2012年02月10日

複雑化する細分化する社会は誰も責任をとらない (パソコンの故障とにていた原発事故)

 

複雑化する細分化する社会は誰も責任をとらない

(パソコンの故障とにていた原発事故)

●パソコン化しているテレビの故障


テレビはデジタル化して番組もふえたし教養番組もふえたから見ることが多くなった。でも操作が結構めんどうになった。パソコンをやっていたからなれているにしてもボタン一つで操作していたのとは違っている。認知症になると機械の操作ができなくなる。テレビのボタン一つ、エアコンのボタン一つ操作できない、するといちいち押してやらねければエアコンも使えない。テレビは前はリモコンでもポタンいくつか押しさえすればよかった。今はいろいろな機能が増えてパソコン化しているのだ。東芝のレコ-ダ-が「UPDATE」ととなり操作できなくなった。updateはパソコンで知っていたから
ソフトが入っていてアップデイトしているのかとそれも無線で衛星放送からソフトをアップデイトしている。それが原因で故障になった。東芝の相談センタ-に電話してもつながらなかった。その不具合を知ったのは2ちゃんねるだった。インタ-ネットだった。そこで東芝のサイトでUSBにダウンロ-ドしたソフトをさしこむと直った。これは明かにパソコン化しているレコ-ダ-だった。パソコン化するとパソコンが前は不具合が頻繁におきていたように故障が多くなる。ソニ-のテレビも記憶できるのだがそのBDが二回も記録できなくなった。機械が複雑化高度化してくると故障が多くなるのだ。


パソコンは初期の段階はそういうふうなものとしてしかたないとして使っていた。とにかくソフトで買っても使えなかったり外部の危機を接続しても相性が悪いから使えないとなっていた。それがテレビがパソコン化してきたとき同じことが起きた。どうしても見る番組が増えると記録するハ-デデスクが必要になり外付けのハ-トデスクを買ったがこれも一発でつながらない、認識されなかった。こういうことはパソコンの初期段階ではよくあった。でも最近はほとんどなくなったしパソコンは簡単に壊れないようになった。だからテレビもそうなったのかと思っていたがテレビはまだパソコン化するのに遅れていた。そこでソフトの問題が起きている。初期のパソコンの時は会社がみんなぱらぱらでありどこが悪いかわかりにくいから必ず相談しても買った本人が悪いことにされていた。複雑だからどこが悪いのかわかりにくい、すると・・・が悪いのではないですか、私の会社では責任もちませんとなっていた。外部機器の方が悪いとなれば責任をもたないし自社のパソコンでもどこが悪いか特定しにくいから責任をもたない、それで買っても使えなくて損した人はいくらでもある。そういうことがテレビがパソコン化して起こっている。


●細分化した部分の集合の社会は誰も責任をとらない


官僚の決まり文句では「私の担当ではないので責任はとれません、私の部門ではないので別な部門で聞いてください」というのが普通にある。するといろいろな部門が多すぎると何かあっても誰も責任はとらない、私の担当の部門ではありませんので責任はとれませんとなる。初期のパソコン時代はそうだった。様々な会社がかかわるにしろつなぐ線まで会社によって違っていて相性が悪いとかで使えないものがかなりあった。一つの会社でないのだからどこが悪いのかもわからない、それで線が悪かったとかわかるまで大変である。私の担当の部門には問題がありません、他のものが悪いのではないですか、必ずこういわれて誰も責任をとるものがないしソフトは複雑だからソフトの不具合となるともうどこが悪いか聞くこともできない、使えなくてもあきらめた人はかなりいる。パソコンはそういうものでありあきらめていたのだ。東芝のレコ-ダ-でもハ-ドディスクは別な会社になっているからその時とにている。ソフトの不具合とかなるとめんどうになるからだ。

現代の社会は無数の細分化された部分の集合体として機械であり社会も組み立てられている。だから部分を知っていても全体を知る人はいない、病気でも体の部分を見る人はいる、でも体全体を診る人はいない、部分に詳しい人が尊ばれる。耳であれ鼻であれ肝臓であれ腎臓であれ体の部分を診る人に別れている。現代の社会も無数に部分化した細分化した専門化した社会である。文学でも俳句雑誌があり短歌雑誌があるけど実際は一つのものでもいいはずだがそうはならない。サイエンスというとき宗教もサイエンスとして取り上げていた時代があった。サイエンスは科学は総合的なものとして人間を研究するものだった。その科学が無数に部分化して専門化してしまった。人間自体もただ単なる一つの機械の部品のように見られるようになった。全人間などというと異常な人間でありアウトサイダ-にされてしまう。社会の部品に収まるとき、ともかく・・・員として組織に所属するときその時その人が現代の社会の一員として認められるのだ。それは宗教でも同じであり・・・会員となっているときその時その人は社会に認定される。どこの会員でないものは何物なのか?得体の知れないアウトサイダ-にされるのだ。


