2012年04月01日

春の星(かなたは飯館村)


春の星(かなたは飯館村)


春の星一つ二つや三つかな


春の星山のかなたは飯館村


たおやかに補佐する女(ヒト)や春の星


咲き初めし梅に我がより離れても香り身につくしばしのまかな


春なれど飯館村の空家には灯もともらずにいつ人帰らむ

今日は風が寒かった。明かに北風ではない、東風だった。今年は東風(こち)が吹くのが遅かった。去年は早かったから3・11の悲劇になった。飯館村の被害があった。昨日辺りとかは暑いくらいだったがこのくらい爽やかな気持ちいい春の感覚である。春の星もきれいに輝いている。それにしてもここはちょうど直線的に山の向こうが飯館村になるから飯館村は地形的に結びついている。真野川でも通じている。その飯館村に人は住んでいないとなるとどうなるのか?そんなこと想像もしなかった。
それでとまどうのである。ただ飯館村には出入りができるのがいい、警戒区域はできないから体の一部をもぎとられた感じになる。春になったから飯館村に行きたくなる。でも相当に荒れてしまっているだろう。

春なれど飯館村の空家には灯もともらずにいつ人帰らむ


人がいない村というのも不思議である。実際は家の中は天井から水がもれて氷柱ができていたとか家が荒れているらしい。家は人が住まなくなると荒れる。まだその空家は廃屋とは違う、人がまだ帰ろうとしている家である。でもすでに帰れないと断念している人たちもかなりいるだろう。

飯館村は一体どうなるのか?放射能の廃棄物処理場に一部なりそのあとに人が住むのか、それとも自然に帰ってしまのうか?ただ別に木が枯れるとかはない、花も咲くだろう。放射能の被害は目に見えないしあと10年、20年後に症状が現れるとか言われるからそんなこと気にしてどうなるのだろうと開き直る人もでてくる。特に先が短い老人はそうである。とにかく村一つがすべてなくなるということ6000人も住んでいた村がなくなってしまうことが現実に思えないのである。限界集落だと何百人とかの単位だろう。ここは6000人だから違っている。

女性でも男性的な女もいるし太った女性もいるしやせた女性もいる。やせた女性はやはりたおやかだとなる。ちょっと手伝ってもらった女はやせているからたおやかだとなる。

梅も何輪か開いた。それは変わりない、しかしこの辺は余りにも変わりすぎた。都会に住んでいる人は自然のことをあまり考えない、ビルと車と人ごみに囲まれて暮らしている。田舎では自然に囲まれつつまれ暮らしている。飯館村などはまさに森が70パ-セントというように森につつまれた静かな村だった。一軒一軒が木立に囲まれて広々として離れ住んでいた。だからいつも気持ちいい場所だったのである。それが人が住めなくなった。飯館村は元の自然に帰ってしまうのだろうか?

そこが放射能を管理する自然公園のようになってしまうのか、それとも放射能は何年かで半減してと元の状態にもどりまた人々がもどってくるのか?ともかくここと地理的一体としてあったから残念である。思想というのもその人の環境から地理から形成される。東京のような場所で形成される思想は歪(えびつ)になる。自然がないのだから言葉も自然の背景がないのだから活きてこないのである。
だから画家であれ詩人であれ音楽家さえ芸術家となれば都会から生まれないだろう。芸術そのものが都会から生まれにくい、その土壌がないからだ。ただ東京にはあれだけ人間が住んでいるのだから個性的な人はいる。ただ文化や芸術を生む環境にはない、ただ今やここも芸術とか文化を生む環境が一部喪失した。そもそも農家が田畑を耕さないとかなったらここに田舎である意味があるのかとなる。

 

2012年04月02日

写真でみる最近の南相馬市 (写真が語る心象風景)

写真でみる最近の南相馬市

(写真が語る心象風景)

百聞は一見にしかずという。言葉より写真が語る時代でもある。


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ここも仮設なのか?人が住んでいるのか、ガスボンベなど設置しているから住んでいるのか?
それともこういうい仮設を売り出しているのか、人が住んでいる気配はない、仮設の需要が多いから作ったのか、一軒一軒の仮設である。南相馬市で1万5千戸の仮設は多いよな


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ダイナムというパチンコ屋ではいつも車が一杯である。パチンコ屋でがんばってどうなるのだろう、パチンコ屋に通って復興になるのか?しかしこれもこの辺の現実である。

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ス-パひたちはとまったままである。一体これはいつ走り出すのだろう。これは時がとまったままなのだ。つくづく交通は遠くとつながってこそ交通の役割を果たしていた。常磐高速道が南相馬市と
相馬市の間を開通しても意味がない、何の効果もないのだ。鉄道も常磐線全通が開通しないと意味がない。効果がないのだ。


ス-パひたちは3・11からとまったまま

身動きしない展示物のようになっている

春風を受けて光の中を走るのはいつの日なのか

自分もここ五年旅行にも行けない

また旅に出る日が待ち遠しい

これもまるで自分の姿だ

あの時以来時がこの辺では止まっている

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イオンの近くの新興住宅地で二軒が空家だった。一軒は車が置いてあるが人はいない、障子はやぶれてぼろぼろになっていた。一見人がいるように見えるがいない、ただ車が置いてあるから帰ってくるのかもはしれない、一時的に避難したのかもしれない、そういう家もあった。


この家は明かに人がいなくなった。一目見てわかる。ここは新興住宅地だからこんな空家になるはずがない、ここはもう人は帰ってこない、ただまだ売りには出されていないのだろう。
原町区の新興住宅地だと小高や鹿島より値がかなり高かった。今は原町区の地価や家は安くなっている。鹿島区は空家が浪江の人などに利用されている。そういう浪江の人に二人もあったからだ。
浪江の人はなかなか住めないとなると移住する人が増えてくるのかもしれない、子供をもっている若い人は遠くに避難する。新興住宅地だから若い人が住んでいたので避難したのか?
見切りをつけて去る人もでてくる。

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五本松のこの枯れた松もとうとう死んでゆく、この松も自分を象徴していた、介護している身内が
もうこんな状態である。これを見るといつも思う、これも自分の心象風景だった。

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トップの判断の責任の重さ (東電と東北電力の相違)


トップの判断の責任の重さ

(東電と東北電力の相違)

