2012年02月01日

冬の月(夜に相馬市の病院に)


冬の月(夜に相馬市の病院に)

鹿島から相馬の駅や冬の月


城下町心一つに冬の月


良き医者の地元にあれや冬の月


今日は八時ころまた病院に行った。たいしことではないけど苦しくなるから困る。それでも電車が通るようになり安心になった。緊急の場合に困るのだ。大雪で栄村で九二才の人が話していたけど何か緊急の病気なると困ると心配していた。それなんだよ、一番困るのは、それにしても九二才で雪かきしていたり良くやっているよ、でも一人だから最後は限界が来る。まさに限界集落なんだよ、テレビで在宅で看取れるように援助しなければならないとサ-ビスをはじめた自治体があるけど二つの要因が重なった。一つはもう病院でめんどうみきれない、金がかかりすぎる、それも限界に来ている。
もう一つは自宅最後を迎えた方が本人にとって幸福だということみんな考えるようになった。
実際に直らないにしても改善することがあったというのはわかる。

隣で料理をしているなど生活の音が聞こえることは病院とは違う。日常の生活空間にいて最後を迎えるのである。ただそれをするとなると家族だけでは大変になる。八〇才くらいの夫婦でどちからか介護している人も大変である。もちろん一人暮らしはさらに大変である。高齢化でそういう人が増えてくるのである。だから広い地域は在宅で介護する人の家を回って歩くだけで手間がかかりすぎるのだ。時間がかかりすぎる。だからコンパクトシティとして一カ所に老人で集まっていれば楽である。
自給自足の生活でそれであとは医療サ-ビスなど受けないで死ぬという時代ならいいが誰かが世話するとなるとその手間が大変である。世話する方になるとコンパクトシティの方がいいとなる。
第一この辺の問題は福祉どころではない、若者が流出するとか老人を世話する人がいなくなる。
福祉ではもう他の都市によりまともなサ-ビスは受けられない、それだけの余裕がなくなった。


夜の緊急医療だと今は金が相当とられる。五〇〇〇円はとられた。それだけいろいろと医療も金のかかる時代であり保険だけではまかなえきれない時代になった。だからある程度重篤な病気になったら死を覚悟して早めに死ぬ方法を選ぶ他なくなる。今までのような手厚い看護は限界に来ている。
ある程度もう死期がきたらあきらめて自ら選択する時代がくるのだろう。でも六〇代で死ぬのは今では早すぎる。七〇以上になるとあきらめるという選択もでてくる。介護する家族がいない人はそうしてもらった方がいいだろう。

ともかく医者はいろいろであり今回の医者もこうしたらいいのではないかとアドバイスししてくれた。そういうこともできるのかと思った。医者はみんな違うことを言う、だから一人のお医者さんだけにみてもらっているとどうしていいのかわからなくなる。そういうことができるのならしてみたいと言っても指導を受けねばならないしみんなできるわけではない。いい医者がいる地域は得している。

栄村の秋山郷は秋山紀行で有名であった。その本を読んでいたので栄村が秋山郷だったのかと知った。秋山郷は秋山紀行が残ったので興味をもつ人がいるだろう。当時の山の生活がわかる。米はあまり食べていない、粟が多い。粟は米同様に食べられていたのだ。仙台藩で米を作るために津波が来た土地まで開拓しようとしたのは米がその土地で食べるより江戸に運んで売るためだった。商品として生産していたのである。三分の一が仙台の米だったということには驚く。スペインとの貿易をもくろんだのも津波が来て一か月後というから驚く。それだけのことを津波の災害のすぐあとに目論んだことに驚く。それは津波の被害にもめげず民衆に夢をもたせるためだったとか解説していた。こういうことができるのはやはり別に民衆の合意とか議員の合意で決める必要もない、藩主の独断でできるからこそ実行された。君主制ならそういうことができる。今なら必ず何でそんなところに金を使うのだと民衆自体も反対するからできなくなる。そんなこと無駄だ、もっと津波の被害にあった人たちのことを考えろとなるからだ。現代は何にしろ心一つになりにくい、今日はともかく冬の月が輝いていた。寒いから冬の月がさえていた。

2012年02月02日

枯葦(老いて故郷を想う)


枯葦(老いて故郷を想う)

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クリックするとはっきり見れます
縮小しているのでぼやけています


故郷に老いていつくや冬の草


仲間かな夕日に向かい冬の雁


枯葦の川面に写す夕べかな


異なれる色に装う鴨の群れ


我が庭の石に向かうや冬の月


故郷に老いて悲しく冬深む



白鳥の白き群れかな映えにつつ夕日のさして今日も暮れにき


北上川柳芽吹けど啄木の帰れざるかな悲しかりけり


川原に枯葦静か夕日映え水面に光反射するかな


一本の松は変わらずここにあり池の凍りて夕星(ゆうづつ)きらめく


故郷に苦しみ悲しみ喜びをともにしあれば離れがたしも



人間は明かに年とともにまた今回のような津波のような被害を受けたりすると見る眼が変わってくる。いつもの真野川であり普通何も感じない、でも今日見た光景は一段としみいる風景になっていた。特に枯葦に夕日の光が反射していたのは一幅の絵だった。写真も絵のように見れることがかなりある。写真は明かに絵に近いのである。この写真は別にこの風景がいいと思ってとっていなかった。ともかく習慣としてデジカメの場合、無造作に何枚もとることが必要なのだ。これもその一枚でありこんなふうにとれていたのかと写真を見て感心した。実物はこういうふうに見ていない、実物の風景は刻々変わるから記録できないときがあるのだ。偶然とれていたものをあとで感心して見ることがある。そして俳句や短歌にしている。若いときはいくら同じ川にいてもこういう風景に何か感じることがない、老いというのはまた感じやすくするのだ。自分の場合二〇代ですでに老成していたし体が弱いから長生きしないと思った。自分は若くして老成していたとなると六〇代になって本領が発揮されたとなる。いづれにしろ若いときはこうした風景にあまり感じないだろう。何かこの寂寥とした風景が身にしみる。この川も津波で樹が猫柳の樹が流されていた。津波の圧力は尋常じゃなかった。洪水では樹も流れないが津波は流してしまったのである。


人間はやはり生物の一つだからだんだんその土地にいつくというか樹や石のようになってゆく。それが自然なのである。だから原発事故で老人が移住するということは辛いことなのである。農家の人などはやはり村の人たちとの一体感がありそういう点でも都会とは違っている。人間の共同性が育まれるのはいろいろあるけど土地があり自然があり家族がいて仲間がいる時である。仲間というとき冬の雁が隊列組んで夕日に向かって飛んでゆくのを見た。あの雁はみんな仲間なんだなとつくづく思った。子供の時みんなで遊んだことがなつかしい。その時みんな仲間だった。だんだん仲間が競争相手となり敵とてってしまった。人間が連帯感もつのはただ享楽して遊ぶ仲間だけからは生じないだろう。夫婦でも互いに苦労して喜怒哀楽をともにして家族となる。故郷でもそういう仲間だったら共同する。ただ最近は金が力を持つときそういう共同も失われた。金持ちは共同する必要はないからだ。便利になるとまた共同がなくなる。いいことがあって悪いことがある。それが人間の社会である。
自然にひかれるのはなんと無邪気なんだろうかいうことにある。人間にはそうした無邪気さが失われている。欲の皮がつっぱりなんという変わりようなのか、同級生でもそうだろう。人間はこんなに変わってしまうのかという驚きと失望である。


ともかく故郷に住めたから幸せだということもある。啄木は東京で故郷に帰れず死んだ。柳が北上川に芽吹くのを眼に浮かべて望郷して死んだ。一方で原発事故で確かに東京の方に移り住んだ人もいるから啄木とは違っていても故郷を離れ暮らしている人たちがいる。会津の方の仮設住宅に住んでいる人もいる。そういう人たちが今故郷をどう思っているのか?小高から南相馬市内に移るくらいだとそんなに感じない。しかし遠くなるとやはり故郷を思うことがあるだろう。

デジカメの写真がそのまま抽象画になっていた (タ-ナ-の絵は最後に抽象画になった)

 

デジカメの写真がそのまま抽象画になっていた

(タ-ナ-の絵は最後に抽象画になった)


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上の写真がなんかの加減で下の抽象画になった

 


前のぼけた夕べの太陽が川面に写った写真がどういうわけかおそらく抽象画になった。
白いのは太陽の光である。抽象画にあえて意味を見いだせば白いのは光でありまた雪でもいいだろう。それに枯葦であれ冬の大地であれ土色になる。


タ-ナ-の絵が最後に抽象画になってしまった、タ-ナ-は抽象画の先駆だった。最近絵が描けなくても絵に興味持つようになった。多少自分でもパソコンで抽象画を描いているかもしれないしやはりデジカメの影響が大きい。写真は明かに一つの絵となりうる。絵を描けなくても写真で絵を楽しめるということがある。絵を身近なものにしたのがデジカメだった。写真は前からそうだったがデジカメだとやはり無作為にとったもので発見したものがかなりある。ええ、こんなふうにとれていたのかとあらためて感心するのがある。この景色がいいとか構図を作って準備してとるのではない、偶然にとれているのがデジカメの写真なのである。


白い線と土色はやはり何かの精神的なものの抽象化である。ただ抽象画を鑑賞するのはむずかしい、どこに価値があるかわかりにくい、自分でも白い線と土色というので自分でこれは何か芸術的でないかと再確認して出してみたのである。


枯葦(老いて故郷を想う)
http://musubu.sblo.jp/article/53415256.html

2012年02月03日

福寿草の芽(デジカメの効用)


福寿草の芽(デジカメの効用)

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たくましき福寿草の芽地よりいず


手水鉢なお凍れども我が庭に福寿草の芽いでにけるかも


我が庭に薄紅色の薔薇二輪買いて置き冬の夕日さし暮る


飯館は雪にあれかしかしこにそ松一本の変わらず立ちあれ

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昨日は寒かったけど今日はあたたかい、でも氷は溶けない、福寿草の芽がでていた。この写真は自分の芽で見たときは小さかった。ところがデジカメでとった写真をふくらんだ大きな芽だった。拡大化したのを見たらこんなに芽が大きいのかと驚いた。肉眼では見えないものが見える。
デジカメは昨日も出したけど新しいア-トを作り出したのだ。これはパソコンと一体化して生まれた芸術である。


山の方を見ると雪がふっている。でもこっちには雪はふらない、山の彼方は雪がふっている。ここの冬景色である。飯館には人が住んでいないけど道路は通っていて池の脇の道には一本の松が立っている。あの松は車が通っているから生きている。でも他はどうなったのか?人が住まずに冬を越す村はどうなっているのか?以前として人は出入りしているだろう。でもなんとも不思議である、飯館村でも雪はさほど積もらない、だから別に放っておいてもかまわない、しかしそれにしても飯館村はこれからどうなってくるのか?そのまま村がなくなってしまうのか、そんなことがありうるのか・・何かそういう異常状態をまだそこに住んでいた人たちも現実として受け取れないということがあるかもしれない、だから帰れると思ってしばらくがまんすればいいのだと思う人も多いだろう。特に老人には多いしそう望んでいる。若い人は将来を考えるから違ってくる。ともかく飯館は山の向こうでも地理的に精神的に結びついている。もともと相馬藩だったからである。

 

啄木の望郷の歌は怨念化していた (原発事故で故郷から離れた人たちの無念と重なる心境)

 
啄木の望郷の歌は怨念化していた


(原発事故で故郷から離れた人たちの無念と重なる心境)

やまひある獣のごとき 
わがこころ 
ふるさとのこと聞けばおとなし


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
 
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし


啄木の望郷の歌は何か怨念のようなっている。何か感傷的なものを越えて怨念化したような凄味がある。肺病で血を吐き出すようにして歌ったからである。現実に二七才という若さで死んでいる。ただその時啄木だけではない、肺病で若くして死んだ人は多いから国民病と恐れられていた。
自分の母の実家の墓にも亭年二七才と記されて肺病で死んだ人が埋められている。墓参りするときその年齢に着目する。するとそこから何か無念というか怨念というかもっと生きたいという切実な声が聞こえてくるのだ。


二七才の死の無念や故郷の墓に刻みて変わらざるかも


啄木の望郷の歌はもし長生きしていたらこれほど凄まじいものとはなっていなかった。若くして死に故郷に帰れないということが切実となったのである。神社は怨霊を鎮めるために建てられたというのもあながち否定はできないだろう。菅原道真の神社が多いのはそのためだというのもわかる。
ただ有名な人だけではない、怨念をもって死んだ人は無数にいる。そもそも六〇年前とかの戦争で四百万人も死んだことが今になると信じられない、それらは無念の死でありそれ故に靖国神社に祀り鎮める。それも怨霊化することを恐れ靖国神社がある。人間の念は実際に凄まじいものがある。恨みの念はそれほど強いのである。だから非業の死をとげた人たちの霊は祟るとか恐れのもわかる。だから靖国神社でも祟らないように鎮めの場所としてある。無駄な死だったとしてかたづけられないから靖国神社がある。


やまひある獣のごとき 
わがこころ 
ふるさとのこと聞けばおとなし


これは故郷を思う動物的本能である。鮭が生まれた所の川に帰って産卵して死んでゆく、そういう本能的凄まじさである。望郷の念はそれほど強いとなる。その時東京と田舎は交通の便がまだ悪く離れていた。新幹線で簡単に行ける場所ではなかったのだ。故郷に住んでいる人は故郷が恋しいなどと思わない、むしろ故郷を離れたいという意識が強い、自分もそうだった。故郷から離れたいから東京の大学に行ったし旅ばかりしたのもそもそも故郷から離れたいからであった。若いときはそういう意識が普通である。でも啄木のように故郷に病気で帰れない、もう死んでゆくとなると望郷の念は切実となったのである。その歌は感傷的に鑑賞できるものではない、強い生の渇望の怨念がこもった歌となっていた。


