2012年03月01日

津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議 (春の日に金沢や烏崎をめぐる)


津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議

(春の日に金沢や烏崎をめぐる)


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小高工業のプレハブ校舎

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一葉松

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港の松
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公園に三本の木春日さす


街離れ一葉松や残る雪


春の日や勢いよくも鵜の飛べり


人はなし港の跡に春の鴨


春の日や港の跡に松二本


二本の木の残るかな家の跡人は帰らじ春となるとも


どういうわけか津浪の跡をめぐると必ず家の跡に二本の木がある。対になったように二本の木が残っている。一本ではなく二本なことが不思議なのだ。松も一本のところがあるが二本が対になって残っているのがある。そしてその木や松はあの脅威の津浪のことを語っているようだ。生き残ったものとして語っている。つまり生き残った松は貴重なのである。戦友のように生き残っている。
高田の松原の松はついに一本残った松も枯れる。全滅してしまったのである。その凄まじさは言葉にならない。ともかく庭とか家の回りにあった木なども自然の木とは違っていたのである。
それは人間化した木や松だった。ペットもほとんど人間と同じだから介護までしてその施設まである。野生の動物とは違う、人間化した動物である。庭の石だって人間化した石である。だから突然家も家の人もいなくなって唖然としている。それにしてもなぜ二本の木なのだろうか?偶然とも思えない、何か夫婦のような感じもする。だから二本なのか?

鹿島区烏崎の港は全滅した。一軒の家も残らなかった。それなりに船もあり魚もとれた。津浪を記念したという津神社も跡形もない、ただ今は鴨が港に浮かんでいる。鵜が何匹か勢いよく陸地の方に飛んで行った。廃墟と化した港に鴨が浮かんでいる風景も不思議である。季節はめぐって春となったが荒寥とした風景は変わらない、烏崎の港などは復興するのか?公園のようになってしまうのだろうか?とても住民が前のように帰って住み漁業をするというわけにはいかないだろう。松川浦辺りは漁船の数が多いからいづれ漁をはじめるかもしれない、それも原発事故の影響で先が長い、それでも二十軒の旅館が半分がはじめたということはそれだけまだ家があそこは残っていたのである。

原町の六号線のゴルフ場に小高工業高校のプレハブ校舎が建った。今日は卒業式でばらばらにしていた。今度はここに集るのだろう。小高は警戒区域でもさほど放射線量が高くないのだから帰れると思うけどどうなっているのか?仮設に住めるのは二年である。仮設に住んでいてもその回りの地元の人には迷惑だという面もある。その一番の要因が働かずに遊んでいる、パチンコやサウナに昼間から行って遊んでいるというふうに見られることなのだ。回りの人は普通は働いているからそういわれる。働かない限りまた地元に定着するということはない、そういう落ち着かない状態を仮設は作り出している。だから肯定的に見られないのである。

今日はあたたかかったから金沢から烏崎と回ってきた。あたたかくなると遠くまで行ける、でもなんかあと疲れる。


 

posted by 老鶯 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年03月02日

南相馬市原町区の一葉松の写真加工




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街はなれ一葉松に残る雪




この写真があとからみて絵になっていると思った。これも偶然だった。一葉松は長い間手入れしていてこんなふうではなかった。最近要約手入れが終わりこういう写真がとれるようになったのだ。
この松はやはり貫祿があり南相馬市の文化財である。ともかく日本には松が多い、松の国である。

原町区にはもう一つ自然でも目立つものがない、城の跡もない、この一葉松は貫祿があり自然の文化財として貴重である。ここまで津浪が来たのだか幸い被害はまねがれた。原町区、南相馬市を象徴する松としてインタ-ネットの写真加工で作った。インタ-ネットの中でソフトが使えると便利である。

これは切手とかその他南相馬市の象徴的松として売り出せる。右田の松原などは松川浦の松原よりいい松原だったが失われた。小高でも浪江でも双葉でも自然でも文化財になるものがあった。ただまだ地元の人でも良く見ていない、高瀬川渓谷は外からきてもいい観光地だったけど入れないということが残念である。別に川が汚れたり森が汚れたりしていない、ただ放射能はそれなりに高いから警戒区域になった。あれだけの自然が放置されるのはもったいない、放射線は外部からくるものより内部被曝が怖いということは素人でも感覚的にわかる。だからどうしても地元の食糧を売っているけど食べる気がしない、やはり内部に体に蓄積されることがなんとなくいやなのである。
外部被曝だと地元でもそんなに気にしない、体内被曝は何か気持ち悪いのである。

