2012年03月01日

津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議 (春の日に金沢や烏崎をめぐる)


津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議

(春の日に金沢や烏崎をめぐる)


odakakousha.jpg
小高工業のプレハブ校舎

ichyoumatuuuu111111.jpg
一葉松

nihonn3333.jpg

karasuminato12.jpg


matunihonnn222.jpg
港の松
twinedtree111.jpg



公園に三本の木春日さす


街離れ一葉松や残る雪


春の日や勢いよくも鵜の飛べり


人はなし港の跡に春の鴨


春の日や港の跡に松二本


二本の木の残るかな家の跡人は帰らじ春となるとも


どういうわけか津浪の跡をめぐると必ず家の跡に二本の木がある。対になったように二本の木が残っている。一本ではなく二本なことが不思議なのだ。松も一本のところがあるが二本が対になって残っているのがある。そしてその木や松はあの脅威の津浪のことを語っているようだ。生き残ったものとして語っている。つまり生き残った松は貴重なのである。戦友のように生き残っている。
高田の松原の松はついに一本残った松も枯れる。全滅してしまったのである。その凄まじさは言葉にならない。ともかく庭とか家の回りにあった木なども自然の木とは違っていたのである。
それは人間化した木や松だった。ペットもほとんど人間と同じだから介護までしてその施設まである。野生の動物とは違う、人間化した動物である。庭の石だって人間化した石である。だから突然家も家の人もいなくなって唖然としている。それにしてもなぜ二本の木なのだろうか?偶然とも思えない、何か夫婦のような感じもする。だから二本なのか?

鹿島区烏崎の港は全滅した。一軒の家も残らなかった。それなりに船もあり魚もとれた。津浪を記念したという津神社も跡形もない、ただ今は鴨が港に浮かんでいる。鵜が何匹か勢いよく陸地の方に飛んで行った。廃墟と化した港に鴨が浮かんでいる風景も不思議である。季節はめぐって春となったが荒寥とした風景は変わらない、烏崎の港などは復興するのか?公園のようになってしまうのだろうか?とても住民が前のように帰って住み漁業をするというわけにはいかないだろう。松川浦辺りは漁船の数が多いからいづれ漁をはじめるかもしれない、それも原発事故の影響で先が長い、それでも二十軒の旅館が半分がはじめたということはそれだけまだ家があそこは残っていたのである。

原町の六号線のゴルフ場に小高工業高校のプレハブ校舎が建った。今日は卒業式でばらばらにしていた。今度はここに集るのだろう。小高は警戒区域でもさほど放射線量が高くないのだから帰れると思うけどどうなっているのか?仮設に住めるのは二年である。仮設に住んでいてもその回りの地元の人には迷惑だという面もある。その一番の要因が働かずに遊んでいる、パチンコやサウナに昼間から行って遊んでいるというふうに見られることなのだ。回りの人は普通は働いているからそういわれる。働かない限りまた地元に定着するということはない、そういう落ち着かない状態を仮設は作り出している。だから肯定的に見られないのである。

今日はあたたかかったから金沢から烏崎と回ってきた。あたたかくなると遠くまで行ける、でもなんかあと疲れる。


 

posted by 老鶯 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月02日

南相馬市原町区の一葉松の写真加工




ichiyouarenge1111.jpg

ichiyoukakou5555.jpg

ichiyoukakou333.jpg

ichiyoukakou1.jpg



ichiyoukakou222.jpg



街はなれ一葉松に残る雪




この写真があとからみて絵になっていると思った。これも偶然だった。一葉松は長い間手入れしていてこんなふうではなかった。最近要約手入れが終わりこういう写真がとれるようになったのだ。
この松はやはり貫祿があり南相馬市の文化財である。ともかく日本には松が多い、松の国である。

原町区にはもう一つ自然でも目立つものがない、城の跡もない、この一葉松は貫祿があり自然の文化財として貴重である。ここまで津浪が来たのだか幸い被害はまねがれた。原町区、南相馬市を象徴する松としてインタ-ネットの写真加工で作った。インタ-ネットの中でソフトが使えると便利である。

これは切手とかその他南相馬市の象徴的松として売り出せる。右田の松原などは松川浦の松原よりいい松原だったが失われた。小高でも浪江でも双葉でも自然でも文化財になるものがあった。ただまだ地元の人でも良く見ていない、高瀬川渓谷は外からきてもいい観光地だったけど入れないということが残念である。別に川が汚れたり森が汚れたりしていない、ただ放射能はそれなりに高いから警戒区域になった。あれだけの自然が放置されるのはもったいない、放射線は外部からくるものより内部被曝が怖いということは素人でも感覚的にわかる。だからどうしても地元の食糧を売っているけど食べる気がしない、やはり内部に体に蓄積されることがなんとなくいやなのである。
外部被曝だと地元でもそんなに気にしない、体内被曝は何か気持ち悪いのである。

2012年03月04日

蝋梅と雪


蝋梅と雪

roubaiyukiii111.jpg

蝋梅の長く咲きしも今朝散りぬ雪の真白き我が庭に見ゆ


こういうこともめずらしいかも、俳句も短歌も基本はやはり写生なのである。
自然はやはり絶えず変化して変わっている。昨日と今日は違っている。去年と今年も違っている。
今年は雪の量が多い。そして津浪があった。その点で大きく変わってしまった。
だから写生そのものが驚くべきものとなったのである。


蝋梅は結構長く咲くのが特徴である。一か月くらい咲いていたのか、とすると長い。蝋梅は長寿の花だから長く咲くのがふさわしい。雪の上に散ったというのがいかにも蝋梅らしい。

 

南相馬市鹿島区の新しくできたログハウス風仮設住宅



南相馬市鹿島区の新しくできたログハウス風仮設住宅

kasetu222222.jpg
シンボルとして塔を建てた、他の仮説でも塔を作っている

kasetucar1111.jpg
ここは間が広いのか、車が駐車できる

kasetu44444.jpg

kasetu33333.jpg

kasetunew111.jpg

kasetumapnew1.jpg

水無川をはさんでこの辺は仮設住宅で一杯だ

新しくできた南相馬市の仮設住宅は半分はログハウス風で感じがいい、がっしりした感じがする。
でもここは半分がログハウス風でありあとは普通のプレハブである。
地元の会社で作ったのは木で作っている。

外から見た感じでもずいぶん違っている。中もやはり違っているのだろう。

それにしても仮設は数が多い、ほとんど小高の人であり鹿島区に小高町ができたと同じである。
こんな生活いつまでつづくのだろう。水道とか整備できないから簡単には帰れないととか小高の人が言っていた。やっぱりパチンコをやっていた。

もともと仕事しないニ-トかもしれない、今はそういう仕事しない若い人が田舎でもかならずいる。
そういう人は結構目立つから田舎だといずらいのだけど時代でそういう若者も普通にいる
原発の避難者は一人十万とかもらえるからかえっていいとなる。
そしてみんな働いていないから気楽だとなる。
でも暇だと言っていたから暇なことは確かである。だからパチンコ屋に行っている。
津浪の被害者でも何もやることがないからパチンコ屋に行きパチンコ屋が繁盛している。
そのパチンコ屋で求人して近くで働いている人もいる。


仮設はやはり一時的なものだから回りのものもあまり良く思わないだろう。定着して仕事するなら受け入れるとなるがそうではない、一時的に滞在するだけだからである。でも人口がふえるから消費に使うから金はおりる。それも長くつづくとそろそろひきとってもらいたいとなるだろう。
本来の生活じゃないのだから当然である。地元の人は働き仮設の人が働かず遊んでいるとなると
嫌がられる。働かないというとき少数だったら変わり者でかたづけられる。多くなるとそうはいかない、ニ-トなども百万とかいるとなると多すぎるから社会的に問題にされるのである。

団塊の世代の時代は働かない人はほんのわずかである。ほとんど数にもならないから誰もそんな人を注意もしなかったのである。

posted by 老鶯 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

地球は遊びの場(詩)


地球は遊びの場



大いなるもの

とろえどころのない

つかみどころのない

大鵬は南冥に飛び

呵々大笑して去った

あとにはからりとした青空

笑いが天から木霊する

どこかにぽっかり浮かんだ春の雲

その下の花々で遊ぶ子供たち

地球は労働の苦役の場ではない

大いなる遊びの場、遊星である

千年石のように眠るがよい

大蛇や龍のように眠るがよい

何物にも拘束されることなく

遊びの場として地球は与えられた

神は遊びのために人をまねいた

苦役のためではない

苦役の労働は罰であった

ああ またぽかぽかぽかりと春の雲が浮かび

どこかに気ままに遊びにゆくだろう

posted by 老鶯 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2012年03月06日

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった (老人は過去の思い出に生きる)

 

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった

(老人は過去の思い出に生きる)

実家は昔、米麹取り扱いの鑑札ももっている店だったのですが、つぶれてしまい、祖父は酒米・麹の関係で町内の蔵本「やまだい」に丁稚奉公に出され、後に番頭をやっていました。


祖父は、今で言う仕事人間で、退職するまではあまり家にいない人だったらしいですが、何でも自分で作る器用な人だったそうです。
http://www.arainodendo.com/konjaku/01teppo.htm


鉄砲風呂で風呂をわかすのが仕事だった。父は製材所から端(バタ)材を安く買ってきて鉄砲風呂の燃料とした。新聞紙などを入れてそのバタを入れて風呂をわかす。風呂とトイレは外にあった。風呂の水は井戸がなかったので近くの井戸水をもらいバケツで運んでいた。その水を運ぶことも仕事だった。竈とかが外にあり炭小屋があった。家はトタン屋根でいつも雨がふるとあちらこちらに盥を置いて大騒ぎだった。隣の家は魚屋で五右衛門風呂だった。近くには豆腐屋があった。自分の家も店屋だった。
最初は酒屋だったが次に子供相手の三文店屋を開いた。いつもクジがありクジのついたもの当たりはずれがあるものが売れた。その頃わんさかと子供が多いからそんな小さな店でもはやったということがある。駄菓子屋のはしりである。戦後10年くらいまでは日本人の生活は江戸時代の延長だったのである。赤穂浪士に討たれた吉良上野介が炭小屋に隠れていたというのはどこの家にも炭が燃料だから炭小屋があったのだ。炭焼きはどこの山でもしていた。炭焼きで山の生活は成り立っていた。今の燃料店はガスとか石油になるけどそれまでは炭を売っていたのである。