東電の清水社長はコストカッタ-としてのしあがり社長になったという。だから効率的ではない金のかかる安全対策はしなかった。津浪でも一旦土台を高くして作っていたのにわざわざ不便で効率的でないと土を削り低くして原発を建てた。これが致命的だったのである。一方東北電力は本当は今の高さでは高すぎるという批判があった。でもあえて副社長かここは津浪が来る、高くなくてはだめだと言って今の高さにして辛うじて津浪からまねがれた。この相違は大きい、やはりトップの判断が生死を分けるということがあった。もちろん今の社会は複雑すぎるからもうそうしたトップの役割はない、巨大複雑なシステムによって動かされているとかなる。そこに英雄は存在し得ないということも現実にある。なかなか個人が人間が介在しにくくなっている。信長のようなかつての英断による時代変革はありえないとなる。でもやはり以前としてトップの判断が大きな影響力をもっていた。みんなで議論して決める合議制なのだから現代はトップは飾りにすぎないとか言うけど原発を作るにはやはりトップの判断がありそれが事故につながった。ただ誰が土台を高くしていたのになぜ削り低くしたのか?その決定をしたのは誰なのか、それがわかりにくい、責任の所在ははっきりしないのだ。

それでも東電と東北電力のトップは違っていた。浪江と小高の原発建設予定地も20メ-トルと高台にあり今回津浪から避難した人がいたし女川の原発にも地元の住民が避難した。

女川原発の敷地をめぐっては、社内で12メートル程度で十分とする意見もあった。だが平井氏は譲らず、社内の検討委員会も15メートルを妥当と結論づけた。
 大島さんは「平井さんは、海岸を知っていた。15メートルに確たる根拠があったわけではないが、経験と直感で導き出された安全な数字だったはず」と振り返る。
 1970年に国に提出された1号機の原子炉設置申請書では、周辺の津波の高さは想定約3メートルにすぎない。だが原子炉建屋の敷地は14・8メートルとされた。


 津波対策は敷地の高さだけでなく、「引き波対策」にも表れている。取水口の内部に段差を設け、波が引いて取水できなくなっても冷却用の水が確保できる。「40分間は冷却が続けられる」(東北電力)という設計は、74年の変更申請で実現した。

 東芝のプロジェクトマネジャーとして計画に携わった小川博巳さん(73)は「東北で津波を考えなかったら何をやっているんだということ。そういう雰囲気が東北電力内にあった」と話す。
http://blog.goo.ne.jp/nishidenjigata/e/615a11152f39b896e7a3b9806e490fe1

 


東電の会議


           「原発は高い所に建てないとまずい、津浪も来るかもしれないし」


清水社長「この辺は津浪の来ない地域だよ、高い所だと効率が悪い、金もかかる

          津浪を防ぐ防波堤など金がかかるから作れないよ」


建設会社「そうですか、それなら低くしましょう、私たちは責任は持ちませんよ」

          保安院(東電でそう言っているんだからしかたないじゃないか、低くしても」


          「そろそろマ-ク1はもともと古い型であり危険性が指摘されていますがとめた方がいいのではないでしょうか」

         「馬鹿言うな、どれだけ建設に金がかかっているんだよ、ぎりぎりまで使うのが原発なんだよ」


  勝俣会長「清水よくやった、コストカットだよ、お前を社長にしたのオレだ、それでいい」


こんな会話だったらやはりトップの責任は重いはずでなのだが問われていない。東電の責任は重いのである。政府の保安院の責任も重い、何ら保安院の役割を果たしていないのだ。東電主導になっていた。


東北電力の会議


     
           「津浪の想定は12メ-トルでいいじゃないですか、これでも高く十分だと思いますが・・・」

平井副社長
「この辺では何度も大きな津浪が来ている、もっと高く想定しないとだめだ、15メ-トルだ」

              「それで高すぎます、金もかかりますし効率的ではないです」

平井副社長
「原発は安全が第一なんだよ、コストじゃない、この辺は津浪が必ず来る、だから高くしない とだめだ、15メ-トルで
な               い と だ めだ 非常用電源も高台に設置しておけ」

           「そこまで言い張るならやむをえないでしょう、従う他ないです」


こういう会話がなされていたとしたらやはりトップで決まるとしたらそのトップの判断が生死を握るということもっあった。一旦事故になったらその影響は今回のように計りしれないのだ。原発はそもそも本当は電力会社や政府だけにもまかせられるものでもなかった。自治体でも知事でも地元民でも広く参画して決めるものだった。それが原子力村が形成されて素人は全くシャットアウトされていたのである。議会や議員でもほとんどの人が推進派であり賛成なのだからすでにこの点で選挙民はもう何も言うことはできないつ、埒外だったのである。やはりこのようにトップの責任があるとすれば
清水社長や勝俣会長は死刑に値するし保安院もそれに準じる罪である。検察も原子力推進に加担して判決を下していた。ここも罰せられる対象だったのである。


いづれにしろ砂漠を日本人の集団がキャラバンのようなものを組んで旅したとき、道に迷い水のあるところの方向を一人の指導者の日本人が決めてあたり命が救われた。砂漠のような所では方向が命を決する。だから北極星など方向の目印になるのが重要になるから砂漠地帯の国の旗は星になる。
その時のトップの判断が生死を決するのだ。そういう所では英雄が生まれ安いのである。
どっちに行くかはトップの判断で決まる。いくら議論しても多数決でも決められないだろう。
そもそも生死がかかるとき多数決で決められるだろうか?人はその多数決に従うものだろうか?
議論していれば時間がかかる、危険が迫っているときは即座に決めねばならないことがある。
即断、英断が危機を救う、それが信長の桶狭間だったのである。家来の意見を聞いていてはもう助からないのである。


現代は民主主義の社会だとすると平常時には時間をかけてもいい、危機のときは対応できない、復興会議など会議ばかりしても何ら対策が成されなかった。会議は踊るなど悠長なことをしていられないのだ。即断して英断して決めねばならない、そういう危機の時代に民主主義は効果を発揮しないのだ。でも社会がそういう仕組みになっているのだから有効な手を打てずいるうちに状態はますます悪化するだけなのである。この辺でもいかに市町村長が重要な役割をになわされたか、その能力が問われたか、普通の平常時なら誰がなっても同じだとなっていた。しかし今回は本当にその役割は大きかった。市町村の運命を決めるほどに大きな役割と責任をになわされたのである。だから批判もあって当然だったしそれに答えきれないということもあった。現実に南相馬市長の評判は地元では良くないし相馬市長も良くない、この危機にさいしして答えきれない現実と重荷を課せられたためでもある。
こういうときもう誰か特別優れた人を選びまかせる方がいいとなる。ただそういう仕組みもないし人もいないとなるからどうにもならないとなる。集団指導制ではどうにもなちらなくなったのである。

それにしても平井副社長は貞観津浪のことまで考えていた。


平井氏の実家(宮城県岩沼市)近くには、千貫(せんがん)神社がある。今の海岸線から7キロ以上内陸にあるが、仙台藩に伝わる記録では慶長津波が到達した。

 東京帝国大(現東京大)の後輩で、東北電力で土木を担当した大島達治さん(82)によると、平井氏はしばしば千貫神社に津波が到達したことに触れ、「貞観津波クラスの大津波に備える必要がある」と力説していた、という

