2012年02月01日

冬の月(夜に相馬市の病院に)


冬の月(夜に相馬市の病院に)

鹿島から相馬の駅や冬の月


城下町心一つに冬の月


良き医者の地元にあれや冬の月


今日は八時ころまた病院に行った。たいしことではないけど苦しくなるから困る。それでも電車が通るようになり安心になった。緊急の場合に困るのだ。大雪で栄村で九二才の人が話していたけど何か緊急の病気なると困ると心配していた。それなんだよ、一番困るのは、それにしても九二才で雪かきしていたり良くやっているよ、でも一人だから最後は限界が来る。まさに限界集落なんだよ、テレビで在宅で看取れるように援助しなければならないとサ-ビスをはじめた自治体があるけど二つの要因が重なった。一つはもう病院でめんどうみきれない、金がかかりすぎる、それも限界に来ている。
もう一つは自宅最後を迎えた方が本人にとって幸福だということみんな考えるようになった。
実際に直らないにしても改善することがあったというのはわかる。

隣で料理をしているなど生活の音が聞こえることは病院とは違う。日常の生活空間にいて最後を迎えるのである。ただそれをするとなると家族だけでは大変になる。八〇才くらいの夫婦でどちからか介護している人も大変である。もちろん一人暮らしはさらに大変である。高齢化でそういう人が増えてくるのである。だから広い地域は在宅で介護する人の家を回って歩くだけで手間がかかりすぎるのだ。時間がかかりすぎる。だからコンパクトシティとして一カ所に老人で集まっていれば楽である。
自給自足の生活でそれであとは医療サ-ビスなど受けないで死ぬという時代ならいいが誰かが世話するとなるとその手間が大変である。世話する方になるとコンパクトシティの方がいいとなる。
第一この辺の問題は福祉どころではない、若者が流出するとか老人を世話する人がいなくなる。
福祉ではもう他の都市によりまともなサ-ビスは受けられない、それだけの余裕がなくなった。


夜の緊急医療だと今は金が相当とられる。五〇〇〇円はとられた。それだけいろいろと医療も金のかかる時代であり保険だけではまかなえきれない時代になった。だからある程度重篤な病気になったら死を覚悟して早めに死ぬ方法を選ぶ他なくなる。今までのような手厚い看護は限界に来ている。
ある程度もう死期がきたらあきらめて自ら選択する時代がくるのだろう。でも六〇代で死ぬのは今では早すぎる。七〇以上になるとあきらめるという選択もでてくる。介護する家族がいない人はそうしてもらった方がいいだろう。

ともかく医者はいろいろであり今回の医者もこうしたらいいのではないかとアドバイスししてくれた。そういうこともできるのかと思った。医者はみんな違うことを言う、だから一人のお医者さんだけにみてもらっているとどうしていいのかわからなくなる。そういうことができるのならしてみたいと言っても指導を受けねばならないしみんなできるわけではない。いい医者がいる地域は得している。

栄村の秋山郷は秋山紀行で有名であった。その本を読んでいたので栄村が秋山郷だったのかと知った。秋山郷は秋山紀行が残ったので興味をもつ人がいるだろう。当時の山の生活がわかる。米はあまり食べていない、粟が多い。粟は米同様に食べられていたのだ。仙台藩で米を作るために津波が来た土地まで開拓しようとしたのは米がその土地で食べるより江戸に運んで売るためだった。商品として生産していたのである。三分の一が仙台の米だったということには驚く。スペインとの貿易をもくろんだのも津波が来て一か月後というから驚く。それだけのことを津波の災害のすぐあとに目論んだことに驚く。それは津波の被害にもめげず民衆に夢をもたせるためだったとか解説していた。こういうことができるのはやはり別に民衆の合意とか議員の合意で決める必要もない、藩主の独断でできるからこそ実行された。君主制ならそういうことができる。今なら必ず何でそんなところに金を使うのだと民衆自体も反対するからできなくなる。そんなこと無駄だ、もっと津波の被害にあった人たちのことを考えろとなるからだ。現代は何にしろ心一つになりにくい、今日はともかく冬の月が輝いていた。寒いから冬の月がさえていた。

2012年02月02日

枯葦(老いて故郷を想う)


枯葦(老いて故郷を想う)

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クリックするとはっきり見れます
縮小しているのでぼやけています


故郷に老いていつくや冬の草


仲間かな夕日に向かい冬の雁


枯葦の川面に写す夕べかな


異なれる色に装う鴨の群れ


我が庭の石に向かうや冬の月


故郷に老いて悲しく冬深む



白鳥の白き群れかな映えにつつ夕日のさして今日も暮れにき


北上川柳芽吹けど啄木の帰れざるかな悲しかりけり


川原に枯葦静か夕日映え水面に光反射するかな


一本の松は変わらずここにあり池の凍りて夕星(ゆうづつ)きらめく


故郷に苦しみ悲しみ喜びをともにしあれば離れがたしも



人間は明かに年とともにまた今回のような津波のような被害を受けたりすると見る眼が変わってくる。いつもの真野川であり普通何も感じない、でも今日見た光景は一段としみいる風景になっていた。特に枯葦に夕日の光が反射していたのは一幅の絵だった。写真も絵のように見れることがかなりある。写真は明かに絵に近いのである。この写真は別にこの風景がいいと思ってとっていなかった。ともかく習慣としてデジカメの場合、無造作に何枚もとることが必要なのだ。これもその一枚でありこんなふうにとれていたのかと写真を見て感心した。実物はこういうふうに見ていない、実物の風景は刻々変わるから記録できないときがあるのだ。偶然とれていたものをあとで感心して見ることがある。そして俳句や短歌にしている。若いときはいくら同じ川にいてもこういう風景に何か感じることがない、老いというのはまた感じやすくするのだ。自分の場合二〇代ですでに老成していたし体が弱いから長生きしないと思った。自分は若くして老成していたとなると六〇代になって本領が発揮されたとなる。いづれにしろ若いときはこうした風景にあまり感じないだろう。何かこの寂寥とした風景が身にしみる。この川も津波で樹が猫柳の樹が流されていた。津波の圧力は尋常じゃなかった。洪水では樹も流れないが津波は流してしまったのである。


