2012年03月31日

原発事故での混乱状態はつづく (南相馬市などの不安は解消しない)


原発事故での混乱状態はつづく

(南相馬市などの不安は解消しない)

●原町区の孤立死


この辺は混乱状態がつづいている。そもそも仮設住宅が南相馬市だけで1万5千戸というのは驚く。このことが一番混乱状態を如実に示している。原町で孤立死があったというのはその混乱状態とも関係していたのか定かではない、三階建ての家だから父親が商売しているときはそれなりに繁盛していた。ただ知的障害のある息子をかかえていて母親が病気を悪くした。息子は母親のめんどうみれず凍死した。金はあったが息子は何もできないからそうなった。現金があっても死ぬ人はいる。二人だけの家庭で一人が病気で倒れもう一人みている人も看護している人も倒れればそうなる。金があっても助けられるとは限らない、そういうことを自分も経験している。家の中に入る他人は危険であるし簡単に信用はできない時代であり近くでもそうだった。
そういう交渉もできない人もいる。日頃から親しい人でないと出入りできないということもある。代は孤立死が増えてくる、それは都会だけの問題ではないし田舎でも増えてくる。ここが混乱状態にあったからというがそれだけが原因ではなかった。確かに近くの人がどこに行ったかわからないとかの状態はつづいた。自分たちがどうしていいのかと精一杯の状態がつづいたから回りのことを気にする余裕がないのもこの辺だった。


●子供の甲状腺ガンの恐怖


知人の人が孫にまた一つ喉にポリ-プが見つかったという、甲状腺ガンは男女とも生殖能力に影響するから怖いという。子孫を残せなくなるから怖いと言っていた。その人の孫は会津に避難した。
城の近くだという。会津にも避難している人がかなりいる。会津は人口が多いから仕事が見つかって移住した。中通りでも会津の方が安全だとなり移住する人がいるだろう。ただ山形県に自主避難している人が多い。なかなかこの子供の甲状腺ガンについてなどは表に出てこない、一人でも子供が甲状腺ガンになったとなったらこの辺はパニックになるし全国的にも大騒ぎになるからこれは隠されるからわからないのだ。ただ今のところそのポリ-プが癌になるかどうかは不明である。


●ソ-ラ-パネル発電の問題


その知人は仕事として電気関係だからソ-ラ-パネルの仕事が東北電力から頼まれたという、でもそのソ-ラ-パネル発電でも場所を確保するのが大変だという。なぜなら津浪の被害にあったところはまた津浪が来るから利用できない、田畑は利用できないという、それで山側に設置するにしても場所を確保するのが大変だという、ソ-ラ-パネルの問題は日本のような狭いところでは場所の確保が問題になる。日本では狭いから向いていないという面がここにもあった。日本にあった発電というと温泉が多いから地熱発電が望まれた。しかしこれも観光業者、温泉旅館に反対される。新しい発電を試みてはいるがその量を確保するのがむずかしい。電力はそれだけ巨大な規模が必要になってくる。ただこんな状態だから原子力ではない発電が模索されるがそれがまだ見えてこないから原発の再稼働が問題になる。


●小高区が避難区域の解除でももどりたくない人が多い


仮設住宅では南相馬市の小高区が警戒区域が解除されるから来月からもどれるとしてもインフラが整備されていないからもどらないと仮設に入っている人は言っている。特に老人はそうらしい。インフラというとき医者もインフラだと言って災害地で志願して働いていた人がいた。確かに重要なインフラであり水道とかと同じであり医者がいないと住めないというのは本当である。思うに今の時代は人が広い田舎にばらばらに住むのが時代にあわなくなったのかもしれない、でも田舎の生活基盤が農業であるから当然土地が生産のための基盤なのだから広い土地に分散して住んできた。それを簡単に壊せるのかという問題がある。人を街中に集めたら農業はできない、でも車があるから出張して農業をやるということは可能なのだろう。そして鹿島区などは人口が増えたからそこに老人施設とかを作る。街中を便利にするというのは自分にとってもいい、仮設の商店街の食堂は他より200円とかラ-メンとか豚どんなどが280円とか安いから原町からなども来ているという。あういうのができると便利である。人口が街中に増えると暮らしに便利なものが増えてくるのだ。それがコンパクトシティ構想となった。人を集中させて住まわせることは現代の交通が便利になった時代には向いているのかもしれない、ただこれもすべてがいいとはならない、いろいろな問題が生じる。人間を土地から分離させるというのが農民には抵抗があるだろう。そういう生活が延々とつづいてきたからである。


