2012年03月10日

今年は寒さがつづく(震災から一年)


今年は寒さがつづく(震災から一年)

里の川よりそいにつつ鴨幾羽なお雪ふりて春はまだしも


家もなく墓も消えにき身一つの残りてあわれ春になるかも


これも写生である。鴨幾羽というとき4、5羽くらいで少なかったのである。普通10羽とかであり何か少ないからかえって雪がふり淋しい感じになったのである。
鴨は冬の季語であり春になれば春の鴨となる。今年の冬は長い、こんなにまた雪がふるのはめずらしいだろう。

里の川というとか、兎追いしかの山・・・いうとき兎は町外れで何回か見た。兎は意外と田舎なら町近くにいる。だから兎追いしという風景は日本の田舎ではどこでも見られたのである。
その里の川も放射能汚染になったときがっかりした。浪江のように住めなくなるということはなかったが放射能汚染ばかりが話題になることに嫌になる。


真野川を通じてここは明かに飯館村と密接に結びついていた。飯館村の山林から水が流れ真野ダムにたまるからである。飯館村は三つに住むところが分けられる。町のある草野辺りはなんとか住めるようになるのかもしれない、住めない地域もでてくるだろう。放射線量は公式に発表しているより実際は高かった。草野辺りで草むらで8マイクロシ-ベルととかあった。発表しているよりずっと高いと地元の人が言っていたけど本当であった。

飯館村は南相馬市にとってもともと山中郷として相馬藩だったから歴史的にもそうだし地理的にも一見隔絶されているようで水の流れで一体化しているように一体化していたのである。
そして実生活だけではない、精神的にも地形を通じて一体化していた。それで詩にしたりしていた。人間の思想形成がその風土から成されることはまちがいない、芸術もその風土から生み出される。
自分にとってだから飯館村は精神的に一体化していたのである。


ただ飯館村は警戒区域のように閉鎖されていない、まだその土地に行けるからましである。
そして放射能で木が枯れたり葉が枯れたり水が汚れたりしないのだ。花もやはり春になれば咲くだろう。その土地自体がなくなるわけではない、警戒区域はその土地に入れないからその土地自体を失った気分になる。


ともかく震災から一年が過ぎた。津波で家も失い墓まで失い身一つで逃げた人の心境を察することはできない、川柳ですっぴんで身一つになったとか心境を現していたけど壊滅した自分の家の前に立って川柳を作れな気持ちがわかる。あまりにも凄惨すぎたのである。それでも春はくる。

身一つでも春はくる。死んだ人にはすでにもう春はない、もはやただ今生きているということが価値あることになっているということもある。一年はやはり一つの区切りとなる。


 

2012年03月11日

黙祷(震災津波より一年)


黙祷(震災津波より一年)

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津波より一年過ぎぬ亡き人の思いの深くここに留まる


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


北海道日本海側磯菊の咲きつづきつつ風の荒しも

震災から津波から一年たった。海の方に向かって黙祷した。故郷というとき今の時点だけではない時間がそこには積み重なっている。死者も故郷にいるのだ。墓参りの地として故郷もある。死んだ人とともに思い出がそこにあるのだ。だからなかなか故郷を離れられない、田舎だとどうしてもその土地に愛着をもつし土地と一体化する。長く住むとその土地の樹や石のらうになってゆく・・・それが生物として自然なのことである。そして故郷の土になる。時間のなかで積み重ねられたものはなかなか外の人には理解しにくいのである。だから旅してもその土地の歴史を理解することがむずかしい。特に外国にゆくとそうである。二千年の歴史があるといってもその場にたっても理解できないのである。それは東京にもう日本人だって江戸時代をしりえようがないのと同じである。余りにも変わりすぎてしまったからである。そうした時間として積み重ねられた歴史を奪ったのが原発事故でもあったのだ。

富岡町でまだ生活していた人がいた。90何才かの母親を介護しているから家で死にたいといっていたから家に留まった。原発事故では死んだ人は一人もいないというがその関連で百人くらい死んでいる。老人が衰弱して死んでいるのだ。自分の家も同じ介護があったから逃げられなかった。そのことを余り報道されていないのである。今回は実際はこれだけの被害だから報道されないことはいくらでもある。1万5千人も死んだらその一人一人が語られないからである。特別目立ったものしか語られない、そして数が多いからみんなに注目できないのである。
南三陸町というとき前は志津川町と言っていた。町名が変わったから今まであそこが志津川町だと思わなかった。町名が変わることも困る。川にちなんだ名前だがその志津川を津波がさかのぼったことを知ったから思い出した。南相馬市も名前が変わった時、何かしっくりこない、なじんでいないからそうなる。原町市というのがなじんでいたからその方がピンとくる。あんまり市町村名は変えない方がいいということがこれでもわかる。志津川町は志津川というとひびきが良くかえって前の名前が良かった感じがする。南三陸は広い地域にしたからわかりにくくなったのだろう。南三陸は他から見てわかりにくいのも難点だった。

津波はまず川からさかのぼってくる。多賀城の砂押川もさかのぼった津波を見たとき恐怖した。あの小さな川に津波の水があふれたのである。ここも真野川から津波がさかのぼりあふれるということがあったから恐怖した。それにしても志津川町は前が穏やかな湾で静かな町であった。陸前高田も大きな広田湾があり静かな所だと思った。それが一転して悲惨なもの凄惨なものになった。津波にとっては危険な場所だったのである。