人間はやはり生物の一つだからだんだんその土地にいつくというか樹や石のようになってゆく。それが自然なのである。だから原発事故で老人が移住するということは辛いことなのである。農家の人などはやはり村の人たちとの一体感がありそういう点でも都会とは違っている。人間の共同性が育まれるのはいろいろあるけど土地があり自然があり家族がいて仲間がいる時である。仲間というとき冬の雁が隊列組んで夕日に向かって飛んでゆくのを見た。あの雁はみんな仲間なんだなとつくづく思った。子供の時みんなで遊んだことがなつかしい。その時みんな仲間だった。だんだん仲間が競争相手となり敵とてってしまった。人間が連帯感もつのはただ享楽して遊ぶ仲間だけからは生じないだろう。夫婦でも互いに苦労して喜怒哀楽をともにして家族となる。故郷でもそういう仲間だったら共同する。ただ最近は金が力を持つときそういう共同も失われた。金持ちは共同する必要はないからだ。便利になるとまた共同がなくなる。いいことがあって悪いことがある。それが人間の社会である。
自然にひかれるのはなんと無邪気なんだろうかいうことにある。人間にはそうした無邪気さが失われている。欲の皮がつっぱりなんという変わりようなのか、同級生でもそうだろう。人間はこんなに変わってしまうのかという驚きと失望である。


ともかく故郷に住めたから幸せだということもある。啄木は東京で故郷に帰れず死んだ。柳が北上川に芽吹くのを眼に浮かべて望郷して死んだ。一方で原発事故で確かに東京の方に移り住んだ人もいるから啄木とは違っていても故郷を離れ暮らしている人たちがいる。会津の方の仮設住宅に住んでいる人もいる。そういう人たちが今故郷をどう思っているのか?小高から南相馬市内に移るくらいだとそんなに感じない。しかし遠くなるとやはり故郷を思うことがあるだろう。

デジカメの写真がそのまま抽象画になっていた (タ-ナ-の絵は最後に抽象画になった)

 

デジカメの写真がそのまま抽象画になっていた

(タ-ナ-の絵は最後に抽象画になった)


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上の写真がなんかの加減で下の抽象画になった

 


前のぼけた夕べの太陽が川面に写った写真がどういうわけかおそらく抽象画になった。
白いのは太陽の光である。抽象画にあえて意味を見いだせば白いのは光でありまた雪でもいいだろう。それに枯葦であれ冬の大地であれ土色になる。


タ-ナ-の絵が最後に抽象画になってしまった、タ-ナ-は抽象画の先駆だった。最近絵が描けなくても絵に興味持つようになった。多少自分でもパソコンで抽象画を描いているかもしれないしやはりデジカメの影響が大きい。写真は明かに一つの絵となりうる。絵を描けなくても写真で絵を楽しめるということがある。絵を身近なものにしたのがデジカメだった。写真は前からそうだったがデジカメだとやはり無作為にとったもので発見したものがかなりある。ええ、こんなふうにとれていたのかとあらためて感心するのがある。この景色がいいとか構図を作って準備してとるのではない、偶然にとれているのがデジカメの写真なのである。


白い線と土色はやはり何かの精神的なものの抽象化である。ただ抽象画を鑑賞するのはむずかしい、どこに価値があるかわかりにくい、自分でも白い線と土色というので自分でこれは何か芸術的でないかと再確認して出してみたのである。


枯葦(老いて故郷を想う)
http://musubu.sblo.jp/article/53415256.html

2012年02月03日

福寿草の芽(デジカメの効用)


福寿草の芽(デジカメの効用)

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たくましき福寿草の芽地よりいず


手水鉢なお凍れども我が庭に福寿草の芽いでにけるかも


我が庭に薄紅色の薔薇二輪買いて置き冬の夕日さし暮る


飯館は雪にあれかしかしこにそ松一本の変わらず立ちあれ

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昨日は寒かったけど今日はあたたかい、でも氷は溶けない、福寿草の芽がでていた。この写真は自分の芽で見たときは小さかった。ところがデジカメでとった写真をふくらんだ大きな芽だった。拡大化したのを見たらこんなに芽が大きいのかと驚いた。肉眼では見えないものが見える。
デジカメは昨日も出したけど新しいア-トを作り出したのだ。これはパソコンと一体化して生まれた芸術である。


山の方を見ると雪がふっている。でもこっちには雪はふらない、山の彼方は雪がふっている。ここの冬景色である。飯館には人が住んでいないけど道路は通っていて池の脇の道には一本の松が立っている。あの松は車が通っているから生きている。でも他はどうなったのか?人が住まずに冬を越す村はどうなっているのか?以前として人は出入りしているだろう。でもなんとも不思議である、飯館村でも雪はさほど積もらない、だから別に放っておいてもかまわない、しかしそれにしても飯館村はこれからどうなってくるのか?そのまま村がなくなってしまうのか、そんなことがありうるのか・・何かそういう異常状態をまだそこに住んでいた人たちも現実として受け取れないということがあるかもしれない、だから帰れると思ってしばらくがまんすればいいのだと思う人も多いだろう。特に老人には多いしそう望んでいる。若い人は将来を考えるから違ってくる。ともかく飯館は山の向こうでも地理的に精神的に結びついている。もともと相馬藩だったからである。

 

啄木の望郷の歌は怨念化していた (原発事故で故郷から離れた人たちの無念と重なる心境)

 
啄木の望郷の歌は怨念化していた


(原発事故で故郷から離れた人たちの無念と重なる心境)