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに


それほどまで北上川のことが目に浮かんだ。「泣けとごとくに・・」という表現が凄まじいのである。それは怨念化している歌である。その次の


石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし


原発の事故に故郷追われたる
    無念は忘れじたとえ死ぬとも


これは故郷では別にそういうことはなかったが啄木の勝手でそう思ったにしろやはり菅原道真などと同じ様に怨念化していたのだ。原発の事故で故郷を追われた人もそうである。誰を恨んだらいいのか、東電をまず恨むことは確かである。人間の怨念はもしかしたら放射能より怖いかもしれない。人間の怨念はそれだけ強烈なのである。その怨念というか悪い念が自然にも作用して自然災害が起きてくる。今回もその津波の原因が人間のそうした怨念など悪い念が集積して自然界に作用して大災害になった。そういうこともありうるのかと思うほど人間の怨念は凄まじいし強いのである。「泣けとごとくに・・」とは凄まじく怨念化した歌である。感傷的な領域を越えている。東京という自然が少ない所であったことも影響している。別にもし自然があるところだったらこんなに望郷の念が強くならなかったかもしれない、例えば富士山が見えるような所だったらかえって最後の場所としてふさわしい。故郷から離れても富士山が見えるということは日本人にとって最高である。自分も最後に見たいものは何かと思ったら富士山だった。富士山を見て死にたいと思った。だから病院は他の人も言っているが景色のいいところにあるのがいい。なぜなら病院で死ぬ人が八割とか多くなった。すると最後に目にする光景は美しいものであってほしいとなるからだ。

何か穴蔵のような無機的な病院だといやだとなるのだ。いづれにしろ啄木の望郷の歌はあまりにも凄まじいから怨念化している。単に言葉というよりその歌が呪詛のようにもなる。その言葉から熱い血が流れてだしてくる。天才だからそれだけ情念が強いためだということもいえる。ただ人間はどんな人でもかなえられないものがありそれが怨念化する。啄木の歌は望郷という感傷的なものではなく怨念化した望郷だった。この辺で故郷に住めなくなった人たちも怨念化したりするのか?そういうこともありうる。


遙か彼方は 相馬の空かよ なんだこらよ〜と
          相馬 恋しや 懐かしや なんだこらよ〜と


  民謡「新相馬節」です。 私は相馬の生まれですが、数々ある民謡も田舎のお年寄りの唄かと、大した愛着もなく生きてきました。
  ですが、先月、この民謡が思いもかけずテレビから流れ、胸をぎゅっと掴まれました。

  隣の南相馬市から、福島第1原発事故による避難指示で、いま埼玉の施設(学校だったか)に移った高齢者たちが、涙ながらに歌っているのでした。
http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/xaS0Ezh1byW6OKentC4g/


やはりこういうことあった。ただ相馬といっても城のあった相馬市とか南相馬市ではない、双葉郡の人たちだった。そこも相馬藩内であった。相馬と磐城の境にあった地域である。高齢者だと望郷の念は切実になる。土地もあり家もありそこで一生過ごしたからである。それは啄木の望郷とは違っている。故郷に生きたものと故郷に帰れず生きられなかったものの違いがある。ともかく生きたんだからいいとしろともされるが故郷で生きてきたんだから最後を故郷で全うしたいというのは人情である。

かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川


おもいでの山、おもいでの川がありそこにもどり死にたいとなる。浪江は二つの川があったから川に恵まれていた。高瀬川渓谷もあった。浪江に帰れない人もでてくるのだろうか?東京の方の団地のような所に移った人は望郷の念が啄木のように強くなることは確かである。会津の方でも雪に悩まされるからいやだとなるが会津だと自然はあるからまた違ってくるだろう。ともかく故郷自体を失ってしまうことなど想像したこともないだろうしそういうことを過去に経験し市町村もなかったのではないか?ダムに沈んだ移り住んで過去をなつかしみ村の人が集るということは報道されていた。でも今回は規模が大きいのである。浪江でも二万人いたのである。それだけの規模の町村が喪失することは経験しないことだったのである。

posted by 老鶯 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年02月05日

枯木に月-冬の草 (田舎には田舎らしい生活があるべきだった)


枯木に月-冬の草

(田舎には田舎らしい生活があるべきだった)



枯木に月塒(ねぐら)に帰る烏かな


この橋の名はいかなれや冬の月


街道の松の太しや冬の月


家ひそか裏道帰る冬の月


故郷の来慣れし道や冬の草

昨日は原町のイオンの方に買いものに行ったら月がでていた。あそこに川があり橋がかかっている。なぜまたあそこに趣を巻したかというとやはり買い物というのが一つの生活の中でかかせないしそれが仕事になっているからである。ただ不思議なのは裏道というとき今はどこが表通りなのか?
駅前通りとかはシャッタ-通りで表通りではない、表があるから裏がある。今は表というとき六号線の方になってしまう。

俳句は写生であることも自分でまたつくづく感じた。枯木があった、月がでていた、烏がこの時は三羽塒に帰ってゆく、その時その情景にしんみりとしたものを即座には言い現せないものを感じた。
人間は自然をみてすべて即座には言い表せない、感じるものがあっても言葉にならないものがある。ただ枯木に月-烏が帰る夕べ-そういう事実の情景そのものが深いものを現している。つまゃ写生したものがそのまま深い意味を現しているのだ。その写生の情景を読むのは各自違っている。


相馬市では小泉橋を渡るとき情緒を感じた。ここの橋はちょっと大きいけどやはり長い橋ではない。日本ではこういう小さい橋に情緒を感じる。大きい橋には情緒感じない。小さい橋は日常に密着しているからだろう。ただここを車で通るとそうした情緒は感じなくなる。それでこの橋は名前は何なのだろうかと思う。橋の名が気になる。植松辺りの街道の松は太い、松らしい松である。でも街道も江戸まで通じているから街道なのである。それが途中で途切れてしまったから今は街道とは言えなくなっいる。この辺では常にそういう問題が生じてくる。


冬の草というとき田舎にあっていた。冬の草は都会ではないだろう。やはり俳句は田舎でないといいのは作れない、だから田舎では田んぼがあるのが普通である。その田んぼが去年は放置され今年はどうなるのか?田んぼがないということは農家の人でないにしろ田舎に住んでいれば密接に関係している。田んぼないと不安になる。情緒も安定しないのである。ところが東京であれ都会だと田んぼのない世界に生きている人が今は多数である。その人たちは田んぼを意識しないのだ。だから意識的に相当違うものをもっている。江戸時代でも貿易だけで技術だけで生きている人たち住んでいる人はいた。しかしたいがいまわりは田んぼだから田んぼを意識していたのだ。大阪の農人橋とかなると農民が大阪の商業地の中に組み込まれててしまい農民がそうした商業地から田畑のある所へ橋を渡って仕事にゆくからそんな名がついた。これは小さい町でも町はあとから発展したのでありその中に農家がるから特別なことではない。


そもそも田舎と都会は違ったものだった。田舎には田舎らしい生活があるべきだった。戦前までは田舎は田舎らしい生活をしていた。自給自足的生活をししていた。それがあまりにも変わりすぎたのである。田舎の方が今では都会より贅沢をしている。車は一人一台もっている。田舎は田舎らしくあるべきというとき都会のように華美にはなれないとか、贅沢はできないとかになる。でもみんな都会並の豊かさを望んだ。貧しさがいやだというのはわかる。でも都会と田舎は違っている。田舎は田舎らしいとき田舎でありえた。ただ田舎が田舎らしくありえなくなったのはすべて田舎の人の責任ではない、原材料がすべて外国になったときいろいろな変化が大きすぎたからである。ただ都会と田舎は違う、田舎には田舎の生活があるという田舎の人に自覚が失われた。多少貧しくても田舎には田舎の良さがあるとかにはならなかった。どんなことしても豊になるのだということが原発をもたらしたともいえる。

冬の草のように質素でもいい、それが田舎のいいところだとかはならなかった。

田舎は多少貧しくても自然があり質素で質朴でいい、それが都会と違っていいところなのだとはならなかった。田舎の人ほど豊になりたいという欲望、渇望が強かったという面もあった。だから田舎でも今やすべて金だけを追求する結果となったのである。田舎では別に茶の湯、茶道など学ぶ必要もないし金かける必要もない、わび、さび、の世界は日常的な生活にあるのだから別にそうした場をあえて作る必要もないのである。生活そのものが風流になっているからだ。都会ではかえってそうした場を人工的につくらざるをえない、でも作り得ないのである。だから一面千利休が豪商達の住んだ堺から生まれたというのは逆説である。都会的になるとあえてそういうわび、さびの場を人工的に作る必要が生まれたからである。


とにかく今回の原発事故では故郷を喪失して離れ住む多数の人を生んだから故郷とは何だろうとあらためて考えさせられることが多かった。普通は故郷に住めるのが当たり前だからそんなこと考えない、故郷に住むということが別に知識人でなくても農民ですら考えるようになったのである。

2012年02月06日

短き堺の日(詩)

 

 短き堺の日(詩)

淀川と通じ京都と結ばれ
三十石の船の行き交い
京街道の道,長い堤に残り
信長、秀吉、家康が
ここに熱い欲望を抱く
ポルトガルから鉄砲が入り
鉄砲鍛冶が起こり

南蛮吹が伝わり
銅より金銀の精錬
その産地は東北にもあり
煙草が入り煙草包丁が作られ
煙草は四国の貞光町のように
一大産業となり栄えをもたらす
東北の阿武隈山中に今も葉たばこ作る
名の彫られた数々の包丁の名器
呂宋(るそん)助左衛門のルソン壺
黄金の襖に南国の猿
その財故に秀吉に憎まれ
伝説と化したその行く末
一時信長にも逆らう自治都市
千利休が生まれた都市
信長、秀吉に抗う反骨自由の商都
豪商と武将の争闘
生み出された技と富
最初の自転車作りに活かされた
鉄砲鍛冶の伝統
女傑なる与謝野晶子が生まれ
開明の明治の華となる
君死にたもうなかれは
また国家への反骨精神なれや
歴史は重なり継がれぬ
「故郷春深し行々て又行々
楊柳長堤道漸くくだれり」
蕪村の行き来するはここか
土手に残る京街道の道
かしこ遠く離れしみちのくより想う
しかし三成は相馬藩にその旗印を残し
秀吉も会津に来れり
いつしか堺は忘れられその跡は
ただ遠き日の伝説にあれや
るそん助左衛門はいづこに消えし
その跡をたどるもならじ
往事の栄し面影は消えぬ
(淀川に京街道や冬鴎)

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2012年02月08日

石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)


石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)

 

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袖の渡しの松は残っていた

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この松は枯れるだろう
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遠くに田代島-網地島が重なり見えた



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この寺だけが残り前の住宅地は壊滅した

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千人風呂とあるからまだ風呂に入れない人がいるのか?
共同の風呂なのか?



冬鴎車窓より見て亘理かな


風花や仙台の通り鳩歩む


松二本根元結ばれ冬深む


津波後冬満月の照らす海


冬満月海を鎮めむ津波跡


(袖の渡し)


津波にも残れる松や我がよりぬ袖の渡しや冬の日暮れぬ


石巻悲しみ深く冬の暮残れる松に我がより去りぬ


この河を津波上りて大川の小学校の悲劇語り継がれむ


(日和山)


日和山松風鳴りて残る雪かなたに重なる島二つかな


冬のくれ牡鹿半島の小さなる島一つ見ゆ日和山かな


みちのくに我が住みにつつ日和山冬に上りて沖に船見ゆ


日和山松の太しも船を待つ冬にしあれど我がより去りぬ


日和山上りて遠く松島の島一つ見ゆ冬のくれかな


石巻海の光りて冬の暮日和山に松風鳴りぬ


日和山松島近く瑞巌寺ありしを思ふ冬のくれかな


 

凄まじき津波の跡に墓残り松風鳴りて冬の日暮れぬ


街中を津浪の襲う石巻傷跡深く住む人語る


津浪にて流さる家のその跡やたずねてあわれ北風の鳴る


石巻なお死ぬ人ありにしと傷跡深く冬の日暮れぬ


石巻相馬の津浪語りつつ北風鳴りぬ海に面して


生き死にのくりかえしつつ人の生津波襲うも定めなるかも



石巻まで行ってきた。津浪の被害のことはその場にたたない限り実感がわかない、テレビで見ていても実感がわかない、テレビでも写真でも一部を切り取ったものであり実感がわかない、人間はやはりその場に立てば五感が働く、視覚だけではない、情も働く。自然でも人間でも物でも人間の情がうつる、反応する。だから津浪の被害は確かにテレビで見ただけで写真でも悲惨なのだけど本当の実感はその場にたたないと実感できない、感覚的にわからない。物見遊山で観光で津浪の被害を見物すべきではないというのも言える。でもそもそも津浪の被害のひどさはその場にたたないと実感できないのである。それで石巻に行ったのは自分で確かめてみたいからだった。北上川沿いは意外と家が残っている感じだった。実際は土地の人からすると当時はひどかった。空き地になっているところ結構あるけど家も結構残っているなと感じた。近くで村自体消失した一軒も家がないところを見てきたので特にそう思った。松川浦とにている。山陰の所は家は残っていた。