志津川町で記憶に残っているのは巌に大きな白い浜菊が咲いていたことである。あそこでも長い間訪ねたことはないから記憶から薄れていた。だから南三陸町になったということがわからなかったのだ。海辺に咲く菊というときこの辺では南限の地として車輪梅が有名であった。それも根こそぎ津波でなくなった。それから北海道の留萌辺りを自転車で走っていたとき、磯菊が咲きつづいていた。
黄色の磯菊は日本海側にあった花だった。地に根を張り生命力がある花の感じだった。やはりその土地にあった花というのがある。車輪梅というのは奄美の方に咲く南国系なのである。

太平洋側の黒潮流域としてつながりがあった。これは明るい感じであり磯菊は何か渋い感じの花である。日本全国を旅ばかりしていたけどその土地にあったものが思い出となる。花もその土地にあったものだと思い出として残る。ただ思い出も日々薄れてゆくだけなのである。留萌辺りは風が強いことで有名な地帯だった。自転車で走るのには向いていなかった。それも記憶が薄れてしまったのである。これが車だとその風の記憶さえ覚えていないだろう。便利なんだけど記憶に残る旅をしないとあとでふりかえることもできなくなる。


震災から津波から一年たったけど自分の住んでいる場所は原発事故から30キロ圏から数キロ離れたところであり津波の被害もなかった。飯館村のように放射能の被害もあったにしろ故郷を離れるようなこともなかった。そういうことで比較的客観的に冷静に見れる立場にあった。だから俳句とか短歌を書けた。当事者の気持ちにもある程度なれた位置にあった。被害をもろに受けた場所にあったらこうして客観的に冷静になっていられなかった。現実に津波で家も家族もなくした人はその場に立ったら川柳も作られなかったのである。ものを書くにはやはり客観的にならないと書けないのである。
自らが過酷な被害者になると客観的になれない、いろいろ書けたのはそういう客観的立場にたてる位置にあったからでる。

posted by 老鶯 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月12日

子供の検査で甲状腺に腫瘍が見つかり心配で山形に移る (震災から一年先が見えない不安)


子供の検査で甲状腺に腫瘍が見つかり心配で山形に移る
(震災から一年先が見えない不安)


甲状腺に腫瘍があるのは人口の1%程度。丸森町は子供の20%近くに腫瘍が
直径5・1ミリ以上のしこりなどが確認され、二次検査の対象となったのは26人(0・7%)だったが、検討委座長の山下俊一福島医大副学長は「原発事故に伴う悪性の変化はみられない」と説明している。二次検査が不要の3739人(99・3%)のうち、1117人(29・7%)は5・0ミリ以下のしこりなどが確認されたが、県は「良性」と判断している。


それは「検討委員会」の座長・山下俊一福島県立医大副学長が、全国の日本甲状腺学会員あてに
>次回の検査を受けるまでの間に自覚症状等が出現しない限り、追加検査は必要がない」というメールを送っているからだ。

福島の子供の甲状腺に半端ない異常が起きてる件
http://www.youtube.com/watch?v=be9F21sxCIo

 


南相馬市原町区の知人の孫が検査したら喉にポリ-プがあったとい。この甲状腺のポリ-プは見つかっている数が多い。これからもまだ発見されるだろう。それで原町には孫を置けないから山形でみてもらい移るほかないとか言っていた。というのは福島医科大学は国の管理化に入っていたて都合の悪い情報は出さない、情報操作をしているからだという。医大の副学長になった山下氏はその役をになっている。その人はこのポリ-プは結節は危険なものではなく甲状腺ガンになるものではないと言っている。ただ国で管理するところでだまされたのだから信用できない、放射能については国の出す情報が信用できなくなっている。それで山形でみてもらうとなった。福島市でも山形は近いから移っている人が多い。自主避難で移っている。そもそも郡山市でも福島市でも南相馬市より放射線量は高いのである。子供を心配する人はどうしても移る。やはり安全だといっても腫瘍だとなると心配になる。youtubeの説明はわかりやすいしやはり良性でもガンになる可能性はある。子供が影響が大きいから一番心配することになる。


ともかく放射能の負担が大きい。放射能にふりまわされている。回りがそうだから子供をもたない人でもふりまわされる。すみずらいのである。津波でも山元町とか被害の大きかった町は人口が一割とか減っている。実際にあの津波の跡に立ったら「これはだめだ」と思ってしまう人はいる。ここではもうやっていけないと判断する人がいるのは当然である。それは原発被害地域でも起きている。
もう帰れないとかここには子供を置けないとか仕事もないからここにはいられないとかそういうことがうずまいている。盛岡の医者が大槌町とかで役に立ちたいと診療しているのは感心する。医者でもいたくないという人が多い、この辺では放射能で医者も看護師も半分いなくなったとか深刻である。農家の人だって農業できないとなれば絶望的になる。そしてパチンコばかりしているわけにも今後いかないだろう。全体的に心も荒廃してくる。津波被害とものの被害もあったが心の被害も大きい。
いろいろなストレスをかかえる。さらにこういうときはいろいろな問題が重なり追い打ちをかける。借金で苦しむ、親の介護で苦しむ、病気で苦しむ・・・負のスパイラルになってくる。
こうなると平和時の仕事ができない、福祉であれ教育であれいろいろなこれまでの普通の活動が阻害されるのだ。

