2012年03月09日

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌 (南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌

(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

●津浪で意識させられた海

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八沢浦の夜雨  磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐    雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


南相馬市の鹿島区の八沢浦は歌枕として注目されていない、地元の人でも注目していない、ただ今回の津浪で八沢浦が元の満々と水をたたえた入江にもどったときほど驚いたことはない。前からここは海だったと想像してその合成写真も出していた。実際に海になったときは想像を越えていた。
浪が奥に打ち寄せキラキラと春の光にきらめいていたのである。この光景を見たのは一回だけだった。浦浪というのをここではじめて見た。この辺は海岸沿いは荒波しかないのである。だから入江があり浦浪がよせる景色はなんとも穏やかで美しいものだった。それは一時奇跡の光景だった。
ここは明治になってから開拓されたのである。


磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


磯というときこれは入江が磯となっていたのだろう。この辺では磯はない、浪のうきねというとき入江によせる浦浪だった。そもそも磯桜という表現はあまりしないだろう。これを歌った人はやはり海辺の磯のある所に住んだいた人なのか?京都の人でもそういう風景に親しんだ人かもしれない。
浦浪がよせてきて旅人は興奮して眠れない、そういうことは旅では良くある。桜が咲いていたということは美しい光景だった。それは入江があり浦浪がよせることで美しい光景となっていたのである。長岩というのも海に浮かんでいた。確かに長い岩であり松がその上に今もある。
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎の歌の草原も地名だと考証した。その塩崎の市庭とか船着という地名が残っているところまで津浪が来たことには驚いた。古代の海の情景を津浪が再現したのである。


八沢浦は八つの浦だった
http://musubu2.sblo.jp/article/44187778.html


今回の津浪の影響はより海を意識するようになった意識させられたのである。海は別に近いのだから特別意識する必要もないというが常磐線で海が見える所はわずかだから電車に乗っても海を意識しない。相馬から仙台で海を意識するのは新地駅だけどそこもわずかかしか海が見えないのだ。今回の津浪で六号線でバスでゆくと広々と海が見えるようになった。今までは町や松原でさえぎられて海が見えなかったのである。浜吉田とあっても浜だから浜があるはずだけどあそこで海を意識したことは一度もないのだ。海はかえって遠くにあると思っていたのである。その浜吉田駅まで津浪が来たことには驚いた。昔は広々と仙台までの常磐線沿いは海だったのである。


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六号線のバスから海の方を見たら沖に船が見えた。まずこうした景色は見れなかった。海は近くても見えなかったのである。景観が変わってしまって海が広々と視野に入ってくる。一面この光景は海を意識させるし新たな景観を作り出したというより元の海の景色を再現したといえる。


●末の松山をたずねる


末の松山は多賀城駅から近い、多賀城駅まで津浪が来たのも驚きであった。今度は高架橋を作り駅を作っていた。末の松山は砂押川の橋を渡り近かった。駅からもその松山が見える。末ノ松山から沖の石まではかなり落差があり末ノ松山の下が海でありあの石が沈んでいたのだろう。その感覚はやはり歩いて見ないとわからない、あの辺には古い農家があり蔵が残っていたからわかった。そこにも津浪の被害があった。新しい街並のなかに古い農家が埋もれていたのである。津浪でも蔵はここでも残っていた。


春の暮末の松山残りたる松二本や浪こさじかも


享保四年(1719)の「奥州観蹟聞老志」に「丘上有青松数十株」とあり、当時、数十本の松が群生していた。しかし、仙台藩の儒学者舟山万年が著した「塩松勝譜」によれば、それから百年ほど後の文政六年(1823)ごろになると、わずか五本を残すのみとなった。

末松山(末音寿衛)。附宝国寺。八幡坊々側寺アリ。宝国寺ト云フ。寺後ニ高丘アリ。累々墓ヲ為ス。是末松山ナリ。往時ハ松樹、山ニ遍満ス。今存スルモノ僅カニ五株。而シテ其最モ東ノ一株、之ヲ末松ト称スルナリ。
(「塩松勝譜」)


多賀城は高いマンションとか工場地帯でありここは確かに太平洋汽船の船がでているから何度も利用したにしろ多賀城でもビルや家にさえぎられるから海を意識しない。海が全くさえぎられているし海が見えないから海を意識しないのである。だからあえて歌枕の地でも訪ねることはなかった。そういう情緒がまるで感じられないものとなっていたのだ。それはすでに江戸時代にも古代の面影はなくなっていた。あの辺で古代を感じることはほとんどなかった。ただ今回の津浪で古代の海を意識するようになったのである。多賀城駅の前の砂押川にも津浪が押し寄せて被害があった。津浪はまず川をさかのぼる。それでこの辺でも被害があった。この川は実際は海に近いからかなりの勢いで津浪が押し寄せた。それではじめてこの川は海とつながっているのかと意識した。普通あの辺は住宅が密集してビルが高いから海を意識しないのである。つまり今回の津浪は今まで海を意識しないところが海を意識させられたのである。だから砂押川に鴎が飛んでくるとき海が近いから当然鴎が飛んできてもおかしくない、鴎も津浪と同じ様に川をさかのぼる。それで枯葦がしげっていたので古代の風景を思い浮かべることになったのである。今まではこの辺は何か都会化した殺風景なものとしてしか見ていなかったのである。


