでした。 今回ちょっと読み直して発見がありました。相馬市では津浪がありました。津浪には本当に驚きました。津浪によって今までわからないことが明かにされたことが多々ありました。その中で縄文海進時代の海の状態が明らかになった。再現されたことには驚きました。縄文海進時代が目の前に再現されたのです。


この辺では「日下石(にっけし)」という地名はアイヌ語で解明していました。日本語では解明しにくいからそうなったのでしょう。それで「日ケ子(し)」と書いてあることに驚きました。まさにここの日下石(にっけし)そのものです。その日下石(にっけしのすぐ近くまで津浪は来ていました。
あの辺に磯部から死体が流れ着きました。磯部の被害は大きく、相馬市磯部村 1,813人 497世帯
このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。家は一軒も残らずもともと砂州だった所が砂州に戻ったのは驚きです。


最近出版された「この地名が危ない」楠原祐介は興味深いものでした。小名浜(いわき)女場(おなば-小高)とか女川(おながわ)は男波(おなみ)であり津浪のことだという指摘など津浪関係のことが書いてあった。どうも怪しい地名の研究でも日本語の一字から解明しているけどこれは縄文語にも通じる古いものだった。アイヌ語ではない縄文時代から使われていた言葉だった。ヨコがヨから解明していたりネという言葉やワという五十音の一字に注意していたのは自分もそれを解明しようとしたができなかった。南相馬市小高の縄文時代のことを書きましたがやはり縄文人が住んだ所の遺跡はもともと海だった所をさけて住んでいた。それより海だから住めなかったのです。そこが本当に津浪で海になったから驚きです。海側の地名は縄文海進時代からものでそれだけ古いことがわかった。これは津浪でわかったことです。


最近原発事故とかのことで忙しいので「怪しい地名の研究」などでも読んでいません。最初からこれほど研究されていることに驚きました。そこまでインタ-ネットでは出さないから学者並だと思っていました。大和言葉の五十音の一字一字には深い意味がある。そこが怪しい地名研究の発見ではないでしょうか?そこから新しい地名の発見があるでしょう。それが「日下石(にっけし)」が「日ケ子(し)」という発見だったのです。


「にし」とは「土、地面」の上のどこかにある「日」の没する重要な部分ということになる。日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


「日ケ子」は日下石(にっけし)でありニに日(陽)をあてたのは正解です。太陽のことです。津浪でわかったようにまさに太陽が昇る所だったのです。地名には重要なことが隠されているようです。

誤解があった-日ケ子(ひけし)?であり日下石(にっけし)である。

陸の方向「土(に)子(し)」だとする日下石(にっけし)は西の方角になる。日ケ子(ひけし)のことですか?東はひんがしであり日が昇る岸でしょう。不思議なのは日下石(にっけし)まで海になったとき太陽は沈むのを見ました。それは日下石(にっけし)西の方に沈んで行ったのです。つまり陸地の方に向かって沈んでゆきました。その前は海でした。ということは陸からみて陽が昇る岸がひんがしであり西は海から陸になる地帯である。ともかく海から見た感覚であり陸地から太陽を見ていないとなる。日本人は海洋民族であり海から望むということは船で陸地を見ている人の感覚である。
日下石(にっけし)が西の方向という感覚はわかりにくい、海に接しいるのだから西となると海側から見て陸地だから西だとなる。日はひではなくニに当てた字である。

地名は科学的に証明するのがむずかしい。統計的に証明しようとしたのは科学的に証明しようとしたからその努力には驚きました。

最近、原発事故のことで忙しいのでいろいろ読めません、本を献呈されても深く読めません。

インタ-ネット上で暇があったら相馬郷土史研究の一つとしてまた発見があったら書いてみます。
どうもコメントやら本の献呈やらの申し出ありがとうございます、アマゾンでも買えるようですから買うかもしれません。いろいろ本も読むのが今あり目を通せません


ところで津浪に関しての地名についてインタ-ネット上で書いているでしょうか?
書いていたらお知らせください、今津浪のことを継続して研究していますのでよろしくお願いします



あとがき

 
海から渡ってきて陸の方に太陽が沈む、陸を意識して西のニが土だということはわかる。つまり陸からみて陸に沈む太陽ではなく海から見て陸に沈む方向が西だった。これが大陸だったら陸から昇り陸から沈むから日本人の感覚にはならない。日本人は海を意識した民族というのは海に囲まれているから当然である。だから津浪と海岸線の地名は深い関係があるかもしれないということはありえますねこの辺が今回の津浪で解明されれば興味深いし警告にもなるということです
posted by 老鶯 at 21:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年04月12日