自分も親の介護とかずっとかかえてきたしそういうところにこういう被害が重なると辛いとなる。

自分の仕事のまとめとしては詩の創作のまとめがあった。これまで旅行した所を思い出して俳句や短歌にする。他にも継続した創作的仕事あった。年をとると評論に向いている。評論は結構力量がないとできない、誰かを批評するにしても一段上にたたない限り批評などできないからだ。こういうことも余裕がないとできない、それがこういう回りの状態とかでなかなかできない、芸術どころじゃないということもある。でも仮設に入っている人などは暇なのである。暇だということは芸術家活動もできるということである。ただそういうことをしていなかったからパチンコをしているだけなのである。ともかくこの辺もそうだが先の見通しがたたない、復興というのが目に見えてこないのが津波の被災地でもそうだし原発被災地でもそうである。ただ混乱状態がつづいているだけである。


津波で流された水産加工場が復活して仕事ができると女性の人が海に向かって祈っていた。同僚の名前を呼んで祈っていたのが印象的である。前のように同じ仕事ができるということに感激していたのである。そんなこと当たり前だったけど当たり前でなくなった。久々に漁に出て魚をとれたことに感激していた漁師もいた。この辺でも農家の人なら今度は米作りでも農業できれば感激してやることになる。実際にいつなったらこの辺では農業ができるのかわからないのだ。あきらめる人もいるだろう。農業関係の人も多いのが地方の特徴である。田んぼがない世界というのを農業しなくても想像すらできなかった。都会だったら田んぼがないのが普通である。田舎だと田んぼがないと何か生活基盤が失われた感覚になる。でも東京などあれだけの人が住んでいて田んぼがない、それでも現代は食糧に困ることはない。金さえあれば現代は飢饉になったりしないのである。田舎ではどうしても田んぼがあって何か生活の安定、心の安定もあった。その感覚が都会とは違っているのだ。

posted by 老鶯 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

松島-多賀城の春の俳句短歌と写真


松島-多賀城の春の俳句短歌と写真

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冬の海波うちしぶき沖に船

荒寥と津浪の跡や冬の海


磐根付く古木くねりて残る雪


松島の松の残りて春の風


春日さし松風鳴りて五大堂


鴎浮き春日穏やか双子島


春の昼金華山見ゆ赤い橋


赤い橋鴎のとまり春の島


松島や島陰の渚残る雪


島陰に雪を残して暮るるかな


瑞巌寺竹の清しく残る雪


瑞巌寺鐘楼鳴らず冬の暮


見張塔瑞巌寺守る冬の暮


瑞巌寺去るや杉の間残る雪


瑞巌寺海よりそよぐ春の風


島々の松の緑や春の鴨


多賀城跡浮島神社や春の暮


多賀城の正殿跡や春浅し


枯葦に昔の面影砂押川


早春の多賀城駅や鴎飛ぶ



太き松その間に見える小町島春の日おだやかまたたずねけり


松島の春やしきりにかもめなきむれつつ飛びて島のうるわし


松島の海穏やかに春の日に照り映えにつつ津浪まねがる


太しくも末の松山二本の残りし松に春の風吹く


太しくも末の松山二本の松の契りや椿赤しも


多賀城に末の松山沖の石津浪の跡や春の日暮れぬ

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2012年03月13日

旅の思い出(松島から宮古まで)


旅の思い出-俳句十句(松島から宮古まで)

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松島を神の残すや春暮れぬ


荻浜に昔の航路冬の暮


涼しさや海にそそげる北上川


ひぐらしや唐桑めぐる湊かな


隠されし湊々や合歓の花


轟きぬ神割崎や夏の海


鬼百合に白波寄する気仙沼


(大船渡)


曙光の湾にまぶしや霜の朝


釜石に海の見えじも冬の暮


宮古より盛岡遠し冬の暮


亀島に咲きそむ桜海の風なお寒しかも白波よせる


荻浜の裏山の社桜散り我がたずねしは昔なるかな



津波のあとにふりかえるとこの辺は旅をしたけど被害が大きい所だった。海に面して風光明媚な所だったからショックだった。なぜかといえばこの辺は被害が大きいから今は観光というわけにはいかない、当分そうだろう。内陸部はそういうことはない、観光しても悪いという感じではない、しかしこの海岸沿いは本当に凄惨な津波の被害にあった。街ごとなくなったところもあるから悲惨である。
そういうところには観光には行けない、つくづく普通なり海は実に穏やかであった。というのは湾がある所だから海が穏やかに見えたのだ。福島県は湾がないからいつも荒波が打ちつけていた。一方陸前高田市でも広田湾などは実に穏やかに見えたのである。松原もいい松原だった。
南三陸の志津川も湾になっているから穏やかだと見えていた。あんなところにこんな津波の被害があったことはショックだった。ただ三陸は前から津波の被害が何度もあった地域であるから名取りから南の福島県とは違っていた。それでも逆にあの辺の湾は穏やかだなとうらやましかったのである。