●農家が田畑を耕さないでも暮らせる不思議


それにしても現代はこの辺で食糧を生産しなくても別に金があれば食糧はいくらでも他から入ってくる。例えば昔だったら戦争中でも食糧がなくなったら他から入った来ない、買い出しなどしたがこれも大変な苦労だった。農家では食糧があったが街の人が食糧を手に入れるために大変な苦労をした。それが今はこの辺では農家が食糧生産していないのだから農家自体に食糧がないという異常事態なのである。こんなこと農家でも経験していないだろう。それでも飢饉にもならない、食糧はいくらでも入ってくるのである。だからこういう経済生活は地元すら助け合わないという仕組みを作り出してしまったのである。本当は食糧がなかったら農家の人に助けてもらわねばならないとなり農家なしでは生活は成り立たないとなっていたはずなのである。それだけ農家の価値は前は高いものだったのである。今でもそういう感覚はもっていた。でも減反政策やら交通の発達で農家の価値は低くなった。外国からでも食糧が入ってくるから金さえあればいいとなり金が極端に重いものとなり金だけが頼りだという社会になった。郷蔵とか飢饉のために食糧を貯えていたのが昔の農家だったが今はそれより食糧を買う金の方が大事であり金があれば別に故郷に住む必要はないとさえなる。それで原発の補償金をもらって外に移る若い人がでてくる。老人の世話、姑と一緒にいるのは嫌だと外に去ってゆく。


それも現代なのである。考えてみると田舎もこうした時代にあっても都会化している。都会には田畑がなくても食糧が入ってくる。東京には一千万人住んでいても回りに田畑がなくても食糧が全国から交通が発達しているから入ってくる。食糧が入ってこないという恐怖感もないし田畑がないから別に変だと思っていない、それが普通なのである。だから子供でも田畑を見ていないのだからどうして食糧が米が作られるのかわからなくてもかまわないとなる。田舎では田畑がないと農家が機能していないと不安定になり不安になるのである。これからこの辺は農業を再開できるのか?農業がなくなったら田舎はありえないのではないか?でも現実に農業関係者は今仕事していない、農家自体が外から食糧を買っている、農家の人は自分の食べ物を作ることも食べることもできないとなげているのもわかる。ともかくこうしてこの辺は混乱状態にあり先が見えない、ただ右往左往している人が多いのである。こういう場所では堅実に落ち着いて仕事することがむずかしい。常に動揺があり不安な状態に置かれているのだ。



まず、今回の調査で稲は土壌汚染の1割を吸収する効果があったそうだ
つまり3年も続ければ3割近く放射性物質は取り除かれる

またそもそもセシウムの半分は半減期が2年である為
全セシウムの内少なくとも25%は崩壊する

半減期30年の方も3年あれば7%位崩壊する
つまり3年で3割は減る

全部あわせれば水田に含まれる放射能が半減している事になる


実際には水溶性のセシウムは、大雨が降れば一定量海に流れていったりと
もっと放射能は減ると予想される



放射能は時間が解決するものなのか、二三年だったら何とかなるのか、それまで待つほかないのか


 
posted by 老鶯 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

松川浦の貝殻地蔵


松川浦の貝殻地蔵


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松川浦名取の人の名を記す遭難の碑に春日さしあわれをとどむ