相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

 
相馬市の日下石(にっけし)の地名の謎(2)

東(ひがし)はひんがしは陽(日)向かう岸だろう。岸ということは海の岸になる。東を意識したのは海を望んだ時だった。でも陽が昇るのは海からとは限らない、山からも陸地からも昇る。日本海などは山から昇り陽は海に沈むのだ。海に陽が沈む所もある。日本語では大和言葉では東は海から昇るものと意識した。一方西はニに日をあてているごとくやはり陽でありニシのシは土とか陸だとするとニシは陸地の方であり陸地に沈む方を西と意識した。日本でも世界でもそういう方向感覚がユニバ-サルではない。それは一面一地域としてのロ-カルな方向感覚なのである。

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日(ひ)にちを数えるという言葉を分解するとヒ(陽)ニ(にし)ち(地)である。ヒはわかりやすいけど
ニチはわかりにくい、ニチはニも陽であり地と一体化している。つまり西は地と陸に一体化しているから西は陸地の方だという感覚なのである。日にちは日西(ヒニシ)であり日が昇り沈むことを数えることである。聖(ひじり)はまさにその日を数える人だったとなる。日を支配するものが王となるというのはマヤ文明を見ればわかる。エジプトなども天体学が発達していたことでもわかる。
天の岩戸の神話も日食に由来していたとか言われるから日と関係していたのである。もし日食を予言できたらその日を予言できたら絶大な権力をもちえるのである。それは科学の世界であり今日までつづいている。


ともかく東はひんがしは海から昇る日の方向であり、西は地や陸や山の方に沈む方向である。とするととは日下石(にっけし)とはいかなる方向なのか?今回の津浪でわかったように日下石(にっけし)近くまで津浪が押し寄せていたから日下石(にっけし)の前は海が入り込んでいたのである。そうなるとその海から日が昇るのだから日下石(にっけし)というのがわかりにくくなる。西の方角だとすると
海から見て陸地の方角だったとなる。海の岸の陸地でも海から見れば陸地であり西の方角になるのだ。実際に津浪で日下石(にっけし)近くまで海が湾のように入りこんだとき陽が陸地の方に日下石(にっけし)の方に沈むのを見たのである。湖のようになったので見えたときはなんともいえぬ驚きだった。それは一回しか見られない美しい光景だった。春の陽が広々とした湖と化した所に輝き陸地の方に沈んでいったのである。


方向地名はどこが基点となるかが問題になる。基点とする場所によって違ってくるのだ。海を基点とするということは常に海で暮らすような民の方向感覚だとなる。海から見て陸地の方に沈む方角が西となる。しかし日本海では海からみて山側が陽の昇る方角であり陽が沈む方角が海なのだから反対になる。世界的に日が昇る方向が東であり沈む方向は西である。どこから昇るかは問題にしない。日本は海に囲まれていたから海の意識が強いといかことで違っていた。


日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


沖縄各地の「西原」は「城(ぐすく)跡」などの「北側の原」という意味とみられる、と述べている。なお「西原」は「にしはら」「にしばる」とよむとも言っている。
琉球音声データベースで確認しても「にし」とは祖先がやって来た(きた)方角、「北」のことである。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm


西と北は方角として混同しやすいのである。西風と北風はわかりにくい、風はいつも一定ではない、西風が北風に変わりやすいし北風は西風に変わりやすいのである。春になると東北の海側では北風から東風になる。これは春を告げる風だし全国的にそうである。だから沖縄で西が北と意識するのはわかるし九州の陸地を意識したというとき沖縄は西から北から移住した人々である。それは言葉などからも証明されている。沖縄の言葉は古い大和言葉が残っているからだ。青森などの辺境に古い大和言葉が残っているのと同じである。地名研究では方角地名が基本にある。南相馬市も城のあった相馬市の南だから合併してそうなったことでもわかる。

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津浪で大きな湖と化した磯部から日下石(にっけし)方面

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posted by 老鶯 at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年04月13日

春の朝(南相馬市の国見山に行く)


春の朝(南相馬市の国見山に行く)

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老いざらむ脳活性化春の雷

定まらぬ余震つづきて春の雷


高倉の木橋渡りて梅におふ


石神に蛙の鳴くも耕さじ


石神の小学校や蕗の薹


朝日さし鶯ひびく国見山


朝日さし猫柳芽ぶく国見山


木蓮に山風そよぎ朝日さし椿群れ咲く石神の里


清流の流れのひびき朝日さし磐にすみれや山に入るかな


山鳩の鳴きあう声のこもりつつ森に騒げる風の音かな


国見山海より東風(こち)の吹きそよぎさえづり高くひびきけるかな

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昨夜は春雷で稲光りが走った。そして今度は余震だった。余震は今夜もあった。まず落ち着かないのがこの辺である。人は老いたくないし、頭を使うと脳の血流が良くなり体全体に影響するからいいという。認知症はこまめに体を動かさなかったり頭を使わない人がなりやすいのかもしれない、自分の姉も役所をやめてから何もしない、怠惰になってしまったことが原因していたことは言える。頭を使わないと血流が悪くなりそれが体にも影響するのだ。