一回は松島から牡鹿半島から唐桑半島から気仙沼まで自転車で旅した。あの辺の地形は複雑だった。後ろが結構急峻な山となっていてひぐらしが鳴いていた。そして隠されたように小さな湊があり魚をとっていた。港にはもともと適した地域である。宮城県の漁獲量は水産だかは800億であり福島県は100億だった。福島県の水産業は盛んではない、宮城県は港が多いから盛んだった。それにしても松島でもそうだが地理がわかりにくい、複雑である。地形的には福島県などよりずっと魅力があった。
変化があり湾があるからである。その港がどこも津波の被害にあった。津波には弱かった。

この辺は福島県の浜通りから海の領域として共通性があったのだ。だから津波の被害を同じ様に受けたのである。ただ一つの救いは松島が神に守られたようにほとんど無傷で残ったことである。
神が残してくれたとさえ思う。あそこの松などが海岸線のようになぎたおされたら絶望だった。
松島は今でも観光を普通にできる。他は被害が大きいから観光とはいかないだろう。鉄道も一部破壊されている。今になると行けないとなるとああ、あそこに行ったなと思い出は余計に貴重になる。

ただ旅は忘れやすい、だから記憶が大事だった。デジカメなどで詳細にとっていれば思い出すことがある。プログに書いたことでも自分で忘れている。それで読み返して思い出してまた書いた。


旅はデジカメでなるべく記録させておくべき・・

2012年03月14日

春の日の俳句十句(梅が開いた)

 

春の日の俳句十句(梅が開いた)

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黒茶碗手にとり開く梅二輪


春の日にきらめき流る上の川


春の朝ノスリ飛びきぬ遠くより


姉思ふ満面の笑み福寿草


春日さし母の介護や年も古り


春日さしやさしき言葉身にしみぬ


春日さし犬眠る家平和かな


春日さし石五六個や色違ふ


diffirent coloured stones
spring light on
five and six ones


春日さす紫の石映えにけり


春日さし石落ちつかむ家もあり



蝋梅の長くも咲きぬ水玉の一時光り時は移ろふ


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今日は春の光だった。梅が一二輪咲いた。最初一輪だとみていたら二輪咲いていた。今年は梅が咲くのが遅い。放射能でも花が咲かないということはない、ただ梅の実は食べられないのだ。また川は汚れるということもない、透明である。もし花も咲かないとしたらもはや住めないだろう。
黒茶碗であれゆったりと茶碗を手にとる。茶道はやはり心を落ち着かせるためにあるのだ。ただ今は茶室もないし茶を楽しむというわねけにはいかない、介護しているからだ。
花を思う時やはり姉は福寿草だった。太っていていつも満面に笑みを浮かべていた。そううい陽気な性格の人だったのである。また我が家にとっては福の神でもあったのだ。最後は悲惨であってもそうだった。

ノスリは鳶とは違う、一段と精悍であり眼が鋭い、辺りを見回して隙がない、そして鳶のように留まってはいない、どこか遠くから来て遠くへ去ってゆく・・ノスリは留鳥であっても行動範囲が広いのだろう。冬の季語になっていてノネズミや小鳥を食べるという、春には蛙も食べる。冬の季語なのはふさわしい。春に見かけたことはない、でも春もいる。蛙をとるにはまだ早すぎる。


今日は春らしい一日だった。近くの立派な家て広い庭にある石である。石を陳列したような庭になっている。塀もないから丸見えである。その大きな石は色がついていて違っている。その色がなんとも春らしい。色に艶がある。あそこの石は形ではなく色がついていて個性的なのである。石は形に注目するのが多い、色のついた石はあまりないからだろう。性格的に石があっているから石に注目する。色のついた石に春の日がさしてなんとも言えぬ落ち着きがある。ただこの辺は仮設住宅がびっしりと建っていたり落ち着かないのだ。全体的にも落ち着かない、石のように落ち着くことができないのだ。何か津波原発事故からこの辺は騒乱状態であり落ち着かない、こういうところでは何か落ち着いて仕事ができない、茶の湯どころではないともなるがやはり人間の生活は茶の湯も楽しめない状態は異常である。そんなものいらないぜいたくだともなるがそういう状態がもうこの辺は人間的生活すらできなくなっているのだ。

落ち着かないというとき今日も地震があった!津波注意報も出た。津波は本当に地震がきてすぐ逃げない限り助からない、地震で驚いていると逃げられないことがつくづくわかった。津波は時間との戦いだった。時間の余裕がまるでなかった。あたふたしていると30分などすぐすぎてしまう。この逃げる時間のなさが大きな被害になったのである。

春日さし石五六個や色違ふ-色違ふ石五六個や春日さし・・・この違いは色違うを下にもってきて強調したのである。写真のように紫色の石はある。まさにあの石だった。明日写真にとってみよう。
他人の家だからとりにくいところはある。あの紫の石を建てたものである。


蝋梅はまだ咲いている。水玉が一時春の光にきらめきて消える。これはやはり長寿の花である。花としては寿命が長いのである。花は散りやすいというときこの花はなかなか散らない、もう二か月くらい咲いているようだ。雪の中でも咲いていたしまだ咲いている。今度は外に梅が咲いたから外の梅に注意が向く。

津浪原発事故で仕事を奪われた人たちの荒廃化 (原発避難者  東電の賠償金(一人当たり最大12万円)で働くのバカらしくパチンコへ)


