2012年02月21日

津浪の後の冬の海

 

津浪の後の冬の海

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冬の浪遠くにしぶく津浪後


冬の海遠くに猛る津浪後


荒寥と津浪の跡や寒烏


晩年や近くの行き来冬の鳥



津浪の後に遠くから海が見えるようになった。この光景も何度もみているけど不思議としかいいようがない。こんな光景を毎日見るようになるとは思いもよらなかった。ただこの光景はもともと海辺はこんな光景だったのだ。北海道に行けばこういう風景は残っている。海はやはり怖いものだった。
海は遠くから眺めていた方が良かったとなる。荒々しい浪がしぶきをあげるのが遠くから見えるようになった。今までは松原だから浜通りでも仙台までも海は遠くから見えなかった。遠くから海が見えることは海を絶えず意識するようになる。外からきた人もここは海が近いということを意識する。これまでは海を見なければ海を意識しなかったのである。だから浜通りでも仙台までも海を意識しなかった。ともかく以前として津浪の跡は荒寥としたままである。そこに寒烏が一羽飛んでくる。

つぐみは川にいたけど近くで見かけなかった。ちょんちょんといつも冬には飛んでいた。この鳥は高く飛ばない、原発の回りでは鳥がへったという。この辺ではそういう感じでもない、飯館辺りはかえって鳥がふえるということもありうるのかもしれない、人間がいなくなると自然にもどるといういこともある。放射能は目に見えてわからない、別に木が枯れるわけでもないし水が濁るわけでもないし花が咲かなくなったりしない、それがなんとも不思議だからなぜこんなに騒ぐのだろうとなる。
騒ぎだけが大きくなるとしか思えない、その放射能騒ぎでかえってノイロ-ゼになってしまうのである。毎日毎日放射能がどうだこうだということで疲れてしまうのである。放射能という言葉さえ聞きたくないとなる。別に放射能を意識しなければわからないのである。

2012年02月22日

春の星-飛鳥-俳句十句

 
春の星-飛鳥-俳句十句


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我が訪ぬ飛鳥や遠く春の星

春の星さわに煌めく飛鳥かな


争いなし天に煌めく春の星


鳩のごと天に平和や春の星


春の星飛鳥大仏の微笑かな


国成りぬ飛鳥の宮や春の星


香具山の高くはあらじ春の星


春の星飛鳥に成りぬ宮いくつ


人結ぶ石橋あわれ春の星


橘寺その名のいわれ春の星


寺ありて礎石を踏みて春の暮


飛鳥にそ橘寺や礎にその紋なれや春の星見ゆ


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橘について
http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm


旅をして記憶に残っていれば成功だと前に書いた。何か印象に残ればあとで詩でも書けるけど残らなければ書けない、自然でもそうである。飛鳥は山際であり奈良の奥であり都会ではない、それで春に行った時、星がきれいだった。闇もまだ深い所だったから星がきれいだった。それで夜も歩いていた記憶がある。その記憶にしてもすでに30年とかたっているのだけど記憶が蘇るのはやはりそこにいた時間が長いということがあった。それだけの時間の余裕があったから記憶に残っていた。飛鳥でも奈良の方に行くとすでに都会であり春の星がきれいには見えない、ネオンの光の方が優勢になるからだ。飛鳥はまだ開発されていないから山もシルエットのように暗く星がきれいなものとして記憶されていたのだ。自然でその場所が印象的になるところがある。瀬戸内海の明石城は海に面して春の夕暮れ情緒があった。景色と文化財が城が一体となり美しかった。そういうところは印象に残る。都会化したところは印象に残らない、飛鳥は都と言っても大きな宮殿があるわけでもない、小さな宮の跡しかない、でも飛鳥が日本の国の始まった所だから歴史的場所である。