でもあの川沿いを上って大川小学校があり悲劇が生まれた。津浪で川は危険である。でも川沿いに意外と家は残っていた。津浪は一回だけではない、何回も来る。一回目はたいしたことがない、そのあと大きなものが来る。石巻でも何度も津浪がきた。あとのほうが大きくなった。磯部でも最初たいしたことがなくて油断した人がいた。水があがってから車で逃げて助かった人がいた。津浪が来てから助かる人もいる。日和山の海岸に面した所は全滅だった。昼間で働いていた人たちも犠牲にあった。水産加工場が多かった。車で逃げた人も死んだ。やはり渋滞になったらしい。後ろの日和山に逃げれば良かったように思うが車だと物を積めるから車で逃げたのかもしれない、着の身着のまま逃げるというより何か車に積んで逃げようとしたときそれが徒になったのかもしれない、日和山がすぐ後ろにあるのだから歩いて逃げた方が助かった。ただあの辺の状態がどうなっていたのかわからない、寺が一軒あり無残にそこは墓だけが辛うじて残っていた。あとは家は全滅だった。寺は墓を守っているのだから墓は残ったといえ肝心の家は全滅したのである。あそこは一番悲惨だった。墓が残るより家が残ってほしかったと思っているだろう。


日和山の喫茶店で話ししたが高いところは何ら被害受けなくて良かったですねと言ったらみんな被害にあった人と関係しているからそういうことはない、下の水産加工場に勤めていて死んだ人もいる、今日も死んだ人の所に行くとか言っていた、まだそうして死ぬ人がまだいるということである。だからまだ観光というわけにもいかない、日和山の下には多数の死者が出たから手を合わせる、供養しなければならないような状態である。ただ日和山にはいい松があり景色もいい、宮城県沿いの石巻までの海岸線の松は全滅というのではない、半分くらい残っているみたいだ。石巻でもそっくり松原が残っていた。衝撃がそれほど強くなかったのか?相馬の方の松はほぼ全滅だった。ただ宮城県は全般的に福島県の浜通りより津浪の被害は大きかった。海岸に面した地域が多かったからである。石巻の被害は街の中まで及んだ。駅まで津浪が来たというのには驚いた。それだけ広範囲に津浪が来たし人家が多いから被害も大きかった。店を閉めたり空き地化している所も所々見える。こんなところまで津浪が来たのかと驚く。だから石巻はもう十年くらいは津浪の被害が尾をひく、神戸でも十年かかった。まず津浪で全滅した海に面した所には前のように家はたたないだろう。そうするとそのまま生々しい津浪の跡がそのままに残ることになるのだ。だからまだ観光で訪ねような場ではない、日和山の下で多数の死者がでている、その上で観光気分になれないし地元の人もそんな気持ちになれない、供養するとか寄付とか復興の応援をかねて訪ねるようになる。でも日和山からの風景は実にいい、その美しさまで否定することはないだろう。


今度はなんとか相馬-原町間が電車が通るようになったので遅く帰ることができた。バスの外は冬満月だった。海が近くなったから海を照らしていた。月でも地球に関係しているかもしれない、天体が地震とも関係しているかもしれない、月も太陽も星も宇宙も全体として関連している。ただそれがまだ人間はすべてわかっているわけではない、だからこそ想定外のことが起こるのだ。ただ津浪も人間が縄文時代から生死をくりかえしてきたなかで必ず津浪は何度も来ていたのだ。それは海側に住むものの定めだったのである。そういう自覚がいつのまにか忘却してしまったのである。

posted by 老鶯 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年02月10日

複雑化する細分化する社会は誰も責任をとらない (パソコンの故障とにていた原発事故)

 

複雑化する細分化する社会は誰も責任をとらない

(パソコンの故障とにていた原発事故)

●パソコン化しているテレビの故障


テレビはデジタル化して番組もふえたし教養番組もふえたから見ることが多くなった。でも操作が結構めんどうになった。パソコンをやっていたからなれているにしてもボタン一つで操作していたのとは違っている。認知症になると機械の操作ができなくなる。テレビのボタン一つ、エアコンのボタン一つ操作できない、するといちいち押してやらねければエアコンも使えない。テレビは前はリモコンでもポタンいくつか押しさえすればよかった。今はいろいろな機能が増えてパソコン化しているのだ。東芝のレコ-ダ-が「UPDATE」ととなり操作できなくなった。updateはパソコンで知っていたから
ソフトが入っていてアップデイトしているのかとそれも無線で衛星放送からソフトをアップデイトしている。それが原因で故障になった。東芝の相談センタ-に電話してもつながらなかった。その不具合を知ったのは2ちゃんねるだった。インタ-ネットだった。そこで東芝のサイトでUSBにダウンロ-ドしたソフトをさしこむと直った。これは明かにパソコン化しているレコ-ダ-だった。パソコン化するとパソコンが前は不具合が頻繁におきていたように故障が多くなる。ソニ-のテレビも記憶できるのだがそのBDが二回も記録できなくなった。機械が複雑化高度化してくると故障が多くなるのだ。


パソコンは初期の段階はそういうふうなものとしてしかたないとして使っていた。とにかくソフトで買っても使えなかったり外部の危機を接続しても相性が悪いから使えないとなっていた。それがテレビがパソコン化してきたとき同じことが起きた。どうしても見る番組が増えると記録するハ-デデスクが必要になり外付けのハ-トデスクを買ったがこれも一発でつながらない、認識されなかった。こういうことはパソコンの初期段階ではよくあった。でも最近はほとんどなくなったしパソコンは簡単に壊れないようになった。だからテレビもそうなったのかと思っていたがテレビはまだパソコン化するのに遅れていた。そこでソフトの問題が起きている。初期のパソコンの時は会社がみんなぱらぱらでありどこが悪いかわかりにくいから必ず相談しても買った本人が悪いことにされていた。複雑だからどこが悪いのかわかりにくい、すると・・・が悪いのではないですか、私の会社では責任もちませんとなっていた。外部機器の方が悪いとなれば責任をもたないし自社のパソコンでもどこが悪いか特定しにくいから責任をもたない、それで買っても使えなくて損した人はいくらでもある。そういうことがテレビがパソコン化して起こっている。


●細分化した部分の集合の社会は誰も責任をとらない


官僚の決まり文句では「私の担当ではないので責任はとれません、私の部門ではないので別な部門で聞いてください」というのが普通にある。するといろいろな部門が多すぎると何かあっても誰も責任はとらない、私の担当の部門ではありませんので責任はとれませんとなる。初期のパソコン時代はそうだった。様々な会社がかかわるにしろつなぐ線まで会社によって違っていて相性が悪いとかで使えないものがかなりあった。一つの会社でないのだからどこが悪いのかもわからない、それで線が悪かったとかわかるまで大変である。私の担当の部門には問題がありません、他のものが悪いのではないですか、必ずこういわれて誰も責任をとるものがないしソフトは複雑だからソフトの不具合となるともうどこが悪いか聞くこともできない、使えなくてもあきらめた人はかなりいる。パソコンはそういうものでありあきらめていたのだ。東芝のレコ-ダ-でもハ-ドディスクは別な会社になっているからその時とにている。ソフトの不具合とかなるとめんどうになるからだ。

現代の社会は無数の細分化された部分の集合体として機械であり社会も組み立てられている。だから部分を知っていても全体を知る人はいない、病気でも体の部分を見る人はいる、でも体全体を診る人はいない、部分に詳しい人が尊ばれる。耳であれ鼻であれ肝臓であれ腎臓であれ体の部分を診る人に別れている。現代の社会も無数に部分化した細分化した専門化した社会である。文学でも俳句雑誌があり短歌雑誌があるけど実際は一つのものでもいいはずだがそうはならない。サイエンスというとき宗教もサイエンスとして取り上げていた時代があった。サイエンスは科学は総合的なものとして人間を研究するものだった。その科学が無数に部分化して専門化してしまった。人間自体もただ単なる一つの機械の部品のように見られるようになった。全人間などというと異常な人間でありアウトサイダ-にされてしまう。社会の部品に収まるとき、ともかく・・・員として組織に所属するときその時その人が現代の社会の一員として認められるのだ。それは宗教でも同じであり・・・会員となっているときその時その人は社会に認定される。どこの会員でないものは何物なのか?得体の知れないアウトサイダ-にされるのだ。


●原発事故も誰も責任をとらない


原発事故もやはり現代社会の特有なものとして起きた。何か特殊なものではない、現代社会で起きた事故だからパソコンやテレビの故障と同じになる。原発はそもそも巨大な技術の機械の部分の集合体である。誰も全体を知り得る人などいない、どれだけ複雑な集合体の装置なのか、原子力の科学者は本当は原発のことなど全然知らないという、その学者が説明しても本当はわかっていないから御用学者として安心させるために嘘を言っていた。知っているのは原発を作った東芝とか日立とかの技術者であった。原発は東大であり何であれ学者がすべて知っているようなものではなかった。それは技術の巨大な集合体だからそうなる。最初に建てるときには土木技術でありそれから原子炉や配管やら電気技術など様々な総合体だからその全部を知る人は誰もいない、でも最初の段階で土木技術の段階で安全性をないがしろにしたことは素人でもわかった。高く盛り土して作る計画だったのが低くした結果、津浪に襲われたのである。非常用の電源も地下に置いたことが致命的だった。

土木技術にしても電源の問題でもそれぞれ切り離さず総合的に考えて作る必要があった。総合的見地から安全性を計る必要があった。中央司令室がすでに電気が通じなくなったからその時点で操作不可能になった。パソコンのソフトが動かなくなり使えなくなったのとにている。福島第二原発は中央司令室が操作できたから紙一重で助かった。こうした細分化した社会では誰が悪い、何が悪いとかいろいろ糾弾しても誰も責任をとらない、政府すら責任をとらない、保安院もとらないし東電もとらない、原発を作った東芝や日立でもとらない、マスコミも責任があってもとらない、それは戦争のときと同じである。どこが悪かったのか明確な責任をもたないのが現代なのである。


原発は初期のパソコンともにていた。初期のパソコンは故障して当たり前、ソフトはつかなくても文句言うな、自己責任だとかなっていた。外部機器でも会社は責任をもたない、ソフトが悪いとかパソコンが悪いとかですんでいたのである。そういう情報をやりとしりしていたのはパソコンを使っていた人たちであり最初はそうしたパソコンの使用者がパソコンを技術者と一緒になり開発していたのである。実際にパソコンは今からする高いから金をもっていないとできない代物でもあった。技術開発の初期にはそういうことが起きている。原発も最初日本にアメリカからもたらされたとき、マ-ク1という古い原子炉であり危険なものだと作った技術者が指摘していたのである。原発は最初は成熟した技術ではなかったか。そういう古いまだ未熟な原発をあえて導入した人たちにも問題があった。

どれくらい危険なものか調べもしないで導入したのである。まず金になればいいというのが最初にあり危険をかえりみず先に金であり安全は二の次にされた。だからこそコストカッタ-といわれた社長が安全性よりもうけを優先して作った。津浪を想定して盛り土して高くすると不便になる。金がかかるということで低くして海に排水しやすくしたりした。非常用電源を地下にすべて置いたのはアメリカは竜巻を恐れてそうしていたので日本もまねたのである。津浪を想定していなかったのだ。地震国であったのにそこが油断だった。日本とアメリカの風土を考慮しないで技術を導入したのが問題だった。風土の問題は科学技術の面でも重要なのである。そうした危険なものを導入するにはいかにその国の風土や歴史とか様々な分野の総合的な考察が必要だった。その総合的に考えることが現代ではしにくい最大の弱点でありそれがとりかえしのつかない事故につながったのである。


現在、日本中で鉄筋コンクリ-トが崩壊の兆しを見せています。そういった手抜き工事のほとんどが東京オリッピック(昭和三九年)以降の高度成長期に作られたものだということです。材料をけちり、工期を短縮してただひたすら純利益をあげることのみに邁進するどんなインチキ仕事でも数さえこなして金儲けすればいいという風潮が高度成長時代にあったのです


70年代に建設されたコンクリート構造物が2005年から2010年ころに一斉に崩れ始める
http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans040.htm


機械でも古くなれば故障が多くなる。そういう原発がマ-ク1の原発が他にもあるし40年とか使っている原発があるけどそのままにしている。コストの面からしたら古くても使っていたのである。原発は特に危険だからそうであってはならないにしてもやはり高度成長時代の感覚がありともかくコストの面から安全性をないがしろにされたのである。人間はつくづく個人的にも怠惰である。古いものでも金がかかると使っているし津浪の危険も人間が怠惰であるから起こったということもいえる。400年も津浪が来なかったら人間は津浪のことをリアルにイメ-ジすることができなくなっていた。

ともかく人間の作ったもの技術であれそういうものは不完全であり壊れるのが普通である。原発はなおさら危険なものだからそういう認識があってもいいのに「安全神話」にまで作り上げられていたのが事故の原因だった。人間の作ったものはいづれ故障したり破壊されたりする。そういうことは機械では常に起こることである。原発だけは起こりえないという「安全神話」が馬鹿げたものかわかる。それはただ権力をもつものによって情報もすべて操作されたからそうなっていたのである。戦争のとき日本は神国だから絶対に勝つと言って400万人死んだのともにている。神は絶対だけど人間の成すことに絶対はありえないのである。科学は今や宗教に近い絶対化しているから事故が起きたのである。