津浪原発事故で仕事を奪われた人たちの荒廃化

(原発避難者  東電の賠償金(一人当たり最大12万円)で働くのバカらしくパチンコへ)


震災後、福島県いわき市で飲食関係の会社を立ち上げた30代後半の男性は憤慨していた。
「原発事故で避難区域となった町から逃れてきた顔見知りが、昼間からパチンコ店に入っていくのを見た。

聞くと、震災後に失業手当を受給し、さらに東電の賠償金を貰えるから働くのが馬鹿らしくなったらしい。
カネをどう使おうと自由だけど、みんなが復興に向けて頑張っているのに……」


行政による被災者への“生活保護”の厚遇ぶりが、逆に復興を遅らせていると指摘されている。
一部の被災者には、「働かない方が震災前に比べて収入が多くなる」という異常なケースが生じているからだ。

厚生労働省によると、岩手、宮城、福島の3県で、震災翌日の3月12日から8月21日までの間に、
15万3173人が失業手当の手続きをした。雇用保険から給付される失業手当の額は、
退職前6か月間のボーナスを除いた賃金と年齢などで決まるため、「月給40万円で、雇用保険加入期間が10〜20年間の場合、
最大で月に約20万円」(厚労省職業安定局雇用保険課)となる。

これに加え、東電の賠償金(避難生活等にかかる精神的損害)が一人当たり最大12万円出る。

支出が減っていることも大きい。各種国税の減免など、税金の優遇措置に加え、

仮設住宅や借り上げ住宅に住めば家賃は県が負担するため、被災者が支払うのは食費や光熱費程度で済む。
自営業者ならば、仕事上必要な経費もかからない。


「例えば漁師なら、原発事故の影響で漁に出られない分、漁船の油代がかからない。
結果として、可処分所得が大幅に増えたという家庭が少なくないと聞いています」(被災地のカマボコ工場で働いていた主婦)

福島県漁業協同組合連合会には、原発事故後、東電から過去5年間の漁獲実績により、

今年1月までに約76億円の補償金が出ている。これは各漁民に割り当てられ、金額は月に百数十万円に上るケースもあるという。

前出のいわき市の男性はこう語る。


「やることがないから、パチンコ店や競輪に行ったりする。仕事がないわけではないのに……」
http://www.news-postseven.com/archives/20120313_94134.html

 


人間の特徴は仕事によって尊厳が与えられているのが特徴である。もちろん仕事とあいまって地位でも人間はみられる。会社の社長であれ公務員であれ学者であれ地位があれば社会で見方が違ってくる。外国でもあなたのプロフェショナルは何ですかとなるから同じなのだろう。別に地位がなくても
農民であれ漁民であれ一次産業に従事していた人たちはそれなりの尊厳が与えられていた。今は収入だけで人をみるがパチンコ屋やその他ブラックなことでいくら金をかせいでも社会ではその仕事に尊厳を与えないだろう。農民には専業農家とかが少ないからいろいろだからいちがいに言えないけど農民はそれなりに仕事でも尊厳が与えられていた。国民の食糧をまかなうものとして尊厳が与えられているから国では多分な援助もしていた。農業なんて今は金にならないからやる気しないとなっていたがではその農民が今仕事もしないで仮設住宅に住みパチンコばかりしていたらどうなるのか?
現実に今そうなっている。収入はともかく農民や漁民でも仕事を奪われたらその人にいかなる尊厳があるのだろうか?仕事ともにその人に尊厳が与えられていた。仕事が奪われたらどうなるのか、確かに生活保護のように今は援助されて生活できる、パチンコ屋にゆくこともしょうがないとなる。
でもその人の尊厳がない、それは会社を退職した人にも言える、特にちいがあったりすると余計にそうである。会社をやめるとただの人、価値のない人になる。議員でも落選したらただの人となると同じである。仕事をなくしたとき


陸にあがった河童になる・・・


陸にあがったら何もできない、無用の人ととなる。一人のアウトサンダ-ならいいがみんながそんなふうになった社会は異常である。しかし現実この辺ではそうなっているのだ。つまり水のなかで生き生きとして活動していた河童も陸にあがったら成すすべがない、ただ茫然として干上がってしまうだけだとなる。そういうふうに見えてしまうのである。今は仕事でも収入のことだけ見るけど本当は仕事の方が大事だともいえる。仕事は天から与えられたから天職になる。仕事は人間にとって不可欠なものであり仕事が人間に尊厳を与えている。そのことが一番わかりやすいのは医者とか看護師とか病院に働く人である。医者とか看護師には仕事としての尊厳が与えられているが目に見えてわかる。
命を救うことでもありそれ故にその仕事を通じて尊厳が与えられているのだ。病院という場で働く人はみな患者のために尽くしている。掃除する人もそうだったのである。病院全体が患者を癒すものとして働いていたのである。


だからこの辺で仕事をしない、仕事を奪われたというとき意外とそれが深刻なのである。故郷の家も土地もそして仕事も奪われたということが深刻なのである。例え補償されても人間としての尊厳が与えられない、もちろん生きがいも奪われた。回りに仮設住宅があってもそれは一時的なものでありそこで根付いて仕事するというわけではない、だから何か定着するものでないから地元の人にとって受け入れにくいということがある。一人二人ならどういうこともないのだかそれがこれだけ多いとなると仕事していないというとき異常なのである。