だからこそ町とザイは密接に結ばれていたのである。どこでも一つの自給自足経済圏として生活していた。石油とかは使っていないし学校でスト-ブに石炭をくべるようになったのが進歩だった。石炭は工業用であり普通の家では使っていない、それで常磐炭鉱は石炭で栄えた。小名浜は石炭の積み出し港であった。北海道でも小樽をはじめ石炭の積み出し港であり鉄道そのものが最初は石炭を運ぶ貨物の鉄道として作られたのだ。だからこの辺でも長い貨物車両が通っていた。確かに電気は通じていた。家にあったのは裸電球一つであり電化製品は一つもない、燃料は炭であり炬燵すら炭だった。だから炉端がどこの家にもありそこで栗などを焼いていた。そういう生活は江戸時代と同じでありその生活は今になると貴重な経験になった。団塊の世代の子供時代までがそういう生活を経験している。あとは急速に高度成長時代に入り忘れられてしまった。思うに高度成長時代以降に日本人でも文明的生活になったのであり戦後十年まではいわば原始的生活だったのである。その変化が余りにも大きすぎたのである。葛尾(かつろう)村などでは電気すらなかなか通らなかった。これは日本全国で山の方は遅れたのである。今になると信じられないかもしれないが、裏の堀の小川で洗濯物を洗っていたのである。これはまさに原始的生活だった。パリでも洗濯物をセ-ヌ河で洗っていた。洗濯物は川で洗うことは原始時代からつづいていたのである。


芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉  松尾芭蕉


夕顔の白く夜の後架に紙燭とりて 松尾芭蕉

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/bashounowaki/bashounowaki.html


このサイトで説明されているように江戸時代の家と戦後十年の生活形態はにている。
後架はトイレは外にあった。だからこそこの句ができた。盥というものも今はないが昔は必ず雨漏りのために備えねばならなかったのだ。江戸時代のことが戦後十年の生活とさほど変わらないからこの句も実感できる。今はそういう生活を知らないから実感できないのである。もちろん紙燭というのは実感できない。懐中電灯は使っていたからである。夕顔の白い花が怪しく紙燭に照らされて仄かに浮かぶ、そういう皓々と電気に明るい世界とは違うからこそこの句ができた。風流は寒きものなりとか風流は不便な時に感じられる。今は余りにも便利になったから風流を感じない、車だったら外の風を感じないからそもそも風流を感じない、自転車だと風流を感じるし徒歩だったらさらに風流を感じる。そもそも歩く感覚を今や車時代で失った。歩いて見えるもの感じる感覚を失ったのである。これは江戸時代から綿々とつづいた人間の感覚の喪失なのである。それが意外と社会にも影響していることが大きいのである。


地に足がついた生活は戦後十年まではあったが高度成長時代から便利になり失われた。人間関係も大きく変わり金が大きな力を持つ社会に変貌したのである。つくづく地元で味噌や醤油を作っていても全国から味噌や醤油など入ってくる。米でもそうである。すると自分の好きなものいいものを選び買える、地元のものを買う必要がない、すると金が大きな力をもつようになる。戦後十年は地元のものを買うほかない、まだ今のように交通が発達していなかったからだ。豊になるには全国で売れるものを作らねばなれない、その土地の名産品を生み出せば通販でも全国に売れる。全国と世界とも競争するとなると並のものを作っていては売れないとなると売る苦労は大変なものになっているのだ。


自分の父は葛尾(かつろう)村から丁稚方向に双葉町の酒屋につとめ暖簾分けして移った。あまり商人向きではなかった。同じ酒屋で働いていた人がフィリンピンから戦争の引揚者で鹿島区の小池に入植した。戦後十年は働く場所がない、引揚者で人口が増えた。それで開拓に入った人たちが多かった。飯館村の大倉から草野にゆく所に「共栄橋」とあるのもあそこにあった二軒の家は開拓に入ったのである。一軒は廃屋となったが一軒は残っていた。ブラジルとかに移住したのも働く場所がなかったからである。働く場所がなければ人はブラジルまでにも移住するのだ。それは強いられた移住である。普通は人は移住はしない、住み慣れた所にいたいのである。人間の歴史は移住の歴史でもあった。アメリカ自体が移住民で作られたことでもわかる。いづれにしろ戦後十年は江戸時代からの生活の延長であり原始的生活の延長であったから今になると貴重な経験をしたとなる。生活の基本として原始的時代から江戸時代と変わらない生活だったのである。それが変わったのは高度成長時代からでありこの変化は余りにも大きすぎたのである。それゆえに人間の基本的となるものが破壊されたのである。家族でもコミニュティでも様々な基本となるものが喪失した。その変化は計り知れないのである。


ともかく老人は過去に生きている、過去を思い出すときあのとき生きていたなと実感するのだ。
思い出すことが仕事なのである。実際に家族も死んで失われたとき、本当に家族自体思い出すときあったとなる。人生はただ思い出としてあるだけになる。もう帰ってこない過去があるのみなのである。帰ってくるとしたら思い出として蘇った時だけなのである。現実に死んだ人はどんなことしても帰ってこない、ただ思い出の中にあるだけになってしまったのである。施設に入った老人が家に帰りたいというとき、帰宅願望は家族と共に暮らした過去の時間に帰りたいということであり実際はそうした家族はなくなっているからないのである。帰宅願望は過去の時間にもどりたいということでありもう実際にはそうした家族は思い出のなかにしかなくなったのである。父にしても中学生の時死んだから思い出すのも容易ではない、ただ鉄砲風呂の小屋を自分で作っていた。器用な人だった。昔の人は自給自足だとすると器用さが要求されたのかもしれない、その時ようやく水道が入り始めた時代でもあった。いづれにしろ人間の思い出は家を中心にしてその土地と密接に結びついている。もちろん戦後十年に住んだ家は新しくなり変わった。でもその家のことは思い出す、新しい家も築40年以上すぎてしまった。二つの家に住んだ。原発事故で故郷とか家を追われた人で老人にとって辛いものだった。老人が思い出に生きるとなったらその思い出となるものが土地でも家でもなくしたら思い出せないということがある。そして家には死んだ人がまだ生きている、長く住んでいたから家の中にまだいる感じがするのだ。そこに家の重みがあった。放浪に生きる人もいるが普通は家のなかで故郷の中で生きて死ぬ、それで老人になると家が大事になる。家で死にたいというのはそこが自分と一体化した場所だったからである。

我が手にて鍋料理して凍み豆腐入れて味わう母も介護して

過去を思い出すというとき今や家事全般を自分一人でやっている。料理を覚えるのは大変なことである。だからほとんど料理はしていない、でも鍋料理を食べたいと思い市販のものを買い作ってみる。そこにどうしても凍み豆腐を入れる必要があった。それを忘れていたのである。
この凍み豆腐がかみしめてその味が鍋料理の味だった。つまり料理の味すら思い出としてあるようになる。お袋の思い出が家庭料理にあるようにお袋の味にあるようにその味が思い出となっているのだ。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。それがなくなったとき自分で作るときその凍み豆腐の味で過去を思い出す、料理も過去を思い出す作業だった。今はインスタントでいいものができているからお袋の味というのも消える。しかし人間が最後思い出だけになるときその思い出は淋しいものとなる。漬け物の味でもそうである。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。老人になるとそうした思い出に生きるから思い出豊だった人生は豊かだったのである。現代は便利なのだけどそうした手作りの味とかが消えて金で買うだけのものになったから思い出に残るものが少なくなることは老人になってから思い出になるものが少ないとなる。それは豊かな人生だったとは言えないともなるのだ。

posted by 老鶯 at 03:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年03月07日

真野川の生物の放射能の調査

 

真野川の生物の放射能の調査

dokuritukankyou1.JPG

dokuritukan2222.jpg

kankyoucar.jpg


真野川の生物の放射能の調査を独立行政法人の環境調査研究所でしていた。

人はとても被曝に弱く、遺伝子構造が単純な生物ほど強いです。
ミジンコなんて、人の致死線量の数千倍でも楽勝です


これは本当なのかな、調査している人の話では動物は魚でも川の虫などでも寿命が短いから影響が少ないという。人間は寿命が長いから影響がでてくる。そういえば5年後10年後20年後30年後にガンがふえるというから気の長い話である。幼虫なんか命が短いから細胞や遺伝子が傷つかないのか、
人間は長生きするから長い間細胞や遺伝子が放射線を受けるからガンになるのか?


