2012年03月28日

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか? (弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

 

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか?

(弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

●海沿いに人家が増えたのは米作りの結果


今回の津浪でみんなが思ったことはなぜあんな危険な場所に住んでいるのかということだった。三陸などは何度も津浪に襲われ大被害を受けていたのにやっぱり海近くに住んでいた。それは便利だからという漁業に便利だからそうなった。一方で宮城県から福島県の浜通りは津浪が来ないという思い込みが形成されていた。400年前に慶長津浪の被害があったのだか忘れられていた。でも慶長津浪の後に田を干拓して人は住んだのである。津浪のことを知らないで住んでいたのではない、津浪のすぐあとにも開拓していたのである。その感覚が今ではわかりにくい、その時の主要な産業が米作りであり米なしでは成り立たない生活だった。伊達政宗の伊達藩では特に米を商品化して石巻港から輸出していた。江戸で消費される米の量の3分の1にも達した。この米の量は多い。それだけの米を江戸に出すにはそれだけの田にする土地が必要だった。その土地が得るために海側を干拓したのである。津浪の後にもすぐに干拓している。名取の六郷には相馬藩士も干拓に入っていて記録が残っている。今の感覚だとわかりにくい、米余りであり高齢化でありあきらめるというのが現代の農業の現実である。

しかし江戸時代は米なしでありえない経済だった。売るのも米であり自ら食べるのも米である。米はその両方のために作らざるをえなかったのである。こういうことは戦後もつづいていたのである。

そもそも満州に日本が進出したのは農業をする土地がないというこが原因となっていた。その頃は農業中心の社会だからそうなっていた。あの寒い満州でも日本人は米作りに挑んでいた。それほど米に執着していたのが日本人なのである。だから日本の隅々まで米作りが行われた。その米作り故に海岸沿いにも集落が増えたのである。海岸沿いというとき漁業のことを思うが海岸沿いに人家が増えたのは必ずしも漁業だけではない、半農半漁の生活であり漁民は農民でもあった。漁業といっても塩作りも大きな産業だった。塩田が松川浦でも行われていた。双葉辺りでも戦後まもなく塩田があり塩作りして東京に売りに行っていたという。塩作りは大きな産業であった。塩田が大きな産業となり海側に集落が増えたともいえる。それと同時に米作りも海側に集落が増えた要因だった。磯部村にしてもなぜあれだけの人口があったのか?漁業だけではない、塩田となると原釜の方である。むしろ磯部村の前に広がっている田んぼが干拓されて作られたとき海側に人家が増えた。それは宮城県の広く干拓された名取などとにている。米を運ぶために運河まで作られた。そのために海側に人口が増えた。


●人は便利な場所から不便な場所に住む


村の新旧でも磯部の前は高台の古磯部が磯部であり海側の低地に人家が集中したのは新しい。海老村南海老村と下海老村があり北海老村があり海側の村は新しい村であり烏崎村も前は大内村との間に袋村があった。右田村もここでは漁業はないのだから港もないのだから湿地帯の低地を開拓してできた村である。海側に人口が集中したのはかえって陸地から米作りして増えたのである。漁業だけでは零細であり生活が成り立たなかった。なぜ海岸沿いに人家が集中してきたのかというと干拓して田を作り米作りのために集中したのである。ただ石巻のような港は違っていた。大きな港であり貿易港となっていた。日本は国土が狭いから土地がないから海側を干拓して米作りしてきた。それが今回の津浪の被害を大きくした原因だったのである。人間は人が増えると住むに適した地から不便な所に移るほかない、その土地で一番住み安い土地はその土地で最初に人が住んだ。南相馬市の鹿島区だと浮田国造(うきたくにのみやっこ)の置かれた地域であることが納得がいく。平坦な高台であり前は湿地帯になり海になっていた。海側の住みにくい場所を干拓して住んだのは人が増えて養うのにはそうした不便な所に人が住むほかなかったのである。ネパ-ルでもなぜ高いところ高いところとまるで天空まで人が住むのかというふうにさえ見える高いところに住む。それは山国だから低い所は人が住んで住めない、どうしても不便な地に住むほかないからである。鹿島区でも上萱は戦後開拓に入った人が住んだ。あそこもあんな不便な場所なのに住んだのは住む場所がないからである。