疑問なのは漁業権というのは余りにも大きい権利でありすぎた。一体海は漁業者だけのものですか?
あなたたちだけがどうしてそんな権利があったのですか?それならあなたたちが海を守るものでしたか?漁業権をたてに電力会社から莫大な補償金をもらう、そのための漁業権だったのでしょうか?
原発事故のあとも漁業権者には手厚い補償が成されている。そもそも海や土地や山や森は誰のものですか?漁業者や農民や山林業者のためだけのものとはいえない、もともとは上の所有であったが全国民の所有物でもある。海でも漁業にたずさわる人は少ない、それで原発のようなものを建てることを阻止することなどできない、漁業権者だけが海を勝手にすることができるものでしょうか?
海を守るならいいが原発のような巨大な利権を利益を生むものには漁業権をたてにして補償金をもらう、肝心の海は放射能で汚染されてしまった。海や土地や森や山はそれ関連して従事しているだけのものではない、みんなものであり関連した仕事でないにしろ言う権利はあるのだ。

第一次産業に従事する人は今や一割にも満たないし低い地位に落とされた。でもそこに従事している人自体もその仕事を軽んじるようなことがあった。それはもともと尊厳が与えられる仕事だった。

大事な食糧を供給するのだからその仕事に尊厳が与えられていたのだ。だから国でもいろいろ補償していたのである。そのことが仕事を奪われたときその人たちが何ら尊厳のない価値のないものにされてしまったことでわかった。結局第一次産業にたずさわる人は自らも収入が少ないからと仕事の価値を低くみていたのではないか?そんなことお前に言えるのかということも確かにある。でも現実を見れば今や仕事を奪われた人たちは収入はあっても人間としての尊厳や価値は認められないのである。

今やだから仕事を奪われた人が水産加工場で働いていた女性も同僚の名前を海の方に向かって呼び仕事が再開されたことを祈るようにして喜んでいた。漁師も津浪のあとに漁にでて魚を獲ったことで今までにない喜びをかみしめていた。看護師もまた病院で生き生きとみんなで働きたいと言っていた。仲間とともに働くということが価値あることだったのである。仕事が辛い金にならないとか常に言われるけど一旦仕事を奪われたとき生きがいもない人としての尊厳を与えられないということを知ったのである。仕事が収入が低いにしろそれだけ人間にとって大事なものだったということを自覚していなかったのである。それがいやおうなく自覚させられたのが津浪と原発事故だったのである。

posted by 老鶯 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年03月15日

昨日は東風今日は北風 (無常の世、仮設で一冬越した)


昨日は東風今日は北風

(無常の世、仮設で一冬越した)


昨日は東風(こち)今日は北風浜通り


春の雲隣の街へ連なりぬ


春の日や汽笛のなるも相馬まで


恨めしき警戒区域に入られじ春の雲浮くかなたを見るかな


人の世は常ならぬかも仮設にそ一冬越して春となるかな


大きなる我が家にうなる北風や我の一人し働き守る


昨日は明かに海の方から吹く東風(こち)だった。今日はひゅうひゅう北風になった。今年はいつもの年より寒い。飯館村の不運は風にあった。この頃東風が吹く、それが山の方に吹いた。福島市や郡山市の不運もそうだった。いわき市は近いけど放射線量は低くかった。これも風と地形のせいだった。朝は春の雲が浮き原町の方へぼかぼかとつらなっていた。前だったら原町からさらに小高浪江双葉と道は通じて心も遠くへと向いていた。そこは警戒区域で入れないことが信じられない。その点飯館村は放射線量が高くても入れる。だから春になったら行ける。浪江の高瀬川などは行けない。別に放射線量が高くても気にしない人は気にしない、それにしても人が住まない町や村は不思議である。
春になったらぽっかりと街の上に春の雲が浮かんでいる。しかし誰も住んでいないのだ。
そんこと今まで経験しているだろうか?


いづれにしろ人間の世は本当に無常である。自分の一身上でもここ五年間は無常の連続だった。
身内が死に介護だとか家族がばらばらになるとか自分が病気になり火事場泥棒にあうとか人間の醜い面をいやというほど見てきた。そしてなぜか津浪と原発事故で回りも最悪の状態になった。
仮設住宅に住んでいる人自体も信じられないだろう。なぜこんなふうに故郷を離れ仮設に住んでいるのかとなる。個々人ではなく全体が常ならぬものを経験した。無常をいやというほど経験した。戦争の時とにている。すでに一冬越して春となっている。神戸の地震のことは遠いから身近でなかったからわからなかったけどこの辺と同じ様に家がなくなったり大量に人が死んだからにたような状態だった。同じ様なことを経験していたのだ。

人間は90になろうが世の変遷をまねがれられない、自分の家でもそうだった。何が起きてくるかわからない。だから団塊の世代は非常に恵まれていた。高度成長時代を順調に生きて大きな災難にあうことがなかったのである。自分なども特に恵まれていた。それがここにきて最悪になったのである。
いづれにしろ人間の平和は長続きしない、必ず不運があり災難がある。六〇年平和だったら必ず災難がやってくる。自然も地震や津浪といつも平穏であるわけではない、必ず災いをもたらす。恵みをもたらすが災いをもたらすのも自然だったのである。