やまひある獣のごとき 
わがこころ 
ふるさとのこと聞けばおとなし


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
 
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし


啄木の望郷の歌は何か怨念のようなっている。何か感傷的なものを越えて怨念化したような凄味がある。肺病で血を吐き出すようにして歌ったからである。現実に二七才という若さで死んでいる。ただその時啄木だけではない、肺病で若くして死んだ人は多いから国民病と恐れられていた。
自分の母の実家の墓にも亭年二七才と記されて肺病で死んだ人が埋められている。墓参りするときその年齢に着目する。するとそこから何か無念というか怨念というかもっと生きたいという切実な声が聞こえてくるのだ。


二七才の死の無念や故郷の墓に刻みて変わらざるかも


啄木の望郷の歌はもし長生きしていたらこれほど凄まじいものとはなっていなかった。若くして死に故郷に帰れないということが切実となったのである。神社は怨霊を鎮めるために建てられたというのもあながち否定はできないだろう。菅原道真の神社が多いのはそのためだというのもわかる。
ただ有名な人だけではない、怨念をもって死んだ人は無数にいる。そもそも六〇年前とかの戦争で四百万人も死んだことが今になると信じられない、それらは無念の死でありそれ故に靖国神社に祀り鎮める。それも怨霊化することを恐れ靖国神社がある。人間の念は実際に凄まじいものがある。恨みの念はそれほど強いのである。だから非業の死をとげた人たちの霊は祟るとか恐れのもわかる。だから靖国神社でも祟らないように鎮めの場所としてある。無駄な死だったとしてかたづけられないから靖国神社がある。


やまひある獣のごとき 
わがこころ 
ふるさとのこと聞けばおとなし


これは故郷を思う動物的本能である。鮭が生まれた所の川に帰って産卵して死んでゆく、そういう本能的凄まじさである。望郷の念はそれほど強いとなる。その時東京と田舎は交通の便がまだ悪く離れていた。新幹線で簡単に行ける場所ではなかったのだ。故郷に住んでいる人は故郷が恋しいなどと思わない、むしろ故郷を離れたいという意識が強い、自分もそうだった。故郷から離れたいから東京の大学に行ったし旅ばかりしたのもそもそも故郷から離れたいからであった。若いときはそういう意識が普通である。でも啄木のように故郷に病気で帰れない、もう死んでゆくとなると望郷の念は切実となったのである。その歌は感傷的に鑑賞できるものではない、強い生の渇望の怨念がこもった歌となっていた。


やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに


それほどまで北上川のことが目に浮かんだ。「泣けとごとくに・・」という表現が凄まじいのである。それは怨念化している歌である。その次の


石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし


原発の事故に故郷追われたる
    無念は忘れじたとえ死ぬとも


これは故郷では別にそういうことはなかったが啄木の勝手でそう思ったにしろやはり菅原道真などと同じ様に怨念化していたのだ。原発の事故で故郷を追われた人もそうである。誰を恨んだらいいのか、東電をまず恨むことは確かである。人間の怨念はもしかしたら放射能より怖いかもしれない。人間の怨念はそれだけ強烈なのである。その怨念というか悪い念が自然にも作用して自然災害が起きてくる。今回もその津波の原因が人間のそうした怨念など悪い念が集積して自然界に作用して大災害になった。そういうこともありうるのかと思うほど人間の怨念は凄まじいし強いのである。「泣けとごとくに・・」とは凄まじく怨念化した歌である。感傷的な領域を越えている。東京という自然が少ない所であったことも影響している。別にもし自然があるところだったらこんなに望郷の念が強くならなかったかもしれない、例えば富士山が見えるような所だったらかえって最後の場所としてふさわしい。故郷から離れても富士山が見えるということは日本人にとって最高である。自分も最後に見たいものは何かと思ったら富士山だった。富士山を見て死にたいと思った。だから病院は他の人も言っているが景色のいいところにあるのがいい。なぜなら病院で死ぬ人が八割とか多くなった。すると最後に目にする光景は美しいものであってほしいとなるからだ。

何か穴蔵のような無機的な病院だといやだとなるのだ。いづれにしろ啄木の望郷の歌はあまりにも凄まじいから怨念化している。単に言葉というよりその歌が呪詛のようにもなる。その言葉から熱い血が流れてだしてくる。天才だからそれだけ情念が強いためだということもいえる。ただ人間はどんな人でもかなえられないものがありそれが怨念化する。啄木の歌は望郷という感傷的なものではなく怨念化した望郷だった。この辺で故郷に住めなくなった人たちも怨念化したりするのか?そういうこともありうる。


遙か彼方は 相馬の空かよ なんだこらよ〜と
          相馬 恋しや 懐かしや なんだこらよ〜と


  民謡「新相馬節」です。 私は相馬の生まれですが、数々ある民謡も田舎のお年寄りの唄かと、大した愛着もなく生きてきました。
  ですが、先月、この民謡が思いもかけずテレビから流れ、胸をぎゅっと掴まれました。

  隣の南相馬市から、福島第1原発事故による避難指示で、いま埼玉の施設(学校だったか)に移った高齢者たちが、涙ながらに歌っているのでした。
http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/xaS0Ezh1byW6OKentC4g/


やはりこういうことあった。ただ相馬といっても城のあった相馬市とか南相馬市ではない、双葉郡の人たちだった。そこも相馬藩内であった。相馬と磐城の境にあった地域である。高齢者だと望郷の念は切実になる。土地もあり家もありそこで一生過ごしたからである。それは啄木の望郷とは違っている。故郷に生きたものと故郷に帰れず生きられなかったものの違いがある。ともかく生きたんだからいいとしろともされるが故郷で生きてきたんだから最後を故郷で全うしたいというのは人情である。

かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川


おもいでの山、おもいでの川がありそこにもどり死にたいとなる。浪江は二つの川があったから川に恵まれていた。高瀬川渓谷もあった。浪江に帰れない人もでてくるのだろうか?東京の方の団地のような所に移った人は望郷の念が啄木のように強くなることは確かである。会津の方でも雪に悩まされるからいやだとなるが会津だと自然はあるからまた違ってくるだろう。ともかく故郷自体を失ってしまうことなど想像したこともないだろうしそういうことを過去に経験し市町村もなかったのではないか?ダムに沈んだ移り住んで過去をなつかしみ村の人が集るということは報道されていた。でも今回は規模が大きいのである。浪江でも二万人いたのである。それだけの規模の町村が喪失することは経験しないことだったのである。

posted by 老鶯 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年02月05日

枯木に月-冬の草 (田舎には田舎らしい生活があるべきだった)