飛鳥というのが記憶されるのはまた名前が良かったのだ。アスカとは何の意味なのかわからないけどひびきがいい。日本的でもない何か異国のようなひびきなのである。その名前故にひかれるというのも人間である。ただ飛鳥も政治の場所だったというときそこに血なまぐさい争いがあり首塚とか談山神社とかあり物騒な所でもあった。これは政治の場所となった都ではどこの国でもそうである。童話的な所などない、人間の争いと醜さが必ず記されている。人間の社会に争いのない場所などない、それは天国にしかない、その人間の本性は全く21世紀でも変わらない、ただ自分が訪ねたとき闇が深くただ春の星がきらめいていたことが印象に残った。寺の大きな礎石とかも残っていた。飛鳥と言っても特別に何か目立つ遺跡はない、平城宮すら枯野だったから日本ではロ-マの遺跡のように歴史が残らない、だからアスカという名前だけから都を詩的にイメ-ジするということもある。阿武隈高原の都路(みやこじ)なども都でも何でもないけど山里だけどその名前だけで都をイメ-ジするから不思議である。飛鳥は歴史的から裏付けがある日本の国の興った所であるから別であるがそれでもあのような山里が都だったのかとなる。それで名前だけが印象的なものとして残るということがあった。


ともかくその時自分は何の拘束もなく飛鳥をぶらついていた幸福があった。人間はつくづくそうした幸福な時間のことがわからない、そういう時間もなくなりその場所に行けなくなるというときその時間と場所にあったことが幸せの時間だったとなる。別に近畿の人だったら簡単に行ける場所である。でもみちのくとなるとそれなりに遠いところなのである。その遠さによって価値がでてくるということもある。故郷だってそこに住んでいるとその良さがわからない場合があるからこそ「故郷は遠きにありて思うもの・・」とかなる。故郷を離れたとき故郷が輝いていたとなるのはそのためである。人はそこに住んでいれば心がにごってくるのだ。遠くは何か理想的なものとしてイメ-ジしている。実際は違うにしろ現実とかかわらない遠くに憧れのである。春はやはり近畿の方が一段と春らしい、自然と人間の栄が一体となっているからだ。まだ自然の美しさも残っているからだ。大阪は芭蕉すら繁華であり嫌って句も残していない、でも大坂城の夕日に映えた桜は格別だった。
やはり西の方が桜の色は濃く春の太陽は一段と燃えて輝いている。

 

春の星(spring star)-抽象画


春の星(springstar)-抽象画


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2012年02月23日

star variation(抽象画)



    star variation(抽象画)


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海溝

2012年02月24日

春の日(原町へ-黒い土はそれほど問題ないのかも)


春の日(原町へ-黒い土はそれほど問題ないのかも)


原町にはや鳴きそむ雲雀かな


春日さし隣の木に移る影


誰か住む山陰の道春の雲


春の日や遅き歩みに帰る道


原町というとき相馬市に行くのとは違う、原町には何か新しい街のひびきがあるし現実そうだった。明治になってから相馬市より原町市が一早く近代化したのである。原町機関区があることがその証明である。その鉄道も閉ざされた。20キロの立入禁止区のすぐそばにある自分の家をのぞいていた人がいた。すぐそこに自分の家があるのに帰れないのも理不尽である。今日はNHKで小高区の人が秋田に避難して帰りたいが帰れないとなげていた。相馬市の仮設住宅には入るが仕事は渡部病院で3月まで復帰を迫られている。病院や他も働き手がなくて困っている。パチンコ屋が繁盛してここも人手不足である。あらゆるところが人手不足になっているのだ。この辺ではこうなると働く人が貴重なのである。もちろん医者や看護師不足は一番問題である。病院だけではない働く人がいないことはあらゆることに影響してくるのだ。

一方で仮設で働かずにいる人も相当数いる。補償金もらっているから働かないという人も多い、これもこの辺では矛盾しているのだ。人間は迫られないと働かないという人もかなりでてくる。それだけ仕事をしたいという人は少ない、だからだらだらなまけてパチンコ屋通いとかになり生活保護で遊んでいた方がいいとかなる人もでてくる。それで外からそれも非難される。秋田に避難した人も双葉や浪江とかの人と一緒に仕事していた。そういう人がこの辺では多いかもしれない、浪江は二万にもいたからその影響は大きい。双葉町だと娘がいると双葉町では結婚とかで問題なるとかそんな心配までするようになる。いづれにしろ仮設でぶらぶらしているのは普通ではない、そこからの脱出がこれからの問題になる。