地質調査で貞観津浪のことを東電に警告していたのである。ただ岩沼辺りでもそんなに津浪のことを心配する地域ではなかった。ところが岩沼は実はかなり海が近かった。岩沼から館腰駅もすぐ近くまで津浪が来ていたのには驚いた。それと遠見塚古墳とか名取の雷神塚古墳がかなり津浪の来た地点と近い。


愛島丘陵南東端(写真中央左下)に雷神山古墳がある。また、写真左上の同丘陵北東端に飯野坂古墳群が見える。
愛島丘陵はその東端が縄文海進で南北に直線的な海食崖(現在は木々が植えられている)となり、その崖下に沿って浜堤が形成されてい
る。


縄文時代は海が迫っていた地点でもあったのだ。館腰駅のすぐ近くが雷神塚古墳だから津浪もすぐ近くまで迫っていたのである。遠見塚古墳もまさに海の遠くを見る古墳でもあった。海に近かったのである。津浪は明かに縄文海進の時を再現した。将来的に千年後とかにはまた海になる地域だった。

そういう土地の歴史とかにも通じている必要が電子力会社にはあった。市長村長にもあった。
つまり昔の長老のような人が必要だったのである。科学者は専門家は外から来た場合こういうことを軽んじる。ただ原子力の専門家であり総合的にとらえることは苦手なのである。その総合性が要求されたのが原発の建設だったのである。


原発事故にも関係していた 「天の時、地の利、人の和」
http://musubu2.sblo.jp/article/54567694.html

(地理を知らずしてすべての学問は成り立たない)
http://musubu2.sblo.jp/article/54567694.html

posted by 老鶯 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年04月04日

春の嵐(自然のサイクルに合わせられない人間の文明)


春の嵐

(自然のサイクルに合わせられない人間の文明)

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みちのくや嵐の中を燕来る



吹き荒れる春の嵐のなおやまじ日本列島駆け抜けるかも

一夜さに散れる桜や津浪にそのまるる命はかなき跡かな


吹き荒るる嵐に桜咲きにけり世も乱れつつ自然も乱れぬ


津浪来てその爪痕の深きかな春の嵐の吹き荒れにけり




ひと夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも 啄木



嵐がまだ吹き荒れている。日本列島を縦断した春の嵐だった。啄木のこの歌は津浪にもあてはまる。一瞬にして大勢の命を奪い墓を築いてしまったのである。そういうことがこの世にはあった。
一時に大量の人が死ぬ、戦争でもあったし過去にもあった。それはちょうど桜が咲いてぱっと散るのとにている。九州ではすでに桜が満開だし上野でも花見があった。嵐の中の花見になった。
俳句にすると「時惜しみ嵐の中の花見かな」とかなる。それよりもその時しか集ることができないからあえて花見をしたと言っていた。天候も実際は毎年違っている。ただ天候のことも人は忘れやすいのだ。さすがに津浪のことは一年たっても同じままであり忘れられない、その傷跡が余りにも生々しいのである。すぐ近くで一軒も家がなくなった所を常時見ているからそうなる。これも離れていればそれほどに感じないのだろう。神戸の地震でも広島の原爆についても余り感じなかったのは遠いためだったのである。神戸の地震も実際は相当に悲惨だった。だけどなかなか実感できなかった。
テレビの映像だけではその悲惨さが実感しえないのだ。今回は身近で起こったから実感する。

放射能被害というのもはじめて経験することでありこれも実際に被害にあった人でないと実感しにくい、そして外部の人が福島県を廃県にしろとかそんなところに住むな、移住しろとか簡単に言うことに腹たつのである。遠いて自分に被害がないと人間は無関心でありかえって喜んでいるやつもいる。福島県などなくななれとかしきりあおって喜んでいる。2ちゃんねるは特別にしろそう言われる身になったらそう簡単に移れない人も多数いる。被害者のことを親身になる人は少ない。

故郷自体を失うということがどういうことかまだ被害者自体も良く理解していない、それは切実なものでありそれぞれによって違うにしろそれがどれほど深刻なものか、心にどれほどの影響を与えるのか?自分の場合、田畑が耕されていないことがなんとも荒寥とした気分になる。蕗の薹が芽生え椿が赤く咲いたし梅も咲いた。それは変わりないのだけどそもそも田舎は春田とか春耕とかこれから田植えしたり大地を耕すんだというとき人間にも力がでてくるんのではないか?別に農家でなくてもそういう姿を見ているとき春がはじまるんだなと意識する。それがなくなったときどうなるのか?農家でなくても何か大きく欠けた空虚感に支配される。第一田畑が耕されないということをこれまで経験しているだろうか?減反された田とにている。それが広範囲に広がったという状態と確かににている。でもそれは一部でありやはり全体は田畑は生きている。

都会だったら別に田畑がもともとないのだからこんなに深刻にならないし意識もしないだろう。
工業と商業都市に生きていれば生活の糧は農業ではない、都市から見たとき田舎は農家を補助金つけで能無しなんだとか卑下している。そういう感覚の都市人は田畑がなくても何にも感じない。
それは別に自ら耕さなくても田舎にいれば農家の人と同じ感覚になっているのだ。農家の人が耕していれば自分がしなくてもそういう気分になっている。それが田舎なのである。しかし考えてみると

現代は第一次産業の割合は一割とかでありとすると自然と密接に結びついた生活をしている人は極めて少ない、ということは海を糧として暮らす人や山であれ大地を糧にして暮らす人は少ない、全体として自然から遊離して人は生活しているのだ。津浪にしてもこれは一つの大自然の作用であり地球が受け入れねばならないものだという見方もでている。津浪は海をかきまわすから下にたまった養分が上にあがり栄養分が高い海となり牡蠣などが大きくなったという。ナイル河の氾濫は災害ではない、栄養分のある泥を拡散して実り豊にする自然の作用であり災害ではない、かえってアスワンダムなどをつくったとき洪水がなくなり泥か拡散されず流域では化学肥料を使っている。この栄養分の高い泥は上流のエチオピア高原の岩が泥をつくりだしたということに驚いた。そういう地球的営みの一環としてあった。火山の噴火も津浪も滅多に起こらないにしても自然側では人間に災害をもたらすものとして活動しているのではない、それが地球の営みであり人間に災いをもたらしているということではない。人間の方がその大きな自然の営みに合わせるしか生きようがないのである。津浪の場合は400年に一回とかなるから人間はその自然の長いサイクルに合わせることができなかっただけである。
だから人間が文明を作ったがその文明がかえって災害を大きくした。それは自然が悪いというのではない、人間が自然に合わせないから悪いとなる。

今回の津波災害では嵐の中をボランティアがきてくれた。でもなかなか嵐の中にくるのは大変である。津浪の跡を見るだけで気が滅入ってしまう。ただ放射能汚染地帯にはきてくれなかった。はじめてのことだから怖かったこともわかる。驚怖する人は恐怖する。
これから放射能の影響は生物にどうあらわれるのか?チェルノブエリでは燕など小型化して数が減ったという。
この辺はどうなのだろうか、双葉辺りの原発周辺での生物の状態はどうなるのだろうか?

