2012年01月29日

慶長時代は連続して大地震が起きた時代 (会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

 

慶長時代は連続して大地震が起きた時代

(会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

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慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する(ココ)。



・慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線における地震。
・慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾・日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震である。
・慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。六甲・淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
・慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少なかったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
・慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
・慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。実際には千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。


この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 - 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」とも呼ばれている。さらに、この地震の7年前には同じく津波地震と考えられ、東海・東南海・南海のトラフ寄りが震源とされる慶長地震があった


『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年間経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる。



慶長会津地震

慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。この地震のときには盆地の真ん中に湖ができ、柳津の虚空地蔵様をまつったお堂は只見川に転がり落ちまた鶴ヶ城の七層の天守も大きな被害を受けた。鶴ヶ城の天守は慶長の大地震で大きく傾き石垣はすべて崩れ落ちた。明成は領民に大動員をかけて七層の天守を今の五層に改めほぼ現在の鶴ヶ城の規模を作り上げた。


慶長時代にこれだけ地震が起きていた恐怖である。地震は連続して起こる。巨大な地震が起きるとき大規模な地殻変動が起きているためなのだろう。こんなに連続して地震が起きる。この辺は今でも地震が起きつづけているし関東でも地震が多いから4年内に大地震が来ると警告を出した。


相馬市と南相馬市の烏崎の津神社について書いたが津波と表記されるようになったのは慶長三陸津波からである。だから津(津の宮)神社となった。津波神社を約したのが津神社なのだろう。なぜならそれまでは津波という表記はなく海嘯とか別な表記だったからである。津というのは日本独自の地形であり津に入ると波が急激に高くなるから津波となった。津々浦々というように日本にはそういう地形が多いためでありそれが津波の被害を増大させたためである。

慶長時代に慶長会津地震があったというのも驚きである。これは慶長三陸地震の津波の起きた地震ではない、慶長会津地は慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日であり同じ年でも三ケ月後だった。でも三ケ月後というのは短い。4-5年おきに大地震があった年であり関東地方に4年後に大地震が起きるという推測はこうした過去の記録も参考にしているのだろう。
 


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
             京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総               沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な             かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地                                   震でM8.1。


(1596)年9月1日-(1596年)9月4日-(1596)年9月5日-(1605)年2月3日-(1611)年9月27日-(1611)年12月2日



3日後に大地震が連続して起こった。10年後にまた起きた。地震はやはり連動しているのか、地下で地殻がつながり影響しあっている。地殻変動が活発化するときは全国に及ぶ。会津でも大きな地震があり地形が変わり湖までできたことには驚く。七層の黒川城も五層に改築された。それは地震の影響だったのである。城でも日本は耐震構造にしないともたない、石垣がすべて崩れ落ちたというのも凄い衝撃だった。今の五層の会津城が地震の影響でそうなったということをふりかえればまた別な見方がでてくる。会津でもこれだけの地震の被害がありその三か月後に大津波で仙台でも相馬藩でも大被害を受けた。十年間塩害の影響があったというのも十年間くらい塩害をとりのぞき元にもどすのにかかる。ただ現代は技術が発達しているからそれよりは短くなるだろう。ともかくそういう一時代のことが今やよみがえってきているのかもしれない、だから全国的に地震の警戒状態に入る。ここ十年間でまちがいなく巨大地震が起きる。。過去の記録をないがしろにしていた結果として今回の津波の大被害があった。この辺でも四百年前に大津波の被害を受けていた。そういうことはほとんど語られなかった。しかし慶長時代は全国的に大きな地震が連続して起きた時代だった。たからこそこの時から津波という言葉が定着したのである。


   七層の黒川城の崩れたり五層に直して今にあるかな

七層の黒川城
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0aizu/0byako/oshiro/oshiro00.htm

posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係