枯木に月-冬の草

(田舎には田舎らしい生活があるべきだった)



枯木に月塒(ねぐら)に帰る烏かな


この橋の名はいかなれや冬の月


街道の松の太しや冬の月


家ひそか裏道帰る冬の月


故郷の来慣れし道や冬の草

昨日は原町のイオンの方に買いものに行ったら月がでていた。あそこに川があり橋がかかっている。なぜまたあそこに趣を巻したかというとやはり買い物というのが一つの生活の中でかかせないしそれが仕事になっているからである。ただ不思議なのは裏道というとき今はどこが表通りなのか?
駅前通りとかはシャッタ-通りで表通りではない、表があるから裏がある。今は表というとき六号線の方になってしまう。

俳句は写生であることも自分でまたつくづく感じた。枯木があった、月がでていた、烏がこの時は三羽塒に帰ってゆく、その時その情景にしんみりとしたものを即座には言い現せないものを感じた。
人間は自然をみてすべて即座には言い表せない、感じるものがあっても言葉にならないものがある。ただ枯木に月-烏が帰る夕べ-そういう事実の情景そのものが深いものを現している。つまゃ写生したものがそのまま深い意味を現しているのだ。その写生の情景を読むのは各自違っている。


相馬市では小泉橋を渡るとき情緒を感じた。ここの橋はちょっと大きいけどやはり長い橋ではない。日本ではこういう小さい橋に情緒を感じる。大きい橋には情緒感じない。小さい橋は日常に密着しているからだろう。ただここを車で通るとそうした情緒は感じなくなる。それでこの橋は名前は何なのだろうかと思う。橋の名が気になる。植松辺りの街道の松は太い、松らしい松である。でも街道も江戸まで通じているから街道なのである。それが途中で途切れてしまったから今は街道とは言えなくなっいる。この辺では常にそういう問題が生じてくる。


冬の草というとき田舎にあっていた。冬の草は都会ではないだろう。やはり俳句は田舎でないといいのは作れない、だから田舎では田んぼがあるのが普通である。その田んぼが去年は放置され今年はどうなるのか?田んぼがないということは農家の人でないにしろ田舎に住んでいれば密接に関係している。田んぼないと不安になる。情緒も安定しないのである。ところが東京であれ都会だと田んぼのない世界に生きている人が今は多数である。その人たちは田んぼを意識しないのだ。だから意識的に相当違うものをもっている。江戸時代でも貿易だけで技術だけで生きている人たち住んでいる人はいた。しかしたいがいまわりは田んぼだから田んぼを意識していたのだ。大阪の農人橋とかなると農民が大阪の商業地の中に組み込まれててしまい農民がそうした商業地から田畑のある所へ橋を渡って仕事にゆくからそんな名がついた。これは小さい町でも町はあとから発展したのでありその中に農家がるから特別なことではない。


そもそも田舎と都会は違ったものだった。田舎には田舎らしい生活があるべきだった。戦前までは田舎は田舎らしい生活をしていた。自給自足的生活をししていた。それがあまりにも変わりすぎたのである。田舎の方が今では都会より贅沢をしている。車は一人一台もっている。田舎は田舎らしくあるべきというとき都会のように華美にはなれないとか、贅沢はできないとかになる。でもみんな都会並の豊かさを望んだ。貧しさがいやだというのはわかる。でも都会と田舎は違っている。田舎は田舎らしいとき田舎でありえた。ただ田舎が田舎らしくありえなくなったのはすべて田舎の人の責任ではない、原材料がすべて外国になったときいろいろな変化が大きすぎたからである。ただ都会と田舎は違う、田舎には田舎の生活があるという田舎の人に自覚が失われた。多少貧しくても田舎には田舎の良さがあるとかにはならなかった。どんなことしても豊になるのだということが原発をもたらしたともいえる。

冬の草のように質素でもいい、それが田舎のいいところだとかはならなかった。

田舎は多少貧しくても自然があり質素で質朴でいい、それが都会と違っていいところなのだとはならなかった。田舎の人ほど豊になりたいという欲望、渇望が強かったという面もあった。だから田舎でも今やすべて金だけを追求する結果となったのである。田舎では別に茶の湯、茶道など学ぶ必要もないし金かける必要もない、わび、さび、の世界は日常的な生活にあるのだから別にそうした場をあえて作る必要もないのである。生活そのものが風流になっているからだ。都会ではかえってそうした場を人工的につくらざるをえない、でも作り得ないのである。だから一面千利休が豪商達の住んだ堺から生まれたというのは逆説である。都会的になるとあえてそういうわび、さびの場を人工的に作る必要が生まれたからである。


とにかく今回の原発事故では故郷を喪失して離れ住む多数の人を生んだから故郷とは何だろうとあらためて考えさせられることが多かった。普通は故郷に住めるのが当たり前だからそんなこと考えない、故郷に住むということが別に知識人でなくても農民ですら考えるようになったのである。

2012年02月06日

短き堺の日(詩)

 

 短き堺の日(詩)