話題になった黒い土は苔だったらしい、苔を近くで計ったら2マイクロシ-ベルトくらいになっていた。道路は0・1-0・2だったから高いと思った。苔の下は黒い土である。黒い土は他にもある。落葉の下も黒い土である。苔が乾燥して黒い土がむきだしになったのかもしれない、事故のあった原発から飛んできたものだったら大変だった。樋の下の泥も10マイクロシ-ベルトあった。苔や泥にはそもそもたまりやすいのである。それから原町区の山際の大原では道路は3マイクロシ-ベルトであり草むらは倍くらいになっていた。草むらもたまりやすいのである。3マイクロシ-ベルトくらいだったらそれほど問題ないかもしれない、それより大原などはそれだけ高いのだから市街と比べものにならない。だから子供のいる所帯などは避難して老人だけしか残っていない。黒い土はそれほど問題なものではなかったかもしれない、苔や草むらや落葉の下の土はどこも高いからである。


ともかく今日は春だった。原町区は合併するとき雲雀市にしようとか名前があがった。でも南相馬市になった。雲雀市があわないということでもなかった。野馬追いの祭りの行われる雲雀が原もあるし近代化した街としてもふさわしい名前だったかもしれない、ただ歴史にこだわれば南相馬市だったのである。原町は雲雀とかひまわりかにあっている街だった。街にもどこでもそれなりの雰囲気がある。外からちょっと来ただけではわかりにくい場合がある。何か特別特徴がないとわかりにくい、今はそうした特徴がない街が多いから余計わかりにく、いづれにしろこの辺は個性を活かした街作りをするといってもこんな状態ではできない、放射能と関連した街作りになってしまうのである。

山陰の道を帰ってきた、春だからのんびりする。こういうときは自転車がいい、原町は買い物でどうしても行くことが多い。今は飯館辺りでも

福島市に住んだりしたらそっちが便利でいいとかなっている人もそれなりにいるかもしれない、広々とした所でも街に住んでみれば街がいいとなる人もでてくる。ただ団地のようなマンション住まいはいやだとはなる。二つに分かれ村は分断されてみんなが村に帰ることはむずかしくなってくるかもしれない、それは自分の住んでいる場所にも相当影響する。

2012年02月25日

雪のいろいろ


雪のいろいろ


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蝋梅にすでに二度も積もる雪

晩年我が介護して春の雪


深雪に啄木鳥の木霊岩手山


黒々と雪に暮れゆく烏かな


千年の立木観音の根雪かな



蝋梅が咲いたときは必ず雪が降る。梅が咲いたときも雪がふるときがあるが蝋梅は早く咲くから確実に雪がつもる。この辺では春先に必ず雪がふる。これは季節的に決まっている。最初は風花であり冬の最中はほとんど雪がふらない、だから雪は美しいものとして見ている。美的に見ている。会津辺りだと雪国だと雪は美しいとはならない、ふってもふっても払いきれない重荷となっている。

すると、三条、長岡の人間は「雪掻き」と言います。
加茂も「雪掻き」と言います。
一方で小千谷、小出の人間は「雪掘り」と言うようです。
やはり峠を超えた山間部に入った豪雪地帯となると、表現が変わるようです。


うちの夜間アルバイトが、北海道は旭川の人間。
大学生なんですけどね。

結果「雪掻き」もしくは「雪なげ」でした。
「雪をなげる」という表現方法でした。
http://pyonkasa.exblog.jp/17245032/


よく地理的にわからないけどやはり同じ新潟県でも豪雪地帯とそうでないところがある。山間部は豪雪地帯になる。「雪掻き」というとき軽い感じがする。雪がふった、つもった、それをかいてとりのぞく、この辺でも薄く雪が積もるからそんな感じである。たいがい雪かきという感覚である。
ところが豪雪地帯になると「雪掘り」となるときああ、そうか、そういう感じなのかと言葉も生活感覚から生まれることがわかる。屋根まで積もった雪をかいてとりのぞくのではない、雪を掘ってそこに道をつけて行き来する、テレビで見ていてもそれがわかる。とても雪をかいたくらいではとりのぞけない、 旭川では雪投げというのもその土地の感覚なのだろう。雪かきとかやはり軽いものではない、ともかくこの辺では雪の感覚はわからない、風花であり春の雪の感覚である。
でも昨日はあれだけ春の陽気だったのに雪になり寒いと春はまだなのかと寒さが身に沁みる。