●原発事故も誰も責任をとらない


原発事故もやはり現代社会の特有なものとして起きた。何か特殊なものではない、現代社会で起きた事故だからパソコンやテレビの故障と同じになる。原発はそもそも巨大な技術の機械の部分の集合体である。誰も全体を知り得る人などいない、どれだけ複雑な集合体の装置なのか、原子力の科学者は本当は原発のことなど全然知らないという、その学者が説明しても本当はわかっていないから御用学者として安心させるために嘘を言っていた。知っているのは原発を作った東芝とか日立とかの技術者であった。原発は東大であり何であれ学者がすべて知っているようなものではなかった。それは技術の巨大な集合体だからそうなる。最初に建てるときには土木技術でありそれから原子炉や配管やら電気技術など様々な総合体だからその全部を知る人は誰もいない、でも最初の段階で土木技術の段階で安全性をないがしろにしたことは素人でもわかった。高く盛り土して作る計画だったのが低くした結果、津浪に襲われたのである。非常用の電源も地下に置いたことが致命的だった。

土木技術にしても電源の問題でもそれぞれ切り離さず総合的に考えて作る必要があった。総合的見地から安全性を計る必要があった。中央司令室がすでに電気が通じなくなったからその時点で操作不可能になった。パソコンのソフトが動かなくなり使えなくなったのとにている。福島第二原発は中央司令室が操作できたから紙一重で助かった。こうした細分化した社会では誰が悪い、何が悪いとかいろいろ糾弾しても誰も責任をとらない、政府すら責任をとらない、保安院もとらないし東電もとらない、原発を作った東芝や日立でもとらない、マスコミも責任があってもとらない、それは戦争のときと同じである。どこが悪かったのか明確な責任をもたないのが現代なのである。


原発は初期のパソコンともにていた。初期のパソコンは故障して当たり前、ソフトはつかなくても文句言うな、自己責任だとかなっていた。外部機器でも会社は責任をもたない、ソフトが悪いとかパソコンが悪いとかですんでいたのである。そういう情報をやりとしりしていたのはパソコンを使っていた人たちであり最初はそうしたパソコンの使用者がパソコンを技術者と一緒になり開発していたのである。実際にパソコンは今からする高いから金をもっていないとできない代物でもあった。技術開発の初期にはそういうことが起きている。原発も最初日本にアメリカからもたらされたとき、マ-ク1という古い原子炉であり危険なものだと作った技術者が指摘していたのである。原発は最初は成熟した技術ではなかったか。そういう古いまだ未熟な原発をあえて導入した人たちにも問題があった。

どれくらい危険なものか調べもしないで導入したのである。まず金になればいいというのが最初にあり危険をかえりみず先に金であり安全は二の次にされた。だからこそコストカッタ-といわれた社長が安全性よりもうけを優先して作った。津浪を想定して盛り土して高くすると不便になる。金がかかるということで低くして海に排水しやすくしたりした。非常用電源を地下にすべて置いたのはアメリカは竜巻を恐れてそうしていたので日本もまねたのである。津浪を想定していなかったのだ。地震国であったのにそこが油断だった。日本とアメリカの風土を考慮しないで技術を導入したのが問題だった。風土の問題は科学技術の面でも重要なのである。そうした危険なものを導入するにはいかにその国の風土や歴史とか様々な分野の総合的な考察が必要だった。その総合的に考えることが現代ではしにくい最大の弱点でありそれがとりかえしのつかない事故につながったのである。


現在、日本中で鉄筋コンクリ-トが崩壊の兆しを見せています。そういった手抜き工事のほとんどが東京オリッピック(昭和三九年)以降の高度成長期に作られたものだということです。材料をけちり、工期を短縮してただひたすら純利益をあげることのみに邁進するどんなインチキ仕事でも数さえこなして金儲けすればいいという風潮が高度成長時代にあったのです


70年代に建設されたコンクリート構造物が2005年から2010年ころに一斉に崩れ始める
http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans040.htm


機械でも古くなれば故障が多くなる。そういう原発がマ-ク1の原発が他にもあるし40年とか使っている原発があるけどそのままにしている。コストの面からしたら古くても使っていたのである。原発は特に危険だからそうであってはならないにしてもやはり高度成長時代の感覚がありともかくコストの面から安全性をないがしろにされたのである。人間はつくづく個人的にも怠惰である。古いものでも金がかかると使っているし津浪の危険も人間が怠惰であるから起こったということもいえる。400年も津浪が来なかったら人間は津浪のことをリアルにイメ-ジすることができなくなっていた。

ともかく人間の作ったもの技術であれそういうものは不完全であり壊れるのが普通である。原発はなおさら危険なものだからそういう認識があってもいいのに「安全神話」にまで作り上げられていたのが事故の原因だった。人間の作ったものはいづれ故障したり破壊されたりする。そういうことは機械では常に起こることである。原発だけは起こりえないという「安全神話」が馬鹿げたものかわかる。それはただ権力をもつものによって情報もすべて操作されたからそうなっていたのである。戦争のとき日本は神国だから絶対に勝つと言って400万人死んだのともにている。神は絶対だけど人間の成すことに絶対はありえないのである。科学は今や宗教に近い絶対化しているから事故が起きたのである。

posted by 老鶯 at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連