淀川と通じ京都と結ばれ
三十石の船の行き交い
京街道の道,長い堤に残り
信長、秀吉、家康が
ここに熱い欲望を抱く
ポルトガルから鉄砲が入り
鉄砲鍛冶が起こり

南蛮吹が伝わり
銅より金銀の精錬
その産地は東北にもあり
煙草が入り煙草包丁が作られ
煙草は四国の貞光町のように
一大産業となり栄えをもたらす
東北の阿武隈山中に今も葉たばこ作る
名の彫られた数々の包丁の名器
呂宋(るそん)助左衛門のルソン壺
黄金の襖に南国の猿
その財故に秀吉に憎まれ
伝説と化したその行く末
一時信長にも逆らう自治都市
千利休が生まれた都市
信長、秀吉に抗う反骨自由の商都
豪商と武将の争闘
生み出された技と富
最初の自転車作りに活かされた
鉄砲鍛冶の伝統
女傑なる与謝野晶子が生まれ
開明の明治の華となる
君死にたもうなかれは
また国家への反骨精神なれや
歴史は重なり継がれぬ
「故郷春深し行々て又行々
楊柳長堤道漸くくだれり」
蕪村の行き来するはここか
土手に残る京街道の道
かしこ遠く離れしみちのくより想う
しかし三成は相馬藩にその旗印を残し
秀吉も会津に来れり
いつしか堺は忘れられその跡は
ただ遠き日の伝説にあれや
るそん助左衛門はいづこに消えし
その跡をたどるもならじ
往事の栄し面影は消えぬ
(淀川に京街道や冬鴎)

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2012年02月08日

石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)


石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)

 

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袖の渡しの松は残っていた

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この松は枯れるだろう
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遠くに田代島-網地島が重なり見えた



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この寺だけが残り前の住宅地は壊滅した

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千人風呂とあるからまだ風呂に入れない人がいるのか?
共同の風呂なのか?



冬鴎車窓より見て亘理かな


風花や仙台の通り鳩歩む


松二本根元結ばれ冬深む


津波後冬満月の照らす海


冬満月海を鎮めむ津波跡


(袖の渡し)


津波にも残れる松や我がよりぬ袖の渡しや冬の日暮れぬ


石巻悲しみ深く冬の暮残れる松に我がより去りぬ


この河を津波上りて大川の小学校の悲劇語り継がれむ


(日和山)


日和山松風鳴りて残る雪かなたに重なる島二つかな


冬のくれ牡鹿半島の小さなる島一つ見ゆ日和山かな


みちのくに我が住みにつつ日和山冬に上りて沖に船見ゆ


日和山松の太しも船を待つ冬にしあれど我がより去りぬ


日和山上りて遠く松島の島一つ見ゆ冬のくれかな


石巻海の光りて冬の暮日和山に松風鳴りぬ


日和山松島近く瑞巌寺ありしを思ふ冬のくれかな


 

凄まじき津波の跡に墓残り松風鳴りて冬の日暮れぬ


街中を津浪の襲う石巻傷跡深く住む人語る


津浪にて流さる家のその跡やたずねてあわれ北風の鳴る


石巻なお死ぬ人ありにしと傷跡深く冬の日暮れぬ


石巻相馬の津浪語りつつ北風鳴りぬ海に面して


生き死にのくりかえしつつ人の生津波襲うも定めなるかも



石巻まで行ってきた。津浪の被害のことはその場にたたない限り実感がわかない、テレビで見ていても実感がわかない、テレビでも写真でも一部を切り取ったものであり実感がわかない、人間はやはりその場に立てば五感が働く、視覚だけではない、情も働く。自然でも人間でも物でも人間の情がうつる、反応する。だから津浪の被害は確かにテレビで見ただけで写真でも悲惨なのだけど本当の実感はその場にたたないと実感できない、感覚的にわからない。物見遊山で観光で津浪の被害を見物すべきではないというのも言える。でもそもそも津浪の被害のひどさはその場にたたないと実感できないのである。それで石巻に行ったのは自分で確かめてみたいからだった。北上川沿いは意外と家が残っている感じだった。実際は土地の人からすると当時はひどかった。空き地になっているところ結構あるけど家も結構残っているなと感じた。近くで村自体消失した一軒も家がないところを見てきたので特にそう思った。松川浦とにている。山陰の所は家は残っていた。


でもあの川沿いを上って大川小学校があり悲劇が生まれた。津浪で川は危険である。でも川沿いに意外と家は残っていた。津浪は一回だけではない、何回も来る。一回目はたいしたことがない、そのあと大きなものが来る。石巻でも何度も津浪がきた。あとのほうが大きくなった。磯部でも最初たいしたことがなくて油断した人がいた。水があがってから車で逃げて助かった人がいた。津浪が来てから助かる人もいる。日和山の海岸に面した所は全滅だった。昼間で働いていた人たちも犠牲にあった。水産加工場が多かった。車で逃げた人も死んだ。やはり渋滞になったらしい。後ろの日和山に逃げれば良かったように思うが車だと物を積めるから車で逃げたのかもしれない、着の身着のまま逃げるというより何か車に積んで逃げようとしたときそれが徒になったのかもしれない、日和山がすぐ後ろにあるのだから歩いて逃げた方が助かった。ただあの辺の状態がどうなっていたのかわからない、寺が一軒あり無残にそこは墓だけが辛うじて残っていた。あとは家は全滅だった。寺は墓を守っているのだから墓は残ったといえ肝心の家は全滅したのである。あそこは一番悲惨だった。墓が残るより家が残ってほしかったと思っているだろう。


日和山の喫茶店で話ししたが高いところは何ら被害受けなくて良かったですねと言ったらみんな被害にあった人と関係しているからそういうことはない、下の水産加工場に勤めていて死んだ人もいる、今日も死んだ人の所に行くとか言っていた、まだそうして死ぬ人がまだいるということである。だからまだ観光というわけにもいかない、日和山の下には多数の死者が出たから手を合わせる、供養しなければならないような状態である。ただ日和山にはいい松があり景色もいい、宮城県沿いの石巻までの海岸線の松は全滅というのではない、半分くらい残っているみたいだ。石巻でもそっくり松原が残っていた。衝撃がそれほど強くなかったのか?相馬の方の松はほぼ全滅だった。ただ宮城県は全般的に福島県の浜通りより津浪の被害は大きかった。海岸に面した地域が多かったからである。石巻の被害は街の中まで及んだ。駅まで津浪が来たというのには驚いた。それだけ広範囲に津浪が来たし人家が多いから被害も大きかった。店を閉めたり空き地化している所も所々見える。こんなところまで津浪が来たのかと驚く。だから石巻はもう十年くらいは津浪の被害が尾をひく、神戸でも十年かかった。まず津浪で全滅した海に面した所には前のように家はたたないだろう。そうするとそのまま生々しい津浪の跡がそのままに残ることになるのだ。だからまだ観光で訪ねような場ではない、日和山の下で多数の死者がでている、その上で観光気分になれないし地元の人もそんな気持ちになれない、供養するとか寄付とか復興の応援をかねて訪ねるようになる。でも日和山からの風景は実にいい、その美しさまで否定することはないだろう。