10年後20年後になると確かめようがなくなる。川の虫であれ生物を食べる鳥なども影響するという。それでも鳥も10年とか生きていないからやはり影響が少ないとなる。鮎のようなものでも一年しか生きていないから影響が少ない、鮭の稚魚も多いと調査する。今真野川には海鵜が飛んできている。
田んぼには餌がないけど川には餌があるから鳥がかなり飛んでくる。雲雀も鳴いていた。
川には生物が生きられる環境がある。ただ真野川はかなり放射能汚染されているはずである。

真野ダムでも泥にセシウムが付着して水道水に使われることを心配して水道水を飲まないという人がいる。なぜかというと飯館村があれだけ高いとするとその山や森からセシウムが流れだしてくるのだから川自体相当汚染されているはずだとなる。真野川の公園のぬれた砂は10マイクロシ-ベルトとかになり高かった。阿武隈川の河口でも何百億ベクレルとか泥となってセシウムが付着して流れだした。泥に付着して放射性物質は流れるのである。


チェルノブエリではネズミは放射線の影響をほとんどなく繁殖しふえた。燕などの渡り鳥はへった。放射能は特に低放射線の影響は誰もわからない、資料もないからである。だからいろいろな憶測をいう人が専門家でも言っている。だから素人でも余計混乱するのである。非常に影響を誇大化されたり縮小化されたりとただ憶測だけが乱れ飛び不安になるだけなのである。結局放射能の問題は人間の体にどれだけ影響するかが問題なのである。別に放射能に汚染された食糧を食べても体に影響しなかったら問題ないとなる。それがどのくらいで影響するのか個々に違うとかいろいろ言うから誰もわからない。ただ不安だけが増幅される。体内被曝が怖いことはわかる。だからどうしても水や食糧には敏感になるのだ。


ともかく毎日放射能に関する話題はつきない、放射能は何が真実なのか見極めることがむずかしい。フクシマ原発はまだまだ危険でありいつまたメルトダウンとかになるとか原発の中がどうなっているのかも正確にはわからない、東電はあてにならないとかなると一体地元の人はどう判断していいのかもわからない、ただ不安になるだけなのである。こうした川での調査結果にしても時間がかかり大変な作業になる。全く放射能ほどやっかいなものはなかった。放射能ノイロゼ-になるから困った。

posted by 老鶯 at 06:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年03月09日

松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった (松島は普通に観光できる)


松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった
(松島は普通に観光できる)

matumap2222.jpg

クリック拡大!

松島の地形は複雑であった。200くらいの島がありその位置関係がわかりにくいのだ。松島の津浪の被害は少なかった。今行ってみるとどこが津浪の被害を受けたのかわかりにくい、石巻とは大違いである。観光に行っても別に悲惨な状態がないからいつものとおり観光できる。それでも観光客が半分に減っているという。その原因が津浪というよりは原発の放射能の風評被害だという。放射能の方を怖がっている。これも変だなと思った。ただ牡鹿半島から一関の方に放射性物質が流れ一関にホットスポットができたというのは風の流れでそうなったのである。風の影響でとんでもない遠くに影響するのが放射性物質の流れだった。

それにしても津浪は瑞巌寺の門を入ったが本堂に入る入り口の入場券を売るところでとまっている。あの辺までしか来なかったのかという意外さである。地図を見ればわかるように宮戸島や寒風沢島とか大きな島がありそれによってさえぎられたのである。あれは島ではなく半島かと思っていた。

この辺の地理はわかりにくい、地図を見れば確かに松島はこの大きな島によって守られていたのだ。一方宮戸島や寒風沢島とか防波堤の役割をした島はそれなりに被害が大きかった。
そして多賀城市もかなりの被害があった。前に島があっても宮戸島や寒風沢島のような大きな島ではなかった。それでそれなりの被害があった。塩釜も被害があったがここは多賀城市の隣でも入江となっていたので津浪の勢いをそいだ。津浪は地形によって被害が違っていた。前にちょっとした丘のようなものがあっても津浪の勢いがそがれる。津浪をまともに受けた海岸線は壊滅した。


松島の人が言っていた。風呂の水があふれるように津浪が来た。なるほどと思った。もろに津浪が根こそぎ松や町を破壊したりしなかった。徐々に水があふれ水かさがましてゆく、1.2メ-トルくらいの高さで確かに松も水にくぐったとしても松は倒れなかった。水の勢いがただ風呂の水があふれるように徐々にあがっただけだったからである。石巻の方を見れば前に何もない、海の前に島もなにもないからもろに津浪を受けて被害が甚大なものになったのだ。津浪の被害は今でも凄惨な感じがする。相馬辺りでも磯部は一軒も家がなくなった。石巻でもそうだが凄惨なものを感じてしまう。

しかし松島はそういう凄惨も被害はない、どこが被害にあったのだといぶかる。海に面した松や樹が倒れて流されたというがそれもほとんどわからないのだ。松は今まで通りあるからどこが被害にあったかわからない、牡蠣は被害にあって半分にへったという。今までは大きな牡蠣を出していたが小さな牡蠣でまずかった。そういう影響はあった。風景そのものは何ら変わっていないからほっとした。ちょうど春の日がさしていて海は穏やかに輝いていた。松島だけは地形によって救われた感じだ。

野蒜海岸でも前に大きな島がないから大きな被害になった。あそこの松は流された。

いづれにしろ松島は別に観光でも普通に行けるし違和感がない、石巻などは観光というわけにはいかない、まだ凄惨な感じが生々しく残っているからだ。それであそこだけは救われた感じがした。
風光明媚な風景は何ら変わっていなかったのである。

posted by 老鶯 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌 (南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌

(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

●津浪で意識させられた海

yasawauranami1111.jpg

uranami222222.jpg


八沢浦の夜雨  磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐    雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


南相馬市の鹿島区の八沢浦は歌枕として注目されていない、地元の人でも注目していない、ただ今回の津浪で八沢浦が元の満々と水をたたえた入江にもどったときほど驚いたことはない。前からここは海だったと想像してその合成写真も出していた。実際に海になったときは想像を越えていた。
浪が奥に打ち寄せキラキラと春の光にきらめいていたのである。この光景を見たのは一回だけだった。浦浪というのをここではじめて見た。この辺は海岸沿いは荒波しかないのである。だから入江があり浦浪がよせる景色はなんとも穏やかで美しいものだった。それは一時奇跡の光景だった。
ここは明治になってから開拓されたのである。


磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


磯というときこれは入江が磯となっていたのだろう。この辺では磯はない、浪のうきねというとき入江によせる浦浪だった。そもそも磯桜という表現はあまりしないだろう。これを歌った人はやはり海辺の磯のある所に住んだいた人なのか?京都の人でもそういう風景に親しんだ人かもしれない。
浦浪がよせてきて旅人は興奮して眠れない、そういうことは旅では良くある。桜が咲いていたということは美しい光景だった。それは入江があり浦浪がよせることで美しい光景となっていたのである。長岩というのも海に浮かんでいた。確かに長い岩であり松がその上に今もある。
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎の歌の草原も地名だと考証した。その塩崎の市庭とか船着という地名が残っているところまで津浪が来たことには驚いた。古代の海の情景を津浪が再現したのである。


八沢浦は八つの浦だった
http://musubu2.sblo.jp/article/44187778.html


今回の津浪の影響はより海を意識するようになった意識させられたのである。海は別に近いのだから特別意識する必要もないというが常磐線で海が見える所はわずかだから電車に乗っても海を意識しない。相馬から仙台で海を意識するのは新地駅だけどそこもわずかかしか海が見えないのだ。今回の津浪で六号線でバスでゆくと広々と海が見えるようになった。今までは町や松原でさえぎられて海が見えなかったのである。浜吉田とあっても浜だから浜があるはずだけどあそこで海を意識したことは一度もないのだ。海はかえって遠くにあると思っていたのである。その浜吉田駅まで津浪が来たことには驚いた。昔は広々と仙台までの常磐線沿いは海だったのである。


seawidw11111.jpg
クリック拡大!


六号線のバスから海の方を見たら沖に船が見えた。まずこうした景色は見れなかった。海は近くても見えなかったのである。景観が変わってしまって海が広々と視野に入ってくる。一面この光景は海を意識させるし新たな景観を作り出したというより元の海の景色を再現したといえる。


●末の松山をたずねる


末の松山は多賀城駅から近い、多賀城駅まで津浪が来たのも驚きであった。今度は高架橋を作り駅を作っていた。末の松山は砂押川の橋を渡り近かった。駅からもその松山が見える。末ノ松山から沖の石まではかなり落差があり末ノ松山の下が海でありあの石が沈んでいたのだろう。その感覚はやはり歩いて見ないとわからない、あの辺には古い農家があり蔵が残っていたからわかった。そこにも津浪の被害があった。新しい街並のなかに古い農家が埋もれていたのである。津浪でも蔵はここでも残っていた。


春の暮末の松山残りたる松二本や浪こさじかも


享保四年(1719)の「奥州観蹟聞老志」に「丘上有青松数十株」とあり、当時、数十本の松が群生していた。しかし、仙台藩の儒学者舟山万年が著した「塩松勝譜」によれば、それから百年ほど後の文政六年(1823)ごろになると、わずか五本を残すのみとなった。

末松山(末音寿衛)。附宝国寺。八幡坊々側寺アリ。宝国寺ト云フ。寺後ニ高丘アリ。累々墓ヲ為ス。是末松山ナリ。往時ハ松樹、山ニ遍満ス。今存スルモノ僅カニ五株。而シテ其最モ東ノ一株、之ヲ末松ト称スルナリ。
(「塩松勝譜」)


多賀城は高いマンションとか工場地帯でありここは確かに太平洋汽船の船がでているから何度も利用したにしろ多賀城でもビルや家にさえぎられるから海を意識しない。海が全くさえぎられているし海が見えないから海を意識しないのである。だからあえて歌枕の地でも訪ねることはなかった。そういう情緒がまるで感じられないものとなっていたのだ。それはすでに江戸時代にも古代の面影はなくなっていた。あの辺で古代を感じることはほとんどなかった。ただ今回の津浪で古代の海を意識するようになったのである。多賀城駅の前の砂押川にも津浪が押し寄せて被害があった。津浪はまず川をさかのぼる。それでこの辺でも被害があった。この川は実際は海に近いからかなりの勢いで津浪が押し寄せた。それではじめてこの川は海とつながっているのかと意識した。普通あの辺は住宅が密集してビルが高いから海を意識しないのである。つまり今回の津浪は今まで海を意識しないところが海を意識させられたのである。だから砂押川に鴎が飛んでくるとき海が近いから当然鴎が飛んできてもおかしくない、鴎も津浪と同じ様に川をさかのぼる。それで枯葦がしげっていたので古代の風景を思い浮かべることになったのである。今まではこの辺は何か都会化した殺風景なものとしてしか見ていなかったのである。


枯葦に昔の面影砂押川


早春や多賀城駅に鴎飛ぶ

sunaoshi.jpg
taganouka111.jpg


こんな句ができたのも津浪の影響だった。それから野田の玉川の昔の光景も浮かんできた。


ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり 能因


ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集-西行)


仙台藩の儒学者佐久間洞巌著「奥羽観蹟聞老志」(享保四年<1719>刊)によれば、「野田の玉川」は、往昔、月影を映し、海水が遡る河流だったが、当時、既にその面影はなく「唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ」の小流になっていたという。


「思惑の橋」というときここがすでに人間臭い橋となっていた。でも古代は淋しい風景だった。
潮風が吹き千鳥が鳴くのみの淋しい光景だった。そういう光景をこの辺からは全く思い浮かべることもできなかった。情緒が全くない景色だったのである。まず潮風自体感じないし吹いてこないのである。津浪で見直すべきは多賀城を中心とした地域は海に近く海を意識しないでは語られないものだったのである。だから浮島神社があるというのもそのためである。多賀城近くに海に浮かぶ島があったのである。そしてなぜこれほど末ノ松山とかが都の人に意識されたのか?