 初雪は風花とたとえられるようにひらひらと降りだして、うっすらとあたりを白く覆って、数日で融けてしまう。それから2週間から3週間後くらいから「根雪」と呼ばれる雪が降り始める。
 


 大雪がこわいのは、一つにはこういう雪の重さである。冬の気温によって雪の重さはかなり変わる。北海道などの寒冷地ではさらさらと軽い雪なので、積もっても風で吹き飛ばされてしまうという。逆に新潟県などは北海道よりも暖かい分、湿気を多く含んだ重い雪が降る。こういう雪は積み重なっていくので風で飛ぶこともなく、重たく重たく家やクルマにのしかかってしまう。
http://www.bekkoame.ne.jp/~meza/atema2/atema2.htm


積もったばかりの新雪は非常に軽いのですが、積もっていくにしたがい、自重で圧縮されます。そして、密度が大きくなると同時に雪同士が結合して、しまり雪になります。さらに、気温が高い状態になると雪が融け、ざらめ雪へと変わります。このように、新潟県では普通、新雪→しまり雪→ざらめ雪へと雪質が変化します。
www.pref.niigata.lg.jp/shinrin/rin_nii_200602.html


雪にはいろいろある。これは雪国で暮らさないとわからないのだ。この引用には問題があるかもしれないが引用した。インタ-ネットは全国のこうした生の情報集めるのには適している。

雪の思い出としては小岩牧場で雪がつもり膝まで入って歩いていたことがある。その時聞こえたのはアカゲラの木を叩く音のみだった。アカゲラがあれだけ木を暇なし叩いているのは虫をとるためだった。人間の生活も江戸時代あたりはこういうものだった。人間の営みと自然の動物の営みがさほど変わらない、自然の中に人間の生活は埋もれていたのである。


落葉して遠く成けり臼の音 蕪村


こういうことが日常的に見られた風景である。人の営みの臼をつく音が聞こえるのみで何も聞こえない、落葉して音のみが遠くに聞こえ消えてゆく、そこに人間と自然がおりなす限りないあわれが生まれたのである。飯館村に臼石とかの地名があるのもこういう情景とマッチしていたのだろう。今ではあとに残るのは車の音だけだったとなる。騒音だけしか残らない情景である。都会だったら家とビルだけの風景であり情緒もなにもいのでてある。そうした風景はまだまだこの辺では残っていた。それが原発事故で失われた。ただ放射能の不思議は一見どこが汚染されたかわからないことなのだ。春になれば新緑になり山桜も咲き鳥も鳴くとすればどこが変わったのだろうかとなる。木が枯れたり花が咲かなくなったり水がにごったら深刻でありもう住むことはできない、そういうことがないから別に住んでもいいのではないかとなる。その辺が放射能汚染の一番不思議なことだったのである。

2012年02月26日

家のもっている(家霊)の力 (NHK-家で死ぬということ-を見て)


家のもっている(家霊)の力

(NHK-家で死ぬということ-を見て)

今日のドラマでも家に執着して家で看取られ死んでゆきたいということをテ-マにしたドラマを見た。今どこで死ぬのか死にたいのかということが問題になっている。たいがいは今は病院で死ぬ。
このドラマでは病院で死ぬのがいやで自宅で死ぬことを望み自宅に帰り死んだ。その場所は白川郷でありドラマとして設定した。あそこの家は合掌作りで有名だから選ばれた。代々人は家で看取られ死んだ。だから家への思いが強い。家がそれだけ重みをもっていたのは養蚕などで家が生産の場になっていたからである。白川郷の合掌作りは二階、三階が蚕を置いた。そういう作りは今でも阿武隈山地でも残っている。家の重みは社会の変化と共にあったのであり家族関係も社会の変化によって変えられたのである。農家だったら江戸時代だったら前田とか門田が中心となり生活があった。だからこそ前田という地名が多くそこが家の中心であり村の中心であった。そうして代々生活してきたから家に重みがあった。今は働く場所がみんな家の外になったとき家の重みがなくなったのである。みんなサラリ-マンになってしまったのである。家の重みは家族だけでも作られなかった。村では屋号がついた家が多いのはそこが一つの会社のようになっていたからである。商人でなくても農家でも屋号が名前代わりになっている。ドラマでもそうだった。ただ白川郷は観光地として栄えているのだからその様子は今や現代社会を反映したものとなっているから現実は違っている。外からの人を大量に受け入れて成り立っているのだから変わらざるをえないのである。