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2012年02月11日

東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった (津浪の共通体験でそれがわかった)


東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった

(津浪の共通体験でそれがわかった)

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雪残る鳴瀬川や朝の海


冬鴎車窓より見て亘理かな


どうしても津浪とか原発事故がクロスオ-バ-してくる。これはさけられない、その影響は余りにも大きかった。石巻の津浪の被害は甚大だった。宮城県は津浪に関しては被害が福島県より何倍も大きい。石巻でも市街が津浪の被害にあった。そこから牡鹿半島の小さな漁村もみな津浪の被害を受けた。宮城県は港が多いから津浪の被害が大きかった。福島県は浜通りでも津浪の被害あっても原発事故の被害の方がずっと大きかった。その相違があった。亘理駅で鴎が飛んでいるのを見たとき、あまりみかけないけど鴎が飛ぶということは海が近いのである。ところが常磐線でも電車から海が見えるのは新地町だけであり他は見えない、するとこの辺に住んでいる人でも海を意識しないのである。
浜吉田という駅があったけどここで海を意識したことはない、その駅まで津浪が来ていたことには驚いた。海が近かったのである。亘理もそうだし岩沼もそうだったし名取もそうだった。だから鴎が飛んでいるのを見たとき海が近いと今度は意識したのである。


鳴瀬川にひかれるのは名前がいいからである。何かリズムカルであり響きがいいのである。そしてこの川が海に注いでいるということで気持ちいいのである。この川はまた電車からもバスからも見えた。バスは高速で行くので海を見えるところにはとまらないが鳴瀬川は見えた。それほどの被害はなかったのかただ松原が半分くらい残っている。やはり津浪の衝撃は他より弱かったのか、名取から相馬から磐城など松原は根こそぎ流された。陸前高田でも松原が全部流された。あそこには湾があっても衝撃が強かった。津波の強さは地域によって違っていた。それは地形と関係していた。ともかく今回の津浪の被害は青森県から岩手県から宮城県から福島県と広範囲だった。一番被害が大きかったのは宮城県だった。津浪の被害は一度その場に立てば実感する。テレビとかで見てもなにかもう一つ実感しないのである。津浪の被害の跡に立つと荒寥としたものを一段と感じる。それはテレビで見ているのとは違っている。体全体で感じる荒寥感である。石巻はそうだった。


今日の一句一首も津浪や原発事故とは関係ない平和なときの営みである。でも津浪の被害や原発事故はあらゆるところに影響した。自然の見方自体変わったのである。自然そのもの地形すら変わった。あらゆるものがその影響からまねがれることはできない、地形的には福島県の浜通りは宮城県の海岸沿いの港とかずっと海を通じて関連していた。それが津浪で同じ海側に面した共通性を認識したのである。三陸の津浪は三陸独自のリアス式海岸だから津浪の被害が大きくなるということは何度も言われていた。でも名取など平地はそれほど言われなかった。でも名取には津浪の被害が前にもあり伝説も残っていたし最近では地下の土を採取して津浪が奥深くまで津浪が来ていたことが証明されていた。そういうことに福島県浜通りでも無関心だった。隣合っているのに無関心だった。福島県とか宮城県とかはあくまで人工的に作られた境でありそういうものにこだわるより自然の地形的な連鎖反応が大事だった。福島県浜通りは明かに海側として海岸線として共通の自然の地形の中にあった。地形の一体感があった。山国は山国でありそうして海を通じた地形の一体感はない、ただ海側でもそうして広い範囲の一体感を共有していなかった。三陸には津浪が来るが仙台から福島県などの平地の浜通りには来ないとか安心していたのである。歴史的人工的な世界観より自然の形成された世界観が必要だったのである。


三陸などは宮城県、岩手県の海側は漁業が昔から産業だから海と密接にかかわり生活していた。宮城県の仙台辺りから名取、亘理、福島県の浜通りは漁業が盛んでないから海と密接にかかわるという生活ではなかった。むしろ仙台や名取でも米を作る開拓地として意識されていた。でも松川浦では津浪が来るときは沖に船を出した方がいいと言い伝えがありいち早く船は沖にだして助かった。海とかかわっているからそういう言い伝えがあった。でも郷土史で津浪の言い伝えをほとんど聞いたことがない、ただ最近地下の土を採取して津浪が相馬の奥深くまで来ていたことがわかった。そのことを一時時事問題の深層に書いたことがあった。だからその時自分も多少津浪のことを意識したけどこんな津浪が来るとは思いも寄らなかった。だから郷土史なども狭い範囲だけの研究では役に立たないということもあった。自然の上に人間の歴史があるとき、相馬藩が成立したのは400年前くらいであり確かにその時、慶長三陸津浪でここも700人死んだとか相馬藩政記に記録されていた。記録は残っていたのである。ただ詳細な記録とはいえず見逃していた人が多いだろう。でもそれは大きな事実の記録だったのである。他に何か明確な記録がないとしたら記録されただけで貴重だったとなる。
今回の津浪は東北の太平洋岸が自然的一つのつながりある地域だったことを認識した。津浪で共通体験したからそういう意識が生まれたことは確かである。


 


スマトラ津浪の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録) 2005
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

わが町(亘理)に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです。
現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます。


亘理に住んでいる人の日記に書いてあった。亘理から逢熊駅にとまるとそこの小高い丘に確かに「三十三間堂遺跡」と案内板があった。国府の多賀城が津波に見舞われたからその教訓から高い所に郡衙を作ったのか、それはわからないにしても確かに島という地名はかつてはそこは島だった可能性がある。海が深くは入り込んでいたからだ。その入江のような所に島が浮かんでいた。そういう光景は日本には多かった。大坂湾も古代には八十島が浮かんでいた。日本は島が多い国なのだ。それにしても相馬にもこの大津波が押し寄せてきたことには驚きだ。最近やたら地震がつづいているので不安になる。こんな千年に一回とかいう大津波を警戒することはむずかしい。それでも日本地震国だからこうした記録が残っているのだ。これは丁度大和政権が多賀城を築き蝦夷を征服しようとする最中であったからその様子が伝えられ記録に残った。そうでなければ文書としては残らず伝説になったかもしれない、国というのは歴史を災害でも記録するという役目があったのだ。今回のスマトラ大津波についてはツナミということばさえわからない世界だった。ツナミは世界の言葉になっているごとく日本から生まれた言葉なのだ。津波もまた身近なものだった。

 



これを書いてから6年後に今回の大津波が起きた。この時もっと日本でも警戒するべきだったのである。世界的に陸はつながっているのだし海側はやはりつながりが深いのである。


 

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2012年02月12日

故郷を奪われし人々の詩 (仮設住宅に暮らす人を思いて・・)

 

故郷を奪われし人々の詩

(仮設住宅に暮らす人を思いて・・)

故郷の住み慣れし土地や家を奪われ

仮設住宅に住む人こそあわれ

今何を思うや日々つとめもなく

故郷の我が家や土地を耕す

常なる日々を奪われぬ

ある者は遠く都会のマンションに

ある者は雪に埋もれし会津に雪かき

思わざることにしあれや悔し恨めし

森の香気につつまれし山の里

広々とした海を望むあたたかき地

そこに生業のありて暮らせし日々を思うかな

ああ 故郷にいつの日帰らむ

祖父母の父母の眠る故郷

老いにし人もあまた辛しも

先祖の培い育みし故郷の大地

そこを継ぎ耕す日々を偲びけるかな

 


万葉集の歌と心境が一致する避難者
http://musubu2.sblo.jp/article/45938544.html


なぜこのペ-ジが常に読まれているのか不思議である。どう考えてもそういう心境の人が読んでいる、避難した人が読んでいる。ただ普通の人は万葉集は読んだりしないような気がするから不思議である。


ひさかたの 天路は遠し なほなほに 家に帰りて 業(なり)を為(し)まさに 山上億良


他人(ひと)の植うる田は植えまさず今更に国別れして吾はいかにせむ 228 狭野茅上娘子


おそらくこういう心境だからこそこれを読んでいるのだろう。仮設住宅でもインタ-ネットしている人はいる。時代的にインタ-ネットしている人は思った以上今は増えている。だからそれなりに影響がある時代になった。


故郷を奪われたというとき自分は確かに仮設住宅には住んでいないけど30キロ圏外だけど何か心境的に共通している。自分にしても飯館村とかは故郷の一部のように行っていたし相馬藩内は歴史的にも故郷だとも言える。一つの体でありその体の半分が奪われた感じになるのだ。そして浪江とか2万人もいたとすると経済的にも南相馬市であれ相馬市であれ影響が経済的にも大きかった。相馬藩内は一つの経済圏としてあり仕事のつながりもあった。それが六号線とか鉄道が遮断されたことでわかった。浪江の二万人小高の一万人、他に一万以上とかそうした人口が失った。小高の人は南相馬市に移ったが他は移っていない。ともかく自分にしてもやはり故郷を奪われた一人だから心境的に一致する。そうしてこういうふうに故郷自体を奪われ住民すべてが移住させられるようなことが歴史的にあっただろうか?こういうことは確かに十津川村で災害にあい北海道に集団移住したことあったけど全村民が移住したということはない。こういうことを過去に体験したということはなかったかもしれない、戦争でも故郷自体を奪われるということはなかった。啄木の望郷の歌は啄木という一人の天才の放浪者の身勝手から生まれた個人的な望郷の歌だった。今回は故郷自体が奪われて故郷を偲んでいる。それは個人的なことではない、何万人の人が故郷を失ったという歴史的なことだった。確かに外国では民族同士の抗争が激しく奴隷にされた人が多数いた。その時故郷から移住させられ外国で使役された。ユダヤ人は故郷を失い2千年国もなく過ごした。これは国自体失ったのだから故郷が失うのとはまた違う。


それにしても故郷自体が奪われ住めなくなるということが信じられないのである。未だになぜ故郷を離れ仮設住宅に住まねばならないのか、納得しえない人々は多数であろう。これは津浪の被害で仮設住宅に住んでいる人たちとも違う。原発事故による避難は別のものである。ともかくすでに津浪から原発事故から一年にもなる。これからいつまで仮設暮らしがつづくのかとか、仕事しない人がパチンコとかサウナに通って遊んでいるとか土地の人に非難されている。それも困ったことなのである。仕事は食うためにもあるけど人間の本源的なものとして生きがいとして仕事がある。それが奪われるということが深刻なのである。特に農業などに従事していた人はやはり土地とか家と一体化しているから特にそう思うだろう。仮設住宅はまさに仮の住まいであり土地の人となるわけではない、だから仮設住宅の建設地を貸してくれと市で頼んでも断った土地所有者がいた。それは一時的なものでありそこを住宅地にすると農耕地にできなくなるとかの問題が生じるからである。いづれにしろずっと長く仮設に住むことはできない、もし故郷を離れるなら他の土地で仕事をもち暮らす他ない、そういう人たちも若い人にでてきている。そうして仕事をもち暮らすなら土地の人にも受け入れられるのである。仮設住宅暮らしは土地の人には受け入れられないのである。


 

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2012年02月13日

相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど (薬師堂はどこでも村の中心にあった)



相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど

(薬師堂はどこでも村の中心にあった)

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無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%84%A1%E7%
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ここにあるのは江戸時代の僧侶の墓である。卵塔の墓(無縫塔)は僧侶の墓である。江戸時代の墓があることは昔からここに墓があった。墓所を見るとき江戸時代の墓がないと興味が薄れるのだ。ただ江戸時代でも明治時代になってからの継続がある。明治時代になって夫婦の墓があるのはそのためである。一家の墓になるのはそのあとに多かった。江戸時代の不思議は家族墓はなく個人墓である。武士は代々の墓が寺にある。一般的に庶民は墓が持てない、でも金がある人は個人墓を作ったのである。姓があったり名前だけのものもあり庶民だからといって姓がないということもなかった。墓所を見ることは郷土史研究に欠かせないのである。墓にしてももともと中国から入って来たものである。位牌というのも儒教から入って来た。仏教のように思うけどもともとは儒教なのである。神仏習合のように儒教とも習合したのである。ここの日立木村の墓所に岩崎という墓があったがこれは野馬追いにもでている武士として相馬市史に記されている。すると江戸時代からつづいている姓だとわかる。姓は新しいものも混在するからわかりにくくなる。谷津田とかあるとき近くにもあるから移動したのかもしれない、相馬藩内で姓が移動することが多かった。岩崎、谷津田は相馬市史にもでている。岩崎氏は二家族でているからやはり武士としてその土地に力を持っていた。
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不思議なのは相馬市史に記された立谷村の家族構成である。
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酒井藤左衛門の家族であるが戸主、養父が東光院となっているのは寺の住職か僧侶であり26才で死んでいる。実父は誰かわからないから確かに養父が僧侶であった。だからあそこの僧侶の墓は東光院関係の僧侶かもしれない、東光院はこの辺に結構多いのだ。妻は志のであり20才で死んでいる。
その次が酒井藤左衛門の伯母がかよでありそのかよの父が与五郎である。漢字は別になっている。
この伯母が越中国松木村の出生となっている不思議である。飢饉の時移住してきた越中の人であることはまちがいない、ではなぜ酒井藤左衛門の伯母になっているのか?日下石村の実父の姉か妹であったということはこの伯母は越中からきて酒井藤左衛門の父の姉妹と結婚したということである。
越中からの移った人で相馬藩内に住んでいた人と結婚した人がいても不思議ではない、なぜ酒井藤左衛門の一家となったかというと妻志のが20才で死んだからである。ただ文化となると弘化 嘉永より時代的に古くなる。
1806(文化 3)-1847(弘化 4)伯母は文化3年に生まれ酒井藤左衛門は弘化 4年に生まれた。酒井藤左衛門が生まれたとき,伯母は41才であった。妻志のが1853-嘉永 6年に出生して20才で死んだから明治7年に死んだ。酒井藤左衛門と妻は志のは六才違いである。6才のとき20才の妻が死んだということはありえないから何か間違っている。これは複雑でわからないが妻が20才で死んだことや僧侶が親戚にいたことや越中の人がかかわっていたことは確かである。墓所には必ず真宗系統の移民の墓がある。

