2012年02月19日

献げる松の枝と猫柳 (昔が劣っていたのではなく価値観が違ったいた)


献げる松の枝と猫柳

昔が劣っていたのではなく価値観が違ったいた


松が枝に猫柳さし霊前に献げけるかな霊の安かれ



 奉納


常磐木の松が枝

猫柳ともにさし

霊前に献げぬ

悪しき心なく

やましき心なく

ものと心は一つ

神に献げられぬ

神のよみしつ

実りあるべし

 



神道は何かというときこれも何か教義も教典もないからわからない、武士道もそうである。でも教なき教なのかもしれない、日本教というべきものなのかもしれない、神道は自然と一体化するものとしてあった。ものと心はもともと一つでありものがつくとかものはこころでもあった。
松は日本人にとって常に心のよりどころとなるものだった。松に関するものが無数にあるのはそのためてある。田植えする前に冬の内に松の枝をさすのも松は常磐木の木として尊重されてきたからである。神道でももともと宗教は悪しき心、やましき心を嫌った。自然の美はまさにそうした人間の欲とか邪心とかがないからこそ美でありえた。そういうことで宗教はもともと共通していた。
しかし宗教は必ず俗化する、今やあらゆる宗教が人間の欲に答えねばならない、神社でもあらゆる種類の神社があり人間の欲望を充たすための祈りの場となっている。神聖な祈りの場ではない、賽銭に人間の欲望がこびりついている。神社は神域ではない、かえって何か人間の欲望、念が満ちてかえって汚されることが多い。それは宗教団体でもそうである。そこにも人間の欲望がうずまいている。
そこからあやしい、欲の念が満ちている。そういう場所ではもはや人間は浄化されない。


ただ松であれ猫柳であれ様々な花であれそうした自然そのものは変わっていない、そこに純粋なものを見ることができる。そうしたものは別に金が必要ということではない、松でも別に自然の松がいたるところにあるし花でも自然の花を見るのは無料なのである。日本では人死んだら山の神になるとかいう信仰は稲作がはじまって生まれたというのは合理的に説明すればそうである。山から水が流れて水田となり稲作ができるからである。だから春になると山から里に神様がおりてくるというのはそういう自然の営みと一致しているのである。エジプトでもエチオピア高原の谷に黒い土が流れだしてナイル川が洪水でその黒い土をもたらすから肥沃になり3000年のエジプト文明が生まれた。そしてその黒い土が玄武岩から土になっていたということには驚く、火山で吹き出した溶岩の玄武岩から土が生まれていたという地球の神秘である。つまり地球はそういう壮大なスケ-ルで循環している。山と川が一体としてつながっていたし岩と土も一体だったのである。エジプト文明が3000年もつづいたのはそうした自然の壮大な循環の中で作られていたからである。

現代の文明は短命だというときそうした自然の循環を無視して科学技術が突出して自然を破壊したからである。時間すら奪い時間を食い尽くしている感覚である。百倍も早く時間を進めている。原発などという危険な代物もともかく導入は早すぎたのである。自前で作れるようになれば事故は起こらなかったというのもそのためである。
いろいろなものが変わりすぎるのである。何らかで時間をとめない限り、加速をとめない限りまたどこかで大事故が起きる。科学技術でも制御するということが必要だったのである。

伊達市の小国では田んぼで米を作れなくては用もなくなるから住めなくなるというのも本当だろう。この辺でも今年も来年も米を作れないとか原野のままになっていたら何か荒寥としてくる。農業は単に食糧を供給する経済的価値だけなのだろうか、何か自然とコンタクトする神事の面もあった。

現代は余りにも経済的価値観が支配しすぎたのである。経済的に価値がなければ売れなければ何の価値もないとかされる。それはあらゆる面でそうなった。文化的なものは金にならないから価値がないとかみんなそうである。金にならないものは価値ないものとして捨てられる。そういう価値観は危険をともなっていたのである。原発事故もそういう価値観の警鐘だった。エジプト文明は自然との調和にいきたから3000年つづいたが現代文明は百年か二百年とか短命で終わる。一過性に消尽されて終わる。それは江戸時代より短命だったとなる。現代の文明は現代という視点しかない、過去から延々と継続してきた人間の歴史、生活の価値をかえりみない、エジプト文明でもそこに現代人が見習うものがある。現代文明は一時的な異常な文明として消尽されて消失する。それが津浪や原発事故で現実化しているのかもしれない、エジプト文明は劣っている文明ではなく今の文明と価値観を異にする文明であり江戸時代もそうであり劣った文明と見るのは誤っていたのである。人間はやはり価値観の問題が大きい。昔の価値観と今の価値観が違うから昔を理解できなくなったのである。劣るとか進んだとかいう問題ではない。山を山神として信仰するのを科学の時代で馬鹿らしいとかするから原発事故が起きたりする。そういうことは自然と共に生きるものにとって正に自然であり合理的だったのである。エジプト文明も同じでありそれが劣った文明だと現代からみることはできないのである。