それは貞観津浪というのは赴任した都の人にとっては驚くべきものであり忘れられないものとなっていたから京都に伝えられた。貞観津浪の供養のために祇園祭りがあったということもそのためである。それだけこの津浪は衝撃的だったのである。

宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)


こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
小鶴新田辺りから多賀城辺りまで今も田野が広がっているからかえってあの辺が古代を偲べる。多賀城市は家が密集してビルが高いからかえって古代を意識できないのである。歴史はやはり地理であり原始の状態からその歴史をたどる必要がある。それが都会化するとできなくなるのだ。今回の津浪はそうした古代の情景が再現されて海をより意識させられたのである。


仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html

 
posted by 老鶯 at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月10日

深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた (津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)


深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた

(津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1331076028/

陸前高田にボランティアに行った
そこで地元の人の話を聞いたんだが
「生き残った人は津波を見て死に物狂いで逃げた人が多い

死んだ人は波を見ることが無かった人だ」と言うことだった


津波を見なかったので、最後までのんびりして死んだ人が多いらしい

そうすると波の見えない夜中は警察の言うように
死者は爆発的に増加したはずだ 本当に昼間で良かった


こういうこともあったんだな、磯部の人も一波の浪が防波堤を越えてから車で逃げた。他でも最初の浪は大きくない、でも浪が防波堤を越えて来たら即逃げないとまにあわない、津浪を見ようと海の方に行った人はかなりいる、津浪はなかなか経験したものしかわからないのだ。
テレビでは津浪を見てから必死に逃げていた人がいた。あれでも助かっている。津浪を見て必死で逃げれば助かることもありうる。津浪を見ない人は助からなかったということはわかる。
津浪が家にさえぎられて見えないので恐怖を感じず被害にあった人がいる。


海は今は松原や家や街にさえぎられて見えない場所が多くなっている。相馬から宮城の海岸線でも海が見える所がないから普通海を意識していないのである。山元町でもあそこであれほど被害にあったことに驚いた。そんなに海側に家があったのか、松原で海が見えないから普通海を意識していないのだ。駅には新興住宅地があったから家があったことはそれなりに意識していた。ただ海は意識していなかったのである。例えば今回のように松原も家もなくなり海が広々と見えるようになったとき、もし津浪が来たら肉眼で見て津浪を来るのを知ることができた。他の人も高い建物から津浪を来るのを見ていた。それでビデオにとっていた。その様子は危機感がなかった。、たいしたことないと見ていた。最初はみんなそうだった、だんだん高くなってきたので驚いたのである。


津浪に関しては経験がない人がほとんどだからのんびり構えていた人が多かったのである。だから海の方に見にゆくとなった。昼間だから津浪を見て裏山に逃げたりして助かった人はかなりいた。
裏がすぐ小高い丘になっている所がありそこに逃げて助かった人がいた。津浪が来るのを見えて家の裏山に逃げて助かった人もいる。昼間だから津浪が見えて助かった人は確かにかなりいる。夜だったら津浪が見えないから死者が十万人とかありえたかもしれない、夜はそれだけ津浪では危険だったのである。津浪に対する危機意識は低いから余計見ない限り逃げないという人もいた。


南相馬市の鹿島区の大内の人も右田浜の松原を軽く越える津浪を見てからトラックで逃げたと言っていた。これも津波を見てから逃げて助かった一人である。もし夜だったら逃げられず流されて死んでいたかもしれない、昼間だったということが幸いしたことは確かである。
つまり津波を見て逃げて助かった人がかなりいるということは夜だったら被害は十倍にも拡大していたということはありえる。考えてみると津波が夜来た場合の訓練をしていない、津波の避難の訓練は昼にしているからだ。こういう所も盲点なのである。今度は夜に地震がきて津波が来るかもしれないのだ。そういう備えをしている人は少ないのである。そしてまた大きな被害になる。
東京辺りでも夜に大地震がきて停電になったりしたら情報も入らないしパニック状態になり騒乱状態になり被害が拡大化する。懐中電灯すら探せず真っ暗な中で取り残されて津波が襲ってきたら最悪である。


ともかく現代は海が近くても海が見えない所に住んでいる人が多い、津波の映像でも家が密集しているから津波が襲ってくるのが見えないのである。松原によってもさえぎられているから遠くから津波が来るということは見えない、海は今は松原であれ家であれ高い建物であれさえぎられて見えないことが多いのである。海が近くても海を意識しないことが多いのだ。そこが盲点となり津波の被害を拡大化した。自分の場合、郷土史とか研究してここはもともと海であったとか常に書いてきた。その所が津波で海になったことに驚いた。もともと海だったところは何らか海として意識する必要があったのかもしれない、多賀城市でも東松島町でも自衛隊の駐屯地として海側に作ったのは失敗だったと今は反省している。ここでも津波の備えはなかった。ただ多賀城市では奥に入った地域だから津波は来ないとされていた。でもその見通しが甘かった。そもそも太古は海が深く入り込んでいた。それで沖の石があった。そこまで海の底だったのである。

そういう太古の状態があった。都会化したことによって海が見えなくなり海は意識されなくなっていた。多賀城市などは全く海を意識できなくなっていた。多賀城市の場合、駅前の砂押川に津波があふれたのである。この川はかなた海に近かったのである。ただ家やマンションやビルや工場地帯が密集しているから海の視界が全くさえぎられてしまったのである。川は津波では遡上してくるから危険だった。川を通路にして津波が遡上してくるからである。

今はどこでもそういうことがありうる。海は松原であり家であれ工場であれ何かそうした文明化したものによってさえぎられ見えなくなっている。海が意識されにくくなっているのだ。

海に囲まれた日本なのだけど意外と海の近くでも海を意識していないのである。海岸沿いに住んでいても海がさえぎられていることが多いと海を常に意識しているわけではないのだ。
ともかく江戸時代に松原を防潮林として作ったとき海への視界がさえぎられた。そのことを危険なものとして指摘する人はいない、松原は白砂青松の日本的風景として定着していたのである。
松原は美しいのだけど遠くから海が見えにくくなったとか気にしている、危険を感じた人はまれだろう。ただ津波がおしよせてからその津波を見て逃げて助かった人はかなりいる。津波は見えてから逃げても助かるということである。地震は見えないから助からない、津波は一応見えるので見てから逃げて助かる確率があるということなのだ。

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

http://musubu.sblo.jp/article/54362182.html

posted by 老鶯 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

今年は寒さがつづく(震災から一年)


今年は寒さがつづく(震災から一年)

里の川よりそいにつつ鴨幾羽なお雪ふりて春はまだしも


家もなく墓も消えにき身一つの残りてあわれ春になるかも


これも写生である。鴨幾羽というとき4、5羽くらいで少なかったのである。普通10羽とかであり何か少ないからかえって雪がふり淋しい感じになったのである。
鴨は冬の季語であり春になれば春の鴨となる。今年の冬は長い、こんなにまた雪がふるのはめずらしいだろう。

里の川というとか、兎追いしかの山・・・いうとき兎は町外れで何回か見た。兎は意外と田舎なら町近くにいる。だから兎追いしという風景は日本の田舎ではどこでも見られたのである。
その里の川も放射能汚染になったときがっかりした。浪江のように住めなくなるということはなかったが放射能汚染ばかりが話題になることに嫌になる。


真野川を通じてここは明かに飯館村と密接に結びついていた。飯館村の山林から水が流れ真野ダムにたまるからである。飯館村は三つに住むところが分けられる。町のある草野辺りはなんとか住めるようになるのかもしれない、住めない地域もでてくるだろう。放射線量は公式に発表しているより実際は高かった。草野辺りで草むらで8マイクロシ-ベルととかあった。発表しているよりずっと高いと地元の人が言っていたけど本当であった。

飯館村は南相馬市にとってもともと山中郷として相馬藩だったから歴史的にもそうだし地理的にも一見隔絶されているようで水の流れで一体化しているように一体化していたのである。
そして実生活だけではない、精神的にも地形を通じて一体化していた。それで詩にしたりしていた。人間の思想形成がその風土から成されることはまちがいない、芸術もその風土から生み出される。
自分にとってだから飯館村は精神的に一体化していたのである。


ただ飯館村は警戒区域のように閉鎖されていない、まだその土地に行けるからましである。
そして放射能で木が枯れたり葉が枯れたり水が汚れたりしないのだ。花もやはり春になれば咲くだろう。その土地自体がなくなるわけではない、警戒区域はその土地に入れないからその土地自体を失った気分になる。


ともかく震災から一年が過ぎた。津波で家も失い墓まで失い身一つで逃げた人の心境を察することはできない、川柳ですっぴんで身一つになったとか心境を現していたけど壊滅した自分の家の前に立って川柳を作れな気持ちがわかる。あまりにも凄惨すぎたのである。それでも春はくる。