今度はなんとか相馬-原町間が電車が通るようになったので遅く帰ることができた。バスの外は冬満月だった。海が近くなったから海を照らしていた。月でも地球に関係しているかもしれない、天体が地震とも関係しているかもしれない、月も太陽も星も宇宙も全体として関連している。ただそれがまだ人間はすべてわかっているわけではない、だからこそ想定外のことが起こるのだ。ただ津浪も人間が縄文時代から生死をくりかえしてきたなかで必ず津浪は何度も来ていたのだ。それは海側に住むものの定めだったのである。そういう自覚がいつのまにか忘却してしまったのである。

posted by 老鶯 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年02月10日

複雑化する細分化する社会は誰も責任をとらない (パソコンの故障とにていた原発事故)

 

複雑化する細分化する社会は誰も責任をとらない

(パソコンの故障とにていた原発事故)

●パソコン化しているテレビの故障


テレビはデジタル化して番組もふえたし教養番組もふえたから見ることが多くなった。でも操作が結構めんどうになった。パソコンをやっていたからなれているにしてもボタン一つで操作していたのとは違っている。認知症になると機械の操作ができなくなる。テレビのボタン一つ、エアコンのボタン一つ操作できない、するといちいち押してやらねければエアコンも使えない。テレビは前はリモコンでもポタンいくつか押しさえすればよかった。今はいろいろな機能が増えてパソコン化しているのだ。東芝のレコ-ダ-が「UPDATE」ととなり操作できなくなった。updateはパソコンで知っていたから
ソフトが入っていてアップデイトしているのかとそれも無線で衛星放送からソフトをアップデイトしている。それが原因で故障になった。東芝の相談センタ-に電話してもつながらなかった。その不具合を知ったのは2ちゃんねるだった。インタ-ネットだった。そこで東芝のサイトでUSBにダウンロ-ドしたソフトをさしこむと直った。これは明かにパソコン化しているレコ-ダ-だった。パソコン化するとパソコンが前は不具合が頻繁におきていたように故障が多くなる。ソニ-のテレビも記憶できるのだがそのBDが二回も記録できなくなった。機械が複雑化高度化してくると故障が多くなるのだ。


パソコンは初期の段階はそういうふうなものとしてしかたないとして使っていた。とにかくソフトで買っても使えなかったり外部の危機を接続しても相性が悪いから使えないとなっていた。それがテレビがパソコン化してきたとき同じことが起きた。どうしても見る番組が増えると記録するハ-デデスクが必要になり外付けのハ-トデスクを買ったがこれも一発でつながらない、認識されなかった。こういうことはパソコンの初期段階ではよくあった。でも最近はほとんどなくなったしパソコンは簡単に壊れないようになった。だからテレビもそうなったのかと思っていたがテレビはまだパソコン化するのに遅れていた。そこでソフトの問題が起きている。初期のパソコンの時は会社がみんなぱらぱらでありどこが悪いかわかりにくいから必ず相談しても買った本人が悪いことにされていた。複雑だからどこが悪いのかわかりにくい、すると・・・が悪いのではないですか、私の会社では責任もちませんとなっていた。外部機器の方が悪いとなれば責任をもたないし自社のパソコンでもどこが悪いか特定しにくいから責任をもたない、それで買っても使えなくて損した人はいくらでもある。そういうことがテレビがパソコン化して起こっている。


●細分化した部分の集合の社会は誰も責任をとらない


官僚の決まり文句では「私の担当ではないので責任はとれません、私の部門ではないので別な部門で聞いてください」というのが普通にある。するといろいろな部門が多すぎると何かあっても誰も責任はとらない、私の担当の部門ではありませんので責任はとれませんとなる。初期のパソコン時代はそうだった。様々な会社がかかわるにしろつなぐ線まで会社によって違っていて相性が悪いとかで使えないものがかなりあった。一つの会社でないのだからどこが悪いのかもわからない、それで線が悪かったとかわかるまで大変である。私の担当の部門には問題がありません、他のものが悪いのではないですか、必ずこういわれて誰も責任をとるものがないしソフトは複雑だからソフトの不具合となるともうどこが悪いか聞くこともできない、使えなくてもあきらめた人はかなりいる。パソコンはそういうものでありあきらめていたのだ。東芝のレコ-ダ-でもハ-ドディスクは別な会社になっているからその時とにている。ソフトの不具合とかなるとめんどうになるからだ。

現代の社会は無数の細分化された部分の集合体として機械であり社会も組み立てられている。だから部分を知っていても全体を知る人はいない、病気でも体の部分を見る人はいる、でも体全体を診る人はいない、部分に詳しい人が尊ばれる。耳であれ鼻であれ肝臓であれ腎臓であれ体の部分を診る人に別れている。現代の社会も無数に部分化した細分化した専門化した社会である。文学でも俳句雑誌があり短歌雑誌があるけど実際は一つのものでもいいはずだがそうはならない。サイエンスというとき宗教もサイエンスとして取り上げていた時代があった。サイエンスは科学は総合的なものとして人間を研究するものだった。その科学が無数に部分化して専門化してしまった。人間自体もただ単なる一つの機械の部品のように見られるようになった。全人間などというと異常な人間でありアウトサイダ-にされてしまう。社会の部品に収まるとき、ともかく・・・員として組織に所属するときその時その人が現代の社会の一員として認められるのだ。それは宗教でも同じであり・・・会員となっているときその時その人は社会に認定される。どこの会員でないものは何物なのか?得体の知れないアウトサイダ-にされるのだ。