2012年04月05日

(科学技術が未来である時代から変われるのか?)


 未来とは何であったのか

(科学技術が未来である時代から変われるのか?)

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原子力明るい未来のエネルギー(大熊町)

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原子力郷土の発展豊かな未来”と掲げてあります(双葉町)


●未来という言葉の由来


未来は何かと問うとき、未来という言葉自体明治以前にはなかった。日本語は大和言葉と漢語から成り立っていた。それに西欧的なものが入ってきたときそれを翻訳するに大変な苦労した。どうしても大和言葉では翻訳できないので漢字で翻訳した。その漢字も日本人が造語した漢字であり奈良時代に大和言葉を漢字にしたのとは違っている。その時も中国の文化の大量に流入して翻訳して漢字をとり入れた。その時もすでに漢字の解釈はある程度は日本語化、大和言葉化していたのである。
本居宣長が大和言葉と唐の言葉を分けて日本人の淵源をたどろうとしたことは正解である。
なぜなら言葉の中にその国の文化が凝縮して残されているからだ。日本人を知るなら大和言葉を知るのが一番わかりやすいからである。詩にしても大和言葉のみで表現したとき日本人の詩になっている。そこに漢字や外国語が入ってくると何か詩になりにくい、大和言葉にすると理屈ではなく情緒的になる。日本語は情緒的な言葉だということがわかる。文の構成も理屈として解明できない、英語でも文法は一つの学問であり数学と数式と多少にているところがある。だからコンピュタ-と相性が良くコンピュ-タ-のソフトを作る言語となった。とても日本語や漢字ではなりえなかったのである。
つまり英語という言葉の上にコンピュ-タ-が作られたというとき正にそれも西欧の文化の流として作られたとなる。ともかく未来という言葉は未だ来ないものという意味であり漢字にすると意味がその漢字から視覚としてわかる。未来という言葉は大和言葉にはないし江戸時代には使われていないのだ。

明治以降こうした言葉の面でも大変な変革を強いられた。その造語の数も多くあとで中国人が日本人の西欧化した造語を使用するようになった。西欧の文化を日本人が解釈したものを中国人が使用するようになったのである。未来という言葉を何気なく使っていてもこれも日本語の造語でありこの言葉を発明した人は日本文化も創造したのである。西欧化で具体的な技術の導入は鉄道などはわかりやすいけどこうした言葉の創造は誰が創造したのかわからなくなっているものが多い。でもこの言葉を創造した人はやはり大きな功績があった。天才は新しい概念と同時に言葉を作る。その言葉今までにない概念や発明につながっていたのである。だから簡単に造語は普通の人はできないのである。

未来というとき未だ来ないものとは何であったのか?それは明治以降の西欧文明でありその主なものは科学技術であった。未来とは西欧文明であり科学技術であった。江戸時代の未来は何か、それは限られた世界で生きていたのだから米の生産の増大とかで豊になるとかであったがそれには限度があった。自給自足的たいして変わらない世界で生きていたし世界観も変わらないものだった。西欧文明が入ってきたとき急激な変化の波にさらわれた。民主主義にしてもそういう概念もないし投票ということもわからない、だから札入れとか約していた。投票して代表者を決めるという手法すらないから訳すにしてもその概念自体が訳せないものがいくらでもあった。だから日本人は西欧文明をとり入れるのに苦心したし努力したのである。だから未来というとき西欧文明が未来になっていた。その西欧文明は科学技術だったのである。これは世界的なものとしてグロ-バル化した。未来とは常に科学技術のことである。宇宙への挑戦も科学技術だしいかに最先端の科学技術をもつことが未来を制する国になるかしのぎをけずる。パソコンのようなものでも発明すれば世界を制して巨大な富をもたらす、パソコンは鉄道や飛行機などと違った頭脳としての科学技術だったのである。


●未来は科学技術になった


現代は科学技術なしではありえない社会である。現代で一番尊敬されているのは科学技術者である。宗教家にしても昔は病気を祈祷するものとして山伏などが必ず小さな単位の村に一人二人はいた。それは病気を直すために祈祷のためにいた。薬師堂が各地に多いのは病気直ることを祈ったためである。今はみんな医者に行き病院が薬師堂になっている。そして医者が神様のようになっいるのもまさに病気を直してくれる医者は神様に近いのである。つまり科学技術者が未来をもたらす、そこにもう老化をしない薬が発明されるだとか中国人の不老長寿が現実になるとか未来を期待している。あらゆるものは科学技術によって問題が解決されるという信仰にもなっているのが現代なのである。だから科学技術なしでは現代は成り立たない、オウムでもサリンを作る優秀な理系の人が中核であった。
オウムの犯罪は極めて現代的なものを象徴していたのである。なぜなら原発事故でわかったことが
政府自体が東電と結託したオウムでありオウムはサリンをばらまいたがそれ以上にしまつにおけない放射性物質を広範囲にばらまいてしまった。そして科学技術者は現代では神官であり僧侶であり一番権威をもっていた。だから容易に安全神話が宗教のように作られたのである。その科学技術に官僚やら政治家やらマスコミや自治体やらが付属して利益を得ていたのである。現代では政治家が力をもっていない、宗教も力をもっていない、現実の権力をもっていたのは科学技術であった。ただその背景となる資源がないと力をもつことはできない、そのことが露骨に現れたのが電力会社が電力をとめると脅したときその本性が露にされた。電力をとめられたら文明の活動は停止してしまうからだ。また石油も同じであり石油がなくなったらどうするのだとなるとき石油のためにも戦争になる。電力をとめてもいいのか、そのためには原発なしではやっていけないぞと脅されるのである。その脅しは一番効果的だというとき電気なしでは文明が維持できなくなっているからそうなる。


●原発事故で未来は見直される


未来が科学技術だというとき今回の原発事故はその未来に大きな暗雲をもたらした。それは致命的なものにさえなった。一旦事故が起きたら国が滅亡しかねないほどの災害をもたらすことがわかった。つまり科学技術の最先端の原発が未来でなくなった。原発周辺の町では原発が未来を作るものだったのである。その未来は根本的に破壊された。そもそも故郷に住めないとなると町自体の未来もなにもない、町自体の未来は根こそぎ奪われたのである。町自体の未来などももう描けないだろう。町民は村民はばらばらになりただ事務手続きとして賠償を要求するものとして町があるだけになった。それはもはや町とは言えないだろう。現代の科学技術の最先端の原子力が未来であったがそれが完全に未来を喪失させたのである。では何が原発の前は未来だったのか?農業に未来があったのか、農業は金にならない、農業やっても何の未来ものないよ、だから子供は跡を継がない、漁業もそうだろう。