この辺で廃業がふえた。街中で二軒の店がとりこわされ空き地となり一軒の歯医者は家ごとなくなった。一体どこに移ったのだろう。長く歯医者をしていた。大きな印刷屋も消えた。ふえたのは仮設住宅だけである。人はふえてもその人たちは働いていないのだ。一時的にいるものだから定住して町をもりあげるということはない、自分の家は昔風の家だから大きいことは大きい。でも住宅風でないから住みにくいということはある。ただ今は自分が一人で働き守っている。結構楽じゃない、家事全般をやると結構な労働なのである。それが一人でもできているのはインスタント食品とか機械化されているからである。洗濯機とかいろいろないととても一人では家すら維持できないだろう。家事は機械化で省力化したから主婦でもパ-トで働けるようになったのである。

いづれにしろ津浪でなくても突然に家も人も全く消えてしまうことである。何代もつづいた家もあるが突然に家も人も消えることがありうる。そこにまた家が建てばそういうことはない、津浪の跡のように空き地になっているから余計にそう感じた。一方人がいなくなった貸家でも代わりに若い女性が住んでたりすると前の人のことは忘れる。そこに春の日がさして犬が眠っていて平和なのである。


草の戸も住みかはる世や雛の家 芭蕉


こういう感じになる。草の戸だった家に華やかに雛が飾られている。そういう変化とにている。
こういうことは江戸時代であり人間の世界では常にあったことなのである。芭蕉は放浪の旅に出たけどまさに家すら一時的な仮の宿と心得ていた。そういう生活であった。この辺では津浪で家がなくなり空家や空き地になる所も多い。そういう無常を個人的なものではなく全体として感じる状態になったのである。

2012年03月16日

原発事故の原因-縦割り行政 (文明崩壊破綻の象徴が原発だった)

 

原発事故の原因-縦割り行政

(文明崩壊破綻の象徴が原発だった)



自ら所管する分野では非常に高い管理能力を有しながら、むしろ相互協調メカニズムが欠落しているため、常に深刻な効率低下を招いてきた。

いわゆる縦割り行政とは、日本政府の各省庁が上から下を管理する、という中央から地方につらなるピラミッド型の公務員システムのことであり、それは極めて大きな既得権階層を形成した。


政府が絶えず首脳を交代させても、各機関は平常どおり機能する。官僚システムを制約するのは首相官邸や閣僚の命令ではなく、規則と制度であり、常軌を逸してもいろいろと口実を設けて埋め合わすこともある。
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-03/28/content_22237378.htm


東京電力は先ず、原発立地町村の自治体を取り込む。トップは首長であるが、実質的には総務課長、教育長、、など、従来からのやり手職員が東電と結託していくのだある。
首長が交代しても結局は原発を安全神話プロパガンダを発信続けることができるのは行政執行部である。
http://blogs.yahoo.co.jp/chikako_5155/5805956.html


文科省は学校での被曝のことだけ、


農水省は食事のときの被曝のことだけ、


観光庁は旅行の時の被曝のことだけ、


班目春樹・原子力安全委員長らは聴取に「文科省が勝手に決め、安全委に(公表の役割を)押しつけた」と証言した。事故調は「文科省が安全委に一方的に役割を『移管』した」と推定。「文科省の対応は、責任回避を念頭に置いた組織防衛的な兆候が散見され、公表遅れを招く一因になった可能性は否定できない」とした。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120228k0000e040165000c.html

 



縦割り行政というとき江戸時代までは横の力が強かった。地方の力、藩の力を基にした国造りであった。それはそもそも農民を中心にした社会であり土地を基盤にした封建社会だから当然だった。
燃料も炭であり山の薪だったし地方地方で自給自足が建前の社会だから横に力は分布していた。
縦型社会になったのは明治維新からの工業化であり欧米列強に抗する為の富国強兵のためである。
そのためには日本を強力な中央集権国家にすることが急務だった。それで廃藩置県を実行して中央が国が強力に地方を支配する国家造りになった。それはあらゆる面でそうだったのだ。情報分野でも新聞が全国に配達されるとき新聞の力は大きかった。本も出版されたがそれも東京経由でしか出版されないとか文化も東京中心の世界を作った。標準語も東京中心の中央集権国家から必然的にそうなった。情報は中央集権的一方的なものとして縦割りとして統制されたのである。こういう強力な縦割り社会は戦争とかするには機能的なのである。横の力、地方の力はあらゆる面で弱体化したからである。

東京電力は先ず、原発立地町村の自治体を取り込む。トップは首長であるが、実質的には総務課長、教育長、、など、従来からのやり手職員が東電と結託していくのである。
 

中央からの力が東電や官僚や政府が一体となった力が自治体の幹部をとりこみ原発の安全神話を作らせる。それで富岡町長の5億円入っていた金庫が津浪で流されたとか噂になった。それはまさにこうした縦割りの行政になっているから噂されたしそういうことがあっても不思議でないとなったのだ。上層部を抑えれば下々も従ってゆく、操作することができるという縦割り社会になっていた。

