2012年03月11日

黙祷(震災津波より一年)


黙祷(震災津波より一年)

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津波より一年過ぎぬ亡き人の思いの深くここに留まる


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


北海道日本海側磯菊の咲きつづきつつ風の荒しも

震災から津波から一年たった。海の方に向かって黙祷した。故郷というとき今の時点だけではない時間がそこには積み重なっている。死者も故郷にいるのだ。墓参りの地として故郷もある。死んだ人とともに思い出がそこにあるのだ。だからなかなか故郷を離れられない、田舎だとどうしてもその土地に愛着をもつし土地と一体化する。長く住むとその土地の樹や石のらうになってゆく・・・それが生物として自然なのことである。そして故郷の土になる。時間のなかで積み重ねられたものはなかなか外の人には理解しにくいのである。だから旅してもその土地の歴史を理解することがむずかしい。特に外国にゆくとそうである。二千年の歴史があるといってもその場にたっても理解できないのである。それは東京にもう日本人だって江戸時代をしりえようがないのと同じである。余りにも変わりすぎてしまったからである。そうした時間として積み重ねられた歴史を奪ったのが原発事故でもあったのだ。

富岡町でまだ生活していた人がいた。90何才かの母親を介護しているから家で死にたいといっていたから家に留まった。原発事故では死んだ人は一人もいないというがその関連で百人くらい死んでいる。老人が衰弱して死んでいるのだ。自分の家も同じ介護があったから逃げられなかった。そのことを余り報道されていないのである。今回は実際はこれだけの被害だから報道されないことはいくらでもある。1万5千人も死んだらその一人一人が語られないからである。特別目立ったものしか語られない、そして数が多いからみんなに注目できないのである。
南三陸町というとき前は志津川町と言っていた。町名が変わったから今まであそこが志津川町だと思わなかった。町名が変わることも困る。川にちなんだ名前だがその志津川を津波がさかのぼったことを知ったから思い出した。南相馬市も名前が変わった時、何かしっくりこない、なじんでいないからそうなる。原町市というのがなじんでいたからその方がピンとくる。あんまり市町村名は変えない方がいいということがこれでもわかる。志津川町は志津川というとひびきが良くかえって前の名前が良かった感じがする。南三陸は広い地域にしたからわかりにくくなったのだろう。南三陸は他から見てわかりにくいのも難点だった。

津波はまず川からさかのぼってくる。多賀城の砂押川もさかのぼった津波を見たとき恐怖した。あの小さな川に津波の水があふれたのである。ここも真野川から津波がさかのぼりあふれるということがあったから恐怖した。それにしても志津川町は前が穏やかな湾で静かな町であった。陸前高田も大きな広田湾があり静かな所だと思った。それが一転して悲惨なもの凄惨なものになった。津波にとっては危険な場所だったのである。


志津川町で記憶に残っているのは巌に大きな白い浜菊が咲いていたことである。あそこでも長い間訪ねたことはないから記憶から薄れていた。だから南三陸町になったということがわからなかったのだ。海辺に咲く菊というときこの辺では南限の地として車輪梅が有名であった。それも根こそぎ津波でなくなった。それから北海道の留萌辺りを自転車で走っていたとき、磯菊が咲きつづいていた。
黄色の磯菊は日本海側にあった花だった。地に根を張り生命力がある花の感じだった。やはりその土地にあった花というのがある。車輪梅というのは奄美の方に咲く南国系なのである。

太平洋側の黒潮流域としてつながりがあった。これは明るい感じであり磯菊は何か渋い感じの花である。日本全国を旅ばかりしていたけどその土地にあったものが思い出となる。花もその土地にあったものだと思い出として残る。ただ思い出も日々薄れてゆくだけなのである。留萌辺りは風が強いことで有名な地帯だった。自転車で走るのには向いていなかった。それも記憶が薄れてしまったのである。これが車だとその風の記憶さえ覚えていないだろう。便利なんだけど記憶に残る旅をしないとあとでふりかえることもできなくなる。


震災から津波から一年たったけど自分の住んでいる場所は原発事故から30キロ圏から数キロ離れたところであり津波の被害もなかった。飯館村のように放射能の被害もあったにしろ故郷を離れるようなこともなかった。そういうことで比較的客観的に冷静に見れる立場にあった。だから俳句とか短歌を書けた。当事者の気持ちにもある程度なれた位置にあった。被害をもろに受けた場所にあったらこうして客観的に冷静になっていられなかった。現実に津波で家も家族もなくした人はその場に立ったら川柳も作られなかったのである。ものを書くにはやはり客観的にならないと書けないのである。
自らが過酷な被害者になると客観的になれない、いろいろ書けたのはそういう客観的立場にたてる位置にあったからでる。

posted by 老鶯 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係