枯葦に昔の面影砂押川


早春や多賀城駅に鴎飛ぶ

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こんな句ができたのも津浪の影響だった。それから野田の玉川の昔の光景も浮かんできた。


ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり 能因


ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集-西行)


仙台藩の儒学者佐久間洞巌著「奥羽観蹟聞老志」(享保四年<1719>刊)によれば、「野田の玉川」は、往昔、月影を映し、海水が遡る河流だったが、当時、既にその面影はなく「唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ」の小流になっていたという。


「思惑の橋」というときここがすでに人間臭い橋となっていた。でも古代は淋しい風景だった。
潮風が吹き千鳥が鳴くのみの淋しい光景だった。そういう光景をこの辺からは全く思い浮かべることもできなかった。情緒が全くない景色だったのである。まず潮風自体感じないし吹いてこないのである。津浪で見直すべきは多賀城を中心とした地域は海に近く海を意識しないでは語られないものだったのである。だから浮島神社があるというのもそのためである。多賀城近くに海に浮かぶ島があったのである。そしてなぜこれほど末ノ松山とかが都の人に意識されたのか?

それは貞観津浪というのは赴任した都の人にとっては驚くべきものであり忘れられないものとなっていたから京都に伝えられた。貞観津浪の供養のために祇園祭りがあったということもそのためである。それだけこの津浪は衝撃的だったのである。

宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)


こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
小鶴新田辺りから多賀城辺りまで今も田野が広がっているからかえってあの辺が古代を偲べる。多賀城市は家が密集してビルが高いからかえって古代を意識できないのである。歴史はやはり地理であり原始の状態からその歴史をたどる必要がある。それが都会化するとできなくなるのだ。今回の津浪はそうした古代の情景が再現されて海をより意識させられたのである。


仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html

 
posted by 老鶯 at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった (松島は普通に観光できる)


松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった
(松島は普通に観光できる)

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松島の地形は複雑であった。200くらいの島がありその位置関係がわかりにくいのだ。松島の津浪の被害は少なかった。今行ってみるとどこが津浪の被害を受けたのかわかりにくい、石巻とは大違いである。観光に行っても別に悲惨な状態がないからいつものとおり観光できる。それでも観光客が半分に減っているという。その原因が津浪というよりは原発の放射能の風評被害だという。放射能の方を怖がっている。これも変だなと思った。ただ牡鹿半島から一関の方に放射性物質が流れ一関にホットスポットができたというのは風の流れでそうなったのである。風の影響でとんでもない遠くに影響するのが放射性物質の流れだった。

それにしても津浪は瑞巌寺の門を入ったが本堂に入る入り口の入場券を売るところでとまっている。あの辺までしか来なかったのかという意外さである。地図を見ればわかるように宮戸島や寒風沢島とか大きな島がありそれによってさえぎられたのである。あれは島ではなく半島かと思っていた。

この辺の地理はわかりにくい、地図を見れば確かに松島はこの大きな島によって守られていたのだ。一方宮戸島や寒風沢島とか防波堤の役割をした島はそれなりに被害が大きかった。
そして多賀城市もかなりの被害があった。前に島があっても宮戸島や寒風沢島のような大きな島ではなかった。それでそれなりの被害があった。塩釜も被害があったがここは多賀城市の隣でも入江となっていたので津浪の勢いをそいだ。津浪は地形によって被害が違っていた。前にちょっとした丘のようなものがあっても津浪の勢いがそがれる。津浪をまともに受けた海岸線は壊滅した。


松島の人が言っていた。風呂の水があふれるように津浪が来た。なるほどと思った。もろに津浪が根こそぎ松や町を破壊したりしなかった。徐々に水があふれ水かさがましてゆく、1.2メ-トルくらいの高さで確かに松も水にくぐったとしても松は倒れなかった。水の勢いがただ風呂の水があふれるように徐々にあがっただけだったからである。石巻の方を見れば前に何もない、海の前に島もなにもないからもろに津浪を受けて被害が甚大なものになったのだ。津浪の被害は今でも凄惨な感じがする。相馬辺りでも磯部は一軒も家がなくなった。石巻でもそうだが凄惨なものを感じてしまう。

しかし松島はそういう凄惨も被害はない、どこが被害にあったのだといぶかる。海に面した松や樹が倒れて流されたというがそれもほとんどわからないのだ。松は今まで通りあるからどこが被害にあったかわからない、牡蠣は被害にあって半分にへったという。今までは大きな牡蠣を出していたが小さな牡蠣でまずかった。そういう影響はあった。風景そのものは何ら変わっていないからほっとした。ちょうど春の日がさしていて海は穏やかに輝いていた。松島だけは地形によって救われた感じだ。

野蒜海岸でも前に大きな島がないから大きな被害になった。あそこの松は流された。

いづれにしろ松島は別に観光でも普通に行けるし違和感がない、石巻などは観光というわけにはいかない、まだ凄惨な感じが生々しく残っているからだ。それであそこだけは救われた感じがした。
風光明媚な風景は何ら変わっていなかったのである。

posted by 老鶯 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係