身一つでも春はくる。死んだ人にはすでにもう春はない、もはやただ今生きているということが価値あることになっているということもある。一年はやはり一つの区切りとなる。


 

2012年03月11日

黙祷(震災津波より一年)


黙祷(震災津波より一年)

tunaminew1111.jpg


津波より一年過ぎぬ亡き人の思いの深くここに留まる


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


北海道日本海側磯菊の咲きつづきつつ風の荒しも

震災から津波から一年たった。海の方に向かって黙祷した。故郷というとき今の時点だけではない時間がそこには積み重なっている。死者も故郷にいるのだ。墓参りの地として故郷もある。死んだ人とともに思い出がそこにあるのだ。だからなかなか故郷を離れられない、田舎だとどうしてもその土地に愛着をもつし土地と一体化する。長く住むとその土地の樹や石のらうになってゆく・・・それが生物として自然なのことである。そして故郷の土になる。時間のなかで積み重ねられたものはなかなか外の人には理解しにくいのである。だから旅してもその土地の歴史を理解することがむずかしい。特に外国にゆくとそうである。二千年の歴史があるといってもその場にたっても理解できないのである。それは東京にもう日本人だって江戸時代をしりえようがないのと同じである。余りにも変わりすぎてしまったからである。そうした時間として積み重ねられた歴史を奪ったのが原発事故でもあったのだ。

富岡町でまだ生活していた人がいた。90何才かの母親を介護しているから家で死にたいといっていたから家に留まった。原発事故では死んだ人は一人もいないというがその関連で百人くらい死んでいる。老人が衰弱して死んでいるのだ。自分の家も同じ介護があったから逃げられなかった。そのことを余り報道されていないのである。今回は実際はこれだけの被害だから報道されないことはいくらでもある。1万5千人も死んだらその一人一人が語られないからである。特別目立ったものしか語られない、そして数が多いからみんなに注目できないのである。
南三陸町というとき前は志津川町と言っていた。町名が変わったから今まであそこが志津川町だと思わなかった。町名が変わることも困る。川にちなんだ名前だがその志津川を津波がさかのぼったことを知ったから思い出した。南相馬市も名前が変わった時、何かしっくりこない、なじんでいないからそうなる。原町市というのがなじんでいたからその方がピンとくる。あんまり市町村名は変えない方がいいということがこれでもわかる。志津川町は志津川というとひびきが良くかえって前の名前が良かった感じがする。南三陸は広い地域にしたからわかりにくくなったのだろう。南三陸は他から見てわかりにくいのも難点だった。

津波はまず川からさかのぼってくる。多賀城の砂押川もさかのぼった津波を見たとき恐怖した。あの小さな川に津波の水があふれたのである。ここも真野川から津波がさかのぼりあふれるということがあったから恐怖した。それにしても志津川町は前が穏やかな湾で静かな町であった。陸前高田も大きな広田湾があり静かな所だと思った。それが一転して悲惨なもの凄惨なものになった。津波にとっては危険な場所だったのである。


志津川町で記憶に残っているのは巌に大きな白い浜菊が咲いていたことである。あそこでも長い間訪ねたことはないから記憶から薄れていた。だから南三陸町になったということがわからなかったのだ。海辺に咲く菊というときこの辺では南限の地として車輪梅が有名であった。それも根こそぎ津波でなくなった。それから北海道の留萌辺りを自転車で走っていたとき、磯菊が咲きつづいていた。
黄色の磯菊は日本海側にあった花だった。地に根を張り生命力がある花の感じだった。やはりその土地にあった花というのがある。車輪梅というのは奄美の方に咲く南国系なのである。

太平洋側の黒潮流域としてつながりがあった。これは明るい感じであり磯菊は何か渋い感じの花である。日本全国を旅ばかりしていたけどその土地にあったものが思い出となる。花もその土地にあったものだと思い出として残る。ただ思い出も日々薄れてゆくだけなのである。留萌辺りは風が強いことで有名な地帯だった。自転車で走るのには向いていなかった。それも記憶が薄れてしまったのである。これが車だとその風の記憶さえ覚えていないだろう。便利なんだけど記憶に残る旅をしないとあとでふりかえることもできなくなる。


震災から津波から一年たったけど自分の住んでいる場所は原発事故から30キロ圏から数キロ離れたところであり津波の被害もなかった。飯館村のように放射能の被害もあったにしろ故郷を離れるようなこともなかった。そういうことで比較的客観的に冷静に見れる立場にあった。だから俳句とか短歌を書けた。当事者の気持ちにもある程度なれた位置にあった。被害をもろに受けた場所にあったらこうして客観的に冷静になっていられなかった。現実に津波で家も家族もなくした人はその場に立ったら川柳も作られなかったのである。ものを書くにはやはり客観的にならないと書けないのである。
自らが過酷な被害者になると客観的になれない、いろいろ書けたのはそういう客観的立場にたてる位置にあったからでる。

posted by 老鶯 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月12日

子供の検査で甲状腺に腫瘍が見つかり心配で山形に移る (震災から一年先が見えない不安)


子供の検査で甲状腺に腫瘍が見つかり心配で山形に移る
(震災から一年先が見えない不安)


甲状腺に腫瘍があるのは人口の1%程度。丸森町は子供の20%近くに腫瘍が
直径5・1ミリ以上のしこりなどが確認され、二次検査の対象となったのは26人(0・7%)だったが、検討委座長の山下俊一福島医大副学長は「原発事故に伴う悪性の変化はみられない」と説明している。二次検査が不要の3739人(99・3%)のうち、1117人(29・7%)は5・0ミリ以下のしこりなどが確認されたが、県は「良性」と判断している。


それは「検討委員会」の座長・山下俊一福島県立医大副学長が、全国の日本甲状腺学会員あてに
>次回の検査を受けるまでの間に自覚症状等が出現しない限り、追加検査は必要がない」というメールを送っているからだ。

福島の子供の甲状腺に半端ない異常が起きてる件
http://www.youtube.com/watch?v=be9F21sxCIo

 


南相馬市原町区の知人の孫が検査したら喉にポリ-プがあったとい。この甲状腺のポリ-プは見つかっている数が多い。これからもまだ発見されるだろう。それで原町には孫を置けないから山形でみてもらい移るほかないとか言っていた。というのは福島医科大学は国の管理化に入っていたて都合の悪い情報は出さない、情報操作をしているからだという。医大の副学長になった山下氏はその役をになっている。その人はこのポリ-プは結節は危険なものではなく甲状腺ガンになるものではないと言っている。ただ国で管理するところでだまされたのだから信用できない、放射能については国の出す情報が信用できなくなっている。それで山形でみてもらうとなった。福島市でも山形は近いから移っている人が多い。自主避難で移っている。そもそも郡山市でも福島市でも南相馬市より放射線量は高いのである。子供を心配する人はどうしても移る。やはり安全だといっても腫瘍だとなると心配になる。youtubeの説明はわかりやすいしやはり良性でもガンになる可能性はある。子供が影響が大きいから一番心配することになる。


ともかく放射能の負担が大きい。放射能にふりまわされている。回りがそうだから子供をもたない人でもふりまわされる。すみずらいのである。津波でも山元町とか被害の大きかった町は人口が一割とか減っている。実際にあの津波の跡に立ったら「これはだめだ」と思ってしまう人はいる。ここではもうやっていけないと判断する人がいるのは当然である。それは原発被害地域でも起きている。
もう帰れないとかここには子供を置けないとか仕事もないからここにはいられないとかそういうことがうずまいている。盛岡の医者が大槌町とかで役に立ちたいと診療しているのは感心する。医者でもいたくないという人が多い、この辺では放射能で医者も看護師も半分いなくなったとか深刻である。農家の人だって農業できないとなれば絶望的になる。そしてパチンコばかりしているわけにも今後いかないだろう。全体的に心も荒廃してくる。津波被害とものの被害もあったが心の被害も大きい。
いろいろなストレスをかかえる。さらにこういうときはいろいろな問題が重なり追い打ちをかける。借金で苦しむ、親の介護で苦しむ、病気で苦しむ・・・負のスパイラルになってくる。
こうなると平和時の仕事ができない、福祉であれ教育であれいろいろなこれまでの普通の活動が阻害されるのだ。

自分も親の介護とかずっとかかえてきたしそういうところにこういう被害が重なると辛いとなる。

自分の仕事のまとめとしては詩の創作のまとめがあった。これまで旅行した所を思い出して俳句や短歌にする。他にも継続した創作的仕事あった。年をとると評論に向いている。評論は結構力量がないとできない、誰かを批評するにしても一段上にたたない限り批評などできないからだ。こういうことも余裕がないとできない、それがこういう回りの状態とかでなかなかできない、芸術どころじゃないということもある。でも仮設に入っている人などは暇なのである。暇だということは芸術家活動もできるということである。ただそういうことをしていなかったからパチンコをしているだけなのである。ともかくこの辺もそうだが先の見通しがたたない、復興というのが目に見えてこないのが津波の被災地でもそうだし原発被災地でもそうである。ただ混乱状態がつづいているだけである。


津波で流された水産加工場が復活して仕事ができると女性の人が海に向かって祈っていた。同僚の名前を呼んで祈っていたのが印象的である。前のように同じ仕事ができるということに感激していたのである。そんなこと当たり前だったけど当たり前でなくなった。久々に漁に出て魚をとれたことに感激していた漁師もいた。この辺でも農家の人なら今度は米作りでも農業できれば感激してやることになる。実際にいつなったらこの辺では農業ができるのかわからないのだ。あきらめる人もいるだろう。農業関係の人も多いのが地方の特徴である。田んぼがない世界というのを農業しなくても想像すらできなかった。都会だったら田んぼがないのが普通である。田舎だと田んぼがないと何か生活基盤が失われた感覚になる。でも東京などあれだけの人が住んでいて田んぼがない、それでも現代は食糧に困ることはない。金さえあれば現代は飢饉になったりしないのである。田舎ではどうしても田んぼがあって何か生活の安定、心の安定もあった。その感覚が都会とは違っているのだ。

posted by 老鶯 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

松島-多賀城の春の俳句短歌と写真


松島-多賀城の春の俳句短歌と写真

godainewww111.jpg

kamome123123.jpg

kinkasann11111.jpg
クリック拡大!
matunagisano1111.jpg

takeyukiii1111.jpg

shourou22222.jpg

iwaneyukinew.jpg
クリック拡大!


