2012年02月13日

相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど (薬師堂はどこでも村の中心にあった)



相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど

(薬師堂はどこでも村の中心にあった)

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無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%84%A1%E7%
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ここにあるのは江戸時代の僧侶の墓である。卵塔の墓(無縫塔)は僧侶の墓である。江戸時代の墓があることは昔からここに墓があった。墓所を見るとき江戸時代の墓がないと興味が薄れるのだ。ただ江戸時代でも明治時代になってからの継続がある。明治時代になって夫婦の墓があるのはそのためである。一家の墓になるのはそのあとに多かった。江戸時代の不思議は家族墓はなく個人墓である。武士は代々の墓が寺にある。一般的に庶民は墓が持てない、でも金がある人は個人墓を作ったのである。姓があったり名前だけのものもあり庶民だからといって姓がないということもなかった。墓所を見ることは郷土史研究に欠かせないのである。墓にしてももともと中国から入って来たものである。位牌というのも儒教から入って来た。仏教のように思うけどもともとは儒教なのである。神仏習合のように儒教とも習合したのである。ここの日立木村の墓所に岩崎という墓があったがこれは野馬追いにもでている武士として相馬市史に記されている。すると江戸時代からつづいている姓だとわかる。姓は新しいものも混在するからわかりにくくなる。谷津田とかあるとき近くにもあるから移動したのかもしれない、相馬藩内で姓が移動することが多かった。岩崎、谷津田は相馬市史にもでている。岩崎氏は二家族でているからやはり武士としてその土地に力を持っていた。
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不思議なのは相馬市史に記された立谷村の家族構成である。
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酒井藤左衛門の家族であるが戸主、養父が東光院となっているのは寺の住職か僧侶であり26才で死んでいる。実父は誰かわからないから確かに養父が僧侶であった。だからあそこの僧侶の墓は東光院関係の僧侶かもしれない、東光院はこの辺に結構多いのだ。妻は志のであり20才で死んでいる。
その次が酒井藤左衛門の伯母がかよでありそのかよの父が与五郎である。漢字は別になっている。
この伯母が越中国松木村の出生となっている不思議である。飢饉の時移住してきた越中の人であることはまちがいない、ではなぜ酒井藤左衛門の伯母になっているのか?日下石村の実父の姉か妹であったということはこの伯母は越中からきて酒井藤左衛門の父の姉妹と結婚したということである。
越中からの移った人で相馬藩内に住んでいた人と結婚した人がいても不思議ではない、なぜ酒井藤左衛門の一家となったかというと妻志のが20才で死んだからである。ただ文化となると弘化 嘉永より時代的に古くなる。
1806(文化 3)-1847(弘化 4)伯母は文化3年に生まれ酒井藤左衛門は弘化 4年に生まれた。酒井藤左衛門が生まれたとき,伯母は41才であった。妻志のが1853-嘉永 6年に出生して20才で死んだから明治7年に死んだ。酒井藤左衛門と妻は志のは六才違いである。6才のとき20才の妻が死んだということはありえないから何か間違っている。これは複雑でわからないが妻が20才で死んだことや僧侶が親戚にいたことや越中の人がかかわっていたことは確かである。墓所には必ず真宗系統の移民の墓がある。

薬師堂は村の中心に必ずあった。それはなぜかと言えば今もそうだが人間一番苦しんでいるのは病気だからである。法印でも山伏でも必ずそれぞれの村にいたのは加持祈祷のためである。病気を直すために祈っていたのである。宗教が昔は盛んだったのは病気のためである。医者も病院もないから神仏に祈る他なかったのである。だから地蔵さんでも眼に効く地蔵やら腰に効く地蔵やら分業化していた。それは今の病院の様々なお医者さんにかかると同じである。薬師堂が村の中心にあるのは病気祈願のためにである。薬師堂は近くにあってこそ意味がある。江戸時代は車もない、城のある相馬市内だって元の中村だって遠いのである。救急車もないから結局薬師堂に祈る他なかったのである。


会津でも早い時期に仏教が広められたのは病気祈願のためだった。磐梯山が病脳山とされていた。それで徳一が盆地の中央に位置する勝常寺を中央薬師とし、本寺を東方薬師、堤沢の野寺を南方薬師、漆峯を北方薬師として建立した。


仏教は最初は病気の治癒として受け入れられた。これはキリスト教でも同じである。病気を直すことが病気を直すために祈ることが宗教だったから広まったのである。今は医者を神様のように崇めていることと同じである。病院が大事なのも薬師堂の代わりになったからである。僧侶の力の衰退は正に葬式だけになったからである。ともかく日立木のまちば(まちば)橋のある所は昔の村の様子が残っている。旧街道沿いの感じが松並木とともに残っている。


薬師堂まちば橋かな街道の細道あわれ冬日さし暮る

posted by 老鶯 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)