2012年02月11日

東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった (津浪の共通体験でそれがわかった)


東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった

(津浪の共通体験でそれがわかった)

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雪残る鳴瀬川や朝の海


冬鴎車窓より見て亘理かな


どうしても津浪とか原発事故がクロスオ-バ-してくる。これはさけられない、その影響は余りにも大きかった。石巻の津浪の被害は甚大だった。宮城県は津浪に関しては被害が福島県より何倍も大きい。石巻でも市街が津浪の被害にあった。そこから牡鹿半島の小さな漁村もみな津浪の被害を受けた。宮城県は港が多いから津浪の被害が大きかった。福島県は浜通りでも津浪の被害あっても原発事故の被害の方がずっと大きかった。その相違があった。亘理駅で鴎が飛んでいるのを見たとき、あまりみかけないけど鴎が飛ぶということは海が近いのである。ところが常磐線でも電車から海が見えるのは新地町だけであり他は見えない、するとこの辺に住んでいる人でも海を意識しないのである。
浜吉田という駅があったけどここで海を意識したことはない、その駅まで津浪が来ていたことには驚いた。海が近かったのである。亘理もそうだし岩沼もそうだったし名取もそうだった。だから鴎が飛んでいるのを見たとき海が近いと今度は意識したのである。


鳴瀬川にひかれるのは名前がいいからである。何かリズムカルであり響きがいいのである。そしてこの川が海に注いでいるということで気持ちいいのである。この川はまた電車からもバスからも見えた。バスは高速で行くので海を見えるところにはとまらないが鳴瀬川は見えた。それほどの被害はなかったのかただ松原が半分くらい残っている。やはり津浪の衝撃は他より弱かったのか、名取から相馬から磐城など松原は根こそぎ流された。陸前高田でも松原が全部流された。あそこには湾があっても衝撃が強かった。津波の強さは地域によって違っていた。それは地形と関係していた。ともかく今回の津浪の被害は青森県から岩手県から宮城県から福島県と広範囲だった。一番被害が大きかったのは宮城県だった。津浪の被害は一度その場に立てば実感する。テレビとかで見てもなにかもう一つ実感しないのである。津浪の被害の跡に立つと荒寥としたものを一段と感じる。それはテレビで見ているのとは違っている。体全体で感じる荒寥感である。石巻はそうだった。


今日の一句一首も津浪や原発事故とは関係ない平和なときの営みである。でも津浪の被害や原発事故はあらゆるところに影響した。自然の見方自体変わったのである。自然そのもの地形すら変わった。あらゆるものがその影響からまねがれることはできない、地形的には福島県の浜通りは宮城県の海岸沿いの港とかずっと海を通じて関連していた。それが津浪で同じ海側に面した共通性を認識したのである。三陸の津浪は三陸独自のリアス式海岸だから津浪の被害が大きくなるということは何度も言われていた。でも名取など平地はそれほど言われなかった。でも名取には津浪の被害が前にもあり伝説も残っていたし最近では地下の土を採取して津浪が奥深くまで津浪が来ていたことが証明されていた。そういうことに福島県浜通りでも無関心だった。隣合っているのに無関心だった。福島県とか宮城県とかはあくまで人工的に作られた境でありそういうものにこだわるより自然の地形的な連鎖反応が大事だった。福島県浜通りは明かに海側として海岸線として共通の自然の地形の中にあった。地形の一体感があった。山国は山国でありそうして海を通じた地形の一体感はない、ただ海側でもそうして広い範囲の一体感を共有していなかった。三陸には津浪が来るが仙台から福島県などの平地の浜通りには来ないとか安心していたのである。歴史的人工的な世界観より自然の形成された世界観が必要だったのである。


三陸などは宮城県、岩手県の海側は漁業が昔から産業だから海と密接にかかわり生活していた。宮城県の仙台辺りから名取、亘理、福島県の浜通りは漁業が盛んでないから海と密接にかかわるという生活ではなかった。むしろ仙台や名取でも米を作る開拓地として意識されていた。でも松川浦では津浪が来るときは沖に船を出した方がいいと言い伝えがありいち早く船は沖にだして助かった。海とかかわっているからそういう言い伝えがあった。でも郷土史で津浪の言い伝えをほとんど聞いたことがない、ただ最近地下の土を採取して津浪が相馬の奥深くまで来ていたことがわかった。そのことを一時時事問題の深層に書いたことがあった。だからその時自分も多少津浪のことを意識したけどこんな津浪が来るとは思いも寄らなかった。だから郷土史なども狭い範囲だけの研究では役に立たないということもあった。自然の上に人間の歴史があるとき、相馬藩が成立したのは400年前くらいであり確かにその時、慶長三陸津浪でここも700人死んだとか相馬藩政記に記録されていた。記録は残っていたのである。ただ詳細な記録とはいえず見逃していた人が多いだろう。でもそれは大きな事実の記録だったのである。他に何か明確な記録がないとしたら記録されただけで貴重だったとなる。
今回の津浪は東北の太平洋岸が自然的一つのつながりある地域だったことを認識した。津浪で共通体験したからそういう意識が生まれたことは確かである。


 


スマトラ津浪の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録) 2005
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

わが町(亘理)に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです。
現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます。


亘理に住んでいる人の日記に書いてあった。亘理から逢熊駅にとまるとそこの小高い丘に確かに「三十三間堂遺跡」と案内板があった。国府の多賀城が津波に見舞われたからその教訓から高い所に郡衙を作ったのか、それはわからないにしても確かに島という地名はかつてはそこは島だった可能性がある。海が深くは入り込んでいたからだ。その入江のような所に島が浮かんでいた。そういう光景は日本には多かった。大坂湾も古代には八十島が浮かんでいた。日本は島が多い国なのだ。それにしても相馬にもこの大津波が押し寄せてきたことには驚きだ。最近やたら地震がつづいているので不安になる。こんな千年に一回とかいう大津波を警戒することはむずかしい。それでも日本地震国だからこうした記録が残っているのだ。これは丁度大和政権が多賀城を築き蝦夷を征服しようとする最中であったからその様子が伝えられ記録に残った。そうでなければ文書としては残らず伝説になったかもしれない、国というのは歴史を災害でも記録するという役目があったのだ。今回のスマトラ大津波についてはツナミということばさえわからない世界だった。ツナミは世界の言葉になっているごとく日本から生まれた言葉なのだ。津波もまた身近なものだった。

 



これを書いてから6年後に今回の大津波が起きた。この時もっと日本でも警戒するべきだったのである。世界的に陸はつながっているのだし海側はやはりつながりが深いのである。


 

posted by 老鶯 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係