2012年03月28日

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか? (弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

 

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか?

(弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

●海沿いに人家が増えたのは米作りの結果


今回の津浪でみんなが思ったことはなぜあんな危険な場所に住んでいるのかということだった。三陸などは何度も津浪に襲われ大被害を受けていたのにやっぱり海近くに住んでいた。それは便利だからという漁業に便利だからそうなった。一方で宮城県から福島県の浜通りは津浪が来ないという思い込みが形成されていた。400年前に慶長津浪の被害があったのだか忘れられていた。でも慶長津浪の後に田を干拓して人は住んだのである。津浪のことを知らないで住んでいたのではない、津浪のすぐあとにも開拓していたのである。その感覚が今ではわかりにくい、その時の主要な産業が米作りであり米なしでは成り立たない生活だった。伊達政宗の伊達藩では特に米を商品化して石巻港から輸出していた。江戸で消費される米の量の3分の1にも達した。この米の量は多い。それだけの米を江戸に出すにはそれだけの田にする土地が必要だった。その土地が得るために海側を干拓したのである。津浪の後にもすぐに干拓している。名取の六郷には相馬藩士も干拓に入っていて記録が残っている。今の感覚だとわかりにくい、米余りであり高齢化でありあきらめるというのが現代の農業の現実である。

しかし江戸時代は米なしでありえない経済だった。売るのも米であり自ら食べるのも米である。米はその両方のために作らざるをえなかったのである。こういうことは戦後もつづいていたのである。

そもそも満州に日本が進出したのは農業をする土地がないというこが原因となっていた。その頃は農業中心の社会だからそうなっていた。あの寒い満州でも日本人は米作りに挑んでいた。それほど米に執着していたのが日本人なのである。だから日本の隅々まで米作りが行われた。その米作り故に海岸沿いにも集落が増えたのである。海岸沿いというとき漁業のことを思うが海岸沿いに人家が増えたのは必ずしも漁業だけではない、半農半漁の生活であり漁民は農民でもあった。漁業といっても塩作りも大きな産業だった。塩田が松川浦でも行われていた。双葉辺りでも戦後まもなく塩田があり塩作りして東京に売りに行っていたという。塩作りは大きな産業であった。塩田が大きな産業となり海側に集落が増えたともいえる。それと同時に米作りも海側に集落が増えた要因だった。磯部村にしてもなぜあれだけの人口があったのか?漁業だけではない、塩田となると原釜の方である。むしろ磯部村の前に広がっている田んぼが干拓されて作られたとき海側に人家が増えた。それは宮城県の広く干拓された名取などとにている。米を運ぶために運河まで作られた。そのために海側に人口が増えた。


●人は便利な場所から不便な場所に住む


村の新旧でも磯部の前は高台の古磯部が磯部であり海側の低地に人家が集中したのは新しい。海老村南海老村と下海老村があり北海老村があり海側の村は新しい村であり烏崎村も前は大内村との間に袋村があった。右田村もここでは漁業はないのだから港もないのだから湿地帯の低地を開拓してできた村である。海側に人口が集中したのはかえって陸地から米作りして増えたのである。漁業だけでは零細であり生活が成り立たなかった。なぜ海岸沿いに人家が集中してきたのかというと干拓して田を作り米作りのために集中したのである。ただ石巻のような港は違っていた。大きな港であり貿易港となっていた。日本は国土が狭いから土地がないから海側を干拓して米作りしてきた。それが今回の津浪の被害を大きくした原因だったのである。人間は人が増えると住むに適した地から不便な所に移るほかない、その土地で一番住み安い土地はその土地で最初に人が住んだ。南相馬市の鹿島区だと浮田国造(うきたくにのみやっこ)の置かれた地域であることが納得がいく。平坦な高台であり前は湿地帯になり海になっていた。海側の住みにくい場所を干拓して住んだのは人が増えて養うのにはそうした不便な所に人が住むほかなかったのである。ネパ-ルでもなぜ高いところ高いところとまるで天空まで人が住むのかというふうにさえ見える高いところに住む。それは山国だから低い所は人が住んで住めない、どうしても不便な地に住むほかないからである。鹿島区でも上萱は戦後開拓に入った人が住んだ。あそこもあんな不便な場所なのに住んだのは住む場所がないからである。