●原発事故も誰も責任をとらない


原発事故もやはり現代社会の特有なものとして起きた。何か特殊なものではない、現代社会で起きた事故だからパソコンやテレビの故障と同じになる。原発はそもそも巨大な技術の機械の部分の集合体である。誰も全体を知り得る人などいない、どれだけ複雑な集合体の装置なのか、原子力の科学者は本当は原発のことなど全然知らないという、その学者が説明しても本当はわかっていないから御用学者として安心させるために嘘を言っていた。知っているのは原発を作った東芝とか日立とかの技術者であった。原発は東大であり何であれ学者がすべて知っているようなものではなかった。それは技術の巨大な集合体だからそうなる。最初に建てるときには土木技術でありそれから原子炉や配管やら電気技術など様々な総合体だからその全部を知る人は誰もいない、でも最初の段階で土木技術の段階で安全性をないがしろにしたことは素人でもわかった。高く盛り土して作る計画だったのが低くした結果、津浪に襲われたのである。非常用の電源も地下に置いたことが致命的だった。

土木技術にしても電源の問題でもそれぞれ切り離さず総合的に考えて作る必要があった。総合的見地から安全性を計る必要があった。中央司令室がすでに電気が通じなくなったからその時点で操作不可能になった。パソコンのソフトが動かなくなり使えなくなったのとにている。福島第二原発は中央司令室が操作できたから紙一重で助かった。こうした細分化した社会では誰が悪い、何が悪いとかいろいろ糾弾しても誰も責任をとらない、政府すら責任をとらない、保安院もとらないし東電もとらない、原発を作った東芝や日立でもとらない、マスコミも責任があってもとらない、それは戦争のときと同じである。どこが悪かったのか明確な責任をもたないのが現代なのである。


原発は初期のパソコンともにていた。初期のパソコンは故障して当たり前、ソフトはつかなくても文句言うな、自己責任だとかなっていた。外部機器でも会社は責任をもたない、ソフトが悪いとかパソコンが悪いとかですんでいたのである。そういう情報をやりとしりしていたのはパソコンを使っていた人たちであり最初はそうしたパソコンの使用者がパソコンを技術者と一緒になり開発していたのである。実際にパソコンは今からする高いから金をもっていないとできない代物でもあった。技術開発の初期にはそういうことが起きている。原発も最初日本にアメリカからもたらされたとき、マ-ク1という古い原子炉であり危険なものだと作った技術者が指摘していたのである。原発は最初は成熟した技術ではなかったか。そういう古いまだ未熟な原発をあえて導入した人たちにも問題があった。

どれくらい危険なものか調べもしないで導入したのである。まず金になればいいというのが最初にあり危険をかえりみず先に金であり安全は二の次にされた。だからこそコストカッタ-といわれた社長が安全性よりもうけを優先して作った。津浪を想定して盛り土して高くすると不便になる。金がかかるということで低くして海に排水しやすくしたりした。非常用電源を地下にすべて置いたのはアメリカは竜巻を恐れてそうしていたので日本もまねたのである。津浪を想定していなかったのだ。地震国であったのにそこが油断だった。日本とアメリカの風土を考慮しないで技術を導入したのが問題だった。風土の問題は科学技術の面でも重要なのである。そうした危険なものを導入するにはいかにその国の風土や歴史とか様々な分野の総合的な考察が必要だった。その総合的に考えることが現代ではしにくい最大の弱点でありそれがとりかえしのつかない事故につながったのである。


現在、日本中で鉄筋コンクリ-トが崩壊の兆しを見せています。そういった手抜き工事のほとんどが東京オリッピック(昭和三九年)以降の高度成長期に作られたものだということです。材料をけちり、工期を短縮してただひたすら純利益をあげることのみに邁進するどんなインチキ仕事でも数さえこなして金儲けすればいいという風潮が高度成長時代にあったのです


70年代に建設されたコンクリート構造物が2005年から2010年ころに一斉に崩れ始める
http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans040.htm


機械でも古くなれば故障が多くなる。そういう原発がマ-ク1の原発が他にもあるし40年とか使っている原発があるけどそのままにしている。コストの面からしたら古くても使っていたのである。原発は特に危険だからそうであってはならないにしてもやはり高度成長時代の感覚がありともかくコストの面から安全性をないがしろにされたのである。人間はつくづく個人的にも怠惰である。古いものでも金がかかると使っているし津浪の危険も人間が怠惰であるから起こったということもいえる。400年も津浪が来なかったら人間は津浪のことをリアルにイメ-ジすることができなくなっていた。

ともかく人間の作ったもの技術であれそういうものは不完全であり壊れるのが普通である。原発はなおさら危険なものだからそういう認識があってもいいのに「安全神話」にまで作り上げられていたのが事故の原因だった。人間の作ったものはいづれ故障したり破壊されたりする。そういうことは機械では常に起こることである。原発だけは起こりえないという「安全神話」が馬鹿げたものかわかる。それはただ権力をもつものによって情報もすべて操作されたからそうなっていたのである。戦争のとき日本は神国だから絶対に勝つと言って400万人死んだのともにている。神は絶対だけど人間の成すことに絶対はありえないのである。科学は今や宗教に近い絶対化しているから事故が起きたのである。

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2012年02月11日

東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった (津浪の共通体験でそれがわかった)


東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった

(津浪の共通体験でそれがわかった)