薬師堂は村の中心に必ずあった。それはなぜかと言えば今もそうだが人間一番苦しんでいるのは病気だからである。法印でも山伏でも必ずそれぞれの村にいたのは加持祈祷のためである。病気を直すために祈っていたのである。宗教が昔は盛んだったのは病気のためである。医者も病院もないから神仏に祈る他なかったのである。だから地蔵さんでも眼に効く地蔵やら腰に効く地蔵やら分業化していた。それは今の病院の様々なお医者さんにかかると同じである。薬師堂が村の中心にあるのは病気祈願のためにである。薬師堂は近くにあってこそ意味がある。江戸時代は車もない、城のある相馬市内だって元の中村だって遠いのである。救急車もないから結局薬師堂に祈る他なかったのである。


会津でも早い時期に仏教が広められたのは病気祈願のためだった。磐梯山が病脳山とされていた。それで徳一が盆地の中央に位置する勝常寺を中央薬師とし、本寺を東方薬師、堤沢の野寺を南方薬師、漆峯を北方薬師として建立した。


仏教は最初は病気の治癒として受け入れられた。これはキリスト教でも同じである。病気を直すことが病気を直すために祈ることが宗教だったから広まったのである。今は医者を神様のように崇めていることと同じである。病院が大事なのも薬師堂の代わりになったからである。僧侶の力の衰退は正に葬式だけになったからである。ともかく日立木のまちば(まちば)橋のある所は昔の村の様子が残っている。旧街道沿いの感じが松並木とともに残っている。


薬師堂まちば橋かな街道の細道あわれ冬日さし暮る

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2012年02月14日

冬の日立木村の薬師堂(短歌、エッセイ)


冬の日立木村の薬師堂(短歌、エッセイ)


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寒雀鳴き騒ぐかなまちば橋


立谷川凍りけるかも薬師堂たずねてあわれ飢饉の碑あり


薬師堂まちば橋かな街道の細道あわれ冬日さし暮る


名もなき五輪塔に冬日さし何を語るや日立木の村


街道の松並木にそ冬日さし城のお掘りに鴨数羽見ゆ


冬の日や相馬の城に山中郷塩の役人を殿の召すかな


明治の碑従軍とあり遠きかな日露戦争や冬の日暮れぬ


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明治の碑、日露戦争に従軍した人だろう



日立木のまちば橋のあるところは街道の情緒がある。すぐに松並木があるからあの辺が一番昔の街道の面影を残している所なのだ。ただなかなか地元の人すら気づかない、薬師堂がありあそこに飢饉の碑がありその脇の墓に江戸時代の僧侶の墓がある。岩崎氏とか谷津田氏の墓がありそれは江戸時代からあった。岩崎氏は野馬追いにもでている武家である。そういうことが墓と相馬市史から明確にわかった。立谷川は凍りいかにも寒々とした感じがする。ただ子供の遊ぶ遊具があり生活の匂いがある。薬師堂は村の中心だった。病院も医者にもかかれないから薬師堂に祈るほかなかった。医者にかかること自体相当に贅沢だった。救急車も何もない時代に死ぬ人が多かった。前の郷土史研究で相馬市史に記されている人は妻が20才で死んでいる。養父の僧侶も26才で死んでいる。子供も一才で死んでいる。ともかく若くして死ぬ人が多かった。ここだけですでにこれだけ若くして死んでいる。それだけ病気で死ぬ人が多かったのである。あの五輪塔と僧侶の卵塔の墓や相馬市史に記されたことはなにか呼応している。明治時代の従軍兵士の碑もあったから日露戦争なのだろう。なかなか日露戦争の碑はない、しかし日露戦争の死者も多いからそれなりに全国に残っている。しかし太平洋戦争のことで日露戦争のことは忘れられている。親戚で葛尾村に住んでいる人がいた。その老人は日露戦争に出ていた。その時の傷を見せるとか言っていた。それがあまりにも遠い日のことでわからなくなったが墓が小出谷(こでや)にあって墓参りしたことがあった。しかしそこの家はもうない、それが原発関係で働いていた。浪江には近いから原発と関係していた人はそれなりに多い。南相馬市すら少ないにしても関係していた。金になるから原発で働かないかという話しは良く聞いた。この辺では原発は金の鳴る木だったのである。


それにしても信じられないのはこの街道を思うとき必ず街道は道は遠くへ通じてるから道であることを今更ながら感じた。道は途中で途切れてしまいば道でない、ましてや街道となるとこの道が江戸まで通じているから街道なのである。それが途中で途切れてしまったら道の役割は喪失するのだ。そのことをつくづく原発事故で感じた。道ほど大事なものはない、ただ鉄道より今は六号線とかが大事になっていた。鉄道は磐城まではあまり相馬では利用していない、車で買い物でも病院でもしている。事実双葉町の人と浪江の人が南相馬市立病院に来ていた。入院していた人もいた。南相馬市と浪江とか双葉町は関係が深かった。それを意識していなかったが道が通じなくなったときそれを強く意識するようになった。道が通じないということは半分体がなくなったような感じなのだ。今の時代はいかに道が大事か知った。交通が変わると街自体がさびれるということもわかった。流通がなくなりさびれてゆく。現代のように全国的グロ-バルにも流通しているとき余計にそうなったのである。戦前でも江戸時代でも交通が不便で自給自足的経済だったらそれほどの影響がなかったかもしれない、今は交通の影響が甚大なのである。だからこそ新幹線がとまったりどこが通るか大問題になるのである。人の出入りが交通の便が良いか悪いかで決まってしまうからである。


この辺の異常事態は未だにどう理解していいかわからない、津浪だけだったら道は通じていたしかえって鉄道はそれほど津浪の被害がなかったから磐城まで通じた。相馬市から新地から亘理までは被害が大きすぎていつ開通するからわからない、5年はかかるとかいつになるのかわからないのだ。鉄道は仙台と通じているから大事なのである。仙台は復興の拠点でもあり工場も多いから東北の中心として復興の大きな役割をになう、特に福島県は原発の放射能の打撃が大きいから特にそうなった。でも宮城県の津浪の被害も甚大だった。福島県より何倍も津浪の被害が大きかった。港はほとんど壊滅したのである。ともかく道が通じないということは江戸時代や縄文時代にすら帰ったような気分になる。それほど現代文明は交通に頼る文明だったのである。原町と相馬間を二両の電車が行き来しているだけでは鉄道の役目を果たせない、仙台まで通じればそこから四方に通じる。原発の10キロ圏とかはなかなか道も通じないのか?結局放射能がいつまでも残る、除染がしにくい、となるといつ道が通じるのか?放射能という暗雲が霧がいつまでたちこめるのか?その暗雲が霧が払われない限りこの辺の復興はない、その先が長いのである。だから南相馬市でも若い看護婦は子供を育てているから半分がいなくなったとか医者も半分いなくなったとか一番困っているのだ。医者にかかれず江戸時代のように死んでしまうのかとなる。江戸時代だったらあきらめていても今は交通も発達しているから移動がたやすいから移る人は移る。十津川村でも北海道に移住できたのはその頃の生業が農業であり農家は結束が強いし北海道で農業するということで一致団結したのである。今は農業の割合が一割とか低いから浪江だって農業するから代替え地に移るとはならないだろう。農業が8割とかの社会だったらそうしたことができたのである。結局そうなるとばらばらになってしまうかもしれない、それぞれ移住して仕事を見つけ定住するようになる。特に若い人はそうしたいとなる。でも老人は故郷に帰りたいとなっても誰が世話するのかとなり若い人についてゆくということにもなる。


要するに放射能汚染ということは広島の原発とも違うし今まで経験したことがない、それで未来のこともわからないからとまどいいつまでたってもその先どうしていいかわからない、学者でも意見が分かれていることを素人でも判断できない、原子炉の温度がまた上がったとか何かまた恐怖がある。
津浪や原発事故で大きく人生が変わらざるをえなくなった人が多数である。一見南相馬市の警戒区域意外はそんなに影響しないとも思っていたが違っていた。何か避難した人たちがイメ-ジとして現実としてもそうだがあふれている。故郷に帰りたい故郷をどうするんだとかそういうどうにもならない声が聞こえてくる。それはやはり浜通りは一つの共有した地域だったからだろう。磐城だったらそれほどでもなかったのか、この辺では何か常に心が動揺している安定しない、落ち着かないのである。だから平和的な仕事にじっくり取り組むということがしにくいのだ。文化的なことは特にそうである。平和な日常的な生活基盤がしっかりししていなけれは文化の営みはありえない、石のことを詩にしたりしてきたがその石のように安定しないのである。それは自分だけではない何か心が落ち着かない安定しないのがこの辺である。津浪の被害にあったところもそうだが原発事故で放射能のことで余計にこの辺はそうなったのである。


相馬市日立木村の薬師堂の墓のことなど (薬師堂はどこでも村の中心にあった)
http://musubu.sblo.jp/article/53887369.html

2012年02月15日

知らないことが致命的になる時代 (卵子が老化することを知らず子供が生めない)

 

知らないことが致命的になる時代

(卵子が老化することを知らず子供が生めない)


●社会の変化に対応できない知識の吸収


NHKのクロ-ズアップ現代で卵子が老化して35才くらいになると子供がうめないことを知ってショックだったという女性を問題にしていた。仕事を持つ女性が増えて妊娠する時期遅れてしまったためである。避妊治療については知っていたが卵子が老化して子供が生めなくなることを知らなかったという。人間はつくづくある一つのことは知っていても避妊ということに注意を払っていても卵子か老化するということを知らなかった。教育もされていなかった。これがなぜ問題になったかというと社会の変化が原因していた。女性が普通に働く時代忙しく子供を生む時を逃してしまった。そういう社会の変化がありそれに対応する教育が成されないことなどがあった。社会が変化するとき今までの知識では用が成さない、現代ほど変わりやすい社会はない、その社会の変化に対応するには大変である。
この変化は高齢化社会と呼応している。90まで普通に生きる時代はすぐそこまで来ている。現実90才はめずらしくない、そういう時代に若いときなら女性でも仕事を中心になるのはやむをえないことなのだ。人生設計だって90まで生きるのが普通になれば変わる。60までは社会の経験や学問の積み重ねをして60から成果を出してゆくでもまにあうとなる。人生50年だったらこんな悠長なことをしていたられないのだ。そうなると別に急いで成果を出す必要はないのである。いろいろ分野で個性や才能も活かせる時代になる。子供を生むにしても90まで生きる時代は40頃子供を産むに適している。だからこそ卵子が老化しているということが今になって問題になったのである。科学技術というのもこれに対応できなかった。研究は進んで40でも卵子が老化しないとか若い卵子の核と入れ換えるとか研究がはじまったのもそのためである。40で子供を生むのが適している高齢化社会の問題がここにもあったのである。

●江戸時代なら知らなくても良かった


人間知らないということが致命的になることは誰でも経験しているだろう。江戸時代なら見ざる、聞かざる、言わざる・・であり知らないことが当たり前でありそれで通っていた。知るにしても非常に狭い範囲であり政治の責任は侍にあり庶民にはなかった。ということは知らなくてもすむ時代だったのであり知らなくてもあきらめろという時代だったのである。現実に病気のことを知ったとしても治療しようがないから大方あきらめるほかなかった。現代では知らないということは各自の責任になるから困るのである。知らないで住まされないから困るのだ。知らないとそのことで自己責任にされてしまうのだ。知らないあなたが悪いとなってしまう。ところが現代は江戸時代の一億倍の知識と情報に接していなければならない、するとどうしても知らないということがいくらでもでてくる。あなたが知らないことはあなたの責任だともいえないのである。法律知識でも膨大でしりえようがないし、科学の知識でもむずかしくてそうである。それを全部民主主義だから個々の責任だとなるときこの社会を生きることは大変なことでありス-パ-マンにでもならなければとても生きていけないとまでなってしまう。それほど知識でも情報でも膨大であり多様化しているからとても一個人で対応できないのである。

今は医療の情報は膨大であり知りすぎても知らなくても損する。自分も早めに医者にかかっていれば薬くらいですんでいた。自分で情報を積極的に知ろうとしなかった。誤った偏見もあったし医者にかかれない事情もあった。ここでも避妊治療にばかりに注意を払って別なことに肝心の卵子の老化に注意がはらわれなかった。こういうことは原発事故でもあった。地震ばかりに注意を払い地下に非常用電源を置いた。津浪のことに警戒せず一旦高くした土盛りを低くしてしまったのである。人間は総合的に見ることがいかに不得意かわかる。一つのことに注意をはらったら別なことに注意できないのである。交通事故なども右にばかり注意していたら左からやられたとか二つの方向に注意が向けられないのが習性でありそれで事故が起きるのだ。


●原発事故も知らないことが致命的になった


津浪でも知識の欠如から起きていた。400年前に相馬藩でも700人死んだと記述されたものが残っていたがそのことを知っている人はまれだったろう。でもそれは重要な記録だった。津浪がこの辺でもそれだけの被害を出したときがあったのだから警戒してもよかった。でも全然警戒していなかった。仙台でもその津浪の被害のことを科学者が警告したら宅地造成する人などから脅迫されたという。重要なことを知らせても聞かないということもある。原発のこと放射能の危険のことなど全く知らされていない、安全神話を信じさせられ放射能の危険のことなど聞くことすらできなくされていた。原発は危険なのかというときそれを知ることは容易ではない、でもその知らないということが致命的になったのである。素人は放射能などわからないからいいようにされていたのである。今になっていろいろ知識が入り理解するようになった。科学が苦手でも人間は説明されればそれなりに理解することがある。身近なものだから科学が苦手も細胞に線が走りそれがくりかえされれば細胞やDNAが傷つけられ癌とか奇形になるのだとか説明されると放射線障害とはそういうものかと素人でも知ることになる。だから体内被曝が怖いのだということは実感した。

おそらく現実に体験することで放射線の危険を実感した人はこの辺でふえた。そもそも原発は安全神話が強固に形成されその危険性は知らされなかったのである。その危険を言えば原発は建てられないからである。情報は権力によって操作されていたのである。民主主義でもすべて知り得ることにはならない、権力を持っているものが知らせないということが多々ある。権力者によって隠蔽されくることもある。原発がそうだった。東電のような国と並ぶような経済力をもっていればそういうことができた。国も知らせないということで安全神話を作っていた。情報は常に権力によっていいように操作される。なぜ国では保安院が最初土台を高くしていた盛り土していたのにその土を切って低くしたことに異議も唱えなかったのか?コストタカッタ-として出世した社長の言いなりにしておいたのか?東電はそのために政府関係者の天下り先とかいろいろな便宜を計ったしマスコミにも計った。東電の言うがままに操作されていた。政府の役目は安全を計ることであり安全神話を作ることではなかった。どうしても一営利企業はコストを第一にするからである。


●知らないことは何でも民主主義では自己責任?