●文明とは自然破壊であり現代文明は自然から復讐を受ける運命に


こうした歴史をふりかえると国土造りを考えさせられる。縄文時代なら人口は弥生時代より相当に少ない、弥生時代になると米作りが盛んになり飛躍的に人口が増えたのである。しかしその人口を増やすために元の自然をかなり無理して使った。もともと海であったような住むには危険な地域も干拓して米作りして住むようになった。縄文時代は自然を無理やり開拓したりする技術もないからそんな無理をしないしできない、だから自然にとって適正な規模の生活をしていた。だから津浪のような大被害を受けることはなかった。そんな危険な場所には住めないからである。結局米作りは実際は相当な自然破壊の側面があった一大文明であった。農耕の道具として鉄器も使用したし灌漑事業でもあり大規模な土木事業でもあった。それで帰化人の技術者が活躍した。青松白砂の情景は日本的な自然な風景となったが実際は人工的な風景だったのである。しかしそれからが津浪で一挙に破壊されたのはショックだった。でもよくよく考えると米作りも一大文明事業であり自然破壊がありそれで自然から復讐されたのかもしれない、米作りなどは自然とマッチしたものであり自然と調和する文明だと思っていた。それでも自然破壊の面があった。文明とは自然を破壊してしか成り立たない側面がある。

米作りすらそうだった。その後の文明は自然破壊が未だかつてない巨大な規模で行われている。
文明が滅びるとか崩壊するというとき自然に対する負担が過重になるとき起こるのかもしれない、

今や文明は過去の弥生時代であれどれだけの過重な負担を強いているか、世界的な経済発展によりどれだけ地球に負担をかけているか、それは恐ろしいほどである。文明が崩壊するというときそうした過重な負担が限度に来たとき来るのかもしれない、その一つが今回の原発事故だった。これも本当は反自然なものであり自然破壊する最たるものだった。自然にない物質、毒を生み出して半永久的に自然を汚染してしまうものだった。一見そういうことを明確に認識できなかったが事故が起きてみんなその危険性を嫌でも認識させられたのである。原子力によって原子力文明によって自然は致命的に破壊され文明そのものが衰退して崩壊する。過去にもマヤ文明などが崩壊して消失した。その原因はわからないにししても高度な天文学や科学技術文明があった。それが何らかの原因で崩壊して衰退して消えた。それは原発事故と同じ様なことが起こったのかもしれない、そうした事故によって一挙に衰退し消滅したかもしれない、そういうことありうるんだということを原発事故から知ったのである。なぜ過去の文明が古代文明が崩壊して消失したとかが不明なのは人間では予測できないことから起きているからである。今回の津浪も想定外の自然の力が加わり原発事故が起きた。予測し得ない力が自然にはありとてもそれに備えることは人間にはできない、そこに人間の限界がある。だから原発のような危険なものは作ってならない。文明が滅びるのは人間の予測し得ないものから起きる。人間は未来をしることはできない、未来は神の手の中にあるからだ。それを知ることはできないのである。それは個々人の運命すらそうである。個々人の宿命や運命も不可解なものと同じ様に人間の未来もしりえようがないからだ。

つまり文明は予測しえない、意外な原因で滅びる・・・・


穏やかな雲間に雷雨が潜むように

今日私に媚びるものが明日には私を傷つける

ほとんど重量とてないとるにたらぬ原子から

世界は最後の審判を受ける
(ハンス、カロッサ)


偶然に原子力が発見された、そしてその原子力が核が基で世界が滅びる、それは予測すらできないことだった。人間は全く予測しえないことで滅びる、予測しえないからこそ人間は危険を知らずに住んでいる。でもある時原発事故のようなものが起こりたちまち滅びてしまう。神にはかわっていた、そんなものに人間よ、手を出すなと・・ただ警告しても人間はきかないから滅びる。神によって滅ぼされるのである。いづれにしろ今回の津浪や原発事故ほど驚いたことはなかった。一年たっても以前としてこれは何なのだろうという疑問が消えないのである。
 消えた村