2012年03月04日

蝋梅と雪


蝋梅と雪

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蝋梅の長く咲きしも今朝散りぬ雪の真白き我が庭に見ゆ


こういうこともめずらしいかも、俳句も短歌も基本はやはり写生なのである。
自然はやはり絶えず変化して変わっている。昨日と今日は違っている。去年と今年も違っている。
今年は雪の量が多い。そして津浪があった。その点で大きく変わってしまった。
だから写生そのものが驚くべきものとなったのである。


蝋梅は結構長く咲くのが特徴である。一か月くらい咲いていたのか、とすると長い。蝋梅は長寿の花だから長く咲くのがふさわしい。雪の上に散ったというのがいかにも蝋梅らしい。

 

南相馬市鹿島区の新しくできたログハウス風仮設住宅



南相馬市鹿島区の新しくできたログハウス風仮設住宅

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シンボルとして塔を建てた、他の仮説でも塔を作っている

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ここは間が広いのか、車が駐車できる

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水無川をはさんでこの辺は仮設住宅で一杯だ

新しくできた南相馬市の仮設住宅は半分はログハウス風で感じがいい、がっしりした感じがする。
でもここは半分がログハウス風でありあとは普通のプレハブである。
地元の会社で作ったのは木で作っている。

外から見た感じでもずいぶん違っている。中もやはり違っているのだろう。

それにしても仮設は数が多い、ほとんど小高の人であり鹿島区に小高町ができたと同じである。
こんな生活いつまでつづくのだろう。水道とか整備できないから簡単には帰れないととか小高の人が言っていた。やっぱりパチンコをやっていた。

もともと仕事しないニ-トかもしれない、今はそういう仕事しない若い人が田舎でもかならずいる。
そういう人は結構目立つから田舎だといずらいのだけど時代でそういう若者も普通にいる
原発の避難者は一人十万とかもらえるからかえっていいとなる。
そしてみんな働いていないから気楽だとなる。
でも暇だと言っていたから暇なことは確かである。だからパチンコ屋に行っている。
津浪の被害者でも何もやることがないからパチンコ屋に行きパチンコ屋が繁盛している。
そのパチンコ屋で求人して近くで働いている人もいる。


仮設はやはり一時的なものだから回りのものもあまり良く思わないだろう。定着して仕事するなら受け入れるとなるがそうではない、一時的に滞在するだけだからである。でも人口がふえるから消費に使うから金はおりる。それも長くつづくとそろそろひきとってもらいたいとなるだろう。
本来の生活じゃないのだから当然である。地元の人は働き仮設の人が働かず遊んでいるとなると
嫌がられる。働かないというとき少数だったら変わり者でかたづけられる。多くなるとそうはいかない、ニ-トなども百万とかいるとなると多すぎるから社会的に問題にされるのである。

団塊の世代の時代は働かない人はほんのわずかである。ほとんど数にもならないから誰もそんな人を注意もしなかったのである。

posted by 老鶯 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

地球は遊びの場(詩)


地球は遊びの場



大いなるもの

とろえどころのない

つかみどころのない

大鵬は南冥に飛び

呵々大笑して去った

あとにはからりとした青空

笑いが天から木霊する

どこかにぽっかり浮かんだ春の雲

その下の花々で遊ぶ子供たち

地球は労働の苦役の場ではない

大いなる遊びの場、遊星である

千年石のように眠るがよい

大蛇や龍のように眠るがよい

何物にも拘束されることなく

遊びの場として地球は与えられた

神は遊びのために人をまねいた

苦役のためではない

苦役の労働は罰であった

ああ またぽかぽかぽかりと春の雲が浮かび

どこかに気ままに遊びにゆくだろう

posted by 老鶯 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 詩全般

2012年03月06日

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった (老人は過去の思い出に生きる)

 

戦後十年は江戸時代の生活の続きだった

(老人は過去の思い出に生きる)

実家は昔、米麹取り扱いの鑑札ももっている店だったのですが、つぶれてしまい、祖父は酒米・麹の関係で町内の蔵本「やまだい」に丁稚奉公に出され、後に番頭をやっていました。


祖父は、今で言う仕事人間で、退職するまではあまり家にいない人だったらしいですが、何でも自分で作る器用な人だったそうです。
http://www.arainodendo.com/konjaku/01teppo.htm