冬の海波うちしぶき沖に船

荒寥と津浪の跡や冬の海


磐根付く古木くねりて残る雪


松島の松の残りて春の風


春日さし松風鳴りて五大堂


鴎浮き春日穏やか双子島


春の昼金華山見ゆ赤い橋


赤い橋鴎のとまり春の島


松島や島陰の渚残る雪


島陰に雪を残して暮るるかな


瑞巌寺竹の清しく残る雪


瑞巌寺鐘楼鳴らず冬の暮


見張塔瑞巌寺守る冬の暮


瑞巌寺去るや杉の間残る雪


瑞巌寺海よりそよぐ春の風


島々の松の緑や春の鴨


多賀城跡浮島神社や春の暮


多賀城の正殿跡や春浅し


枯葦に昔の面影砂押川


早春の多賀城駅や鴎飛ぶ



太き松その間に見える小町島春の日おだやかまたたずねけり


松島の春やしきりにかもめなきむれつつ飛びて島のうるわし


松島の海穏やかに春の日に照り映えにつつ津浪まねがる


太しくも末の松山二本の残りし松に春の風吹く


太しくも末の松山二本の松の契りや椿赤しも


多賀城に末の松山沖の石津浪の跡や春の日暮れぬ

suematu1111.jpg



 

2012年03月13日

旅の思い出(松島から宮古まで)


旅の思い出-俳句十句(松島から宮古まで)

miyakosoma1111.JPG

松島を神の残すや春暮れぬ


荻浜に昔の航路冬の暮


涼しさや海にそそげる北上川


ひぐらしや唐桑めぐる湊かな


隠されし湊々や合歓の花


轟きぬ神割崎や夏の海


鬼百合に白波寄する気仙沼


(大船渡)


曙光の湾にまぶしや霜の朝


釜石に海の見えじも冬の暮


宮古より盛岡遠し冬の暮


亀島に咲きそむ桜海の風なお寒しかも白波よせる


荻浜の裏山の社桜散り我がたずねしは昔なるかな



津波のあとにふりかえるとこの辺は旅をしたけど被害が大きい所だった。海に面して風光明媚な所だったからショックだった。なぜかといえばこの辺は被害が大きいから今は観光というわけにはいかない、当分そうだろう。内陸部はそういうことはない、観光しても悪いという感じではない、しかしこの海岸沿いは本当に凄惨な津波の被害にあった。街ごとなくなったところもあるから悲惨である。
そういうところには観光には行けない、つくづく普通なり海は実に穏やかであった。というのは湾がある所だから海が穏やかに見えたのだ。福島県は湾がないからいつも荒波が打ちつけていた。一方陸前高田市でも広田湾などは実に穏やかに見えたのである。松原もいい松原だった。
南三陸の志津川も湾になっているから穏やかだと見えていた。あんなところにこんな津波の被害があったことはショックだった。ただ三陸は前から津波の被害が何度もあった地域であるから名取りから南の福島県とは違っていた。それでも逆にあの辺の湾は穏やかだなとうらやましかったのである。


一回は松島から牡鹿半島から唐桑半島から気仙沼まで自転車で旅した。あの辺の地形は複雑だった。後ろが結構急峻な山となっていてひぐらしが鳴いていた。そして隠されたように小さな湊があり魚をとっていた。港にはもともと適した地域である。宮城県の漁獲量は水産だかは800億であり福島県は100億だった。福島県の水産業は盛んではない、宮城県は港が多いから盛んだった。それにしても松島でもそうだが地理がわかりにくい、複雑である。地形的には福島県などよりずっと魅力があった。
変化があり湾があるからである。その港がどこも津波の被害にあった。津波には弱かった。

この辺は福島県の浜通りから海の領域として共通性があったのだ。だから津波の被害を同じ様に受けたのである。ただ一つの救いは松島が神に守られたようにほとんど無傷で残ったことである。
神が残してくれたとさえ思う。あそこの松などが海岸線のようになぎたおされたら絶望だった。
松島は今でも観光を普通にできる。他は被害が大きいから観光とはいかないだろう。鉄道も一部破壊されている。今になると行けないとなるとああ、あそこに行ったなと思い出は余計に貴重になる。

ただ旅は忘れやすい、だから記憶が大事だった。デジカメなどで詳細にとっていれば思い出すことがある。プログに書いたことでも自分で忘れている。それで読み返して思い出してまた書いた。


旅はデジカメでなるべく記録させておくべき・・

2012年03月14日

春の日の俳句十句(梅が開いた)

 

春の日の俳句十句(梅が開いた)

kuroume11.jpg


黒茶碗手にとり開く梅二輪


春の日にきらめき流る上の川


春の朝ノスリ飛びきぬ遠くより


姉思ふ満面の笑み福寿草


春日さし母の介護や年も古り


春日さしやさしき言葉身にしみぬ


春日さし犬眠る家平和かな


春日さし石五六個や色違ふ


diffirent coloured stones
spring light on
five and six ones


春日さす紫の石映えにけり


春日さし石落ちつかむ家もあり



蝋梅の長くも咲きぬ水玉の一時光り時は移ろふ


stonecolour.jpg

今日は春の光だった。梅が一二輪咲いた。最初一輪だとみていたら二輪咲いていた。今年は梅が咲くのが遅い。放射能でも花が咲かないということはない、ただ梅の実は食べられないのだ。また川は汚れるということもない、透明である。もし花も咲かないとしたらもはや住めないだろう。
黒茶碗であれゆったりと茶碗を手にとる。茶道はやはり心を落ち着かせるためにあるのだ。ただ今は茶室もないし茶を楽しむというわねけにはいかない、介護しているからだ。
花を思う時やはり姉は福寿草だった。太っていていつも満面に笑みを浮かべていた。そううい陽気な性格の人だったのである。また我が家にとっては福の神でもあったのだ。最後は悲惨であってもそうだった。

ノスリは鳶とは違う、一段と精悍であり眼が鋭い、辺りを見回して隙がない、そして鳶のように留まってはいない、どこか遠くから来て遠くへ去ってゆく・・ノスリは留鳥であっても行動範囲が広いのだろう。冬の季語になっていてノネズミや小鳥を食べるという、春には蛙も食べる。冬の季語なのはふさわしい。春に見かけたことはない、でも春もいる。蛙をとるにはまだ早すぎる。


今日は春らしい一日だった。近くの立派な家て広い庭にある石である。石を陳列したような庭になっている。塀もないから丸見えである。その大きな石は色がついていて違っている。その色がなんとも春らしい。色に艶がある。あそこの石は形ではなく色がついていて個性的なのである。石は形に注目するのが多い、色のついた石はあまりないからだろう。性格的に石があっているから石に注目する。色のついた石に春の日がさしてなんとも言えぬ落ち着きがある。ただこの辺は仮設住宅がびっしりと建っていたり落ち着かないのだ。全体的にも落ち着かない、石のように落ち着くことができないのだ。何か津波原発事故からこの辺は騒乱状態であり落ち着かない、こういうところでは何か落ち着いて仕事ができない、茶の湯どころではないともなるがやはり人間の生活は茶の湯も楽しめない状態は異常である。そんなものいらないぜいたくだともなるがそういう状態がもうこの辺は人間的生活すらできなくなっているのだ。

落ち着かないというとき今日も地震があった!津波注意報も出た。津波は本当に地震がきてすぐ逃げない限り助からない、地震で驚いていると逃げられないことがつくづくわかった。津波は時間との戦いだった。時間の余裕がまるでなかった。あたふたしていると30分などすぐすぎてしまう。この逃げる時間のなさが大きな被害になったのである。

春日さし石五六個や色違ふ-色違ふ石五六個や春日さし・・・この違いは色違うを下にもってきて強調したのである。写真のように紫色の石はある。まさにあの石だった。明日写真にとってみよう。
他人の家だからとりにくいところはある。あの紫の石を建てたものである。


蝋梅はまだ咲いている。水玉が一時春の光にきらめきて消える。これはやはり長寿の花である。花としては寿命が長いのである。花は散りやすいというときこの花はなかなか散らない、もう二か月くらい咲いているようだ。雪の中でも咲いていたしまだ咲いている。今度は外に梅が咲いたから外の梅に注意が向く。

津浪原発事故で仕事を奪われた人たちの荒廃化 (原発避難者  東電の賠償金(一人当たり最大12万円)で働くのバカらしくパチンコへ)


津浪原発事故で仕事を奪われた人たちの荒廃化

(原発避難者  東電の賠償金(一人当たり最大12万円)で働くのバカらしくパチンコへ)


震災後、福島県いわき市で飲食関係の会社を立ち上げた30代後半の男性は憤慨していた。
「原発事故で避難区域となった町から逃れてきた顔見知りが、昼間からパチンコ店に入っていくのを見た。

聞くと、震災後に失業手当を受給し、さらに東電の賠償金を貰えるから働くのが馬鹿らしくなったらしい。
カネをどう使おうと自由だけど、みんなが復興に向けて頑張っているのに……」


行政による被災者への“生活保護”の厚遇ぶりが、逆に復興を遅らせていると指摘されている。
一部の被災者には、「働かない方が震災前に比べて収入が多くなる」という異常なケースが生じているからだ。