一瞬にして村は消えた

その自然のなみする力の脅威よ

ここの集落に一軒の家もない

もとの海岸の砂州、砂地にもどった

ぼうぼうと風が吹き集落の跡は砂に埋もれる

 千本の松は一挙に消えさり

ただ一本の二本の松が辛うじて残っている

ここにあったものは何もない、何もない

ただ人は茫然とたたずみ無常

何もない、何もない、ただ風の音、浪の音

思い出は砂に埋もれてしまった

一枚の写真が残る、それが過去の記憶

あとはみな消え去ってしまった

ここにも春は来たが春はない

村人は散り散りになり人はもうここには住まない

無人の境にただ風が鳴るのみ


 

posted by 老鶯 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月30日

春北風(はるきた)から東風(こち)-松川浦の下り松

 


春北風(はるきた)から東風(こち)-松川浦の下り松

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春北風(はるきた)のなお吹きにつつ下り松


喫茶店窓越しにながむ春の雲


我が町やなべかんむり山に春日かな


初つばめ何か良き便り来たれかし


春北風(はるきた)は山より吹きて東風は吹く海のかなたや広々として


西行のはるか来たらむ下り松春の日さしてさえづりひびきぬ


下り松緑も濃くや影なしてその下行けば春の日さしぬ

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松川浦に西行が笠をかけたという下り松がある。笠松ともいう。下り松は各地にある。ここの下り松はその名の通りの松である。いかにも下り松である。この下り松は形がいい、松は形によって実際はそれぞれ個性がある。原町区の一葉松は貫祿のある大きな松だから見物である。この下り松もいかにも下り松らしい年月を経た松である。下り松は瞑想的しているうよな格好でもある。その下に影なしてその松の枝振り茂りの良さを示していた。夏だったら涼しい松影になる。ただこの辺は車が通り
交差点であり場所としては良くない、だからあまり注目していなかった。でもよくよく見るといい松だなと思った。


筑紫なる下り松浜その浜のあかつき 湖 ( うみ ) に 艤 ( ふなよそひ)せよ 啄木


この歌も不思議な歌である。啄木ほど感性豊かな人はいなかった。それは生まれつきであり天才だったのだ。27才ですでに老いた歌を作っている。27才にして死んでも60才すぎて死んだ感じさえするのだ。インタ-ネットだと「下り松」というキ-ワ-ドで調べたりするとこの歌がでてきた。こういうことは本ではありえないのだ。連想ゲ-ムのように知らないものがでてくるのだ。それを編集すると一つの新しい創作の世界が生まれる。つまり下り松が啄木の短歌と本の世界だったらむすびつくはずがないのである。想像力豊だからこういう短歌が作れた。
筑紫というと何か華やかな感じがする、東北の海とは全く違ったものである。そこに下り松浜というのがあるのも不思議である。


http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1407/3/erar-v44n1p114-132.pdf


ここから引用したけど岩手教育大学の論文である。読みごたえがある論文である。 下り松の松は待つにかけているという、芳子の上京を願って作った歌だとういう。筑紫なる下り松浜・・・というのを知っていたのも不思議である。


筑紫なる下り松浜春風に船の来たらむ韓(から)の国より


ここからこんな連想もできる。

春北風(はるきた)というのも風の感じで作られた日本独特の季語なのだろう。今年は冬が長かった。だから春北風が吹く期間も長かったかもしれないがこの風は寒く感じない風でもあるから短い期間吹く風である。この春北風とともに海の方から東風(こち)が吹く、交互に吹くのが浜通りである。
今年は東風が吹くのが遅かった。寒い北風が昨日あたりまで吹いていた。今日は暑いくらいだった。近くの梅も開いた。そして初燕を見た。ただこの辺は田畑を耕作しないから春耕もない、相馬市は春耕が今まで通りある。ここはない、すると季節感もないし何か異常なありえない世界になっている。
ともかく啄木の恨みは深かった。故郷に住めない恨みは深かった。そのことはこの辺で故郷を追われて住めなくなった人の心情とにているのだ。特にこの辺の場合、老人が故郷に住めなくなったということが深い恨みとなっているのだ。

仮設にそ春の恨みや老女かな


 宮柱めぐり逢ひける時しあれば別れし春の恨み残すな 源氏物語-明石


これも春の恨みとキ-ワ-ドで入れたらでてきた歌である。なるほどなこんな歌あったのかなと思う、そもそも全集とか長いものは全部読んだり記憶できない、だから俳句とか短歌はキ-ワ-ドで読むのがあっているのだ。特に古典の引用は中味あるからそこから自分のイメ-ジをふくらまさせられる。