現代社会は知らないことは各自の責任にされる。住民にしてもお前たちには十分な金をやった、お前たちはもっと放射能のことを知るべきだった、知らないのが悪かったのだとされる。それは他の地域の人からも言われる。知らないということが現代では致命的になり自己責任になる。ところが人間はあらゆることをしりえようがないのである。そして情報は権力によって操作されている。カルト宗教団体がこんなに跋扈するのか、それは信教の自由だから止めることができないとか常に言われる。しかし創価などは政治とかかわりすぎて宗教の分野を逸脱している。政教分離の法律にも違反している。しかし民主主義は何でも自由であるとなり誰も規制できない、そして不思議なことだがカルト宗教団体の被害にあった人が法律で訴えたりしているのは驚いた。でもこれも自己責任にされてしまうのである。カルト宗教団体は宗教というものでないにしても規制できない、それに入るのは自由でありやめるのも自由である。


ところが権力によってカルト宗教団体の批判はできないようになっている。そういうものが原発と同じ様に社会に公認されていし批判もないから無防備で入る人がいる。つまり自分にしても知らないからそうなっていた。人間はあらゆるところで知らないから致命的になるのだ。宗教なども別に宗派に関係なく偶像崇拝は危険だということを教えるべきだろう。必ず偶像崇拝に陥り安いからこそイスラム教のような宗教になった。宗教が人に頼るときその教える人も偶像になりやすいのである。そういう基本的なことを知らないから誤った宗教に入る人があとをたたない、でも誤ったものでも一旦権力を持ったらもう規制はできない、現実に創価は批判できない、公務員や警察でも批判できないようにしている。この町でも自分の本を置くのが拒否されたことでもわかる。


言論の封殺などいくらでも過去にもあった。戦争中は普通にあった。原発もそうした言論封殺があり危険など知らされないのである。ではそ
の責任は誰がとるのか、結局知らない庶民がとらされるのである。戦争で400万人死んだのも敵国のこともいろいろ重大なことが知らされないから勝つと盲信して膨大な民が犠牲になった。原発も同じだった。重大なことが知らされないから民が犠牲にされたのである。マスコミも権力あるものに加担することは戦争でも原発事故でも何でもそうである。決して庶民の見方ではない、庶民もまた権力者の言いなりであり地元では利益優先だから積極的に知ろうとしなかった。それも問題だった。民主主義は自由に情報が公開され知らされることが大事なのだがそれが権力によって成されない、一個人などの意見は簡単に権力をもっていないから抹殺される。

ただ集団化組織化して圧力をかければそれが害あるものでも通用する。いづれにしろ権力というのは諸刃の剣であり危険をともなっている。科学技術はまさに現代で最も権力化しているものだから危険と隣合わせなのである。、科学技術でも宗教でも何でも権力化するものを規制できないことが致命的なのである。会社でも東電のように突出した権力をもつと今回のような事故になったりするし何でも巨大権力化するとそれが必ず災いの元になる。だから独占禁止法などかできたのだが国と結託して原発は進められたのだから規制しようがなかったのである。結局権力には権力でもって対応させる。
それが民主主義の基本にある。一党独裁を拒否するために政権交代可能な選挙の仕組みがある。でも政治ではそうなっていても現実の権力は東電の国と匹敵する会社にあったりする。すると会社支配の国家でありそういう巨大会社を規制するにはどうするのかとなる。規制されるのは国になっていたからである。警察官僚の天下り先になっていた東電を検察が規制できるわけがないのである。

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原発事故で途絶えた道(2)-詩

 

原発事故で途絶えた道(2)-詩

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常磐線に美しい虹がかかった
虹は何を意味していたのか?
虹は遠くと結ぶためにかかった
常磐線は今二駅の間を行き来しているだけ
それも二両だけの電車
鉄道も道も遠くとつながっていてこそ
線路であり道だ
江戸時代なら街道として江戸まで
鉄道でも道でも東京まで通じるからこそ道
家々は村や町や市は道を通じて結ばれていた
東京からさらに西の市町村とも結ばれていた
その道が原発事故で途中途絶えてしまった
津浪で鉄道は仙台までも途絶えた
道が途絶え人と人の絆は断たれた
相馬の市から出発する浜街道でも
そこに立てば江戸までの道のりをイメ-ジする
大きな動脈として道は生きていた
道を通じて血管のうよに新鮮な血液が流れる
生き生きとしたものが道を通じて流れる
途中は放射能の暗雲と霧で閉ざされる
道は死んでしまった
トコトコ二両の電車が行き来する
何かオモチャのようにちゃちなものに見える
それも遠く通じ合わないからそうなった
ス-パ-ヒタチが走ったのは夢だったのか?
その流線型の車体が走るのを見ることができない
道も線路もめぐりめぐって効果を発揮して活きる
ああ 道も死に土も死に森も死に川も死に
放射能の霧はいつ晴れるのだろう
冬の暮何か遠い世界に取り残された感じ
原発の廃炉は何十年もかかる
完成するころは死んでしまうだろう
仙台方向へは夢を託せるのか
原発周辺の街は死滅する
ああ 常磐線に虹がかかっても虹にならない
遠くへと通じないから結ばれないから
虹がかかり遠くへ通じる日はいつ来るのだろう
もう来ないのかもしれない
・・・・・・・・・・・・



この辺で起きていることは何なのか、かつてあったものが失われてしまった。普通に生活していた日常が失われた。故郷が失われた。それとともに道が失われた。鉄道の路線が途中でたたれた。津浪で家がなくなり村ごとなくなった。右田の松原や松川浦の船溜が消えた、松原も消えた、新地駅や山下駅は津浪で流された。鉄道の線路も流された。こういう情景は未だに信じられない、原発事故で六号線や常磐線が途中遮断されたことの影響は大きかった。道はそもそも普通だったら東京にも関西にも通じている。遠くに通じていることに意味があった。ただ当たり前だから意識しなかったのである。道を通じて人間は結ばれていたのだ。現代の生活は交通に頼ることが多い、全国が網の目のように交通で結ばれていた。それは車社会だからできたことでてある。それが車社会の利点でもあった。マイナス点も大きいが道がこれほど重要だったことは途中道が途切れてしまったことで余計に意識するようになった。陸前浜街道があり江戸時代でも江戸まで通じていた。その道は江戸を必ず意識していた。江戸まで通じることで街道になっていたのだ。もし江戸まで通じないなら意味がないのだ。だから今の状態は何か縄文時代にすら帰ったような気分になる。せいぜい隣の村くらいとしか通じ合わない道になってしまう。だからトコトコと二両の電車が行き来するだけになった。

常磐線で前にとった虹がかかった写真があった。まさに虹は遠くと結ぶことで虹なのである。だから虹は海にかかるとき一番気持ちいいものとなるだろう。八両の電車も通りス-パ-ヒタチも通っていた。それがもう見れない、これも想像すらしなかった。あったものがなくなるというとき人間は余計意識する。死んだ人がいつまでも思うのはもう二度と会えないからである。会えないからこそ写真を見ては悲しくなりいつまでたっても慰められることもないのである。つまり会えない限り心は慰められることはないのだ。それと同じ様に一旦あったものがなくなるということでそのあったものを余計に意識することになる。そのありがたみを感じる。故郷にしても普通に生活していたのに住めなくなるということで故郷を意識する、当たり前にあった故郷で暮らせないということで故郷を意識する、故郷が何だったとか自問する。故郷に当たり前に住んでいれば考えもしない、空気のように当たり前に故郷はあったからである。この辺で起きていることは当たり前にあったものがなくなっている。
それでそれがいかに貴重なものだったとか意識する。そういうことが毎日のように意識させられているのである。

posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年02月16日

蝋梅(長寿の花)


蝋梅(長寿の花)

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二駅の行き来や淋し冬の暮

なお生きる90の老冬柳


江戸時代埋もるる墓や冬柳


蝋梅や長生きしてや黒茶碗


蝋梅や今日一日の光かな


蝋梅や薄日につつまれ眠るかな


山里の冬の長しも炉端かな



蝋梅は明かに長生きにふさわしい花である。冬に咲くというのもめずらしい。梅より先に咲く、冬は黒茶碗があっている。利休がこの厚い茶碗を利用し始めた。厚いから湯が覚めないという効用もあった。茶の湯はやはりただ鑑賞するものではない、毎日茶を飲むように実用的なものである。だから実用性も必要なのである。ただ自分は茶の湯をたしなむような余裕がなくなった。茶の湯の心は日本人として何となくわかるのだが茶事とかなると悠長すぎる。それは暇人しかできない、やはり忙しい現代で茶の湯はリズム的にあわなくなっているのだ。沈黙と時間の悠長さがあった時代にあったものなのである。たいがい今なら仕事しながらテレビ見ながら本を読みながらコ-ヒ-飲むというのが時代感覚であり茶の湯のスロ-ペ-スにあわないのである。


まだまだ今年は冬ではある。明日あたりからまた雪がふるらしい。今年の冬は長い、雪国とか北国の冬は長い、そこに冬の文化が育まれた。この辺では雪とかはわかりにくいのだ。高齢化社会はこれまで経験しないことだからそれが社会にどういうことをもたらすのかわからない、負の部分は経済的には大きい。それでも人間社会は負の部分、暗い部分と明るい部分が常に併存している。暗さを知らなければ明るさもない、地獄を経験すれば天国もある。真の宗教者は地獄を経験している。だからこそ親鸞などは迫力がある。明と暗は人間に必ずつきまとっている。津浪の被害にしても凄い暗を経験したのだがそこから立ち直った人は一段として強くなるし人間的に成長しているだろう。戦争の焼け野原に立った人たちはそういう経験をしている。何が人間にとって本当に大事なものでありそうでなかったか、それを身をもって体験してた。一瞬にして愛する人を失い財産を失ったらそうなる。そんな経験をしようがないからだ。


ともかくこの辺でも昨日書いたけどス-パ-ヒタチが走るのが夢だったのかとか何かこういう異常な状態に突然なると人間は夢遊病者のようになる。他の人の体験でもそうなっている。何か現実と思えない、信じられないのである。ヒロシマとかの原爆の跡に立った人もそうだったろうし津浪の跡に立ったひともそうである。こんなことありえないとなり現実とは思えない夢のように思ってしまう。
そういうことがずっとつづいているのがこの辺なのである。そういうことはやはり戦争とか他でもある。事実を事実として受け入れられない、だから信じられない夢のようだとなる。戦争で従軍した人たちもふりかえれば夢のようなっているだろう。それは異様な体験だからそうなっているのだ。でも戦争であり災害であれ人間は異常事態を歴史的に何度も経験している。ただ戦後60年とかは幸運であり対外的にも恵まれていたからそういう異常事態を想像すらしなかったのである。

2012年02月17日

猫柳は看護婦にあっている (橘についてなど)

 

猫柳は看護婦にあっている

(橘についてなど)


