2012年03月30日

春北風(はるきた)から東風(こち)-松川浦の下り松

 


春北風(はるきた)から東風(こち)-松川浦の下り松

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春北風(はるきた)のなお吹きにつつ下り松


喫茶店窓越しにながむ春の雲


我が町やなべかんむり山に春日かな


初つばめ何か良き便り来たれかし


春北風(はるきた)は山より吹きて東風は吹く海のかなたや広々として


西行のはるか来たらむ下り松春の日さしてさえづりひびきぬ


下り松緑も濃くや影なしてその下行けば春の日さしぬ

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松川浦に西行が笠をかけたという下り松がある。笠松ともいう。下り松は各地にある。ここの下り松はその名の通りの松である。いかにも下り松である。この下り松は形がいい、松は形によって実際はそれぞれ個性がある。原町区の一葉松は貫祿のある大きな松だから見物である。この下り松もいかにも下り松らしい年月を経た松である。下り松は瞑想的しているうよな格好でもある。その下に影なしてその松の枝振り茂りの良さを示していた。夏だったら涼しい松影になる。ただこの辺は車が通り
交差点であり場所としては良くない、だからあまり注目していなかった。でもよくよく見るといい松だなと思った。


筑紫なる下り松浜その浜のあかつき 湖 ( うみ ) に 艤 ( ふなよそひ)せよ 啄木


この歌も不思議な歌である。啄木ほど感性豊かな人はいなかった。それは生まれつきであり天才だったのだ。27才ですでに老いた歌を作っている。27才にして死んでも60才すぎて死んだ感じさえするのだ。インタ-ネットだと「下り松」というキ-ワ-ドで調べたりするとこの歌がでてきた。こういうことは本ではありえないのだ。連想ゲ-ムのように知らないものがでてくるのだ。それを編集すると一つの新しい創作の世界が生まれる。つまり下り松が啄木の短歌と本の世界だったらむすびつくはずがないのである。想像力豊だからこういう短歌が作れた。
筑紫というと何か華やかな感じがする、東北の海とは全く違ったものである。そこに下り松浜というのがあるのも不思議である。


http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1407/3/erar-v44n1p114-132.pdf


ここから引用したけど岩手教育大学の論文である。読みごたえがある論文である。 下り松の松は待つにかけているという、芳子の上京を願って作った歌だとういう。筑紫なる下り松浜・・・というのを知っていたのも不思議である。


筑紫なる下り松浜春風に船の来たらむ韓(から)の国より


ここからこんな連想もできる。

春北風(はるきた)というのも風の感じで作られた日本独特の季語なのだろう。今年は冬が長かった。だから春北風が吹く期間も長かったかもしれないがこの風は寒く感じない風でもあるから短い期間吹く風である。この春北風とともに海の方から東風(こち)が吹く、交互に吹くのが浜通りである。
今年は東風が吹くのが遅かった。寒い北風が昨日あたりまで吹いていた。今日は暑いくらいだった。近くの梅も開いた。そして初燕を見た。ただこの辺は田畑を耕作しないから春耕もない、相馬市は春耕が今まで通りある。ここはない、すると季節感もないし何か異常なありえない世界になっている。
ともかく啄木の恨みは深かった。故郷に住めない恨みは深かった。そのことはこの辺で故郷を追われて住めなくなった人の心情とにているのだ。特にこの辺の場合、老人が故郷に住めなくなったということが深い恨みとなっているのだ。

仮設にそ春の恨みや老女かな


 宮柱めぐり逢ひける時しあれば別れし春の恨み残すな 源氏物語-明石


これも春の恨みとキ-ワ-ドで入れたらでてきた歌である。なるほどなこんな歌あったのかなと思う、そもそも全集とか長いものは全部読んだり記憶できない、だから俳句とか短歌はキ-ワ-ドで読むのがあっているのだ。特に古典の引用は中味あるからそこから自分のイメ-ジをふくらまさせられる。

インタ-ネットでは現代の人のは読むにたえないのがおおすぎる役に立たない。古典だってキ-ワ-ドで読むという読み方があったがそれが今まではできなかった。インタ-ネットでキ-ワ-ドから読んでゆくということが可能になったのである。

その町々には特徴的な山がある。ここの山はなべかんむり(鍋冠山)である。これはいかにもその形をしている。阿武隈山脈は山ではない、高い山がないから不満なのである。富士山のような岩手山のようにな独立峰が望めれば心もひきしまる。伊吹山でもあの山も高いから琵琶湖周辺から見えていた。しかしあの山を良く見ていない、やはり遠い所だとなかなか見れない、旅には行けないからこうしてインタ-ネットの中でイメ-ジを連想して旅するということもある。ただ旅はやはり現地を踏まないと旅にならない、春だからまた遠くを旅したいができない、近くならできるから近くを回る他ないのだ。