インタ-ネットでは現代の人のは読むにたえないのがおおすぎる役に立たない。古典だってキ-ワ-ドで読むという読み方があったがそれが今まではできなかった。インタ-ネットでキ-ワ-ドから読んでゆくということが可能になったのである。

その町々には特徴的な山がある。ここの山はなべかんむり(鍋冠山)である。これはいかにもその形をしている。阿武隈山脈は山ではない、高い山がないから不満なのである。富士山のような岩手山のようにな独立峰が望めれば心もひきしまる。伊吹山でもあの山も高いから琵琶湖周辺から見えていた。しかしあの山を良く見ていない、やはり遠い所だとなかなか見れない、旅には行けないからこうしてインタ-ネットの中でイメ-ジを連想して旅するということもある。ただ旅はやはり現地を踏まないと旅にならない、春だからまた遠くを旅したいができない、近くならできるから近くを回る他ないのだ。

2012年03月31日

松川浦の貝殻地蔵


松川浦の貝殻地蔵


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松川浦名取の人の名を記す遭難の碑に春日さしあわれをとどむ


松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠(ひさご)、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。


幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む
http://www.musubu.jp/somakoudarohan.html


ふつう「柄杓」「杓」と書く)水を汲むための器具。2を縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
ヒョウタン・ユウガオ・トウガンなどの果実の総称


瓢箪は中国では、伝統的に薬屋の看板
日本 養老の滝「生命の水」である酒の容器
瓢箪は永遠の生命を象徴するもの
壺中天(壺=瓠)




わたしの耳は貝のから
海の響きをなつかしむ・・・ジャン・コクト-

貝は耳ににている、貝は何か音を聞いている感じに見える。この詩は詩人が特別に感じたことではない、一般人でも別に作家だったり詩人だったりする、そういう素質をそもそも人間は生まれもっていたのだ。民衆の残したものに無数の民話とかも名もなき人が作家になったいたし詩人になっていた。なぜ貝が耳が遠くなったとききくと考えたのかのかそういう詩的な発想があったからである。
そして前にも何回も述べたように人間今でもそうだが病気が一番の悩み事なのである。病気の苦しみは今も一番の問題なのである。耳が聞こえないとなると日常生活で相当不自由するからそうした地蔵ができる。民間信仰が生まれる所以である。貝殻が信仰になったのは海で漁業などを生業としていたからそうなった。瓠をささげたのは長寿を願ってかもしれない、瓠、瓢箪にはそういうことが伝えられている。

名取郡の東多賀村の人が原釜で遭難した。その碑に名前が記されている。橋浦とあるがこれは橋浦家の人が何人か遭難した。ただ明治時代だから碑としては古いとは言えない。


橋浦 陸奥国桃生郡橋浦村 宮城県桃生郡北上町橋浦 奥州千葉氏の流れ。女川城主千葉氏の一族か


橋浦氏は桃生郡に橋浦村があるからそこから移住したのか?千葉氏系統なのか、とにかく橋浦という姓は名取郡にまだあるだろうからその子孫も生きているだろう。明治時代だからまだ子孫が生きている。海では必ず遭難がありそれを記念した碑がある。ただ書類で見るのと碑に記された文字を見るのとは違っている。碑はその場から具体的にイメ-ジされるからリアリティが生まれてくる。これは墓でも同じである。墓の不思議は家はなくなっても墓だけが残っていることがある。そうすると墓が過去を伝えるものとなっている。自分の実家の墓は家がなくなり墓だけが残っている。本当は静岡の方に中卒で金の卵で働きに出て故郷には帰らないはずだった。ところが交通事故になり実家はなくても実家の墓に入ることになった。すると本来は帰らない人が墓に入っているからその人が死んでもいるように意識するのも不思議である。もし墓が静岡の方にあったら墓参りだけで大変だからもう意識すらしなかったかもしれない、墓があるだけその人の存在がなお意識される不思議があるのだ。
記念の碑もそうである。石に記されただけでやはり歴史を伝える重みがでてくる。だからこうした石碑とか墓が郷土史研究では欠かせない生きた資料となるのだ。