家霊は、
住む人の思いで力が強まっていきます。

つまり、自分の家に感謝したり、
自分の家を誇りに思ったりすることで、
力が増していくのです。


住む場所の持っている運気と合わないときは心がソワソワして精神が不安定になる体がに不調を感じる・一人でいると誰かに見つめられているような感じがする・家の中に誰かがいるような人の気配を感じる・家に帰ると気持ちが沈む・極端な場合、家の中に誰かがいて姿が観えるような現象を訴える人もいます。これらの現象は前に住んでいた人の念の作用によることが多いものです


建てた家の階段を上り降りするとき人が横を通り抜けるような気配を感じると相談に来た人がいす。大工さんの両親が亡くなり家を建てているとき悲観的な念を家に込めてしまったのが原因でした。家を建てる大工さんと人間関係は良好にしておくと良いでしょう。
http://www4.ocn.ne.jp/~sti5mti5/toti/toti.htm

 


家というのには本当にその家に長く住んでいた人が以前としている。病院で死んだりしても病院にその人はいない、でも家には確かに死んだ人が以前として霊としてでも住み着いている感じがするのだ。自分の家は築40年以上すぎている。事情は複雑だけでこの家は姉が重に建てたものでありその思いがこもっている。柱は橲原の同級生のキコリの人が太い柱として材料を提供してくれたことを何度も言っていた。白川郷でもユイという組織があり家は村の人が全員で茅葺きの家を作っていた。とすると村人全員の思いが一つ一つの家にこもっている。村人全員の心がこもっていることになる。今日ニュ-スで二本松油井字中田とかあるがこの油井は結いであろう、鎌倉の海岸の由比もそうだろう。
千恵子の家も由比地域にあった。日本全国で村にはユイがあった。 ここで大工さんのことが出てきたが大工さんの念が影響したというのも確かに家作りにしても人間がするのだから大工さんの心の状態が影響するということがある。でも今は家はプレバブのように組み立てる家が多くなったからあまり大工さんのことは考えない、ただ人間のかかわりは単に物を買い売るという貨幣関係だけでいなものが必ず生じる。そこに心の問題が生じてくる。


自分の家に感謝したり、
自分の家を誇りに思ったりすることで、
力が増していくのです。


自分の家を誇りにもつとか感謝するとかそういうことが現代ではあらゆる所に欠けている。現代とは今しか生きていない、今がすべてなのである。だから白川郷のような家の物語はない、団地やマンションのうよな所に住んだりただ住むだけの家にはそれも40年とか住んで建て替えるとかなると家の重みがなくなる。それでも40年くらいでも家の重みはでてくる。ヨ-ロッパの家は200年とか300年とか継続して住んでいるから家の重みがあり歴史の重みを伝えることができる。日本では最近は特に家の重みがなくなった。昔だったら江戸時代だったら庄屋とかがあり村の中心がありそこから歴史がたどりやすかった。今はそうした村の中心となるべきものが希薄化した。農民すら全国民の一割しかいないとかなり農業が国の基でなくなった。それでこの辺では実際は原発が町村の中心になっていたのである。こういう生活の変化が家の重みを喪失させたのである。


だから死でも重みのない死となる。田舎の冠婚葬祭がわずらわしいしいいとはいえない、ただ代々伝えられる家の重みがあって人間も作られてゆく。漬け物のことを言っていたが家ごとに漬け物のつけ方や味が違っていた。そういうものも代々伝えられてきたのである。そういうものも喪失してゆく、文化が喪失してゆく、ではすべて新しいものとなったとき何かそこに重みのある意味あるものを作れたかとなるとそうはならなかった。代々伝えるべきものはなく病院の無機質的環境でモノのように死んでゆく、それは重みのある死ではないから不幸でもあったとなる。家からのパワ-ももらえないとなる。家なんか古いんだ、何でも古いんだというときでは新しいものに何か重みのある意味あるものが作り出されたかとなるただ破壊して喪失させただけだったともなる。