鉄砲風呂で風呂をわかすのが仕事だった。父は製材所から端(バタ)材を安く買ってきて鉄砲風呂の燃料とした。新聞紙などを入れてそのバタを入れて風呂をわかす。風呂とトイレは外にあった。風呂の水は井戸がなかったので近くの井戸水をもらいバケツで運んでいた。その水を運ぶことも仕事だった。竈とかが外にあり炭小屋があった。家はトタン屋根でいつも雨がふるとあちらこちらに盥を置いて大騒ぎだった。隣の家は魚屋で五右衛門風呂だった。近くには豆腐屋があった。自分の家も店屋だった。
最初は酒屋だったが次に子供相手の三文店屋を開いた。いつもクジがありクジのついたもの当たりはずれがあるものが売れた。その頃わんさかと子供が多いからそんな小さな店でもはやったということがある。駄菓子屋のはしりである。戦後10年くらいまでは日本人の生活は江戸時代の延長だったのである。赤穂浪士に討たれた吉良上野介が炭小屋に隠れていたというのはどこの家にも炭が燃料だから炭小屋があったのだ。炭焼きはどこの山でもしていた。炭焼きで山の生活は成り立っていた。今の燃料店はガスとか石油になるけどそれまでは炭を売っていたのである。


だからこそ町とザイは密接に結ばれていたのである。どこでも一つの自給自足経済圏として生活していた。石油とかは使っていないし学校でスト-ブに石炭をくべるようになったのが進歩だった。石炭は工業用であり普通の家では使っていない、それで常磐炭鉱は石炭で栄えた。小名浜は石炭の積み出し港であった。北海道でも小樽をはじめ石炭の積み出し港であり鉄道そのものが最初は石炭を運ぶ貨物の鉄道として作られたのだ。だからこの辺でも長い貨物車両が通っていた。確かに電気は通じていた。家にあったのは裸電球一つであり電化製品は一つもない、燃料は炭であり炬燵すら炭だった。だから炉端がどこの家にもありそこで栗などを焼いていた。そういう生活は江戸時代と同じでありその生活は今になると貴重な経験になった。団塊の世代の子供時代までがそういう生活を経験している。あとは急速に高度成長時代に入り忘れられてしまった。思うに高度成長時代以降に日本人でも文明的生活になったのであり戦後十年まではいわば原始的生活だったのである。その変化が余りにも大きすぎたのである。葛尾(かつろう)村などでは電気すらなかなか通らなかった。これは日本全国で山の方は遅れたのである。今になると信じられないかもしれないが、裏の堀の小川で洗濯物を洗っていたのである。これはまさに原始的生活だった。パリでも洗濯物をセ-ヌ河で洗っていた。洗濯物は川で洗うことは原始時代からつづいていたのである。


芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜哉  松尾芭蕉


夕顔の白く夜の後架に紙燭とりて 松尾芭蕉

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/bashounowaki/bashounowaki.html


このサイトで説明されているように江戸時代の家と戦後十年の生活形態はにている。
後架はトイレは外にあった。だからこそこの句ができた。盥というものも今はないが昔は必ず雨漏りのために備えねばならなかったのだ。江戸時代のことが戦後十年の生活とさほど変わらないからこの句も実感できる。今はそういう生活を知らないから実感できないのである。もちろん紙燭というのは実感できない。懐中電灯は使っていたからである。夕顔の白い花が怪しく紙燭に照らされて仄かに浮かぶ、そういう皓々と電気に明るい世界とは違うからこそこの句ができた。風流は寒きものなりとか風流は不便な時に感じられる。今は余りにも便利になったから風流を感じない、車だったら外の風を感じないからそもそも風流を感じない、自転車だと風流を感じるし徒歩だったらさらに風流を感じる。そもそも歩く感覚を今や車時代で失った。歩いて見えるもの感じる感覚を失ったのである。これは江戸時代から綿々とつづいた人間の感覚の喪失なのである。それが意外と社会にも影響していることが大きいのである。


地に足がついた生活は戦後十年まではあったが高度成長時代から便利になり失われた。人間関係も大きく変わり金が大きな力を持つ社会に変貌したのである。つくづく地元で味噌や醤油を作っていても全国から味噌や醤油など入ってくる。米でもそうである。すると自分の好きなものいいものを選び買える、地元のものを買う必要がない、すると金が大きな力をもつようになる。戦後十年は地元のものを買うほかない、まだ今のように交通が発達していなかったからだ。豊になるには全国で売れるものを作らねばなれない、その土地の名産品を生み出せば通販でも全国に売れる。全国と世界とも競争するとなると並のものを作っていては売れないとなると売る苦労は大変なものになっているのだ。


