2012年02月14日

冬の日立木村の薬師堂(短歌、エッセイ)


冬の日立木村の薬師堂(短歌、エッセイ)


yakushiiidounnn.jpg

寒雀鳴き騒ぐかなまちば橋


立谷川凍りけるかも薬師堂たずねてあわれ飢饉の碑あり


薬師堂まちば橋かな街道の細道あわれ冬日さし暮る


名もなき五輪塔に冬日さし何を語るや日立木の村


街道の松並木にそ冬日さし城のお掘りに鴨数羽見ゆ


冬の日や相馬の城に山中郷塩の役人を殿の召すかな


明治の碑従軍とあり遠きかな日露戦争や冬の日暮れぬ


jyugunnheishi111.jpg

明治の碑、日露戦争に従軍した人だろう



日立木のまちば橋のあるところは街道の情緒がある。すぐに松並木があるからあの辺が一番昔の街道の面影を残している所なのだ。ただなかなか地元の人すら気づかない、薬師堂がありあそこに飢饉の碑がありその脇の墓に江戸時代の僧侶の墓がある。岩崎氏とか谷津田氏の墓がありそれは江戸時代からあった。岩崎氏は野馬追いにもでている武家である。そういうことが墓と相馬市史から明確にわかった。立谷川は凍りいかにも寒々とした感じがする。ただ子供の遊ぶ遊具があり生活の匂いがある。薬師堂は村の中心だった。病院も医者にもかかれないから薬師堂に祈るほかなかった。医者にかかること自体相当に贅沢だった。救急車も何もない時代に死ぬ人が多かった。前の郷土史研究で相馬市史に記されている人は妻が20才で死んでいる。養父の僧侶も26才で死んでいる。子供も一才で死んでいる。ともかく若くして死ぬ人が多かった。ここだけですでにこれだけ若くして死んでいる。それだけ病気で死ぬ人が多かったのである。あの五輪塔と僧侶の卵塔の墓や相馬市史に記されたことはなにか呼応している。明治時代の従軍兵士の碑もあったから日露戦争なのだろう。なかなか日露戦争の碑はない、しかし日露戦争の死者も多いからそれなりに全国に残っている。しかし太平洋戦争のことで日露戦争のことは忘れられている。親戚で葛尾村に住んでいる人がいた。その老人は日露戦争に出ていた。その時の傷を見せるとか言っていた。それがあまりにも遠い日のことでわからなくなったが墓が小出谷(こでや)にあって墓参りしたことがあった。しかしそこの家はもうない、それが原発関係で働いていた。浪江には近いから原発と関係していた人はそれなりに多い。南相馬市すら少ないにしても関係していた。金になるから原発で働かないかという話しは良く聞いた。この辺では原発は金の鳴る木だったのである。


それにしても信じられないのはこの街道を思うとき必ず街道は道は遠くへ通じてるから道であることを今更ながら感じた。道は途中で途切れてしまいば道でない、ましてや街道となるとこの道が江戸まで通じているから街道なのである。それが途中で途切れてしまったら道の役割は喪失するのだ。そのことをつくづく原発事故で感じた。道ほど大事なものはない、ただ鉄道より今は六号線とかが大事になっていた。鉄道は磐城まではあまり相馬では利用していない、車で買い物でも病院でもしている。事実双葉町の人と浪江の人が南相馬市立病院に来ていた。入院していた人もいた。南相馬市と浪江とか双葉町は関係が深かった。それを意識していなかったが道が通じなくなったときそれを強く意識するようになった。道が通じないということは半分体がなくなったような感じなのだ。今の時代はいかに道が大事か知った。交通が変わると街自体がさびれるということもわかった。流通がなくなりさびれてゆく。現代のように全国的グロ-バルにも流通しているとき余計にそうなったのである。戦前でも江戸時代でも交通が不便で自給自足的経済だったらそれほどの影響がなかったかもしれない、今は交通の影響が甚大なのである。だからこそ新幹線がとまったりどこが通るか大問題になるのである。人の出入りが交通の便が良いか悪いかで決まってしまうからである。


この辺の異常事態は未だにどう理解していいかわからない、津浪だけだったら道は通じていたしかえって鉄道はそれほど津浪の被害がなかったから磐城まで通じた。相馬市から新地から亘理までは被害が大きすぎていつ開通するからわからない、5年はかかるとかいつになるのかわからないのだ。鉄道は仙台と通じているから大事なのである。仙台は復興の拠点でもあり工場も多いから東北の中心として復興の大きな役割をになう、特に福島県は原発の放射能の打撃が大きいから特にそうなった。でも宮城県の津浪の被害も甚大だった。福島県より何倍も津浪の被害が大きかった。港はほとんど壊滅したのである。ともかく道が通じないということは江戸時代や縄文時代にすら帰ったような気分になる。それほど現代文明は交通に頼る文明だったのである。原町と相馬間を二両の電車が行き来しているだけでは鉄道の役目を果たせない、仙台まで通じればそこから四方に通じる。原発の10キロ圏とかはなかなか道も通じないのか?結局放射能がいつまでも残る、除染がしにくい、となるといつ道が通じるのか?放射能という暗雲が霧がいつまでたちこめるのか?その暗雲が霧が払われない限りこの辺の復興はない、その先が長いのである。だから南相馬市でも若い看護婦は子供を育てているから半分がいなくなったとか医者も半分いなくなったとか一番困っているのだ。医者にかかれず江戸時代のように死んでしまうのかとなる。江戸時代だったらあきらめていても今は交通も発達しているから移動がたやすいから移る人は移る。十津川村でも北海道に移住できたのはその頃の生業が農業であり農家は結束が強いし北海道で農業するということで一致団結したのである。今は農業の割合が一割とか低いから浪江だって農業するから代替え地に移るとはならないだろう。農業が8割とかの社会だったらそうしたことができたのである。結局そうなるとばらばらになってしまうかもしれない、それぞれ移住して仕事を見つけ定住するようになる。特に若い人はそうしたいとなる。でも老人は故郷に帰りたいとなっても誰が世話するのかとなり若い人についてゆくということにもなる。


要するに放射能汚染ということは広島の原発とも違うし今まで経験したことがない、それで未来のこともわからないからとまどいいつまでたってもその先どうしていいかわからない、学者でも意見が分かれていることを素人でも判断できない、原子炉の温度がまた上がったとか何かまた恐怖がある。
津浪や原発事故で大きく人生が変わらざるをえなくなった人が多数である。一見南相馬市の警戒区域意外はそんなに影響しないとも思っていたが違っていた。何か避難した人たちがイメ-ジとして現実としてもそうだがあふれている。故郷に帰りたい故郷をどうするんだとかそういうどうにもならない声が聞こえてくる。それはやはり浜通りは一つの共有した地域だったからだろう。磐城だったらそれほどでもなかったのか、この辺では何か常に心が動揺している安定しない、落ち着かないのである。だから平和的な仕事にじっくり取り組むということがしにくいのだ。文化的なことは特にそうである。平和な日常的な生活基盤がしっかりししていなけれは文化の営みはありえない、石のことを詩にしたりしてきたがその石のように安定しないのである。それは自分だけではない何か心が落ち着かない安定しないのがこの辺である。津浪の被害にあったところもそうだが原発事故で放射能のことで余計にこの辺はそうなったのである。


相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど (薬師堂はどこでも村の中心にあった)
http://musubu.sblo.jp/article/53887369.html