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上の方渡れる橋や冬の暮


看護婦の姉に献げる猫柳


猫柳そのあたたかさ忘られじ


冬薔薇薄紅色に二輪かな


冬の暮夕星(ゆうづつ)二つ帰る道


冬の灯やなお一人待つ家族かな

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●仕事は天職、与えられもの


イオンの方に行くと橋がある。水無川なのか?いつも水は流れている。橋の名前もわからない、原町では郊外で淋しい場所だった。でも牛越城があったから何もないというわけではない、この辺に住宅地が広がった。原町は住宅地が郊外に広がった。原町は街道沿いが一番古く駅前通りが次に古いけど旧市街というか街自体が過去のものになっている。六号線の方が新しい街になっている。ス-パ-があるところが街になってしまった。今回イオンでこの猫柳を買った。そろそろ猫柳も川原にでているのか?真野川はかなり上に行かないと猫柳はない、津浪で流されたのだ。猫柳は看護婦に一番にあっている、姉が看護婦だったので猫柳は何か一番ふさわしい、今でもあたたかさが伝わってくる。性格が看護婦に向いていた。陽気な外向的な性格だったからだ。いつもニコニコしていたから看護婦に向いていた。太っていたことも癒しの性格があった。病気になったとき親切にしてもらう看護婦は心に残る、医者はとっつきにくいが看護婦は慰めと癒しがある。看護婦という職業自体、本当は生きがいとなる職業である。患者にも感謝されるし親切にしてもらったことはあとあとまでも忘れないのである。それでも今は老人だけの世話でいやだとか職業にはどんなものでも不満がある。不満のない職業はない、でも職業はコ-リングというようコ-ルであり呼ばれるであり天から与えられるということもある。その職自体が尊い神に与えられたものだと思ってやっている人は少ない、そういう職業は今は少なくなった。ただ今の時代人に感謝されるのは医者と看護師であることはまちがいない、他でいくら物を作っていても人に直接感謝されることはないのだ。だから看護師は光栄ある仕事なのである。


仕事というとき本当は天から神から与えられるものである。天職となればそうである。掃除とか一見卑近に見える仕事でもそういう場合がありただ自覚していないことがある。病院の掃除していた人は明かに患者とかかわり患者を支えているから単に掃除しているのとも違っていたのである。現代は職業についてもその満足度が低い、江戸時代あたりだったら職業の満足度が高かった、貧乏だけど高かった。職人気質とか誇りもあった。そういう職業が会社員化したとき喪失した。職業に対する使命感とか自覚がもちにくくなったのだ。ただだから消費するために働いている人が多いのである。車が欲しい、電気製品が欲しい、家が欲しい、海外旅行がしたいとか消費するためにいやいや働くのが現代なのである。だから常にどれだけ金になるかだけが問題になる。消費するために働くとなればそうなる。どんな仕事でも掃除すら尊い場合がある。でも今はどんな職業でも金が第一でありそうして自覚して働く人は極めて少ない、職業のモラルも極めて低い、ただ金になる者が一番得しているという価値観しかなくなった。職業に誇りをもっている人も極めて少ないのである。ただ金のために働かせられているという強制されているという感覚である。だから今は人をへたに家でなど雇えない、頭の中が金だけになっている人間が多すぎるからだ。そういう動機しかないからだ。そういう人は常に監視していなければならないし気も許せないのである。だから本当に裸で家で働かせるということがアメリカであったけど笑えないことだと思った。それだけ気が許せない時代になったのだ。


それでもこの辺ではパチンコか昼間から酒飲んでいるとか仕事がなくて仮設でぶらぶらしている人がふえた。それでパチンコ依存症とかアルコ-ル依存症とにさえなる。パチンコ屋だけが繁盛しているのは異常である。仕事が奪われたからそうなったのだ。仕事などいやいややっていた、しかしその仕事が奪われたとき、その仕事していたときを思い出し仕事できて良かったなとかなっているだろう。仕事そのものはやはり自然から天から神から与えられたものであった。その仕事を大事に尊いと思わなかった。仕事そのもの価値を低く見ていたのである。農業より漁業より金になる原発がいいとなったのもそのためである。金を基準にすればみなそうなる。そこに思わぬ落とし穴があった。何でもそうだがすべて神に与えられるものであり仕事もそうだったということを気づかなかった。何でも人間が作り出してしているというのではない、仕事は神か与えられた天職なのである。だから農業とか牧畜とかは神聖性を帯びていたのである。それは絵画にもなり神話にもなる。最もじかに自然と結びついた仕事だったからである。


猫柳は最初はこんなふうに赤くなっているのか、やがて白くなってゆく、猫柳を見ると姉を思い出す、看護婦を思い出す、何か死んだ人でも自然のものでも物でもそれを通じて故人を思い出すことはある。その物を通じて故人の心が繁栄されることがある。


●橘について


五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする


橘について
http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm


飛鳥にそ橘寺や礎にその紋なれや春の星見ゆ


橘の香りで昔の人を思い出すということはやはりそういうことがあった。人間はどれだけ死別をくりかえししてきたかわからないからこそそれが定型として残る。今だけ人は死んで別れたのではない、延々とそういうことはくりかえされてきたのである。このサイトで詳しく橘を書いているけど橘寺の礎の形は橘紋の形とにている。橘は外国から入ってきたことで有名である。


垂仁天皇が田道間守(たじ まもり)を常世の国に遣わし不老長寿の霊薬を求めさせました。 その霊薬とは「 非時の香菓 (ときじく の かくのみ) 」 とよばれる橘であったと伝えられております


橘は日本にも自生していた。今のみかんがなるような地帯に自生していた。ただ山橘は葉がにているから名づけられたのであり橘ではない、
梅も中国から入ってきたのであり桜の前は春の花と言えば梅だった。橘も梅も香りがある。日本では香りがある花がまれだから余計に好まれた。花といえばヨ-ロッパでは匂うものとなっている。代表するロ-ズが薔薇が匂うからである。エジプト時代から香水があり香るものが珍重された。


紀元前、キリストが生まれた時、東方からの三人の使徒が贈り物を持って聖母マリアとキリストのもとを訪ねた。 その贈り物は、黄金・没薬・乳香であったという。 古代エジプトでは、乳香と没薬は貴重な品物であった。 当時、エジプトではこれらの香料を作ることは出来なかったので、アラビア半島から輸入していた。
http://www.naimatravel.com/egypt.php?itemid=65


英語の香水を表すパフューム(PERFUME)は、ラテン語のPERFUMUM という「煙に通す」という意味の言葉から来ている。 王達の数々の儀式に使われた香料は、その後、貴族や、裕福な商人、そして庶民達へと広がっていった。 古代エジプトの王や王妃達は、沐浴をし、体に香油を塗り肌の保護をしていた


自然の香りでも煙としてゆらめき香りを放つ人工的なものにもなっていた。香りの文化は外国にあり日本にはあまりない、日本では香りの感覚が歴史的に未熟なのである。香りはやはり牧畜民族とか動物臭を消すとかあったのか、日本だって漁労民族だとするとき魚臭さを消すというので香料が必要でもあった。ただ外国ではいかに肉の臭みを消すための香辛料(こうしんりょう - Spices)香料が必要だったか、それがアジアまで貿易に来た理由だった。

 

2012年02月18日

真野ダム水道水の放射能不安 (泥としてセシウムは付着して流れだす)


真野ダム水道水の放射能不安

(泥としてセシウムは付着して流れだす)

 


昨年11月に環境省調査した真野ダムの水底から一キロ辺り9900べクレルの放射性セシウムが検出された。ダムの水質に関しては1リットル当たり1ベクレル以下だったが水底一メ-トル地点で採取した水から同22ベクレルの放射性セシウムが発見された。


相馬地方広域水道企業団(相馬市、新地町、南相馬市鹿島区)の水道施設の配水量の78.7%が飯舘村を広く水源とする真野ダムの水を水源としており、急速濾過及び塩素滅菌をしております
(政経東北2月号-今も水道水を飲まない南相馬市民・・)


南相馬市原町区の水源は、飯舘村東側の高倉ダムから放流される水無川から取水されています。こちらも、真野ダムと同様の条件、いやそれ以上に汚染水の流入が危惧されます
http://www.nagaoclinic.or.jp/doctorblog/nagao/2011/05/post-1577.html

 


南相馬市は地下水から水道水をとっていると思って警戒しなかった。水道水を普通に飲んでいた。南相馬市の広報でも地下水から水道水をとっているとあった。この辺の情報もはっきりしなかった。
ミネラルウオタ-を買うと結構な料になるし手間もかかる。だから水道水を飲んでいた。一日の水の飲む量は多いから内部被曝が心配になった。自分が真野ダムの付近で計測したときは公園の所で雨にぬれた土は乾いた土より倍あった。10マイクロシ-ベルトはあった。雨と共にセシウムがふって濡れた土に付着して高くなった。自分の家の近くの樋も10マイクロシ-ベルト以上で高かった。アスファルトは0・1-0・2で低いのにそれだけ高い、雨と共にセシウムは流れて土に付着すると高くなるのだ。22ベクレルでも200日で計算したら2.7588 μSvになっていた。これは体内被曝した量である。
レントゲン写真一回が20マイクロとかになっているのか、ただ体内被曝は22ベクレルでもこれから何十年とつづきセシウムの量は減らない、森から流出してくるからへらない、泥となってダムの水底に堆積するのだ。


阿武隈川河口で放射性セシウム525億ベクレル


福島県伊達市内では、計1763億ベクレルに達した。放射性セシウムの9割以上は、水中の土砂に含まれており、河口までのダムで一定量はせき止められたとみられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111124-OYT1T01108.htm


これはものすごい量である。いかに放射性物質が泥に付着して流れだしているか証明している。
興味深いテレビを見た。ナイル川が肥沃なのは黒い土がエチオピアの上流青ナイルの渓谷から黒い土が流れてきて洪水でその黒い土がもたらされるから豊穣があった。そのエチオピアの高原地帯は畑になっているけど黒い肥沃な土であった。それが雨と共に渓谷に流れだしている。その黒い土が流れださないように石垣でせきとめていた。そして驚くべきはその黒い土は火山でふきだした玄武岩が土になったものだという。その壮大な地球のドラマに驚嘆した。岩から土になったということに驚いたしナイル川に流れその岸にその黒い土が運ばれていたことに驚いた。その量も莫大なものだからそんなに川が泥を運ぶことに驚いたのである。それだけ泥は川に流れだすのだ。だからこそ阿武隈川の河口で泥となって流れだしたセシウムが高濃度となっていたのである。ある人が言うには日本では雨が多いからセシウムは泥と共に山や森から流だし消えてゆくと言っていた。チェルノブエリは乾燥地帯であり雨が少ない、日本の急流となる川ではない、泥となって流れだしにくいのである。日本は急流の川だし山や森からも流れだしやすいかもしれない、ただこれからどうなるかはまさに様子をみるほかない、福島県人は実験台にされているのだ。体内被曝でもそうである。真野ダムの水道水を飲み続けて5年後なのか10年後なのか20年後なのかガンがふえたとかなるのか?そういう実験台にされているのだ。それは科学者でも結果を見ない限りわからないものなのである。放射性物質、セシウムなどは泥に付着させて水を吸収してセシウムが付着した泥として保管する方法が一番良いと機械も開発された。泥に付着させてセシウムをとりその水を流してもセシウムは流れないことがわかった。


科学が苦手もこの辺では放射能にどうしても関心があるからそういう情報に敏感になる。問題は体内被曝として蓄積されることが怖いのである。ヒロシマの原爆のように一過性じゃないからだ。30年とか長い期間にわたって放射性物質の影響を受けるから困るのだ。それで水道水が危険だからと住めないという人もでたのがわかる。老人ならガンになってもどうせ何らか病気になるとあきらめるが若い人はそういかないし子供をもっていればそういかない、ともかく放射能にどう対処していいか、素人にはわかりにくくて困るのだ。結局各自で危険を判断してくださいとかなり自己責任にされてしまうからだ。おそらく放射能が原因でガンになっても東電も国も責任はとらない、その因果関係が証明しにくいからである。



真野ダムの水底に泥がたまりセシウムも高濃度になってくる。それが水道水に何らか影響してくる。ナイル川のアスワンダムではエチオピアの高原から流れだした黒い土がせきとめられて流れない、
洪水もなくなった。それでナイルの下流では化学肥料を使っている。
せきとめられた泥が堆積したらその真野ダムの泥を取り除く必要が出てくるのではないか?
そういう所を放射能の専門家に聞いてみる必要はないのか?
なかなか素人ではわかりにくいけどそういう対策も市にしてみる必要があるのではないか?
posted by 老鶯 at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年02月19日

献げる松の枝と猫柳 (昔が劣っていたのではなく価値観が違ったいた)


献げる松の枝と猫柳

昔が劣っていたのではなく価値観が違ったいた


松が枝に猫柳さし霊前に献げけるかな霊の安かれ



 奉納


常磐木の松が枝

猫柳ともにさし

霊前に献げぬ

悪しき心なく

やましき心なく

ものと心は一つ

神に献げられぬ

神のよみしつ

実りあるべし

 



神道は何かというときこれも何か教義も教典もないからわからない、武士道もそうである。でも教なき教なのかもしれない、日本教というべきものなのかもしれない、神道は自然と一体化するものとしてあった。ものと心はもともと一つでありものがつくとかものはこころでもあった。
松は日本人にとって常に心のよりどころとなるものだった。松に関するものが無数にあるのはそのためてある。田植えする前に冬の内に松の枝をさすのも松は常磐木の木として尊重されてきたからである。神道でももともと宗教は悪しき心、やましき心を嫌った。自然の美はまさにそうした人間の欲とか邪心とかがないからこそ美でありえた。そういうことで宗教はもともと共通していた。
しかし宗教は必ず俗化する、今やあらゆる宗教が人間の欲に答えねばならない、神社でもあらゆる種類の神社があり人間の欲望を充たすための祈りの場となっている。神聖な祈りの場ではない、賽銭に人間の欲望がこびりついている。神社は神域ではない、かえって何か人間の欲望、念が満ちてかえって汚されることが多い。それは宗教団体でもそうである。そこにも人間の欲望がうずまいている。
そこからあやしい、欲の念が満ちている。そういう場所ではもはや人間は浄化されない。