自分の父は葛尾(かつろう)村から丁稚方向に双葉町の酒屋につとめ暖簾分けして移った。あまり商人向きではなかった。同じ酒屋で働いていた人がフィリンピンから戦争の引揚者で鹿島区の小池に入植した。戦後十年は働く場所がない、引揚者で人口が増えた。それで開拓に入った人たちが多かった。飯館村の大倉から草野にゆく所に「共栄橋」とあるのもあそこにあった二軒の家は開拓に入ったのである。一軒は廃屋となったが一軒は残っていた。ブラジルとかに移住したのも働く場所がなかったからである。働く場所がなければ人はブラジルまでにも移住するのだ。それは強いられた移住である。普通は人は移住はしない、住み慣れた所にいたいのである。人間の歴史は移住の歴史でもあった。アメリカ自体が移住民で作られたことでもわかる。いづれにしろ戦後十年は江戸時代からの生活の延長であり原始的生活の延長であったから今になると貴重な経験をしたとなる。生活の基本として原始的時代から江戸時代と変わらない生活だったのである。それが変わったのは高度成長時代からでありこの変化は余りにも大きすぎたのである。それゆえに人間の基本的となるものが破壊されたのである。家族でもコミニュティでも様々な基本となるものが喪失した。その変化は計り知れないのである。


ともかく老人は過去に生きている、過去を思い出すときあのとき生きていたなと実感するのだ。
思い出すことが仕事なのである。実際に家族も死んで失われたとき、本当に家族自体思い出すときあったとなる。人生はただ思い出としてあるだけになる。もう帰ってこない過去があるのみなのである。帰ってくるとしたら思い出として蘇った時だけなのである。現実に死んだ人はどんなことしても帰ってこない、ただ思い出の中にあるだけになってしまったのである。施設に入った老人が家に帰りたいというとき、帰宅願望は家族と共に暮らした過去の時間に帰りたいということであり実際はそうした家族はなくなっているからないのである。帰宅願望は過去の時間にもどりたいということでありもう実際にはそうした家族は思い出のなかにしかなくなったのである。父にしても中学生の時死んだから思い出すのも容易ではない、ただ鉄砲風呂の小屋を自分で作っていた。器用な人だった。昔の人は自給自足だとすると器用さが要求されたのかもしれない、その時ようやく水道が入り始めた時代でもあった。いづれにしろ人間の思い出は家を中心にしてその土地と密接に結びついている。もちろん戦後十年に住んだ家は新しくなり変わった。でもその家のことは思い出す、新しい家も築40年以上すぎてしまった。二つの家に住んだ。原発事故で故郷とか家を追われた人で老人にとって辛いものだった。老人が思い出に生きるとなったらその思い出となるものが土地でも家でもなくしたら思い出せないということがある。そして家には死んだ人がまだ生きている、長く住んでいたから家の中にまだいる感じがするのだ。そこに家の重みがあった。放浪に生きる人もいるが普通は家のなかで故郷の中で生きて死ぬ、それで老人になると家が大事になる。家で死にたいというのはそこが自分と一体化した場所だったからである。

我が手にて鍋料理して凍み豆腐入れて味わう母も介護して

過去を思い出すというとき今や家事全般を自分一人でやっている。料理を覚えるのは大変なことである。だからほとんど料理はしていない、でも鍋料理を食べたいと思い市販のものを買い作ってみる。そこにどうしても凍み豆腐を入れる必要があった。それを忘れていたのである。
この凍み豆腐がかみしめてその味が鍋料理の味だった。つまり料理の味すら思い出としてあるようになる。お袋の思い出が家庭料理にあるようにお袋の味にあるようにその味が思い出となっているのだ。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。それがなくなったとき自分で作るときその凍み豆腐の味で過去を思い出す、料理も過去を思い出す作業だった。今はインスタントでいいものができているからお袋の味というのも消える。しかし人間が最後思い出だけになるときその思い出は淋しいものとなる。漬け物の味でもそうである。そこにお袋の味がしみこんでいたのである。老人になるとそうした思い出に生きるから思い出豊だった人生は豊かだったのである。現代は便利なのだけどそうした手作りの味とかが消えて金で買うだけのものになったから思い出に残るものが少なくなることは老人になってから思い出になるものが少ないとなる。それは豊かな人生だったとは言えないともなるのだ。

posted by 老鶯 at 03:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年03月07日

真野川の生物の放射能の調査

 

真野川の生物の放射能の調査

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真野川の生物の放射能の調査を独立行政法人の環境調査研究所でしていた。

人はとても被曝に弱く、遺伝子構造が単純な生物ほど強いです。
ミジンコなんて、人の致死線量の数千倍でも楽勝です


これは本当なのかな、調査している人の話では動物は魚でも川の虫などでも寿命が短いから影響が少ないという。人間は寿命が長いから影響がでてくる。そういえば5年後10年後20年後30年後にガンがふえるというから気の長い話である。幼虫なんか命が短いから細胞や遺伝子が傷つかないのか、
人間は長生きするから長い間細胞や遺伝子が放射線を受けるからガンになるのか?