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雪残る鳴瀬川や朝の海


冬鴎車窓より見て亘理かな


どうしても津浪とか原発事故がクロスオ-バ-してくる。これはさけられない、その影響は余りにも大きかった。石巻の津浪の被害は甚大だった。宮城県は津浪に関しては被害が福島県より何倍も大きい。石巻でも市街が津浪の被害にあった。そこから牡鹿半島の小さな漁村もみな津浪の被害を受けた。宮城県は港が多いから津浪の被害が大きかった。福島県は浜通りでも津浪の被害あっても原発事故の被害の方がずっと大きかった。その相違があった。亘理駅で鴎が飛んでいるのを見たとき、あまりみかけないけど鴎が飛ぶということは海が近いのである。ところが常磐線でも電車から海が見えるのは新地町だけであり他は見えない、するとこの辺に住んでいる人でも海を意識しないのである。
浜吉田という駅があったけどここで海を意識したことはない、その駅まで津浪が来ていたことには驚いた。海が近かったのである。亘理もそうだし岩沼もそうだったし名取もそうだった。だから鴎が飛んでいるのを見たとき海が近いと今度は意識したのである。


鳴瀬川にひかれるのは名前がいいからである。何かリズムカルであり響きがいいのである。そしてこの川が海に注いでいるということで気持ちいいのである。この川はまた電車からもバスからも見えた。バスは高速で行くので海を見えるところにはとまらないが鳴瀬川は見えた。それほどの被害はなかったのかただ松原が半分くらい残っている。やはり津浪の衝撃は他より弱かったのか、名取から相馬から磐城など松原は根こそぎ流された。陸前高田でも松原が全部流された。あそこには湾があっても衝撃が強かった。津波の強さは地域によって違っていた。それは地形と関係していた。ともかく今回の津浪の被害は青森県から岩手県から宮城県から福島県と広範囲だった。一番被害が大きかったのは宮城県だった。津浪の被害は一度その場に立てば実感する。テレビとかで見てもなにかもう一つ実感しないのである。津浪の被害の跡に立つと荒寥としたものを一段と感じる。それはテレビで見ているのとは違っている。体全体で感じる荒寥感である。石巻はそうだった。


今日の一句一首も津浪や原発事故とは関係ない平和なときの営みである。でも津浪の被害や原発事故はあらゆるところに影響した。自然の見方自体変わったのである。自然そのもの地形すら変わった。あらゆるものがその影響からまねがれることはできない、地形的には福島県の浜通りは宮城県の海岸沿いの港とかずっと海を通じて関連していた。それが津浪で同じ海側に面した共通性を認識したのである。三陸の津浪は三陸独自のリアス式海岸だから津浪の被害が大きくなるということは何度も言われていた。でも名取など平地はそれほど言われなかった。でも名取には津浪の被害が前にもあり伝説も残っていたし最近では地下の土を採取して津浪が奥深くまで津浪が来ていたことが証明されていた。そういうことに福島県浜通りでも無関心だった。隣合っているのに無関心だった。福島県とか宮城県とかはあくまで人工的に作られた境でありそういうものにこだわるより自然の地形的な連鎖反応が大事だった。福島県浜通りは明かに海側として海岸線として共通の自然の地形の中にあった。地形の一体感があった。山国は山国でありそうして海を通じた地形の一体感はない、ただ海側でもそうして広い範囲の一体感を共有していなかった。三陸には津浪が来るが仙台から福島県などの平地の浜通りには来ないとか安心していたのである。歴史的人工的な世界観より自然の形成された世界観が必要だったのである。


三陸などは宮城県、岩手県の海側は漁業が昔から産業だから海と密接にかかわり生活していた。宮城県の仙台辺りから名取、亘理、福島県の浜通りは漁業が盛んでないから海と密接にかかわるという生活ではなかった。むしろ仙台や名取でも米を作る開拓地として意識されていた。でも松川浦では津浪が来るときは沖に船を出した方がいいと言い伝えがありいち早く船は沖にだして助かった。海とかかわっているからそういう言い伝えがあった。でも郷土史で津浪の言い伝えをほとんど聞いたことがない、ただ最近地下の土を採取して津浪が相馬の奥深くまで来ていたことがわかった。そのことを一時時事問題の深層に書いたことがあった。だからその時自分も多少津浪のことを意識したけどこんな津浪が来るとは思いも寄らなかった。だから郷土史なども狭い範囲だけの研究では役に立たないということもあった。自然の上に人間の歴史があるとき、相馬藩が成立したのは400年前くらいであり確かにその時、慶長三陸津浪でここも700人死んだとか相馬藩政記に記録されていた。記録は残っていたのである。ただ詳細な記録とはいえず見逃していた人が多いだろう。でもそれは大きな事実の記録だったのである。他に何か明確な記録がないとしたら記録されただけで貴重だったとなる。
今回の津浪は東北の太平洋岸が自然的一つのつながりある地域だったことを認識した。津浪で共通体験したからそういう意識が生まれたことは確かである。


 


スマトラ津浪の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録) 2005
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

わが町(亘理)に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです。
現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます。


亘理に住んでいる人の日記に書いてあった。亘理から逢熊駅にとまるとそこの小高い丘に確かに「三十三間堂遺跡」と案内板があった。国府の多賀城が津波に見舞われたからその教訓から高い所に郡衙を作ったのか、それはわからないにしても確かに島という地名はかつてはそこは島だった可能性がある。海が深くは入り込んでいたからだ。その入江のような所に島が浮かんでいた。そういう光景は日本には多かった。大坂湾も古代には八十島が浮かんでいた。日本は島が多い国なのだ。それにしても相馬にもこの大津波が押し寄せてきたことには驚きだ。最近やたら地震がつづいているので不安になる。こんな千年に一回とかいう大津波を警戒することはむずかしい。それでも日本地震国だからこうした記録が残っているのだ。これは丁度大和政権が多賀城を築き蝦夷を征服しようとする最中であったからその様子が伝えられ記録に残った。そうでなければ文書としては残らず伝説になったかもしれない、国というのは歴史を災害でも記録するという役目があったのだ。今回のスマトラ大津波についてはツナミということばさえわからない世界だった。ツナミは世界の言葉になっているごとく日本から生まれた言葉なのだ。津波もまた身近なものだった。

 



これを書いてから6年後に今回の大津波が起きた。この時もっと日本でも警戒するべきだったのである。世界的に陸はつながっているのだし海側はやはりつながりが深いのである。


 

posted by 老鶯 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係