ただ松であれ猫柳であれ様々な花であれそうした自然そのものは変わっていない、そこに純粋なものを見ることができる。そうしたものは別に金が必要ということではない、松でも別に自然の松がいたるところにあるし花でも自然の花を見るのは無料なのである。日本では人死んだら山の神になるとかいう信仰は稲作がはじまって生まれたというのは合理的に説明すればそうである。山から水が流れて水田となり稲作ができるからである。だから春になると山から里に神様がおりてくるというのはそういう自然の営みと一致しているのである。エジプトでもエチオピア高原の谷に黒い土が流れだしてナイル川が洪水でその黒い土をもたらすから肥沃になり3000年のエジプト文明が生まれた。そしてその黒い土が玄武岩から土になっていたということには驚く、火山で吹き出した溶岩の玄武岩から土が生まれていたという地球の神秘である。つまり地球はそういう壮大なスケ-ルで循環している。山と川が一体としてつながっていたし岩と土も一体だったのである。エジプト文明が3000年もつづいたのはそうした自然の壮大な循環の中で作られていたからである。

現代の文明は短命だというときそうした自然の循環を無視して科学技術が突出して自然を破壊したからである。時間すら奪い時間を食い尽くしている感覚である。百倍も早く時間を進めている。原発などという危険な代物もともかく導入は早すぎたのである。自前で作れるようになれば事故は起こらなかったというのもそのためである。
いろいろなものが変わりすぎるのである。何らかで時間をとめない限り、加速をとめない限りまたどこかで大事故が起きる。科学技術でも制御するということが必要だったのである。

伊達市の小国では田んぼで米を作れなくては用もなくなるから住めなくなるというのも本当だろう。この辺でも今年も来年も米を作れないとか原野のままになっていたら何か荒寥としてくる。農業は単に食糧を供給する経済的価値だけなのだろうか、何か自然とコンタクトする神事の面もあった。

現代は余りにも経済的価値観が支配しすぎたのである。経済的に価値がなければ売れなければ何の価値もないとかされる。それはあらゆる面でそうなった。文化的なものは金にならないから価値がないとかみんなそうである。金にならないものは価値ないものとして捨てられる。そういう価値観は危険をともなっていたのである。原発事故もそういう価値観の警鐘だった。エジプト文明は自然との調和にいきたから3000年つづいたが現代文明は百年か二百年とか短命で終わる。一過性に消尽されて終わる。それは江戸時代より短命だったとなる。現代の文明は現代という視点しかない、過去から延々と継続してきた人間の歴史、生活の価値をかえりみない、エジプト文明でもそこに現代人が見習うものがある。現代文明は一時的な異常な文明として消尽されて消失する。それが津浪や原発事故で現実化しているのかもしれない、エジプト文明は劣っている文明ではなく今の文明と価値観を異にする文明であり江戸時代もそうであり劣った文明と見るのは誤っていたのである。人間はやはり価値観の問題が大きい。昔の価値観と今の価値観が違うから昔を理解できなくなったのである。劣るとか進んだとかいう問題ではない。山を山神として信仰するのを科学の時代で馬鹿らしいとかするから原発事故が起きたりする。そういうことは自然と共に生きるものにとって正に自然であり合理的だったのである。エジプト文明も同じでありそれが劣った文明だと現代からみることはできないのである。

 

2012年02月20日

医者には愛郷心がない、土着性がない職業? (福島県から流出する医者の問題)


医者には愛郷心がない、土着性がない職業?

(福島県から流出する医者の問題)



東日本大震災で原発事故に遭った福島県で、医師の流出が深刻な問題になっている。
県内138病院の常勤医が、原発事故当時から71人減少していることが判明。
看護師の減少も続いている。放射線への不安から首都圏などの大学も医師派遣に二の足を
踏んでおり、医療機能の停滞が復興の遅れにつながる恐れも。危機感を強める地元では
優遇策の検討も始めた。

福島県によると、震災から9カ月の昨年12月1日時点で、県内の常勤医は1942人。
震災当時(3月1日調査)に比べて71人も減った。

中でも、原発に近い沿岸部の相双地域では震災前の120人から61人に半減。
県全体では4月以降さらに7人が減る見通しだ。

*+*+ Sponichi Annex +*+*
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/02/17/kiji/
K20120217002650120.html

 


まあ、医者や看護士はどこ行っても仕事あるから
移動しやすいってのもあるだろうね
俺の従妹のねーちゃんも福島で看護士やってたけど
他県に引っ越したよ


医師免許を福島でとった人は
福島でしか医療活動できないようにすべき

そうしないと医者がいなくなる

県立医大卒業した奴は県外での勤務を禁止しろ。
それに違反したら1億円くらい罰金を取れ。

毎年100人くらいの卒業生がいるわけだから65歳までを現役としたら
4000人くらい医者がいないとおかしい。
元々半分は県外に流出していることになる。
福島県民は怒らないと駄目だぞ。


医者じゃなくてもわざわざ住みたい人なんていないでしょ
福島どころかそこそこの地方の公立病院でさえ
勤務医不足で閉ざされてしまった科も多い
税金投入して医者を育てても
卒業したら都会で美容整形医や眼科医とかになる人多すぎ
大学病院でさえ金持ち中国人で商売しようとしている
国が決定的な政策を打ち出さないかぎりもう無理だと思ってしまう


医者が福島から逃げるのって、本人の意志じゃないケースがほとんどなんだけどな。

親、嫁、嫁の親族などから相当なプレッシャー受ける。
福島から離れないと離婚させると嫁の親に迫られ、辞めた人を何人も知ってる。
うちはいわきで線量もたいしたことないからやめないけどね。


医者は土着民と違ってしょっちゅう転勤しているので引越しに対する抵抗感がそもそも少ないし、
再就職先はいくらでもある。
今現在被曝のリスクは殆ど無いにしても、また揺れれば再爆発の可能性はあるわけだし、
引っ越すために払うコストが医者の場合は極小だから念のため引っ越すのは当たり前。


もともと大学から派遣された勤務医ってのはローテーションみたいに交代するのが普通。
そうでないと、たまたま都会に赴任できたヤツと、ど田舎に赴任したヤツとで不公平になる。
持ち回りで一時期我慢しなければならないならお互い様、という論理だ。

これは別に福島だけで起こってる訳じゃ無い。全国の田舎で起こってる医師不足と全く同じ。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1329433779/



●第一次産業主体の社会から移動社会の変化が社会を変えた


土着性などというと何か古い感じになるけど土着性と愛郷心は密接に関連している。一番土着性があるのは第一次産業に従事している人たちである。農民であり漁民であり林業であれそうである。そういう職業は代々受け継がれてきた。そもそも農家が三代つづいて農民として認められるというのもそのためである。林業にしても木が育つのに50年かかるとすれば一代で収入が得られないから気の長い仕事なのである。そういう一次産業主体の経済が戦後10年くらいまではつづいていたのである。山では炭焼きしていたし炭が燃料だった時代は江戸時代から戦後10年までつづいていたのである。そういう時代が長いのであり最近の石油を頼りにしているとか原発になったとかはまだ非常に日が浅いのである。第一次産業を主体にしているときの感覚、価値観、物の考え方、モラルと非常に短い時間でもの考えることはかなり違ったものとなる。そもそも人と人の信頼は長い間にしか築かれない、だからともかく長い間つきあいのある人は相手がどうであれそれなりに信用する。そこが信用の基本だった。はじめて来るような人を家に入れるのがどれほど危険なものか身をもってしった。


農家ではすでに一代だけでは仲間に入れてもらえない、信用されないということがある。そんなことは封建的だとかいろいろ批判はあるが物の見方は多様なのである。ある一面からみれば別な見方がでてくる。土着性とかから原発事故を見ている人はまれかもしれない、外部からは簡単に移住しろとか無責任に言うけど人間はそんな簡単に故郷を移住できるのか?故郷というのが何なのかこの辺では故郷を失って考えるようになった。故郷と土着性が密接に関連している。戦後十年くらいまでは大方日本人は土着的に生きてきた。その後工業化が進展して東京などに労働者が金の卵として移住した。労働人口が流動化した。それまでは第一次産業主体だからそんなに全国的に人口が流動的になることはなかった。交通の発達も今のような車社会でもなかったから近くでも移動すること自体容易でなかった。江戸時代でも長屋暮らしであり何か今の社会からイメ-ジするから頻繁に移動しているように見える。でも実際は同じ長屋で暮らしそこで死ぬ人が大半であった。だからこそ親密な関係や助け合いも生まれたのである。そういう社会のことが今はイメ-ジしにくくなったのである。


●勤務医は土着性なく開業医はある


ここの問題でも福島県で育てた医者が県外に流出することが問題になっている。せっかく県で金かけたのに県に残らないのでは育てる意味もないとなる。南相馬市で医者とか看護師が一時半分も流出したし今もなかなか回復しない、医者は外部から入ってきている人が多い。だから愛郷心がない、土着性がないことはわかる。看護師は地元の人が多い。その人たちも流出した。子供をもっている人が多いから放射能不安で流出した。看護師は愛郷心がないとはいえない、地元で育った人が多いし親も祖父母も地元にいるというのが多い。医者は開業医だと地元に根付いた人が多い。ただ新しい開業医もいるけど土着性がある。だから原町の産婦人科の医者は最後のミッションだとして尽くしていた。年でもありその土地や人と一体化して愛郷心があるからそうなった。ただ一般的に医者は地元に愛着がないとかいうのはわかる。だから放射能問題で医者だから敏感になって移るということもあるしどこでも医者や看護師は仕事ができるからそうなる。土着性がない職業でもあった。ただ自分が思うに医療という仕事が本当に体だけを診るものなのか?医療にかかわる分野は広い。特にタ-ミナルケアとかなると医者だけではない、回りの環境が大事になる。もちろん建物も関係してくる。その点南相馬市立病院は理想的だった。建物の立地もいい、見晴らしもいい、環境的に癒される所だったのである。病院に求めるのは他の人も景色のいい病院に入院したいという希望をもっていた。それは東京のような所ではなかなかありえない、田舎だったらそういう病院が結構多いだろう。ただ相馬市立病院は見晴らしが良くなかった。建物も劣っていた。医療というのは単に体の一部分をみているのではない、環境まで関係してくる広範囲のものとしてみる必要があるのだ。死ぬときは眺めのいい所で死にたいということもある。無味乾燥な病室だけを見て死にたくないとなる。そういうことにも病院は関係している。病院というと病気だけを直すということを見ている。でも実際はその病気にしろ自然環境から癒されるということもある。


●土着性がないと安定して仕事もできないし文化も生まれ育てられない


本来仕事は土着的なものだった。江戸時代から戦後10年までは人はこんなに移動していない、一カ所に留まり仕事していたのである。その変化がいかに大きいものだったか自覚していないのだ。山伏とかが山に籠もり何か自然の神秘な力を見につけて加持祈祷するというのはそのためだった。そんなもの今じゃ非科学的であり迷信だとかなるが自然には人間を越えた神秘な力が未だ働く、癒しがあるのだ。もちろん現代の医療技術の進歩には眼を見張るものがあるからこれは否定できない、でも余りにもその急速な進歩により目を奪われ人間的なものが見失われてしまった。人間という存在は自然と宇宙とも密接に結びついた一つの生命体であり医療となればやはりその自然や宇宙の生命体としての癒しが必要になる。ものと心は一体なのである。ものとは自然や宇宙のことである。西洋医学では思想ではすべてを部分として分割して見る傾向が強い、東洋的な思想は全体として見る傾向が強い。医療もそういう違いがある。でも西洋医学の方が効果が現れやすいから東洋医学は漢方などは忘れられた。確かに人間は機械なのかということを思うことがある。血管でも人工血管やら人工心臓、人工心肺まで可能である。人間の体が機械に肩代わりできることは人間の体も機械なのかということもある。だからこそ医者を神のように崇めるようになった。つまり昔はそれだけの効果を期待できないから科学信仰になったことはわかる。


でも土着性というときそれは薬師堂のようなものに例えられる。今どき病気になったら薬師堂にお参りしたりはしない、みんな病院に行く、でも開業医などは薬師堂とにてい役割がある。開業医は勤務医より土着性がある。その土地に根付くようになるから土着的になる。流出している医者は勤務医の方が多い。仕事には何か土着性、長く腰を落ち着けてするということが必要である。それは別に農家でないにしろ必要である。文化的なものだってそうである。文化がcultureが耕す意味から来ているのも当然なのである。その土地の自然から文化が生まれてきているからだ。その文化が生まれのには育つのには長い時間が必要なのである。薬師堂はどこでも村の中心にありそれは病気が治らないまでも癒しとして機能するものだったのである。そんなもの何にも役に立たないとか今では思っても歴史的にはそういう役割があったからこそ今も残っているのである。人間の問題は決して一部分に留まるものはない、どんなものも全体に影響するし全体の関係から逃れられない、医療の問題でも自然環境まで考慮する必要があるようにあらゆるものがそうなのである。そういうように全体の関係を考慮せずに原発などを作るからとりかえしのつかない事故となる。今必要なのはこの全体の思考なのである。原発事故にしてもそもそも津浪のことを考慮しない、地震のことは考えても津浪のことを考えないことから起きた。全体的地球的思考力の欠如だったのである。人間は部分を見るのは得意でも全体をみることが不得意なのだ。現代のように極端に細分化して専門化した時代は特にそうでありそれが致命的なものとなる危険性をはらんでいるのである。

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