ただ人間社会は変わるのだから人間の生産の場は別なところ移っているのだからそこに思いが移る。それは一生働く会社になったとか別な場所に移った。それでも人間の基本は家に生きて家とともにありたいというのが本能的なものとしてあった。だから家の価値を見いだすドラマが作られたし看取りでも家で死にたいその思いをかなえたいという人がふえてきた。しかし現実的に国でもう金をだせないから在宅介護にシフトさせているのであり家で死ぬということ看取るということは家族自体少ないのだからそれを補う今回のドラマのような村人もいないのだからその重荷を背負わされた人は大変なことになる。ともかく社会の変化で家族も変わったのであり家族も社会によって構成されるということからまねがれないのである。


言えることは家の中には確かに死んだ人がまだいる感じがする。だから古い家などを借りた場合、そこにはそこで生活した人が死んでもいるという感じになる。その家と関係ない人でもそう感じるのはそれだけ家に執着しているのだ。もちろんそこに一緒に住んだ人は死んでもその家の中にいる感じが最も強く感じる。家には家霊が住んでいるというときそういうことなのだろう。家でもそうだが人間社会というのはあらゆるものがモノでもそこから何らかの気が発している。その気に影響を受ける。だから悪い気がでている家、家霊もありそういうところに出入りすると何らか影響を受けるということはさけられないかもしれない、そんなものは迷信だというけど誰も自殺したアパ-トとか古い家に
住めるかとなるとなりにくいというのはやはりそうした所から悪い気が発生するから本能的に嫌だとなる。そういうことを普通にあるとき人はむしろそうした気に左右されているのである。

近くの家は不幸な家族で絶えたがそのあとに若い女性が一人住んでいる。いつもいるという感じではない、でも家も住む人によって雰囲気が変わる。別にそこから悪い気が発しているとは今は感じない、やはり住む人によっても家の感じが変わるのである。
暗い陰気な不運な人が住むと家も暗い感じになり辺りにその悪い気をだすのである。ただそういう家はどこにでもあるからそういう場所をさけて住むことはできない、確かに家はモノでありそのモノも人間と関係しているから人間がモノとかかわりそのモノに影響しているのである。

津浪の跡の朝の雪野


津浪の跡の朝の雪野

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パノラマ写真

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四五本の残れる松や雪野かな


夜の明けぬ凍る雪野に烏かな


村の跡凍てつき朝の浪の打つ


寥々と津浪の跡に四五本の松の残りて雪野の明けぬ


寥々と凍る雪野や夜の明けて津浪に消えし家の跡かな

津浪の跡の景色を見ていると本当に不思議である。この辺は干拓される前はこんな風景だった。それ以後松原と砂浜があったが砂浜は浪の浸食でほとんど消えた。海辺は縄文海進のときは深く海が入り込んでいたから千年単位とかそもそも変わりやすいのである。万葉集の真野の草原が歌われたのは奈良時代である。その時真野の入江があり塩崎まで海だった。そこに船着や市庭という地名が化石のように残っているから港だった。草原は地名だった。八沢浦が元の入江になったとき信じられなかったように美しい入江だったのである。万葉集の謎はそれたけ海辺は景色が変わっているから昔の自然状態をイメ-ジしないと読解できないものがある。だから真野の草原もこれも最大の謎だったのである。


今朝は寒いし雪が溶けない、凍りついていた、こういう風景はこの辺ではめずらしい、雪は消えやすいし春の雪は消えやすいからだ。だから余計に寒々としていた。水たまりも凍っていた。遠くに浪しぶきあがり津浪に壊滅した海老村とかが見える。この荒寥とした風景はいつも何なのだろうと思う。俳句だと写生だからそのまま見たものが今や驚くべきものになってしまったのである。

四五の松が残っている、それか凍てつく雪野の中に残っている、それが驚くべき光景となってしまった。これは北海道の風景である。原野にもどった風景である。原野化したから荒寥としているのだ。残った四五の松が何とも心に凍みるのである。

 
 
 


 

2012年02月28日

一番立派な仮設住宅 (南相馬市原町区のイオンス-パ-の隣にできた)


一番立派な仮設住宅

(南相馬市原町区のイオンス-パ-の隣にできた)