この辺では漁業は零細であり何か原発ができたとき漁業権で巨額の金をもらった。漁業権は大きな権利がありそれをもっていた人のみが巨額の金をもらったのである。漁業には未来はなかったが原発ができてその漁業権で補償され未来が生まれたとまでなる。でも原発事故でそうした未来はすべて喪失した。漁業権をもっていた港は津浪で壊滅的打撃を受けた。農業も放射能で再開できない耕すこともできない、でももともと農業や漁業や山林業には未来がないとして原発を導入したのである。
だから一体未来とは今何なのだろうとなる。個々人の未来は別に町や村がなくなってもありうる。

一億円補償されたらそれで子供を大学にあげるとか家がない人は家を建てるとかありうる。個々人的には移動が容易な社会だから医者になりたいといえばその金があれば大学に入れるかもしれない、画家になりたいといえばパリに留学させるとかある。しかし市町村として自治体としての未来は町自体がないのだからありえない、それは消失したのである。だから市町村の未来とは何なのだろうかと考えさせられた。今になれば別な市町村の未来が模索されたとかなる。農業や漁業でも山林業でも他にも何か未来を作るものがありえたとか反省する。
それは実は原発事故の被害にあったここだけではない、これは全国の問題であり日本だけではない、世界の問題でもある。なぜなら科学技術最優先の文明では世界で同じだから一旦原発事故が起きればここと同じ様な被害にあうからだ。未来は奪われるのである。

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2012年04月06日

冬の鳥(終わらない介護・・・)


冬の鳥(終わらない介護・・・)

冬の鳥遠くに飛べず介護かな


墓の間に黒猫消える春の町


冬の鳥いまだ帰らず寒き年介護をしつつ今日も暮れにき


ラ-メンを一つ作るに苦労かな冬の日あわれ男の介護


津浪にて今年は萌えぬ川岸の猫柳またいつの日萌えむ


買い物に仮設の商店なじめるや木々の芽吹きて春のめぐりぬ


町の辻梅の香るや店なきもその香りにそ心いやさる


同じ墓所世話になりにしその女(ヒト)の墓に参りぬ春の彼岸に



今年は寒いから冬の鳥、ツグミが帰らない、これは高く飛ばない、地中の餌を漁っているのだろうか?雑食性だから柿の実なども食べる。今年は柿は人が放射能に汚染されているから食べないからとられずままにあったから鳥にとっては餌が多かった。鳥にはさほど影響しないのだろう。放射能は人間のような複雑な機能をもつものに影響しやすいとあったからだ。だから別に鳥がいなくなるということはないし虫もいなくなることはない、川にも魚でも餌があるから水鳥がきている。ただ田畑は荒地になっている。


介護はやはり料理できないとうまくできない、料理は買ってばかりではうまいものが食べられない、どうししても自分で料理二つでも三つでも覚える必要があるのだ。野菜をうまく利用するのがコツみたいだ。こまかく刻んだニンジンなどでも玉子焼きなどに入れるといいのかも、白菜でも油であげると臭みを消す。そして一種類だけでは料理にはならない、魚をだしたらやはり必ず野菜を少しだすのがいい。そういう取り合わせが料理だった。料理はインスタントのラ-メンを買ってもめんどうだった。煮てからラ-メンの麺を洗い出して入れたりあと洗うのがめんどうだった。インスタントとしていいのができているのだがそれでも手間がかかっているのだ。自分は本当に恵まれていた。いつも料理は当たり前のように出ていた。それを何とも思わなかった。しかし今になるとそのことがいかに恵まれていたかつくづく思う。ただ一人今や家事すべてをやることは大変なのである。だから下男と同じなのである。ここに自分の病気が加わったからさらに大変だとなる。


仮設ができてからすでに一年以上すぎた。すると多少はなじんできた。仮設商店はバイキング形式の惣菜屋や安いラ-メンや豚どんなどの食堂は人気ある。そういうものがなかったからいい。となるとそういう店がいつまでもあってほしいとなる。何か役に立てばその町にとって必要なものとなる。でも補償金だけをもらっていたら歓迎されないだろう。一人二人なら別にかまわないけど人が多すぎるからだ。でもあと二週間くらいで小高区は警戒区域が解除になるから出入りができる。すると帰る準備をする人もいる。でもすぐには帰れない、インフラが破壊されたからである。すると三年くらいはかなりの人が仮設に残る。それはそれなりに長いのかもしれない、そのままここにいつく人も出てくるのか?そういうこともありうる。ずっと補償されればそれでいいという人たちはいる。


川の猫柳は津浪で流されなくなった。猫柳をいつもとってきたのが姉だった。その姉が認知症になったとき受け入れてくれたのが近くの死んだ女だった。認知症になったりすると親しかった人もよりつかなくなる。認知症でなくても病気になったりすると人はよりつかなくなる。どんなに世話しても来ないとか嘆いた人が病院にいたからどこも同じなのだろう。津浪や放射能汚染でも当事者でない人はかえって面白がっている人たちがいる。人間はつくづくそういうものなのだ。自分の身に不幸がふりかからないかぎりその不幸のことを思わないのだ。他人事なのである。認知症なんか差別されたりもした。知的障害者だからそうなる。ただ知的障害者でも生まれつきとは違う、いろいろ世話したり貢献した人だから粗末にできない、ただたいした世話もしなくてもその女(ヒト)はかわいそうだなと相手にしてくれたのである。

同じ墓所というとき、やはりともに供養したいというものが生まれといい。ただの他人が寄り集まっても墓すら共同の場所とはなりにくい、ただ

現代はそうした共同が作りにくい、田舎の農家の部落辺りだとそういうことは作りやすい。共同はともに働く協働から生まれる。だから農家では協働が共同になりやすかったのである。そこではあまり競争はしない、街だと商店などは競争するから協働ともなりにくい面はあった。つまり田舎でもザイとマチでは違っているのだ。マチは連帯が共同が希薄なのである。ただ一面協働のしきたりに縛られない面はある。

墓には猫があっている。忍び足で墓の間を歩いて消えてゆく。死んだ人の霊を背負っているように歩いて音もなく消える。黒猫がさらに墓にはあっていた。
田舎でも何もないけど書くことはある。原町区辺りだと街中に梅が咲き匂うということはないがこの辺で街中に畑があるから梅がある。ただ畑は耕されていないから淋しい。

 