新沼観音の飢饉の碑は古い、「春日さし遠き昔や飢饉の碑」という句を作ったときやはり碑が一つの生き物のように見るからこういう句ができる。しかし飢饉であれ災害は遠い昔とはならなかった。災害は必ず再来する、現実に新沼観音の近くまで津浪が来ていた恐怖である。相馬藩では飢饉で三分の一の人口がへったことがあった。それは延々と語り継がれている。それは最大の危機だった。そして今回の津浪と原発事故も相馬藩はないにしろ最大の危機に直面した。こんなとき町長とか市長になっていた人は大変だと思った。その責任も重大となる。ただ市長だけではどうにもならない、全体の危機だからである。この辺の苦悩は本当に深い、海では遭難は時折あるが津浪ほどの被害はない、津浪は村全体が消失するような被害だった。原釜は地形的に被害が大きかった。
 
posted by 老鶯 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

原発事故での混乱状態はつづく (南相馬市などの不安は解消しない)


原発事故での混乱状態はつづく

(南相馬市などの不安は解消しない)

●原町区の孤立死


この辺は混乱状態がつづいている。そもそも仮設住宅が南相馬市だけで1万5千戸というのは驚く。このことが一番混乱状態を如実に示している。原町で孤立死があったというのはその混乱状態とも関係していたのか定かではない、三階建ての家だから父親が商売しているときはそれなりに繁盛していた。ただ知的障害のある息子をかかえていて母親が病気を悪くした。息子は母親のめんどうみれず凍死した。金はあったが息子は何もできないからそうなった。現金があっても死ぬ人はいる。二人だけの家庭で一人が病気で倒れもう一人みている人も看護している人も倒れればそうなる。金があっても助けられるとは限らない、そういうことを自分も経験している。家の中に入る他人は危険であるし簡単に信用はできない時代であり近くでもそうだった。
そういう交渉もできない人もいる。日頃から親しい人でないと出入りできないということもある。代は孤立死が増えてくる、それは都会だけの問題ではないし田舎でも増えてくる。ここが混乱状態にあったからというがそれだけが原因ではなかった。確かに近くの人がどこに行ったかわからないとかの状態はつづいた。自分たちがどうしていいのかと精一杯の状態がつづいたから回りのことを気にする余裕がないのもこの辺だった。


●子供の甲状腺ガンの恐怖


知人の人が孫にまた一つ喉にポリ-プが見つかったという、甲状腺ガンは男女とも生殖能力に影響するから怖いという。子孫を残せなくなるから怖いと言っていた。その人の孫は会津に避難した。
城の近くだという。会津にも避難している人がかなりいる。会津は人口が多いから仕事が見つかって移住した。中通りでも会津の方が安全だとなり移住する人がいるだろう。ただ山形県に自主避難している人が多い。なかなかこの子供の甲状腺ガンについてなどは表に出てこない、一人でも子供が甲状腺ガンになったとなったらこの辺はパニックになるし全国的にも大騒ぎになるからこれは隠されるからわからないのだ。ただ今のところそのポリ-プが癌になるかどうかは不明である。


●ソ-ラ-パネル発電の問題


その知人は仕事として電気関係だからソ-ラ-パネルの仕事が東北電力から頼まれたという、でもそのソ-ラ-パネル発電でも場所を確保するのが大変だという。なぜなら津浪の被害にあったところはまた津浪が来るから利用できない、田畑は利用できないという、それで山側に設置するにしても場所を確保するのが大変だという、ソ-ラ-パネルの問題は日本のような狭いところでは場所の確保が問題になる。日本では狭いから向いていないという面がここにもあった。日本にあった発電というと温泉が多いから地熱発電が望まれた。しかしこれも観光業者、温泉旅館に反対される。新しい発電を試みてはいるがその量を確保するのがむずかしい。電力はそれだけ巨大な規模が必要になってくる。ただこんな状態だから原子力ではない発電が模索されるがそれがまだ見えてこないから原発の再稼働が問題になる。


