2012年03月10日

今年は寒さがつづく(震災から一年)


今年は寒さがつづく(震災から一年)

里の川よりそいにつつ鴨幾羽なお雪ふりて春はまだしも


家もなく墓も消えにき身一つの残りてあわれ春になるかも


これも写生である。鴨幾羽というとき4、5羽くらいで少なかったのである。普通10羽とかであり何か少ないからかえって雪がふり淋しい感じになったのである。
鴨は冬の季語であり春になれば春の鴨となる。今年の冬は長い、こんなにまた雪がふるのはめずらしいだろう。

里の川というとか、兎追いしかの山・・・いうとき兎は町外れで何回か見た。兎は意外と田舎なら町近くにいる。だから兎追いしという風景は日本の田舎ではどこでも見られたのである。
その里の川も放射能汚染になったときがっかりした。浪江のように住めなくなるということはなかったが放射能汚染ばかりが話題になることに嫌になる。


真野川を通じてここは明かに飯館村と密接に結びついていた。飯館村の山林から水が流れ真野ダムにたまるからである。飯館村は三つに住むところが分けられる。町のある草野辺りはなんとか住めるようになるのかもしれない、住めない地域もでてくるだろう。放射線量は公式に発表しているより実際は高かった。草野辺りで草むらで8マイクロシ-ベルととかあった。発表しているよりずっと高いと地元の人が言っていたけど本当であった。

飯館村は南相馬市にとってもともと山中郷として相馬藩だったから歴史的にもそうだし地理的にも一見隔絶されているようで水の流れで一体化しているように一体化していたのである。
そして実生活だけではない、精神的にも地形を通じて一体化していた。それで詩にしたりしていた。人間の思想形成がその風土から成されることはまちがいない、芸術もその風土から生み出される。
自分にとってだから飯館村は精神的に一体化していたのである。


ただ飯館村は警戒区域のように閉鎖されていない、まだその土地に行けるからましである。
そして放射能で木が枯れたり葉が枯れたり水が汚れたりしないのだ。花もやはり春になれば咲くだろう。その土地自体がなくなるわけではない、警戒区域はその土地に入れないからその土地自体を失った気分になる。


ともかく震災から一年が過ぎた。津波で家も失い墓まで失い身一つで逃げた人の心境を察することはできない、川柳ですっぴんで身一つになったとか心境を現していたけど壊滅した自分の家の前に立って川柳を作れな気持ちがわかる。あまりにも凄惨すぎたのである。それでも春はくる。

身一つでも春はくる。死んだ人にはすでにもう春はない、もはやただ今生きているということが価値あることになっているということもある。一年はやはり一つの区切りとなる。


 

深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた (津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)


深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた

(津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1331076028/

陸前高田にボランティアに行った
そこで地元の人の話を聞いたんだが
「生き残った人は津波を見て死に物狂いで逃げた人が多い

死んだ人は波を見ることが無かった人だ」と言うことだった


津波を見なかったので、最後までのんびりして死んだ人が多いらしい

そうすると波の見えない夜中は警察の言うように
死者は爆発的に増加したはずだ 本当に昼間で良かった


こういうこともあったんだな、磯部の人も一波の浪が防波堤を越えてから車で逃げた。他でも最初の浪は大きくない、でも浪が防波堤を越えて来たら即逃げないとまにあわない、津浪を見ようと海の方に行った人はかなりいる、津浪はなかなか経験したものしかわからないのだ。
テレビでは津浪を見てから必死に逃げていた人がいた。あれでも助かっている。津浪を見て必死で逃げれば助かることもありうる。津浪を見ない人は助からなかったということはわかる。
津浪が家にさえぎられて見えないので恐怖を感じず被害にあった人がいる。


海は今は松原や家や街にさえぎられて見えない場所が多くなっている。相馬から宮城の海岸線でも海が見える所がないから普通海を意識していないのである。山元町でもあそこであれほど被害にあったことに驚いた。そんなに海側に家があったのか、松原で海が見えないから普通海を意識していないのだ。駅には新興住宅地があったから家があったことはそれなりに意識していた。ただ海は意識していなかったのである。例えば今回のように松原も家もなくなり海が広々と見えるようになったとき、もし津浪が来たら肉眼で見て津浪を来るのを知ることができた。他の人も高い建物から津浪を来るのを見ていた。それでビデオにとっていた。その様子は危機感がなかった。、たいしたことないと見ていた。最初はみんなそうだった、だんだん高くなってきたので驚いたのである。