山の際(ま)に 雪は降りつつ、しかすがに
       この河楊(かはやぎ)は 萌えにけるかも
            万葉集10−1848    詠み人しらず


河楊(かはやぎ)は猫柳のことだった。この歌はこの辺の気候を象徴していた。なぜなら山の際(ま)に 雪は降りつつ、しかすがに ・・というとき山の際とは飯館村の方であり海の方はあたたかく山の方は寒い、雪もふるし雪も残っている。河楊(かはやぎ)が萌えるのは海に近い平地なのである。
河楊(かはやぎ)とあるごとく猫柳は河に生えるものだったのである。その猫柳が見つけられないことは淋しい。しかし上流の方であるかもしれないから探してみよう。

春満月(海から出る月と山から出る月の相違)


春満月(海から出る月と山から出る月の相違)


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春満月天の高見に汚されじ

瑞々し海から昇る春満月


春満月匂うがごとき美しき


大石の動かず二つ春満月


水仙や石に風鳴り人入らじ


一番星見つけ明るし春の夕



 血色のいい月
http://miyajimatenki.at.webry.info/201102/article_15.html


蘇州
http://www.musubu.jp/chainasoshu.htm


双塔に春満月の曇るかな


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春満月大河に映えて春満月

春満月大人動ぜず六和塔

今日は春満月だ、月はこの辺では海の方から昇る、海の方から昇る月は大きい、その大きいとき満月を見ないとだんだん空高くなると小さくなるので満月でも見物ではない、これが山国だと山から出る月になるけどその情緒がわかりにくい、常にここでは海を意識している。景色としては田んぼがあったり家もなく広々とした入江のようになっているとかえって気持ちいいということもある。北海道辺りの景色である。津浪がそういう原初の状態に戻したともいえる。ただこの辺は海の方にもともと家は少なかった。それでも地平線と水平線が合体するようになった。海が遠くから見えるのが違っている。


今日見た春満月はにおうようであり水がしたたるようでもある。水も滴るいい男というのは何なのだろう。水分が多いのは若い証拠である。肌もみずみずしいとなる。老人の肌は乾いたように水分がなくなっているからだ。若い人は肌もすべすべしている。それが老人は乾いたような水気のない肌になっている。これも個人差がかなりある。60すぎるとひどく老いて顔になる女性がいる。10才くらい感覚的に違っている。女性の場合は老いることは男より悲惨なのかもしれない、目に見えて現れすぎるからだ。これも無常である。

ともかく満月は大きくないと見物ではない、小さいと満月の感じがない。山国では大きい満月が見れないかもしれない、海だと水平線から昇るからその時いつも大きな満月となっているのだ。

春満月を血色のいいと表現したのはうまい表現である。健康的で血色がいい感じに見える。それは
若い女性の顔や肌なのである。春はエロチックにもなる。エロとは縁がないにしろ白い肌に魅惑される。匂うような感覚もそうである。

自分の場合はここが何とか移動しなくてもよかったのが助かった。警戒区域の人は悲惨である。仮設で春の月を見ることになった。故郷ではもう月を見れないのか?ただ月はべつにどこでも見られる。
ただ山の月というのはこの辺では感覚的わかりにくい、海から昇る月は常に見ている。ところが京都は盆地であり奈良も盆地だから月を歌ったしたら山の月なのである。


ほととぎす今やと思ふ山の端に 月をまつごとなれをこそまで  西園寺実
  「月をまつごと云々」は、月の出を待つように、お前を待っている。
 
京都だったら山に囲まれているから山から出る月なのである。何度も言っているけど地理が地形がわからないと本当に歴史もわからないし芸術も鑑賞できない、会津なら山に囲まれた感覚がわかる。
ところが海に面しているとわかりにくいのである。人はその住んでいる場所から地理から発想している。山国の人はこういう歌は理解しやすいのである。奈良でも京都でも山の感覚の歌である。万葉集でもそうである。深く鑑賞しようとするとき人間は自分の住んでいる場所からイメ-ジするからそこに常に錯覚が生まれているのだ。海側に住んでいる人は山の端から出る月を見ていないのだ。

だからそういう短歌や俳句があっても実感としてイメ-ジされていないのだ。月はどこでも同じ様に出ていても出る場所によってまるで違ったものとなっているのだ。これが外国の平原や砂漠となると全く別なものとなってしまう。地理が場所が文化を作っているのだ。福島県などは広いから会津と浜通りの人の感覚は相当に違っているし文化も違っているのだ。だから福島県自体を知ること自体容易ではないのだ。福島県に住んでいてもそうである。会津は東京より遠い感覚だということがわからないのである。地理には常にそういうことがある。地理から場所から人間は誤解が生まれているのである。


吉野山 さくらが枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな
『山家集』 第16番歌


吉野山は京都から相当奥であり遠い、飯館村とは違っているかやはりにている面がある。飯館村は標高が高いから春でも雪が残っていたし寒い地域なのである。高原地帯なのである。ただ吉野といったら高い山があるからまた違っている。この辺ではほとんど千メ-トル級の山さえ望めないから景観としては肝心なものが欠けているとなるのだ。


蘇州の双塔はいかにも古い、街全体が古都である。そのすぐ近くに泊まったのでこの句ができた。それも10年くらいたつと印象が薄れてしまった。外国は変わっているから忘れやすいのである。日本だったら地理的に思い出すとイメ-ジできるから詩でも深く理解しやすい、それでも地理から場所からくる錯覚が常にあるのだ。それだけ地理は記憶しにくいのである。

2012年04月08日

大和の春満月

 
大和の春満月



にほふがごとく

若々しく

みずみずしく

したたるごとし

憂いもなく満面の笑み

ふくよかなるおみなの顔

血色のいい、若やぐ顔

ああ かつて我が側にありし女

やさしさの満ちたる女

ああ 人の老ゆるは悲し

健やかに快癒される日よ

老いざる日を人は願う

天なる高見に月は汚されず

静かに慈愛の光を放つ

月光菩薩のそこに見えしや

汚れし世の上に月輪の光

うるわしき大和の国の春満月

このみ国を汚せしものは呪われよ

大和の国の天地海はいかに尊き

神の与えし天地海なりしを

大和の民の慈しみあいかしこくあれ

ああ 大和の国の美しきかな

その天地とともに命長かれ

神の恵みはここに尽きざらむ

posted by 老鶯 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)


木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)