10年後20年後になると確かめようがなくなる。川の虫であれ生物を食べる鳥なども影響するという。それでも鳥も10年とか生きていないからやはり影響が少ないとなる。鮎のようなものでも一年しか生きていないから影響が少ない、鮭の稚魚も多いと調査する。今真野川には海鵜が飛んできている。
田んぼには餌がないけど川には餌があるから鳥がかなり飛んでくる。雲雀も鳴いていた。
川には生物が生きられる環境がある。ただ真野川はかなり放射能汚染されているはずである。

真野ダムでも泥にセシウムが付着して水道水に使われることを心配して水道水を飲まないという人がいる。なぜかというと飯館村があれだけ高いとするとその山や森からセシウムが流れだしてくるのだから川自体相当汚染されているはずだとなる。真野川の公園のぬれた砂は10マイクロシ-ベルトとかになり高かった。阿武隈川の河口でも何百億ベクレルとか泥となってセシウムが付着して流れだした。泥に付着して放射性物質は流れるのである。


チェルノブエリではネズミは放射線の影響をほとんどなく繁殖しふえた。燕などの渡り鳥はへった。放射能は特に低放射線の影響は誰もわからない、資料もないからである。だからいろいろな憶測をいう人が専門家でも言っている。だから素人でも余計混乱するのである。非常に影響を誇大化されたり縮小化されたりとただ憶測だけが乱れ飛び不安になるだけなのである。結局放射能の問題は人間の体にどれだけ影響するかが問題なのである。別に放射能に汚染された食糧を食べても体に影響しなかったら問題ないとなる。それがどのくらいで影響するのか個々に違うとかいろいろ言うから誰もわからない。ただ不安だけが増幅される。体内被曝が怖いことはわかる。だからどうしても水や食糧には敏感になるのだ。


ともかく毎日放射能に関する話題はつきない、放射能は何が真実なのか見極めることがむずかしい。フクシマ原発はまだまだ危険でありいつまたメルトダウンとかになるとか原発の中がどうなっているのかも正確にはわからない、東電はあてにならないとかなると一体地元の人はどう判断していいのかもわからない、ただ不安になるだけなのである。こうした川での調査結果にしても時間がかかり大変な作業になる。全く放射能ほどやっかいなものはなかった。放射能ノイロゼ-になるから困った。

posted by 老鶯 at 06:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年03月09日

松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった (松島は普通に観光できる)


松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった
(松島は普通に観光できる)

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松島の地形は複雑であった。200くらいの島がありその位置関係がわかりにくいのだ。松島の津浪の被害は少なかった。今行ってみるとどこが津浪の被害を受けたのかわかりにくい、石巻とは大違いである。観光に行っても別に悲惨な状態がないからいつものとおり観光できる。それでも観光客が半分に減っているという。その原因が津浪というよりは原発の放射能の風評被害だという。放射能の方を怖がっている。これも変だなと思った。ただ牡鹿半島から一関の方に放射性物質が流れ一関にホットスポットができたというのは風の流れでそうなったのである。風の影響でとんでもない遠くに影響するのが放射性物質の流れだった。

それにしても津浪は瑞巌寺の門を入ったが本堂に入る入り口の入場券を売るところでとまっている。あの辺までしか来なかったのかという意外さである。地図を見ればわかるように宮戸島や寒風沢島とか大きな島がありそれによってさえぎられたのである。あれは島ではなく半島かと思っていた。

この辺の地理はわかりにくい、地図を見れば確かに松島はこの大きな島によって守られていたのだ。一方宮戸島や寒風沢島とか防波堤の役割をした島はそれなりに被害が大きかった。
そして多賀城市もかなりの被害があった。前に島があっても宮戸島や寒風沢島のような大きな島ではなかった。それでそれなりの被害があった。塩釜も被害があったがここは多賀城市の隣でも入江となっていたので津浪の勢いをそいだ。津浪は地形によって被害が違っていた。前にちょっとした丘のようなものがあっても津浪の勢いがそがれる。津浪をまともに受けた海岸線は壊滅した。


松島の人が言っていた。風呂の水があふれるように津浪が来た。なるほどと思った。もろに津浪が根こそぎ松や町を破壊したりしなかった。徐々に水があふれ水かさがましてゆく、1.2メ-トルくらいの高さで確かに松も水にくぐったとしても松は倒れなかった。水の勢いがただ風呂の水があふれるように徐々にあがっただけだったからである。石巻の方を見れば前に何もない、海の前に島もなにもないからもろに津浪を受けて被害が甚大なものになったのだ。津浪の被害は今でも凄惨な感じがする。相馬辺りでも磯部は一軒も家がなくなった。石巻でもそうだが凄惨なものを感じてしまう。