一体いつになったら安定してくるのだろうか?時々この辺は特別呪われた地域になったのかと思い不安になる。原発事故の影響も大きすぎたのである。
原町区のイオンから意外と石神は近かった。この辺で放射線を計ったから1・5くらいあったから高い方だったのだろう。それでなかなか石神小学校ははじまらなかったのだ。石神には子育て地蔵とかもあった。今回注目したのは写真の木の橋だった。木の橋は今やめずらしい。梅も咲いてにおっていた。

そこから流れの上流をたどり国見山に行く、山鳩が鳴きあっていた。国見山は通行止めになっていたが自転車だと上れる。この電動自転車は坂には強い、頂上まで上った。国見山からちょうど南相馬市の全容が視界に入る。鹿島区-中心の原町区-小高区が見えるからまさに国見山だったのである。

ここに海から東風(コチ)が吹いてくるがこの東風が災いした。飯館村はこの東風のために放射性物質が大量に運ばれた不運があった。

放射能の被害と言っても目に見えてはわからない、ただ耕作されないということが一番目に見えての被害なのである。相馬市だと普通に耕作しているから普通と外見は変わりない、田舎で田畑を耕作しなかったら田舎になるのかとなる。飢饉にはならないにしろそんなことを経験もしていないだろう。田畑があって田舎なのである。江戸時代だったらもう住めなくなる。

俳句とか短歌とか芸術などができるのもそもそも平和がなければできない、確かに一年前よりは平和な春が来ているにしても正常ではない、逆に俳句でも短歌でも芸術が楽しめない地域は異常なのである。普通の暮らしがない平和がないとなる。だからこういうところに住みたくなくなる人がでてくる。若い人は他に移る。すると高齢者だけが残されることになる。残る人は家と土地をもっている人である。田舎の家は広々としているし簡単に移れないのである。


国見山はまさに南相馬市を見晴らせる山である。南相馬市を訪ねたら必ずよる必要がある場所である。この辺は別に原発事故などがなけれ
ば悪い場所ではなかった。住みやすい場所だったのである。
住めないことはないにしても何か落ち着かない住みにくい場所になったのは残念である。

2012年04月14日

南相馬市石神から国見山の放射線量を計る


南相馬市石神から国見山の放射線量を計る

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南相馬市のイオンから石神-高倉-国見山とアマゾンで買った放射線計測器で計った。
石神第二小学校の見えるところでは道路は0・9であり道の脇の土の所は1・1とかであり草の所は
1・3とかでありそんなに高くない、それでも石神小学校がはじまったのは最近であり校庭などを
除染してはじまった。あそこに子育地蔵があったのも注目した。子育てもできない地域になったことがあの地蔵を見て里の人々はどう感じたのか?

子育てできなかったらその地域は存続し得ないのではないか?
その時子育地蔵に祈るほかない、放射能汚染に負けないように子育てできますようにとか祈るほかないまでなっていた。そもそも一地域でも村がなくなるというこなど考えられない、飢饉のときは相馬藩でそういう危機にひんした。

今回はまた事情が違っているから対策も違ってくる。人はもう子育てできないとよそに移ってしまう。残されるのは高齢者だけになったらその地域を支えるものもなく遂には消滅してしまう。
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それなら今度は中国人でも移民をつのり住まわせて村を維持するほかないとなるかもしれない、
中国人なら多少の放射能を気にしないかもしれないと思うからである。
それなりに援助してもてなせば来る人がいるかもしれないとまで考える。

石神から高倉に行くと道路で2・1じ道端の落葉では3・5とか高くなっている。山側に近づくにつれ高くなる。流れを上って山に入ると3・3-道端の落葉で8・6となり高くなる。

一番高かったのは頂上付近であり道路で7あり落葉で9あって最高だった。高いところはやはり高くなっている。山では山菜とりとか野草をとることはできない。でも外見は何も変わりない、山鳩が鳴き鶯が鳴き他の鳥もさえづっていた。放射能は気にしなければ変化がわからない、草木は芽ぶいていた。鳥も住んでいるし普通と変わらないのである。

 