厚生労働省によると、岩手、宮城、福島の3県で、震災翌日の3月12日から8月21日までの間に、
15万3173人が失業手当の手続きをした。雇用保険から給付される失業手当の額は、
退職前6か月間のボーナスを除いた賃金と年齢などで決まるため、「月給40万円で、雇用保険加入期間が10〜20年間の場合、
最大で月に約20万円」(厚労省職業安定局雇用保険課)となる。

これに加え、東電の賠償金(避難生活等にかかる精神的損害)が一人当たり最大12万円出る。

支出が減っていることも大きい。各種国税の減免など、税金の優遇措置に加え、

仮設住宅や借り上げ住宅に住めば家賃は県が負担するため、被災者が支払うのは食費や光熱費程度で済む。
自営業者ならば、仕事上必要な経費もかからない。


「例えば漁師なら、原発事故の影響で漁に出られない分、漁船の油代がかからない。
結果として、可処分所得が大幅に増えたという家庭が少なくないと聞いています」(被災地のカマボコ工場で働いていた主婦)

福島県漁業協同組合連合会には、原発事故後、東電から過去5年間の漁獲実績により、

今年1月までに約76億円の補償金が出ている。これは各漁民に割り当てられ、金額は月に百数十万円に上るケースもあるという。

前出のいわき市の男性はこう語る。


「やることがないから、パチンコ店や競輪に行ったりする。仕事がないわけではないのに……」
http://www.news-postseven.com/archives/20120313_94134.html

 


人間の特徴は仕事によって尊厳が与えられているのが特徴である。もちろん仕事とあいまって地位でも人間はみられる。会社の社長であれ公務員であれ学者であれ地位があれば社会で見方が違ってくる。外国でもあなたのプロフェショナルは何ですかとなるから同じなのだろう。別に地位がなくても
農民であれ漁民であれ一次産業に従事していた人たちはそれなりの尊厳が与えられていた。今は収入だけで人をみるがパチンコ屋やその他ブラックなことでいくら金をかせいでも社会ではその仕事に尊厳を与えないだろう。農民には専業農家とかが少ないからいろいろだからいちがいに言えないけど農民はそれなりに仕事でも尊厳が与えられていた。国民の食糧をまかなうものとして尊厳が与えられているから国では多分な援助もしていた。農業なんて今は金にならないからやる気しないとなっていたがではその農民が今仕事もしないで仮設住宅に住みパチンコばかりしていたらどうなるのか?
現実に今そうなっている。収入はともかく農民や漁民でも仕事を奪われたらその人にいかなる尊厳があるのだろうか?仕事ともにその人に尊厳が与えられていた。仕事が奪われたらどうなるのか、確かに生活保護のように今は援助されて生活できる、パチンコ屋にゆくこともしょうがないとなる。
でもその人の尊厳がない、それは会社を退職した人にも言える、特にちいがあったりすると余計にそうである。会社をやめるとただの人、価値のない人になる。議員でも落選したらただの人となると同じである。仕事をなくしたとき


陸にあがった河童になる・・・


陸にあがったら何もできない、無用の人ととなる。一人のアウトサンダ-ならいいがみんながそんなふうになった社会は異常である。しかし現実この辺ではそうなっているのだ。つまり水のなかで生き生きとして活動していた河童も陸にあがったら成すすべがない、ただ茫然として干上がってしまうだけだとなる。そういうふうに見えてしまうのである。今は仕事でも収入のことだけ見るけど本当は仕事の方が大事だともいえる。仕事は天から与えられたから天職になる。仕事は人間にとって不可欠なものであり仕事が人間に尊厳を与えている。そのことが一番わかりやすいのは医者とか看護師とか病院に働く人である。医者とか看護師には仕事としての尊厳が与えられているが目に見えてわかる。
命を救うことでもありそれ故にその仕事を通じて尊厳が与えられているのだ。病院という場で働く人はみな患者のために尽くしている。掃除する人もそうだったのである。病院全体が患者を癒すものとして働いていたのである。


だからこの辺で仕事をしない、仕事を奪われたというとき意外とそれが深刻なのである。故郷の家も土地もそして仕事も奪われたということが深刻なのである。例え補償されても人間としての尊厳が与えられない、もちろん生きがいも奪われた。回りに仮設住宅があってもそれは一時的なものでありそこで根付いて仕事するというわけではない、だから何か定着するものでないから地元の人にとって受け入れにくいということがある。一人二人ならどういうこともないのだかそれがこれだけ多いとなると仕事していないというとき異常なのである。


疑問なのは漁業権というのは余りにも大きい権利でありすぎた。一体海は漁業者だけのものですか?
あなたたちだけがどうしてそんな権利があったのですか?それならあなたたちが海を守るものでしたか?漁業権をたてに電力会社から莫大な補償金をもらう、そのための漁業権だったのでしょうか?
原発事故のあとも漁業権者には手厚い補償が成されている。そもそも海や土地や山や森は誰のものですか?漁業者や農民や山林業者のためだけのものとはいえない、もともとは上の所有であったが全国民の所有物でもある。海でも漁業にたずさわる人は少ない、それで原発のようなものを建てることを阻止することなどできない、漁業権者だけが海を勝手にすることができるものでしょうか?
海を守るならいいが原発のような巨大な利権を利益を生むものには漁業権をたてにして補償金をもらう、肝心の海は放射能で汚染されてしまった。海や土地や森や山はそれ関連して従事しているだけのものではない、みんなものであり関連した仕事でないにしろ言う権利はあるのだ。

第一次産業に従事する人は今や一割にも満たないし低い地位に落とされた。でもそこに従事している人自体もその仕事を軽んじるようなことがあった。それはもともと尊厳が与えられる仕事だった。

大事な食糧を供給するのだからその仕事に尊厳が与えられていたのだ。だから国でもいろいろ補償していたのである。そのことが仕事を奪われたときその人たちが何ら尊厳のない価値のないものにされてしまったことでわかった。結局第一次産業にたずさわる人は自らも収入が少ないからと仕事の価値を低くみていたのではないか?そんなことお前に言えるのかということも確かにある。でも現実を見れば今や仕事を奪われた人たちは収入はあっても人間としての尊厳や価値は認められないのである。

今やだから仕事を奪われた人が水産加工場で働いていた女性も同僚の名前を海の方に向かって呼び仕事が再開されたことを祈るようにして喜んでいた。漁師も津浪のあとに漁にでて魚を獲ったことで今までにない喜びをかみしめていた。看護師もまた病院で生き生きとみんなで働きたいと言っていた。仲間とともに働くということが価値あることだったのである。仕事が辛い金にならないとか常に言われるけど一旦仕事を奪われたとき生きがいもない人としての尊厳を与えられないということを知ったのである。仕事が収入が低いにしろそれだけ人間にとって大事なものだったということを自覚していなかったのである。それがいやおうなく自覚させられたのが津浪と原発事故だったのである。

posted by 老鶯 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年03月15日

昨日は東風今日は北風 (無常の世、仮設で一冬越した)


昨日は東風今日は北風

(無常の世、仮設で一冬越した)


昨日は東風(こち)今日は北風浜通り


春の雲隣の街へ連なりぬ


春の日や汽笛のなるも相馬まで


恨めしき警戒区域に入られじ春の雲浮くかなたを見るかな


人の世は常ならぬかも仮設にそ一冬越して春となるかな


大きなる我が家にうなる北風や我の一人し働き守る


昨日は明かに海の方から吹く東風(こち)だった。今日はひゅうひゅう北風になった。今年はいつもの年より寒い。飯館村の不運は風にあった。この頃東風が吹く、それが山の方に吹いた。福島市や郡山市の不運もそうだった。いわき市は近いけど放射線量は低くかった。これも風と地形のせいだった。朝は春の雲が浮き原町の方へぼかぼかとつらなっていた。前だったら原町からさらに小高浪江双葉と道は通じて心も遠くへと向いていた。そこは警戒区域で入れないことが信じられない。その点飯館村は放射線量が高くても入れる。だから春になったら行ける。浪江の高瀬川などは行けない。別に放射線量が高くても気にしない人は気にしない、それにしても人が住まない町や村は不思議である。
春になったらぽっかりと街の上に春の雲が浮かんでいる。しかし誰も住んでいないのだ。
そんこと今まで経験しているだろうか?


いづれにしろ人間の世は本当に無常である。自分の一身上でもここ五年間は無常の連続だった。
身内が死に介護だとか家族がばらばらになるとか自分が病気になり火事場泥棒にあうとか人間の醜い面をいやというほど見てきた。そしてなぜか津浪と原発事故で回りも最悪の状態になった。
仮設住宅に住んでいる人自体も信じられないだろう。なぜこんなふうに故郷を離れ仮設に住んでいるのかとなる。個々人ではなく全体が常ならぬものを経験した。無常をいやというほど経験した。戦争の時とにている。すでに一冬越して春となっている。神戸の地震のことは遠いから身近でなかったからわからなかったけどこの辺と同じ様に家がなくなったり大量に人が死んだからにたような状態だった。同じ様なことを経験していたのだ。

人間は90になろうが世の変遷をまねがれられない、自分の家でもそうだった。何が起きてくるかわからない。だから団塊の世代は非常に恵まれていた。高度成長時代を順調に生きて大きな災難にあうことがなかったのである。自分なども特に恵まれていた。それがここにきて最悪になったのである。
いづれにしろ人間の平和は長続きしない、必ず不運があり災難がある。六〇年平和だったら必ず災難がやってくる。自然も地震や津浪といつも平穏であるわけではない、必ず災いをもたらす。恵みをもたらすが災いをもたらすのも自然だったのである。