しかし松島はそういう凄惨も被害はない、どこが被害にあったのだといぶかる。海に面した松や樹が倒れて流されたというがそれもほとんどわからないのだ。松は今まで通りあるからどこが被害にあったかわからない、牡蠣は被害にあって半分にへったという。今までは大きな牡蠣を出していたが小さな牡蠣でまずかった。そういう影響はあった。風景そのものは何ら変わっていないからほっとした。ちょうど春の日がさしていて海は穏やかに輝いていた。松島だけは地形によって救われた感じだ。

野蒜海岸でも前に大きな島がないから大きな被害になった。あそこの松は流された。

いづれにしろ松島は別に観光でも普通に行けるし違和感がない、石巻などは観光というわけにはいかない、まだ凄惨な感じが生々しく残っているからだ。それであそこだけは救われた感じがした。
風光明媚な風景は何ら変わっていなかったのである。

posted by 老鶯 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌 (南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌

(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

●津浪で意識させられた海

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八沢浦の夜雨  磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐    雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


南相馬市の鹿島区の八沢浦は歌枕として注目されていない、地元の人でも注目していない、ただ今回の津浪で八沢浦が元の満々と水をたたえた入江にもどったときほど驚いたことはない。前からここは海だったと想像してその合成写真も出していた。実際に海になったときは想像を越えていた。
浪が奥に打ち寄せキラキラと春の光にきらめいていたのである。この光景を見たのは一回だけだった。浦浪というのをここではじめて見た。この辺は海岸沿いは荒波しかないのである。だから入江があり浦浪がよせる景色はなんとも穏やかで美しいものだった。それは一時奇跡の光景だった。
ここは明治になってから開拓されたのである。


磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


磯というときこれは入江が磯となっていたのだろう。この辺では磯はない、浪のうきねというとき入江によせる浦浪だった。そもそも磯桜という表現はあまりしないだろう。これを歌った人はやはり海辺の磯のある所に住んだいた人なのか?京都の人でもそういう風景に親しんだ人かもしれない。
浦浪がよせてきて旅人は興奮して眠れない、そういうことは旅では良くある。桜が咲いていたということは美しい光景だった。それは入江があり浦浪がよせることで美しい光景となっていたのである。長岩というのも海に浮かんでいた。確かに長い岩であり松がその上に今もある。
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎の歌の草原も地名だと考証した。その塩崎の市庭とか船着という地名が残っているところまで津浪が来たことには驚いた。古代の海の情景を津浪が再現したのである。


八沢浦は八つの浦だった
http://musubu2.sblo.jp/article/44187778.html


今回の津浪の影響はより海を意識するようになった意識させられたのである。海は別に近いのだから特別意識する必要もないというが常磐線で海が見える所はわずかだから電車に乗っても海を意識しない。相馬から仙台で海を意識するのは新地駅だけどそこもわずかかしか海が見えないのだ。今回の津浪で六号線でバスでゆくと広々と海が見えるようになった。今までは町や松原でさえぎられて海が見えなかったのである。浜吉田とあっても浜だから浜があるはずだけどあそこで海を意識したことは一度もないのだ。海はかえって遠くにあると思っていたのである。その浜吉田駅まで津浪が来たことには驚いた。昔は広々と仙台までの常磐線沿いは海だったのである。


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六号線のバスから海の方を見たら沖に船が見えた。まずこうした景色は見れなかった。海は近くても見えなかったのである。景観が変わってしまって海が広々と視野に入ってくる。一面この光景は海を意識させるし新たな景観を作り出したというより元の海の景色を再現したといえる。


●末の松山をたずねる


末の松山は多賀城駅から近い、多賀城駅まで津浪が来たのも驚きであった。今度は高架橋を作り駅を作っていた。末の松山は砂押川の橋を渡り近かった。駅からもその松山が見える。末ノ松山から沖の石まではかなり落差があり末ノ松山の下が海でありあの石が沈んでいたのだろう。その感覚はやはり歩いて見ないとわからない、あの辺には古い農家があり蔵が残っていたからわかった。そこにも津浪の被害があった。新しい街並のなかに古い農家が埋もれていたのである。津浪でも蔵はここでも残っていた。


春の暮末の松山残りたる松二本や浪こさじかも


享保四年(1719)の「奥州観蹟聞老志」に「丘上有青松数十株」とあり、当時、数十本の松が群生していた。しかし、仙台藩の儒学者舟山万年が著した「塩松勝譜」によれば、それから百年ほど後の文政六年(1823)ごろになると、わずか五本を残すのみとなった。