津浪に関しては経験がない人がほとんどだからのんびり構えていた人が多かったのである。だから海の方に見にゆくとなった。昼間だから津浪を見て裏山に逃げたりして助かった人はかなりいた。
裏がすぐ小高い丘になっている所がありそこに逃げて助かった人がいた。津浪が来るのを見えて家の裏山に逃げて助かった人もいる。昼間だから津浪が見えて助かった人は確かにかなりいる。夜だったら津浪が見えないから死者が十万人とかありえたかもしれない、夜はそれだけ津浪では危険だったのである。津浪に対する危機意識は低いから余計見ない限り逃げないという人もいた。


南相馬市の鹿島区の大内の人も右田浜の松原を軽く越える津浪を見てからトラックで逃げたと言っていた。これも津波を見てから逃げて助かった一人である。もし夜だったら逃げられず流されて死んでいたかもしれない、昼間だったということが幸いしたことは確かである。
つまり津波を見て逃げて助かった人がかなりいるということは夜だったら被害は十倍にも拡大していたということはありえる。考えてみると津波が夜来た場合の訓練をしていない、津波の避難の訓練は昼にしているからだ。こういう所も盲点なのである。今度は夜に地震がきて津波が来るかもしれないのだ。そういう備えをしている人は少ないのである。そしてまた大きな被害になる。
東京辺りでも夜に大地震がきて停電になったりしたら情報も入らないしパニック状態になり騒乱状態になり被害が拡大化する。懐中電灯すら探せず真っ暗な中で取り残されて津波が襲ってきたら最悪である。


ともかく現代は海が近くても海が見えない所に住んでいる人が多い、津波の映像でも家が密集しているから津波が襲ってくるのが見えないのである。松原によってもさえぎられているから遠くから津波が来るということは見えない、海は今は松原であれ家であれ高い建物であれさえぎられて見えないことが多いのである。海が近くても海を意識しないことが多いのだ。そこが盲点となり津波の被害を拡大化した。自分の場合、郷土史とか研究してここはもともと海であったとか常に書いてきた。その所が津波で海になったことに驚いた。もともと海だったところは何らか海として意識する必要があったのかもしれない、多賀城市でも東松島町でも自衛隊の駐屯地として海側に作ったのは失敗だったと今は反省している。ここでも津波の備えはなかった。ただ多賀城市では奥に入った地域だから津波は来ないとされていた。でもその見通しが甘かった。そもそも太古は海が深く入り込んでいた。それで沖の石があった。そこまで海の底だったのである。

そういう太古の状態があった。都会化したことによって海が見えなくなり海は意識されなくなっていた。多賀城市などは全く海を意識できなくなっていた。多賀城市の場合、駅前の砂押川に津波があふれたのである。この川はかなた海に近かったのである。ただ家やマンションやビルや工場地帯が密集しているから海の視界が全くさえぎられてしまったのである。川は津波では遡上してくるから危険だった。川を通路にして津波が遡上してくるからである。

今はどこでもそういうことがありうる。海は松原であり家であれ工場であれ何かそうした文明化したものによってさえぎられ見えなくなっている。海が意識されにくくなっているのだ。

海に囲まれた日本なのだけど意外と海の近くでも海を意識していないのである。海岸沿いに住んでいても海がさえぎられていることが多いと海を常に意識しているわけではないのだ。
ともかく江戸時代に松原を防潮林として作ったとき海への視界がさえぎられた。そのことを危険なものとして指摘する人はいない、松原は白砂青松の日本的風景として定着していたのである。
松原は美しいのだけど遠くから海が見えにくくなったとか気にしている、危険を感じた人はまれだろう。ただ津波がおしよせてからその津波を見て逃げて助かった人はかなりいる。津波は見えてから逃げても助かるということである。地震は見えないから助からない、津波は一応見えるので見てから逃げて助かる確率があるということなのだ。

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

http://musubu.sblo.jp/article/54362182.html

posted by 老鶯 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係