2012年03月27日

津浪から一年すぎた松川浦-(海老村)の写真


津浪から一年すぎた松川浦-(海老村)の写真


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海老村は墓所が残り家はほとんど消えた。

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パノラマ写真

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八沢浦干拓の碑

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磯部の近くの神社の杉

塩害で枯れるから切ったのか?はらまち一葉松も塩害心配されている。

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岩の子の蔵は残っていた

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岩の子の塩釜神社

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慶長津波の後に復興して建てられた

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船溜には船が積み上げられていた
あそこは一軒も家がなくなった


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パノラマ写真(クリック拡大)

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原釜に残った松

沖には船が見えた。


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新沼までは津波は来ないにしろかなり近くまで来ていた。
飢饉のことはもう忘れて春の日がさしていた。
しかし津波は近くまで来ていたのだ。飢饉は語られていたが津波のことは
語られなかった。津波の被害も大きかったはずなのに語られなかった。
飢饉で三分の一人口へったから飢饉の被害の方は語られ続けていたのである。


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沖に船海面光りて朝雲雀

津浪こぬ高台にさす春日かな

春日さし遠き昔や飢饉の碑


家消えて墓所のみ残る海老村に春の日さすもあわれなるかな


大杉のここに一本社あり春の日さして形見と残す


津波にも残る文字島春日さし向き合う形しげしげと見ゆ

津浪にも残れる松や春日さし船の入りくる原釜の港


春北風(はるきた)に松川浦の波だちぬ鴎飛びつつ港の跡かな


船溜(ふなだまり)春の日させど荒寥と松川浦に松の残骸

飢饉の碑遠き昔や春日さしまじかに迫る津波の恐怖


海近く湿地の沼に春の日のまばゆく光り雲雀鳴くかも



家とか松原がなくなったから見晴らしが良くなった。遠くに船が見えて春の日に光り雲雀が鳴いていた。海老村では墓所だけが高いところにあり家は消えた。墓参りはできても家がないからがっかりするだろう。この逆だと良かった。墓は流されてもいいから家が残っていればなと思うだろう。
他でも墓は残って家がなくなっている。石巻がそうだった。墓は残り先祖に祈り家はないというのも奇妙である。


磯部は古磯部がありそれは高台の方であり磯部で古く住んでいたのは高台の方だったのだ。古町が古いのであり古磯部が古いのである。低地に住んだのはあとだった。磯部は砂州のような地形になっていた。そういう危険な場所に住んだのは慶長の津浪の後だろう。でもその記憶があれば怖いから住まないとなるが便利だから住むようになった。松川浦から魚をとるようになって住むようになった。
磯部は家が多かったから被害も大きかった。一軒の家も残らなかった。

磯部から少し離れたところに神社があった。あそこにあったのを知らなかった。大きな杉が一本あった。それもきられた。半分残っているのが奇妙だけどずいぶん大きな杉だったことがわかる。


松川浦には杉の残骸がまだかたづけられず大量に残っていた。どれだけの松が流されたかわからない。岩の子に蔵が一つ残っていた。あそこはかなり津浪の被害が大きかった。浦にも近いから津浪の衝撃も強かったが蔵はそっくり残っていた。蔵は津浪にも強いのかもしれない、岩の子の塩釜神社は小高い丘にあった。あそこに逃げれば助かった。あの神社は慶長津浪があった次の年に復興して建てられた。小高から中村へ今の相馬市に城を移したのが慶長津浪から一か月後であり次の年に復興したとあるから津浪の被害があって復興したと記したのかもしれない、ただ神社が建てられたのはそれより300年前とかになっている。それが本当だとすると神社もずいぶへ古いとなる。津浪は余りにも被害が大きいし驚くべき恐るべきことだから何らか記念として残すということがあっても不思議ではない、ただ時間がたつにつれて忘れられてしまったのである。


文字島が残ったのは不思議である。あれだけの津浪だから破壊されても不思議ではない、でも残っていた。津浪に残るというだけでそれが貴重なものに見えるのも確かである。この形が人が向き合う形でもある。一方は男であり一方は女にも見える。この島にはさほど注目していなかったが津浪に良く残ったと思い今回は注目した。


原釜の津神社(つのみや)は高台にある。あれも慶長津浪の記念に建てられたのか縁起は記されていない、でもあそこに逃げれば確実に助かった。松川浦は一軒食堂をやっていたが閑散としている。
高台は春の日がさして助かって良かったなとぽかぽかした気分になるが被害のあった地域は悲惨である。高台で家が助かっても回りが悲惨だし仕事も松川浦全体でしていたから影響をもろにうける。高台で助かったとしても回りの影響で仕事にならないとか空き地や空家があった。これは石巻とかでも同じである。あそこも全体への影響があまりにも大きすぎたのである。


松川浦の原釜から新地の方に行くと沼があった。溜池らしいが湿地帯の沼に見えた。もともとこの辺は湿地帯で沼が多かったのだ。海岸近くは湿地帯であり沼地だったのである。

原釜とか釜石とか鎌倉とある釜は噛まれたような地形と指摘していたがそうかもしれない、それより釜は鎌であり鎌の形をした地形である。原釜もそうであり鎌倉もそうである。地名は地形と密接に関係していたのである。

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posted by 老鶯 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係