末松山(末音寿衛)。附宝国寺。八幡坊々側寺アリ。宝国寺ト云フ。寺後ニ高丘アリ。累々墓ヲ為ス。是末松山ナリ。往時ハ松樹、山ニ遍満ス。今存スルモノ僅カニ五株。而シテ其最モ東ノ一株、之ヲ末松ト称スルナリ。
(「塩松勝譜」)


多賀城は高いマンションとか工場地帯でありここは確かに太平洋汽船の船がでているから何度も利用したにしろ多賀城でもビルや家にさえぎられるから海を意識しない。海が全くさえぎられているし海が見えないから海を意識しないのである。だからあえて歌枕の地でも訪ねることはなかった。そういう情緒がまるで感じられないものとなっていたのだ。それはすでに江戸時代にも古代の面影はなくなっていた。あの辺で古代を感じることはほとんどなかった。ただ今回の津浪で古代の海を意識するようになったのである。多賀城駅の前の砂押川にも津浪が押し寄せて被害があった。津浪はまず川をさかのぼる。それでこの辺でも被害があった。この川は実際は海に近いからかなりの勢いで津浪が押し寄せた。それではじめてこの川は海とつながっているのかと意識した。普通あの辺は住宅が密集してビルが高いから海を意識しないのである。つまり今回の津浪は今まで海を意識しないところが海を意識させられたのである。だから砂押川に鴎が飛んでくるとき海が近いから当然鴎が飛んできてもおかしくない、鴎も津浪と同じ様に川をさかのぼる。それで枯葦がしげっていたので古代の風景を思い浮かべることになったのである。今まではこの辺は何か都会化した殺風景なものとしてしか見ていなかったのである。


枯葦に昔の面影砂押川


早春や多賀城駅に鴎飛ぶ

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こんな句ができたのも津浪の影響だった。それから野田の玉川の昔の光景も浮かんできた。


ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり 能因


ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集-西行)


仙台藩の儒学者佐久間洞巌著「奥羽観蹟聞老志」(享保四年<1719>刊)によれば、「野田の玉川」は、往昔、月影を映し、海水が遡る河流だったが、当時、既にその面影はなく「唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ」の小流になっていたという。


「思惑の橋」というときここがすでに人間臭い橋となっていた。でも古代は淋しい風景だった。
潮風が吹き千鳥が鳴くのみの淋しい光景だった。そういう光景をこの辺からは全く思い浮かべることもできなかった。情緒が全くない景色だったのである。まず潮風自体感じないし吹いてこないのである。津浪で見直すべきは多賀城を中心とした地域は海に近く海を意識しないでは語られないものだったのである。だから浮島神社があるというのもそのためである。多賀城近くに海に浮かぶ島があったのである。そしてなぜこれほど末ノ松山とかが都の人に意識されたのか?

それは貞観津浪というのは赴任した都の人にとっては驚くべきものであり忘れられないものとなっていたから京都に伝えられた。貞観津浪の供養のために祇園祭りがあったということもそのためである。それだけこの津浪は衝撃的だったのである。

宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)


こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
小鶴新田辺りから多賀城辺りまで今も田野が広がっているからかえってあの辺が古代を偲べる。多賀城市は家が密集してビルが高いからかえって古代を意識できないのである。歴史はやはり地理であり原始の状態からその歴史をたどる必要がある。それが都会化するとできなくなるのだ。今回の津浪はそうした古代の情景が再現されて海をより意識させられたのである。


仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html

 
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2012年03月10日

深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた (津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)


深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた

(津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1331076028/

陸前高田にボランティアに行った
そこで地元の人の話を聞いたんだが
「生き残った人は津波を見て死に物狂いで逃げた人が多い

死んだ人は波を見ることが無かった人だ」と言うことだった


津波を見なかったので、最後までのんびりして死んだ人が多いらしい

そうすると波の見えない夜中は警察の言うように
死者は爆発的に増加したはずだ 本当に昼間で良かった


こういうこともあったんだな、磯部の人も一波の浪が防波堤を越えてから車で逃げた。他でも最初の浪は大きくない、でも浪が防波堤を越えて来たら即逃げないとまにあわない、津浪を見ようと海の方に行った人はかなりいる、津浪はなかなか経験したものしかわからないのだ。
テレビでは津浪を見てから必死に逃げていた人がいた。あれでも助かっている。津浪を見て必死で逃げれば助かることもありうる。津浪を見ない人は助からなかったということはわかる。
津浪が家にさえぎられて見えないので恐怖を感じず被害にあった人がいる。