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仮設住宅はまだすべて完成していなかった。南相馬市の原町区のイオンス-パ-の隣にある仮設住宅は今まで見たのでは一番立派だった。写真で見たより木の質感がいいし奥行きが深く部屋が広く感じた。これは今まで見たのとは随分違って立派に見えた。外見もそうだし内部そうみたいだ。
真ん中に廊下があり両側がつながれているのも独特である。すぐ近くがイオンス-パ-だから買い物に便利であり歩いて行けるから車がなくてもここなら街から離れていても不便にならない。

仮設住宅は二年間が期限だけどそのあとも使えるようにするには木の仮設がいいという。あとで建て増しとか木だからいろいろ応用できる。木だからあたたかいみがあるし隣との騒音も遮断できるとかいい点が多々ある。そもそも津浪の被害で家を流された人は簡単に家を建てられないのだから仮設に長く住む人もでてくる。そうなると一時的なものでなくて長く住める場所、借り上げて住む場所にするべきだという意見もある。今回見た仮設はそれに近いものとして使えるように見えた。


原町区では道の駅と市の体育館の脇にもあるが体育館の脇は立地が悪い。体育館の建物にさえぎられて日がささず暗いのである。住む場所は建物自体もそうだが立地も問題になる。立地が悪い場所は原町区の体育館の脇と鹿島区の小池にある所だった。それにしてもまだ仮設住宅を建て続けていた。

それだかけ仮設が必要であった。南相馬市の人でも市内から外に出た人がいて帰ってくるために建てたのかもしれない。一、二割は長く仮設に住むようになるのではないか?小高区の人などは警戒区域が解除すれば帰れるだろうがなかなか帰れない人たち、津浪の被害者などは家がないのだから帰れないのだからその人たちの住宅はまた別なものとして建てる必要が出てくるだろう。相馬市では老人の施設として長屋風の住宅を建てるとか今はそういう安価なもので老人用の施設が必要になっているのだ。

ともかく仮設住宅は一時的なものであり住んでいる人も回りの人も落ち着かないのである。回りでもいづれすぐにいなくなるとか住んでいる人もここにいつまでもいるわけではないとかなると何か落ち着かない状態がつづいているのだ。何軒か新しく家も建っているからこっちに住居を移す人もでてくる。ただ金がないと家は建てられない、津浪の被害者と原発事故の避難者は事情が違っているから分けねばならない、この辺では両方の被害者もいるから困る。津浪だけの被害者は補償はないが原発事故の被害者は補償があるからまた違っている。イオンス-パ-の隣の仮設は点検していたからまもなく入れる。すでに募集ししているだろう。あそこに入った人は得である。
posted by 老鶯 at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

東風(こち)が吹きはじめた (3月11日は不運が重なったと同時に権力の横暴が暴かれた日)


東風(こち)が吹きはじめた

(3月11日は不運が重なったと同時に権力の横暴が暴かれた日)


海よりし東風(こち)吹きはじむ不運かな


今日強くはないが海の方から東風(コチ)が吹いた。今頃になると東風が吹きはじめるのだ。
3月11日の時、この東風が東南の風が海の方から吹いた。その後に雪となり浪江や飯館村の方に
放射性物質が大量に流れたのだ。一種のプル-ム・・雲の固まりのようになって流れたと学者が指摘していた。2月までは風は北風であり北西の風であり東風はまだ吹き始めない、3月になるとこの辺では東風が吹き始める。

北風だったら浪江の阿武隈山地や飯館村の悲劇は起こらなかったかもしれない、海側は比較的放射線量が低くかったのは風も関係していたし海側に半分流れたのである。原発から5キロの煙突が見える
請戸でも放射線量は一マイクロシ-ベル以下だった。そんなに低いのかと驚くべきものだった。
つまり放射性物質は風の影響も大きかったのだ。そんな近くでそんな低い放射線量になっていたことが証明している。放射性物質の固まりが不運にも雲のように一塊になり浪江の山の方と飯館村に流れ福島市や伊達市や郡山市まで流れたのである。もし北風が吹いているときだったらこうはならなかったろう。雪がふったのも不運だった。飯館村などは不運が重なったのである。

今年は寒いから東風が吹くのは遅いかもしれない、でもやはりすでに吹きはじめているからやはり3月になればさらに東風が吹く頻度が多くなる。3月11日は不運、不吉な日だったのである。