居住制限区域


高倉の字助常、字吹屋峠、字七曲、字森及び字枯木森の区域
片倉の字行津の区域
馬場の字五台山、字横川及び字薬師岳の区域

高倉は居住制限区域になっている。横川ダムの方も高い同じである。
http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/20120330_02d.pdf



家の近くでは意外と瓦屋根を直してもらったが瓦自体を計ったら0・6とか道路より高いにしろ思った以上低かった。というのは瓦から放射性物質が水で流れ樋にたまり樋から流れ出た。だから樋の下のコンクリ-トの出口は高く、その下の泥化した土も高い,でも泥化した土の方がコンクリ-トの出口より低くなっているのだ。泥でもセシウムが泥となり流れだすからそうなる。それで阿武隈川には毎日何億ベクレルのセシウムが泥と共に流れだししているのだ。その量はものすごいものである。その分森とかの放射性物質は減っているのだ。コンクリ-トのようなものに付着したものは削らない限り消えないのである。
posted by 老鶯 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年04月15日

統計で見る浜通り-相双地域 (原発、火力発電地帯の恩恵の大きさ)

 

統計で見る浜通り-相双地域

(原発、火力発電地帯の恩恵の大きさ)


福島県市町村民経済計算の概要
http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=17021

統計とかグラフで見るとやはり相双地域は原発や火力発電所とか電力供給地帯として潤っていた。産業は電力だった。さらに今居住困難地域となった原発に一番近い大熊とか双葉は収入が県内で一番良かった。普通南相馬市から大熊まで働きに行くということはないけど原発関係でない人も働きに出ていた。働き口もあった。原発関係でも東電の人も南相馬市にもいた。それから火力発電所でも南相馬市にも相馬市にもあり千人も雇っていた。この経済的影響は大きいのである。原発は燃料費が安いからコスト的に電力会社では推進したいことがわかる。石油だと高すぎるのだ。原発は電力会社でも地元でも金のなる木だったのである。そして一時産業農水山林業とかなるとグラフで見るといかに少ないか一目瞭然である。一割にも満たない、ところが感覚的には土地をしめているのは田んぼであり山林である。飯館村でも7割が山林であり除染がむずかしくなっている。ここに田舎に住んでいるものの現代の錯覚がある。経済的には農林とか漁業の経済でしめる割合は極端に少ないのが現代なのである。ただ感覚的に農林漁業が主体のように見えてしまうのが田舎なのである。農協でも以前として票田として力をもっている。でも実質は農林漁業ではなく収入は別になっている。会社とか工場勤めの収入であり専業農家は少ない、兼業農家が多くそれでも田をもっていれば国から補償される。

そういう矛盾が原発事故問題にも現れていた。戦前までは八割は一次産業であった。ほとんどが東北では特に農民で貧しかった。そこで問題になっていたのは土地をもたない小作であり地主に対する恨みが深かった。ところが経済の一割くらいしか経済でしめる割合がなくなったとき農業の実体は変わってしまった。田舎に住んでいると田舎を支えているのは田畑をもっている今でも農民だと感覚的に思ってしまうのである。でも現実は変わっている、第一次産業のしめる比率は一割に満たないのである。

だから今回の津浪や原発事故で一番困ったことは交通の問題だった。車がガソリンなどが入らないことで物資が入らないことだった。南相馬市では特に放射能を恐れて物流が途絶えたのである。食べるだけだったら米だけでも一二週間ならまにあう。ところがその前に物流が途絶えると不足するものが現代の生活では多すぎるのだ。医療では薬とかが不足して外から入らず困ったことでもわかる。

医療関係も第一に困ったのである。困る優先順位は必ずしも食糧ではない、水道とか電気や道路、交通のインフラだった。水道が壊れたところもあり電気も通らなくなったら米があっても米もたけないのである。かえってこういう時は自給自足している生活は強い、現実に三陸の方では牡鹿半島などでも水源に裏山の清水とか利用して薪を燃やして米をたいていたのである。水道も電気も途絶えればそうせざるをえない。田から都会などは災害には弱いのである。電気も水道も途絶えるとお手上げになってしまうからである。現代は外からいくらでも物資が入ってくる時代である。でも交通が途絶えたら何も入ってこないからかえって災害には弱いとなる。なるべく近くのあるもので生活していれば災害には強いのである。