阿武隈の流れの早し春の草

紅梅や東海の海かがやきぬ


木蓮の芽のふくらみて朝風にゆれ遠くへと我また行かむ


峠こえ遠く来たりぬ木蓮の開きて仰ぐ高き峰かな


残雪の吾妻峰光り峠こえ我が望むかも遠く来たりぬ


桃の花もゆるがごとく咲きにつつかなたに望む海の碧かな


日本は海と山の国である。海彦山彦の国である。ただ浜通りには高い山が望めない、阿武隈高原を越えると吾妻とか安達太良が望める。山を見たければ峠を越えねばならない、丸森町から梁川に出て阿武隈川を下る道は圧巻である。桜と桃の花がまばゆいほどに咲いている。別に放射能でも外観は何にも変わらない。ただ阿武隈川には常時億ベクレルの放射能汚染水が流れている。大きい川だから放射性物質を泥と共に集めているのだ。だから魚などは食べられない、でも今はあまり川の魚はあまり食べていない。放射性物質はやはり相当に雨が降り泥にしみこみ川に流れだす、その分山の放射性物質は減ってゆくのかもしれない、そうして長い時間の中で減ってゆくのかもしれない、その待つ時間は長いことは確かである。


ともかく浜通りに欠けているのは高い山である。高い山を望めないことが精神的に貧しくしている。その代わり海があることが景色としては良かった。山に囲まれて住む人は海に憧れる。峠を越えるというとき広々とした海を望むことである。飯館から八木沢峠に出るところから海が見えるのである。飯館村はまだ出入りができるからいい、浪江の高瀬川などは出入りができない警戒区域になっているからこの辺では損である。高瀬川は激流となっているから春に行くと気持ちいいからである。


春になると遠くへ行きたくなるが行けない、明日は病院である。でも旅ばかりしていたから心の中で旅がつづいているのだ。人間は老後になるとこれまで何をしてきたか本でも何を読んできたのかふりかえることになるのだ。一生の総決算のように過去をふりかかることになる。自分のしたことを生々しくふりかえり思い出されることになる。それが偽ることなくそうなる。だから悪いことをした人は過去を老人になっても語らない、語りたくないのだ。自分にしても過去の嫌なことは語りたくない、戦争のことが良くわからないのは戦争を経験した人が本当のことを語らないからである。人を殺したりしたことをなかなか語りにくいからである。だから真相は明かにされていないのだ。だから過去を語れる人はその人生は自分なりに納得したものとなっている。それも個としての人生であり組織として生きた人生ではない、自分はこういう罪を犯したとか過ちをしたとか言っている人は自分に正直なのである。


いづれにしろ旅の記憶でも時々ふいとあんなところに自分がいたなと思い出すことは不思議である。思い出したときもう一度旅している。思い出すときは体で記憶したような場所なのだ。車とか鉄道とかの旅は忘れやすい、思い出す場所はやはり体で記憶しているような所だったのである。木蓮が風にそよいで咲いているというのを車から見たら印象に残らない。自転車で風を切って走っていれば体で記憶しているから思い出すのである。30年前とかでもそういう所は思い出すことがありそれでまた短歌とか書いている。旅ばかりしていたら旅のことを思い出すし他でも工場で仕事していたらその仕事をしていることを思い出す、そういうことは体に刻まれているのだ。だから認知症になった女性がベットで田植えしていたというのもわかるのだ。
そういうことを長年してきたのだから体に刻まれているから忘れないのだ。それで認知症になってもそういう昔のしたことを料理でもできる場合がありやらせると多少は改善するのだ。料理でも体で覚えているのは忘れないのである。

団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


団塊の世代-集団就職-金の卵の時代をふりかえる


一生貧乏
60代, 男性, 自営業

私は10歳で母親に捨てられました。(父親は私が3歳から肺結核の為に入院していて14歳の時に病死)兄嫁と母親が不仲で 10歳の時に出て行きました。1年に一回位日帰りで来るくらいです。当然兄嫁にいじめられて本当に辛い思いをしました。

ようやく中学校を卒業して、東京江東区清澄町の松本自動車という自動車修理工場に就職しました。これからが本当の地獄でした。仕事は住み込みです。最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。(工場の上に6畳間の部屋が3ツ有りましたが2ツの部屋は人に貸していました。)この状態が約半年です。仕事の時間は朝8時〜12時  午後は13時〜18時
残業は毎日19時〜23時 合計13時間毎日仕事です。

毎月の休みは5日と15日の2回だけです。それで給料は残業代も入れて1ヶ月1500円です。当時菓子パンが10円です。
休日と残業時間の食事は支給有りません。1500円は一週間の
食事代だけで消えました。
腹はいつでもぺこぺこです。お金が無くなると、コッペパンを3切りにして、1日分の食事です。後は水で我慢しました。
信じてもらえないかもしりませんが本当のことです。

半年後に1万円にしてくれましたが、それから入社してから、 18歳までにげだすまで変わりませんでした。(なぜすぐ逃げ出さなかったというかたもいるかもしれませんが、当時は15,6歳の田舎の子供です。無理です。)

その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です。)がこの病気の為に仕事は思うようにいかず、結婚も当然出来ませんでした。(気持ちが悪い、移されそうで怖いといわれました。)こんな辛い人生は何万人に何人いるんだろうかと思います。辛さは死ぬまで変わらないとと思います。
http://poor.life-taikenki.net/taikenki62.html



これも過酷な運命の下に生まれた人だった。老後というとき何が興味ある事になるかというとそれぞれの人生を読むことなのだ。こんな人生が送った人がいたのかと自分の人生と照らし合わせて比較すると興味深いのである。意外と隣に住んでいてもその人の人生がわからないのが現代である。
「秋深し隣は何をする人ぞ」なのが現代である。田舎でも隣近所は疎遠になっている。買い物だってすべてス-パ-だから小さい店は姿を消した。するとそれぞれの人生をなかなかしりえないのである。老後は何かをふりかえることであり思い出すことが仕事になる。本でも前に読んだものを読み返すと本当に理解することになる。新しい本は読みにくいし理解しにくい。そして本というものも積んどくが多く読んでいない、読んだと思っていたものも深く読んでいないし忘れているのだ。


この人の人生に興味をもったのは密接な身内でこれと同じような人生だったのを知ったからである。実にこの人の運命は過酷そのものだった。この人の恵まれていた点は東京で生活していたから金の卵のような集団就職をしていないことである。集団就職は15才くらいで親元を離れるのだからこれも過酷だったのである。自分は恵まれて勉強嫌いでも東京の私立大学に入れた。それもほとんど勉強はしなかった。もともと自分は今になると学問好きなことがわかった。いろいろなことに知的な興味が尽きない自分に気づいたのである。そして老後になるとむずかしい本でも理解できるようになった。

この人が何を言おうとしているのか本をぱらぱらとめくるとだいだい要旨がつかめる。古典でも深く理解できる。本でもそうだが他人の人生も見通せる、理解できる。若いときは人生にしても人間のことにしても社会についても五里霧中なのである。社会に翻弄されて生きるほかないのである。それで無駄なカルト宗教団体に入ったりといろいろ無駄が多すぎるのだ。