●文明とは自然破壊であり現代文明は自然から復讐を受ける運命に


こうした歴史をふりかえると国土造りを考えさせられる。縄文時代なら人口は弥生時代より相当に少ない、弥生時代になると米作りが盛んになり飛躍的に人口が増えたのである。しかしその人口を増やすために元の自然をかなり無理して使った。もともと海であったような住むには危険な地域も干拓して米作りして住むようになった。縄文時代は自然を無理やり開拓したりする技術もないからそんな無理をしないしできない、だから自然にとって適正な規模の生活をしていた。だから津浪のような大被害を受けることはなかった。そんな危険な場所には住めないからである。結局米作りは実際は相当な自然破壊の側面があった一大文明であった。農耕の道具として鉄器も使用したし灌漑事業でもあり大規模な土木事業でもあった。それで帰化人の技術者が活躍した。青松白砂の情景は日本的な自然な風景となったが実際は人工的な風景だったのである。しかしそれからが津浪で一挙に破壊されたのはショックだった。でもよくよく考えると米作りも一大文明事業であり自然破壊がありそれで自然から復讐されたのかもしれない、米作りなどは自然とマッチしたものであり自然と調和する文明だと思っていた。それでも自然破壊の面があった。文明とは自然を破壊してしか成り立たない側面がある。

米作りすらそうだった。その後の文明は自然破壊が未だかつてない巨大な規模で行われている。
文明が滅びるとか崩壊するというとき自然に対する負担が過重になるとき起こるのかもしれない、

今や文明は過去の弥生時代であれどれだけの過重な負担を強いているか、世界的な経済発展によりどれだけ地球に負担をかけているか、それは恐ろしいほどである。文明が崩壊するというときそうした過重な負担が限度に来たとき来るのかもしれない、その一つが今回の原発事故だった。これも本当は反自然なものであり自然破壊する最たるものだった。自然にない物質、毒を生み出して半永久的に自然を汚染してしまうものだった。一見そういうことを明確に認識できなかったが事故が起きてみんなその危険性を嫌でも認識させられたのである。原子力によって原子力文明によって自然は致命的に破壊され文明そのものが衰退して崩壊する。過去にもマヤ文明などが崩壊して消失した。その原因はわからないにししても高度な天文学や科学技術文明があった。それが何らかの原因で崩壊して衰退して消えた。それは原発事故と同じ様なことが起こったのかもしれない、そうした事故によって一挙に衰退し消滅したかもしれない、そういうことありうるんだということを原発事故から知ったのである。なぜ過去の文明が古代文明が崩壊して消失したとかが不明なのは人間では予測できないことから起きているからである。今回の津浪も想定外の自然の力が加わり原発事故が起きた。予測し得ない力が自然にはありとてもそれに備えることは人間にはできない、そこに人間の限界がある。だから原発のような危険なものは作ってならない。文明が滅びるのは人間の予測し得ないものから起きる。人間は未来をしることはできない、未来は神の手の中にあるからだ。それを知ることはできないのである。それは個々人の運命すらそうである。個々人の宿命や運命も不可解なものと同じ様に人間の未来もしりえようがないからだ。

つまり文明は予測しえない、意外な原因で滅びる・・・・


穏やかな雲間に雷雨が潜むように

今日私に媚びるものが明日には私を傷つける

ほとんど重量とてないとるにたらぬ原子から

世界は最後の審判を受ける
(ハンス、カロッサ)


偶然に原子力が発見された、そしてその原子力が核が基で世界が滅びる、それは予測すらできないことだった。人間は全く予測しえないことで滅びる、予測しえないからこそ人間は危険を知らずに住んでいる。でもある時原発事故のようなものが起こりたちまち滅びてしまう。神にはかわっていた、そんなものに人間よ、手を出すなと・・ただ警告しても人間はきかないから滅びる。神によって滅ぼされるのである。いづれにしろ今回の津浪や原発事故ほど驚いたことはなかった。一年たっても以前としてこれは何なのだろうという疑問が消えないのである。
 消えた村

一瞬にして村は消えた

その自然のなみする力の脅威よ

ここの集落に一軒の家もない

もとの海岸の砂州、砂地にもどった

ぼうぼうと風が吹き集落の跡は砂に埋もれる

 千本の松は一挙に消えさり

ただ一本の二本の松が辛うじて残っている

ここにあったものは何もない、何もない

ただ人は茫然とたたずみ無常

何もない、何もない、ただ風の音、浪の音

思い出は砂に埋もれてしまった

一枚の写真が残る、それが過去の記憶

あとはみな消え去ってしまった

ここにも春は来たが春はない

村人は散り散りになり人はもうここには住まない

無人の境にただ風が鳴るのみ


 

posted by 老鶯 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係