放射能がこれほど風に影響されるものだということをスピ-ディを巨額の金を使って作っていたのだから予測できたけど知らせることをしなかった。最初に知らせたのはアメリカだったというから自国での安全管理もできないのが原発だった。アメリカ頼りだったのである。最初にマ-ク1の古い原子炉を導入したときもアメリカの意向がありアメリカ頼みであり自国の安全を自国で計っていなかった。なぜ地下に非常用電源を置いたのか?それはアメリカでは竜巻が怖いから地下に非常用電源を置いていた。日本でもそれをまねて地下に置いた。これも日本側の安全対策の馬鹿げたミスだった。
日本で怖いのは地震とそれにともなって起きる津浪だったのである。こういう危険なものを他国まかせにしていたため起こった。福島第二原発は自国で改良したものだから事故をまねがれたという。

アメリカでは地震、津浪が怖いから西海岸には原発を作っていない、東部に作っている。日本では
地震、津浪があるのにあえて海岸に作り津浪対策もしていないのだからいかに日本が安全対策していない、のんきなものだったかわかる。なぜそんなことが許されたのか?

それは戦争と同じだった。アメリカの強大さも教えられず無謀に戦争に突っ込んだのと同じである。いろいろなことを知らされずに戦争に強いられたのである。そこで権力による情報操作が行われていた。文部科学省も深くかかわっていたのだから驚く、子供に安全神話の洗脳教育をしていた。しかし誰も指摘するものもいなかった。これは戦争と何らかわりないものだった。つまりその構造自体日本では何ら変わっていなかったのである。戦争のときも官僚であれマスコミであれあらゆるものが戦争へと一丸となって突入したのである。そこには必ず情報操作が行われる。戦争して負けるかもしれないなどと言えば特高に連れていかれる。原発もそうだったのである。

権力による情報操作は常に行われている。テレビであれ新聞であれ雑誌であれ出版であれ常に権力により情報操作されたものとして出されているのだ。それは創価が新聞社に聖教新聞をすらせて権力で情報を操作しているのと同じ手法である。幸福の科学にも支配されていると
なると宗教団体も強大な権力で金でマスコミを買うことができる。東電は莫大な金でマスコミを買収していたのである。

雑誌のwillの記事をみたまい、信じられない、原子力で日本を復興とかそこで執筆している人は今や信じられない、いかに知識人がでたらめなのかこれでわかる。戦争のときただ戦争を讃美していたのが知識人だったのである。莫大な金が流れるから官僚でもどこでも買収できたのである。その結果として民衆は犠牲になった。400万人死んだし原発事故では故郷を奪われ住めなくなった犠牲がでた。
しかしなぜそうなったのか?深く考える人は地元でもいない、地元にはアメを金をやればいいとされ地元もそれに従った。その結果として故郷にすら住めなくなった悲劇が生まれた。


情報は権力によって操作されたものしかでてこない、アメリカ自体も今やそうでありイラク戦争などに突入したのもそうだったと今反省している。一方的な情報しか権力に操作された情報しか入ってこなかったのである。巨大な権力化したもの、会社でも宗教団体でもそういうものがいかに危険なのものか認識していないのである。「権力で社会を動かすことができる、まず権力をとることだ、掌握することだ」何が正義だとか安全だとかより権力で操作するということがまずある。つまり権力自体が人間にとって危険なものなのである。キチガイに刃物である。そうした危険な団体が権力をもったとき誰ももう歯止めができないのである。オウムだってオウム王国だといって権力をもとうとしていた。それだって馬鹿げたことではない現実化することがありえたのである。政府と東電が一体となり
オウム化していたということに驚いたからである。権力が巨大化するとき誰も制御しよがないから怖いのである。



原発もそうだけど自国の安全、防衛もアメリカ頼りだよな、
戦後は原発もアメリカ頼りで日本滅亡の危機にひんするミスをした
日本は何でもアメリカ頼りで滅亡する
自国での防衛とか安全を作る時期にきた
TPPもアメリカ頼りだから危険なんだよ
今やアメリカ人自身が言っている
アメリカ自身が変わりアメリカに追随する国はアメリカとともに壊れてゆくと・・・
 
posted by 老鶯 at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連