海は今は松原や家や街にさえぎられて見えない場所が多くなっている。相馬から宮城の海岸線でも海が見える所がないから普通海を意識していないのである。山元町でもあそこであれほど被害にあったことに驚いた。そんなに海側に家があったのか、松原で海が見えないから普通海を意識していないのだ。駅には新興住宅地があったから家があったことはそれなりに意識していた。ただ海は意識していなかったのである。例えば今回のように松原も家もなくなり海が広々と見えるようになったとき、もし津浪が来たら肉眼で見て津浪を来るのを知ることができた。他の人も高い建物から津浪を来るのを見ていた。それでビデオにとっていた。その様子は危機感がなかった。、たいしたことないと見ていた。最初はみんなそうだった、だんだん高くなってきたので驚いたのである。


津浪に関しては経験がない人がほとんどだからのんびり構えていた人が多かったのである。だから海の方に見にゆくとなった。昼間だから津浪を見て裏山に逃げたりして助かった人はかなりいた。
裏がすぐ小高い丘になっている所がありそこに逃げて助かった人がいた。津浪が来るのを見えて家の裏山に逃げて助かった人もいる。昼間だから津浪が見えて助かった人は確かにかなりいる。夜だったら津浪が見えないから死者が十万人とかありえたかもしれない、夜はそれだけ津浪では危険だったのである。津浪に対する危機意識は低いから余計見ない限り逃げないという人もいた。


南相馬市の鹿島区の大内の人も右田浜の松原を軽く越える津浪を見てからトラックで逃げたと言っていた。これも津波を見てから逃げて助かった一人である。もし夜だったら逃げられず流されて死んでいたかもしれない、昼間だったということが幸いしたことは確かである。
つまり津波を見て逃げて助かった人がかなりいるということは夜だったら被害は十倍にも拡大していたということはありえる。考えてみると津波が夜来た場合の訓練をしていない、津波の避難の訓練は昼にしているからだ。こういう所も盲点なのである。今度は夜に地震がきて津波が来るかもしれないのだ。そういう備えをしている人は少ないのである。そしてまた大きな被害になる。
東京辺りでも夜に大地震がきて停電になったりしたら情報も入らないしパニック状態になり騒乱状態になり被害が拡大化する。懐中電灯すら探せず真っ暗な中で取り残されて津波が襲ってきたら最悪である。


ともかく現代は海が近くても海が見えない所に住んでいる人が多い、津波の映像でも家が密集しているから津波が襲ってくるのが見えないのである。松原によってもさえぎられているから遠くから津波が来るということは見えない、海は今は松原であれ家であれ高い建物であれさえぎられて見えないことが多いのである。海が近くても海を意識しないことが多いのだ。そこが盲点となり津波の被害を拡大化した。自分の場合、郷土史とか研究してここはもともと海であったとか常に書いてきた。その所が津波で海になったことに驚いた。もともと海だったところは何らか海として意識する必要があったのかもしれない、多賀城市でも東松島町でも自衛隊の駐屯地として海側に作ったのは失敗だったと今は反省している。ここでも津波の備えはなかった。ただ多賀城市では奥に入った地域だから津波は来ないとされていた。でもその見通しが甘かった。そもそも太古は海が深く入り込んでいた。それで沖の石があった。そこまで海の底だったのである。

そういう太古の状態があった。都会化したことによって海が見えなくなり海は意識されなくなっていた。多賀城市などは全く海を意識できなくなっていた。多賀城市の場合、駅前の砂押川に津波があふれたのである。この川はかなた海に近かったのである。ただ家やマンションやビルや工場地帯が密集しているから海の視界が全くさえぎられてしまったのである。川は津波では遡上してくるから危険だった。川を通路にして津波が遡上してくるからである。

今はどこでもそういうことがありうる。海は松原であり家であれ工場であれ何かそうした文明化したものによってさえぎられ見えなくなっている。海が意識されにくくなっているのだ。

海に囲まれた日本なのだけど意外と海の近くでも海を意識していないのである。海岸沿いに住んでいても海がさえぎられていることが多いと海を常に意識しているわけではないのだ。
ともかく江戸時代に松原を防潮林として作ったとき海への視界がさえぎられた。そのことを危険なものとして指摘する人はいない、松原は白砂青松の日本的風景として定着していたのである。
松原は美しいのだけど遠くから海が見えにくくなったとか気にしている、危険を感じた人はまれだろう。ただ津波がおしよせてからその津波を見て逃げて助かった人はかなりいる。津波は見えてから逃げても助かるということである。地震は見えないから助からない、津波は一応見えるので見てから逃げて助かる確率があるということなのだ。

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

http://musubu.sblo.jp/article/54362182.html

posted by 老鶯 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係