いづれにしろいかに浜通りが電力供給地として経済的に大きな割合をしめていたかグラフでわかる。だから原発事故の影響は計り知れなく大きい、もちろん浪江町とか双葉とか大熊も町として消滅すれば全体的に経済は縮小してしまう。田舎を支えているのは今は第一次産業ではない、だからこそ漁業権者は原発から多額の補償金をもらっていた。福島県では漁業がなくなってもそれほど影響がない、原発とか火力がなくなることの方の影響が大きすぎたのである。農業もそれほどの影響がないというのも感覚的にわかりにくくても実質の経済ではそうなっていた。でも農業などは第一次産業は経済的統計的にだけ見れるものかどうかはわからない、田舎に住んでいれば感覚的にそうはなっていないからだ。田んぼに人がいないで耕していないということは田舎ではない、すでに都会と同じになってしまう感覚なのである。でも実質的には第一次産業が一割にも満たないということは経済的影響は少ないとかなる。おそらく農業漁業がなくなっても他の産業があれば市町村が経済的には成り立つ、それがどんな市町村になっているのか今は想像しにくいし未来を描けないのが実情である。

経済規模が縮小して若い人がさり高齢者だけがふえて限界集落のように高齢者の街になってしまう。限界集落化してゆく恐怖がある。

南相馬市では原町区で震災前は4万7千であり震災後は3万2千である。
鹿島区で震災前は1万1600であり震災後は一万三千くらいである。
鹿島区であれだけ仮設住宅建ったのに人口は2000くらいしかふえていないのは意外である。
少なくとも5千人くらい増えた感じがする。
小高の人は一万二千人いても全国に散ったのである。他の人も親戚などを頼り全国に散った。
南相馬市内に移動している人はどれくらいなのか、意外と南相馬市より外に出ている人も多い。
鹿島区に小高区の人が多いと思ったが意外と少ないから全国に散らばったのである。
南相馬市のホ-ムペ-ジでは5千人は南相馬市以外に転出した。

南相馬市立病院の看護師が130人にいたのが108人まで回復したのは心強い。一時半分以下になり崩壊状態だった。病床数は半分である。医者の数はどこも3人くらいへっているからこの回復が問題である。
看護師の数をみると確かに前よりは意外と増えているから何か安心する。でも医者の数は以前として少ない、医療関係は高齢化社会では重要なインフラだからこれが弱いところに高齢者も住みたくないとなる。


南相馬市の統計資料
http://www.city.minamisoma.lg.jp/shinsai2/sinaijokyo/hinan-jokyo.jsp

posted by 老鶯 at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年04月16日

美しいギリシャの遺跡(詩)

 
美しいギリシャの遺跡

神は人の営みを隠した・・・ヘシオドス

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ギリシャの遺跡は埋もれている
山々の中にありし日のままに
威厳に満ちて埋もれている
雪におおわれた奥深い峰々
岩山から清水が流れひびき落ちてくる
オリンポスの山々は今も聖域である
雲間からさす光が神々しい
ギリシャの遺跡は春の花々の中に埋もれている
地中海からの風がそよぎわたり
ただ語るのは遠い昔のこと
ヨットが帆をふくらませ島をめぐる
遠大なオデッセの冒険が蘇る
自然と調和した神殿
その神殿も自然に還った
ここに神話はまだ息づいて
古代の人はそこに静かに眠っている
その遺跡は自然の中に埋もれた
遺跡は自然の一風景として溶け込む
ああ 現代の文明は自然を破壊して
その巨怪な姿を露にして埋もれることはない
見よ、無残なる原発のその破壊された跡
凄まじい戦争の殺戮の跡
機械に蹂躙されて一かけらの美もない
醜さが剥き出しになってさらされている
ああ ギリシャの神殿の遺跡は美しく埋もれている
高い塔もなく堅固な城の塀もなく
花々の中に埋もれている
静かに遠い過去を回想しつつ埋もれている
蝶は花々を求めて変わらず飛んでくる
明るい春の陽ざしのなかを嬉々として
遺跡も廃墟も自然と調和すれば美しい
人の労働は労苦は何なのか
自然を汚して破壊して何を建てたのか
工場の煤煙よ、放射能よ、戦禍の凄まじい跡よ
人の成したことは災いの都市を作ったこと
残されたのは巨大な迷路、逃れることのできない迷宮
ああ ソドム、ゴモラのように滅ぼされる市よ
人は自然の中に埋もれて美しい
遺跡となりて廃墟となりても美しい
人は何をせずとも神は花環をめぐらせ
村を彩り美はその中に映える
そして遺跡は埋もれて自然に還る
ギリシャの遺跡よ、美しく眠るがよい
人よ、その眠りを覚ますな
ひそかに訪れ聖地を汚すなかれ
人よ、何も残さなくてもいい
美しい自然を残して地上から消えろ
あどけなき花々は咲き満ちて
ひらひらと蝶は今日も舞っている