松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠(ひさご)、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。


幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む
http://www.musubu.jp/somakoudarohan.html


ふつう「柄杓」「杓」と書く)水を汲むための器具。2を縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
ヒョウタン・ユウガオ・トウガンなどの果実の総称


瓢箪は中国では、伝統的に薬屋の看板
日本 養老の滝「生命の水」である酒の容器
瓢箪は永遠の生命を象徴するもの
壺中天(壺=瓠)




わたしの耳は貝のから
海の響きをなつかしむ・・・ジャン・コクト-

貝は耳ににている、貝は何か音を聞いている感じに見える。この詩は詩人が特別に感じたことではない、一般人でも別に作家だったり詩人だったりする、そういう素質をそもそも人間は生まれもっていたのだ。民衆の残したものに無数の民話とかも名もなき人が作家になったいたし詩人になっていた。なぜ貝が耳が遠くなったとききくと考えたのかのかそういう詩的な発想があったからである。
そして前にも何回も述べたように人間今でもそうだが病気が一番の悩み事なのである。病気の苦しみは今も一番の問題なのである。耳が聞こえないとなると日常生活で相当不自由するからそうした地蔵ができる。民間信仰が生まれる所以である。貝殻が信仰になったのは海で漁業などを生業としていたからそうなった。瓠をささげたのは長寿を願ってかもしれない、瓠、瓢箪にはそういうことが伝えられている。

名取郡の東多賀村の人が原釜で遭難した。その碑に名前が記されている。橋浦とあるがこれは橋浦家の人が何人か遭難した。ただ明治時代だから碑としては古いとは言えない。


橋浦 陸奥国桃生郡橋浦村 宮城県桃生郡北上町橋浦 奥州千葉氏の流れ。女川城主千葉氏の一族か


橋浦氏は桃生郡に橋浦村があるからそこから移住したのか?千葉氏系統なのか、とにかく橋浦という姓は名取郡にまだあるだろうからその子孫も生きているだろう。明治時代だからまだ子孫が生きている。海では必ず遭難がありそれを記念した碑がある。ただ書類で見るのと碑に記された文字を見るのとは違っている。碑はその場から具体的にイメ-ジされるからリアリティが生まれてくる。これは墓でも同じである。墓の不思議は家はなくなっても墓だけが残っていることがある。そうすると墓が過去を伝えるものとなっている。自分の実家の墓は家がなくなり墓だけが残っている。本当は静岡の方に中卒で金の卵で働きに出て故郷には帰らないはずだった。ところが交通事故になり実家はなくても実家の墓に入ることになった。すると本来は帰らない人が墓に入っているからその人が死んでもいるように意識するのも不思議である。もし墓が静岡の方にあったら墓参りだけで大変だからもう意識すらしなかったかもしれない、墓があるだけその人の存在がなお意識される不思議があるのだ。
記念の碑もそうである。石に記されただけでやはり歴史を伝える重みがでてくる。だからこうした石碑とか墓が郷土史研究では欠かせない生きた資料となるのだ。

新沼観音の飢饉の碑は古い、「春日さし遠き昔や飢饉の碑」という句を作ったときやはり碑が一つの生き物のように見るからこういう句ができる。しかし飢饉であれ災害は遠い昔とはならなかった。災害は必ず再来する、現実に新沼観音の近くまで津浪が来ていた恐怖である。相馬藩では飢饉で三分の一の人口がへったことがあった。それは延々と語り継がれている。それは最大の危機だった。そして今回の津浪と原発事故も相馬藩はないにしろ最大の危機に直面した。こんなとき町長とか市長になっていた人は大変だと思った。その責任も重大となる。ただ市長だけではどうにもならない、全体の危機だからである。この辺の苦悩は本当に深い、海では遭難は時折あるが津浪ほどの被害はない、津浪は村全体が消失するような被害だった。原釜は地形的に被害が大きかった。
 
posted by 老鶯 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)