最初の部屋は6畳間に二段ベッドが両脇に四つのところに7人住まわせられました。


学生のとき町工場でアルバイトしていた。その時、集団就職したような人がそういう所だった。住環境は劣悪だったのだ。この人は食事も満足にできなかった。仕事は自動車修理工場というとき流れ作業ではなかった。自分がしたことは流れ作業が多かった。なぜ自分が仕事を嫌悪するようになり会社勤めを嫌ってそのまま幸運にも老後を迎えたのか、それはもともとの性格にもあった。学校という規則的な集団生活のときも適応できなかった。性格的に甘やかされたこともあった。自分は社会にも会社にも適応できない性格だった。だからまともに働いたのは20代前半だけである。それも流れ作業しかなかった。一日中機械でドリルで穴を空ける仕事とかであり嫌悪するようになったのはそのためである。何か創造的仕事があるなど考えようもなかった。仕事とはみんなそんなものかと思ってしまったのである。残業にしたって流れ作業になると本当に嫌になる。もう定時だけでうんざりしてしいるからだ。その後は全くこういうロボットのような仕事はまるで違って旅行に明け暮れたというのも恵まれていた結果だった。そんな仕事をしつづけたら生きることさえ嫌になったろう。


その後遺症で17歳の時に顔に白癜という病気で顔の25%(皮膚が白くなる不治の病気です)


身内の人も円形脱毛症になったからにていた。ストレスのためになったのだろう。集団就職した人は何かしらこういう苦労をししているだろう。でもその後それなりに自立して結婚して一家を構えて東京辺りで暮らし田舎には帰ってこない。不幸にも自分の身内は若くして交通事故で死んでしまった。その墓が原町にある。この人の人生とにていた。この頃集団就職の人生の人は苦労しているからそれなりの数がいた。この人は最初から不幸な星の下に生まれてしまったのである。ただいくら不幸でも集団就職しても今は高度成長期でありそれなりに自立生活している人も多いだろう。この人は結婚していないから家庭をもっていないから余計不幸を感じているのだ。ともかく人間の一生はいろいろある。団塊の世代こうして過去をふりかえる老後を迎えた。過去の苦労を語る時を迎えた。戦争時代は戦争のことを語りつづけて死んだ。団塊の世代を何を語るのか?たいして語ることもないのか?恵まれた時代だから語ることもないのか、集団就職したような人は語ることがあるだろう。一人一人の人生はみな違っている。一人一人の人生も実は郷土史の一こまである。それら一人一人の人生はすでに歴史となっているのだ。同じ世代でもそんな人生があったのかと驚くことがあるだろう。それは後世への教訓である。失敗の体験も後世の若い人への教訓である。自分が失敗したことと同じ様なことをしている人もいるからだ。


人間は他者を知るというとき自分の体験を基にしているのだ。だから自分が体験しないことはいくら聞いてもリアリティが伝わらない、戦争などあれほど悲惨なものでも戦争の体験をしていないからなかなか理解できないのである。自分は現実に下町の油臭い町工場でアルバイトしたから集団就職の人たちのこともそこからイメ-ジされた。しかしそれもしない人はわからない、アルバイトでも出版社とかでして興味を覚えてそこに就職したという人もいる。アルバイトでもやはり流れ作業でない仕事をして興味をもてばそういう仕事あるのかと就職しようとするだろう。ただそういうアルバイトはみんながなれるわけではない、底辺の大学ではなれなかったということがある。家庭教師にだってやはり底辺大学では無理である。結局自分はそんな油臭い、下町の流れ作業の工場などで働いたのは一時期にすぎない、あとは風のように自由に生きて今日に至ったのである。だから自分には会社も工場もなにもない、ただ自然の自由の風吹いている。心の中でも吹いている。それでそれを俳句や短歌や詩にしているのだ。こういうふうに自由に生きられたということ自体奇跡的なことかもしれない、他の人は営々と働いて会社勤めだったからである。


500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた
http://www.takemori.co.jp/omoide.htm


この人は天草の農家の貧乏生活より食い物もいいし良かった書いてある。この人は仕事ができるので優遇されたのかもしれない、個々に事情が違ってくる。東京はその頃田舎とは全く違っていた。この人は東京だったが食べ物を違っていたし生活は金があれば豊かなものになっていた。この人は雇い主からの待遇が良かったのである。九州の田舎より東京の方がいい暮らしができると実感した。それなりに苦労したにしろ自分の会社をもつまでになった。集団就職でもこういう人もかなりいた。
経済が今とは違い右肩上がりの高度成長時代だから独立もできたのである。


裸電球の下でヤスリをかけ・・・・・


この時は裸電球であった。最近昔のテレビドラマを見ている。サスペンスなのだが昔と今の光景がどこが変わったのかというと映像を見ても30年前でも40年前でもさほど変わらない、変わったのは道具だった。裸電球のあるところで取り調べをしていた。車をみると旧式の型のものが多い。それでも普通に車走っているのでさほど今と変わらないように見える。40年前とか学生で車をもっていた人がいた。その人は恵まれていたのだ。まだまだ車は普及していない、ただその辺から急速に普及していった。携帯のないときは公衆電話を良く使っていた。刑事も連絡に公衆電話や家の電話を使っていた。コンピュ-タ-で仕事している人がいたけど20年前くらいでもコンピュ-タ-はあり仕事していた。ただそのコンピュ-タ-が大きな古いものであった。そこだけが今と明確に違っていたのだ。他の様子はテレビの画面からはわかりにくい、これを見ると人間の社会は変わったというとき道具が変わったというのが一番わかりやすい。なぜなら江戸時代には鉄道もない車もない、電話もないとかそうしたいろいろな道具がないことが一番違ったことなのでなである。人間そのものはそんなに変わらないということもある。


昭和は遠く成りにけり ・・・


64才の俳優が死んだ・・・60代でも俳優など結構死んでる、時代はすぐに変わる、昭和から平成、昭和も遠くなるということがまじかに迫っている。自分も70くらいで死ぬんじゃないかという不安がある。ただ癌ではなかったからその点は救いだ。普通に暮らせるから病気という感じもしない、酒とか煙草は30代でやめた。70くらいで死ぬのがいいとか思ったりするが作品を完成するにはいくら生きても完成しないだろう。いづれにしろ老後になるとそれぞれの人生も興味深いものとなる。なぜなら人間や人生を深くみる、理解できるからそうなる。そして人間の心は変わらないから人間はしょうこりもなく同じ犯罪、業をくりかえす、カルマをくりかえす、それはインド人が言ったことと同じである。職業が業としたとき原発事故だって一つの人間の業として開発があり事故につながっていたのである。人間の業(カルマ)はとめることができないからそうなるのだ。

posted by 老鶯 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)