この辺で廃業がふえた。街中で二軒の店がとりこわされ空き地となり一軒の歯医者は家ごとなくなった。一体どこに移ったのだろう。長く歯医者をしていた。大きな印刷屋も消えた。ふえたのは仮設住宅だけである。人はふえてもその人たちは働いていないのだ。一時的にいるものだから定住して町をもりあげるということはない、自分の家は昔風の家だから大きいことは大きい。でも住宅風でないから住みにくいということはある。ただ今は自分が一人で働き守っている。結構楽じゃない、家事全般をやると結構な労働なのである。それが一人でもできているのはインスタント食品とか機械化されているからである。洗濯機とかいろいろないととても一人では家すら維持できないだろう。家事は機械化で省力化したから主婦でもパ-トで働けるようになったのである。

いづれにしろ津浪でなくても突然に家も人も全く消えてしまうことである。何代もつづいた家もあるが突然に家も人も消えることがありうる。そこにまた家が建てばそういうことはない、津浪の跡のように空き地になっているから余計にそう感じた。一方人がいなくなった貸家でも代わりに若い女性が住んでたりすると前の人のことは忘れる。そこに春の日がさして犬が眠っていて平和なのである。


草の戸も住みかはる世や雛の家 芭蕉


こういう感じになる。草の戸だった家に華やかに雛が飾られている。そういう変化とにている。
こういうことは江戸時代であり人間の世界では常にあったことなのである。芭蕉は放浪の旅に出たけどまさに家すら一時的な仮の宿と心得ていた。そういう生活であった。この辺では津浪で家がなくなり空家や空き地になる所も多い。そういう無常を個人的なものではなく全体として感じる状態になったのである。

2012年03月16日

原発事故の原因-縦割り行政 (文明崩壊破綻の象徴が原発だった)

 

原発事故の原因-縦割り行政

(文明崩壊破綻の象徴が原発だった)



自ら所管する分野では非常に高い管理能力を有しながら、むしろ相互協調メカニズムが欠落しているため、常に深刻な効率低下を招いてきた。

いわゆる縦割り行政とは、日本政府の各省庁が上から下を管理する、という中央から地方につらなるピラミッド型の公務員システムのことであり、それは極めて大きな既得権階層を形成した。


政府が絶えず首脳を交代させても、各機関は平常どおり機能する。官僚システムを制約するのは首相官邸や閣僚の命令ではなく、規則と制度であり、常軌を逸してもいろいろと口実を設けて埋め合わすこともある。
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2011-03/28/content_22237378.htm


東京電力は先ず、原発立地町村の自治体を取り込む。トップは首長であるが、実質的には総務課長、教育長、、など、従来からのやり手職員が東電と結託していくのだある。
首長が交代しても結局は原発を安全神話プロパガンダを発信続けることができるのは行政執行部である。
http://blogs.yahoo.co.jp/chikako_5155/5805956.html


文科省は学校での被曝のことだけ、


農水省は食事のときの被曝のことだけ、


観光庁は旅行の時の被曝のことだけ、


班目春樹・原子力安全委員長らは聴取に「文科省が勝手に決め、安全委に(公表の役割を)押しつけた」と証言した。事故調は「文科省が安全委に一方的に役割を『移管』した」と推定。「文科省の対応は、責任回避を念頭に置いた組織防衛的な兆候が散見され、公表遅れを招く一因になった可能性は否定できない」とした。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120228k0000e040165000c.html

 



縦割り行政というとき江戸時代までは横の力が強かった。地方の力、藩の力を基にした国造りであった。それはそもそも農民を中心にした社会であり土地を基盤にした封建社会だから当然だった。
燃料も炭であり山の薪だったし地方地方で自給自足が建前の社会だから横に力は分布していた。
縦型社会になったのは明治維新からの工業化であり欧米列強に抗する為の富国強兵のためである。
そのためには日本を強力な中央集権国家にすることが急務だった。それで廃藩置県を実行して中央が国が強力に地方を支配する国家造りになった。それはあらゆる面でそうだったのだ。情報分野でも新聞が全国に配達されるとき新聞の力は大きかった。本も出版されたがそれも東京経由でしか出版されないとか文化も東京中心の世界を作った。標準語も東京中心の中央集権国家から必然的にそうなった。情報は中央集権的一方的なものとして縦割りとして統制されたのである。こういう強力な縦割り社会は戦争とかするには機能的なのである。横の力、地方の力はあらゆる面で弱体化したからである。

東京電力は先ず、原発立地町村の自治体を取り込む。トップは首長であるが、実質的には総務課長、教育長、、など、従来からのやり手職員が東電と結託していくのである。
 

中央からの力が東電や官僚や政府が一体となった力が自治体の幹部をとりこみ原発の安全神話を作らせる。それで富岡町長の5億円入っていた金庫が津浪で流されたとか噂になった。それはまさにこうした縦割りの行政になっているから噂されたしそういうことがあっても不思議でないとなったのだ。上層部を抑えれば下々も従ってゆく、操作することができるという縦割り社会になっていた。

東電の力は国家並の力をもっていたしそれと同調してし経団連もあるのだからその縦型の圧力が結託すれば下々のものは逆らえない、そこに情報を管理するものとしてマスコミも結託する。それは戦争体制そのものだった。そしてそのヒエラルキ-には東大とか東工大とかも結託して中央の国の管理を強化する。裁判官も原発訴訟でも原発は安全だと安全神話を作った側でありその一人は東芝に天下りしているとか法の番人も原発事故の大きな責任があった。縦割り社会行政のなかでトップの責任はやはり重いが問われることもない、これは戦争と同じだったのである。現実に戦争を推進した人たちは罰せられることなく戦後も国の重要な要職についていたのである。

今回の津浪と原発事故ではいろいろなものが暴かれた。それは日本の敗戦と構造がにていた。

縦割り型の強力な中央集権的国家体制が起こした犯罪とも言える。地方自治体の力は余りにも弱すぎたのである。トップはスピ-ディも公表せず一番危険な場所に住民を追いやった。浪江などは一番放射線量が高い津島に避難したのである。地方自治体は東電から政府からも安全神話だけをおしつけられ肝心な放射線の情報など入ってこなかったのである。これは徳川幕府支配ともにていた。民には見ざる、聞かざる、知らざるである。放射能のことは見せるな、聞かせるな、知らせるな・・だったのである。それは今でも疑心暗鬼になりつづいている。モニタリングポストが各地の公園に設置されたがその下の土をとったりすれば放射線量は低くおさえられるというのも本当である。だから実際は回りはもっと高いところがあっても一番低く表示されるとかなる。政府のやっいることが信じられなくなったのである。信頼関係がなくなったのである。甲状腺ガンの検査でもポリ-プができても福島医科大学では国の管理下に入ったから本当の情報は出さないから信用できないから山形の大学で調べてもらうとかなる。そういうふうに中央集権の縦型社会行政が信じられなくなったのである。


文科省は学校での被曝のことだけ、


農水省は食事のときの被曝のことだけ、


観光庁は旅行の時の被曝のことだけ


原発事故でも様々な分野の人が管理してたけど土建屋は土建屋で自分たちの専門に口だすなとか原子力の専門家は原子力について放射線について素人はわからないとか互いに専門家同士の意志疎通もなかった。今でもこうして部門ごとに省ごとに分化して責任逃れしている。そのことはすでに政府の問題だけではない゛文明自体の問題でもあった。ナチスについてもそうした文明の専門家、多様に部分化したなかで自分の部門だけのみの責任でありあとは知らない責任がないとなる。上司の命令でガス室送りのサインを押しただけであり私には責任がないとかなる。下のものは殺人でも上司に責任がありとなり上司は上司で他の部門の責任があり私の部門の責任ではないとなる。そういう社会体制が原発事故が起こした原因でもありそのあとの放射能の処理でもそうなっている、問題は継続しているのだ。原発はこんな縦割りの無数に分化した体制では管理できない代物だったのである。

こうした文明が作り出したものが文明自体を破壊してしまう。そういう代物だったのである。
被曝に関しても総合的被曝としては計算されないことでもわかる。結果的に被爆量は低いものとなる。原発事故はやはり文明の崩壊、破綻のシンボルだった。自ら作り出したものを遂にはコントロ-ルもできず放棄さえされる状態になった。今でも原子炉の中が何になっているかわからない、もう一度大きな地震が来たらまた再爆発したりメルトダウンしたりして手に負えなくなるとかの恐怖から解放されないのである。

posted by 老鶯 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年03月17日

初音(下男となっていた夢)


初音(下男となっていた夢)

hatuneee111.jpg

買い物に小雨ふるなか初音かな


下男にも小雨のふりて初音かな


六号線小雨の中に雲雀かな

変な夢を見た。自分が働いていたのは他人の家だった。下男のように働いていた。家事をしして働いていた。そこは自分の家ではない他人の家だった。考えてみれば今やずっと家にいても下男と同じだった。家の主となれば忙しく家事に追われることはないだろう。三食用意されているから家の主といえる。前は自分は恵まれていてそうだった。今は家事全般をする下男なのである。


それで母のことを考えると母は嫁いできたとき鍋一つ買ってひどくしかられたという、その時戦後まもなくものもなにもないときだからそうなった。それでも自分の家としてはひどいことだった。そして女中のように働きづめの一生だった。その世代は大正生まれなどはみんな働きづめの一生だから趣味もなにもない、趣味とかはやはり時間かけて自ら育てない限りできない、俳句のようなものでも余りにも忙しかったらできない、暇があるからこそ学問も発展したのである。


風流は別に働いていてもありうる。ただ仕事していると仕事のことに心を奪われるから自然を感じる余裕がない、数を計算していたりともし自然に注意すると仕事がおろそかになり失敗するだろう。
人間は二つのことに注意をはらうことができない、そして車に乗っていると風流は感じない、風とかが感じないからだ。今日は小雨がふっていたからぬれても自転車で買い物に行けた。それで初音も雲雀の声も聞くことができた。


六号線は小高から南は警戒区域で入れない、六号線は東京まで通じていることに意味があった。それがないから常磐線も通じていないからなにか南の方は閉ざされてしまったから江戸時代にもどったような気分になる。なんとか仙台の方にゆくには便利である。ただ高速バスは直通で東京にでていることは便利である。