●小高区が避難区域の解除でももどりたくない人が多い


仮設住宅では南相馬市の小高区が警戒区域が解除されるから来月からもどれるとしてもインフラが整備されていないからもどらないと仮設に入っている人は言っている。特に老人はそうらしい。インフラというとき医者もインフラだと言って災害地で志願して働いていた人がいた。確かに重要なインフラであり水道とかと同じであり医者がいないと住めないというのは本当である。思うに今の時代は人が広い田舎にばらばらに住むのが時代にあわなくなったのかもしれない、でも田舎の生活基盤が農業であるから当然土地が生産のための基盤なのだから広い土地に分散して住んできた。それを簡単に壊せるのかという問題がある。人を街中に集めたら農業はできない、でも車があるから出張して農業をやるということは可能なのだろう。そして鹿島区などは人口が増えたからそこに老人施設とかを作る。街中を便利にするというのは自分にとってもいい、仮設の商店街の食堂は他より200円とかラ-メンとか豚どんなどが280円とか安いから原町からなども来ているという。あういうのができると便利である。人口が街中に増えると暮らしに便利なものが増えてくるのだ。それがコンパクトシティ構想となった。人を集中させて住まわせることは現代の交通が便利になった時代には向いているのかもしれない、ただこれもすべてがいいとはならない、いろいろな問題が生じる。人間を土地から分離させるというのが農民には抵抗があるだろう。そういう生活が延々とつづいてきたからである。


●農家が田畑を耕さないでも暮らせる不思議


それにしても現代はこの辺で食糧を生産しなくても別に金があれば食糧はいくらでも他から入ってくる。例えば昔だったら戦争中でも食糧がなくなったら他から入った来ない、買い出しなどしたがこれも大変な苦労だった。農家では食糧があったが街の人が食糧を手に入れるために大変な苦労をした。それが今はこの辺では農家が食糧生産していないのだから農家自体に食糧がないという異常事態なのである。こんなこと農家でも経験していないだろう。それでも飢饉にもならない、食糧はいくらでも入ってくるのである。だからこういう経済生活は地元すら助け合わないという仕組みを作り出してしまったのである。本当は食糧がなかったら農家の人に助けてもらわねばならないとなり農家なしでは生活は成り立たないとなっていたはずなのである。それだけ農家の価値は前は高いものだったのである。今でもそういう感覚はもっていた。でも減反政策やら交通の発達で農家の価値は低くなった。外国からでも食糧が入ってくるから金さえあればいいとなり金が極端に重いものとなり金だけが頼りだという社会になった。郷蔵とか飢饉のために食糧を貯えていたのが昔の農家だったが今はそれより食糧を買う金の方が大事であり金があれば別に故郷に住む必要はないとさえなる。それで原発の補償金をもらって外に移る若い人がでてくる。老人の世話、姑と一緒にいるのは嫌だと外に去ってゆく。


それも現代なのである。考えてみると田舎もこうした時代にあっても都会化している。都会には田畑がなくても食糧が入ってくる。東京には一千万人住んでいても回りに田畑がなくても食糧が全国から交通が発達しているから入ってくる。食糧が入ってこないという恐怖感もないし田畑がないから別に変だと思っていない、それが普通なのである。だから子供でも田畑を見ていないのだからどうして食糧が米が作られるのかわからなくてもかまわないとなる。田舎では田畑がないと農家が機能していないと不安定になり不安になるのである。これからこの辺は農業を再開できるのか?農業がなくなったら田舎はありえないのではないか?でも現実に農業関係者は今仕事していない、農家自体が外から食糧を買っている、農家の人は自分の食べ物を作ることも食べることもできないとなげているのもわかる。ともかくこうしてこの辺は混乱状態にあり先が見えない、ただ右往左往している人が多いのである。こういう場所では堅実に落ち着いて仕事することがむずかしい。常に動揺があり不安な状態に置かれているのだ。



まず、今回の調査で稲は土壌汚染の1割を吸収する効果があったそうだ
つまり3年も続ければ3割近く放射性物質は取り除かれる

またそもそもセシウムの半分は半減期が2年である為
全セシウムの内少なくとも25%は崩壊する

半減期30年の方も3年あれば7%位崩壊する
つまり3年で3割は減る

全部あわせれば水田に含まれる放射能が半減している事になる


実際には水溶性のセシウムは、大雨が降れば一定量海に流れていったりと
もっと放射能は減ると予想される



放射能は時間が解決するものなのか、二三年だったら何とかなるのか、それまで待つほかないのか


 
posted by 老鶯 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連