東電の力は国家並の力をもっていたしそれと同調してし経団連もあるのだからその縦型の圧力が結託すれば下々のものは逆らえない、そこに情報を管理するものとしてマスコミも結託する。それは戦争体制そのものだった。そしてそのヒエラルキ-には東大とか東工大とかも結託して中央の国の管理を強化する。裁判官も原発訴訟でも原発は安全だと安全神話を作った側でありその一人は東芝に天下りしているとか法の番人も原発事故の大きな責任があった。縦割り社会行政のなかでトップの責任はやはり重いが問われることもない、これは戦争と同じだったのである。現実に戦争を推進した人たちは罰せられることなく戦後も国の重要な要職についていたのである。

今回の津浪と原発事故ではいろいろなものが暴かれた。それは日本の敗戦と構造がにていた。

縦割り型の強力な中央集権的国家体制が起こした犯罪とも言える。地方自治体の力は余りにも弱すぎたのである。トップはスピ-ディも公表せず一番危険な場所に住民を追いやった。浪江などは一番放射線量が高い津島に避難したのである。地方自治体は東電から政府からも安全神話だけをおしつけられ肝心な放射線の情報など入ってこなかったのである。これは徳川幕府支配ともにていた。民には見ざる、聞かざる、知らざるである。放射能のことは見せるな、聞かせるな、知らせるな・・だったのである。それは今でも疑心暗鬼になりつづいている。モニタリングポストが各地の公園に設置されたがその下の土をとったりすれば放射線量は低くおさえられるというのも本当である。だから実際は回りはもっと高いところがあっても一番低く表示されるとかなる。政府のやっいることが信じられなくなったのである。信頼関係がなくなったのである。甲状腺ガンの検査でもポリ-プができても福島医科大学では国の管理下に入ったから本当の情報は出さないから信用できないから山形の大学で調べてもらうとかなる。そういうふうに中央集権の縦型社会行政が信じられなくなったのである。


文科省は学校での被曝のことだけ、


農水省は食事のときの被曝のことだけ、


観光庁は旅行の時の被曝のことだけ


原発事故でも様々な分野の人が管理してたけど土建屋は土建屋で自分たちの専門に口だすなとか原子力の専門家は原子力について放射線について素人はわからないとか互いに専門家同士の意志疎通もなかった。今でもこうして部門ごとに省ごとに分化して責任逃れしている。そのことはすでに政府の問題だけではない゛文明自体の問題でもあった。ナチスについてもそうした文明の専門家、多様に部分化したなかで自分の部門だけのみの責任でありあとは知らない責任がないとなる。上司の命令でガス室送りのサインを押しただけであり私には責任がないとかなる。下のものは殺人でも上司に責任がありとなり上司は上司で他の部門の責任があり私の部門の責任ではないとなる。そういう社会体制が原発事故が起こした原因でもありそのあとの放射能の処理でもそうなっている、問題は継続しているのだ。原発はこんな縦割りの無数に分化した体制では管理できない代物だったのである。

こうした文明が作り出したものが文明自体を破壊してしまう。そういう代物だったのである。
被曝に関しても総合的被曝としては計算されないことでもわかる。結果的に被爆量は低いものとなる。原発事故はやはり文明の崩壊、破綻のシンボルだった。自ら作り出したものを遂にはコントロ-ルもできず放棄さえされる状態になった。今でも原子炉の中が何になっているかわからない、もう一度大きな地震が来たらまた再爆発したりメルトダウンしたりして手に負えなくなるとかの恐怖から解放されないのである。

posted by 老鶯 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年03月17日

初音(下男となっていた夢)


初音(下男となっていた夢)

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買い物に小雨ふるなか初音かな


下男にも小雨のふりて初音かな


六号線小雨の中に雲雀かな

変な夢を見た。自分が働いていたのは他人の家だった。下男のように働いていた。家事をしして働いていた。そこは自分の家ではない他人の家だった。考えてみれば今やずっと家にいても下男と同じだった。家の主となれば忙しく家事に追われることはないだろう。三食用意されているから家の主といえる。前は自分は恵まれていてそうだった。今は家事全般をする下男なのである。


それで母のことを考えると母は嫁いできたとき鍋一つ買ってひどくしかられたという、その時戦後まもなくものもなにもないときだからそうなった。それでも自分の家としてはひどいことだった。そして女中のように働きづめの一生だった。その世代は大正生まれなどはみんな働きづめの一生だから趣味もなにもない、趣味とかはやはり時間かけて自ら育てない限りできない、俳句のようなものでも余りにも忙しかったらできない、暇があるからこそ学問も発展したのである。


風流は別に働いていてもありうる。ただ仕事していると仕事のことに心を奪われるから自然を感じる余裕がない、数を計算していたりともし自然に注意すると仕事がおろそかになり失敗するだろう。
人間は二つのことに注意をはらうことができない、そして車に乗っていると風流は感じない、風とかが感じないからだ。今日は小雨がふっていたからぬれても自転車で買い物に行けた。それで初音も雲雀の声も聞くことができた。


六号線は小高から南は警戒区域で入れない、六号線は東京まで通じていることに意味があった。それがないから常磐線も通じていないからなにか南の方は閉ざされてしまったから江戸時代にもどったような気分になる。なんとか仙台の方にゆくには便利である。ただ高速バスは直通で東京にでていることは便利である。